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- (2)安らぎ文庫HPの指針
私は、今日の学校は大嫌いです。
私は、東大・京大を卒業しただけで、自分が優秀とか、能力があると考えている人を馬鹿だと考えています。同じことはハーバード大学・オックスフォード大学にもいえます。
私は、昔、成績が良かった人が、その後長期の努力を怠っていた場合ですら、今でも自分はそうだと信じている人がいることに驚いています。
私は、その前に出鱈目(デタラメ)な偏差値で学校を評価することが信じられません。
私は、今日の教科書は腐っていると思っています。
私は、今日の学校の授業は嫌いです。
しかし、私は授業屋と称しています。そして、それを生業(なりわい)としています。
「安らぎ文庫」は、人間が本当に生涯学び続けなければならないことを、様々な分野からお伝えする文庫です。私は今日の教育・授業・学校に疑問を持ち、本当に学ばなければならないことを問題提起するために、安らぎ文庫をつくりました。しかし、堅苦しいものではありません。じっくりと、このHPやブログ、何よりも私の作品を読んでいただければ分かると思います。
このホームページの目的は、私の作品が多方面に及んでいるため、私の作品・商品を勘違いして購入し、後悔されないように商品・作品の解説をすることです。
私は過去、膨大な本を購入し、九〇%以上が、後でこんな本を買わねば良かったと悔やみました。そこで、みなさんに私の作品・商品を詳細に見本提示・解説・紹介し、みなさんが買い間違えしないようにすることが、このHPの一番の目的です。
なお、(3)に私と教育の係(かか)わりを掲載しておりますので、御覧いただければ幸いです。最後に、チャップリンの言葉を引用します。
More than machinery we need humanity. More than cleverness, we need kindness and gentleness.
{私たちが必要としているのは、機械よりも人間らしさです。知恵(頭の良さ)よりも、私たちは思いやりと優しさを必要としているのです。}
- 【追記】(2015年2月11日午前記述)
「東大・京大を卒業しただけで、自分が優秀とか、能力があると考えている人を馬鹿だと考えています」
→(解説)人生100年を100日の合宿に例えてみよう。
大学に入るまでの、中学・高校の6年間は6日間にすぎない。100日の合宿の中で6日間のみ頑張って、その後の94日を怠惰な日々を過ごし、合宿中に自分は優秀だったと思うのと同様である。大学四年間も同様。合宿の四日間にすぎない。
合宿中の百日間、せめて九十日以上頑張って初めて合宿は充実したと感じるものであるし、その成果も同様である。
今日の社会は、合宿の三日程度(大学合格前の三年のみ)頑張ったときの評価が一生の評価となる、狂った社会である。
中学・高校・大学卒業後に、百日の合宿に例えれば九十日間の日々があり、こちらの方が極めて重要なのである。小学校は記す必要性もない。?
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- (3)私の教育との係わりについて(拙著『閉じた窓にも日は昇る・上巻』より抜粋)
- 第四章・What do I do?(私は何者か)
第一遍からも想像できるように、私は健康な体で生まれ、小学校・中学校と人一倍頑健な体で過ごし、高校では一時は柔道部に所属し柔道も本の少し齧(かじ)っていた。
腕力も人一倍強かった。そして、強健な体をした、田舎者の素朴な私が都会に出たのは西宮市にある関西(かんせい)学院大学に進学した、一九七一年からである。
大学時代は、生活費を稼ぐために、寿司屋・土方・鉄パイプ運び・プロパンガス配達・宿直・家庭教師・徹夜でのホテル受付……とバイト三昧(ざんまい)であった。
おまけに、大学紛争で登校できぬ状態に置かれてもいた。七五年に大学を卒業し、西宮市教育委員会嘱託として中学校へ派遣されたものの、一人前扱いされずに肩身の狭い思いをした。翌年度は実家に戻り、病人だらけの中で大学院浪人をする。
そして、七七年に早稲田大学大学院政治学研究科に進学したものの、「あんなにバイトをしていたならば大学院生に相応(ふさわ)しい勉学はできない」と指摘される状況に再度おかれた。そうした環境下で、ともかく大学院を八〇年に修了した。
そして、漸(ようや)く天成の仕事に近づく。
天成の仕事。余り書きたくない。ヤクザな仕事である。
解説をすれば長くなるので、とりあえず、教師としておこう。
否(いな)、理解されなくてもやはり自己紹介を少ししておく。
私は何者か。ある人は教師とか元教師と言う。
だが違う。一言で言えば「授業屋」である。授業屋の解説をするために前置きをさせて頂く。
私は、幼少の頃から確かに教師を目指し、正規の中学校・高等学校・予備校・大学校の教壇に立ち、塾や家庭教師類も含めると小学校一年生から大学生迄で教えていないのは、実に小学校三年生のみである。教えた対象も、私が辞めた後で朝日年鑑にパトカーも来たと記されていた元気の良い学校、思い切り出来ない生徒を対象にした変わった塾(簡単な分数の足し算も出来ない中学三年生などを対象とした塾)、逆に東大元総長の孫類を教えた事もあるし、東大に当時一五〇〇名以上通していた駿台(すんだい)予備学校(以下駿台と略す)の教壇に長く立っていたこともある。
教えた教科も、小学校全教科、中学校の英・数・国・社と、高校・予備校・大学で政経・倫社・現社・日本史・英語等と膨大な教科に及ぶ。
私自身の生活も特異であった。小学校・中学校時代は、全くに近く勉強をせず、格好の良さを狙い高い崖の上から頭から川へ飛び込んだりしていた。
だが一度は、迂闊(うかつ)にも水面下の岩に頭をぶつけて全身血だらけとなり、病院で頭を縫われる羽目となった。冬には、氷の池で遊び、落ちて氷の下敷きになったこともある。
中学校時代には、教師に逆(さか)らい問題児とみなされた時すらあった。
時効だから記そう。小学校時代には、国の指定文化財・長福寺(ちようふくじ)三重塔(★★市)に多くの人が楽書(らくがき)をしていたのに釣られて、私も落書(らくがき)きをした事もある。
しかし、通常の人と異なり余計な事を書いてしまった。
愚かにも、参拝の記念にと、私の実家の住所を番地まで丁寧に記し、そして私の本名をフルネームで書いてしまった。幼かった私が家に帰り、じっくり考えるとこれは犯罪であると気づき、いつ警察が来るかと寝られぬ日々が一週間以上続いたこともある。
幸いに警察は来なかった。今考えると、犯罪となる落書を、それも国の指定文化財に、本名や連絡先を自分で記す馬鹿はまさかいるはずもなく他人が私の住所を記したのだろう、と警察が判断し相手としなかったのではなかろうか。
だが、当時の私にすれば法隆寺の金堂に住所と名前を正確に記してしまったような心境であった。現在は環境擁護派であり、こうした事とは無縁の人間である。
当時も悪戯(いたずら)心で書いたのではない。みんなが楽書をしているので、私も何か記しても良いのかと瞬間的に錯覚し、私の名前と住所を参拝記念にきっちり記せば御利益がある、と幼心に思っただけである。丁度、寺などへ参拝した際の記帳をする時の心理である。
反面、私は大学時代はバイト三昧を余儀なくされても、勉学・学問に惹(ひ)かれ徹夜三昧で本を読み続けた。大学院は仕送りゼロの中でも毎月約四万円分の文献・資料を収集し、苦学しながら修了したという経験も持っている。
話を元に戻そう。
私は、確かに元教師ではあったが、もはや教師ではないし、教師になりたくもない。
私の目指していたものは教師ではなく授業屋である。
その事がはっきりと分かったのは駿台(すんだい)の教壇に立った時からである。授業屋が私の天職とはっきり自覚した。
後に、大学校の教壇に立ち続けた時にその事が更にはっきりした。その考えは病と不法行為下の自宅監禁中の現在も全く同一である。
授業屋とは何か。
故林竹二(教育学者)の世界にやや近いかもしれない。
だが、少し違う。
人が見たことのない世界のため解説は難しい。
因(ちな)みに、山田洋次氏は、授業はみんなで汗水たらしてつくるもの、という趣旨の事を朝日新聞に掲載していた。
私は苦笑した。
学校はみんなで汗水垂らしてつくるものとは私も思う。
だが授業はそうではない。
山田氏が正しいのかもしれない。だから、やはり私は教師ではない。
私は、教壇を去る最後の年に、拙著教材『求め続けて』の最後に「授業とは、一つ一つの作品であり、芸術である」と記した。
落ちぶれた時、私は学問・授業の大道芸人である。
世間に認められた時、私は、映画の総監督の如く、学問・授業の世界という大芝居・一大パノラマの世界の指揮者・監督である。
地の果てまで落ちぶれた今、私は授業の大道芸人と記しておこう。だが世間一般の教師ほどヤクザではない。仁義と人情を重んじる車寅次郎型ヤクザと紹介しておく。
授業屋とは、長期に亘(わた)り様々な技能や学問を取得し続けたプロの人間が何度もシミュレーションをして、作品として完成したものを、あらゆる器財と手段を駆使して一種のショーとして展開する職人芸の世界である。
これが私の授業論である。その思いは年々強くなっていった。
そこで授業屋に必要なものは、専門に関する深い学習・裾野の学習のみではなく、芸術的プレゼンテーションをするために、カメラ・音楽・映画・絵画・アニメ・フィールドワーク・パソコン(及びその周辺機器)に関する膨大な知識・技術を習得することである、と考えるようになっていった。何よりも「人」と「社会」を深く知らねばならない。
だがそれらに迎合してもならない。
授業とは作品であり、芸術であり、総合プレゼンテーションである、と考え始めるやカメラが不可欠となった。
そこで、学問・授業の世界の大道芸人である私は、九四年からカメラに関しても猛勉強を開始した。チャップリンが映画「ライムライト」でバイオリンを弾くときにはバイオリンでもプロ並みであり、映画「独裁者」の最後の名台詞(せりふ)を記す時はノーベル賞作家が顔顔負けの作家であったように、私もあらゆる分野でプロ並みを目指した。
【2015年7月14日追伸】HPのこのページのイラストは「いらすとや」さんからお借りしている。使用条件は、著作権は作者、ただし、使用したい人は無料で御自由にとのことであった。勿論(もちろん)、イラストの販売などは禁止である。
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