【メモ段階】駿台事件真相編―5-2・駿台CM作戦―新女性刺客四人組活用編(その2・具体的展開)

【🚧メモ段階】駿台事件真相編―5-2・駿台CM作戦―🆕新女性刺客四人組活用編(その2・具体的展開)

【更新履歴】2024/06/21 12:22掲載開始。2024/06/24 4:31つい貴作業。

2024/06/28 16:34 このページは約1ヶ月後に削除します。

2024/06/28 16:38:今回の内容は、大幅加筆整理して、公式Blogで公開しています。

前半部分は

【💁🆕正式公開】駿台事件真相編―5-2・駿台CM作戦―🆕女性刺客四人組活用編(その2・具体的展開修正版)

【💁🆕正式公開】駿台事件真相編―5-2・駿台CM作戦―🆕女性刺客四人組活用編(その2・具体的展開修正版)

後半部部分は:現在アドレス未定

【💁🆕正式公開】駿台事件真相編―5-3・駿台CM作戦―🆕女性刺客四人組活用編(その3・具体的展開解説版)

場合によれば:現在アドレス未定

【💁🆕正式公開】駿台事件真相編―5-4・駿台CM作戦―🆕女性刺客四人組活用編(その4・脚注編)→ここは上記に併合するかもしれません。

この箇所は下記には一切ありませんが予定しています:現在アドレス未定

【💁🆕正式公開】駿台事件真相編―5-5・駿台CM作戦―🆕女性刺客四人組活用編(その5・世界からの情報編)


 

個人情報公開理由(上記の648-5の場所には2024年5月頃から浜田正典氏以外の人がお住まいなので注意ください。)

各種個人情報が出てくるが、

(A)我が家の住所(戸籍=現住所=登記簿:祖先は1600年代後半から系図あり:本家)を使用され、各種被害(2017年のみでも2万円損失させられたことをはじめとして多数)、その他の膨大な被害(灯油のみでも無断で5回いれられかけ、実際に2度いれられた)があること、

更に、

(B)我が家住所番地使用者・浜田正典氏(司法書士)に是正を求めても改善されず、

(C)該当者自身の職業が司法書士という法の専門家であること、

(D)生活に支障を何度もきたしたこと(例:嘘の死亡の疑いが高いが浜田正典氏が死亡した際には葬儀屋が我が家へ来て私が対応、霊柩車も最初我が家へきたようであるなど)…その他膨大な被害があること、

(E)私が意味不明の40年近い被害を受けている原因が家間違いの疑惑があること

(F)多くの情報網を持っている世界の我が友=世界の指導者が10人以上、暗に原因は家間違いであることを示唆したこと

(G)深い事情を知っていると思われた、亡き友人(司法試験にも合格したと言っていた)が「トラブル被害の原因は人間違い」を明言したこと、

(H)美作市役場などに相談しても適切な対応はとられなかったこと、

等等から、個人情報であっても、私の生命を含む人権を守るための、超法規的措置もかねて公開に踏み切った

 超法規的措置と言っても、浜田正典氏は司法書士事務所の関係で使用住所の一つ位田648-5は各種ホームページで公開されていること、…で、彼らの住所はCM扱いとなっているため、私への人権蹂躙を阻止するという)正当な理由抜きでも、今回の情報公開は合法とも考えている。

私の人権編:⚔⑧―40年の人権侵害全貌解明:8月16日編(8月24掲載)

https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=40006

 

(Ⅰ)具体的な展開(1982年4月~1983年末)

★略年表

1:1981年4月真備高校講師、岡山進研予備校講師、進研模試check、倉敷の予備校講師

2:1981年秋駿台の試験(模擬授業=表三郎、矢田部長)11:22(11月22日)合格

この頃倉敷の予備校で嶋坂先生(ポリテクカレッジ岡山に私を行かせた人:京都外大教授等歴任・彼の父が京都外大学長)と知り合うか。

同年、いきつけの店のママさん(当時の店の名称は笹寿司)から岡映氏を紹介される。後に食事会を。

3:1982年4月駿台教壇へ(政経担当)

4:1982年秋ポリテクカレッジ岡山から招聘→何故かポリテクカレッジ岡山でも山埼が強調される

5:1982年秋・ポリテクカレッジ岡山専任の関係で駿台辞表書きかけるや即専任延期の電話(盗撮の如し)

6:1983年4月ポリテクカレッジ岡山の教壇にもたつ。

7:1983年4月講師室係四人組入社・西山・タケウチ・横家・後藤

8:1983年夏:熊本(後に調べると歴史教育協議会が主催):オプションツアーで水俣へ→水俣で出会った女性に❤:脈もあるとしか思えず。これだ、と。

9: 1983年9月から:西山が突如、私の関心を引こうとしだす。中谷先生(世界史)から食事に誘われる。2022年頃分かったが中谷氏は歴史教育協議会会員のよう。

10: 1983年末お嬢(🎎)が岡山市へ

11: 1984年1月🥴催眠熱開始(水俣で出会った女性から突如西山へ熱が移動の謎):高校生の👧と西山の視線があい火花…を契機。。

12: 1984年2月(真備高校同僚)木下さんへ手紙(後に矢田事件・木下発言との語呂合わせでの🥴催眠誘導を疑う。)

13: 1984年3月、早大大学院時代の教え子・鎌田さん📺テレビ登場(中村メイコ番組)

14: 1984年夏前:池田動物園で見合い女性とデート:🛵おじょうと2015年訪米の際の添乗員登場の予告。共に虹も。

15: 1984年9月頃西山へ手紙を手渡す

16: 1984年秋=西山の怯えまくる演技開始

17: 1984年10月頃か=不審人物でないことを証明→(やむなく)後藤・横家と会話(それまでは二号館講師室係の顔も名前も覚えていない)。

18: 1984年11月頃か岡山中学・高校から専任でスカウト=駿台から引き留め(松茸三昧の店、政経のみで3年生活保証確約、部長から🎬藤山寛美の劇の券を渡される)

19: 1984年11月頃=虹を見るや🛵おじょう(田中さん)と出会う。池田動物園で出会った女性が東京の田中さん連想でおじょうの予告役。

この頃、何故か、🎬映画狂藤村先生(国語担当)と会話が多くなる(この年か翌年初めに藤村先生に30万円を貸す)

20: 1984年11月~12月頃:カミのからかい。

①カミに事情をいい西山に普通にしれくるように依頼。②カミ舞い上がり→かみさんも普通にと再度要請→彼女が「ウジウジ」と怒る。

やむなく(京都校1号館)吉田課長にも事情を言う。

21: 1984年11月~1985年2月🛵おじょうとデート三昧

22: 1985年○月興味もない小泉今日子(一人二役)の🎬映画を見る。その直前に藤村氏から🎬映画(恐怖映画と思う)の券を渡される。

🥴催眠:小泉今日子=横家、次に連続して横家=(高校時代部落研後輩)船田さん→以降、船田さんと喋っている感覚となる。性格も≓と🥴刷り込み。

23: 1985年2月京都愛宕山へ=🛵おじょうとこの頃がピークと思うや、バレンタインで贈り物、その直後から関係突如悪化(おじょうの演技。その前に至る所でおじょうが手をあげ、知らぬ男が手をあげ→異変を感ずる)

24: 1985年3月頃【🥴催眠】(違って入れば4月頃)おじょうと会談。もはや修復困難と判断:この会談前も会談時も私に催眠がかけられていた。証拠あり。多分、破綻促進用。

25 :  1985年3月下旬か🚲で峰山峠越え

26: 1985年春。深見係長と何かの用事で会談。その際、西山の件も解説。

深見氏「西山さんが濵田先生の手紙くらいで怯えるとは信じられません」を強調。次に、私の持っていた鞄(車寅次郎と同一の鞄)を強調。

27: 1985年4月🎬(映画狂)藤村夫妻来訪、金甲山へ案内(この頃岡山の予備校に紹介か)

 

 

1985年前期

28: ①二号館男女問わず合同食事準備

29: ②1号館西山・タケウチなどで再度の好きな振り遊戯(西山の好きな振り詐欺第三段・3回目)

30: 1985年5月頃か、口もきいたことがない女性が私を見て逃げ回る(【🥴催眠】確か1984年春に東京で見事なまでの女性に出会う。その直後84年4月に駿台入社と思う。催眠で東京の女性=この女性と思わされるも、会話も、物欲しげの目つきでも見ず。西山事件の年で。ただし、容姿ならばこの女性と思ったか催眠で思わされた。東京の女性が効いていた。1985年度から京都校1号館から2号館受付に異動した女性)

1985年横家にこの女性に普通にしてと依頼→即正常へ(ただし、その後も人前も含めて一切会話もせず、近づきもせず、完全無視を貫く)

32: 岡田課長から釘刺し=駿台女性とつきあいたいときは必ず岡田課長を通すように。岡田課長が代理で打診すると。合意。もっとも、これはタケウチへの申し込み後であったかもしれない。

33: ②【🥴催眠】タケウチに「普通にして…」会談言わされる。決定は2年間は無視(経過観察)を方針としていた。タケウチのコピー見るや即真逆の反応。

この頃、平野真理氏が加わったようで、その関係でカミは突如おとなしくなっていた。

34: 上記のゲームに巻き込まれ、二号館有志による食事会を流すという約束違反をする。後悔=無責任。私が全部金を出すと言っていた以上約束違反。

35: 岡田課長が、「西山さんも本当は濵田先生に気があるのでは」と冗談とも・本気ともつかぬ言動をするくらいに西山の行動は通常の理性では判断不可能であった。

36: どちらと見合いかを多数の人に相談。お嬢(🎎鎌田)さん、斉藤(早大院同期)、マリーサ(フィリピンの友人)、後に親友エミ(関学時代の親友・彼には横家にまってほしいを言わされた後の夏会談の可能性もある)→全員が後藤さんと返答。

フィリピン友人女性マリーサ。日本の女性の一部は嘘ばかり。当時を懐かしみ、友人女性も添付。駿台女性…が如何にデマかが分かろう:肖像権問題より絵風加工。駿台女性・岡山女性同一の形で絵風加工し、必要時全公開検討:写真85-013-14A-fMT:掲載目的は駿台絡むデマ粉砕のため

37: 1985年夏前【🥴催眠】横家に待っててほしいと意味不明言動

38: 1985年夏:横家さん、婚約発表。

39: 1985年夏決定。これをもち、見合いも含めて駿台女性は全部切る。ただし、他での見合いは🛵おじょうと正式に破綻通告していないため不可能。お嬢のアドバイスは自然消滅をまてであった。

40: 1985年秋から、西山美千代が別人になった如く粗くなる(私は別人に入れ替わったと思ったくらいであり、事実の可能性が高い。1995年には別人と入れ替わったと明確に記載をしている。)良妻賢母型からヤクザの姉御型に変化していた

恐怖を感ずるときすらあった。最後にはヘアスタイルを姪(長姉の娘)の幼い頃と同じにした記憶があるが定かではない(なるべく顔を見ない・視線を合わさない努力をしていたからである。偶然視線があうとカミをかきむしって怒る真似をしていた)。またかんざしを強調したときも。私は一貫して別人と入れ替わったと解釈している。

これが駿台事件前半の流れである。後半は大阪校に移動してハ調を変えて危険なリズム(明白な業務妨害、刑事犯罪被害の連続)となる。

41: 1986年春:深見係長からの大阪校異動の電話。その受話器をおくや、【🥴催眠】は西山熱全て解除された。なお、🥴催眠での熱は西山のみであり、後藤・横家は見合い相手にどうかというレベルの催眠であった。熱まではかからなかった。

1986年を持ち、駿台催眠熱は解除された。ここで、四人組の使命は終了した。ところが、駿台事件を記載する前後に必ず、催眠で彼女らを回想させられる。性格も生き方も知らぬ女性で。全て催眠のなせる業である。

(Ⅱ)上記の中からめぼしいもののみを解説していく。

当時の理想の女性像を三つの写真で表現する。

Ⓐ:新しい社会における男女のありかた
写真は浜田隆政撮影。写真の中の文は平塚雷鳥の有名な文書の一部

写真№14-037-032-文字-300

解説は以下参照。

☆☆☆☆☆☆
エッセイ・写真―1回・万国の女性よ自立せよ。
★『万国の女性よ、自立せよ!』
――朝まで生テレビ録画『女性が輝く社会』を昨日見て、私が最後に言った言葉の続き。
https://takahama-chan.sakura.ne.jp/p-essay/custom7.html
☆☆☆☆☆☆

Ⓑ:理想の家族像。
公民権運動を偲んでObama家族が行列に参加している写真(無断活用、著作権侵害🙇。問題がある場合にはMr.Obamaから直に抗議をしていただきたい。もっとも、著作権はオバマ夫妻ではなく、カメラマンにある)。
私の理想の家族像はこうした形である。

公民権運動を偲んでObama家族。私の理想の家族像はこうした形である。



Ⓒ:実際に、熱をあげ、未だに一貫して良いと思った女性。(ただし、丸三日間のみでの感情である。)
1983年に水俣に行ったときに出会った女性。
この写真の中に❤の(熱をあげた)女性がいる。美人ではないが、第一印象では完全にこれが良いであり、迷いなし。
ただし、実際に付き合わねば不明な部分はある。
社会、教育、人権に興味を持っていることは間違いない。この女性とどうやってコンタクトをとるかを1984年1月まで考え続けていた。

水俣参加者の住所録はあったが、後に見ると名前と電話番号のみとなっていた。該当すると思われる人物は2名おり、どちらだろうか迷い、どうしたものかと考えていたが、駿台が休み(政経の場合には2月中旬頃から4月上旬まで完全休みとなる)に入った頃に最後の(関東行き…など)賭けをするか迷っていた。ところが、先手を打たれて1984年1月に突如の西山熱に置き換えられた。こうした前例は過去最低でも3例ある。ときには数秒で意識が変化などである。(水島🆚船田、水俣で出会った女性🆚西山、滝沢🆚吉田…)。最初の例以外は要因は何もない。正に突如であり、半年後に考えると青天の霹靂型が多い。

水俣に行ったときに出会った女性。1983年。この写真の中にの女性がいる。美人ではないが、第一印象では完全にこれが良いであり、迷いなし。ただし、実際に付き合わねば不明な部分はある。社会、教育、人権:写真番号83-002-19A-f



実際に1984年春休みに東京へ行ったと思うが、その前に突如の西山熱、回避するため(今考えれば軽度催眠誘導で)木下さんに手紙…で上京した時には忘却をさせられていた(根拠は矢田事件に絡めて木下という名字をだしたかったのであろう。更には手紙を考えると突如の偶然出会い…と証拠もある)。

さらに1984年春の上京の際には、見事なまでの-私の好み容姿ではPerfect型女性を目にする(この女性の横にはマスコミで有名な女性がいた)偶然ではあるまい。正に映画・テレビ説である。
その直後に、東京でであった女性≓(入れ替わり)と暗示をかけられた女性(刷り込み現象催眠があった女性)が駿台に入社してくる。(※番に書いている女性である。刷り込み現象であり、実際には少し違っていたと思うが)どうせ玉砕ならばこちらにいく。すると西山は玉砕ではなく、好きな振り詐欺を既に一部していたとなる。孔雀関連での紹介見合いは1983年の間違いであったかもしれないが、こちらの方は間違いなく1984年春である。

こうして、東京に行ったときには水俣女性は脳裏から外されていた。(該当者2人に☎電話をかけて当時の写真を手渡したい…で動いたり、当時のツアー主催者に写真をみせたりして、該当者をきくことも可能であったが、1984年1月に全部忘却をさせられていた。)

なお、この上京の際に、孔雀のママさん(田中さん)と孫さんの両方から見合いを勧められた記憶がある。どちらか一方…と迷うと、お孫さんが見合いなので両方連続したら…といっていた。この娘さんを連想させる女性が1984年夏の見合いして池田動物園に行った女性であり、この娘さんと同姓の女性が1984年秋に登場してくる🛵おじょうである。(そう言えば孔雀のママさんに顔は似ていた)。ママさんと言っても、80歳は超えていたであろう。なお、どちらか一人ということで見合いした女性が何となく、🎃オジョウと似ている感じがしている。

因みに、丹波笹山の先輩は「水俣で出会った女性はお嬢(🧜)だ(化けたのだ)」と言う。また、この女性とは駿台大阪校での刑事犯罪被害が開始する前の夏休みに岡山で(偶然)出会ったと思う。駿台女性事件とは、もはや映画・テレビ説での、私抜きでのドタバタ劇は解説の必要性はあるまい。馬鹿馬鹿しい。

Ⓓ駿台講師室係・西山への当初の印象。

当時の私の生き甲斐・目的は授業にあった。伴侶はMy better halfであり、共に授業を求めていける女性を考えていた。
駿台🚺(女性)とは生き方が違うと思い、一切眼中になかった。

ところが、二段階の催眠が使用された疑惑が高い。
まず、1982年度の講師室係🚺(同志社文卒=名前を覚えていないので学校名で記した)への軽度の催眠での関心をもたらされる。
この🚺(女性)は客観的に魅力があったかもしれないが、会話手段もなく、銀行の受付の人と同様に接する方法は何もないいため、通常ならば何の感情も起こらないであろう。ただ、私が考えていた、予備校職員女性像とは違うという感覚をもたらされたのみである。

こうして、駿台講師室係🚺でも、私の生き方に併せられる人がいるかもしれないと思わされる。
共稼ぎ志向、波瀾万丈となるかもしれない人生、教育・人権・社会に関心のある🚺以外は眼中になかった。当然、それまでは駿台講師室係🚺女性は眼中になかった。

この女性は一年で辞めることになる。吉田課長が「彼女はお茶くみなどをしにきたのではない」と言って辞めたそうである。その後で、私が聞きもしないのに、「彼女には彼氏がいました」などと私に解説を突如した謎がある。(彼女も駿台のシナリオに入っていた可能性がある。しかし、絡めるのは1983年度駿台京都校入社4人組と決定されており、前座の役を果たしたのであろう。)

83年度入社組の西山美千代については、83年夏前までは通常の感覚であった。記憶では駿台講師室係女性は伴侶対象外としていたが、前年のAから念のためにどのような人物群か…の実験で西山と口を少しきき、第一印象でやはり、生き方が違うとしか思えず門前払いした記憶がある。人生観(人権・社会・共稼ぎ・万国の女性よ自立せよ…型人生観)と違う。喋っても時間の無駄、無視が当時の心境であった。
西山を簡単な会話相手(といっても1回1~2分を数回程度である)としたのは、容姿などが好みではなく、女性として意識しなかったので気安く口をきけたからにすぎない。真逆が第一印象であった。その後(1983年夏頃から)は1984年夏までで挨拶以外では口は利いたのは皆無に近いと思う。

(Ⅲ)駿台女性事件の具体的展開

1:1981年4月真備高校講師、(福武書店経営)岡山進研予備校講師、進研模試check、倉敷の予備校(倉敷英数学館)講師
※福武書店は後にベネッセと名称を変える。当時は創設者福武哲彦氏が社長。2005年頃に知ったが、私の父と知り合いであった(父の岡山師範一年後輩が哲彦氏であった)。
→真備高校などは映画・TV等とともに流れがつくられ、随所でその暗示や併行型展開などがあった。

この頃倉敷の予備校(倉敷英数学館:後に倒産。当時は労基法違犯だらけ、ポリテクカレッジ岡山を連想する予備校)で嶋坂先生と知り合ったか。

同年、いきつけの店(笹寿司)のママさんから(分裂前の部落解放同盟副委員長。後の正常化連議長)岡映(おか あきら)氏を紹介される。後日、1対1で食事をさせていただく。会話内容は店の人には全部聞こえる場所でおこなっている。この種の会談は早大大学院時代の市川房枝氏と同様であった。市川さんの選挙参謀が議員になる前の菅直人氏であった。

岡さんと出会った頃、私は岡山市北区高柳に家を借りており、一番近くの食堂が笹寿司であった。岡映氏は民主会館で仕事をされており、民主会館が笹寿司の近くにあったのでたまたま店の常連客であったにすぎない。後に、ママさんは移動され、(岡山市)三門駅の近くで店を経営されていた。今もされているかもしれない。

2:1981年秋駿台の試験(模擬授業=表三郎、矢田部長)11:22(11月22日)合格

3:1982年4月駿台教壇にたつ。


授業への苦しみとは(授業準備と責任):既に05-01で公開
2019/5/3 求め・駿台
補章-2:追記―1・授業の苦しみ:(1997年1月18日授業の後記す)
http://h-takamasa.com/Blog/?p=11575

山﨑春之理事長についても記載あり:既に05-01で公開

2019/5/10 求め・駿台
補章ー2・追記―3・(A)2016年追記・「予備校文化と水俣への旅」と(B)2017年追記・「駿台辞職の経緯」。
http://h-takamasa.com/Blog/?p=11579

4:1982年秋ポリテクカレッジ岡山から招聘(駿台関与疑惑が?)

5:1982年駿台辞表書きかけるや即専任延期の電話(盗撮の如し)

6:1983年4月ポリテクカレッジ岡山の教壇へ

7:1983年4月講師室係🚺四人組入社(西山・タケウチ・横家・後藤)

【感想】

後藤→何故かウロウロ=これが若い人か

横家→1984年秋過ぎまで顔も名前も存在も知らず

西山→生き方が違うと門前払い:容姿も好みに非ず。

本来、生き方から門前払いを1981年講師室係🚺を見て、どんな人がいるのかと一応興味がてらに(容姿など好みでないため、🚺として意識せずすむので)西山と軽い会話(結果。やはり、これは生き方がが違う。同時に

それまで大学1年以降会話したのは、部落研究部🚺、婦人問題研究部🚺、自治会関連運動🚺…。他方、大学院時からは早大大学院在籍の関係で名大大学院進学🚺、一橋大学出身🚺、東北大文学部出身🚺、大阪大学英文科出身🚺、医学部志望🚺…もちろん大学名を問わずに学問一本槍派の人間である。若(も)しくは教員志望🚺、…であり普通の🚺は知らない。それと教え子類のみである。高校2年、3年は大半が男子の理科系くらす。17歳頃から、通常の🚺とはほとんど会話をしていない。

同時に、駿台では職員と講師は分離されており、接触の場はない。よって、通常は見合いでしか日常会話は不可能なシステムとなっていた。職員の住所・電話番語も講師には教えないシステムが徹底されてもいた。

2019/4/20
駿台:人間違い:会話等実体なし
№136:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違い、と言う(2)
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1112/


講師と職員は別物とし会えない構造・駿台型システム。忘年回…全て別。住所も教えない。他方建物はガラス張り構造で会話も丸見え
2019/4/26
駿台:人間違い:手紙事件
№137:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違い、と言う(3)
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1115/

 

8:1983年夏水俣へ→水俣で出会った女性に❤:脈もあるとしか思えず。これだ、と。

【❤】社会・人権(水俣)・教育に関心ある女性。容姿は美人ではないが、私好み。→一寸の迷いなく、この人にアタックと決定。

相手も私に感心というよりも気があるとしか思えぬ反応。マサカ…であったが、後に、大学時代の丹波篠山に住む先輩が「あれはお嬢だ(🧜)」と。


私の女性観と水俣で出会った女性の写真、オバマファミリーを例に出しながら。西山No理由も分かろう。また西山2人説。重要
2020/10/11 気がむけば一言
(4-2)・当時の女性理想像と催眠変化被害。
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1391/

9: 1983年9月から:西山・中谷氏

【水俣から戻るや振り詐偽の自然型をおこなっていたよう】→ただし、意に止めぬも、(駿台職場中で👶あやし等)不自然さは感じた

水俣から戻るや中谷臣(世界史教師)に食事に誘われる(2022年頃歴史教育協議会に関係していると知る。だが、私は当時はもはや党派中立・宗派中立。何故、水俣に行ったのを知っていたタカ)

この後世界史の中谷先生に食事に誘われる。2年ほど前に中谷氏の歴教協…の記事を見る。念のために調べると水俣…は歴教協の主催であった。だが、私はこの団体は名前もしらず、笹山の先輩にだまし討ちで行かされたものである。何故、中谷先生が私が熊本の同集会や水俣に行ったことを知っていたのであろうか。(📺説)

水俣からもどると、何故か西山の策動が開始

🚺西山が👶をあやしたり…私の関心を引こうとしているように思えたが上記で無視
83年末もう一人のお嬢🎎が岡山市へ移住してくる。
83年頃世界史の中井先生がしきりに二号館の格闘技女性の話を私に。これが横家と思うが興味なく彼女は西山事件(1984年秋)まで顔も名前も存在も知らなかった人。ここで横家登場は暗示されていた。

 

10: 1983年末お嬢(🎎)が岡山市へ

 

11: 1984年1月🥴催眠熱開始(水俣で出会った女性から突如西山へ熱が移動の謎)

【🥴催眠】で突如熱。→当時、催眠なるものを知らぬが、心の中で猛反発🆖と。

84年1月突如の催眠での西山熱
契機:かわいがっていた高校3年医学部コースのこと西山の視線が合い火花がちったように思えた瞬間に即催眠状態(催眠解除は1986年3月の深見係長からの電話の受話器をおいた瞬間、それまで断続的に催眠は続く)

84年催眠熱に抵抗する(当時は催眠を知らぬも、この🚺は生き方が違うときった🚺なのになんで…と)。催眠熱が激化。

12: 1984年2月(真備高校同僚)木下さんへ手紙

当時は自然と思ったが、今考えると、自然型催眠

①今更手紙など出せないと思えば、即、岡山駅から庭瀬駅ゆきの電車で鉢合わせ。

②とうじは、水俣で出会った女性にコンタクトをどうやってとるかの試行錯誤中(住所録は渡されたが、該当者らしき女性が2名いたため、どちらに連絡をするかで迷っていた)

3木下さんは確かに、私の方は🆗(学校教師、共稼ぎ、温和、音楽に造詣があり、情操教育はあると思った)であるが、真備高校時代に全く脈がなく、近づいても無駄と思わされていた人。

42024年から矢田事件を臭わすために、🎬説グループが私に木下さん宛て手紙をだすように誘導した疑惑が浮上してきた。

西山熱に抵抗し、真備高校時代の同僚・木下先生に手紙を決意。
だが、やめて2年経っておりためらう。すると即、木下さんと電車で鉢合わせ。そこで手紙を出す。返事はない。想像通り。教師・音楽・温和で良いは事実も真備高校時代に全く脈がなかったので近づけなかった女性。更に不思議なのは、当時は水俣で出会った女性との接触を模索していたはずである。玉砕覚悟ならば水俣で出会った教師志望の人である。しかも、こちらは確実に脈があった上に、生き方がまず合致の可能性が高かった。
容姿も好みのタイプであった。
更に不思議なことは木下さんとは何度も同じ🚂電車のはずであるが、先にも後にも会ったことがない。私=京都=岡山=庭瀬。木下さん岡山―(庭瀬)―倉敷である。
偶然にすれば奇異。また、矢田部長から木下挨拶文の木下の言葉を本年連想。
映画説の語呂合わせ疑惑。

84年上記で西山熱緩和

13: 1984年3月、早大大学院時代の教え子・鎌田さんテレビ登場(中村メイコ番組)

ここで🎬映画説のゴングがなったか。

14: 1984年夏前:池田動物園で見合い女性とデート

東京居酒屋「孔雀」の娘さんを連想。娘さんの名字は🛵おじょうと同姓。

また2015年訪米の際の添乗員が池田さん。二人併せて11万2200円、即ち1122(いいふうふ)で参加。


84年夏前に再度の西山熱。
もう抵抗し見合い。上手くいくはずが…。東京の孔雀の娘さんを連想の女性。ちなみに🛵おじょうと孔雀の娘さんは同姓。数度目のデートで池田動物園に行くや破談。池田とは2015年アメリカ行きの添乗員の名字。1122(いいふうふ)でいかされた。
池田動物園の経営者は池田隆政、ここから私の名前・隆政が来ている。同時に、池田動物園と私の父(教員辞職後養鶏家)浜田耕治は商売取引をしていた。池田隆政名義の年賀状を何度も見ている。

84年再度の西山熱。
私はそれでもNo、第一、名前も知らぬ女性に、しかも、住所も電話番号も知らぬ女性にどうやって対応するのか。更に、職場内では講師と職員は二人では会えぬシステムとなっている。事務員の電話番号も聞いても正当な理由がない限り、(教員には)教えない決まりとなってもいた。宴会も別々。第一名字はしっているが名前も知らぬ女性に…と抵抗。
すると、その頃、物差しが、私がいつも座る席の前にあった。そこに「西山美千代」とあった。
それを見て手紙を手渡すことを決意させられた。手紙の内容は神戸にいる🚺従兄弟に全て読み、問題がないのを確認している。

15: 1984年9月頃西山へ手紙を手渡す

【🥴催眠と工作】住所・電話番号どころか名前も知らぬ女性に手紙を渡せるかと、自己問答すると、即座に物差しが…。そこに「西山美千代」とはってあった。通常は✎や物差しには「駿台予備学校」と記載されるはず。

もし、今の如く、催眠という存在を知っていたならば、私は西山に📨を出した後で、あれは催眠ですので、無視してください。本当にご迷惑をおかけしてすみません、と。


総5・西山美千代への手紙内容と返答内容
2020/6/20
気がむけば一言
【変愛:駿台】№193・相変わらず、駿台講師時代の女性の件が分からず―手紙内容公開等
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1317/


こうして1984年秋に手紙を手渡す。
即、速達で返答「私には好きな人がおり…」と。ただし、手紙には西山氏の住所や電話番号は一切書いていなかった。
そこで、学校に行き、最初に出会ったときに、他人には意味不明の形で、更に他の人が廊下で出会ったときに(それでもガラス張り構造のため事務所からは丸見えである)、大きく一例して、「お世話がせしました」と詫びた。これで終わった\(~o~)/
なお、詫びを言った瞬間に、何故か悔しそうなというか怒ったような顔をしたのを覚えている。意味不明であった。

西山熱が催眠であったことの聞き取り調査を。証人の一部など。また、西山の好きな振り詐欺は私が手紙を出す前の1983年秋から開始していたこともわかろう。


分析用出来事表、(証人一覧)聞き取り調査依頼とその際のポイント。大阪校東大志望女の子と食事…覚えておらず、近藤さん2分会話で北海道医師へ
2020/10/4 気がむけば一言
(4)出発点の不可思議さ―人間違い説
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1386/

16: 1984年秋=西山の怯えまくる演技開始

17: 1984年10月頃か=不審人物でないことを証明→(やむなく)後藤・横家と会話。

【心理学工作】


西山美千代に熱を上げ催眠の契機事項:後藤・横家登場の心理学的工作
2019/5/23
駿台:岡短:人間違い
№142:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違いと言う(8)―付録
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1125/


その後怯えまくる。🤷


なお、この怯え演技で、駿台2号館で何があったか…と歌舞伎訳者型で後藤と横家が私の顔をのぞき込んだ。本当に芝居という物ではなかった。
【行動心理学の応用疑惑】
当然、(セクハラ・パワハラ・強姦…と無関係…の)誤解をとくため、彼女らに私をしってもらう目的で初めて口をきかざるをえない心理に追い込まれた。それまでは京都校2号館女性とは1983年4月~1984秋まで口をきたいことがなかったか、聞いてもないようは未だに覚えていない。それどころか誰がいたかも全く覚えていない。

18: 1984年11月頃か岡山中学・高校から専任でスカウト=駿台から引き留め(松茸三昧の店、政経のみで3年生活保証確約、部長から藤山寛美の劇の券渡される)

19: 1984年11月頃=🛵おじょう(田中さん)と出会う


京都にいきがけに虹をみた。
同時に見合いで🛵お嬢と出会う。意気投合というよりも、見事に私をリードした。

他方で、京都校1号館では西山怯えがやまずに弱る。おじょうは「ほっとけ」と。
だが、極端なため、事情を駿台講師室係🚺カミにつげる。「普通にするように頼んでくれ」と。
ところが、今度はカミが西山をだしたり、引っ込めたりで喜びまくる。

この頃、何故か、映画狂藤村先生と会話が多くなる


好きなフリ詐欺第二波=1984年秋頃~1985年3月頃→🚺みんなで参加序曲。おじょうとの対比
2021/7/6 安らぎブログ
教育・女性をめぐる各種デマへの反論―4②・駿台🚺、更に謎の差別文書の謎―②(=その2):好きな振り詐欺2波など
http://h-takamasa.com/Blog/?p=26019

20: 1984年11月~12月頃:カミ

①カミに事情をいい西山に普通にと。②カミ舞い上がり→かみさんも普通に「ウジウジ」コメント。併せて吉田課長にも事情を言う。

21: 1984年11月~1985年2月🛵おじょうとデート三昧

おじょうの父との会話も収録
2020/9/4 気がむけば一言
【謀略】№204・愛宕山、🌈おじょう(🛵)から安倍昭恵まで。#駿台:🧜・🎎→🌊(🐬)→🛵(🌈)→🌞(📺)→🎃
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1375/

藤村先生が「かみさんこそ美人、浜田先生よくみなさい」とカミが…の種明かし。
普通にしてが女性のプライドを傷つけたそう。
2021/1/26
気がむけば一言
【駿台】№223・駿台講師時代ウジウジの話―怒ったのは私ではなく逆では?
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1455/


他方で、京都校1号館では西山怯えがやまずに弱る。おじょうは「ほっとけ」と。
だが、極端なため、事情を駿台講師室係🚺カミにつげる。「普通にするように頼んでくれ」と。
ところが、今度はカミが西山をだしたり、引っ込めたりで喜びまくる。

そこで、カミさんに再度、「カミさんも普通にしてくれ…」というとカミさんがいかり「先生はまだうじうじ…」と喧嘩言葉であった。
当時は意味不明も、友人諸君は喜び回った。
数年前に催眠での解説があった。
当時のカミさんのヘアスタイルと藤村尚美先生の言葉を思い出せと。
当時、藤村先生は私に何度か次のことを言っていた。
「浜田先生、目をさましなさい。先生はおかしい。先生の目はおかしい。よーく、ご覧なさい。先生、カミさんみたいな女性を美人というのですよ。もしくは魅惑的というのですよ。先生、よーくみてごらんさなさい…」
これを数度いわれたことを思い出した。私はカミさんは既婚者であり、女性としては一切みていなかった。同時に容姿も好みではないし、いきかたも全く違う女性である。
だが、藤村先生が私にその言葉を言った頃、カミさんがヘアスタイルなどを何度か変えていたような記憶がある。当時はなんだろうか…。でしかない。

就寝中に催眠が言うには、カミさんも映画説…に加わりたくて、ヘアスタイル…をかえて、先生がかみさんにどういう反応をするかみていたそうである。そして、そのときに「かみさんも普通にしてほしい」といったため、女性としての自分を馬鹿にされたように誤解したというのである。あるいは藤村先生か誰かがカミにも何か(浜田先生の本当の好みはカミさん型か何か)を言ってたぶらかした疑惑もあった。

要するに女性のプライドを傷つけたというのである。嘘か本当かは知らない。催眠解説である。なお、1982年に駿台教壇にたったときに、女子生徒が何故べったりとソファで私のすぐ横に座ることが多かった。極論すれば太ももが接する程度に。それを見てカミさんがかなり反応をしてしており、何故、この女性は既婚にも拘わらずに、私に関心を持つのだろうかと不思議に思ったことがある。
今は映画説で、故意に異性として関心を持った振りをしたか、それとも映画・テレビ説でその主役の私に関心を持った振りをしたと解釈するのが妥当と思っている。
私は通常の女性に関心を持たれるタイプではない。(二枚目で颯爽とした、知的な)福﨑伍郎君とは違う。

女子生徒…も今考えれば映画説のなせる業だったのであろう。
こうしてカミさんにも手を焼き…今度は吉田課長に事情解説

なお、あれだけ派手に西山の怯え…に吉田課長が気づかないはずがない。ところが、後に吉田課長に経緯を言ったときに彼は知らなかったと言う。百パーセント、吉田課長も駿台・映画説からの事前のシナリオを大半は聞いていたと現在は分析している。

どうでも良いことを何故催眠で今頃(2024年頃)に。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
2024年6月17日青山医院道中で無理やり催眠で言わされた「カミ」の件について。

経過:
1987年5月頃「カミ」と西山の件で「タケウチ」に一言言わされた
当初予定はオフセットも含めて二年間は一切何も言わないという方針を出していた。(※1)
ところが「タケウチ」のコピーを見て(契機として)催眠状態に陥り何か(既に記述のこと)を言わされた。

②帰結
この件で「カミ」「タケウチ」西山は解雇はされていないし、左遷もされていない
パワハラ、セクハラ、ストーカー行為等は私の方は一切していない。
3人ははしゃいでおり、喜んでおり、駿台にいづらくなったとは通常はみられなかった。
以上。

③1984年末頃の「カミ」
A:授業と授業のわずかの合間に「カミ」が西山を出したり、引っ込めたりしていたことは聞き取り調査が望ましい
証人:西山美千代本人にたずねること。場合によれば近藤さんも知っている可能性が高い
B:2度目に私がかみさんにも普通にしてほしい、といった状況については藤村尚美(国語教師)に聞けばなにかが分かるであろう。藤村直美氏の住所・電話番号は私が知っている。必要があれば私宛に連絡をもらいたい。
もちろん、「カミ」自身が事実を語る場合もあり得る

④あるべき質問
私への質問は挑発や催眠を悪用するのではなく、私の立会人・新免昌和氏を通して正式に質問をしてもらいたい。
平野真理氏などは私を知っているため、文書で私に直に質問をしてきてもよい。
平野氏の質問文も・私の返答も両方とも私のホームページでそのまま掲載することを確約しておく。
⑤「カミ」の件から「タケウチ」へのコメントまで期間があったと言えば期間があったとも言える。
しかし、私はマイナーな政経担当のため冬休み・春休みがあり、また二次試験対策での出講もほとんどない。
そこで1984年末から1985年4月までは駿台にはほとんど行っていないため期間あいていないとも言える。
確実に言えることは、上記も含めて私の記憶もしくは記録では二年間は何も言う予定はなかった。催眠で動かされたことは私への傷害罪であり。同時に強制労働被害であり、それへの賃金が支払われていないため貢ぎ労働被害でもある。
以上。

※1:西山、「タケウチ」等の遊び(好きな振りごっこ遊び)について。
催眠での甘言とか誘惑があった。それへの問答を下記に再録している。当時は催眠をしらなかったが心の動きとして、記憶し、何度か記述をしていた。
だした結論は「「オフセット申し出すら」最初は私はノーでしないと言った。」
結果は兎も角、催眠で動かされたことは下記Blogでも明白である。

気が向けば一言【徒然・私事】№140:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違いと言う(6)【更新履歴】2019/05/10 2:14公開
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1126/
《◇―2・1985年5~6月のS予備校講師室係Cに関して「話し合い」問題》などを参照。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

22: 1985年○月興味もない小泉今日子(一人二役)の映画を見る。その直前に藤村氏から映画(恐怖映画と思う)の券を渡される。

🥴催眠:小泉今日子=横家、次に連続して横家=(高校時代後輩)船田さん→以降、船田さんと喋っている感覚となる。性格も≓と🥴刷り込み。

【🥴催眠】妄想で横家さんとの会話がスムーズに

横家幸子に関してもたらされた情報は膨大にあり、それらは後日記そう。

なお、不可思議なことは、1985年に、見たくもない映画を見にいかされたことがある。多分催眠であろう。
主役は小泉今日子である。
映画自体は1984年12月22日に小泉今日子さん初の主演映画「生徒諸君!」が公開された。

小泉さんは、双子のナッキー(妹・北城尚子〔きたしろなおこ〕)とマール(姉・北城真理子)の二役。

23: 1985年2月京都愛宕山へ=🛵おじょうとこの頃がピークと思うや、バレンタインで贈り物、その直後から関係突如悪化(おじょうの演技。その前に至る所でおじょうが手をあげ、知らぬ男が手をあげ→異変を感ずる)

24: 1985年3月頃【🥴催眠】(違って入れば4月頃)おじょうと会談。もはや修復困難と判断:この会談前も会談時も私に催眠がかけられていた。証拠あり。多分、破綻促進用。

【🥴催眠と⚔工作】おじょう自身による潰れる工作と、🥴催眠による私のオクターブ。軽度とはいえ彼女の頭に手をつけた。暴力は元より、暴力の匂いのすることは女性にはしない。

例外は東京で噛まれたとき、辞め指すのに👧のお尻を軽くたたいたか。(お尻は怪我がない・ひとめにさらさない、同時に相手のプライドが傷つかない。その代わりに効果はなかった。噛みつきは教科された。後は耐えた。)

おじょうとはつきあい、両親も相互に紹介。横家・後藤は生き方も性格も全く知らぬ人。印象操作で、容姿からおじょうから横家・後藤とデマが。

どちらが上とは言わぬがおじょうと横家・後藤の写真を掲載。おじょうも見合いのときには一番人気と聞いていた。

個人情報を盾に嘘が蔓延。いい加減にしろ。みれば分かる。それではおじょうとは何故。おじょうが自分で潰した。理由は横家・後藤がこのままでは登場できないため。映画の脚本ごり押しが事実である。

おじょう

85-001-04A-f.-Tanakajpg_01:45Kb

🆚

横家・後藤

85-002-00A-f100kb:絵風加工で肖像権対策:拡大すれば分かる

25 :  1985年3月下旬か🚲で峰山峠越え

26: 1985年春。深見係長と何かの用事で会談。その際、西山の件も解説。

深見氏「西山さんが濵田先生の手紙くらいで怯えるとは信じられません」を強調。次に、私の持っていた鞄(車寅次郎と同一の鞄)を強調。

27: 1985年4月(映画狂)藤村夫妻来訪、金甲山へ案内(この頃岡山の予備校に紹介か)

85-001-08A-f-100kb:絵風加工+文字で顔を隠す。ただし、何らかの証拠or同意があれば無修正の350KB版に置き換える

 

1985年前期

28: ①二号館男女問わず合同食事準備


吉田課長・岡田欽之課長・深見正明係長・大滝満夫部長への解説と彼らの反応、合同食事会
2020/9/12 気がむけば
一言
【駿台】№205 女性問題でっちあげ被害の謎と、引き続くトラブルの謎、更に人間違い被害疑惑(1)。
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1377/

☆☆☆☆☆

 

29: ②1号館西山・タケウチなどで再度の好きな振り遊戯(西山の好きな振り鷺大三段・3回目)

 

30: 1985年5月頃か、口もきいたことがない女性が私を見て逃げ回る(【🥴催眠】確か1984年春

1985年あからさま好きな振り詐偽茶番編
西山美千代の再度の好きな振り事件(あからさま編)。懐柔催眠(実況中継)の中でも🤡は動かぬと決定を催眠が…突如型催眠(2019/5/8)
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1126/

…「オフセット申し出すら」最初は私はノーでしないと言った…

 

☆☆☆☆☆

に東京で見事なまでの女性に出会う。その直後84年4月に入社と思う。催眠で東京の女性=この女性と思わされるも、会話も、物欲しげの目つきでも見ず。西山事件の年で。ただし、容姿ならばこの女性と思ったか催眠で思わされた。東京の女性が効いている)

1985年横家にこの女性に普通にしてと依頼→即正常へ(ただし、その後も人前も含めて一切会話もせず、近づきもせず、完全無視を貫く)

32: 岡田課長から釘刺し=駿台女性とつきあいたいときは必ず岡田課長を通すように。岡田課長が代理で言うと。合意。もっとも、これはタケウチへの申し込み後であったかもしれない。


駿台女性とは岡田課長を通しての見合い。見合いどころか見合いの打診や検討以前に全滅
2019/4/29駿台:多数女性登場の謎
№138:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違い、と言う(4)
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1118/

33: ②【🥴催眠】タケウチに「普通にして…」会談言わされる。決定は2年間は無視(経過観察)を方針としていた。タケウチのコピー見るや即真逆の反応。

西山美千代の再度の好きな振り事件(あからさま編)。懐柔催眠(実況中継)の中でも??は動かぬと決定を催眠が…突如型催眠
2019/5/21
駿台:人間違い:刺客が実体
№141:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違いと言う(7)―2010年分析:駿台等
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1135/

この頃、平野真理氏が加わったようで、その関係でカミは突如おとなしくなっていた。


好きな振り詐偽第一波=1983年夏頃~1984年2月頃西山が→誰も気づかぬ形で。
第二波=1984年秋頃~1985年3月頃:西山・後藤…カミまで:後に横家も
第三波=1985年4月頃~:ここのみ駿台内で周知事項:
第四派=岡山の予備校で相似形・滝沢と吉田

2021/2/17
気がむけば一言
【駿台】№227 駿台内で私への女性陣の好きな振りゲーム三波―ウジウジの話も…
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1472/

34: 上記のゲームに巻き込まれ、二号館有志による食事会を流すという約束違反をする。後悔=無責任。私が全部金を出すと言っていた以上約束違反。

35: (なお、岡田課長が、「西山さんも本当は濵田先生に気があるのでは」と冗談とも本気ともつかぬ言動をするくらいに西山の行動は通常の理性では判断不可能であった)

36: どちらと見合いかを多数に相談。お嬢(鎌田)さん、斉藤(早大院同期)、マリーサ(フィリピンの友人)、後に親友エミ(関学時代の親友・彼には横家にまってほしいを言わされた後の夏会談の可能性もある)→全員が後藤さんと返答。

こうして、どちらと見合いの斡旋をしてもらうか迷っていた。
友人類にも聞いた。
早大の友人は「後藤さんにしておけ…」と。
お嬢🎎も「後藤さんの方がよい…」と。
関学大の愛媛県にいる親友は「浜田の話を聞いている範囲では、後藤さんの方がよい…」
フィリピンの友人女性マリーサは「話を聞いてる範囲ではこちら」と言って後藤さんを指指した。
私自身はまだ白紙であったが、これが筒抜けであったのであろうか、真逆のことが起こる;。これも催眠のなせる業である。

 

37: 1985年夏前【🥴催眠】横家に待っててほしいと意味不明言動。


意味不明の1985年まっててほしい(催眠言動事件)解説。工作と催眠
2019/5/8
駿台:二つのドタバタ劇:1985年
№140:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違いと言う(6)
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1126/

☆☆☆☆☆
気が向けば一言【徒然・私事】№139:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違いと言う(5)。
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1122/
☆☆☆☆☆

なお、話を元に戻して、その後駿台にいくと、男性諸君から次のことを聞いた。
横家さんは婚約をされました、と。
それはお目出度いことであるが、それでは総合的な流れからいって、横家さんが、私が催眠で待っててほしいというのを事前に知っていたとなる。
これが事実ならば、残念ではあるが、彼女は催眠という傷害罪への共犯者となる。

もし、催眠が分かっていれば、横家なる🚺にも催眠で1985年夏前に「まっててほしい」と突如言わされたが、何のことか意味不明であった。だが催眠とい牛組を知っていれば、「まっててほしい」と催眠でいわされましたが、私には何を待っててほしいのか…など意味不明です。お笑いくださいとはっきりと言ったであろう。

催眠なる語を当時知っていたならば、正直にその趣旨をあいてに伝えて、謝罪し、同時に私を無視してもらったであろう。

1985念夏前の駿台の教師だけのパーティがあった。
私はこのときに横家さんが来ていることは知らなかった。
勿論あっても何も言う予定はなかった。
このパーティに行くと横家さんが受付をしていた。
トイレに行くと横家さんだけがいた。通常は受付女性は二名である。
またこの種のパーティの駿台の講師室係女性がくるのであろうか。
過去、横家、西山、タケウチ、後藤、コンドウ、カミ…などを見たことがない。
また、受付は大抵二人である。

結論から書こう。
横家を見ると、突如「待っててほしい」と催眠で言わされたのである。
青天の霹靂であった。
言わされたものの意味は全く分からなかった。
何を待っててほしいという意味であろうか。
後に実家に戻ったときに、そのことは忘却していた。
当然、次回、横家さんに会うときに何を言うかなどの準備は全くしていなかった。
未だに、目的語は不明である。
「何を待っててほしい」のだろうか。
目的語は何だろうか。
この種の予期せぬ言動を催眠で何度か過去させられていた。

関学時代に、お花さんなる女性の件を書いた。
少し、彼女に熱をあげた時があった。
もっとも、私は情事催眠で揺り動かされており、それが私の意思かどうかは不明である。
愛情やその種の感情抜きで、生き方、性格…で理論上、この女性ならば良いと分析された女性が一番良いと思っている。
愛情は後でつくればよい。

お花さんの件は下記参照。

ここの一言は明白に催眠である。加害者はまず長姉である。

もっとひどい例は絶対に言わないことを催眠で言わされ、当時催眠の存在を知らずに、そのアトしますで、新左翼の集会に一人で乗り込んだことがある。いずれ記そう。当時は今と異なり、党派中立・宗派中立ではなく、新左翼の諸君は私を民青関学のボスと考えていたときである。正に高倉件の世界であった。
このときも明白に催眠での思いもせぬ一言言動である。

 

38: 1985年夏:横家さん婚約発表。

【🥴催眠】でショック的(正確には驚く的)な感じをもたらされた可能性があるが、催眠熱もまだなく、完璧な催眠による反応。

第一、性格も何もしらず。更に、後藤か横家とどちらと見合いかも決めておらず。

39: 1985年夏決定。これをもち、見合いも含めて駿台女性は全部切る。ただし、見合いは🛵おじょうと正式に破綻通告していないため不可能。お嬢のアドバイスは自然消滅をまてであった。

40: 1985年秋から、西山美千代が別人になった如く粗くなる(私は別人に入れ替わったと思ったくらいであり、95年には別人となったと明確に記載をしている。)良妻賢母型からヤクザの姉御型に変化していた。

恐怖を感ずるときすらあった。最後にはヘアスタイルを姪(長姉の娘)の押さない頃と同じにした記憶があるが定かではない(なるべく顔を見ない・視線を合わさない努力をしていたからである。偶然視線があうとカミをかきむしって怒る真似をしていた)。またかんざしを強調したときも。

私は一貫して別人と入れ替わったと解釈している。

もはや駿台校舎一号館では女性職員の顔は可能な限り見ないことんした。
下を向いていて、疲れて顔を見上げたときに、偶然西山の顔が飛び込んだ。怒りくるって、髪をかきまわしている仕草をした。
私は一瞬恐怖を感じた。
まるで、ヤクザの姉御ではないか、と。

確か、1995年頃覚書に書いた記憶があるが、前半の西山と後半の西山は違う人物ではないか、と。
人を入れ替えたのではないか、と。
前半の西山は良妻賢母型を臭わせ、弱々しい感じがしていた。容姿はさほど美形ではなかった。少なくとも私の好みではなかった。
後半の西山はヤクザの姉御を連想するように攻撃型となっていた。容姿は突如美形に代わっていたように思えたが、物騒で顔をまともにみていないので詳細は不明である。
とにかく、下を向いて顔を見ない努力をしていたことを覚えている。

人物が入れ替わったのが事実ならば、1984年初頭からこの時まで、これは完璧な業務妨害の明白な証拠でしかない。
同時に、何故か、長姉の娘、即ち私の姪の幼い頃の髪型に変えていた謎もある。
姪が、何の関係が?

これが駿台事件前半の流れである。後半は大阪校に移動してハ調を変えて危険なリズムとなる。

41: 1986年春深見係長からの大阪校異動の電話。その受話器をおくや、【🥴催眠】は西山熱全て解除された。なお、🥴催眠での熱は西山のみであり、後藤・横家は見合い相手にどうかというレベルの催眠であった。熱まではかからなかった。

1986年を持ち、駿台催眠熱は解除された。ここで、四人組の使命は終了した

 


突如の女性大量登場の謎。山の上の湯浅さん登場・フィリピン二人組…と。但し、駿台以外は遺恨類なし
2019/5/3駿台:2つのドタバタ劇:食事事件
№139:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違いと言う(5)
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1122/

 

 

下記は昔のBlogの抜粋。

 

 

1985年度が開始する。
更に横家と後藤の出番を確定するために二つのことがなされた。
一つは、容姿のみで言えば唯一に近く好みとも言えた女性がいたが、会話などはしたがないし、駿台の西山、横家、後藤…で更にはおじょうと仲良くやっていた頃は手一杯であり、無視をしたいた。だが、念には念をいれてか奇妙なことがあった。
私が授業に遅れそうなので一号館から二号館に走っていると、何を勘違いをしたのかその女性が走って逃げた。その後、西山と同一の形で怯えた振りをして逃げ続けた。正に瓜二つの怯えと逃げる演技であった。別の日に。学内でも。何だこれは…と。これをすれば、私が間違ってもこの女性に近づくことは百パーセントない。この女性が一号館から二号館の受付に変更された直後であったと思う。
誰もきのせいというがあからさまであった。
これだけ西山に絡めれれた揉めていて近づく気は最初から全くないが、人が見たならばどう思うか。何があったかと勘違いするではないか。また、私に対して失礼であろう、ともなる。

困った。そこで、後に横家さんに「この女性(名前等は一切知らない女性)に普通にしてほしい…」の依頼をした。横家さんもきのせいとというが、横家さんに頼み込み、この女性に伝わったようで漸く、突如普通に戻った。
西山の件もカミに依頼したのはこのことであった。

なお、この女性とは当然、駿台を辞めるまで一度も口をきいたことはない。挨拶は一度か二度「こんにちは」か「おはようございます」と言っただけである。これは他の職員やその他の係の人にも同様の挨拶をしていた。それだけである。少しやりすぎと思った。こうして万一に備えて、この女性も退けた。

さらに、駿台一号館内で講師室係ではない女性では唯一口をきいていた、植野さんが結婚か何かで駿台をやめるというので、ささやかな贈り物をさせてもらった。こうして、万一、道がそれそうな危険のある女性は全て排除された。


こうして横家と後藤だけが登場できるように徹底した仕組みがなされていた。
理由はそれを目的で雇ったのだから。同時に既に組まれていたシナリオが狂うために。更に理論上は駿台内では駿台四人組以外の女性は拘わらせないという方針のためである。
ちなみに、駿台講師室係であった近藤さんが二号館に配置され、一度だけ彼女が冗談を言うと、私も笑った。すぐ、側にいた化学の北山一先生が「おまえらできてるのか」と冗談をいった。ちなみに、近藤さんとは駿台時代合計で5分程度しか口は聞いたとはない。それでも、翌年には近藤さんは結婚して北海道に行くという名目で駿台を辞職した。
まだあるが、ともかく、当初予定の駿台講師室係1983年度入社四人組以外は拘わらせないとう方針が貫かれていた。

(2024/06/10 追記)

「普通にしてほしい」を三人に言った。

①1984年下旬→カミ

一回目=突如有頂天になり、西山をだし・引っ込めゲーム開始。私はびっくり。

二回目=カミさん自身が上記で「カミさんも、普通にしてほしい」でカミが怒ったか激怒したようである。

②1985年春→タケウチ:西山、タケウチ、カミ、大喜びのよう。(平野先生も同様か覚えておらず)

③1985年5月頃から→横家に上記女性の件で。結果、普通になり助かった。当然、その後、駿台辞職までこの女性とは口は聞いたことはない。

③だけが成功した。こんな馬鹿な。私がカミなどに頼んだのは横家に頼んだのと同一のことであった。この点で、横家には感謝をしているが、それだけで人物評価はできない。同時に世界の首脳か誰かから、西山と横家に要注意という情報が舞い込んできた。それらは次のページで記そう。この情報は絶対的なものであり、明確な情報源である。医療で言えば、MRIとか高性能のCT画像に該当する情報であり、無視はできない。世界のMr.Hamadaが依頼し、世界のMr.Hamadaへもたらされた情報である。住所二軒注意や人間違い注意も最終的にはここからもたらされた情報であった。四人組―その2を見ればわかろう。(まだ掲載前)。

2024/06/10 思い出したが、私の容姿の好みは上記の女性型であろうか。この女性は1984年3月だろうか。東京で珍しい女性に出会い、すごい女性がいると見とれていると、その女性と似た女性が突如、1984年度に駿台に入社してきた。強いて言えば、容姿のみならばこの女性タイプを当時は好んでいた。ただし、当時は催眠下であり、この女性というよりも、東京で出会った女性をこの女性から連想したため、正確なこの女性への印象ではない。(ちなみに、水俣で出会った子もでてくれば、迷わず、水俣でであった女性の方を選ぶ。水俣での女性は美人ではないが、公害を含む社会、教育、人権…そして教員志望の女性であった。容姿だけで女性を選ぶことは誰とてないであろう)

だが、84年1月から西山熱である。ここで疑問がでてきた。

①容姿だけで、効果不明で、一方的に交際を考えるならば、当然西山ではなく、こちらの女性である。それでは何故西山なのか。催眠熱である。しかし、それだけならば、同一職場ではそれほどの無茶はしない。結論とすれば、西山はやはり、好きな振り詐欺をし、交際が可能と思われる演技をしたいたと分析される。

結果無視ならば、当然、迷わず、この子としている。また、好みであり、脈もあったと思われた水俣で出会った女性との連絡を取る方法を突如中断させられたのは何故であろうか。参加者の住所録は配布され、そこには名前と電話番号が印刷されていた。該当者らしき人物は2人であり、どちらかが該当している。写真ももっており、事務所か何かに問いあわせなども可能であったかもしれない。実行方法を検討していると、突如催眠で西山熱、次に玉砕覚悟で木下さんに手紙である。その後、水俣で出会った子は突如脳裏から消えた。また、駿台への内容証明を送付した1987年の夏の、岡山での歴教協の集会に参加した。そのときに、この女性と思われる女性が、微笑みながら、私の前をブラブラしていた謎もある。岡山の集会はあることすらしらなかったが、当時岡山市にあった「平和書房」の店主に勧められて参加した記憶がある。ここで、近藤という岡大教授から月輪古墳(岡山県柵原町)の話を聞いたと思う。

②1984年は夏前は見合い女性、1984年秋は西山手紙でパニック、その後🛵女性登場であり、この女性の件は忘却していた。その後、上記で逃げられて当時も思い出したのである。

勿論、西山、横家、後藤…で近づく気は全くなかったし、実際に会話もその後したことはない。口もろくろく聞いたことのない女性に近づいた経験は過去ない。西山も同様であり、口もろくろく聞いたことのない女性であった。(脈のない一方的なアタックなどはしないが、するならばこちらであろう。)

③次に、西山の怯えと瓜二つの演技をこの女性がした。何故、西山の怯え方を知っていたのであろうか。駿台経営陣が絡んでいたとしか思えない。

④この女性には駿台でトラブルだらけで近づく意思は一切ないし、実際にその通り実行している。勿論、延々と眺めた覚えもない。ただ、一号館での授業が長引いたか何かで二号館の授業に遅れそうになったので大急ぎではしっていたならば、2号館から1号館に向かっていたこの女性が360度回転して、2号館に走って逃げたのである。現時点では、村の事例との比較から、私が1号館から2号館に向かうのを計算して、待っていたというか、演じたとしか思えない。駿台経営陣か映画説グループのシナリオと思われる。

だが、その後も、西山同様に怯えまくったり、逃げたりして、少しやり過ぎであった。日本史の杣田先生ほか誰に相談しても信じてもらえず、参っていたので横家に相談したのである。横家も最初は信じなかったが一応言ってみると応じてくれた。その後一発で収まった。勿論、その後、一切近づいていない。

もはや、筋書きのないドタバタ劇としか思えないが、山田洋次氏などがどんなドラマにも筋書きがあると言い切っていたため、書いているだけである。

 

 

駿台及び映画説のハプニング恋愛対策

1983年入社組以外は少しでもハプニング恋愛の危険あれば、自主退職が配置換えの謎。

①1982年少し口をきいた🚺は結婚して配置換え=クサカ氏。

②1982年駿台講師室係で唯一、感心を持つ危険のあった🚺は1982年度入社で1982年度で退職(吉田課長にいわせれば、「お茶くみなどできません」ということであった。なお、効きもしないのに、彼女には彼氏がいたと吉田課長が私に言った謎)

③植野さん。駿台🚺職員で一番口をきいたかもしれない🚺。担任していた生徒の件での会談で口をきいたと思う。1985年春に結婚すると言って駿台辞職。結婚祝いを二号館で渡した覚えあり。

④近藤さん。上記を意識させるため、一度彼女の冗談で笑うと、その年の終わりに結婚して北海道に行くと言って辞めた。

⑤🚺生徒=槇坂など。一度、彼女と軽食を食べていたならば、表三郎氏の顔が飛び込んできた。駿台でのハプニング恋愛をおそれていた如し。即ち、1983年に雇った西山・横家・後藤の役割がなくなるではないかと言わんばかりであった。

1983年3月:少し興味を持たされた駿台講師室係A自主退職、少し口をきいた日下さん=結婚と配置換え


こうして、1983年入社組で指定された女性以外には絶対に女性…は起こさぬという配慮がみられた。
その上で、西山、横家、後藤には何も進展しないように言い渡しが事前にあっと想像される。


また教え子の女子生徒と軽食堂に行ったときに、ふと見ると表三郎氏が監視役の如くこちらをみておられた。それ以外にも…と。

逆に、駿台側が準備した女性、西山美千代、横家、後藤はフル活用せねばならぬと、汚い手のオンパレードであった。
まず、西山美千代については、私は榊原郁恵系の私には容姿も私好みではないし、部落問題・婦人問題…の私には生き方も違うのでノーと1983年夏前に門前払いをした。ところが水俣で出会った女性(教育・社会に関心があり、将来も教師をして自立志向型、容姿は美人ではないが私の好みの容姿)に熱を上げるや、西山がそれを契機に自分に関心をもたせよう…と学校で👶(誰かの赤ちゃん)を学校の事務室の中であやしたり…と。
それでも関心がなかったならば、後に述べるように催眠のオンパレード。あそこまでしつこく催眠でやられるや…と、もはや抵抗は不可能であった。
その他でも随所で催眠類が使用された。
理由は、せっかく準備した女性を無視されると、コストがとれない。またシナリオが狂い、大変であると言わんばかりであった。

【合同食事会をながした件での後悔】
痛恨の極みは、これでひっぱられて大きなミスをした。これは未だに、後ろめたさとなっている。例のみんなでの食事をご破算としたことである。これは人間として、良識人としてよくない。
簡単に言えば、途中で横家さんや後藤さんが結婚しても、約束は守らなければならない。割り勘ならば流すことはできたし、さほど問題はない。私が全部支払ういう条件での食事会は上記の状況ではご破算は良くない。
ご破算にしても良いのは、私が大病を突如したとか、我が家の両親が大病や危篤となりそれどころではない、という大義なくしては約束は守るべきであった。横家も人選をしていたのであるから。

大変失礼なことをしたと今でも反省している。これが唯一の汚点であった。
それ以外はどうでも良いことである。
再度のアタックと思うならば思わせておけばよい。(私はそのつもりはなかったが)万一アタックとしても何回アタックしても問題はない。百一回目のプロポーズというドラマがあったはずである。それ自体は問題はない。問題はセクハラ、パワハラ、ストーカー行為該当をしたか・否か、相手が職場に来づらくなることをした時のみである。

横家さん、後藤さんとの件がパーになったならば。まだどんな性格の女性か、生き方がどんあか、共稼ぎ志向かどうか、オウム真理教などの新興宗教などにかかわっているかどうか、相手が養子前提か否か、それ以上に真備のサトウ先生ではないが、婚約などをしているかどうか…何も知らないのである。催眠での女性熱もない。

同時に、単なる食事会のため、西山に再度のアタックか否かは無関係である。当時、岡田課長から釘をさされてもいた。駿台女性とつきあいたいときには必ず僕を通してください。僕が代わりにきいてあげますから。絶対に自分で直にはしないでください、と。私はその申し出に合意をしていた。


そこで、後藤、横家さんのどちからと見合いを考えるとしても、食事会をした方がよかった。その食事会で、西山さんに…と。私はアタックのつもりはなかったが、私の友人女性(お嬢🎎)はアタックになると言っていた。みなさんがどう思うかはしりませんが、興味ないでしょうが一応、この場で告知しておきます。今日は酒もありますので、先のつまみ話としてきいおいてください。
これだけ言えば十分である。
それを言った上で、それでも見合いは🆗というならば私の自由である。それを聞いて去るも自由である。
なお、あれがあたっくとしても、まだ後藤さんや横家さんと付き合いとどころか見合いもしていないため、更に西山さんと肉体関係どころかデートもしていないため、通常は気しないものである。私ならば無関係となる。横家さんか後藤さんと付き合い出した後はタブーである。これは駄目である。

気にされて見合いが不可能となれば、今、考えればある意味でせいせいしたと思う。

私の方も横家さん、後藤さんがどんな人かしらないため、余り大きな問題ではなかった。当時は催眠で揺り動かされており、動揺するような感情は意味がなかった。
第一、食事会に行って、西山の件抜きでも、女性は女性、男性は男性で会話や食事となる可能性もあった。それでも情報は入る。岡田課長から「後藤さんは……という性格で、横家さんは…という性格をしています」ということなども聞けるであろう。両者ともに性格は白紙状態のため貴重な情報となっていた。

あるいは既婚女性から「浜田先生、横家には彼氏がいますとか、後藤には彼氏がいます」という情報が入ったかもしれない。これまた貴重な情報である。食事会に行って、後藤さんとか横家さんと会話ができなくても、大変重要な情報となっていた。ただし、まだ、つきあう所か見合いの斡旋を岡田課長に頼む段階では一切なかった。
漠然と考えていたのは1985年の冬頃に、ある程度情報が入った段階で見合いの打診をしてもらうか否かであった。

そして、見合いの一回目で、諸条件でご破算となった可能性もあった。それどころか、岡田課長にお願いして、どちらかに打診してもらうと、「いや、浜田先生、お気のどくでした。彼女には彼氏がいるので…と断れました。先生にくれぐれもよろしくとのことでした」と会う前に断れていたかもしれない。

もし、後藤さんと横家さんが別の職場ならば、こういう場合には見合いのため連続しておこなっても良いのであるが、同一の職場のためできないのである。
固い見合いの場合には、岡田課長若しくは岡田課長夫妻、私の両親と私、相手の両親と相手の女性で行うこともある。二回目からが見合いのお付き合いとなる。わたしはCasual派のため両親同伴は私の側はしない。相手の方はご自由にとなる。なお、出自等は一切きかないし、調べない。これは記述の必要性もない。その種の情報は不必要であるし、同時に犯罪でもあると考えている。

一回目は単なる情報交換の場である。だが、その一回目以前の話であった。


ちなみに、横家さんがこの年の夏に婚約をしたといっていたが、もし、この食事会でそれを言えば、私は必ず言った。「今日は、横家さんの婚約祝いを兼ねての食事会です。みなさんで祝福しましょう」と。

こうして、催眠連続と挑発で思考力を欠如しており、幾多の判断を誤っていたようである。
まだ、迷いに迷った。見合いをするとしてもどちらとしたらよいのか、と。世界の歌の選曲以上に迷った。何故ならば、両方ともどんな性格か知らないのであるから。

それならば駿台外で見合いをしたならば。然りである。
だが、それはおじょうの件があり、別れるという明快な話をしていないため、不可能であった。自然消滅ならば最低でも一年程度は必要である。それもあり、岡田課長への打診は早くても1985年冬頃を検討していたような覚えがある。早くてである

しかし、横家さんも後藤さんも全く生き方も何も知らない。勿論、西山さんも知らない。
ちなみに、駿台での催眠による女性熱は西山のみであり、横家さんと後藤さんには催眠でも熱はかかっていなかった。

ただ、当時、こう思わされたのである。見合いをしても良いと思えば断られ、断ろうと思えば相手はよってくる。これでは話にならない。そこで、横家さんや後藤さんが本当に私に関心をもっているならば、どうせ見合いをするならばそちらの方が成功率が高いのではないか、と。一度見合い該当をさせてもらったらどうなのか、と。
だが見合いでも、同じ職場では両方同時にはできない。そこで、見合いはどちらか一人としなければならない。だが、性格も生き方も知らない。
ともかく、情報がほしい。
両者からでなくてもよい。彼女らの知人からでもよい。

どちらかと見合いといっても、性格以上に、出自はどうでもよいが、次のような問題があった。
真備高校の教壇に立った頃、かわいらしい女の先生がいた。もっとも小憎らしいような所があったが。私と最終的に一番よく口をきいた女性である。顔は美人類であろう。
それでは、何故、その女性にアタックしなかったか。
宴会の席で彼女が私に言った一言が全てである。
「言っとくけどね、私は結婚しているのよ。学生結婚をして、彼も今、岡山県の◎女子大学で教えているの」と。
これは貴重な情報である。彼女は確か東北大学を卒業して即真備高校に来たと聞いていた。
この情報は貴重であった。おかげで女性熱をあげることもなく、会話ももそれを聞く前よりもしやすくなった。確か。いつも職員室での席は私のすぐ近くにあった。

性格のみか、これも貴重な情報である。即ち、横家さんか後藤さんに、婚約者などがいればその情報は得ていた方がよい。見合いは連続でも構わないが、同じ職場での連続は非常識である。

こうした情報も含めて、性格や生き方をしるためには、一度、大勢で食事でもしたならばどうか、と。おじょうとも正式な決別の話をしていないため、駿台外も含めて即座の見合いはできない状態となっていた。恋の指南役お嬢(🎎)が言うのは、「おじょうとは別れるかどうかの正式な会談はせずに、自然消滅が良い」とのアドバイスもあった。
今度は急いでも無駄でもあった。
西山の件もあるし、駿台内では、見合い…としてもむしろ遅い方が良い。更に情報が全くない。写真一枚で結婚するか・しないか返答をせよというようなものである。


そこで、男女、未婚・既婚を問わずに大勢で食事に行く計画をたてた。🚹の岡田課長も参加が決まっていた。女性の人選は横家さんに一任した。そのときに、某女性が「私、結婚しているのですが(違っていれば婚約しているのですが)、参加してよろしいか」と聞いたので、「どうぞどうぞ…喜んで」と返答していた。
こうして、合同食事会のメンバー集めは進行していた。

人事は全て横家さんに一任して、お金だけ全額、私が払うとしていた。思えばあの頃は金があった。大阪校に移動した後も、夜間コース10数名ほど全員をつれて飲みに行ったこともある。お金は私が支払ったはずである。
岡田課長だけは私が同伴をお願いした。
当時決まっていたのは「🚹私、🚹岡田課長、🚺横家、🚺後藤、🚺近藤、🚺既婚女性●」であったが、後数名増えるような気配であった。

2024年6月25日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA