【写真関連の話―2】私的撮影をしない(1994年)と言ったにもかかわらず私的撮影させられた経緯―授業教材の話

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【写真関連の話―2】私的撮影をしない(1994年)と言ったにもかかわらず私的撮影させられた経緯―授業教材の話


2020/05/24 3:20 下書き掲載(後で誤字脱字程度修正)


超多忙のため、予定を変更し、(3)は事例の一覧のみ箇条書き、(5)はその趣旨を明記し相手に渡した文書のみ、(7)も日記や手紙などからの抜粋に留める。(4)と(6)は超多忙のため省略するかもしれない。早めに私的ブログは打ちきりたいのが本音である。書いても、作品ではないため、一円にもならない。逆に仕事準備の支障にしかならないからである。


【記載予定項目】


(1)カメラは仕事道具のため、プライベートでは使用しないと宣言(1994年)

(2)上記が崩された経緯。
 ――村アルバム作成と親戚類撮影へ誘導された経緯。
ただし、それでも上記の村アルバム終了が1999年であり、親戚関係の撮影終了宣言が2004年である。
その後での撮影は、催眠と罠(わな)であった。

(3)催眠強要撮影の事例と罠の話。
私は撮影前にも・撮影中にも・撮影後にも、独り言で怒りまくって撮影をしていた。

(4)だが上記も逃れ、村・親戚・知人を一切撮らなくなってから、よりデマや不可思議な雰囲気が出た話
 事実上は2010年1月にこれも逃れ、後は一度の例外(母贈呈用の孫2012年一度を除き)一度も撮っていない。正確には2009年11月下旬からは一度も、催眠ですら撮っていない。

 【参考】文字通り完璧にやめられて(2009年末)からでも11年、更に、正式私的撮影しないという宣言(村は1999年、親戚は2004年)をだしてから、村は21年、親戚は17年目に入ろうとしている。ところが、…
 誰かの、全く「火のない所に煙」であるデマをとばした疑惑。

(5)催眠撮影も含めて、親戚・知人類に写真贈呈時に、「私へのお礼は固くお断り」は何度も言ったが、その逆はない。
 それがおかしなデマの臭いが。
 参考:代価を伴うときには事前に契約、更に詳細明記の請求書を送付する。姉に一度のみ前例あるが、他は無料のため送付していない。また、正式な支払時には領収書を渡す。

(6)何故(なぜ)、私の仕事道具・カメラに他人が過剰意識することへの疑問。

(7)なぜ、撮影処理に時間がかかるのか。
これは過去の手記を掲載すれば分かろう。ちなみに、2005年頃のPCのパワーが、私が5年前購入のスマホの約四分の一、今の先端スマホの約十分の一のパワーであった。そこで写真一枚当時の最高63 MBを加工処理する訳である。できる訳ない。その通りである。それもアナログからデジタル転換もした。

 主として上記を簡単に掲載。可能な限り、過去手紙で書いたり、記載したりした文書で処理したい。残り少ない人生において、重要度が低いため、誤字脱字の類も丁寧な見直しはせず、記載を続ける予定でいる。





(1)私的撮影をしない(1994年)と言ったにもかかわらず私的撮影させられた経緯―授業教材の話

仕事道具のカメラで私的利用させられた経緯(1)・大学授業教材費用とバーターで村アルバムを(下書き段階)

写真は商売道具(プライベート撮影はしないことを宣言)1994年。

①ポリテクカレッジ岡山での器財が必要となった。売値5万円程度のフジFV-10という器財などである。
しかし、同校での費用請求は、ビデオ没収事件その他の損害被害からできず困っていた。
そのときに母がその経費(ポリテクカレッジ岡山)仕事占有率ほぼ百パーセントの器財購入の費用を負担した。

【関連資料】一番下の資料(★1)では借金となっているが、フジFV-10は後に母と話し合い、村アルバム作成とバーターとすることで合意した。この件が、カメラ類は私的使用しない方針の例外として村アルバム作成をするに至った経緯である。


②金欠のため、後に村アルバム撮影とその金がバーターということで交渉し合意した。
こうして村アルバム撮影に入る。

③撮影期間(1994年末頃開始~99年終了)
組合の各家は1)該当家の写真、2)該当家の花、3)該当家と花の写真の組合せとした。
→各家には母を通じて連絡をしていると思ったが、更に大抵の家ではその家の人がいれば挨拶をして許可を取っている。許可が取れぬ家には庭にも敷地にも入っていない。

私が花の写真撮影が好きと勘違いされたのは、上記の花を撮っていたためである。どうも花の写真撮影が趣味とこのときに勘違いされたようである。
花は、フィールドワーク先では意味があるが(例:義民の碑撮影時に義民の碑の近くにあ
れば意味があるが)、それ以外では私は通常の人ほど興味はない。

花に通常の人以上に興味があれば、花の名前は詳しいであろうが、そうではない。また、器財も花専用のラインナップではなく、風景が主流のラインナップである。医者に外科医・内科医・眼科・歯科…とあるように、カメラも同様に、風景専門、花専門、人物専門、スポーツ専門、報道カメラマン型、鳥専門、動物専門…と専門分野があり、レンズなどの器財は自分の専門分野にあわせて備えることになる。

1994年末頃~99年の間のみ、(許可の上で)一部の他家の敷地に入っているが、終了して以降は当然入らない。例外は後に言う、強度な催眠強制撮影のみである。私自身が「撮りたくない・撮る必要がない」と怒りながら撮らされたときである。
これらも幾つか後に具体的に記そう。

要するに、村アルバム終了後には、(催眠強制撮影以外では)、組合長などの配り物以外では庭にも入っていない。2000年からでも、もう20年となる。誰かが故意に様々なデマをとばしたのであろう。

村アルバムの途中経過は、アナログ写真をビデオにする器械で、1996~99年の間に一部ビデオ化し、母に渡していたので見た人もいよう。また、常時(数年間)、我が家の作業場においており、何人かが見たと言っていた。

ところが、許可をとった家でも、各家には在住人が一人ではない家が多いため、許可を取った人が家族に伝えていなければ、何人かが誤解をしたかもしれない。

こうして、ポリテクカレッジ岡山の器財購入費用を母が負担したため村アルバム用撮影となっただけである。

完成したアルバムは村の集会所に寄贈予定でいた。
しかし、諸トラブルから、寄贈予定の1年前くらいに寄贈は中止した。
現在は、寄贈した場合には保存問題などを考えると寄贈しなくてよかったと思う。部屋によればオゾン問題などで痛むため、そうした保存の工夫をしない場所に置いたり、集会所自体がいつまであるか分からず紛失の危険も常時あることなどから、最近は寄贈は無理と思っている。(芸術作品保存知識とその意識を伴う)受皿もないからである。

撮影費用は、非常勤講師のため微々たる収入と、写真用として渡されたのでは一切ないが父が死亡(1993年夏)したときの遺産か何かといって金が1993年か94年頃に渡された(確か百万円ほどであったか、記録をみれば分かるが今はみていない)の一部を充当したと思う(大半は当然、教材購入費などに回している)。母がだしたのはポリテクカレッジ岡山での器財費用であり、写真用費用ではない。父の金も当然写真費用として受け取ったのでは一切ない。第一、村アルバムを作るという話がでる以前のお金である。それどころか、まだ一眼レフカメラ購入前だったとも思う。

村アルバム撮影は、1999年にきっぱりと終了宣言をだしている。
ところが、その後は催眠強制撮影のみである。その話は次回しよう。
ただし、8月の村の写真と、一軒のみ超広角レンズがないと写せぬのでその二つのみ例外扱いとしていたが、それらも2000年前半終了している。

よって、その後撮らされた川の鯉(こい)のぼり、子供祭り…は全て、私が撮る前も、撮っている途中も、撮影後も怒りながら、「何故(なぜ)、私が撮りたくないと宣言しても、撮らされるのか」と。相当怒ったときもあった。

1999年以降の撮影費用は、ポリテクカレッジ岡山との交渉費用(闘争費用)として、母から1999年百万円、2000年も同様に百万円わたされたものの一部を催眠強制で使用させられている。この金は弁護士相談や東京の政党・政府などと掛け合うときの資金であった。実際に千円の書留のみで、弁護士・政府・議員等延べ百通を送付してもいる。インク、用紙、コピー代金などは別にいる。

甥(おい)・姪(めい)の子などの親戚関係の個人撮影を導かれた形は次回記そう。当初は拒否していたが、もろに巻き込まれた経緯である。だが、これも費用がつき、2004年打ちきり宣言をしている。
ちなみに、私が子供撮影が趣味的なデマや、花の撮影に相当関心があるようなデマの気配を感じた。花は先の村アルバムでの話。また、甥・姪の子供類は次回述べるややこしい形で…あるが、しかし、村の写真は1999年打ちきり宣言をし、親戚関係も2004年打ちきり宣言をして、何で今頃、そうした噂(うわさ)が飛ぶか。考えられることは誰かがデマを飛ばしたとしか思えない。

結婚式撮影は一昨年記したように、催眠撮影とその後始末である。


デマが飛び交っている疑惑がある。誰が何のためにであろうか。


(★1の資料)■ビデオ没収事件
 次にビデオ事件について、拙著『親方日の丸』第五章第三節より引用する。

③ビデオ没収事件――権益確保か?
  1989年秋頃、授業で使用するテキスト該当ビデオを没収される事件もおきた。1983年頃、私は交通費、宿泊費全て自腹でビデオ・カセット教材を東京・大阪・岡山と探し回り、適切なものがあれば自腹で購入していた。全て授業でのテキスト該当活用であり、補助プリントも作成し、学生に確実に還元していた。購入に当たっては購入代金・旅費・出張手当・賃金・宿泊費・調査費・食事代は1円も支給されていない。当然、所有権は私にある。そのときに、職員が「先生、《どうして自分のお金で買われるのですか、》授業で使う教材は学校で負担しますので言ってください」(若しくは「授業で使う教材は学校がお金を出しますので言ってください」)と申し出があったと思う。{【2015年追記】《  》内は昔を思い出して2015年に追記した。}

 そこで、私は次のように解釈した。岡短で通常の授業すら交通費も出ず赤字労働のため、交通費・宿泊費・食費・調査費などは私持ち、ビデオ・カセットの購入代金のみは学校がうしろめたいため援助もかねて負担し、所有権は私にある、と。要するに、専任延期と、赤字労働のための援助と考えた。実際に、1984年頃に図書職員N氏(正規職員か非正規職員かは不明)から、これらとは別の図書の本を長く借りているため返還請求を厳しく求められたときに、これらのビデオ・カセット類の確認をすると、これらは学校図書の所有物ではないとの明言があった。


 {【2015年追記】ビデオなどもNさんに渡したら、「これは岡短図書の所有物ではありません。先生と事務で話がついているのではないですか。」ともかく、引取りを拒否され、私に返還された。これに関する件は『恐るべき労基法違反』などに記載している。後に、これらも没収され、今も、大学の図書館にある。}《2015年追記終了》

 そこで、以降もそう考えて行動していた。そして、購入の都度、学校に領収書を渡し、商品の代金のみを受け取っていた。(ただし、交通費・宿代・調査費は自腹、同時に購入の際の日当も手当も無支給であった。)こうして、常時、私が所有していても1983年から一度も返還請求されていないどころか職員はただの一度も何も言わなかった。ところが、1988年の単位認定権剥(はく)奪(だつ)事件から急変し、1989年秋頃に急に疑わしきものは全部返還しろと言われ、没収された。

 因(ちな)みに、1983年に学校側が、「授業で必要なビデオ教材類は学校が支払うので言ってほしい」と言ってこなければ、視聴覚教材に対応するプリント類をつくっている関係もあり、所有権は私でなければ困るため学校には1円も請求していなかった。丁(ちょう)度(ど)、「どこでもよいので印鑑を押しておいてほしい」と言われていた頃なので、最近疑っているのは、学校側が、予算が余りそれを何としてでも消化したいので、私に目をつけたのではないかという疑惑である。予算が余れば次年度から予算を削られる。されど、余った額を全部飲み食いに回すだけの度胸はない。そこで、私に目をつけ……となったのではあるまいか。

 明白に学校の費用で購入した視聴覚教材類は、勤務15年合計で約3万5千円(1年平均2千円台、但(ただ)し1989年度は後期から英会話が初めて導入されるため購入が集中した時期であった)でしかない。どちらか不明なものが別に約4万円ある。そこで、「短大側に返還請求リスト作成」を要求したが応じてもらえなかった。要するに短大所有物としての記録が一切なかったと推定される。これらの領収書かレシートのどちらかを短大に全部渡しており、そして自分の所有物と考えていたため、私の方はリストは作成していない。

だが、単位認定権問題で首脅しをされていた関係で、疑わしきものは全部学校へ渡さざるを得なくなった。依(よ)って、全て私の自腹で購入した可能性のある商品も学校の図書館に今もある。なお、これらを購入するための交通費・宿泊費・飲食費は商品の数倍以上であるが、全て自腹である。しかし、精算は一切されなかった。一部ダビング版を学校から渡されたが、すぐノイズが入り使用不可能となったものが大半であった。短大費用負担約30%、私費用負担約70%でも、全部没収され短大の私物とされたことだけが事実である。
 通常の常識は以下のはずである。
……
中略
……
 これ以降は、百%短大専用使用のものですらビデオどころか器財数種、それどころか短大用消耗品まで、私に費用を転(てん)嫁(か)させられる契機となった事件である。例えば、英語のビデオに英文字幕を出す器械(Television2=約5万円前後か。授業使用率百%)を名古屋から岡短に送付してもらい、授業で使用することを明確に認識させた上で、全て私の自腹で購入(1990年代前半)した。次に1994年度頃は富士フイルムのFotovision FV10(短大の後期授業テキスト『旅に心を求めて』の補助教材用に私の写真をビデオに落とし、それを短大のプロジェクターで授業活用する器財で売値5万円前後)も購入し、授業でフルに活用し、短大辞職後は一度も使用していないが、お金は母からの借金である。勿論、この事件以降は、岡短授業用視聴覚教材類は全て私の金で購入となる。

 さらに、器財類ならば兎(と)も角(かく)、学校使用率百%の消耗品(黒板にはるマグネットも、当時高価だった1枚2百円のOHP用紙何十枚)もすべて私の全額負担にさせられた。しかも職員FがOHP用紙は学校が支払おうかと言い、私がその気になりかけると、彼が故意にミスをやり、私と軽い言い争いをすることにより請求不可能とされ、全て自腹とされた。それらは偶然の頻(ひん)度(ど)を超えていた。学生配布用ファイルも彼のミスで自腹を切らされたくらいである。これらを総合して計画的な犯罪にすら思える。岡短宛に来た病気学生及びその父兄への返答用の通信費の一部すら自腹であったと思うが(賃金類は百%1円も出ていない)。

  以上、浜田隆政著『親方日の丸・第一部』、KINDLE版、2015年、第五章第三節より引用。……

2020年5月24日