長期連載・求め続けて2

第三部HEART(〝心〟)


今、誤字・脱字のチェック三歩手前。

★全体の掲載順・掲載予定日時、掲載期間、日英語のいずれかについてなどは→長期連載トップで確認(アンダーラインをクリック)

付録の動画箇所も本日(4月28日木曜日頃)同時公開しています。(4本の日本語動画、一本が英語字幕動画です)。

 


第10章チャップリン・第2節Important dates and some information


 



●A・解説文(英語と日本語): 本文はPDFですのでPDFを御覧ください。PDFのない方は②の画像版をクリックください。このページにあるBとCは付録(おまけ)です。

 

第11章闇から光へ(ヘレンケラー)・第2節生い立ちから召されるまで

 

①PDF版=下記をクリック(パソコンに最適)。(Click this Address↓)

 

11章-2『求め続けて』・第11章Helen Keller・第2節・Important dates and some informationのPDF

http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/wp-content/uploads/2022/03/6356e2bd011b8fe4c3a3870158804b7c.pdf

 

☝:上記の文字でも、アドレスでもどちらをクリックしてもPDFはでます。

 

 

★PDFを使用できない方は下記②③を。

画像版ページへ移行→下記をクリック(スマホ等でPDF操作面倒な場合にはこちらを:(画像と同様です。発音記号もでます。)

http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/real_estate/1796/

 

 

 



B・【求め続けて・第11章2節の追記】(本文は上記のPDFか、文字画像添付の御案内箇所を御覧ください)

20世紀・シネマ・パラダ イス
http://cinepara.iinaa.net/The_Miracle_Worker.html



C・【求め続けて・第11章関連動画の御案内】→大変見やすいコンテンツです。お勧めします

 【動画の御案内】 YouTubeコンテンツを中心に紹介。著作者の都合で途中で掲載中止となる場合もあります。御了承ください。

 今回の第2節での動画収録は、ヘレンケラーが実際に発声をしているシーンの録画(英語音声、日本語字幕)と日本の番組『知ってるつもり』(日本語)から紹介します。リンク切れ時は御容赦を。



①ヘレン・ケラー 実写フィルム

【YouTube記載項目】
東京ピースライオンズクラブ
チャンネル登録者数 210人
ヘレン・ケラー アンナ・サリバン 実写映像
いかに喋ることを学んだのか。
 字幕:ライオンズクラブ国際協会330-A地区 東京ピースライオンズクラブ L山下
 Miss Helen Adams Keller Film Japanese subtitles

 

 

②知ってるつもり?!ヘレン・ケラー&中村久子 20世紀伝説

【YouTube記載項目】

h komasa
チャンネル登録者数 1.27万人
知ってるつもり?!20世紀伝説 ヘレン・ケラー/中村久子
~命と対話した人々~
1999年11月10日放送

・ヘレン・ケラー
ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller、1880年6月27日 - 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家である。

視覚と聴覚の重複障害者(盲ろう者)でありながらも世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くした。

・1887年(7歳) - ヘレンの両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、ベルの紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。サリヴァンは小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はすでに視力があった)、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンはあきらめかけていた「話すこと」ができるようになった。サリヴァンはその後約50年に渡りよき教師、そしてよき友人としてヘレンを支えていくことになる。
・1888年5月(7歳) - ボストンのパーキンズ盲学校に通学始める。以後3年間、断続的に学ぶ。
・1890年3月(9歳) - ボストンのホレース・マン聾学校の校長、サラ・フラーから発声法を学ぶ。
・1894年(14歳) -ニューヨークのライト・ヒューマソン聾学校に入学。発声の勉強に励む。
・1896年10月(16歳) - ケンブリッジ女学院に入学、まもなく父アーサーが死去。
・1897年12月(17歳) - サリヴァンが校長のアーサー・ギルマンと教育方針をめぐって衝突したた           め、ヘレンはケンブリッジ女学院を退学。2人はボストン南郊のレンサムに           家を借りて落ち着く。ヘレンは、もう1人の家庭教師であるキースの手を借           りて勉強を続ける。
・1900年10月(20歳) - ラドクリフ・カレッジ(現:ハーバード大学)に入学。
・1902年(22歳) - 『わたしの生涯』を出版する。
・1904年(24歳) - ラドクリフ・カレッジを卒業、文学士の称号を得る。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%A
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中村 久子(なかむら ひさこ、1897年11月25日 - 1968年3月19日)は、明治~昭和期の興行芸人、作家。両手・両足の切断というハンデにも拘らず自立した生活を送った女性として知られる。

幼少期
1897年(明治30年)11月25日、岐阜県大野郡高山町(現・高山市)で父・釜鳴栄太郎と母・あやの長女として出生し、幼名は「ひさ」。弟に栄三がいる。2歳の時に左足の甲に起こした凍傷が左手、右手、右足と移り、凍傷の影響による高熱と手足が真黒に焼ける痛みと苦しみに昼夜の別なく襲われた。

3歳の時にこの凍傷が元で特発性脱疽となる。手術すべきか否か、幾度となく親族会議が行われたが、決断を下さないうちに、左手が手首からポロリと崩れ落ちたという。その後右手は手首、左足は膝とかかとの中間、右足はかかとから切断する。幾度も両手両足を切断し3歳の幼さで闘病生活が始まる。

7歳の時に、父・栄太郎が急性脳膜炎により急逝。さらに不幸は続き10歳の時に弟の栄三とも生き別れをした。そんな激動の生活の中、彼女を支えてくれたのは祖母ゆきと母あやであった。祖母と母の厳しくも愛情のある子育てのお蔭で、久子は文字や編み物をできるようにまでなった。

見世物小屋を辞めてから晩年まで
1937年(昭和12年)4月17日、41歳の久子は東京日比谷公会堂でヘレン・ケラーと出会う。久子はその時口を使って作った日本人形をケラーに贈った。ケラーは久子を、「私より不幸な人、私より偉大な人」と賞賛した[1]。翌42歳の時、福永鷲邦に出会い、「歎異抄」を知る。

50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた。久子は講演で全国を回る中で自分の奇異な生い立ちを語るとともに、自分の体について恨む言葉も無く、むしろ障害のおかげで強く生きられる機会を貰ったとして「『無手無足』は仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さ(を感じる)」と感謝の言葉を述べ、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語っている。1950年(昭和25年)54歳の時、高山身障者福祉会が発足し初代会長に就任する。65歳の時、厚生大臣賞を受賞した。

1968年(昭和43年)3月19日、脳溢血により高山市天満町の自宅において波乱に満ちた生涯に幕を閉じる。享年72。遺言により遺体は、娘の富子らによって献体された。

語録
人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。
-晩年に行われた講演会において-

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%...
この動画の音楽
曲When I Fall in Love
アーティストAndré Gagnon
アルバムTwilight Time

 

 

 




日時 内容 備考
2018年2月8日(木)~月日 8章第2節・シュバイツァーについて[英日語]  
2018年3月22日(木)~?月?日頃 9章第2節・キング牧師について  
2022年1月 13日(木)~2月22日頃 10章第2節チャップリンについて  
2022年3月3日(木)~?月?日 11章第2節ヘレンケラーについて  
2022年?月?日(木)~?月?日頃まで 補章―3への追記・1(1997年作成)