『求め続けて・第三部』の補章の構成
第Ⅲ部の補章
(1)1994~95年記述(2022年は誤字脱字程度の修正)
―授業を求めて(授業をまだやる気があった頃の文書)
(2)2007年記述(1995年途中からの再度の職員を含む学校の乱れの中で)
―蛸部屋・強制・無料・貢ぎ労働被害への怒り
(3)2022年記述(現在の視点から見た分析結果)
―機構の詐欺疑惑とXグループの執拗な営業妨害の結合
今回は(1)まで。
第Ⅲ部補章―1~3の概況・
第三部は「ポリテクカレッジ岡山」(現・能開大中国)時代である。
補章―3(1)は、原則として1994年~1995年4月にかけて記載したものである。1993年末に鬱病(うつびょう)を激しくした状態から大吐血のショックか何かで奇跡的に頭が機能しだす。当時に、1988年~93年のポリテクカレッジ岡山の被害を忘却しており、更に、1994年度は学生が珍しくまともであった。そこで、再起をかけて、きっちりと授業に取り組もうとした時期に書いた補章である。
補章―3(2)は、1995年から再度労基法違反、及び各種契約違反や職員のルーズさからの被害の嵐となると同時に、学生の乱れも開始し、同時に、どうみても、私が教員モルモットにさせられ、強制・貢ぎ・監禁労働の被害に遭(あ)っているとしか思えぬ状況となった状態の記述である。それを2007年に書いたものである。
その結果、本来四クラスで同一授業をすればよいものを(クラスにより全く違う学力・授業態度状況の演技をされたため)各クラスごとに内容を変更を余儀なくされたり、各種悪戯その他の実験をさせられたり、それを私が裁判官の如く、判定を下させられる(全て無料労働である)。
私が出した判定文書などを、当時の学生は奪い合うくらいに(浜田隆政先生ならば自分の学校の先生と異なり、どういう判定をするだろうかと言わんばかりに)殺到してとっていた謎もある。こうして、時間外の無料労働を強いられる。無視しようとしても返答するまでしつこい挑発をしていた。同時に、事務所かどこかで他の学校の教師がその模様を観察していた気配もあった。これでは、賃金を含む労働契約が全く異なっており、戦前の蛸部屋労働、強制連行被害と同一ではないか、と怒り記したのが補章-2である。
補章―3(3)は最近の新たな事実を元に、今、ポリテクカレッジ岡山の乱れと私に貢ぎ労働をしいた謎の探究中の事項である。
授業の妨害が大きくなったのは1986年駿台大阪校に移動してからの駿台大阪校時代からである。だが、1984年後半から授業をまともにするのが困難な状況におかれつつあった。
謎を解く鍵は、1985年頃映画説が強調され、映画通であった藤村先生にあるかもしれない。この先生の名を某教師が「とうそん」先生と呼んだ謎がある(間違えて読んだ講師は京大で博士号を取得しており、斯様な単純な名前の読み間違えミスはしないため、故意に言ったのであろう)。島崎藤村の「とうそん」である。さらに、1987年の大阪校では意味不明の差別文書を手渡される。
▽
どうも、今考えると部落問題などの差別が絡んでいる気配を感じている。勿論、私にはその種の心当たりはない。亡き友人は「浜田さん、誤解や・勘違いではなく人間違い」と言い切った(2012年4月)。更に、駿台辞職(1987年1月末か2月上旬)後に、その友人の結婚式に招待された。1987年3月である。そのときにその友人の叔父さん(税理士)が別人と入れ代わり、偽者が原因との暗示を受けている。
そして、このグループによる、営業妨害問題(攪乱部隊)が何度も起こったことなどを追記することになる。具体的には、(犯人)Xなどが学外の人間を金で雇い、ポリテクカレッジ岡山に彼らが侵入して無法を働いた疑惑である。名前は、本当の学生の名前(長期欠席学生などの名前)を使用して授業破壊(1989年授業中の漫画読み、1997年の体当たり行為…)をした疑惑である。同時に、本当の学生の何人かもバイトとして、授業中に各種工作をさせ、更に職員の一部も、飴と鞭で、私に対して労基法違反・契約違反などをさせて、故意に被害を与えていた疑惑である。違法行為該当職員が、後に全員出世すると同時に、天下り先も確保されている謎もある。
