《公式Blog🔚》駿台真相編7D-1・駿台との交渉―1

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《公式Blog🔚》駿台真相編7D-1・駿台との交渉―1

【表紙写真】(📷表紙の写真:駿台への内容証明

駿台内容証明1-4

 


【更新履歴】

2025/04/24から下書き開始:4/25から安らぎ文庫へ下書き掲載;

5/3~5/5下書き中:5/5一部清書化作業開始

2025/05/06 公式Blogで正式公開予定:正式公開後の修正は公式Blogのみで行う。

 

(公式Blog)https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=50599


 

(クリックで拡大)

実名で書かざるを得ない根拠と実名合法性の解説:クリックで拡大

駿台真相編目次


 

駿台内容証明1-4

【本題】・《🚧準備中》駿台真相編7C-3・(証拠隠滅例)マイク攻撃から拉致未遂被害

 

【駿台信組編・7関連】

 

【公開済み】

7-A1・駿台と村を取り巻く謎の利権集団
7-A2・駿台刑事犯罪被害の開始シグナル―謎の女性三人登場
7-A3・姪登場、催眠と睡眠薬、ホテル群破壊と証拠隠滅工作
7-A4・山城の女、映画説強調、そして真逆攻撃
7-A5・駿台での業務妨害と刑事犯罪の激化
7-A6・犯人の仮説

【公開予定】

7-B1・差別文書問題-2025年見解
7-B2・差別文書問題2007-10年見解-1
7-B3・差別文書問題2007-10年見解-2
7-B4・差別文書-2019-24年分析チンプンカンプン編
7-B5・差別文書-2019-24年分析・人間違い編
7-B6・差別文書-女性、部落問題の謎と不審死連続の謎:人間違い
7-B7・差別文書-2019-24年分析・映画説と駿台CM説融合論

7-C1・玉子事件―外部と駿台内部と外部の共謀・共犯と2016年政治家が介入(今回の箇所)
7-C2・エアコン事件-徹底した小細工動員の事例
7-C3・マイク攻撃―証拠隠滅例

7-D1・駿台交渉資料編1(今回の箇所)
7-D2・駿台交渉資料編2



【今回の構想】(今回は一万文字を目処)

《◇―1》刑事犯罪被害の嵐と駿台交渉へ

《◇―2》駿台への内容証明全文

《◇―3》駿台交渉の内容

《◇―4》【資料】(大滝部長の約束を信じて)駿台へ復職願い-1(1996年手紙全文)

《◇―5》【資料】(大滝部長の約束を信じて)駿台・深見係長へ復職願い-2(1991年?~95年)[95年手紙全文]


《◇―1》刑事犯罪被害の嵐と駿台交渉へ

 

駿台予備学校講師時代に受けた刑事犯罪被害の模様の一部は前回の駿台真相編7-C3で記した。再度、拙著『閉じた窓にも日は昇る』(文藝春秋送付版・結局出版されず)の中から駿台に内容証明を送付した経緯と交渉に至る経緯を記す。

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後に記すアパートの郵便受けへの卵パック入れと語呂合わせでの悪戯(いたずら)かどうかは不明も、駿台大阪校で天麩羅(てんぷら)うどんを頼むと生卵が入っていた(八七年九月一一日)。通常は生卵は入らないし、私は生卵は嫌いで食べられない。それらも含めて私の事を調べ回っている脅しと解釈された。…また、この頃はプリントの印字を悪くされる事も続いた(過去には前例なし)。約一九年前の記録・証拠類を簡単に一時間調べただけでも右記の如しである。他にも「九月一一日、日本史授業開始五分前に進路変更連絡(MS氏)、……」等のメモあり。


学内の不法行為・営業妨害の記録付け作業は、八七年九月一九日に開始したが、一一月五日で中止に追い込まれた。それは記録すればするほど、仕返し的に不法行為がエスカレートし、営業妨害のみならず、身に危険があるぞ型の脅しが続発したからである。また、既に述べた超多忙な時に、不法行為を続発させられると授業準備はもう不可能となり、自分の将来よりも、受験直前の生徒への責任優先から原則中止という状態に追い込まれた。


だが、不法行為は記録付け作業を止めた一週間後位から更にエスカレートする。そして自己防衛用に様々なテープ(授業使用にオプションでマイク使用できる大型テープレコーダ、通常のカセットテープレコーダー、相手に気づかれぬように録音できるミニテープレコーダー)を連続購入せざるを得なくなった。更に、当時はカメラには余り興味はなかったが、日付を写し込めるカメラも購入不可欠となった。不法行為は記述の域を超えて続発していた。一一月六日以降はたまたま写真を撮ったり、駿台からの送付文書の記録等が残っていたりしたものを記載したにすぎない。

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記録付けをすれば授業に支障が来る(支障が来すぎると怠慢となり解雇である。だが、そ以上に責任感があった)。しかし、記録付けをしなければ下記の如く、犯罪はエスカレートしていった。

もし、当時、誰かが「何故、そうした被害を受けるのか」と理詰めで問われれば、実は「私にもよく分からない」と返答したであろう高校1年のとき、友人のKMが🚺に交換日記を申し込んだ。偶々、断られなかったが、もし、断られたとしよう。そのとき、彼が相手の女性に「お世話がしてすみません」と詫びたとしよう。これで40年を超えるもめ事が起こるであろうか。これが当時の私が何度も疑問に思った心理であった。

 それでも、強いて言えば、変質者の犯罪程度しか思えなかった。歴史的には江青が周恩来の娘にした行いとか、連合赤軍による山岳ベース事件大量リンチ殺害事件)の類の変質者による犯罪と思っていたような気がする。だが、ときどき疑問が脳裏をよぎっていた。「なんで」と。

再度、駿台事件のまとめの雛形(ひながた)を掲載しておく。

駿台女性まとめ

ともかく、原因は❓(疑問符)として、当時の状況を記した記録を掲載しておく。

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「〇七年年賀救済呼び掛け文―B」から引用する(誤字・脱字、不明朗な箇所は今回修正した。他の引用も原則同一。)
 「《◆―一・駿台時代犯罪被害の一部の実例について》……八七年末当時の岡山市庭瀬アパートへの不法侵入。……当時の記録を見ると、石油缶の蓋(ふた)などを外す悪戯、さらには……私の郵便受けに悪戯……郵便受けに卵のパックを入れられたり(現在もパックは指紋の関係で保管)……、早朝五時頃郵便受けをドンドンと叩かれたりした記録が出てきた……こうした事件が続出等……。……誰かの悪質な悪戯で部屋に入り物を動かして退出……大阪では警察服(若しくはガードマンの服かもしれない)を着用していた二人組……による拉致若しくは殺人?未遂事件などが、八七年末から八八年初頭にかけて続発していた。


……先の大阪では両腕を掴(つか)まれ、どこかへ連れて行こうとされた以上、今考えると、他の通行人がいたので大声で助けを呼べたが、そうでなかったならば大変危険な事件であった。それ以外にも、自転車の荷台の紐(ひも)をタイヤに巻き付けられる悪戯、……密室のアパートの部屋の天井から薬を何日も落とし続けるという脅迫……車のアンテナ盗難事件と警察に被害届に行き警察署をたらい回しにされ、再度警察に被害届という前日にアンテナをつけ戻され被害届を阻止された事件(八八年一月一六日頃)……ポストの郵便物に入っている新聞類《赤旗日曜版》を無断で見られた形跡もあり、……毎日続いた……。


 (犯人を)……駿台と考えたのは、学校での授業妨害として、〈先の①~⑦の被害が〉偶然の確率を超えて相次いだ事……これらより、私のアパートへの不法侵入を駿台関連と当時は考えた次第である。更に……、先の偽警察事件や、八七年当時地下鉄内でいきなりフラッシュをたかれ写真を撮られたり、岡山市でも八七年九月二七日に高柳付近でいきなりカメラを向けられ写真撮影されたりするなど、始終誰かにつけ回されているという威嚇を受けていた。なお、アパート侵入事件は絶対に無視はできず、警察が動かぬ以上、自分で犯人を捕まえようと必死になり、物音がする都度、外に飛び出したりして人に誤解を与えたかもしれないが、こうした状況では米国では誰でもする……」

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それでも、私は駿台を辞める気は一切なかった。記憶では1987年12月上旬頃まで、辞める気はなかった。内容証明も出す予定はなかった。

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 それでも、私はまだ駿台を辞職する気はなかった。実際に、八七年一一月下旬か一二月初頭か忘れたが、駿台大阪校の比較的公平そうに見えたMT《松本》課長と一緒に食事をした際に、課長が「先生、次年度はどの校舎を希望されますか。もし大阪校でやりにくければ、先生の希望される校舎を言って下さい」と提案された時に、「いや、大阪校で結構」と答えていた位である。辞める気はなかった。


 それは、駿台では労基法などは原則としてきっちり守られており、労働条件も良かったからである。

 具体的には八七年度で、私の五〇分講義料約九〇〇〇円、夏期・冬期はその一・五倍(六時間教えれば一日のみで手当類も含め約一〇万円となる)、待ち時間や祝祭日のみか病気休みでもその半額補償、出張手当として別に一日三千円支給、交通費は新幹線グリーン車、中途半端な所は原則としてタクシー料金支給、ホテル手配・代金駿台持ち、ホテル内食事代は駿台持ち(ただし原則として私は自腹で外食とした)、原稿代は別途支給、採点等雑務は免除も万一すれば別支給、京都校時代前半は毎週食事やクラブ類への接待、毎年歌舞伎座顔見世興行の券二枚送付……労働契約などに一切記載もなく口頭でも解説を受けていないのに、夏前には一時金として毎年二〇万円位の金をポンと渡されていた。


 妨害さえ無くなれば、これほど遣(や)り甲斐(がい)のある職場は過去にはなかった。日本史という大荒野も相当耕されてきており、展望も見えてきていた。だが、何が何でも私を駿台から追放するというシナリオがあったかのように、今度は露骨な刑事犯罪が続発する。恰(あたか)も、追放せねば、映画でいえば、後のシナリオが狂うというように。

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だが、犯罪の手口は巧妙であった。ちなみに、この種の手口は駿台との交渉の後、駿台辞職が決まった後も続く。更に、やり方は違うが後のポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)中心時代も激しい攻撃を受け続けた。かなり悪質なやりかたで。ポリテクカレッジ岡山は当時は労働省の管轄のため、犯罪の隠蔽が後に様々な形でおこなわれていく。再度、形態はかえながら、2000年以降は村でもその亜流形態で被害は続き、1984年から2025年まで41年間の被害となる。ただし、村の被害の一番大きな点は人間違いが強調されたことである。

いな、友人などは一貫して、「人間違いが原因」と言い切っていた。他方、別の知人は「利権」を臭わせていた。

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 全体として手口は巧妙であった。明白に警察が動かざるを得ない事件の前に先手を打たれ、立証が難しい部屋への侵入事件が続発する。通常ならば、私も石油缶の蓋(ふた)を動かす等は些細(ささい)なため気づかないことが多い。だから、確実に分かるように動かすのである。私が石油缶を触った前後に絶対に入っていない部屋に置くなど。例えで記せば、三部屋とバス・トイレがあった当時の私のアパートで、大阪から帰宅し入口の部屋で石油缶を触り、その他の部屋に入る間もなく急用のため即車で外出し、そして帰ると石油缶の蓋がなく、まだその日入っていない台所に置いてあったなどという手口である。この例えのような形で、私が記憶間違いしていない場所を狙って、絶対に動かしたのが分かるように小物を動かしていた。私の記憶が良いから分かったのではなく、逆であり、確実に分かるように、私に気づかせる形で動かしていた。だから、分かったのである。(今考えると、私が気づかない被害も多数あったかもしれないが。)その都度、岡山市庭瀬派出所に被害届に行ったが、こうしたレベルでは派出所の担当者が交代するや無視され始める。


 こうして警察に無視させる事が可能となってから、それ以前の被害が軽い段階で相談に行った弁護士に門前払いされてから、誰も助けに来ぬと思いこませてから、右記の刑事大事件は相次ぐと同時にエスカレートしていった。


 兎にも角にも、拉致されそうになる事件が相次いだり、平気でアパートの天井から薬などを落とされ続けたりしても、警察が動かねば社会生活は不可能であるし、不可能となった。もはや、駿台に首をかけて抗議する以外に道はなかった。

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 「私が駿台を辞めたのは……アパートへの不法侵入、拉致されそうになる事件などの続発で社会生活が不可能となり、当時の駿台内の授業(営業)妨害と合わせると、駿台……の仕業と判断したからである。あれだけの行動は、一教師の賃金のみでは不可能であり、駿台の金が動いたと当時は思っていた。そこで管理職のトップに首をかけて抗議すれば、駿台内の営業妨害や、(一定調査をして、そうした不透明な金の動きが分かれば)不法侵入その他の刑事犯罪にストップをかけられると考えたからである。管理職は、代々木ゼミや河合塾との競争問題もあり、駿台の金が一部の教員等により私的に流用されていたならば、慌てて止めると判断したのである」(『〇七年年賀救済呼び掛け文・文書―B』)。

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こうして、内容証明を出すように追い込まれていった。しかしながら、内容証明を出したが、実は駿台を辞める気はなかったのである。内容証明まで出せば、駿台も青ざめて真剣に調査をして問題が解決し、駿台で今度こそ授業に専念できると考えていたと思う。

ところが、当時内容証明を出す日には下記であり、内容証明後の会談では、だまし討ちで訴訟阻止と駿台の山﨑春之理事長などのへの救済依頼を阻止されることになる。

ちなみに、訴訟も、原状回復を目的としており、賠償額等は一切考えていなかった。刑事犯罪被害を阻止することが目的でしかなかった。ところが、既に記述した如く、弁護士に奇妙な形で門前払いされ、残る手段は駿台関西地区最高責任者と会談するか、山﨑春之理事長に直訴するしかなくなっていた。ともかく、先に前者をすることにした。

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 それ以外にも、駿台に内容証明を送付する前後に、後にも先にも経験した事のない位の、夥(おびただ)しい犬や猫の死骸を、私が通る道に(早朝)置かれていた事も参考までに記しておく。

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会談が終わった後で、本来は「落とし前問題」として、もう一度訴訟への取り組みか山﨑春之理事長への直訴となるが、それを大滝部長の(「三年経って、駿台に戻る気があれば門戸を大きくあけて待っています…(両手を広げて)駿台は大きく門戸をあけてまっています」という巧妙な約束という約束があったからである。この約束で山材理事長への直訴も訴訟も阻止されることになる(これが完全に嘘と分かったのは10年後の1996年である)

 この嘘の約束は、ポリテクカレッジ岡山での専任確約(是非専任でという条件で教壇に立った)と同一の手口であった。最近は、駿台経営陣(駿台CM作戦に関わったグループ)がポリテクカレッジ岡山の職場に私を立たせる工作をしたのではないかと思うことが多い。

第一、ポリテクカレッジ岡山の教壇では教壇にたつや「山﨑」が強調されていたからである。更に、ベネッセと駿台の連携を見れば分かろう。

《◇―2》駿台への内容証明全文

駿台内容証明1-1

駿台内容証明1-2

駿台内容証明1-3

駿台内容証明1-4

【大滝部長宛内容証明書(堀江部長宛もほぼ同一)と大滝部長との会談】


「不法行為に対する抗議及び辞職通告
 私はなんのとりえもありませんが、授業をすることだけを生きがいにしてきました。しかし、貴予備校においては、以下書く理由において、もはや授業ができませんので、強く抗議するとともに、貴予備校を一月一五日をもって辞職することを通告いたします。


 一、本来、学校は授業に万全の体勢をとるべきものであるにもかかわらず、以下の点で多くの困難をきわめました。

①マイク調整が悪く何度も喉を痛めたこと、②教材において、印刷・配布枚数等で授業に支障をきたしたこと。③無関係な生徒の導入などにより、授業に支障があったこと。④教室の温度調整に何度も不備があったこと。⑤これらの行為が、ほぼ連日、約二年近く行われたことから偶然とは思えません。

 二、日常生活への不法介入により人権を著しく侵害されたこと(①プライバシー権の侵害、②住居侵入などの日常生活への不法介入、③威嚇をともなった尾行、④職場と無関係な人間との対人関係を壊されたこと。⑤貴予備校の斡旋しているホテルにおいて冷暖房の操作により健康を害する行為があったこと)に貴予備校が関係している疑いがあること。


 以上、一、二により精神的・肉体的に限界となり、貴予備校に強く抗議し辞職するものです。また、二の点については、貴予備校の関連が明確になった場合には、その時点で検討し、何等かの形で明確に抗議するものです。


昭和六二年一二月二三日
岡山市庭瀬●●●の●
浜田隆政 (印)
京都市上京区堀川通丸太町下る
駿台予備学校・京都校
大 滝 部 長 殿    

伏せ字部分の実名→岡山市庭瀬807の2

 

駿台内容証明1-5

《◇―3》駿台との交渉内容

ただ、住所は当時のアパートのため、●●字と伏せ字としている。

 なお、(八八年一月三日か四日頃であったと思う)会談では、出てきた大滝部長が怒っており(威嚇的態度で応じてきたため)、私は「どうなっているのだ」と、呆気にとられた。次に、「ふざけるな」と怒りが込み上げてきて、それが顔に出たし、一部怒った。すると、ようやく、大滝部長がややまともになり、わずかとはいえ通常の対応に近くなった。

 彼の返答は、「内容証明の二については駿台は無関係です。先生の方で自分で興信所にでも頼み、調査して下さい」であった。次に、内容証明の一については、首をひねるだけで、私の持っていたプリント等を少し見ただけで、明確な調査をするなどの返答は一切せず、事実上管理責任を放棄した。同時に次の言動で、事実上、会談の打ち切りを迫ってきた。


 大滝部長の「休職という手もありますが、先生が辞職と言われるならば引き留めはしません。ただし、駿台は門戸を大きく開けておりますので、三年たって駿台に戻ってくる気になればいつでも戻って来て下さい。駿台は門戸を大きく開いて待っています」で締めくくられた。


 私は、本当に、駿台に戻れるのかと信じた。ただ、ほとぼりが覚めるまでは、違法状況がなくなるまでは戻れないが。同時に、政経と日本史担当から、数年かけて政経と英語担当にコンバートしたい意欲もあり、大滝部長のこの言動で、もう執拗に追及するのは止めた。勿論、大滝部長の先の雰囲気もあり、丁寧に言える状況とは思えなかった。これも戦前の軍国主義者が行った何等かの策略にはまったという感じであった。もう、駿台時代の授業妨害を詳細に言っても無理、若しくは、言える状況ではなかった。


 こうした状況では、既に述べたK《北山一》講師からと言って手渡された差別文書を、どのように処理するかを、とても相談できる状況でもなかった。駿台内部で、駿台K講師からと言って、見知らぬ学生から手渡された以上、駿台も駿台独自にこの問題に取り組む必要性があった(ましてK先生は、この学生に勝手に名前を使われただけで、無関係かもしれぬため、K先生の名誉にもかかわってもいた)。

よって、差別文書に関しては、大滝部長を追及するのではなく、駿台として一番適切な差別問題への取り組みをどうするかを、一緒に相談したかったのであるが、不可能となった。要するに、私ではなく、大滝部長が先に怒って出てきたため、事実上の威嚇となっており、言葉は丁寧であるが恫喝的効果を持っていた。これで、この差別問題をどう処理するかを双方で検討できる状況ではなくなり、逆にややこしくなると完全に思わされた。よって、差別文書の件は、駿台教職員には一言も言えなかった。平和・平等を唱えてきた者としては、ここで原罪に近い罪の意識を背負わされた。この重い十字架(差別を見逃させられたという重荷)から逃れるには、実に、二〇年の月日を待たなければならなかった。何故ならば、三編、四編の如く連続刺客で身動きが取れなかったからである。


 {二〇一〇年九月挿入追記。この差別文書の件は、懸賞論文で私の作品のテーマがそれることによる落選を覚悟の上で、既に大手出版社三社以上に告発した時点で私の責任の大半は終了したと考えている。送付した原稿は念のためすべて友人・知人にも同一のものを送付している。同時に、この編の最後の追記や後書きに記すように、この差別文書は差別問題特集として独立した原稿としてまとめ処理する予定でいる。以上、挿入終了。}


 勿論その前に、大滝部長には、内容証明書記載の一の授業妨害があった以上、内容証明書記載の二も調査する義務があった。もし、駿台外での不法行為を駿台の教職員の誰かが知った上で、学内でも並行して授業妨害をしていれば、駿台も外部の不法行為に関与どころか、共謀していたことになるからである。解説の必要もなく、子供でも分かる論理である。同時に、大滝部長が知りうることは、大滝部長自身と彼の眼の届く範囲の事でしかないのだから。今思うのは、子供のお遊戯ではないため、大人として、社会人として、管理職の責務として、適切な調査と私への返答をすべきであった。(尤も、第五編を全部読めば、もっと深い事情が分かるであろう。)


 次に、私は冬期講習終了まで責任を持つ予定でいたが、内容証明で一月一五日とミス記述していたため、その訂正を行った。すると、大滝部長も「そうして頂ければ助かる」と返答があり、一五日以降も冬期講習の最後(一月二一日)まで講義をすることとなった。


 この後、駿台世界史非常勤講師・N《中井 義明》氏(確か現在同志社大学・大学院教授)から、昔、雑談で「駿台では、非常勤講師でも退職金がでることがある」と聞いていたことがあったため、参考までに尋ねた。「辞職に際して、駿台は非常勤講師でも、退職金が出ると某講師から聞いたことがありますが、本当ですか」、と。すると大滝部長が、職員を呼び、三〇万円を渡してきた。会談が終わると、京都校H《深見正明》係長(比較的中立的であり、私とも一定懇意にしていた人物)が、私を見て滑稽そうに(如何にも芝居が成功したという雰囲気で可笑しそうに)、クスクス笑いながら出て来た。


 大阪校の堀江部長は、私に向かって、「先生、充電期間ですよ。とにかく、充電して、また駿台に戻ってきて下さい」、と。気安い雰囲気で、「充電期間」とか「また戻ってきて下さい」と何度か言った。堀江部長の方は雑談風であったが、大滝部長の方は正式な会談での返答であった。因みに、一九九〇年どころか、大滝部長の言った三年後も含め、九六年までほぼ毎年復職願を出したが門前払いとされた。大滝部長の方は一定の拘束力がある発言と思ったが。


家に戻ると、父親が、「話がちんぷんかんぷんであったろう」と笑いながら言っていた。映画説など思いもしなかった当時ですら、父と駿台内部の職員の行動を見て、芝居じみた感じを駿台でも家でも受けた。(特に駿台は一九八四年後半頃から、することが全部芝居じみていた。)因みに、八七年一二月前半頃は、私が駿台を辞めるなど全く考えていなかった。まさか、私が駿台を岡短の専任になる前に辞めるなど、想像だにしていなかった。最後の授業の時ですら、まだまだ駿台で授業をしたいと、未練を持ち教壇に立っていた。
 (以上、二〇一〇年四月一四日追記終了。)

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(2025/05/04 18:46追記)

奇妙なことを付け加えておく。駿台問題について、父と母の態度である。父は既に述べた如く意味ありげに「部長はおかしかっただろう」と会談の内容を事前に知っていた雰囲気であった。当時は映画説など思いもしなかったため、「やはり、駿台の大滝部長と父の間で三年後に私の駿台復帰で話がついている」のかと思っていた。母の方は更に奇妙であった。

同時に、駿台との交渉前やポリテクカレッジ岡山との交渉前には、母の姉(私の伯母)が大抵我が家へ来ていた。そして、二人で大喜びをしていた謎である。母などは息子が仕事を辞めるかもしれぬときに、何がおかしいのだろうかと当時は不思議であった。また、母が後に言う言葉も気になっていた。例えば義兄が奇妙なことをし続けたことがある。母が私に言った。「◎◎さん(私の義兄)が何故、あんな態度を取ったと思うか。◎◎さんは真面目だろう。あんな態度とる訳がなかろう。…そのうち、分かるときがくる…」と。

 同じセリフを早大大学院時代に聞いたことがある。教え子の母が奇妙な対応をしたことがあった。その人を紹介した孔雀の(当時80歳くらいの)ママさんが「どうして△△さんがあんな対応をしたと思いますか。…。そのうち分かるときが来ますよ」と。共に、映画説などは思いもしない頃のことである。

だが、73歳の今でも、まだ意味は分からない。なお、母の姉(伯母)の旦那(伯父)は旧満鉄、後に国鉄に勤めていた。国鉄と言えば、Z家の小父さん(Z3の父親)も同様であった。

《◇―4》【資料】(大滝部長の約束を信じて)駿台へ復職願い-1(1996年手紙全文)

【資料】1996年大滝満夫部長宛駿台復職願い(1996年9月20日文書)

{誤字・脱字のみ、《 》と訂正線で今回(2025/05/05)修正}

前略。

突然の手紙にて大変失礼をいたします。私は1982~1986年に駿台予備学校の京都校で、1986~88年には大阪校にて政経などを担当させていただきました浜田と申します。覚えていただいておりましたら有り難いのですが。

1988年にいろいろありまして退職する際に、復職の意思が出てくれば問い合わせるようにとの有り難いお言葉を、大滝部長、堀江部長はじめ、何人かの教職員の方からいただきました。


あれから、相当な月日がたち、私の方もその後授業上の多くの武器を入手し《、》それに磨きかけ、大きく前進いたしました。そして、再度活気ある教壇にて活躍したいと考えるようになり、今回突然の手紙を書かせていただきました。

特に次年度より、浪人生も新課程へ移行するに及び一つの区切りとも考えたこともあり、今回手紙を書かせていただいた理由でもあります。東京はもとより、北海道から九州まで全国どこにでも行く意思がありますので、1日の授業でもかまいませんし、時間数も少なくともかまいませんのでご検討ください。


尚、大滝部長の職務・職責上、あれから月日もたち、私の腕の方に不安がおありかと思いますが、それは心配ありません。

一応参考までに、最近作成した教材の種類を下記に【ご参考】として書いておりますし、実際に一部教材の見本も同封しておりますのでご覧いただければ、私の腕の方のご心配はなくなるかと存じます。

また、お忘れになってはいないとは思いますが、1985年の合格者名簿関西版(1984年度生の寄せ書き)での生徒の私の評価の一部を同封しておりますのであわせて参考にしていただきたく存じます。そして、1984年の政経の私の力を10とすれば、現在は、当時の10の力を遥かに越える多くの条件、材料、武器をもっております。そして、私の言っていることが事実に反すれば当然1年で解雇していただいてもかまいませんが、まずそうしたことは絶対ありえないことでもあります。


担当《単刀》直入にいって、政経で現在の私以上の教師を探すということは至難という以上のことかと存じます。そこで、是非一考を願いたく存じます。

尚、退職の件に関しましては、以前大阪校にて、授業する上で支障をきたし、後に述べるように首をかけて授業ができる条件づくりをお願いしなければならない状況があったのですが、もはや9年という月日もたちそうした問題はないかと存じます。また、先に書きましたように、九州でも東京でもどこでも行く意思《が》ありますので尚更そうした問題は無関係かと思いますのであわせてご検討ください。(実際、東京と九州を関西以上に希望しております)。

ただ、それでも、大滝部長も大きな責任《が》ある立場でいらっしゃるため、多少文が長くなっても、詳しく書いた方が検討していただきやすいかと存じますので当時の駿台予備学校を辞職したいきさつについても昨年度深見さん宛に記した文のみならず、当時の支障の根本原因について、本年度、拙著『旅に心を求めて』の16章「遥かなる心の旅路」にて一部教材にし、さらにその中の一部を同封していますためご覧いただければ有り難く思います。

(勿論、誰にも支障のある書き方はしておりませんし、教材にできる位、私は真っ直ぐに常に動きたいと思いまたできる限りそうしてきました。同封の資料ご覧いただければおわかりいただけるように、辞めざるを得なくなった元々の原因になったことは社会科の教材としても活用できるようなことでしたのですが)。

そして、駿台予備学校が“愛情教育”をスローガンに掲げ、そのスローガンが本物なら、きっちり話をすれば必ずあるべき姿に戻ることができると信じております。山崎理事長には数度しかお会いしたことがありませんし、挨拶をさせていただいた程度ですが、先の駿台予備学校の理念を本当にお持ちの方とお見受けしました。ひょ《っ》として、理事長におすがりすれば、私が再度駿台予備学校で活躍する場を確保できるのではないかともふと思いましたが、それでは余りにもお忙しい理事長にご迷惑をおかけすることになると思い差し控えました。

そして、か《つ》てお世話になりました大滝さんに、再度こうして手紙を書かせていただくことにしました。今回の手紙や同封資料をご覧の上ご検討頂きますよう重ねてお願い申しあげます。

大滝部長宛手紙-1996-1

大滝部長宛手紙-1996-2

《※(上記の枠内4の訂正)1995年合格者手記→1985年合格者手記》

【追記:駿台予備学校を意に反し《、》辞めざる得なかった理由とそうした理由の喪失について】
昔、駿台で気持ち良く仕事をさせていただき、また引き続き仕事をさせていただくつもりでいました。ただ、辞める直前に授業に支障を来たし(訳の分からない学生が進入し事実上の授業妨害したこと等多数の事例[証人あり]注1参照)、意に反し辞めざるを得なくなったことは以前書いた通りです。

ただ、ここで現時点で考えていただきたい事が二つあります。

※注ー1:無関係な生徒の授業妨害ばかりでなく、マイクが連続してでなくなり、その都度その点を指摘させていただきましたが、その後も引き続きそうした支障があり、自費でマイクに該当するものを購入し授業で使用しましたが、うまくいかず、喉をつぶし、声がでなくなるなど、当時いくら駿台で授業したくてもできない状況にあったということです。当時の生徒の証言してくれる生徒の名前を一部控えています。

また、私がマイクに該当するものを使用せざるを得なかった状況は当時の生徒は覚えていると思います。喉をつぶした時の医者の診断書もあります。私が自分で駿台を辞めたのでなく、当時授業が不可能で辞めるしか方法がなかった訳です。当時を振り返って、以下記すように私はそのようなことをされるようなことは何もしていません。しかし、月日の流れとともに《、》この点については、下記に記すようにもはや障害はなくなっているとも思います。

A 当時授業し《づ》らくなった原因が内部的な問題であったとした場合。

私自身、今振り返って、社会的・道義的・常識的に授業がし《づ》らくなるどころか、大層にもめるようなことはしておりません。もっと言えば何の実体もないのです。

さらに、大滝さんも私のことは多少ご存知なように、私の性格が良いとは言わないが《言いませんが》、しかし人から恨みをかうような性格かどうか、をお考えいただきたく思います。

まず、9年前ですら、駿台の講師で私に憎悪をもっている人はいないと思いますが。もし、ありえないことですが、授業し《づ》らくなった原因が駿台の職員の女の子のことだとしても、誰ともデートどころか駿台外であったこともなく、指一本触れておりません(社交的な握手を除く)。

ですから、何もされる覚えはありません。では、何だったのかは、少なくとも駿台の教壇に関する限りは私でなくて駿台が調べることだったのではないでしょうか(大阪校にはその都度お願いしたのですが)。

ただ、それでも内部の問題であったとしても、先に書いたように私が真剣な人の恨みを買うような性格ではないし、また普通の社会常識で考えて授業に支障を来すような原因となる実体がないこと、そしてとりわけ駿台を辞めてから9年過ぎた現在、天が落ちて来るような不可思議なことがない限り、もはや仕事がしずらくなったり、もめるとは逆立ちしても考えられないと現在思っております。


B では、外部から誰かが私の授業に干渉したのでしょうか。私自身がそうした種をまいた覚えもなく、心あたりはありません。また、岡山の予備校での夏期講習などではこうした支障は常にありません。岡山以外でも、この間教えた他の学校の教壇でも一切こうしたことはありませんでした。

《※注(ここは2025/05/05追記):ただし、駿台を辞職するや、ポリテクカレッジ岡山などで大きな異変がおこったことは、後日記述予定》

C 駿台を辞めたのは授業する上で支障が生じたため意に反して辞めざるを得なかったのですが、その原因は現時点でも心当たりはありません。

しかし、少なくとも現在ではこうしたことは先に書いたようにもはやないものと思います。

ただ、100%言えることが一つあります。駿台が予備校で生徒のために教師に一生懸命授業してもらいたいと考え、そして生徒も教師に一生懸命授業してもらいたいと考えるならば、それだけで授業の支障はまず100%ないと言いきれると思います。これは、100%の事実です。

特別に何かをしなくても、本当に今すぐ教師に一生懸命授業してもらいたいと、みんなが考えれば、それだけで授業の支障は何一つなくなると思います。この一点だけは動かせない事実です。(ただ、講師間の調整は大変だと思います。しかし、先に書いたように、私が講師から憎悪をかうような性格かどうかはそちらの方が講師を見る目はおありだから《だと思いますので》、分かると思います。《おわかりになると思います》

また、恨まれるような実体を伴うことは先に書いたように何一つありません。おまけに、辞めてから約9年の歳月が流れており、太陽が西から出て東に沈まない以上、講師間の調整で困ることはないと思います。

但し、同一教科の講師からは、こちらの教える能力が極端に向上すれば疎んじがられるし、私の能力がやや衰えれば非常に歓迎されるであろうし、極端に衰えれば相手にされないという、予備校ならではの宿命はありますが。)

そして、九州にでも東京にでも行く意思がありますので、尚更問題はないかと思います。特に、関東では当時ですら何一つ問題はなかったかと思います。

以上書いたように、もはや、授業に障害がないと思われ、少なくとも貴予備校と生徒が講師に良い授業を望む限り授業に支障は確実にありません。

そして、私にとって授業は趣味であり、極端に言えば生きがいです。故に、水が高い所から低い所へ流れるように、9年の歳月の間に当然と言えば当然のことながら教える力は全体としては向上しております。辞める以前でさえ、こと政経に関しては、駿台の職員や生徒が言うのが事実なら確実に一定の実績を残しております。

大阪校の堀江部長、あるいは大滝部長が私が岡山の高校からスカウトされた時に私を引き留めた時の言葉、あるいは駿台の合格者名簿に書かれた講師への言葉(1984年度に教えた生徒の合格にさいしての手記、1985年?合格者名簿から一部抜粋したものをコピーし同封しております)。

これらが事実なら、確実に以前政経において実績を残していると思います。そして、現在では、教材、及び資料への取り組みを先に書かせていただきました。さらに全体としての教える上での材料は大きく前進しております。故に、政経というマイナーな教科で、生徒が少なくとも、政経の講師が一定いたとしても、それでも私が駿台に復活することは駿台にとってもプラスになると確信しております。こうしたことも、あわせてご考慮いただきたく存じます。

なお、毎年京都校に問い合わせさせていただき、ご迷惑をおかけし申し訳なく思っておりますが、予備校という性格上毎年問い合わせないと復職のチャンスの有無が分からないこと、及び辞める際に堀江部長からも駿台にまた戻ってくるように、大滝部長からも数年後に私の復職のために門戸を開けて待っているとの明言をいただきたこともあります。


もう一度手紙の内容を要約させていただきます。

①昔、駿台時代に政経で、一定の実績を残したこと、

②昔、(道義的にも常識的にも)こうしたことが起こる身に覚えのない中で、授業ができなくなる状況があったため意に反し、辞めざるを得ませんでしたが、もはやそうした状況は先に書いたように無いと判断したこと、

特に③駿台と生徒が教師に一生懸命授業してもらいたいと考えさえすれば私にとっての授業上の支障はもはや100%存在しないこと、

④そして現在授業全体とすればさらに授業に新しい側面をつけ加え《、》復活すれば以前より大きく前進するであろうということ、

⑤授業の武器を多く身につけたこと、

⑥そしてマイナーな教科でも私が駿台に復活することは駿台にとっても一定のプラスになると確信していること、

を再度強調し、来年度よりの私の復職についてご検討いただくことを切にお願いたします。

※尚、1997年度より駿台の教壇に私が復職する可能性がない場合は、何等連絡はいりません。ただ、予備校という性格上、今後も何らかの可能性をおききするため、時に問い合わせをさせていただくかもしれませんことをご了承願いたく存じます。1985年合格者名簿関西版での生徒の私に関する声の一部を抜粋し同封しておりますのでご参考にしてください。

(この手紙に同封・送付していない箇所の下書き)

[本年出さなかった手紙の一部]
重要なことは、私は授業に生き甲斐を感じ、必死に授業に取り組み、そして駿台予備学校でも一定の成果を出し、確実に結果も出し、そして駿台予備学校を辞める意思がないにもかかわらず、辞めざるを得ない状況に追い込まれたことです。

しかも、今回の文章や同封の資料をお読みいただければおわかりいただけますように、社会常識的には辞める原因を自分でつくったとは思えません。

万一、今回同封した『旅に心を求めて』の一部後日、安らぎ文庫Blogで別に公開予定に記したようなことで職場での仕事の妨害をされるようなことがあるなら、日本のどの道路の歩道ですら、何が起こるかわからないため歩くなというのと同一のことと思います。

今、冷静に考えて、当時もめる原因の種をまいたとは決していえないと思います。ましてや、ああしたことで予備校の生命である授業に支障をきたすような事態があれば、学校が毅然とした態度で授業は予備校の命であることを一貫して示す必要が《あ》ることは小学校の子でも分かることかと存じます。

私のしたことは“私”の部分であり、授業に支障を来すことがあったのは“公”の部分です。しかも、その“私”の部分さえ『旅に心を求めて』に記したように、誰からも何一つ非難されることでもなく、教材にすらできることでした。それに対して、相手が“私”の部分でどういう反応を取ろうと、そのことについて何も言わないが《言いませんが》、授業は、私にとっても、予備校にとっても生命線であり、“公”以上のものではないでしょうか。

そして、私は“公”の分野にまで支障を来すようなことはした覚えはありませんし、また、その種の種をまいたとは常識的に言えるはずは絶対にありません。では、どうして大阪校にて、そうした授業への支障が起きたのかは私には分かりませんし、それは私ではなく駿台予備学校がきっちり対処すべきことではなかったのでしょうか。

(そのために、私は首をかけてお願いしようとしたのです。ただ結果として単に辞めるだけになってしまいましたが。最も《尤も》、9年の歳月でもはや何もあり得ないであろうとも思いますし、ましてや東京や九州では問題は何もないかとも思います。

《◇―5》【資料】駿台1985年パンフから私関連のみを抜粋(1984年度の担当生徒数は300人程度しかなかったが…)。

 

学生の声(マイナーな上に政経離れの年で駿台京都校全体で約300人しか教えていない1984年度の声→1985年駿台パンフから抜粋)

駿台京都校は当時生徒数5000人、大阪校が2000人程度である。その中で希望者がコメントを寄せ、膨大な投稿された「声」があるため、選択して掲載しているそうである。

私が担当した約300人中→?人が声をよせてくれ→選択されて11人が残った。

英語講師で6000人担当していれば、220人の声が掲載されたのに等しい。

1984年晩秋から妨害が始まったが、辛うじて、やり遂げられた年である。翌1985年度からは妨害が熾烈となり、もはや、まともな授業は困難となった。それらの責任は全て駿台にある。

大阪校にいたっては駿台自身が明白な業務妨害をしたのであるから。京都校も駿台🚺ドタバタ劇への強制参加と各種工作で精神は乱されに乱されていた。

業務妨害の理由は、あの授業でこの程度の評価でも、飛躍的な評価は担当生徒数が300人では駿台CMにならぬと思ったのであろうドタバタ劇に強制参加させれば視聴率はあがり、駿台CM効果はより高いという企業エゴの犠牲になったとしか思えない。同時に、契約外労働・強制労働を強いられたとなる

岡山の予備校は1983年度が評価が高かったが(最終授業では💐花束も贈呈されたが)、駿台の影響で1984年秋頃から大きく後退をさせられた。

 

【下記資料はクリックで拡大】

駿台予備学校1985年度パンフから抜粋(1984年度の生徒の声の一部)

 

ここで人に笑われても記したい。

「Mr.オバマよ。私は英語の教師ではなく、政治経済の教師だということが、上記でわかったであろう」。

《◇―6》【資料】(大滝部長の約束を信じて)駿台・深見係長へ復職願い-2(1991年?~95年)[95年手紙全文]

2015年深見係長宛手紙

前略。

厳しき夏も終わり、はや秋の風を感じ始めた今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。お忙しい中誠に申し訳ないのですが、本年も仕事の件で問い合わせさせていただきたく存じます。昨年度も書きましたように、時間数も週1~2時間でもいくらでもかまいませんし、場所も全国どこでもかまいませんので、政経の授業の口があるかどう《か》ご検討いただけないでしょうか。


昨年度と違い、本年度はかなり授業に向けての取り組みに大きな前進があったことも考慮いただきたく存じます。具体的には以下のような教材及び作成上の準備がかなり進行しております。

【図表】

それと、もう一つ次の事を考えていただきたいと思います。昔、駿台で気持ち良く仕事をさせていただき、また引き続き仕事をさせていただくつもりでいました。ただ、辞める直前に授業に支障を来たし(訳の分からない学生が進入し事実上の授業妨害したこと等多数の事例[証人あり]注1参照)、意に反し辞めざるを得なくなったことは以前書いた通りです。ただ、ここで現時点で考えていただきたい事が二つあります。


※注ー1:

無関係な生徒の授業妨害ばかりでなく、マイクが連続してでなくなり、その都度その点を指摘させていただきましたが、その後も引き続きそうした支障があり、自費でマイクに該当するものを購入し授業で使用しましたが、うまくいかず、喉をつぶし、声がでなくなるなど、当時いくら駿台で授業したくてもできない状況にあったということです。当時の生徒の《で》証言してくれる生徒の名前を一部控えています。

また、私がマイクに該当するものを使用せざるを得なかった状況は当時の生徒は覚えていると思います。喉をつぶした時の医者の診断書もあります。私が自分で駿台を辞めたのでなく、当時授業が不可能で辞めるしか方法がなかった訳です。当時を振り返って、以下記すように私はそのようなことをされるようなことは何もしていません。しかし、月日の流れとともにこの点については、下記に記すようにもはや障害はなくなっているとも思います。

A 当時授業し《づ》らくなった原因が内部的な問題であったとした場合。私自身、今振り返って、社会的・道義的・常識的に授業がしずらくなるどころか、大層にもめるようなことはしておりません。もっと言えば何の実体もないのです。さらに、深見さんも私のことは多少ご存知なように、私の性格が良いとは言わないが《言いませんが》、しかし人から恨みをかうような性格かどうか。

 まず、8年前ですら、駿台の講師で私に憎悪をもっている人はいないと思いますが。もし、ありえないことですが、授業し《づ》らくなった原因が駿台の職員の女の

子のことだとしても、誰ともデートどころか駿台外であったこともなく、指一本触れておりません(社交的な握手を除く)。ですから、何もされる覚えはありません。

《それ》では、何だったのかは、少なくとも駿台の教壇に関する限りは私でなくて駿台が調べることだったのではないでしょうか(大阪校にはその都度お願いしたのですが)。ただ、それでも内部の問題であったとしても、先に書いたように私が真剣な人の恨みを買うような性格ではないし、また普通の社会常識で考えて授業に支障を来すような原因となる実体がないこと、そしてとりわけ駿台を辞めてから8年《が》過ぎた現在、天が落ちて来るような不可思議なことがない限り、もはや仕事がし《づ》らくなったり、もめるとは逆立ちしても考えられないと現在思っております。


B 《それ》では、外部から誰かが私の授業に干渉したのでしょうか。私自身がそうした種をまいた覚えもなく、心あたりはありません。また、岡山の予備校での本年の夏期講習などではこうした支障はありませんでした。

C 駿台を辞めたのは授業する上で支障が生じたため意に反して辞めざるを得なかったのですが、その原因は現時点でも心当たりはありません。しかし、少なくとも現在ではこうしたことは先に書いたようにもはやないものと思います。

ただ、100%言えることが一つあります。駿台が予備校で生徒のために教師に一生懸命授業してもらいたいと考え、そして生徒も教師に一生懸命授業してもらいたいと考えるならば、それだけで授業の支障はまず100%ないと言いきれると思います。これは、100%の事実です。

 特別に何かをしなくても、本当に今すぐ教師に一生懸命授業してもらいたいと、みんなが考えれば、それだけで授業の支障は何一つなくなると思います。この一点だけは動かせない事実です。

(ただ、講師間の調整は大変だと思います。しかし、先に書いたように、私が講師から憎悪をか《う》ような性格かどうかはそちらの方が講師を見る目はおありだから、分かると思います。また、恨まれるような実体を伴うことは先に書いたように何一つありません。

 おまけに、辞めてから7~8年の歳月が流れており、太陽が西から出て東に沈まない以上、講師間の調整で困ることはないと思います。但し、同一教科の講師からは、こちらの教える能力が極端に向上すれば疎んじがられるし、私の能力がやや衰えれば非常に歓迎されるであろうし、極端に衰えれば相手にされないという、予備校ならではの宿命はありますが。)

以上書いたように、もはや、授業に障害がないと思われ、少なくとも貴予備校と生徒が講師に良い授業を望む限り《、》授業に支障は確実にありません。

そして、私にとって授業は趣味であり、極端に言えば生きがいです。故に、水が高い所から低い所へ流れるように、8年の歳月の間に当然と言えば当然のことながら教える力は全体としては向上しております。辞める以前でさえ、こと政経に関しては、駿台の職員や生徒が言うのが事実なら《ば、》確実に一定の実績を残しております。

大阪校の堀江部長、あるいは大滝部長が私が岡山の高校からスカウトされた時に私を引き留めた時の言葉、あるいは駿台の合格者名簿に書かれた講師への言葉(1984年度に教えた生徒の合格にさいしての手記、1985年?合格者名簿から一部抜粋したものをコピーし《て、》同封しております)。これらが事実なら、確実に以前政経において実績を残していると思います。そして、現在では、教材、及び資料への取り組みを前ページに書かせていただきました。さらに全体としての教える上での材料は大きく前進しております。故に、政経というマイナーな教科で、生徒が少なくとも、政経の講師が一定いたとしても、それでも私が駿台に復活することは駿台にとってもプラスになると確信しております。こうしたことも、あわせてご考慮いただきたく存じます。

なお、毎年問い合わせさせていただき、深見さんにご迷惑をおかけし申し訳なく思っておりますが、予備校という性格上毎年問い合わせないと復職のチャンスの有無が分からないこと、及び辞める際に堀江部長からも駿台にまた戻ってくるように、大滝部長からも数年後に私の復職のために門戸を開けて待っているとの明言があったことにつ《い》ては昨年書かせていただ《い》た通りです。


もう一度手紙の内容を要約させていただきます。

①昔、駿台時代に政経で、一定の実績を残したこと、

②昔、(道義的にも常識的にも)こうしたことが起こる身に覚えのない中で、授業ができなくなる状況があったため意に反し、辞めざるを得ませんでしたが、もはやそうした状況は先に書いたように無いと判断したこと、

特に③駿台と生徒が教師に一生懸命授業してもらいたいと考えさえすれば《、》私にとっての授業上の支障はもはや100%存在しないこと、

④そして現在授業全体とすればさらに授業に新しい側面をつけ加え復活すれば以前より大きく前進するであろうということ、

⑤授業の武器を多く身につけたこと、

⑥そしてマイナーな教科でも私が駿台に復活することは駿台にとっても一定のプラスになると確信していること、

を再度強調し、来年度よりの私の復職についてご検討いただくことを切にお願いたします。

※尚、本年も、来年度より駿台の教壇に私が復職する可能性がない場合は、何等連絡はいりません。

深見係長宛手紙-2

《◇―7》【その他の資料】

不可思議な調査

→調査に当たった石原氏は真面目そうな人物であったが、誰かが既に小細工をしていたのであろう。ザル調査の解説は下記ブログ参照。

当時の駿台大阪校職員石原賢一氏の調査

 

 

 

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(下の浜田隆政印とTakamasa Hamadaは著作権の関係で私が今つけた。石原印は石原氏が直におした)
2021/07/03 15:23 追記。追記部分紫. 15:41更なる追記

P拙著『閉じた窓にも日は昇る』#Kindle 百円、2016年から発売中に以下記載あり。{Paper版は2008年 #集英社 文芸& #宝島社 2010年原稿送付も📖書籍にならず}

《 ③同一生徒が履修(りしゅう)している科目重複の続発。かなりの政経受講生から(K《北山一》講師の)化学の補講と重複して困っていると相談を受ける。対応要請後の駿台事務員I《石原》氏による報告文とコピーあり。

しかし、私に相談にきた生徒は「化学の補講」と言っていたが、I《石原》氏の調査報告では化学の記載は一切なく、物理の授業との重複記載のみで、該当者数もわずか四名で、私に相談にきた生徒の総数よりも遙(はる)かに少なく似非(えせ)調査でしかなかった。

駿台幹部がこうした調査類のみを利用していれば証拠潰(つぶ)しでしかない。…私からも事情を丁寧(ていねい)に聞く義務があったがなされていない。》

石原氏は真面目なタイプで彼が卑劣な…とは思えず。
誰かの罠か?

当時の #駿台大阪校 の石原氏が授業重複被害調査。
彼が #石原賢一 氏か
該当者は4名

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【SNS妨害】№251・:Facebookで規約違反と判定され、非表示とされた箇所の検証(3)

http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1593/

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上記の箇所を拙著『閉じた窓にも日は昇る(上)』(Kindle版、百円[$1])第2編「求め続けて」第 第一〇章・駿台予備学校講師時代終焉(しゅうえん)――犯罪被害の連続(刺客―3と4)から抜粋する。

同書の案内箇所→安らぎ文庫HP>発売中書籍>7-1・『閉じた窓にも日は昇る・上巻』
http://h-takamasa.com/book-01/custom33.html 

 

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 ③同一生徒が履修(りしゅう)している科目重複の続発。かなりの政経受講生から(K講師の)化学の補講と重複して困っていると相談を受ける。対応要請後の駿台事務員I氏による報告文とコピーあり。しかし、私に相談にきた生徒は「化学の補講」と言っていたが、I氏の調査報告では化学の記載は一切なく、物理の授業との重複記載のみで、該当者数もわずか四名で、私に相談にきた生徒の総数よりも遙(はる)かに少なく似非(えせ)調査でしかなかった。


 駿台幹部がこうした調査類のみを利用していれば証拠潰(つぶ)しでしかない。当時の生徒への聞き取り調査や、私からも事情を丁寧(ていねい)に聞く義務があったがなされていない。ア・調査寸前に、K氏が化学の連続補講を政経の授業とぶつけることを証拠になるため即中止したか、イ・I氏の調査ミスか、ウ・相当数の生徒の嘘(うそ)かは不明である。ただ、どのような形にせよ、授業料を払っている生徒にも、私にも困ることをされたことだけが事実である。常識上の推測はア・であるが、ウ・としてすら誰かの計画的指示がなければありえず、営業妨害を受けたことも完全な事実である。

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※(2025/05/05 13:32追記解説)電子書籍では人名は責任者以外は記号で記している。Blogでは、記号箇所を実名で記しておく。

①K講師:北山一(化学担当)=解説は駿台Wiki参照→

☆☆☆☆☆☆
1945年度生まれ。
灘高等学校卒業。
京都大学工学部工業化学科卒業。
京都大学大学院理学研究科(化学専攻)。
☆☆☆☆☆☆

駿台Wiki:北山一
https://osaka.wicurio.com/index.php?%E5%8C%97%E5%B1%B1%E4%B8%80

②I氏→石原賢一氏:下記はX.com

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2024年3月で43年間勤務いたしました駿台を退職し、フリーの教育ジャーナリスト、大学入試アナリストとして活動しています。引続きこのアカウントでは、大学入試&教育関係の話題中心にポストしていきたいと思います。

石原賢一@kenichiishihara

https://x.com/kenichiishihara

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次回の予告の一部。

 

次回は生々しい当時の手記を公開する。警察も動かぬため、最初は駿台予備学校に救済を依頼し、それでも無視されたため、同和問題に絡むタブーが絡んでいれば、マスコミが動かないため、そうしたタブーに強い日本共産党中央本部宛に救済依頼の文書を送付した。結果は次回記す。

本来、部落問題の「ブ」の字も、同和問題の「ド」の字も無関係であったし、駿台講師時代に意識したこともなかった。ところが、1987年晩秋に差別文書を手渡され、ひょっとすると、岡映(部落解放同盟分裂前の副委員長、分裂後の全解連初代委員長)と一緒に食事をしたことなどから、部落解放運動の分裂騒動を駿台内の☠(Xグループ)が悪用したのかと思わされたのにすぎない。

私はこの頃(1987年頃)は党派中立であったが、この事件が心情的にも党派中立となっていく契機でもあった。党派中立の流れは次回簡単に記すが、萌芽的党派中立(1972年頃に土壌ができる)→5年ほど党派中立から離れ、1981年頃から徐々に1972年頃を思い出し、党派中立の道を歩んでいく。{拙著『旅に心を求めて―不条理編・下』(Kindle、KOBO各百円参照)}。

1985年頃からは完全党派中立となり、駿台事件とポリテクカレッジ岡山時代には心情的党派中立が加わる。そして、2000年に小渕恵三総理に救済依頼を出した頃から「契約的党派中立・宗派中立」(「特定政党を支援しない、更にどの政党でもアドバイスなどを依頼されれば反人権でない限り相談に乗る。ただし、代わりに、私の人権救済をしてくれ」)を表明する。これらは次回記そう。

2025年5月6日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA