『求め続けて・第三部』の補章の構成
第Ⅲ部の補章
(1)1994~95年記述(2022年は誤字脱字程度の修正)
―授業を求めて(授業をまだやる気があった頃の文書)
(2)2007年記述(1995年途中からの再度の職員を含む学校の乱れの中で)
―蛸部屋・強制・無料・貢ぎ労働被害への怒り
(3)2022年記述(現在の視点から見た分析結果)
―機構の詐欺疑惑とXグループの執拗な営業妨害の結合
今回は(2)の公開である。
下記の(序)―追記1~3の概況で(序)のみは前回と同一である。その後の《◇―1》の箇所からが今回の内容である。
(序)第Ⅲ部補章―1~3の概況・この箇所・(序)は補章3の(1)(2)(3)毎回同一である。
覚えている人は次の《◇―1》から御覧いただきたい。
第三部は「ポリテクカレッジ岡山」(現・能開大中国)時代である。
補章―3(1)は、原則として1994年~1995年4月にかけて記載したものである。1993年末に鬱病(うつびょう)を激しくした状態から大吐血のショックか何かで奇跡的に頭が機能しだす。当時に、1988年~93年のポリテクカレッジ岡山の被害を忘却しており、更に、1994年度は学生が珍しくまともであった。そこで、再起をかけて、きっちりと授業に取り組もうとした時期に書いた補章である。
補章―3(2)は、1995年から再度労基法違反、及び各種契約違反や職員のルーズさからの被害の嵐となると同時に、学生の乱れも開始し、同時に、どうみても、私が教員モルモットにさせられ、強制・貢ぎ・監禁労働の被害に遭(あ)っているとしか思えぬ状況となった状態の記述である。それを2007年に書いたものである。
その結果、本来四クラスで同一授業をすればよいものを(クラスにより全く違う学力・授業態度状況の演技をされたため)各クラスごとに内容を変更を余儀なくされたり、各種悪戯その他の実験をさせられたり、それを私が裁判官の如く、判定を下させられる(全て無料労働である)。
私が出した判定文書などを、当時の学生は奪い合うくらいに(浜田隆政先生ならば自分の学校の先生と異なり、どういう判定をするだろうかと言わんばかりに)殺到してとっていた謎もある。こうして、時間外の無料労働を強いられる。無視しようとしても返答するまでしつこい挑発をしていた。同時に、事務所かどこかで他の学校の教師がその模様を観察していた気配もあった。これでは、賃金を含む労働契約が全く異なっており、戦前の蛸部屋労働、強制連行被害と同一ではないか、と怒り記したのが補章-2である。
補章―3(3)は最近の新たな事実を元に、今、ポリテクカレッジ岡山の乱れと私に貢ぎ労働をしいた謎の探究中の事項である。
授業の妨害が大きくなったのは1986年駿台大阪校に移動してからの駿台大阪校時代からである。だが、1984年後半から授業をまともにするのが困難な状況におかれつつあった。
謎を解く鍵は、1985年頃映画説が強調され、映画通であった藤村先生にあるかもしれない。この先生の名を某教師が「とうそん」先生と呼んだ謎がある(間違えて読んだ講師は京大で博士号を取得しており、斯様な単純な名前の読み間違えミスはしないため、故意に言ったのであろう)。島崎藤村の「とうそん」である。さらに、1987年の大阪校では意味不明の差別文書を手渡される。
▽
どうも、今考えると部落問題などの差別が絡んでいる気配を感じている。勿論、私にはその種の心当たりはない。亡き友人は「浜田さん、誤解や・勘違いではなく人間違い」と言い切った(2012年4月)。更に、駿台辞職(1987年1月末か2月上旬)後に、その友人の結婚式に招待された。1987年3月である。そのときにその友人の叔父さん(税理士)が別人と入れ代わり、偽者が原因との暗示を受けている。
そして、このグループによる、営業妨害問題(攪乱部隊)が何度も起こったことなどを追記することになる。具体的には、(犯人)Xなどが学外の人間を金で雇い、ポリテクカレッジ岡山に彼らが侵入して無法を働いた疑惑である。名前は、本当の学生の名前(長期欠席学生などの名前)を使用して授業破壊(1989年授業中の漫画読み、1997年の体当たり行為…)をした疑惑である。同時に、本当の学生の何人かもバイトとして、授業中に各種工作をさせ、更に職員の一部も、飴と鞭で、私に対して労基法違反・契約違反などをさせて、故意に被害を与えていた疑惑である。違法行為該当職員が、後に全員出世すると同時に、天下り先も確保されている謎もある。
Xらによる策動は、ポリテクカレッジ岡山辞職後も、私が仕事で再起可能の可能性が出てくるや登場して、営業妨害と仕事潰しをし続けて今日に至っている。
ポリテクカレッジ岡山以外の箇所は拙著『日本のフィクサーME』で、その妨害の激しさを紹介することにする。近々記述する『日本のフィクサーME・パート2』第2章でも一部登場してくる。
また、ポリテクカレッジ岡山(労働省所管・雇用促進事業団運営)の同事業団は当時、教育産業に軸足を移すため、5千人の職員の生活を守るため、私をCMとして、最初から専任にする意思がないのに、専任前提で招聘(しょうへい)した詐欺疑惑の可能性が高くなっている。これらも、補章―3で紹介する。
補章―1は純粋に教育学的視点からの記述であり、補章―2は蛸部屋・監禁・貢ぎ労働被害の告発であり、補章―3は国家による特殊法人・独立行政法人を拡大するための詐欺とXグループによる、各種策動被害が結合した視点からの記述となる。
以下が、2007年初頭に記した本文「第3部補章―3(2)」である。
《◆ー1:》[]
《◇―1・ポリテックカレッジ岡山(岡短)について》
岡短時代も全貌(ぜんぼう)が判明してから、きっちり記すことにするが、今回はメモ代わりに簡単な解説をしておく。この学校の紹介をまずしておく。