Xらによる策動は、ポリテクカレッジ岡山辞職後も、私が仕事で再起可能の可能性が出てくるや登場して、営業妨害と仕事潰しをし続けて今日に至っている。
ポリテクカレッジ岡山以外の箇所は拙著『日本のフィクサーME』で、その妨害の激しさを紹介することにする。近々記述する『日本のフィクサーME・パート2』第2章でも一部登場してくる。
また、ポリテクカレッジ岡山(労働省所管・雇用促進事業団運営)の同事業団は当時、教育産業に軸足を移すため、5千人の職員の生活を守るため、私をCMとして、最初から専任にする意思がないのに、専任前提で招聘(しょうへい)した詐欺疑惑の可能性が高くなっている。これらも、補章―3で紹介する。
補章―1は純粋に教育学的視点からの記述であり、補章―2は蛸部屋・監禁・貢ぎ労働被害の告発であり、補章―3は国家による特殊法人・独立行政法人を拡大するための詐欺とXグループによる、各種策動被害が結合した視点からの記述となる。
以下が、1994~95年初頭に記した本文「第3部補章―1(1)」である。
《◆ー1:闇の中》[1981年まで]
《◆ー1:闇の中》[1981年まで]
今まで授業の苦痛ということを何回か記した。それは良い授業をできなかったことから生じるものではない。それは、“場”(授業にいる生徒+αにより形成されるもの)が求めている何かに応えられなかったときと、私がここまでしなければならないと漠然(ばくぜん)と感じていることができなかった責任感から生じたものである。『マザーテレサ』の箇所で述べた女子校の教壇に立つ(81年)までは自分の研究の合間に教えていたので、精神的にも・時間的にも限界であり、教えることに時間も・準備も・気持ちも十分に充(あ)てることができなかったからである。その上、「授業」というものが分からなかった。
英語を例にあげれば『ヘレンケラー』で書いたように文法の解説をし、英文を訳して終わりと考えていた。教えながら、これではいけないと感じつつも、「授業」も「教える」ということも少し探したくらいでは分からなかったのである。その原因の一つは、私自身が受けた、あるいは読んだ全ての授業がそのようなものだったからである。そこで、簡単には思いつかず、その上に気持ちをそれだけに打ち込める条件がなかったからでもある。そのため、心から「授業」を求めることもなく、さらには「求める」ことの存在すら分からなかった。
《◆ー2:授業の何かを求めて――そして社会科の導きの糸「人間……」へ?》
[1981~87年]
《◆ー2:授業の何かを求めて――そして社会科の導きの糸「人間……」へ?》
[1981~87年]
しかし、1981年に女子高校(岡山県真備高校)の教壇に立ち、研究から授業に重心を移してからは、「授業」というものを本当に求める心が生じた。だがこの年は、『マザーテレサ』の箇所で書いたように幾つかの職場で授業を掛け持ち(中学1年と中学3年の社会科、予備校での政経、女子高校での倫社)、その上に教員採用試験用の受験勉強をこなすというのでは、とても責任を果たすことができなかった。幾つかの教科でそれぞれ責任を感じて苦痛であった。塾での中学1年生に対しても、やはりこのままではいけないと思っていた。しかし、それでもアパートを借りているのに、月に8万円も入らない生活であったため、途中で仕事を整理することもできなかった。どうすべきだっただろうか。
ともかく、女子高校の教壇に立つうちに――何もできなかったが――『マザーテレサ』、『ジョニーは戦場へ行った』の箇所で述べたように「求める心」は持つようになった。
そして「授業」とは「面白いもの」でも、「分かりやすいもの」でもなく、「分かりたい」と思うような内容でなければならないと感じ始めていたことは既述(きじゅつ)の通りである。
授業全体の“導きの糸”についていえばまだ完全には見つけることができなかったものの、女子高校の教壇を去る直前には、ほのかに何かを感じ始めていた。それが、後に第Ⅰ部のテーマとなる『HUMAN BEING』(授業――人間への道)として私の心をとらえることになる。
