旅に心を求めて―№001・What is a Human Being?「人間とは何か」(その1)―日野富子(1440-96)を訪ねて、歴史に想う

旅に心を求めて―№001・What is a Human Being?「人間とは何か」(その1)――日野富子(1440-96)を訪ねて、歴史に想う


今回の日野富子関連原稿は、三部構成であり、掲載履歴は以下の通りである。
①1986年か87年頃のアイデアを元に1994年から1997年教材として授業活用していたものである。尚、現時点でも視角の強調が不十分であり、何よりも掲載写真が不足しており、未完となっている。
②1998年に一部改訂を行った。
③2007~2010年に大学教員公募へ応募さする際に誤字脱字等の微修正を行った。なお、2010年頃に新たに記述した箇所は記述年を明記し、追記という形でまとめて記している。
④2020年HPに掲載する際も③と同様の形で行っている。
⑤骨子及び大半は1994~95年に記述したものである。尚(なお)、旅シリーズを幾つかまとめて書籍にする時点で、大幅改訂を行うが、それでも出版社との契約事項に注意書きがあれば、出版の段階で今回のHP掲載のこの原稿は削除する場合もある。
⑥今回の第一部・その1の最後の2020年追記はメモ段階である。その他は、清書一歩前である。

この種の原稿は、好奇心をかき立てる物が多い。そこで、私の特色は(a)掲載写真の優れた物、(b)現地イラスト地図、(c)現地への想いと訪問記が優れていること、また(d)切り口に個性が求められる。
カメラを本格開始した理由は(a)であり、フィールドワーク(現地視察・道中記)の理由はb)とc)を充実させることにある。ただ、今回掲載写真(1988年頃のコンパクト写真)を見れば分かるように再撮影が不可欠となっている。なお、d)の切り口は、戦争論も検討している。


HP更新履歴 2020/01/13 23:02下書段階で公開

2020/01/14 4:31 写真掲載と一部準清書。

2020/01/14 23:22 ほぼ、今回の公開内容終了

2020/01/17 12:22 脚注の一部を掲載



What is a Human Being?(人間とは何か)――日野富子(1440-96)を訪ねて、歴史に想う(その1)

(Ⅰ)日野富子の墓を訪ねて

 

《◇-1:懸命に努力しても、授業ができる状況でなかった中での、“歴史の声・地の叫び”への密(ひそ)かな想い》

拙著『求め続けて』にしばしば記したが、駿台予備学校講師時代後半(1987-88年)に、日本史も担当してからは、英語・政経・現社・日本史、それに幾つもの原稿(駿台模試作成、進研模試監修、岡山短大の試験作成、岡山の予備校校内模試作成)を抱えて、授業ができる状態ではなくなってしまった。

しかも、一週間の内三~四日は大阪(駿台で政経・日本史・現社)、二日は岡山市(岡山の予備校で政経・日本史・現社)、一日は倉敷市玉島(岡山短大で英語)、また時々は実家・美作と全国を飛び回っていた。おまけに、つまらぬトラブルから精神的安定も失い(拙著『閉じた窓にも日は昇る』、『恐るべき労基法違反』等参照)、私が思う条件の授業をすることは不可能な状態に陥れられた。

さらに、日本史を教えるのは事実上初めてのため、まともな授業などできる状態ではなかった。教科書に出てくる難波(ナニワ)を、何回か難波(ナンバ)に酒を飲みに行ったことがあったため、つい勘違いしナンバと読むなど、思い出せば恥ずかしきことの数々である(注1)。 それでも、引き受けた以上、どのようなことをしても一定の責任を果たさねばならぬと考え、徹夜続きで寝る時間もほとんどない状態で、授業の準備に追われる毎日であった。だが、これら全部の準備などは物理的にできる訳がなかった。もっとも、訳の分からぬトラブルがなければ、人並みのことは全教科でできたであろう。今でも客観的に考えてそう思う。

ともかく、何が何でも責任を果たさねばならないと、過去8年分くらいの主要大学入試問題をダンボール単位で大量にコピーし、項目ごとに整理し、資料を配付するなど気の遠くなる作業を続けた。しかし、『求め続けて』に記したように、こうした無味乾燥な入試データ分析ではなく、生きた授業や教材研究に思い焦がれていたことは言うまでもない。ただ、どのようなことをしても引き受けた以上、責任を果たさねばならず、言わばやりたい授業を禁欲して、こうしたデータ分析に埋没していた訳である。

こうした中でも、日本史にも常に何かを求め続けていた。消化不良を覚悟で、何もできない焦りの中で、文献を読みに読み続けた。心の中で〝何か(etwas)〟を求め続けていた。今にして思えば、歴史の声や、地の叫びなどである。特に、権力者・金持ちと言われる人達が、権力を持ったが故に、大金を手にしたが故に、苦悩しなければならなくなった姿であったこれは、一つの法則と言ってよいくらい当時目についていた。特に、その切っ掛けとなった物の一つに次ページの写真があった。



《◇-2:心に残った一枚の写真、富子の墓》

この写真は足利義満{1358年9月25日~1408年5月31日:室町幕府第3代将軍(在職1368年 – 1394年)}、義政{1436年1月20日~1490年1月27日:第8代将軍(在職:1449年 – 1473年}と並んで室町時代 {室町幕府→1336年~1573年}を代表する日野富子(1440年~1496年6月30日)の墓である。


日野富子は(銀閣寺を建てた)八代将軍足利義政の妻で「派手好きでお金をためることがすきだった。それも酒屋や土倉などの金持ちから金を取り立てたり、幕府の課税をよこどりしたりするなどして金を集めた。しかも、そんな金の力によって、富子の勢力は夫の将軍をしのぐほどであった」(*1: p223)と言われていた。そして、自分の息子を愛し、強引に将軍の座につけようとしたことが一因となり、応仁(おうにん)の乱{1467年 – 1478年}が起こったことは周知の事実である。

その権勢を誇った富子の墓が「京都市の華開院という寺の片すみにある。それは室町時代の天皇を生んだ女性たちの墓に隣り合っていた。その女性たちの、大きな墓を取り囲んだ立派な石の冊の傍らに、まるで押しつぶされるようにして立つ供養塔風の石塔がそれだった。苔(コケ)むし、刻まれた梵字(ぼんじ)も薄れかけていた。墓地に通ずる道は京都の観光ルートからも外れ、ひっそりとして、訪れる人もない」(*2:p233)と言う。だから、この写真が私を引きつけた。
しかし、当時身動き取れない状態のため何もできなかった。誰しも、授業に何かを求め、それに没頭したいと考えるが、先に記した状況では、生徒に責任を果たすために当時は禁欲せざるをえなかった。駿台を辞めた年(1988年)に、漸(ようや)く、この墓を訪れることになる。

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【📷―1】奥の小さいのが富子の墓(*2: p232)→掲載不可(理由は以下)
(2020/01/13追記)大学の授業では、上記の本から写真を(授業限定使用・学校の印刷機などで印刷と言う条件で)借用していたが、HPでは版権・著作権に触れるため掲載できない。☞これが私がカメラを開始した理由である。

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《◇-3:1988年、真夏の炎天下をひたすら歩き富子の墓を訪ねる》

1988年7月17日、一冊の本{角川文庫の『日本史探訪8』(*2)}を片手に京都に行く。だが、目指す(富子の墓のある)華開院(けかいん)はどの地図にも載っていない。やむを得ず華開院に電話をする。電話で上京区天神筋にあると聞く。地図を見ても天神筋などどこにあるか分からない。たまたま天神公園が目に入ったので、名称からいって当然近くであろうと思い、バスに乗り【地図―1】{次回の富子―Ⅱに掲載予定}の①の箇所の天神公園で下車する。その後、全く勘違いしていたことが分かり華開院に何度も電話したり、道中で道を聞いたりしながら、暑い京都を歩いて華開院を目指す。

尚(なお)、最初にこの天神公園の近くにあった宝鏡寺に何げなく立ち寄り参拝しこの寺を後にするが、この寺が日野富子の木像を安置している寺であることを、このプリントの文章を書いている今(1994年10月6日に)知り、富子像を拝観しなかったことを残念に思いながら文章を作成している所である。

その後、辛うじて【地図―1】③の位置の北野天満宮を経て、相当な時間を費やし華開院に着く。このプリントに華開院の写真を載せねばと考え、同院を捜すと講談社・火の鳥文庫の『日野富子』(*5)に掲載されていたが今回載せるのは断念した。何故(なぜ)ならば、この本の写真では華開院はきれいな寺に写っているが、実際の寺は壁が大きく幾つもはげ落ちており、人も余り来ない雰囲気の、廃(すた)れた寺だったからである。そして、この崩れかけた寺の壁が余計に富子への想いを強くした。

ところで、肝腎(かんじん)の富子の墓は捜してもなかなか見つからず、寺の方に聞いて漸(ようや)く分かるという本当に小さな墓(一般の人の、通常の墓の三分の一以下)であった。
後に、そのときの印象を当時のプリントに「What is a human being?」(『人間とは何か』)と題して記したが、同日に、この寺訪問後に行った金閣寺の荘厳(そうごん)さと富子の夫・義政の建立した趣のある銀閣寺を見るにつけ、その想いを一層強くした。歴史とは何か。歴史に我々は何を求めるのか。

富子の姿を下記の《◇ー4》でもう一度振り返ることにする。尚、この日勘違いもなく、ましてや京都駅からタクシーで華開院に行っていたならば、今回の心の旅1章がDIRECTIONS[道順]であるということを抜きにしても、富子についてのこの文は書けなかったであろう。大地を一歩一歩踏みしめることの重要さをこの日痛感した。

【1995年追記】1995年に寺の写真を撮りに華開院を再訪したが、寺の壁は塗り直され、もはや昔の面影はなかった。そこで、写りは良くないが、1988年に私が写した寺の写真を本年も掲載した。尚1995年春の旅では、宝鏡寺にて富子の像を拝観し、また大徳寺にも足を伸ばした。またも徒歩にての旅である。


[華開院の写真](1988/7/17:コンパクトカメラで写す)
→印刷の関係で十分でなかったが、壁がいたる所で崩れかけていた。1995年春に資料集めのため、再度当時と同じコースを歩いて華開院に行ったが、既に壁は塗り替え新しくなっていたのでやむを得ず1988年の写真を使用。

写真はクリック一度でパソコン画面大。二度クリックで巨大。(しかし、二度クリックはされたくない。恥ずかしい。再撮影必須。1988年、コンパクトカメラで撮影のもの)

華開院:富子の墓:88-006-20-f


[日野富子の墓](1988/7/17写す)
大きく写しているが一般の墓の三分の一の大きさ(★向かって右側の墓)

華開院:富子の墓:88-006-12-1-f

[日野富子の墓](1988/7/17写す)
向かって、左から二番目の墓。

華開院:富子の墓:88-006-09-f


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【2020/1/13追記:フィールドワークの必要性】
☞上記はコンパクトカメラで撮影したものであり、古いフィルム写真撮影のため、再撮影が不可欠である。野麦峠の旅も再撮影が不可欠であった。それが、フィールドワークをする理由の一つである。


将来、電子書籍などが発達した場合に、本格写真閲覧が可能となり、枚数もかなり掲載できるようになるが、十分に掲載する写真がなければ再撮影が不可欠だからである。例えば、『旅に心を求めて―不条理編(上)』ならば表紙にする適切な写真がないため、野麦峠に行く必要があった。期限は本を出版する予定の2015年1月までである。

そこで2014年秋に野麦峠へ行く手配をしていたが、関連地に熊が出没し、地元の人に迷惑をかけることを懸念して、地元の観光業界、松本市役所(観光課や山岳…担当者)に連絡をして、相談の結果、2015年5月の野麦峠祭りに繰延べとなった。そこで、表紙写真は出版して1~2年おいて入替えるという課題に直面せざるを得なくなった。
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《◇-4:日野富子の生涯》

富子が足利義政に嫁いだとき、義政には三魔とよばれ、政治に口を出していた愛妾(あいしょう)・今参局(いままいりのつぼね)がいた。しかし富子は自分の子が死産したのを機に{彼女の呪(のろ)いのせいとして}彼女を殺害する。本によれば「義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし(本人は途中で自刃)、義政の側室4人も追放した」と言う(Sekeaihuman.com)。{なお、この件に関しては男児の死産のためという説(*3:p96)(*5:pp54-57)と女子が生まれたためという説(*1:p222)(*4:p266)がある}。

その後、義政は男の子ができないため、寺に入っていた弟の義視(ヨシミ)に将軍職を引き受けるように頼み、「自分に男の子が生まれても、これをあとつぎにしないと」(*3:p98)約束し、細川勝元を後見人として、弟の義視を跡継ぎにすることにした。だが、間もなく富子に男の子(義尚[ヨシヒサ])が生まれるや、富子は山名宗全を後見人につけ、息子を将軍にしようとする。これも一因となり有名な応仁の乱が起こる。

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クリックで巨大

応仁の乱・日野富子

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その上、富子は戦乱が長引くや、「長年の戦いで戦費を使い果たし、困っている大名に、敵・味方の区別なく大金を貸しては、多くの利子を巻き上げた」(*4:p267)り、「米を買い占めては、これを米倉にたくわえておき、値上がりを待っては売りはらいたいへんな利益をあげた」(*4:p267)という。そして、先に述べたように将軍以上の力を持つようになる。このように、富子が金も持ち、権力も持ち、歴史に名を残したにもかかわらず、私の目の前にある富子の墓が何故このように小さいのであろうか。彼女より実質的に力がなかったという義政は銀閣寺を残し、墓も富子のようなものではないという。では、富子の一生とは何だったのか。別の角度から彼女の生涯を振り返ることにする。

富子が嫁いだとき、義政には「愛妾お今のほかに何人かの側室が」(*3:p95)おり、しかも結婚してからもうまくいっていた訳ではない。特に(考えられぬ事であるが)夫の義政と息子の義尚が義政の愛人をめぐりもめると愛想をつかし別居してしまっていたという(2:p225)。そして、富子があれほど愛情をこめて育てた義尚さえも「成人していくにつれて、母親の愛情のはげしさをわずらわしくおもうようにな」(*4:p267)る。Wikipediaによれば「義尚は成長すると富子を疎んじ始め、文明15年(1483年)には富子をおいて伊勢貞宗邸に移転し酒色に溺れた。このため富子は一時権力を失った」という。しかも、息子は25才で死ぬ。このとき、富子50才(*2:p227)。

そして「息子の急死に富子は意気消沈したが、義視と自分の妹の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう義政と協議し、同年4月に合意が行われた。延徳2年(1490年)正月に義政が没すると、義材が10代将軍となった。しかし後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸を破壊し領地を差し押さえた。翌年の義視の死後、親政を開始した義材もまた富子と敵対した」(Wikipedia)。

この義材(ヨシキ){1466年~1523年。後に義稙(よしたね)と改称。第10代将軍}の父は足利義政の弟・義視であり、富子とは対立していた。また、義材の母は富子の実の妹である(*5:p171)ことを再度強調しておく。


その後、「…(1493年)、義材が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方・足利政知の子・義澄を11代将軍に就けた(明応の政変)」(Wikipedia)。やがて、富子は孤独な中で1496年に57歳で死す。彼女は金を稼ぎまくり、大いなる財産を残した。その巨大な財産は富子が養子とした先の義澄(ヨシズミ){1481年~1511年:第10代将軍:父は義政の異母兄(足利政知)}が全部自分のものにしたという。しかし、彼とは次第に仲が悪くなり、憎み合っていたとも言われている。義澄は一言の礼どころか富子の葬儀にも参列しなかった(*6:pp308-309)。

 尚、この義澄と先の義材は従兄弟(いとこ)であるにもかかわらずしばしばお互いの命を狙いあっていた。

歴史を振り返れば、権力や富を手に入れた人達あるいはその子達が、安らぎの場である、自らの家族の中に大きな苦悩を抱えている姿を、私は必ずと言ってよいほど目にする。少なくとも、権力や大金を手中にしている人たちの兄弟姉妹が全員非常に仲が良かった、という話を聞いたことがないのは私だけではあるまい。いわば法則といって良いのではないかと思うことさえある。ともかく、富子の片手には権力と富が、片手には夫との不和、息子と夫(息子の実の父)との確執、自分の実の妹との軋轢(あつれき)という苦悩を抱えることになる。その上、彼らの死去により一人取り残され、そして彼女の財産を手中に収めた遠縁の義澄(よしずみ)の彼女への態度を再度思い起こしていただきたい。彼女の人生は何であったのか。

次に、富子の夫・足利義政の生涯も簡単に振り返ってみよう。義政は父・義教ともうまくいっていなかった(*6:p18)。母も、義政の兄、先の将軍足利義勝のみをかわいがっていた(*5:p41)。また、母に代わり義政の面倒を見ていたこともあり(*5:p41-42)]、あれほど関係の深かった愛妾お今を島流しにし、結局見殺しにしてしまう。そのお今も義政の子を産んでいたという(*3:p95)。さらに富子との仲は先に書いたとおりである。付け加えれば、義政が東山山荘の造営のため費用捻出に苦心していたときでも、富子は一銭の援助もしなかったと言う。そして、応仁の乱のきっかけも自分の弟と息子の対立であった。また、政治も実際は管領(かんれい)はじめ有力な守護大名との関連で力を十分発揮できず、38才で将軍を引退することになる。



《◇-5:歴史の声》

歴史に何を求めるか。私が歴史に求めるものの一つが、今回の富子にあった。しかし、こうした権力者の悲劇にだけ目を奪われてはいけない。1460年、京都では当時の飢饉(ききん)で8万2千人が餓死し、また私の郷土・(岡山県)美作や備前などでは「人民相食む」という餓鬼道も発生していたという(*7:pp210-215)。こうした状況下では、応仁の乱が一般の人々にどのような影響を与えたかは察しがつくであろう。しかも、応仁の乱で対立しているときでさえ、当事者達は「将軍をはじめ、あとつぎあらそいの敵義視も富子も、みんないっしょに細川の陣営でくら」(*5:p108)したときもあるという。彼らのために命を懸けている者がいたときにである。

また多くの民の犠牲も出ていたことは言うまでもない。
こうしたことも考えながら、“歴史の叫び”に耳を傾け、富子のもう一つの墓(*6)と言われている、岡山県の熊山にある自性院を紅葉の訪れとともに歩くことになるであろう。尚、私が華開院を訪れた数年後の1994年、富子がNHKの大河ドラマに取り上げられ、主演女優の三田佳子らがこの墓を訪れたという。

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[富子の木像]宝鏡寺所蔵(*4:p266)☞著作権・版権の関係、HP等では使用できない。著作権対策で、2020年は代わりにHPから、Twitter経由で下記を掲載。

○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1217066821204885504?s=20

2020/01/14 追記 日野富子関連の文献は、いずれも読者の関心を引く物である。日野富子だけではなく、ドラマになりやすい歴史上の人物の物語はいずれもそうである。そこで、私の書物の差別化を図るためには、ずば抜けて人を引きつける写真・道中記(フィールドワーク)が重要となっていた。今回掲載写真(コンパクトカメラ等)では話にならない。今回のテーマも文献にするためには再撮影は不可欠である。それが写真にこだわっている理由の一つである。同時に物語の切り口・視角にもオリジナリティがいる。それも、模索中であり、未完原稿となっている作品予備軍の一つが今回の原稿である。

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【1995年追記】
この文を書いた後で、1994年11月8日に富子のもう一つの墓と言われている、(私の地元・岡山県の)山の麓(ふもと)にある、小さなお寺自性院を訪れた。
この寺の富子の墓も、華開院の墓よりは大きいものの、通常の墓の平均よりは小さいものであった。なお、この富子と心の旅-4章の天武天皇の悲劇は、「美は悲しみの中にある」という言葉を再認識した、思い出深い野麦の旅(心の旅-3章)との対比をなすものである。

思えば、駿台予備学校講師の後半時代、日本史の授業で精神的にも・時間的にも・物理的にもしたくてもできなかったものが、今、火を噴くが如(ごと)く湧き出しているのかもしれない。今回、このシリーズに載せた歴史に関するものは、ほとんど全て当時(1987年以前)のアイデアである。当時したくてもできなかったというよりは、させてもらえなかったものである。ただ、こうしたことに怒るだけでなく、新たなものを求めて、歴史の声と地の叫びを求め続けなければならない。

岡山県 自性院。(門の下に日野富子の名がある。1996年撮影)

写真はクリック一度でパソコン画面大。二度クリックで巨大。

自性院:96-088-21A-f

右下に日野富子の墓への案内図がある。

自性院:96-088-28A-f

日野富子の墓。

自性院:富子の墓:96-088-27A-f

自性院:富子の墓:96-088-26A-f

 


今回の日野富子(1)の正式公開は以上まで。

富子(2)(私作製のオリジナル)イラスト地図及び従来の歴史物と別視角予定箇所と(3)今回の原稿から派生した漢字物語は後日掲載。尚、(2)と(3)の番号は逆に打つかもしれない。本来は歴史書のみではなく、(写真・オリジナルイラスト地図)などの芸術作品、政経関連から現代との対話、外国語教育(英語教育書)との融合を目指したオリジナル作品群(『旅に心を求めて』シリーズ群)の一つであった。構想は百程度あり、十以上が今回並かそれ以上に下書きは終了している。より完成度の高い、現在発売中の『旅に心を求めて―不条理編』(Kindle、KOBO各百円)も、科学の未発達と予算不足で(2)と(3)が盛り込めなかったが、状況が許せば更にダイナミックな作品に生まれ変わるであろう。



【脚注(下書き)】=最終的には富子最後でまとめる。

【脚注】
(*1)若森太郎『図説日本の歴史3・武士の活躍』(旺文社)、1981年
(*2)『日本史探訪8・南北朝と室町文化』(角川文庫)、1983年
(*3)『日本の歴史6・群雄の争い』(読売新聞社)、1968年
(*4)風間泰男監修『日本の歴史人物ものがたり・上』(旺文社)、1981年
(*5)真鍋和子『日野富子』(講談社火の鳥歴史文庫)、1994年
(*6)松本幸子『日野富子』(成美文庫)、1994年
(*7)永原慶二『日本の歴史10・下克上の時代』(中央公論社)、1984年
『山椒大夫』の引用で人身売買に触れ次の記述がある。「佐渡に売られた母が足の筋を切    られて鳥追いをさせられた……」とした箇所から飢饉の様子を察している所に注意     (p226)。こうしたものと同時に支配者の悲劇を、そしてそこから歴史を考えなければな    らない。
(*8)ダン・ケニー英訳『英語かわら版・おもしろ日本史』(ジャパンタイムズ)
(*9)『英文日本絵とき事典9・人物日本史』
(*10)『JAPAN ALMANAC 1994』(朝日新聞社)

【イラスト地図出所】
(*11)天神公園イラストマップ「JOY京都」→1995/4/20
:京都国立博物館への道中東寺売店にて購入
(*12)宝鏡寺の人形宝鏡寺絵葉書→1995/3/11:華開院再訪の旅道中宝鏡寺にて購入
(*13)北野天満宮イラストマップ「京都みて歩き」
→1994/12/10嵐山(桂川付近)にて購入
(*14)金閣寺イラストマップ「JOY京都」→1995/4/20
:京都国立博物館への道中東寺売店にて購入:1989年にも同一のもの購入
(*15)大徳寺パンフ『大仙院』→1995/3/11
:華開院再訪の旅道中大徳寺内大仙院にて購入:英文パンフ有
(*16)銀閣寺川勝政太郎等執筆『銀閣寺』→1988/7/7銀閣寺にて購入の小冊子
(*17)二条城阪急電鉄株式会社「京都観光イラストマップ」→1994/8/5に英国文化セン         ターの帰りに京都駅で入手したチラシ(尚、翌日広隆寺に行く)。

 


以下はメモであり、後日、今回の日野富子三回掲載中のどこかで清書後に掲載予定でいる。

下記はメモ及び備忘録のため、掲載中にも何度も書き直し予定でいる。


【2020年1月13日22:31追記(メモ段階)】
今回の日野富子関連原稿は、浜田隆政作成・日野富子フィールドイラスト地図編、日野富子関連資料、読者が興味を持つ「日野富子原稿に当たって漢字に思う」へと続く。

なお、この原稿を2020年1月に急いで掲載した理由は以下の通りである。
①2013年起業若しくは開業を目指して何を計画していたかの一部を公表するためである。そうでないと妨害が多すぎたからである。
カメラは、本文や次回記すように、(販売予定の)この種の原稿に掲載する写真を撮るためであった。しかし、今回の件で例えれば、外部からの挑発や催眠で、日野富子の墓より、地元のAさんの墓の方が立派である。これを撮れ型の催眠で参ったからである。私はカメラマンではない。

②上記を即座に公開できなかった理由は、1998年岡山短大辞職後は精神が疲弊しており、また労基法違反被害等への賠償請求交渉があったことなどである。2008~12年は後日掲載する。2013年からは、ものすごい起業・開業妨害が起こり、私の起業プログラムを公開すると、激しい圧力型妨害に遭(あ)う危険があったからである。それらは、拙著『日本のフィクサーME』シリーズで具体的に徐々に公開しよう。尤(もっと)も起業・開業計画も、まだ激しい妨害を恐れ全貌(ぜんぼう)は記せない。ただし、人生の後がなく…同時に、一部でも記さねば、親戚・村関連…で前に進めないため、一部公開を検討中である。しかし、予算関連で、もはや大型フィールドワークなどは無理となっているため、下記③などが中心となろうが、写真催眠危害も含める予防作という視点もある。

③フィールドワークに遠近の問題はない。原稿に繋がるテーマが全てである。2019年の旅はほとんど自転車で一回につき、支出合計140円、130円、120円などが目白押しである。では、何故、前半は遠方としたか…も後日記そう。これらは計画的な事項であった。詳細は、日野富子(二~三回に分けて掲載予定)の原稿関連中にどこかで記そう。


【今後へのメモ―今回の原稿との関連で。(以下は構想段階での覚書・メモ段階で吟味前の内容)】

今回の原稿を斬る視角として、戦争論を考えている。戦争についての無意味さは、今回の原稿でも多少わかろうが、更に戦争の不条理さの強調問題である。同時に、常に、では戦争なき社会実現へのアイデアを求められる。そこで、当時の原稿(約十余り)やアイデア類(数十から百近くに及ぶ)の作品化(『旅に心を求めて』シリーズ)よりも、先に、戦争なき社会実現に向けて、動きだした部分がある。それが『日本のフィクサーME』シリーズである。尤も、挑発誘導や催眠誘導が大きい。これらと起業プロセスは妨害が大きいためまだ公開できない。少なくとも完全公開は無理である。

今回の原稿も含めて、戦争という物の姿を別の角度からも問う予定でいる。

1973年頃にバイト先で、第二次世界大戦で戦場に行った人の話(憲兵もしたことがあると言っておられたような記憶もある人の話)を直に聞いたことがある。その人が、酒を飲みながら、戦争中に外国の人を殺害したときの話をされた。
自慢話ではなく、嫌な思い出としてであろうか。
では、この人は誤りをしたのか。この人の人間性を問えるか。…
しかし、この人がもし戦争相手の国の人を殺害しなかったならば、犯罪者であり、同時に自分の味方を殺すことに間接的に繋(つな)がる。

戦場に行く軍隊は、相手の国の兵士を殺しに行くのであり、殺害しない場合には犯罪者となる。実際に、派遣された軍隊が一切武器を使用しなかったならば、何をしに行ったのかとなる。それどころか、相手の軍隊に自分の軍隊の仲間が殺されるため、一切武力行使をしなければ、実際には自国軍隊の仲間の兵士を殺したことに等しい。

相手を殺すか、(自分を含む)自分の仲間を殺すかの二者択一しかない。それが戦争である。

警察は、可能な限り、犯罪者を生きたまま捕まえたいと思うであろう。他方、軍隊は戦時国際法に違反しない限り、敵の軍人をどのくらい殺すかが重要な任務となる場合が多い。チャップリンの「殺人狂時代」を思い出せば分かるであろう。

しかし、敵意など全くない相手である。実際に戦争が終われば、即、友好となる場合すらある。この不条理さから逃れるには、「世界統一軍」樹立しかないと考えている。世界統一軍は、各国独自の軍隊と異なり、錦の旗があるため、宮本武蔵の活人剣(かつにんけん)に近い。要するに、存在するだけで、戦争・暴力への抑止力がある。
国家の軍隊が存在しないときには、どの国も、戦だらけであった。応仁(おうにん)の乱以降の戦国時代の如(ごと)く、現在の国家領域内での、幾つかの地方豪族と豪族の争い、あるいは国によれば「万人の万人に対する闘い」状態となる。
しかし、国家が統一され、国家の軍隊が創設されるや、原則として、そうした状態に一つの終止符が打たれる。
それは国家の軍隊・警察が錦(にしき)の旗を得たからである。


同様に、世界統一連邦に該当する機関の下で、世界統一軍が樹立されれば、
a) 存在するだけで、紛争は激減となる。
b)更に、士気も違う。全く知らぬ人を大量に殺しに行くのと、国内で暴漢・犯罪者に対応するのとでは兵士や警察の士気が違う。警察官も命懸けのときがあるが、警察官が強盗に対峙(たいじ)するときと、軍隊が全く知らぬ地で、(戦争後には仲よくなることが分かっている人)どう見ても善良そうな人(時には倫理観の大変高い紳士)と殺し合うのとでは士気が違う。
c)世界統一軍が樹立されれば、騒乱が相当減るため、相手の人数が少なくなり、生存したまま捕まえる方式も一部可能となる場合もある。大規模な戦争では不可能なことが可能となろう。
d)それ以上に、錦の旗(世界連邦などを代表する、世界が決めた世界の軍隊というコンセンサスが世界で確立されていること)があれば、世界統一軍は、(科学の発達の中で誤爆の危険から脱却できれば)AIやロボット、無人戦闘機…と実際の軍人抜きでの治安行動も可能となろう。

e)軍拡競争は終止符を打ち、真の死闘(経済を中心とする激しいグローバル化での競争)が、ここから始まる。

世界統一軍の見取図や構築への方策なども今後模索しながら、何かの原稿に記載することになろう。その視角からの原稿も更に増えるであろう。
ちなみに、先の応仁の乱、戦国時代を経て、日本国家が統一されてからは国内での大型武力衝突は大半姿を消し、明治維新後は更に姿を消すことになった。世界も同様の道しかなかろう。

2020年1月13日 | カテゴリー : 心の旅 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA