『旅に心を求めて―不条理編(下)』:同サイト内リンク

2-3・『旅に心を求めて―不条理編・下』見本

第3章・水俣再訪――生きとし生けるもの
 

◎ 科学がどのように進化しようと、社会がどのように進歩しようと、どのような天才的な授業をなす人間が現れようと、絶対にできぬ唯一のことがある。
 何も持たない老婆がいて、孫が懸命にその老婆に尽くし、否(いな)、それ以上に心を祖母に与え、そして何もない老婆が何もできないが故(ゆえ)、その孫のために懸命に何日もかけ、手作りの人形を作ったとしよう。
 幾ら、科学が進歩し、大量生産で、この人形の何倍ものきれいな人形を作れたとしても、老婆の人形が人に与える印象を上回ることはできない。
 授業も全く同一であること。これはプロ意識と矛盾するものではなく、プロ意識の土台となるものである。

   1・水俣(みなまた)への旅(一九八三年)

 一九八三年八月五日、水俣に行く。水俣の美しいまでの海の青さに驚く。この日が私の〝旅〟(フィールドワーク)の始まりとなる。後(のち)に、岡山短大(ポリテクカレッジ・岡山)で九五~九六年にかけて「水俣の旅」を教材化したときには、既に十年以上の歳月を経ていた。薄れつつある記憶にも拘(かか)わらず、志を同じくする教師と夜(よ)を徹して話をしたことなど、水俣は忘れ得ぬ旅の一つである。そして、この旅を通じて後に、ユージン・スミスの写真集『MINAMATA』と出会う。
 ……
 授業に飢え、授業だけが生き甲斐(がい)で、授業だけはできると考え、そして、授業だけは決めようと考えていた。……こうして、授業に強く〝何か〟を求めていた。求めていたというよりは、授業の材料を手に入れなければ、仕事ができなくなるというような、せっぱつまった状態にあった。授業とは何か、あるいは広い意味でプレゼンテーションとは何か、さらにはプロ意識とは何か、それを求めた旅が今回の旅である。
 ……
 一九八三年、先輩のI氏より熊本で開かれる、熱心な教員の全国的な研究会へ誘われ、一も二もなく熊本へ旅立つことにした。だが、言い出したI氏は突然都合で行けなくなり、私一人が行く羽目となる。知り合いもいなければ、こうした集会・研究会に参加したこともない。第一、宿すら熊本に行かなければあるかないか分からない。申込みをした以上取消しもできず、「どうしてくれる」という心境であった。
 こうして、一九八三年八月三日、熊本に行く。ところが、肝腎の研究会はというと、何も得られず、また得られそうにも思えなかった。全国から忙しい中、遠方より多くの教師が参加しており、彼らは熱心なのであろうが、研究会での話を聞いていて全く話にならない。彼らに能力がないとは思っていない。しかし、はっきり言って授業に〝危機感〟を持っていない。一定努力すれば、あるいは努力したならば、それでうまくいく。あるいは、うまくいったというような錯覚を持っているように思えた。具体的に授業で使えるような材料などはどこにもなかった。……熊本の夏の暑さが身にしみただけであった。
 ……誰一人知っている人はいなかった……広島県のメンバーと行動を一緒にしたらと誘われ、広島県のメンバーの中に入れてもらうが、どうも違和感を抱きお暇(いとま)させてもらい、それから熊本の街を彷徨(さまよ)い、何とか安宿を確保する。翌日も分科会に出るが昨日同様、具体的に教材に役立つヒントは何も得られなかった。結局、この夜、昨日出会ったIM氏と酒を酌(く)み交(か)わした熊本での夜以外は、熊本での日々は私にとっては〝無〟であった。だが、研究会の最終日に、現地見学として、水俣コースがあると聞き参加することにした。

 八月五日、水俣へ旅立つ。……
 順路を簡単に記す。①熊本駅発(一三時)~②八代(やつしろ)市郡築(ぐんちく)神社にて郡築小作争議の地を訪れる(一四時三〇分)~③徳富蘇峯(そほう)ゆかりの地を訪ねる(一六時)。そして、④水俣の国民宿舎水天荘にたどり着く(一七時過ぎ)。
 最初に書いたように、このとき、初めて見た水俣の海の青さと美しさに驚く。この夜、極めて人見知りする性格にも拘(かか)わらず、部屋を同じくした幾人かの教師とコップ酒(ざけ)を交(か)わしながら夜を徹して話をしたことが強く印象に残る。見知らぬ人とこうした形で話をしたのは何年ぶりのことであろうか。しかも同じ目的を持つ人と。
……
 この水俣の旅は非常に印象に残った。しかも資料も入手した。これで「授業ができた」と思うことが、実際に教壇に立ってみると、全然違うことがある。水俣もそうであった。いや、それ以前に駄目であった。まず、授業をやろうと考えて、講義の構想を練ってみた。水俣に行き、現地の人の話も聞き、資料も集め、話すことができる患者の話も、話すことができぬ重症患者にも会ってさえいた。だが、全く何を話して良いか分からない。しかし、授業の材料の手持ちは少なく、水俣以外では公害の授業に関する他のテーマは何一つない。しかも、駿台での公害の授業まで余り期間はない。ましてや、水俣まで行ったのだから、何が何でも水俣の授業をやらねばならぬ。
 あれこれ考え、再び水俣の資料集めをしているときに出会ったのが、(世界的に有名な写真家)ユージン・スミスのフォット・エッセイ『MINAMATA』{W. EUGENE AND AILEEN M. SMITH『MINAMATA words and photographs』(An Alskog―Sensorium Book), 1975→(日本語の翻訳は)W・ユージン・スミス、アイリーン・スミス(中尾ハジメ訳)、『写真集・水俣』、(三一書房)、一九八〇年}である。この写真集との出会いによって、テーマが得られたからこそ、思い出深い水俣の旅を今回の『旅に心を求めて』に収録することが可能となった。八三年の水俣への旅だけなら、思い出はあるが、テーマがないため、書きたくても教材としては書いてはならなかった。可能にしてくれたのが、『写真集・水俣』である。…… 