最初にポリテックカレッジ岡山という学校の紹介をする。この学校は労働省所管、特殊法人雇用促進事業団の大学校・短期大学校の一つである。主として雇用保険料で運営されている、いわば労働省系大学校と言ってもよい。母体は岡山高等職業訓練学校である。一九八三年四月に改組され岡山職業訓練短期大学校となった。所在地は岡山県倉敷市玉島である。しばらくして改称し岡山職業能力開発短期大学校(別名ポリテックカレッジ岡山)となり、現在は中国職業能力開発大学校(略称「能開大中国」)と名称を更に変えた。
短期大学校時代の通称は岡山短大と言っていたが、最近全く別の大学で岡山短期大学(略称岡山短大)という学校ができたため区別をつける必要上岡短と略すことにする。私が辞職した後で、労働省は厚生労働省となり、特殊法人雇用促進事業団(以下「事業団」と略す)は独立行政法人雇用・能力開発機構(以下「機構」と略す)と名称を変えた。{拙著『閉じた窓にも日は昇る』第3編12章より}
(2022/09/20追記)
2011年(平成23年)10月1日 に 「独立行政法人雇用・能力開発機構法を廃止する法律」(平成23年法律第26号)の施行により、独立行政法人雇用・能力開発機構は解散した。実際には、能開大グループは分かれ家の「独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構」に移行しただけであった。なお、独立行政法人高齢・障害者雇用支援機構は独立行政法人雇用・能力開発機構から職業能力開発等の業務の移管に伴い、独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構に名称変更した(2011/10/1)。
簡単に本質を記せば、駿台時代に岡短から専任確約で招聘(しょうへい)され、そして駿台を暴力で追放され、その結果岡短に監禁され強制・貢ぎ労働を強いられたことが全てである。
教育・授業の世界ではなく、戦前の蛸(たこ)部屋監禁労働が本質である。闘争も、授業屋として授業の題材と闘争するのではなく、また第Ⅰ部の真備高校の如く授業を媒介としながら生徒と闘争するのでもなかった。格闘技でいえば、闘争相手と戦うのではなく、格闘技のルールを巡る戦いでしかなかった。わかりやすい例で言えば、プロレスラー・アントニオ猪木とプロボクサー・モハメッドアリの異種格闘技があったが、リング上の戦い以上にリング外でのルールを決める戦いの方が熾烈(しれつ)であったときく。
私の場合はそれ以上であった。
あるいは別の例で言えば、プロレスラーやプロボクサーが格闘技者として相手と戦う以上に、報酬問題を巡って戦ったのに等しい。こうした場合、通常、彼らは新団体を起こすが、私の場合には人権剥奪(はくだつ)と病により、新団体を起こすことも、他の団体へ移動することも封じられたのである。
リング上の戦い(授業を巡る戦い)ではなく、リング外の戦い(労働条件を巡る戦い=※1、人権剥奪(はくだつ)を中止させる戦い)に明け暮れた時代であった。抵抗しても無駄な場合が多く、よって、ガンジー、キング牧師同様に非暴力・不服従という形で、最後に述べるように絶対に自分の授業の全ては見せないと誓い、十年の長きに亘り、それを貫徹した時期が岡短時代である。
詳細に記した物としては、拙著『恐るべき労基法違反・2004年版』、『閉じた窓にも日は昇る』(特に3章と4章)、『親方日の丸』(特に第5章)などがある。
※1:専任確約で招聘しそれを実行しない。働き盛り(35歳~45歳)の年収は40万円台であり、約3年のみその倍であった。それ以前の岡短からの所得はもっと安く、完全大赤字であり、駿台で儲けた金を短大用投資に回していた。その上で、駿台辞職後は膨大な労基法違反の嵐と不法行為の嵐があった。まさに地獄の世界であった。生活は当然、老父(93年79歳で死去)・老母(07年現在88歳)からの援助と姉からの借金などで食いつないでいた。短大から得た金よりも短大に貢いだ金の方が多く、短大から得た金よりも、身内からの援助・借金の額の方が大きかった十年間であった。
この期を時期区分しながら、各時期の本質と状況を解説しておく。大きく分類すれば駿台中心であった岡短前期(83~87年)と駿台辞職後の後期(88~97年)となる。
後期は、さらに第1期(88~89年)、2期(90~93年)、3期(94~97年)である。岡短時代は、原則として、後期(88~97年)を指す。今回は、簡単に記述し、全貌(ぜんぼう)が分かってから記述の機会ができた時に丁寧(ていねい)に記述することにする。
《◇―2・岡短前期――83~87年》
《◇―2・岡短前期――83~87年》
前期(1983~87年)は、更に一期生(83年度生)とその後の学生(特に85~87年度)に分類できる。前者は本文で述べた如(ごと)くやる気のある学生が一定数いた時期であり、懐(なつ)かしい思い出として残っている。後者は徐々に肩書き志向の学生がふえつつあった過渡期である。だが、私が駿台で金を稼いでいる関係で、事務員は私に対して非常に丁寧であり、それを反映して学生も逆らったり、授業妨害の類(たぐい)をしたりする学生は皆無であった時期である。
私の方は、85~87年度は既に述べた駿台での超多忙及び諸トラブルなどで駿台中心時代であった。但し、それでも通常の講師並みのすべき事はきっちりとしていた。兎(と)も角(かく)、短大は無のような存在であり、授業内容以外での学生対策での苦労などは一切存在していなかった。精神的には短大は楽な時期であった。
この時期は、駿台で多忙であり、岡短にゆくゆとりはなかった。しかし、専任条件で招聘(しょうへい)されたので教壇にたっただけである。こうして岡短の教壇に83年創設と同時にたった。ただ、途中で専任はお預けで暫くは非常勤講師で来てくれとなり、専任を餌(えさ)に駿台で儲(もう)け、岡短への貢ぎ労働を強いられる。
岡短の労働条件は初年度(83年度)時給約2200円、百キロ未満は交通費なし、祝祭日・休日・冬春夏休み賃金無し、有給休暇なし、一時金・ボーナスなしである。
試験採点料・作成料・書類記入作業は試験日に何もしなくてよいのでその分とのバーター、即ち一日分の授業該当賃金のみ(既に記したようにこの約8年後から契約違反され事実上賃金分不払い)、レポート採点、追試作成費等取り決めなく事実上賃金無し……であった。