そのヒントの一つになったのが先の二大テーマとあわせて、林竹二氏との出会いであり、授業で言えば『狼に育てられた子』である。ともかく、今書いたようにこのときには授業全体の導きの糸として意識するまでには至らなかったものの、この女子高校時代に感じていた課題が『求め続けて』第Ⅰ部である。特に「人間が人間として生きる内的条件」である。
翌年、駿台予備学校の教壇に立つようになり、悪戦苦闘のすえ、漸(ようや)く、社会科の「授業」とは何か――社会科の「授業を導く全体の糸」・『人間……』――をこのときはっきりと見つけることができた。このときは、教科の性格上、「人間が人間として生きる外的条件」に特に焦点をおいていたが。ヘレンケラーとの関連で言えば、私にとっての「光」である。
それから一つ一つの個々の授業作りが始まる。そして、このときから初めて漠然(ばくぜん)とした罪悪感から逃れられ、一つ一つの授業に取り組むことができるようになった。しかし、漠然とした罪悪感から逃れても、具体的な一つ一つの授業として一応満足できるテーマは1年にヒントを含めても多くて2~3本あれば上出来なのである。現在まででも10本くらいしか見つかっていない。(もっとも義務を果たせる教材・テーマはその数倍見つかるが)。しかも、その完成に数年かかる。
そのためにすぐに完成した訳でなく、このときは罪悪感というよりは、予備校という職場だけに授業に失敗すればこれで生徒との縁も切れるかという、一抹(いちまつ)の何とも言いようのない感情を覚えた。首を覚悟でプリントをまくなど、単に首になるのがいやだった訳(わけ)ではない、人との縁が切れることへの思いである。そのいきさつについては第Ⅱ部で述べた。だが、ともかく社会科(「政経」)の授業全体の導きの糸を見つけられたのは駿台という“場”のおかげであった。
“場”というのは生徒たちの心の中の声――本人も気づいていないかもしれないが――の全体の叫びであり、アンケートの結果でも、個々の生徒の声の総和でもない。これが教壇によれば感じる所がある。女子高校でもこれは一定あったように思う。ともかく、駿台でも一定納得したのは84年度前半の半年間だけであった。というのも、既に何度も繰り返し書いたように、そのうち英語・日本史・政経の掛け持ち、さらに模試作成(駿台模試作成、進研模試監修)などがあり、時間的に限界となるばかりでなく、つまらぬトラブルにより精神的にも限界となったからである。
《◆-3:今、目指すもの:英語の導きの糸-『こころ』との出会い》[この短大にて]
《◆-3:今、目指すもの:英語の導きの糸-『こころ』との出会い》[この短大にて]
短大(ポリテクカレッジ岡山)に話を戻すと、駿台に集中したため時間的余裕がなかったことと、「英語全体の導きの糸」を全く思いもしなかったため羅針盤(らしんばん)がなく第8章シュバイツァーの箇所で書いたような結果となってしまった。ともかく、英語とは先の第8章で書いたように少し時間をかけテキストを探し、少し背景をプリントし、概略を解説し、生徒に訳させて、構文・文法その他の解説をし、そして時には関連の映画かビデオを上映すれば事足りると考えていた。
しかし、これはどこかがおかしいという思いが常にあった。例えば、社会科では、『世界の歴史』全16巻を全て読んで、コンピューターでノートを取っても話す内容は全部でも10分もないこともある。社会科ではそうした努力をして授業をつくろうとしているのに、英語ではこれで良いのかと、英語の授業のことをいろいろと考えた。しかし、先に述べたように他の仕事の超多忙さと、更に、“場”から迫ってくるものを、この短大では一期生以外ではほとんど感じなかったため、先のような授業をしてきたのである。
1988年1月に駿台を辞め、短大にも本格的に取り組むことが可能となり、その翌年からかなり授業に取り組んだが、“導きの糸”がなかったためやはり行き当たりばったりであった。その後病的に気力が失せるという不可思議な数年を経て、1994年からやっと気力を取り戻し、本格的に授業づくりを目指そうと再々度考えるようになった。そして、この1994年に偶然にも英語の全体を貫く導きの糸(「英語とは“心”である」)と出会うことができた。思えばその出会いまでに十数年の歳月を要した。
その切っ掛けとなったのは、英語の教材として新約聖書を求めていたときに、ある教会での外国人牧師さんと出会ったことである。無料で本を頂いたにもかかわらず、英語で十分なお礼と用途を説明できなかったため家に帰り大いに後悔した。
そして、どうすべきかを考えた。その結果、礼状を書くことにした。その礼状作成中に、悪戦苦闘しているさ中に、言葉を学ぶという意味が突然分かりかけてきた。私にすれば‘ひらめいた’ように感じた。{そのいきさつについては11章ヘレンケラー(1)参照}。
『ヘレンケラ――闇から光へ』との関連で言えば、ヘレンケラーが言葉を学ぶことによって得たもの、及び同じく11章(4)の資料ー1の「野口英世の母の手紙」に私の目指そうとするものの中に導きの糸の一端があった。(後日どこかで詳細説明予定)。あとは、これをどう教材にいかすかを考えながら、個々の授業のテーマを見つけなければならない。
そのためには、「英語授業全体の導きの糸」のもとで、個々のテーマをひたすら探し、一つ一つのテーマとの出会いが必要となってくる。
‘良いと言われる授業’は目指してもいないし、できるとも思わないが、自分の義務が果たせるもの、更に、そのテーマに自分がどのくらい強く引かれ、どのくらい熱を込め・どのような思いをして作り上げ、どのような思いで・何のために人に伝えようとしているのかを、振り返ったときにいつでも思い起こすことができるようなテーマとの出会いを辛抱強く一つ一つ求め続けていきたいと考えている。
そうした心を駆り立てるものを求め続け・作りあげていくという、こうした気の遠くなる課題を可能にしてくれるのが、私にとっては“場”であり、“場”しかないのである。“場”からの見えぬ声に応えねば……。というよりも、本当の“場”があれば、何としても成し遂げねばという思いが、これでもか・これでもかと押し寄せ、テーマを探し・作り続けねばという気持ちを引き起こすのである。そして、それが一つ一つの本当のテーマとの出会いを手助けし、多くの勘違いから誤った方向へ進むのを防いでくれる。“場”とは言うまでもなく「人」の集まりであり、もうこれ以上授業で「人」を失いたくないからである。
だから本当の“場”で心・技・体も始めて備わる。ともかく、今は“導きの糸”と出会えたので一つ一つのテーマを(たとえ方向に誤りが生ずる場合があっても)できる限り求め続けていかなければならない。
《◆-4:授業を求めて。私にできるもの、それはただ一つ自分の全てを投げ打つこと》[今後]
《◆-4:授業を求めて。私にできるもの、それはただ一つ自分の全てを投げ打つこと》 [今後]
1988年1月に駿台を辞めてから、今日までを振り返ると1990~93年までの“無”の期間を除いたとしても何も書くことがない。この間、一部進歩した面があるかもしれないが、失ったことが余りにも多すぎた。そして、今、この文章で過去を振り返りつつ原点に戻る準備をしなければならないと考えている。以前は、今まで書いたように細かい技術でなく、私自身を投げ打っての授業であった。即ち、授業というか教材が私自身そのものだったのである。1984年頃の駿台では心・技・体のうち少なくとも心と体はあった。今、そうした授業は無理かもしれないが、少なくともその準備はしなければならない、と考えている。
その試みの一つが、過去の授業一つ一つと自分との出会いそのものを教材化した、この前期教材『求め続けて』である。そして、もう一つが地の声を聞くことである。即ち、「こころの英語」を目指して幾つかの地を訪れることである。簡単に言えば、今までの、そしてこれからのFIELD WORKの利用である。それは、英語そのものであるばかりではなく、「戦争と平和と人間に想う」や「歴史の叫び」「歴史に“人”を見る」「民主主義を受け入れるこころ」「草の根の日本の美」「旅のこころ」等を求めて地に足を運ぶことである。しかし、それらは主として英語関連の授業で展開され、また「こころの英語」のために行うものであり、後期教材『旅に心を求めて』の中で既に一部教材化しつつある。
ただし、先に自分自身が教材と書いたように、それらの全ての面において、そこに自分が存在していなければならない。プリントはもとより、写真にいたるまで。それらに、私の性格と想いとそれに向かっていく過程が、そして何よりも一つ一つの授業への想いが存在していなければならない。(FIELD WORKと言えば聞こえが良いが、こうしたことのために正月返上は構わないし、また、1993年12月14日から今日まで休日ゼロ、ひょっとすると休憩時間もゼロかもしれないが、それは我慢できるとしても、食事がまともに取れないことなどは避けたいし、英文の本を始めとして溜(た)まった本等を読みたいと思う以上に焦りすらを感じる場合もある。これらが、私が目指そうとする授業への準備である。ただ残念なことに、この前期教材を始めどんな教材でも授業でも、一連の完成にはどんなに早くても3年を要するのである。だから、それまではその都度の(完全ではないが、できた)教材と途中経過を報告し、私の取り組みそのものを見て貰うしかない。
だが、一番重要なのは、授業そのものに、授業中に私そのものが存在しなければならない。もっとも、そうした“場”がなければそれは無理である。私の性格を反映させる授業でなければならないからである。私の性格を反映できる授業とは、授業とは真剣勝負の場でなければならず、しかも他の真剣勝負とは異なり、余分な駆け引きとか、そういった不純なものが一切存在してはならない。正に真実そのものでなければならない。それは、私にとっても恐怖である。逃げ場がないからである。ただし、その場合には生徒・学生にも逃げ場があってはならない。少なくともその姿勢だけはなければならない。
難しいことは言ってはいない。こうした場は本来の姿に戻れば、数多く存在しているはずだからである。ともかく、今はそうしたときが来ることを念じつつ、そのときのための準備と現在の授業の責任を果たすことに全力をあげよう。
振り返ってみると、駿台京都校時代には自然と考えていた、プリントの件一つを思い出しても、忘れたといえば何とかしてあげようという心とか、人を・生徒を信頼するといった心があった。それらはこの短大授業の中で、いつのまにか薄れつつあった。だから、いつのまにか得るものよりも失うものの方が大きかったような気がする。私の授業の成立にはそれらは不可欠だからである。
この先には(できれば「“こころ”の英語」に少しでも近づきたいと考えている)後期英会話、更に将来の(まだ見ぬ)“美しき世界”が待ち受けている。従来の(社会科で見つけた)導きの糸“人間”につけ加え、(英語で見つけた「心の英語」、即ち)“こころ”という導きの糸に従って前へ進むことにする。尚、私にとって授業を作るには、“求める心”と本当の“場”と打ち込めるだけの“時間”が必要条件であり、“(授業全体の)導きの糸”と個々の「テーマ」との出会いが十分条件である。それを確保するよう努力もしなければならない。
【1997年追記】最後の後書きに簡単に記したが、1985年以来授業をして楽しいと感じたことは一度もなく、また1988年以来授業との戦いは休止状態となっていた。授業に燃えることも、苦悩することも、興奮することも過去の遺物となっていた。だが、授業は“生き物”である。条件が許せば再度授業との闘いに挑まねばならない。
項目 | 掲載日 | 備考 |
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第8章シュバイツァー・4節 | 2018年3月1日(木)~2月28日頃 | |
第9章キング牧師・4節 | 2018年4月12日(木曜日)~月日頃まで | |
第10章チャップリン・4節 | 2022年2月3日(木曜日)~3月22日頃まで | |
第11章ヘレンケラー・4節 | 2022年3月23日(水曜日)~月日頃まで | |
第3部補章―3・(1) | 2022年9月7日~月日頃まで | |
第3部補章―3・(2) |
2022年9月17日頃?~月日頃まで | |
第3部補章―3・(3) | 2022年9月27日?~月日頃まで |