   2・水俣(みなまた)病を巡る人間模様
 ……
 作品・『写真集・水俣』の中で、彼は人間の内面を抉る如く撮影方法で水俣での人間模様を描くことにより、世界から水俣病をなくし、日本の水俣病患者を救済しようと考えた、と私は解釈している。次に、『写真集・水俣』に掲載されている人間模様を簡単に紹介する。
 まず、スミスは、写真集『MINAMATA』の刊行に当たり、彼が描きとろうとしたものについて、次のように述べている。
 「……しかし、私たちが水俣で発見したのは勇気と不屈であった。それはほかの脅かされた人びとを勇気づけ屈従を拒ませるのみならず、状況を正す努力へと向かわせるものであった。……気づかせることがわれわれの唯一の強さである」(『写真集・水俣』、 八頁)。 また、彼の仕事のパートナーでもある妻・アイリーンも、「私たちは目につきやすい『見出し』をではなく、人間のドラマを写そうと努めた」(『写真集、水俣』、七頁)と序文に記している。
 以下、この様々な人間模様のごく一部を『写真集、水俣』を中心に紹介する。 ……
○島田社長と中公審の委員
 ……。彼はとても人間的だった、心の底から思いやりがあり、応答には温かみがある。……中公審の委員たちはきわめて丁重であり、公正たることを約束した。
 ○チッソ幹部のスミスへの好意的対応
……
 ○組合・チッソ社員の生活はどうなるか
……
 ○水俣市民の声
 今日でさえ、水俣市民のほとんどはチッソに味方する。あるものは熱烈に会社を擁護し、またあるものはチッソは――たとえ罪を犯したとしても――たたかれすぎたと思っているのだ。大多数は複雑な思いで沈黙しているようだ。……
 ○被害者の想像を絶する苦しみ
 ……「医者どんに、おとっつあんば死なせちくれて何べん頼んだかわからん。あぎゃんおとっつあんば見るとは耐えられんだった。だけん、おっかさんは、自分もどんどん、わからんごつなっとに、『早う死なれるもんなら、死んだほうがいいのにね』ち、言わした。」
 死はすぐには来なかった。安楽死もさせなかった。発作は頻繁になる。意識はもうなかったが、壁に、自分の身体――足、頭、手――に爪をたて、爪がはがれ身体から血が流れるまでひっかいた。死ぬ二、三日前には、目は動かなくなっていた。……
 ○田中家―周りの人達のこと
……田中の父さんがバスに乗れば、混んでいても、まわりは席があくのだ。以前仲よかったものたちも、田中の家は鼻をつまんで走り抜けた。
 ○チッソと良心の狭間(はざま)に揺れた人・細川博士
 細川博士はチッソの援助で大学を卒業しチッソ専属の医者になり、水俣病の原因がチッソにあるということを一連の実験で突き止める。そして、チッソへの恩義と医者として、人間としての良心との間で葛藤(かつとう)した人物である。……
 ……
 次に、スミスの『水俣』からではないが、水俣の人間模様を再現するため、良心と組織の狭間で葛藤した官僚の自殺を西日本新聞社の記事より引用する。
 ○政府・政党・官僚――良心と職業の狭間で山内豊徳氏の自殺
……。旧厚生省で一貫して福祉の現場に携わり、公害対策基本法制定にも尽力した。常に人に優しかったその心は、臨界点に達していた。
 ……国の和解拒否は、山内という、水俣病史における「もう1人の犠牲者」を生んだ。
 山内と同じ時代を生きた他の官僚たちに、良心がなかったわけではない。だが、強固な組織の中で、個人の思いを持ち続けることは易しくない。
……
 では、一九八三年当時の駿台での授業はどうであったか。はっきり言って失敗であった。何クラスも担当していたので、その度(たび)に手直しをし・手直しをし、繰り返し・繰り返し、この授業をするが、全部失敗であった。ここで注意してもらいたいのは、何をもって失敗であったと言っているのか、ということである。どのクラスも生徒は静かに聞いており、クラスによれば何人かは熱心に私の顔を見ながら聞いている。だけど失敗であった。私の考え過ぎでもなければ、高望みのせいでもない。失敗であった。翌年も、その翌年も、その次の年も、すべてこの授業は失敗であった。今考えて失敗だと思っているのではなく、当時も授業の都度、時には授業の最中ですら失敗だと感じていた。講義中に、これでは駄目だと考えながら話をしていた。だが、当時、どう手直ししてよいか分からなかった。今、考えて、何が失敗であったのか。私自身がこの授業の中で燃え上がらなかったのである。絶対に燃え上がるはずであったのが燃え上がらなかった。

 駿台を一九八八年に辞職し、岡山短大を主力舞台とし、旅をテーマとした教材作りを思いついた。しかしその直後に、長い病的休眠状態{精神は鬱(うつ)病の数倍ひどい状態、肉体は三度大吐血五度入院という状態}に見舞われる。実に四年以上の期間に及んだ。生きる屍(しかばね)の時代であった。その後、九三年に奇跡的に脳が回復し、九四年から『旅に心を求めて』という教材づくりを再開する。その教材の中に、この水俣の旅も一つのテーマとして取り組むことにした。駿台時代の失敗を克服するためにも、この水俣への旅を完全に完成させるためにも、水俣を再訪する必要性が出てきた。
……

   3・水俣再訪(一九九六年)

 一九九六年一一月、姉より教材への協力として一定の金を長期借りることが可能となったため、水俣再訪を決定する。八三年水俣への旅と、スミスの写真集、この二つがどう結びつくか。その回答を求めて、九六年一一月一七日水俣を再訪する。
 ……
 《旅一日目、一五日》①我が家~②倉敷・岡山短大~③松江
 ……
 《旅二日目、一六日》①松江~②山陰海岸~③大分
 ……
 《旅三日目、一七日》①大分~②竹田~③阿蘇~④足北界隈~⑤水俣
 ……

   4・握手(水俣での思い出)

 結論から記せば、この「水俣への旅」のテーマは、「授業とは何か」であり、それを見つける旅であった。一言で言えば、「授業宣言への旅」である。このことを水俣再訪にて確認した。
 ……
 八三年水俣への旅は、授業を求めての旅であり、その足掛かりをつかんだ旅であった。「水俣への旅」のテーマは、授業とは何か、あるいは広い意味で仕事とは何かであり、同時に私自身がそれを求め続けてきた、その歩みを取り上げたものであった。再度言えば、授業とは生き物であり、教師も生き物であり、生徒も生き物である。教材も生き物であり、教師の教材への想いが不可欠である。だが既に述べたように、商品として売る以上一人よがりになってはならず、確実に人に受けいられるものにしなければならない。しかも、迎合するのではなく、自分の哲学を貫きそれをなさねばならぬ。さらに、自転車の如く、漕(こ)ぐのをやめれば終わり。だが、それを肌に染み込ませるのは容易ではない。日々実践となれば尚更(なおさら)である。そのための努力は、構想も費用も費やす時間も大変なものである。
 最後に、水俣再訪を振り返りながら、もう一つ重要な要素・〝心〟を付け加える。……ここでは、八三年水俣への旅の際に親しくなった、他の教師との別れの際の〝握手〟と帰宅途中に思い出した「老婆の心」のことを取り上げて、水俣への旅を終えることとする。尚、九六年一一月一七日水天荘にて思ったことをメモした文より引用する。

 「今、水天荘にて、一九八三年水俣で出会った何人かの教師と、別れの際にバスの中で交(か)わした握手のことを思い出している。今まで、数多くの握手をいろいろな場面でしてきた。恩師とも、教え子とも、男性とも、女性とも、外国の人とも、また歴史に名を残す人物と差しで二人で飲んだ後での握手も……。だが、もの凄(すご)く強力なインパクトを、そのときにも、後にも与えるのが同性間の握手である。とりわけ志を同じくする人との握手である。
 昔、若い女性とも握手したことも何度もある。軽いのから重いのまで多岐に及び十人以上いる。また、外国の美人女性に握手のみならず、外国式に頬に口づけされたこともある。それらは、確かに一部の人間を除き楽しい思い出である。だが、志を同じくする、同性との握手は、そのような比ではなく、そのときも何とも言えない感じが長時間続くのみならず、時が経(た)っても大きな財産として残っている。この同性間の握手の強力なインパクトはどこから生まれるのであろうか
 異性との握手の場合には、相手に駆け引きの気持ちが往々にしてあるからであろうか。あるいは、つきあいの継続か、それとも〝何か〟などの解釈や、別れというよりも裏切られるのに近い想いを後にするときがあるからだろうか。それに対して男性との握手は、往々にして、志を同じくし、一定期間に亘(わた)り、共に感情を分かちあい、そして多くの場合、この握手で永久に会うことがないかもしれないというような想いを抱(いだ)いた、別れの場面でする握手だからであろうか。
 今、高校の恩師との握手、そして水俣で交わした何人かの教師達との握手、数年前に教材探しのときにお世話になった外国の神父さんとの握手……等々を思い出す。男と男の握手はもの凄い強烈なものである。……

 この教材の、九七年時清書に当たり、水俣の旅を思い出しながら、次の追記をした。「科学がどのように進化しようと、社会がどのように進歩しようと、どのような天才的な授業をなす人間が現れようと、絶対にできぬ唯一つのことがある。何も持たない老婆がいて、孫が懸命にその老婆に尽くし、否(いな)それ以上に心を祖母に与え、そして何もない老婆が何もできないが故(ゆえ)、懸命に何日もかけ、その孫のために、手作りの人形を作ったとしよう。幾ら、科学が進歩し、大量生産で、この人形の何倍ものきれいな人形を作れたとしても、老婆の人形が人に与える印象を上回ることはできない。授業も全く同一である。これは先のプロ意識と矛盾するものではなく、プロ意識の土台となるものである。そして、私に長期奪われているもの、それがこうした場である。そして、これは先の握手の話とも土台は同じことでもある。
尚、私の旅は心の旅である。求めるものは、野に咲く小さな花のようなものである。だが、何故(なぜ)か面白半分に出鱈目(でたらめ)なことが多すぎる中で、しばらく心を休めるため、旅は最低一年は中止となる。よって、山辺(やまのべ)の道などの必要な写真も次年度以降撮影することとなる。ただ、余りに心を失うならば、永久に旅たつことも避けたいとも思う。…… 九七年三月三〇日記す。」
……

   5・水俣を巡る点と線
  ……
 二〇〇四年一〇月最高裁が、国と県の責任を認め、現行の認定基準より穏やかな救済条件を示した。それにも拘(かか)わらず、小池百合子氏(当時の環境大臣)は、国会で「判断条件を見直す必要がある、このようには考えておりません」と答弁していた。ここで、政府が前向きに完全決着にむけて、可能ならば「疑わしきは水俣病」と認定し、責任を取る姿勢を示していれば問題解決に大きく前進し、多くの人が思う以上にそれは日本国家全体のためにもなっていた。様々な糸が絡み合い、多くの人が繋がっており、人が想う以上に問題は複雑となっていた。世の中は狭いとつくづく感じた。
 もっとも小池百合子氏にも自民党内から有形・無形の圧力があり、彼女自身の意思はどうであったかは不明である。ちなみに、人口一億の日本と言っても狭いものである。この小池氏と私は、関西学院大学の昭和四六年入学時の同期である。彼女は社会学部で、私は法学部ではあったが。後に、彼女はカイロ大学へ、私は早稲田へ行く。面識は多分ないが、大学内の糸をたどれば線があろう。他方、水俣病患者には、一九八三年のフィールドワークで何人とも出会ってもいる。
 ……また、私が、勉学上、市川房枝氏にインタビューに行ったことがあるが、その頃はまだ菅直人氏{この原稿微修正の二〇一〇年八月一五日現在総理大臣}が市川さんの選挙活動の手伝いをしていたようである。私の知り合いの糸をたどっていくと、日本の政界・財界・学会・諸組織に右記の比ではない繋がりがあるみたいである。私自身は、そうした物を直接活用したことは現在迄はない。勿論、これらの線を辿(たど)っても相手にされるはずもない。ただ、長期に亘り、病気療養中で、経済封鎖され、再就職せねばならぬ、単なるおっさんですら、こうした糸で柵(しがらみ)だらけという話である。同様に、(今回は一部省略したが)水俣を巡る人間模様でも、こうした薄い線が私の周りに幾つもあった、というだけのことである。
 付け加えれば、ユージン・スミス関連の資料を求めて内外に問い合わせたり・各地に足を運び、探し回ったりし続けたことは既に記したが、アイリーン・アーカイブの連絡先は宝塚市……であることを、今回の原稿を記している二〇一〇年に初めて知った。……私が大学時代に何年もアルバイトをしていた所であり、いわば私の関西地区の庭の如き場所であった。世の中は本当に狭いものである。まさに、「灯台下暗し」であった。ともかく、無関係な人が傷つかないように細心の注意を払わなければならない。……


……★以下省略★……