私の実家は岡山県の県北に位置する美作であり、岡短までは厳密計算では99・8キロで交通費無しとなり、序章で述べた如く、授業料から(田舎のため最寄り駅6キロまでのタクシー代を含む)交通費を引き、さらに昼食代なども引けば完全に赤字である。これと別に教材費や授業用研究費が必要であり、それらは全部自腹のため更に赤字が増大する構造となっていた。
ちなみに、片道93キロの人でも飲食費を引けば赤字である(ただし、88年駿台辞職後実家へ戻った際には、交通費は支給されたが、99.8キロをどう解釈するかはきわどく、担当者の機嫌を損じていたならば無支給であったかもしれなかった)。
駿台の方は、岡山市でも県北の実家でもどちらでも良いという条件であり、通勤時間は同一か、高速バスがあるため大阪校などでは実家からの方が短い。そこで、実家の場合には家賃・光熱費・食事代などが不要のため、(実家の建て替えの時期のみ臨時用の岡山の仮住まいに荷物を置き)後は実家に戻る予定でいた。
岡山の予備校・進研予備校でも教えていたが、人情出講するとしても、こちらは出講日を選べるため月曜午前に授業をすれば(自家用車をここに数日置き)、しかも岡短と異なり岡山駅近くのため新幹線で駿台京都校や大阪校へ出勤可能であり、進研予備校の方は問題なかった。
だが、岡短が実家に戻る上でネックとなった。84年度を例にとれば駿台で月曜から木曜まで授業、金曜も質問日で京都(いずれも京都のホテル泊)で金曜夜帰宅となる。そして、岡短は岡山県倉敷市といっても広島県福山市に近い位置にあり、授業は土曜午前8時45分開始を割り当てられた。土曜の昼からは進研予備校で授業である。すると金曜の深夜実家に帰り岡短の教材研究を午前3時過ぎまで行い、土曜午前4時頃起床で、午前5時半に家をでなければならず、体力的にも無理があった。
勿論、この時間では田舎の実家では自家用車以外に交通手段はない。しかも、土曜も岡短などの授業のため夜帰宅となり、駿台の教材研究は日曜のみしかできなくなり、これでは仕事にならない。そこで、実家に戻るのを止(や)めて岡短用に荷物が十分おけるアパートへ移動した経緯がある。
実家を拠点にするのと、岡山市にアパートを借りるのとでは家賃・光熱費・食事代その他で年間120万円ほど違いがあり、1983~87年合計では、これらのみでも600万円以上岡短に貢いだ事になる。しかし、後に見るように貢ぎはこんな物でもないし、こうした次元でもない。
岡山市に短大用アパートを借りると、交通費は無支給であり、往復1000円程度自腹のため正式な実質賃金は「(年俸―教材費―交通費の一年分)÷(年間授業時間合計+試験採点・作成や雑務時間合計+年間教材研究時間・教材資料収集時間合計)=実質時給」である。
教材費・消耗品代をあり得ないが0円と仮定してすら、この方程式から出る数値は完全に最低賃金法の基準を割る。実際は消耗品・教材費等で上記600万円とは別に毎年大赤字となった。岡短から得る金よりも、岡短用に、岡短のために使う金の方が遙(はる)かに多かった。これらの費用は駿台から得た金でまかなっていた。因みに、専任前提でなければ誰が行くかである。英語で教壇に立ちたいならば、当時は、進研予備校があった。結果として詐欺(さぎ)にひっかかったことが事実である。
《◇―3・岡短後期・1期――88~89年》
《◇―3・岡短後期・1期――88~89年》
後期(88~93年)駿台予備学校辞職(1988年2月)以降である。
後期1期は駿台辞職と同時に何もかも変わり、労基法違反、不法行為の嵐が本格化した時期である。まず、職員が大きく変わった。労働契約にない仕事を無断で、しかも無連絡で押し付けてきだした。無連絡のため、仕事に穴の開く危険性などが頻発した。
労基法上支払わねばならぬ賃金も無支給という事件もあった。『求め続けて』に記した教材集めに苦労し、交通費自腹・宿代自腹・調査費及び調査用通信費自腹で賃金や出張旅費無しで集めた教材も、一部でも短大が費用負担していれば精算抜きで没収される暴挙も行われた。
これらに対応して学生の態度もガラッと急変した。
もっとも大きかった事件は、89年1月の単位認定権剥奪(はくだつ)事件であった。88年秋頃小幡係長に再試をこの年度はしない趣旨の相談をする。学則上、再試するか否かは講師の権限であり、学校の許可はとる必要はなかったが念のため取ったにすぎない。小幡係長は「先生のお好きなように。(問題ある学生は)どんどん落として構いません」と正式な学校の回答として合意した。当然、学生にも事前に再試をしない趣旨の宣言をした。こうして88年度後期試験(89年2月)では不合格者約20人の単位認定をしない事にした。
ところが、その直後に岡短の前田課長等数人が我が家まで来て首脅しの下で再試の強要を行われた。即ち単位認定権剥奪(はくだつ)である。もう翌年度の結論は分かったであろう。次年度の学生が入学し、学校に慣れるに従って2年生から1年生に伝わっていく。
あの講師は「再試をせず落とすと言っていたが、(課長等に脅され)再試して全員通した」と。学校の圧力があったことすら、他の講師等を通して情報をキャッチした学生が後輩へと伝えていく。
同じ良くないのでも学生→担任→私への相談ならばまだ被害は多少軽いが(担任が責任を感じて再試実施と引き替えに学生の後始末を一定するため)、学生→担任→課長→私の場合にはもうおしまいに近い。課長→私では尚悪い。
以前勤務した真備高校などではそうした事は非常勤も専任も一定想像がつくはずである。その結果、次年度生がどうなるか。もう結論は出ていた。教育の世界の人間ならば、こうした圧力に屈して、再試をしないと宣言した再試をし全員通すと、学校は、自分の担当する授業はどうなるか誰でも分かる。実際、89年度実証をすることになる。
少人数語学の授業にも拘(かか)わらず、私語の凄(すご)さは短大創設以来最悪の域に達した。そして来るべき時が来る。89年10月頃、後期英会話の授業中に私が配付したプリントを学生にやらせ、順に当てていった時に、当てられた学生が平然と机に漫画か週刊誌を広げ、質問を無視し答えないという事件が起こった。英語のプリント問題を当てても「分かりません」とも答えず、一切無視し堂々と机に出した漫画(雑誌)を読み続ける。「雑誌を読むのは止(や)めなさい。そして、プリントの回答をしなさい」と何度注意しても一切無視である。
やむなく、「出て行け」と退出命令を出したが、それも無視し、出ていかず漫画か雑誌を読み続ける。幸いに、私は既に記したように腕力は極端に強かった。しかも、87年末から相当鍛え直していたため89年35歳時には、47歳の体力測定時よりも腕力は遙かにあった。
この学生レベルなら多分片手で引きずり出せた。この時に、この学生が突っかかってくれば、後に病気にならなかったかもしれない。自惚れかもしれないが、できればコテンパンに叩きのめす事も可能であったかもしれない。だが、それもしない。相当怒鳴り回ってやっと追い出した。これで、急に気力がなくなったというよりも気が抜けた。というのは、当時の状況からこうした学生が続出する事を警戒していたからである。更に賃金を貰った時には「これだけしてこれだけか」と、なお気が抜けた。
この事件の一箇月後の11月に大吐血(十二指腸潰瘍)で約40日入院する。この後10年余りこの吐血問題・内蔵問題だけを心配していた。だが、岡短辞職後「機構」と交渉する中で病気はより深刻であったことが分かった。というのも、退院して1~2箇月後から記憶力がだんだん失われてゆき、文献も読めなくなり、突如腕力も消え失せるという奇妙な状況が4年間も続いていたからである。鬱(うつ)病というよりは精神面の重い病気と思われる。1食1合以下の食事量で特に後半はダイエットし、一日食事を二回にするなどしても60キロ位の体重は4年間で80キロ近くに増えた。
なお、入院中、医療費はもとより賃金も一円もでなかった。勿論、見舞いどころか、体調を気遣う言動も一人もしてこない。逆に面倒なことをしてくれた、授業の穴をどうするのか的な態度であった。まさに、戦前の『女工哀史』か『ああ、野麦峠』の世界である。専任確約でスカウトし、最低賃金法の基準以下でこき使い、病気をすればお荷物と。さらに、拙著『親方日の丸』や『閉じた窓にも日は昇る』に記した如く、年収2万円台(月収二千円台)という脅しも受ける。
ここまでが岡短後期1期(88~89年度)である。
《◇―4・岡短後期・2期――90~93年》
《◇―4・岡短後期・2期――90~93年》
後期2期(90~93年度)は意識の後退期である。
90年初頭から急に前途不安で仕事を探しまくる反面、急に気力・知力の減退に拍車がかかり文献や新聞が一切読めなくなる。当初相当抵抗するが力尽き以後4年間1400日余りで文献が1冊も読めなくなる(新聞も同様)。90~93年秋まではダイエットしても体重は異常増加し80キロ位まで増え、知力・気力・暗記力は喪失し、終始寝床願望の日々となり、将来に悲観し生きる屍(しかばね)の時期であった。人生において“空白”の時期・生きる屍の時期であった。
しかも、この期間も労基法違反だらけであった。その典型が世取山清教務課長による労基法2条2項違反である。簡単に言えば担当駒数倍増週4駒・年収約80万円台の労働契約を双方で締結したが、授業開始直前に週2駒年収40万円台に理由も告げられる事もなく突如変更された事である。何が何か分からず、学生数の大幅減少のせいか等思いつつ入学式に行くと、学校全体の授業は週2駒(こま)から(4駒ではなかったが)3駒に増えており、増えた1駒は私と同姓の浜田という新任講師が担当していた。
某人物から同姓のためミスをし両者と契約(ダブルクロス)しその後始末をせず、そのまま授業に突入した等を臭わされた。しかし、労働契約とか年収は人の命がかかっている超重大問題である。憶測では話にならない。今からでも、丁寧な解説・謝罪・償(つぐな)いのこの三つをして貰(もら)わねばならない。
当然、本来は、当時すべきことであった。私の方は、当時は怒り心頭であったが弱い立場で何も言えなかった。同時に精神の後退期でもあり、適正な抗議能力は病気で欠如していた。この時の心労・金銭苦より90~91年の2年間治まっていた腹痛が徐々に再開する。また91年度潜り込めた河合塾講師のバイトも92年度は岡短との新労働契約(担当授業時間倍増)を私の方は遵守していたため失う。
こうして、92年労基法違反で仕事量契約の半分・予定年収も半額→急いでバイトを探すが見つからず→心労→92年夏腹痛再開→92年10月要約バイト先としてN塾を見つける→11~12月にかけ腹痛激化→93年1月入院→93年3月N塾から病気の再発の危険性から自主退職の要請→93年4月短大授業開始後に学校全体では英語が100分3駒が5駒に増大していたが、私は92年度4駒契約を2駒に突如削減された経緯があるにも拘(かか)わらず93年度も2駒のままであり強い不信感を課長に抱く→93年度前半バイト探し→8月父死亡=80歳近い父の年金寄生生活のため金銭の危機→そして、10月についに24時間連続大吐血となる。(そして、60日入院となる)。
兎(と)も角(かく)、この時の労基法違反被害のため、お金の事で悩み仕事探しの心労により92年末から腹痛の再開・激化と続き、体調は悪化し続け、中学生の甥と腕相撲して負けかけ中止するなど腕力も筋肉も喪失していた。快復期の47歳[1999年]ですら当時の甥が大学生になっているが腕力は比較にならず私にあるのに。だが、皮肉にも93年秋の大吐血のショックが、医学でいう脳への電気ショック的効果を持ち、私の脳が奇跡的に回復をした。4年ぶりに人間の世界に戻ったと考えた。
《◇―5・岡短後期・3期――94~97年》
《◇―5・岡短後期・3期――94~97年》
後期第3期(94~98年1月)は、94年に知力などが戻り、求め続けての再開から再度労基法違反で頭をやられ精神が疲弊し廃人への道を歩み続ける一歩手前でドクターストップとなり岡短を辞職した98年1月までの時期である。
94年度に関しては、学生がかなりまともで、昔の駿台を思い出す雰囲気があった。労基法違反は続いていたが、それでも嘗(かつ)てよりは減っていた。そこで、再度の出発となった。同時に意識が回復するや88~93年度に受けた、残虐(ざんぎゃく)かつ卑劣な行為を逆に忘却していたこともある。
この頃に、『求め続けて』第三部及び第11章ヘレンケラーを書いたのである。第三部のテーマ・心との出会いもこの頃であった。しかし、教師は霞を食っては生きていけない。次年度からそれを証明することになる。
だが、95年3月6日にまたも労基法2条2項(労働契約の遵守)違反が勃発する。これで言わば一発で脳震盪(のうしんとう)を起こす。医学的な憶測をすると、前頭葉(ぜんとうよう)か何かを破壊された疑いが強い。治りかけてまだ一年目のため、まさに一発で再度やられたのである。事件の経緯は以下の通りである。
95年度より週2回(4駒=400分)と口頭で労働契約を交わし、その後に学校長調印(3月1日印)のある労働契約書まで送付されてきた後で、3月6日に事務員藤井氏から週1回(2駒=200分)にすると、変更理由も告げず一方的な電話通告があった。
生活問題を理由に労働契約の遵守(じゅんしゅ)を要求しても、「今まで(年収40万円台)で生活できたならば今後もできないはずがない」の繰り返しで、激論の挙(あ)げ句(く)、電話は切られた。
推定年収90万円程度の労働契約がその半額の年収40万円台になった事を意味する。私はこの時点で百パーセント労働契約を遵守してもらいたいし、変更は生活上不可能と明確に主張した後で、週1日にすると言われ電話は打ち切りとなっている。よってこの時点で労働契約違反があったという事である。かつ、言い方が強硬・横柄な事も怒りに拍車をかけたが、先に述べた経緯がさらに怒りに火をつけた。
今度は98年辞職まで、体重は痩せに転じ退職時には55キロまで痩せ、内蔵はむかつき・軽い吐き気・胸焼け・不快感が始終起こり、精神面は頭の麻痺(まひ)・自己意思分裂(対立)現象・自己意思急転現象・頭の痺(しび)れや白紙化状態が車運転中にも起こり、約6度交通事故の危険に遭遇し、ついに一度は本当に事故に遭う。
この事故は私の実家500メートルの所で起きたにも拘わらず、事故前より記憶喪失状態になっており、事故現場が分からないというような始末であった。《補償―2・追記―2への追加解説》参照。
また訳の分からぬ文章書き抑制不可能現象も起こる。さらにはテレビがこちらを見ているとか、女優西田ひかるが私にアプローチをテレビの中からしている(通常は妄想と解される事項)も進行していった。
勿論、労基法違反や不法行為は95年3月6日のみではなくその後も連続して進行し、同時にそれが学生の行動にも悪影響を与える中で、それらに合わせて病状も再度悪化していった。“おしん”の如(ごと)く長年の不満と怒りが蓄積していれば尚更である。
因(ちな)みに、93年12月から95年3月5日迄は体調悪化の記述は毎日の日程表に一切ない。以下、あと一歩で廃人への道の流れを拙著『閉じた窓にも日は昇る』より――人間の精神が疲弊してくる様子の参考資料も兼ねて――少し長いが抜粋する。
学生の方は、95年度生は前半はまともであり、後半ははっきり記せば、今日の高等学校か中学の如く、構って欲しい的な生徒が増大した。一見目立つ形で私の気を引き、構って欲しいというねちねち型が一部に増大した。だが、半面真面目な生徒も多少はいた。
96年度は、叱り続けて、学生を完全に大人しくさせたが、私の目指す求め続けて型授業などはできるはずもない。
97年度は私の追い落とし的な刺客(しかく)的人物が登場してくる。刺客とは、恰(あたか)も芝居がかった、巫山戯た行動をしてきた学生及び職員である。もはや、97年度の無法さは職員の一部と学生の一部において垣根は存在していなかった。同列である。
よって、学生問題ではなく学校問題でしかない。これは、岡短がこのまま行けば4年生へ移行するため、その前に私を追い落とすための刺客の如しであった。そうしないと私を専任にせねば、誰が考えても明白な詐欺罪が生じる間際であったからである。同時に、森脇一雄課長の如く芝居がかった労基法違反ストーカーごっこをしかけられ、過去の労基法違反被害を過小に見せようとする動きが出てきた。
97年7月4日レポート小試験中に、学生Rが退出後に再度戻ってきて試験教室内で横になり漫画を読んだ。もう専任確約は撤回された所か翌年度は解雇の可能性が高かったため簡単に対応できた。この日は他の学生のレポート試験を中断できないため、次週を待ち、私も机の上に横になり数分漫画を読みながら授業をした。そして、「これで正気といえるか」と怒(ど)鳴(な)り、その後念のため、(相当な時間を掛けて作成した)プリントを配布し、この学生Rを含めて学生全員に読ませ、何故これが大問題なのかについて解説と説教をした。
学生Rは、自分の非をきっちり認め侘び、同時に私の後期授業履修禁止命令に対しても潔く従うと同意した事などから「単位不可、後期履修不可」を条件に水に流した。侘び、反省、同時に償いの実践、この三つで放免とした。
同年11月14日。
大学祭準備のために視聴覚教室に机などを借りに来た学生がいた。全体的に常識的なマナーで入室し、私も事情を聞いて視聴覚教室の机を出すのを許可するのみか私自身が手伝いもした。ところが、最後に入ってきたSは乱暴な口でかつ無理難題を言った挙(あ)げ句(く)に私に体当たりをしてくるという事件を引き起こした。
学生S(ぶっきらぼうに)「持って行けるだけ持って行くんジャ!」
私「月曜の昼一時から授業があるのでそれまでには持って帰れる?」
学生S(半怒(ど)鳴(な)り調子で)「わからん!持っていけるだけ持って行くんジャ!」
私「それは困る。月曜の授業で使用する学生分の椅子を残して持っていけ。それに誰に物を言っているのか。私は44歳で君らの父親位の年であろう。言葉遣いに気をつけろ」
学生S「うるせぇ(なー)……」
そして私に体当たり(=暴力)。体当たりは強くはなかったが、この学生を放置する事はできない。事務室に行くように求めた。
学生S「うるせぇ。何で行かにゃいけんのじゃ……」、という事件である。
解説はいらぬであろう。月曜の授業が不可能になる。私は教師で44歳。Sは学生、20歳か21歳。かつ人に物を頼んでいる立場である。暴力行為に及んだ以上、学生よりも問題が多い事務室へ連れて行っても(従来の学校の姿勢より)無駄とは分かっているが、已(や)むなく事務室へ同行を求めたが、「うるせぇ、何でいかにゃならん……」というのを相当怒鳴ってやっと事務室へ行かせた。
なお、事務所近くでも相当言い合っており、かなりの事務員や他の教師に聞こえたはずであるが、誰一人助けにも学生に注意しにも来なかった。特に本館一階の窓が開いており、教員らしき人間が相当いて言い合いが完全に聞こえていたはずである。
兎に角、事務所で、学校に毅然たる措置と岡短と無関係な人間ならば警察への引き渡しを要求する。まず学外者である。学外者が大学内に入り、教師に無理難題を言った挙(あ)げ句(く)に体当たりしたならば、通常は警察行きである。
しかし、当時一切事実上お咎(とが)めなしという処置がなされる。逆に、どう考えても学外生と考えていた私に、横山さんが「先生、学生を信じなさい。Sの写真を撮っては駄目ですよ」と撮影禁止の念押しをされる始末である。本来ならば、即座に調査し本当に岡短の学生かどうかの正確な(学生証提示及び短大にある学生の写真付き書類で)身元確認が必要であった。
万一、岡短生ならば教授会や教職員会議に該当するものを早急に開催し、この学生の処罰と学校全体の在り方の問題を徹底的に討議する義務が学校にはあった。勿論、学生の言い分があれば、私と学生の双方を同会議において事情聴取すれば良い。このときの対応は事務員の藤井氏が行った。
学生Sの言動及び態度が事務室ではコロッと一転した事、それ以上に学生Sが学外者としか考えられない。そこでどこから襲ってくるか不明となり、精神は授業中よりも登下校時に格闘技の選手の如く張りつめてていた。母親にも学校へ行く前に、毎回「私からは絶対に手を先に出さない」と念を押した上で、不測の事態(集団襲撃)に備え正当防衛権行使を念頭に登校していた。学校の不徹底な対応から、こうした超不安な精神状態に余儀なく置かれた。
学生RにもSにも三重に疲れた。
一つは該当学生への対応に、二つ目には学生全員に対しての警告文型プリント作成など家での労働時間の大変さで(もの凄い時間がかかる上に全く面白くない)、三つ目に賃金が出た時にはこうした膨大な仕事を家でさせられこの賃金かと気が抜けた。三番目が一番堪(こた)えた。
全学生にこの学生の件で問題提起と注意をし、学校を正すために何日もかけて文書を作成し・印刷し・配布し等で何日も潰され、ほぼ毎日朝から晩まで、仕事を学校でも家でもこれだけ強要され賃金換算は授業時間のみ。しかも安価で。賃金を見る度に疲労は倍増した。桁が幾つも違っているではないか、と。これ以外にも九七年度は様々な挑発で膨大な警告文書を記述させられていた。裁判所の裁判官が判決文を記すが如(ごと)くに。
しかも、学生問題にはこれで対応できても労基法違反や職員の不法行為には勝てぬ。誇張ではない。「私を通常の課長と思って貰っては困る。学生に対しても私が責任を持ち……」と豪語した森脇一雄課長はどうであったか。学生R=学生(まず学外者)S=(イコール)森脇一雄課長でしかなかった。森脇一雄課長に関してはコメント抜きで当時の会話のみ一部記す。
短大職員横山さんが印刷原稿類を両手から零(こぼ)れそうになるように持っているのをみかねて、私の勤務時間外であったが印刷を手伝う。森脇一雄課長が印刷室に来る。
森脇一雄課長「君(=浜田)、勝手な事をしたら困るじゃないか」
職員横山さんが森脇一雄課長を睨(にら)みつけ、「浜田先生に手伝って貰っているのです」、再度睨む。
森脇一雄課長「では君(=浜田)、特別に許可してあげよう」
課長が介入せねば手伝いのため無料でよいが、課長が許可した以上、残業でしたことになるため、賃金支払いが必要となるが一円も支払われていなかった。
拙著『Dorothyと一〇人の出会い』、『旅に心を求めて』の両テキストが九七年度だけは業者委託の簡易製本となった。両方で学生一人当たり三千円余りで販売(業者への製本支払い費用は一組二冊で二三〇〇円余り)にも拘わらず私には一円も報酬がでない。写真使用も多いため原稿作成時の消耗品代も高い。テキスト作成時に業者と打ち合わせをする時等の勤務時間外労働の賃金も出ていない。そこで賃金・原稿料などの問い合わせを事務員中川氏経由で森脇一雄課長にした。ある日遠方から森脇一雄課長を偶然見た。
森脇一雄課長「フゥフゥフゥ」。
そしてゆっくりと去る。恰(あたか)もにやりと笑ったかに見え、後には文書でも請求したが支払うとも支払わないとも回答は未だにない。
九八年一月二三日、学生S問題及び森脇一雄課長の問題も含めて学校長に直談判するため会談の申し込みをし、会談の日時が設定され、その指示に従い時間通りにその場所へ行った。だが入ってきたのは森脇一雄課長で、「私が学校長に代わり話を聞こう」であった。森脇一雄課長の言動・行動に問題は多々あるが、馬鹿馬鹿しく上記のみとする。もはや機能不全の学校であることは実証できたであろう。森脇一雄課長や岡短が学生S事件に関して全く何の解説も私には一切してこなかったし、全学生宛に指導をした形跡もなかった。
こうした中で、97年度後半からは頭の痺(しび)れ・精神の乱れ・自己意思急転現象がひどくなる。次のような妄想も起こり始める。「岡短を本年辞めるように運命が定まっている」と、寝ている間に催眠にかけられたか如く思わされる。98年1月には胸焼け・不快感もひどくなる。やがて、主治医・A医師のアドバイス(「薬を山ほど積んでもそうした症状(胸焼け・不快感……)は3日も抑えられない、短大を辞められるものなら辞めた方が良い」)により、「辞職願」を送付した。
しかし私の辞職の決定は、私やA医師がしたのではなく、岡短が行った事である。「辞職願」に、体調悪化の原因として岡短の大問題、即ち労基法違反被害問題と学生無法問題を記述していた。前者は具体的に世取山清課長による労基法違反と吐血の因果関係の指摘等であり、後者は体当たり学生問題である。S学生に関する資料・「岡山短大の名誉を守るために」も同封し送付した。岡短に専任前提で招聘(しょうへい)されて短大の教壇に立った経緯も記述していた。
因(ちな)みに、私が「辞職願」提出を決意しても岡短側の最高責任者・学校長が「事業団」本部に連絡をとり、誠意ある回答とか学校因果の病気のため専任待遇での病気が治るまでの有給その他の条件提示次第ではどうなったかは不明である。常識である。
《◇―6・職業としての“授業屋”の世界》
《◇―6・職業としての“授業屋”の世界》
求め続けてとの関連で記せば、88年から突如授業の場が失われたということである。それでも、まだ諦(あきら)めずに89年度などは頑張っていたため、授業協力者も一定はいた。90~93年度は頭が病的に機能せず、もはや私は存在していないため、記述すべき事項はない。せいぜい、本文に記した通りである。この時期はもはや、最初に記したように教育や授業屋の問題ではなく、労働問題が本質の時期でしかなかった。「求め続けて」は休止ではなく、「求め続けて」を人権剥奪(はくだつ)で封じ込められた時期である。
意識が回復した直後の――逆に過去の違法・不法行為の被害を忘却していた――94年度から「求め続けて」を再開した。しかし、95年度の労基法違反を契機に今度は頭が疲弊を開始し、求め続けようと考えても次第に作品内容は劣化していった。『旅に心を求めて』でも、89年原稿下書きは切れが良いが、97年頃の作品は内容が劣化している。
同時に、96年に友人の瀬尾氏と再会した際に瀬尾氏に次のように語った。
「授業で責任を一応果たすが絶対に私の本当の力は見せない。服装をみておいて欲しい。私が本当に授業をやると決心した時には服装も授業がシャープに決まるように、きっちりした服装をする。そうでない時は、絶対に自分の力の大半は見せない・見せていないと解釈しておいてもらいたい」、と。
そして、私の94~97年度の服装は、授業で自分の全能力の相当部分・大部分を絶対に見せないと、はっきりとアピールする形で通した。尤(もっと)も90~93年は、そうしたことすら考えることのできない生きる屍(しかばね)の時期であった。
要するに、学校側が不法行為を繰り返し、学生が変貌したのに対応して、一定の教師以上のことはするが、絶対に自分の本当の力(私という商品の本当の価値)は見せないと決心し実行した時期である。教師は霞(かすみ)を食って生きてはいないという一種のストライキであった。但(ただ)し、学校及び生徒がまともになった時には、即、全力投球できるように、休眠期を除けば猛烈な教材研究と準備は正月・盆・その他の休み返上でし続けていた。何よりも、自由を回復し、他の誠実な学校・労働条件のよい学校へ移動できた時には、即最高峰のものを見せれるように鍛錬(たんれん)はしていた。
勿論、本文で記した如く授業をできる“場”はなかった。だが、それ以上にあの労働条件では、私の方もプライドにかけて絶対に私の力の全てはみせないと強い決心をしていた。ガンジーの非暴力・不服従闘争と同様である。全力をみせることは、犯罪者への犯罪協力か、植民地主義に例えれば植民地主義者への屈服を意味したのであるから。
絶対に、私の本当の力は、意地でも見せぬことは奴隷・監禁・貢ぎ労働に対する唯一の抵抗手段であった。もはや、求め続けては、将来のまともな学生を念頭に行い、学校では通常の講師よりかなり上程度のレベルに留めておき、芸術の極致は絶対に見せないと誓った。十年間に亘(わた)りそれを実行した。上記の文を読めば、当たり前である。
将来、もう教壇に立てなかったならば。それでも意地でも自分の本当の力は見せぬ。抵抗である。よって一生自分の本当の力を一度も見せずに死ぬかもしれない。それでも、既に記した状況下で自分の全力を見せるよりは、後者を選ぶ。今でも全く同様に考えている。
ただし、いつでも全力投球できるように、休眠期を除けば常時、盆・正月・休日返上で努力だけはきっちりとしていたことを再度強調しておく。だから、準備しても準備したものをみせなかったものは山ほどある。教師である前に、人間でなければならない。そして人権を剥奪(はくだつ)された以上、残された手段はガンジーやキング牧師の不服従の世界であった。
《次回予告(2022/09/23 記述)》ここは次回別のページに記述、明日検診を控え、見直しもせず、現時点では内容に責任を持てず。
《次回予告―新たな事実発見(2022/09/23 記述)》
次回は新たな事実がでてきたため、それを追記予定でいる。主な項目を箇条書きすれば以下である。
①ポリテクカレッジ岡山の一連の問題は、私を雇用促進事業団全体のCM塔にするために行われた、専任詐欺疑惑である。
②次に、第二部駿台予備学校講師時代から繋がっており、Xグループが背後で暗躍していた疑惑である。先の問題学生の一部はXなどが金等で雇った・依頼した学外者によるものであり、一部は学生や職員が金や利権(出世保証…)で犯罪に加担した可能性が高いことである。(先の世取山課長など。後に四国の副学長、学長、機構本部勤め、天下り…と。森脇課長も類似である。両者ともに国会などでの調査が不可欠である。学生Sは本当の学生Sの名を語った部外者などであることはもはや確定と思っている。その根拠は次回記そう。)
③一貫して、映画による仕業とも思われる。
④だが、映画でもシナリオがあろうという挑発が最近多く、原因は駿台時代に人間違いがあり、そこからXグループが間違えて、私に関与した疑惑である。
⑤テレビがこちらを見ているを当時は妄想・病気と捉(とら)えたが、大半は本当に見ていることが確定した。
⑥自己意思の分裂現象の一部は催眠による危害と判明しつつある。
⑦永久の世の映画説を疑うことが多い。
その中で人物連動説を考えることが多い。要するに、オズの魔法使い同様に人物が違う人がほかの人へと変貌(へんぼう)しているため、違う人名でも本質は同一と思えることである。学生Rは関学時代の先輩SB(学年は私より二つ上で年は私より4つ上)さん、学生Sは同じく関学時代の先輩
IS氏(学年は私より二つ上で年は私より3つ上)である。森脇課長は早稲田大学院時代にであったTKさん(東大卒、弁護士)で、拙著『日本のフィクサーME』の布袋(ほてい)さんのモデルである。
⑥学生Sへの対応問題で、当時、思っていたことを、後何年生きるか不明となり、正直に書いてもよかろう。次回詳細に記す。簡単に言えば、窓ガラスに頭をぶつけ血だるまにするか別のもう一つの案を考え…を(勿論その逆の結果もあろうが、いや、当時はその逆はなかったかもしれないがどちらでもよく、その逆の結果でもよく、ともかく)、パトカーなどが来ざるを得ない状態にしない限り、学校は目を覚(さ)まさないし、私の人権も回復しないと考え、格闘技態勢に入っていた(具体的な考えは次回紹介する)。次回思い出して記すが、血だるま…の方はやはりせず、もう一つの計画の方にした可能性が高いが、次回、思い出して記そう。ともかく…危険…であった。
所が、催眠でストップがかかり、教師として理想の対応を結果としてさせられた。催眠での行動もあるが、催眠ストップも存在するのである。(催眠状態でも、自分から先に手を出すことは不可能であり、再度の体当たり…を…も相手も気づいたか、…での未遂かもしれない。一度目の体当たりのときに…即座に…を催眠でストップさせられたのであろう。)
当時の私の体力や当時の私の体(半身像)の写真を掲載して、当時の計画を語ろう。もし、催眠ストップがなければ新聞沙汰になったであろう。同時に、やはり私の精神状況はドクターストップに近い精神状況になっていたことは事実である。危険すぎた。生命への畏敬(Reverence for Life)を唱えている私がああなるとは、やはり精神の病もあったようである。
なお、先の(関学先輩の)ISさんは、私の伴侶はお嬢(🧜)で決まりとか、お嬢の化身説を常時私に語っていた人物である。これは実話である。
岡短辞職時の私の半裸像(辞職1年目の99年撮影。46才時)
まだ痩[や]せているが、筋肉はある。学生Sのときもこれとほぼ同一の筋肉であった。辞職直後もさがしてみよう。服を着れば着痩せするが筋肉や筋はついている。顔をかくしていない写真に置換え予定でいる。
辞職数年後(体重がようやく元に:2004年撮影。51~52才時点):
顔を隠していない写真に今回置換えた。私は随所(ずいしょ)に記しているように、格闘技徹底型の上で平凡な田舎教師になりたかったのである。
格闘技の技は打撃系、間接、急所、投げ技の一部を知っている。柔道ではなく、レスリングに近い、各種スープレックスなどは何度も友達相手[柔道・空手両有段者相手]に実験をしていた。人は見かけによらぬもの。何度も書いたように、学問とか芸術…は道を間違えたのである。格闘技大好き派であった。ブリッジは全盛期は鼻ではなく顎[あご]までついていた。
昔も服を着れば着痩(や)せして、ひ弱に見える。さらに裸身でも力をいれないときはしなやかに、力を入れた時に筋肉や筋がでるという格闘技理想型の体形をしていた(次回、一部�写真を掲載する)。
今は70才で無理というよりも、2016年から基礎運動ストップがかかり、みられたものではないが、再度基礎運動復活を考えている。2016年春に役場からの電話を契機に金縛り状態で基礎運動(腕立て、ブリッジ、腹筋、ダンベル、スクワット、エキスパンダ、縄跳び、何よりも柔軟体操…)が突如全くできなくなり、今日に至る。長期催眠のなせる技(わざ)である。絶対にすきを見て復活させる予定でいる。
《御案内》
『求め続けて』は本来英書購読用に作成した本・教材である。今回の補章に該当するのは第三部『心』の第8章シュバイツァー、第9章キング牧師、第10章チャップリン、第11章ヘレンケラーである。下記の目次箇所で第11章の各節をクリックすれば教材箇所に移動する。該当の章・節へ移動の後は、該当ページにあるPDF掲載箇所をクリックしていただきたい。本文はPDF部分である。
http://www.h-takamasa.com/rensai/
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現在も、第11章ヘレンケラーは公開中のため、英書購読に興味のある人は御覧いただきたい。ただし、書籍化する段階で掲載は中止とする。
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『求め続けて』は英書購読の教材用に作成したのであるが、モハメドアリとアントニオ猪木氏の異種格闘技が本題・格闘技よりも、リング外のルールを決める争いに徹したのと同様に、私の場合も英書購読よりも、労働契約違反・契約違反・不法行為・事実上の強制貢ぎ労働、(実証できれば)詐欺被害、健康被害…などの労働問題を巡るルール争い問題を随所に欠かざるを得なくなった。
項目 | 掲載日 | 備考 |
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第8章シュバイツァー・4節 | 2018年3月1日(木)~2月28日頃 | |
第9章キング牧師・4節 | 2018年4月12日(木曜日)~月日頃まで | |
第10章チャップリン・4節 | 2022年2月3日(木曜日)~3月22日頃まで | |
第11章ヘレンケラー・4節 | 2022年3月23日(水曜日)~月日頃まで | |
第3部補章―3・(1) | 2022年9月7日~月日頃まで | |
第3部補章―3・(2) |
2022年9月17日頃?~月日頃まで | |
第3部補章―3・(3) | 2022年9月27日?~月日頃まで |