『旅に心を求めて―不条理編(上)』:同サイト内リンク

1-3・『旅に心を求めて―不条理編上』見本

第1章 野麦峠への旅 ――美は悲しみの中に在り
 
 雲、空一面を覆(おお)う
 午前四時に起き、安(やす)宿(やど)を出て、夜(よ)が明けるにつれての印象である

 野麦への道中、道を間違え、野麦峠についた時は暗闇であった。野麦峠、初日は闇の野麦である。闇の中、ミネと辰次郎の像を食い入るように見つめた。まず、ミネの顔と脚を。次に兄・辰次郎の足を。翌日出直すと、今度はかなり雨が降り、雨の野麦である。だが、濡れることをいとわず、ヤッケをとり、ミネと辰次郎像に合掌。次に、野麦祈念碑に合掌。


 祈念碑の下には次の碑文があった。
   野麦よ 
   この峠路に縁(えにし)ある 
   あらゆる 生命(いのち)の
   限りなき 幸(しあわせ)を祈る
   生き生きと輝ける日も 
   消えにしあとも 
   安らかに 
      合掌
      建立者作詞 
 

 雨と霧と闇で、何一つ、自然の美を堪能(たんのう)できなかったにも拘(かか)わらず、野麦への旅は私の人生の中で最も思い出深い旅であった。


 

  1・忘れられぬ旅、北陸の旅

 一九八九年六月二六日、旅に出る。それは、私にとって未だに一番印象深い旅であり、旅を教材にし始めた転機の一つとなる旅であった。この旅は、計画抜きの旅でもあった。当時、家にこもりきりの日々を過ごしていたが、所用にて車で西宮に出向いたついでに、漠然と何かを求めて北陸に向かう。……この旅は天気が必ずしも良かったわけではない。また黒部を除いて、素晴らしい景色に出会ったわけでもない。

 しかし、現在までのフィールドワークの中で、ピークとなっている旅である。当時の記録に次のように記している。


 「どんな素晴らしい自然も、天気とともにその姿を変える。だが、思い出の地はどんな天気であろうとも、昔の思い出を蘇らせる。そして、思い出は時には心のオアシスとなる。だから旅で思い出を残すこと、それは大きな財産となる。」


 この旅で自分というものを見つけると同時に、授業の一つのヒントを得た。そこで、後に記すように「旅は(その)人なり」と書いた次第である。

 『あゝ野麦峠』という、書物や映画を知らない人もいると思われるので、野麦峠に関して以下紹介しておく。

 明治四十二年十一月二十日午後二時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、二十歳、信州平野村山一組の工女である。またその病女を背板(せいた)にのせて峠の上までかつぎ挙げて来た男は、岐阜県吉城(よしき)郡河合村角川(つのかわ)の政井辰次郎(三一)、死んだ工女の兄であった。……(中略)……

  ・……野麦峠の頂上(つじ)についたのが十一月二十日の午後であった。
 その間みねはほとんど何もたべず、峠にかかって苦しくなると、つぶやくように念仏をとなえていた。峠の茶屋に休んでソバがゆ(…中略…)と甘酒を買ってやったが、それにも口をつけず、「アー飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落として、力なくそこにくずれ
 「みね、どうした、しっかりしろ>」辰次郎が驚いて抱きおこした時はすでにこと切れていた。
 「みねは飛騨を一目みて死にたかったのであろう」、そういって辰次郎〈明11・河合〉は六十年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いた。
 {山本茂実『あゝ野麦峠』角川書店、一九七七年、二三~二五頁}

……


 

   2・野麦峠へ

 一九八九年六月二十六日、(福井県)小松市にて三千円台の安宿を取る。翌日は、この日途中で行こうと考えた永平寺に、〈車をおく場所探しに手間取り行き損ねたので〉、再度戻ろうか、それとももう少し北上しようかと考える。

 ところが、突然、昔見た映画『あゝ野麦峠』を思い出す。……この映画は、優秀な工女ともてはやされたミネが病気になり工場で捨てられるように扱われ、そこで兄・辰次郎がミネを引き取りに何日もかけてその工場に歩いて行き、病気のミネを背負って再度歩いて一六七二メートルの野麦峠を越えていくという実話である。この物語の一部は先に紹介した通りである。

 当時の思い出を、今(いま)文章に記すよりも、道中で記した当時のメモをただ載せることにする。それは、心で撮った、私の大切な写真だからである。

 「車中にて筆をとる。
 一九八九年六月二七日六時一七分。高岡を過ぎる。映画『野麦峠』の舞台に行くのか、と思うと込み上げるものがある。天気悪し。天気は自然の素晴らしいものを与えてくれるであろう。しかし、思い出(映画も含め人間の感情の蓄積のあるもの)はそれ以上のものを与えてくれるであろう。午前四時に起き疲れは残る。だが感慨がますます募っていく。

 六時二九分。雲、空一面を覆(おお)う

 七時二分。富山市を通過しながら考える。ここにも、いろいろな人がいて、いろいろな生活があり、いろいろな人間模様があるのだろう。ただ通過するのがもったいない気がする。旅の在り方をつくづく考える。だが、目的地に急がねばならぬ。街だけはしっかり見ておこう」


 以下は、帰宅直後に記した旅行記の一部である(八九年六月三〇日、我が家にて記す)。

 「六月二七日、野麦峠に行くまでメモをとりつづけ、……野麦まで、かなりの道のりがあった上に、道を何度も間違えたため、日も暮れかけ、おまけにつまらぬことに出遭(あ)ったこともあり、今日、野麦を見てももはや感動はないのではないか、と不安がよぎる。しかもそのような状態で野麦に行けば、今後何度行っても、いや、もう永久に感動が起こらなくなるのではないか。思い切って、今日はあきらめて翌日にするか、こうしたことを考えながら、何度も道を間違えつつ細い道を走る。右は絶壁で落ちればそれまで。遥(はる)か下に谷が見える。当時の女工達も、こうした不安な思いで、この峠を越えたのであろう。否(いな)、こんな比ではなかろう。薄暗くなった中、遙か下の渓谷から当時の女工の姿が偲(しの)ばれる。

 感情が途切れ、もはや感動はないだろうと思いながら、戻ろうか進もうかと迷いつつ、道も分からず、誰一人通らない山道を、もう三時間近く走り続けていた。ふと見ると、何か棒が目に入ってきた。近づくと、お助け小屋の標識である。あわてて周りを見ると少し広い所に像が見える。急いで像に近づきミネの顔を、次に脚を見る。

 言い知れぬ想いが胸をよぎる。しんどかったであろう、辛(つら)かったであろうと思いながら、もう一度ミネの表情を見る。次に兄・辰次郎の足と顔を見る。よくこの坂を背負ってきたなと思う。すごい兄妹(きようだい)愛だと感心する。

 〝美〟は悲しみの中にだけあるとは思わないが、その中に力強く存在していると実感がわく。いつの日にか、当時に思いを馳せながら、私もこの道を一人で歩いて、岡谷(おかや)へ進もうと思う。夜七時過ぎ女工たちを想像しながら辺(あた)りの写真を撮る。人影のない中、雨が降り始める。

 翌日、再度野麦へ。ミネの記念碑に行く。再(ふたた)び雨が降り始めるが、当時の状況に想いを馳せながら、ヤッケの帽子をとり記念碑に合掌。雨のため、素晴らしいといわれる景色はほとんど見えないが、そのこと以上に、女工達の姿に心が馳せる。」


 ここで言う、〝美〟とは言うまでもなく次のことである。車でさえあれほど時間がかかる、この長い絶壁の横の急な峠を歩いて登るなど、思うだけで大変なことであり、ましてや何日もかけ、病気の妹を背負って歩くなどは考えられないことである。この兄妹(きようだい)愛の中に紛れもない〝美〟を見た

 この「旅に心を求めて」シリーズで取り上げる日野富子や、後に記す「天武・持統天皇陵を前に歴史に想う」と対比してもらえば、このことは一層明確になる。だから、「野麦峠」には言うまでもなく、全ての授業の始まりがあるように、私には思われた。

 かつて、私は授業の資料に(特に政経に)、ある日本兵が現地の人の首をはね、それを手に持ち、笑っている衝撃的な写真など、そうしたものばかりを求めていた。しかし、そこには一つの限界があった。『ワレンバーク』の中に次のようなアイヒマンの言葉の引用がある。「何百人という人が死ぬのは、大きな災害だ。しかし、それが、何百万人という単位になれば、統計上の数字でしかない」{M・ニコルソン、D・ウィナー(日暮雅通訳)『ワレンバーク』(偕成社)、一九九一年、四六頁}。

 しかし、何百人でも同じであろう。そこには言葉の上での死、あるいは単なる死しか存在しない。たとえば、道路の上で轢(ひ)かれた犬の死体を見ても、いくら残虐でも、単なるゴミにしか見えないことがある。今まで求めていたものはそれと同様なのである。しかし、幼いときから飼っていた、自分が愛し続けていた犬ならば。あるいは、飼い主の想いと、犬の生き続けていたときの姿、そしてもう一つ何かを伝えた後で、その犬の死を考えるならば。

 同様に、政経でも戦争に限らずすべての面で(人権、労働、福祉、そして経済ですらも)、そうした場面を人の心へ介在する何かが必要なのではあるまいか。少なくとも私の心を搔(か)き立てる何かが必要なのである。そして、そこに〝美〟が存在するならば、大きな効果をもたらすのではなかろうか。今、野麦峠の教材化に当たり、再度このことを痛感する。

 ……(中略)……

 「旅」について、当時の旅行記に次のように結論づけた。
 「きれいな景色を求めるだけが旅ではない。その地で自分の何かが見つけられればと思う。そして、その地に自分の思い出が残せたらとも思う。旅は人なり、旅は心なり、そしてそれが〝旅の心〟であると思う。素晴らしい景色を見ることは自分の心を豊かにしてくれるであろう。だがそれ以上に、自分の何かを見つけられ、自分を表現することにつながる地、あるいはその心境、これらは〝なにもの〟にも代え難(がた)いものであろう。それが〝旅の心〟であると思う」


 今回は、この中で「旅は人なり」(旅はその人自身である)について記した。「旅は心なり」(旅は目や耳ではなく〝こころ〟で見聞きするものでしかない)については「松代」で取り上げる。そして、このシリーズ全体を通して『旅の心(神髄)』を考えていきたい。

 再度、記す。

 旅は人なり、心なり、それが旅の心である

 即(すなわ)ち、旅はその人自身であり、その人の心そのものであり、それが旅の心(神髄)である、と痛感した旅となった。

 


   3・松代(まつしろ)にて

  野麦を下(くだ)り、松本に向かう途中、かねてより気になっていた松代に立ち寄る。
 ……松代には……天皇と軍の最高司令部からなる大本営、政府中枢機関だけを、東京から避難させるために、陸軍省が計画した大地下壕(ごう)が残っている。……


 そこで、……(中略)……真っ先に行ったのが、この大本営跡である。とは言っても、後に述べるように、何度も道を間違え、松代の街をくまなく歩いた後のことである。

 私が入った地下壕は、真っ暗で、天井には電灯は一つもなく、足下(あしもと)は人間の頭の数倍の岩で埋もれていた。懐中電灯を持って入っても、相当足下(あしもと)が悪く、足を打ち親指の爪がとれかけ、後にとれたくらいである。私以外の見学人は一人もいない。だが、少し離れた所で大きな音がした。なんと、蝙蝠(こうもり)が飛んでいるではないか。当時の手記に次のように記している。

  ……(中略)……

 だが、後に松代大本営跡の書物などで、地下壕を見ると洞窟の上に電灯がついており、足下も整備されていた。もちろん、幾(いく)つもコースがあるのだろう。

 ……こんな危険な所を一般公開しているのだろうか、と後に不思議に思った。今は、このコースも整備されていると思われる。この前年、島根の石見銀山に行った時も大半のトンネルの天井には電灯がなく、誰も見学に来ていなかったのだから。今は世界遺産のため事情は全く違うであろう。ともかく、懐中電灯も途中で壊(こわ)れたため、デタラメにストロボを使い写真を撮りまくったのを覚えている。


 この「松代の旅」の道中記を載せ、私の教材の一つを「旅に心を求めて」とすることを、思いついたきっかけを紹介する。

 「松代に来て、初めて、自分は旅をしているのだと思った。街は、落ちついた雰囲気の中で静かな佇(たたず)まいを残し、一人旅には最適の地であった。秋の夕焼けの映(は)える街ではなかろうか。旅は人なり、そして心なりと、つくづく思う。そして、その地に住む人々に想いを馳せ、同時に旅というものについて考える。……

 かつて、私の友人が東北を自転車で一人旅をし、数多くのヘチマの写真を撮って帰ってきた。誰もその意味が分かるものではない。しかし、そこにはその人の長い孤独な人生やその人自身の様々な姿があった。その人にとっての旅というものと、これからの生活への〝何かが〟そこにあった。

 同様に、私は古い廃(すた)れた家に心を奪われることがある。不思議に思う人がいるかもしれない。古い家に住む老婆を想像し、その姿に自分の亡くなった祖母や身の回りの人達を連想するのである。あらゆる物を持ち、あらゆる人達に関心を持たれている人は、あらゆること、あらゆる人に関心を持ち、自分の孫達に何でも与えられるであろう。だが廃れた家に住む、そして心優しき老婆は、誰に、何に関心を持つであろうか。改めて書くまでもない。人一倍愛する孫達に、わずかな持ち物しか持たない彼女たちは、何を、どのようにして、どのような思いで与えようとするであろうか。

 だから古い家を見て感慨に耽(ふけ)ることがある。きれいな景色を求めるだけが旅ではない。その地で自分の何かが見つけられればと思う。そして、その地に自分の思い出が残せればとも思う。

 旅は人なり、旅は心なり、そしてそれが旅の心である。
 素晴(すば)らしい景色を見ることは、自分の心を豊かにしてくれるであろう。だがそれ以上に、自分の何かを見つけられ、自分を表現することにつながる地、あるいはその心境、これらは何ものにもかえ難(がた)いものである。それが〝旅の心〟であると思う。

 どんな素晴らしい自然も、天気とともに、その姿を変える。だが、思い出の地は、どんな天気であろうとも、昔の思い出を蘇(よみがえ)らせる。そして思い出は時には心のオアシスとなる。だから旅で思い出を残すこと、それは大きな財産となる。(一九八九年六月二八日記す)」

 ……(中略)……


 

   5・天武・持統陵を前にして――野麦の旅を振り返る

 教材・『旅に心を求めて』シリーズで、明日香路の旅「天武天皇陵を前に歴史に想う」という作品を作成したことがある。その関係で、天武・持統陵には、二〇一〇年四月現在までに、十度以上足を運んでいる。

この「野麦の旅」を終えた後でも、天武・持統陵(りょう)を訪れ、「野麦の旅」を振り返った。野麦の旅で、私が訴えたかった物を、天武・持統天皇の生き様(ざま)との対比で締めくくることにする。以下、天武・持統天皇について、拙著教材『旅に心を求めて――教材編』(業者製本で学内と関連図書館での限定販売)から一部を抜粋する。……


 ……天武天皇の時、天皇の権力は強大になり、彼は「大君(おおきみ)は神にしませば」と歌われた。だが、彼がまだ大海人皇子(おおあまのおうじ)といっていた頃、兄(天智天皇)の元を去り吉野に引っ込み、ひっそりと暮らしていたことがあった。それは兄が自らの子(大(おお)友(ともの)皇子(みこ)・後の弘文天皇)を天皇にしたがっていたため、天皇となるはずであった自分の身の危険を感じたからである。兄の死後に彼が天皇に成り得たのは、その実の兄の子を壬申(じんしん)の乱で破ってからである。そして彼は絶対君主となった。その彼には今で言う妻(キサキ)が九人と十七人の子がいたという。

 彼の悩みは皮肉にもその子供たちにあった。彼は自分の息子たちを集め「おまえたちは異腹の生まれであるが、今は同じ母から生まれたように慈しもう……もしこの盟を破ったら、たちまち私は死ぬであろう」といった。だが、盟を信じるものは天皇自身を含め誰もいなかったという。「自分の子どもたちにたいして、こんな仰々しい盟を立てなければならぬところに専制君主の悲哀があった」{直木考次郎『日本の歴史2・古代国家の成立』(中央公論)、一九七三年、三七〇―三七一頁}のである。

 尚、天武天皇の妃(きさき)の内、皇后を含め四人が対立していた兄・天智天皇の娘であった。……憩いの場であり、様々な人生の傷を癒(いや)す場である家族こそが、天武天皇にとっては悩みの場所だったからである。彼は権力と引き替えに、(父母ともに同一の)実の兄に対して身の危険を感じねばならず、また後に実の兄の子・大友皇子を討った(自害させた)。しかもこの大友皇子の妻は自分(即ち・天武天皇)の娘であった。また、(対立している)実の兄の娘四人と結婚し、そして、彼の悩みはその自分の子供たちのもめごとにあったからである。

 だが天武天皇(天智天皇の弟)の妻・持統天皇こそ悲劇者と言えるのではなかろうか。その通りであるが、少し意味が違う。持統天皇について少し記す。持統天皇の祖父・蘇我倉山田石川麿呂は彼女の父(天智天皇)により殺される。彼女の夫・天武天皇には多くの妻がおり、しかも彼女を含め四人が天智天皇の子であり、更にその内二人が同一の母なのである。その上、自分の子(草壁皇子(くさかべのおうじ))を天皇にしようとし、天武天皇の子の中でも血筋も能力も優れていた大津皇子を事実上殺害する。この大津皇子は実の姉の子でもある。こうまでしたにもかかわらず、息子が早死にするや自ら天皇となり孫(後の文武天皇)に期待をかけざるを得なくなる。

 だが、権力者の悲劇は続く。この孫も天皇になったものの早死にをする。そこで、中継ぎとして息子(草壁皇子)の嫁(元明天皇=彼女も天智天皇の娘)が天皇にならざるをえなくなった。これにより、彼女(元明)は再婚などできなくなり、その悲哀のせいか、自分と同じケースの女性を表彰したという。

 まだまだ続くのであるが、字数の関係でここまでにする。ただし、この複雑さから分かるように近親結婚せざるを得ない所に当時の支配階級の悲哀があり、そして近親結婚のため早死にせざるを得ないという悲劇もあったことだけは指摘しておこう。……
 歴史を学ぶ中で弥(いや)が上にも、権力を持つ者の悲劇が目につく。

 足利義政と義視(よしみ)、今回の天智と天武を始めとする兄弟間の悲劇

 今回も指摘したが、更に平安期の天皇家、戦国期の大名に典型的に見られる結婚を巡る悲劇。例えば、堀川天皇(1079~1107)は父・白河天皇により一三歳の時に強制的に三二才の叔母と結婚させられ、年齢差からか近親婚の関係からか子供ができなかったという。(藤原良房の孫の)清和天皇(850~880)にいたっては九才で即位させられ、同時にこの年に年上の女性と結婚させられる。しかもこの女性は良房の姪で、在原(アリハラノ)業平(ナリヒラ)と駆け落ちをしていた女性であり、彼女も無理矢理その意に反して結婚させられた。こうした、政略結婚の典型例が和宮(かずのみや)である等々。

 そして、今回の天武天皇を始め徳川家康等に見られた親子の悲劇

 また、単に権力者故(ゆえ)の悲劇もチャールズⅠ世の例等に限りなく見られる。

 こうしたことを書きながら、前回特集した百キロ以上の道のりを、妹を背負い、しかも一六七二メートルの峠を越えた、野麦峠の美しき兄妹愛を思い浮かべる。同時に……、今回の天武天皇の隣に彼の妻であり、(彼の宿敵であった)実の兄の娘・持統天皇が安らかに眠る天武・持統陵を想い浮かべ、歴史に深く想う。

 これからも、権力者の悲劇と民衆の悲劇、そして人間を求めて各地をさまようことになるであろう。だが、同時に本当は〝美〟というものに憧れ、それを求め続けていることもつけ加えておこう。{拙著、『旅に心を求めて――教材編』第4章。今回、ごく一部を微修正している。}



 右記に見られるように、親子・兄弟・姉妹・結婚、権力者故の悲劇の全てに該当する、その典型例が天武天皇とその妻・持統天皇である。尤(もつと)も、天皇に限らず、権力者でその兄弟姉妹が全て仲が良いというような話を、私は聞いたことがない。

 私の旅には目的がある。私はこの旅を通じて言いたい。我々は歴史から何を学ばなければならないのか。いや、人生・社会の中で、生きている内に何を学ばなければならないのか。教壇を離れた今、もはや教壇で声を張り上げて、まくしたてることはできない。この書物を通じて訴えることしかできない。

 私は言いたい。数学で百点を取ることは、多少難しいかもしれないが、さほど難しくはない。だが、兄弟姉妹が全員生涯に亘(わた)り、仲良くし続けることは大変なことである。歴史は、それを物語っている。我々は歴史の中から、それを、学ばなければならない。学問とは、本来、そうしたものである

 ちなみに、富豪や権力を持っている人物の子供たちが、生涯に亘り、全員仲良く過ごしたという事例を、私はほとんど知らない。数学で満点を取ることよりも、英語で高得点を取ることよりも、もし、あなた方の子供たちが互いに仲良くしていたならば、それにまさる教育はない。兄弟姉妹でなくても、小さな子供たちが、友達同士で手をつないで歩いている姿を見たとき、私は道の上で宝石を見た想いがすることがある

 野麦峠の旅とコントラストを描いた、天武・持統陵への旅は、それを強く訴えていた。野麦の美、それをどのようにして実現できるか、それが本来の学問である。不条理の柵(しがらみ)に苦悶(くもん)した私には、それが、殊更(ことさら)に意識されるのである。

 

 私たちは、この複雑な社会の中でどこへ行こうとしているのか。

 ある人は貧困の中で、ある人は孤独の中で、ある人は多忙の中で、あるいは日常生活に埋没し、どこへ行くあてもなく、昨日を生き、今日を生き、明日を生きようとしている。

 一人一人の行く道が集まり大きな流れとなり、時には予期せぬ悲劇を生み出すこともある。

 私たちは立ち止まり、私たちがどこへ行こうとしているのかを考えなければならない。私たちは「どこへ行くのか」を問う前に、「どこから来たのか」を問わなければならない。