【写真関連の話―2-②】私的撮影をしない(1994年)と言ったにもかかわらず私的撮影させられた経緯―二つの話

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【写真関連の話―2-②】私的撮影をしない(1994年)と言ったにもかかわらず私的撮影させられた経緯―二つの話


2020/05/24 3:20 7:35 8:01下書き掲載(後で誤字脱字のみか大幅修正予定)

2020/06/07 17:13 正式公開 19:23 分かり易くするため紫色部分を追記 19:40レイアウト変更

2020/11/11 14:25 Twitterでポップアップしていなのを文書コピー貼り付け。下の方の資料の箇所。



【記載予定項目】


(1)カメラは仕事道具のため、プライベートでは使用しないと宣言(1994年)

(2)上記が崩された経緯。
 ――村アルバム作成と親戚類撮影へ誘導された経緯。
ただし、それでも上記の村アルバム終了が1999年であり、親戚関係の撮影終了宣言が2004年である。
その後での撮影は、催眠と罠(わな)であった。

(3)催眠強要撮影の事例と罠の話。
私は撮影前にも・撮影中にも・撮影後にも、独り言で怒りまくって撮影をしていた。

(4)だが上記も逃れ、村・親戚・知人を一切撮らなくなってから、よりデマや不可思議な雰囲気が出た話
 事実上は2010年1月にこれも逃れ、後は一度の例外(母贈呈用の孫2012年一度を除き)一度も撮っていない。正確には2009年11月下旬からは一度も、催眠ですら撮っていない。

 【参考】文字通り完璧にやめられて(2009年末)からでも11年、更に、正式私的撮影しないという宣言(村は1999年、親戚は2004年)をだしてから、村は21年、親戚は17年目に入ろうとしている。ところが、…
 誰かの、全く「火のない所に煙」であるデマをとばした疑惑。

(5)催眠撮影も含めて、親戚・知人類に写真贈呈時に、「私へのお礼は固くお断り」は何度も言ったが、その逆はない。
 それがおかしなデマの臭いが。
 参考:代価を伴うときには事前に契約、更に詳細明記の請求書を送付する。姉に一度のみ前例あるが、他は無料のため送付していない。また、正式な支払時には領収書を渡す。

(6)何故(なぜ)、私の仕事道具・カメラに他人が過剰意識することへの疑問。

(7)なぜ、撮影処理に時間がかかるのか。
これは過去の手記を掲載すれば分かろう。ちなみに、2005年頃のPCのパワーが、私が5年前購入のスマホの約四分の一、今の先端スマホの約十分の一のパワーであった。そこで写真一枚当時の最高63 MBを加工処理する訳である。できる訳ない。その通りである。それもアナログからデジタル転換もした。

 主として上記を簡単に掲載。可能な限り、過去手紙で書いたり、記載したりした文書で処理したい。残り少ない人生において、重要度が低いため、誤字脱字の類も丁寧な見直しはせず、記載を続ける予定でいる。


私的撮影しないという方針は二つの方向で崩された。


《◇―1・短大教材費用とのバーター撮影約束を母とする》

私的撮影しない理由は明白である。

①仕事道具のため、青色申告のときに困る。「私的に使用していませんか」で減価償却計算が大変ややこしくなるのみか、ときには減価償却の申請ができなくなる。
②仕事道具を私的に使用すると多数のトラブルが予想されたこと。
③A金銭とB多大な時間がかかること。
②のBは撮影時の多数の手記があるため、それを公開しよう。
私は写真コンテストは否定しているが、まぐれではなく、最初から写真コンテストに応募することを前提として撮っている人は一枚送付のために幾らの金と労力をかけているかを聞けば分かるであろう。
具体的に記そう。

1988年駿台辞職後は、河合塾に潜り込んだ年を除けば、生活保護の額にもはるかにおよばない。89年~94年までは岡山短大が年収で40万円程度、ベネッセが年15万円程度、岡山の予備校が年10万円程度、それが全てである。勿論、教材費などの元手が大変かかる。車の維持費も大変である。
95~97年は岡山短大の年収が倍程度(年80万円程度)である。

1998年からは岡山短大を辞職したので残りの金額を考えれば分かろう。
2002年頃からは岡山の予備校・ベネッセも辞めたため、全くの一文無しである。完全完璧無収入である。

ただし、後に述べるように、「撮っても費用は母からか、せいぜい姉から以外は誰からも貰(もら)わない」と宣言し、何人かに喋(しゃべ)ってもいる。実際、「お金は絶対にいらない」とか(冗談での🍨を除き)「お礼は絶対にいらない」と明言しても、その逆は一度もない。


ちなみに、母からは写真代金としての費用はもらっていない。姉も後に述べるように原則は同一である。すると無収入では撮れぬし、仕事以外ではさらに撮る気は起こらない。何故(なぜ)撮れたのか。
94年から99年。わずかとはいえども短大・岡山予備校・ベネッセ収入と、叔母類の小遣い(我が家に泊まり来た叔母が世話になったと毎年2万円程度)、母から衣服費などをわたされたのを写真代金へと…である。だが、それでも撮れる訳がない。{1994~99年村アルバム完成費用は後に述べるように93年父死亡時の(撮影とは全く無関係な)遺産約100万円であり、1999年終了後の催眠での村撮影強要・強制は(撮影とは無関係な)後に述べる弁護士等へ支払う闘争資金・合計200万円であった。}
ちなみに、📢(岡山の予備校・ベネッセも辞めた)📢2002年からは📢📢📢完全無収入である。母からの支給金のみであるが、使途限定であり、そこには写真代金は一切入っていないのである。


94~99年は短大教材とバーターといっても無理である。そのお金は実際に大学授業用機材にまわるため、不可能である。
よく考えると、93年に父が死亡し、そのときの遺産か何かで約百万円渡された。ただし、これはカメラを購入する以前である。カメラ(F401Xを中古で)の初購入が1994年10月26日である。

そのときの撮影実験で我が家界隈を撮っているときに、村アルバムを思いついたのか、催眠誘導でそのように誘導された可能性が高い。後に当時の文書をそのまま公開予定でいる。だが、村アルバムは当時の文書にも記入しているように1999年で完成であり、そこでthe endとした。

2000年からは村は二場面を除き一切撮らない趣旨の宣言をしている。仕事と無関係の上に金がない。1999年「○○アルバム」完成を持ち、母との約束も終了し、原則として村撮影はしない。例外はカメラメンテナンスや実験程度があったかもしれないし・なかったかもしれない。

その後の一定量の撮影は、催眠・挑発撮影である。
2000年以降の数例のみ記載しよう。
(淀殿・大坂の陣・太融寺との関係…から始まり幾つものテーマがある)大阪城フィールドワークに行く前にラジアルフィルターを一~二枚だけ実験とシャッターを切ると、突然意識不明状態に近くなり、大阪にいかずに近所の梅の花撮影をする。
ちなみに、大坂城ではプライバシー権問題への配慮は必要なく、通常の撮り方では肖像権問題もほとんどない。村では肖像権は言うまでもなく、プライバシー権問題に配慮し、書籍やHP等々での使用は不可能でもある。つまり、使えない。使えない物を取っても意味はない。「○○村アルバム」は後の当時の文書をみれば分かるように、村への恩返し的な意味であるが、終了した以上、更に予算問題から撮らない。
またテーマ(野麦峠と天武・天智・持統天皇との対比の如くテーマ)もない。私は執筆業者か教材を作成し、執筆業者か授業屋として再起を図っているのであり、カメラマンではない。写真は、商売道具の一つではあるが、それらの書物への挿入のためでしかない。

曼珠沙華も同様で、「○○アルバム」は終了(完成)した以上、フィルードワーク費用などの問題で撮らないとしていると、雀の大群を見て突如催眠状態となり、その後曼珠沙華の方の撮影に…。

トンビの大群も同様であり、撮らないと言っていると、催眠で「古いフィルムがあろう。使用せねば消費期限が来るか、若しくは、消費期限まででも画質が劣化するぞ…。それでやれ…」で撮影、撮影に入るともう抑制が効かずに、後には新しいフィルムまで使用。プロ用フィルムは拘(こだ)わるひとは冷凍庫・冷蔵庫保存の上に、消費期限が身近い。私も原則冷蔵庫保存である。この隙を狙われた。

ものすごい事例がある(一部当時の手記・記録もある。)
なお、フィールドワークも同様であり、外出したからフィールドワークではない。目的外とか、原稿関連での季節指定があっても、それらを無視されていかされたケースもこの頃からあった。これも、催眠による営業妨害である。ただし、肖像権問題、プライバシー権問題は地元よりは遙かに問題が少ない点だけは違う。

怒りという感情を捨て、当時の文書を後日公開も検討しよう。ただし、ワープロではなく自筆記入のため、活字にするには時間がかかるので、相当先になるかもしれない。

なお、撮影ときに何かを聞かれても、「これは催眠で撮らされています」とは2000年頃は言えるはずがなく、違う言動をしているであろう。それらは下記携帯文書などでも明白である。この文書の携帯は2012年からであるが、この文書を主治医や岡短との立会人に送付したのが、2002年4月である。
収入0円で催眠でもない限り撮る訳がない。だが、催眠でも撮れる訳がない。

上記の金以外に、母から闘争資金(弁護士費用、国会議員などへの要望文書、東京へ交渉にいくための交通費、闘争用文書・送料…)として1999年に百万円、2000年に百万円を渡されていた。
だが、これは闘争費用であり、実際に総理を含む政府機関、国会議員、弁護士などに延べ百部送付している。分厚い文書のため、インク・用紙・コピー代金なども相当高くついいている。送料のみで、書留のため1通千円である。100通ならば送料のみで10万円となる。

こうして闘争準備をしていると、催眠でこの金を写真代金として使わされた。当然、村は「○○村アルバム」1999年で完成しており、2000年以降の村撮影関連はそのため、撮影前も・撮影中も・撮影後も怒り心頭のケースが多かった。
簡単に言えば、収入ゼロでは写真は撮れない。闘争資金は闘争であり、写真代金ではない。よって、理論上から撮れる訳がない。
それらの証拠や催眠証拠もあるが、これらをいっときに掲載するのは読みにくいばかりではなく、意味がない。意味がないとは、村アルバム作成に関して、村には費用請求をする意思がない。請求する意思がないものを延々と解説する必要がない。二度損となる。


次に労力の問題である。

1989年からは岡短専任主軸路線。ただし大病続き、入退院繰り返しの時期であった。

1994~98年はこれ以上長引けば、塾か予備校と岡短という並行路線を敷いた。
ただし、岡短専任になるのが遅れているため、退職金・年金問題があり、そこで原稿(執筆業)として副業を行う。これらならば専任でも、許されるであろう。そこで原稿(執筆業)に挿入する写真が商売道具となった。

1999年からは病気療養、それがすめば他大学の大学専任教師と公募原稿で執筆業として自立する戦略を立てる。大変忙しい。

2012年母死亡後からは、年齢上の問題から大学教員などはなるのも・老後の生活両方とも難しくなり、起業(最低でも開業)を目指す。
なお、この間(1998年~2011年は)無収入ですよ。特に2002年からは完璧な無収入ですよ。
2012年母死亡後に遺産が…とはいえ、後数年でつきる程度である。
勿論、母生前中でも写真代金などを母が出す訳がない。使途限定で金を渡されている。支出もかなりの期間何に使ったかを母が姉宅にいるときには文書で送付していたくらいである。
村の集会でも2000年代の大半は冬でも靴下を履かなかった理由や、長靴に穴をあけられ怒った理由もそこにある。よって、理論上、撮影は不可能なのである。

ただし、それでも、原稿に繋(つな)がる地(例:長崎・広島原爆ドーム)や肖像権・プライバシー権に触れない地は闘争資金類を崩しても撮る必要はあったが、先に催眠で余分な撮影を強いられ予算を気にして、結局は資金がなくなり、仕事上行かなければならない地にはほとんど行けなかった。

2013年から、仕事に繋がることを前提として写真関連予算を組め出す。ただし、間もなく資金枯渇でそれも終了である。同時に、催眠誘導で目的外の地に行かされたり、泊まらされたりして、不愉快に思ったり、催眠がとけて後で怒ったりしたことはある。

2020現在。
起業は博打(ばくち)型で…となる。
同時に、家を掃除し、家を手放さざるをえなくなる前に我が家関係者を一度こさせた方がよいと思い、そこで整理・掃除をと思うも…(多分、催眠型)ストップでできずに弱る。
数年後からは国民年金(年70万円)のみである。生きられるはずがなく、親戚・近所に構う暇がないが客観的状況である。
誰かが早く本などを整理…といっていたが、これは商売道具であり、物を書くときになければならない。岡山県の図書館よりは必要な文献は多く所蔵している。道楽や趣味の本ではない。完璧に仕事を断念し、生活保護が決まったり、本で商売が無理と断定されたりしない限り、商売道具は手放せない。直前まで。

もっとも、2008~2009年頃はもっとひどかった。収入ゼロ、母死亡後は私名義の貯金合計300万円程度になると思い、就職活動に目の色を変えていた。ダンボール単位で大学公募に応募したり、出版社へ原稿を送付し続けたり…で大変であった。その話は後日、当時の手紙等を引用する形で紹介しよう。

更なる営業妨害を懸念して詳細は略す。
これを当初、ややまともな形でくずされたのは村アルバム作製である。ただし、1999年で終了としている。文書でも記載している。
次に崩されたのは姉宛手紙に書いた通りである。



《◇―2・仕事道具を私的に利用させられた経緯―2・甥と姪》

1994年12月27日と28日に私と母、それに姉家族で家族旅行をしたが、プライベートは撮らぬとして、私は原則として家族写真を撮っていない。

1995年5月頃姉の子撮影を依頼され、一応撮ったが撮影後に即座にフィルムごと姉に渡し、良い写真を姉の方で私にくれとしている。ここまで潔癖にしていた。

ところが、一週間後に、長姉(亡くなった長姉)の子(姪)が孫を連れてくるので撮ってほしいと、次姉から先に一万円渡され、そしてすぐ姪(めい)がきたため、もう撮るとなった。これが運のつきであった。
長姉系の姪の女の子の写真を本格的に撮影したのが運のつきであった。なお、このとき、姉から渡された金額では不足していたが不足分の催促はしていない。私の自腹としている。
すると平等原則がきいてきた。
長姉の上の子(甥)の子が二人いる。男の子と女の子と。姪の子の写真を撮って甥(おい)の子の写真を撮らぬ訳にはいかない。理由も言えない。
姪の子の撮影のときは姉が費用を出し、考える暇もなく、姪が来て撮った。だが甥のときには姉は金をだしていないとは言えない。
そこで、甥の上の子の撮影となる。
すると姪にも上の女の子とは別に男の子もいる。
「どうしてお姉さんだけ撮って、僕は撮らないの」となる。だが、母も姉ももう絶対に撮影費用はださない。
参ったというものではないが、先の金類で、処理し、甥の上の子、姪の下の子…と。何とかしのいだが、甥の下の子を撮っているときにもう無理と考え、2004年で打ちきった。
ちなみに、昔住んでいた従兄弟(いとこ)が、あるとき(多分甥がきて間もなくであろうか)墓で某位置に立った。その場所で甥夫妻を撮っていた。すると人間関係のグラデーションから撮影となる。

母からの衣服代金などで支給された金を使用せずに、仕事関係の撮影費用がたまりかけると、催眠で村などを撮らされ、費用がなくなり、Fieldwork中止となり、更に人は勘違いをしたのであろう。


要するに、カメラ類は仕事道具のため、プライベートでは撮らないを、一方では村アルバムで崩され、他方では親戚関連のグラデーションで壊されたのである。だが、それも村アルバムは1999年終了、親戚関係は2004年にもう無理で中止宣言としていたはずである

その後は催眠・挑発…で、先の金(闘争資金類)を使用されただけである。
個々のケースで具体的証拠はあるが、全体を貫く大型・長期催眠もやられていた。それも今は証明できる。
既に、幾つかの証拠を集めたし、催眠撮影関連の被害や証明できる文書類も集めたが、それを延々と精査し、記述して何になるのだろうか。
村や親戚に損害賠償請求をする意思は現時点までない。請求しないものを何のために、資料集め・分析・精査し、長時間かけて文書を書く必要があるのだろうか、となる。誰かが弁償するというならば別ですよ。

そこで、私の方針は過去記述した文書だけを公開するか、それに準ずる形をとることにした。しかも、作品的価値のある文書を中心での公開である。そうすれば最低限のダメージに留(とど)められる。また、私も忘れていたことを思いだすであろう。
それ以外の文書は暇時や何かの関係で証明することもあろうが、あくまで付録である。

なお「村アルバム」には、1999年完成と明記があり、今度撮るとすれば「万一、金が入れば、2020~2030年頃かから開始」と1999年明記していた。
それでは仕事にならぬ村を何故(なぜ)、金が入れば2020頃か2030年頃から撮ると1999年に記載したのか。それも村アルバムを読めばわかろうし、母と94年~99年合意の意味も分かろう。土台には、幼少の頃から育ち、近所や村のみなさんに世話になりというよりは懐かしいという思い出があったかもしれない。そこで一つ一肌脱ごうか、と。だが、それらは2000年~2020年にかけて爆撃されたようである。

それでは、後は何故(なぜ)2000年から2020年までは撮らぬと明記したか。単純である。金銭問題、さらには適切な撮影周期問題などがあり、後者は村アルバムに記載済みである(1999年記載)。
同時に、親戚の結婚式撮影では当時の日記の一部を相手に送付しており、それを公開すれば、当時の科学では撮影及び処理にかける労力、更には費用が如何(いか)に大変だったかは理解できよう。
その前に、これらの文書自体が(作品的)価値をもつ。写真と異なり、肖像権、プライバシー権問題もない。

よって、今後は作品的価値のある文書を原則として当時記述のままで公開となる。ただし、作品的価値のある文書はこの私的ブログではなく、「安らぎ文庫ブログ」(教育・書籍・芸術中心のブログ)などでの公開となる。



《◇―3・資料編》
取りあえず、作品的価値のある内容ではない文書の一部をもう少し公開しておく。

(資料1)
村撮影時の催眠撮影は明白な記録のみか証拠能力のあるものは2002年4月の川付近での鯉(こい)のぼりの撮影件がある。記憶・当時の記録・第三者への文書(2008年から幾つもの出版社)に送付してもいる。勿論(もちろん)、それ以前のも記録があろうが、費用請求する意思がない以上、調べても意味がない。

なお、村撮影中に、誰か私に何かを尋ね、上記と違う言動を人にしたとしても、「それは催眠撮影です」と正直に言えばどうなるかという問題と、とっさだと自己意思に反する言動をしてしまうからである。
関係文書とすれば、2002年4月に主治医・新免議員に送付文書に記載がある。
また、自己意思に反する行為(村撮影)などの奇異さは1999年文書などで市議会議員(2000年手渡し)のみか、菅直人・小泉純一郎氏などへの書留文書に記載している。多分、2000年の小渕総理宛文書でも一部記載している。これらは約千円の書留文書で、総理始め、政府機関・主要政党延べ百人に送付済みである。

途中で、条件反射で村人に言った(言わされた)内容と、総理などに書留文書で送付したものとどちらが証拠能力というか、重要性があるかを記す必要はなかろう。

尚、自己意思に反する言動の危険性から2012年4月からは下記の文書を携帯せざるをえなくなったこともある。


 

(資料2)立会人及び主治医に送付文書・1

上記症状には相当前から疑っており、上記携帯文書前に下記を新免町議会議員(当時の肩書き:短大・雇用促進事業団との立会人)と主治医には2002年4月にはその趣旨の文書を送付している。

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2002年4月新免議員報告文:2002年4月20日~4月23日にかけて作成
→A医師にも送付

Ⅰ:2001年12月5日~02年4月23日の概況
1:精神の乱れの時期と主要因分析
2:同期の概況と主な出来事→付録の統計表1参照
3:主な出来事の解説

Ⅱ:健康状況のこの間のまとめ【A:体力】【B:内臓】【C:精神】
→内蔵及び精神は同封の表1参照

……

2002年4月 日
私の即答に関する問題á即答は不可能、特に精神乱れ期は責任もてません
精神がこのような状況では電話とかお会いしました時の言動[特に即答]につきましては、当面言動に責任がもてない事を先に申し上げておきます。既に何度も記しましたように、あたかも催眠にでもかかった如くに嘘でしかも逆に自分に不利な嘘の証言を97年警察でしてしまった場合すらあり)これも個人訴訟が不可能な大きな要因であります。また、こうした時期以外でも重要事項に関しましては即答の場合には原則として責任が持てない場合があります。返答にはじっくり検討する時間を確保を条件と致します。但し、それも健康状態が悪化した場合やその危険のある場合には保留とさせて頂きます。特に私の現在の最大課題と責任は健康を快復することにあり、それが私の第一の権利と義務であり、まず最優先すべき事であることをご了承下さい。



(資料3)立会人及び主治医に送付文書・2

ところが、この症状は1990年代後半にも頻繁にみられたため、2000年1月には「催眠」という語に抵抗があるため、下記の如く漠然とした形で症状を新免議員及び主治医に渡している。

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2000年1月新免議員会談用補足文書

→2000年12月報告文の補助資料であり、2000年12月中旬~2001年3月迄は、4月に正式分析予定である。
よって、2000年12月中旬~2001年1月上旬は現時点での仮説であり、本格分析は4月となるため分析内容の 変更はあるかもしれない。

1:無用文書書きの基準は何か。:最近の見本1枚(2000/12/4の№1)
※注1:自己制御不可能文章[99/1/17記す]

[A:(当日の)自己意思]
①記す前に自己の納得があったか。(ひどい時には絶対に記したくないと記した抗議後の文章多数あり)
→時間ロスと無意味さと、他にしたいことがあるためが主たる理由で過去大反発理由。
②記す際に、記しながら記すのが嫌で苦痛を感じつつしるしていたか否か。
③突如、催眠の如く予定外に急に勝手に手が動く形で記したか、計画的に記したか。
(特に精神の1997年等に見られた精神・意思の急変現象で自らも驚いた状態か否か)

[B:病的症状の激化との並行](Bのみ→1/23追記)
①精神面を乱す事件がこの頃あったか否か。
②精神の異常現象がこのころあったか否か。
③内臓はじめ他の健康の乱れがあったか否か。

[C:客観的分析よりの自己意思の有無]
①客観的に考えて(書いた当時に)書く必要性のあった文章か否か。
→後日役に立ったは除く。当時の状況において。
②後日、仕事などで活用できる文章か否か。仕事に関係していたか否か。
③過去精神が正常な時にこうした文章を記したり、同様な作業を行ったことがあるか。
④後日、活用できる形で文章保存や後に読める形を意識して記しているか否か。
→記した用紙、文字、その他の形態。
⑤通常の知識人がこうした文章を通常記そうとすかどうか。

記した文章が、自己制御不可能文章か否かの判定は原則として、精神冷静時や相当後に行う。記している時には超激しい抗議的反発がない時以外には精神がまだ完全安定していない以上判定が不可能な文章も多いこと。また、客観的に裁判時等に信用できる医師に秘密保持の確約を法的にとった上で判定を依頼する等が望ましい。

尚、短大関連文章書きから、それが止まらず他に飛び火し、朝日新聞紙上などの写真コンクールなどへ殴り書きした膨大な文章類はほとんどすべて消却している。この種の新聞や雑誌やその他に絶対に読めぬ形で無秩序に上に書きし下に書き次は横へ・・また上へ・・・かつ抑制きかず、意味も持たない文章は正論であっても本来それのみで異常である(文章[文字]は後に仕事で活用するか、日記として記すかは別として後に読める形で記すもの。
絶対に記す当初から読めない形[記す位置の順番が無茶苦茶・保存不可能・読めぬ文字]で記すは何のためか?精神の異常以外に解釈不可能である)。
1996~97年膨大な新聞殴り書きやその他あり。常に短大の件→短大覚書→無関係事項まで書くのが抑制不可となったもの。
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(2020/06/02追記)上記にあるように、私は写真コンクール否定派である。後のコンクール応募は百パーセント催眠。何重にもの被害となる。ちなみにコンクールには二度もやられた。理性が説得をしても催眠強制でやられた。二回目は理性の説得を一部文書化していると思うが、抵抗むなしくであった。これが催眠。

2002年4月(「川の鯉登り」撮影)には、撮影前も・撮影中も・撮影後も怒りまくっていた。それ以前も同様の不可思議な撮影が多数あり、怒り狂っていた。母がその都度「もう、誰もお前に撮ってくれとはいわぬ」といったが、暫くするとまた…で何度怒り狂ったであろうか。

 


(資料―4)発売中の『閉じた窓にも日は昇る』(2016年電子書籍、原稿は2008年いくつかの出版社へ送付)
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⑥撮影問題。
私は授業屋・プレゼンテーション屋である。だが、「機構」か、映画説か、誰の仕業(しわざ)・陰謀(いんぼう)・挑発かは不明であるが、撮りたくないものを何度撮らされたか。二〇〇二年四月頃、村の河原に十以上の鯉幟(こいのぼり)が突如出現。何度、撮影を拒否しても抵抗も空(むな)しく撮らされた。当然、怒り狂った。

当時、我が家界隈(かいわい)の散髪屋(さんぱつや)にも小さな鯉幟(こいのぼり)があった。どうせ撮らされるならば、こちらが良い。近隣の鯉幟は豪華(ごうか)とはいえないかもしれない。

だが、孫が大きくなればなるほど写真はその意味を語る。祖父が死した後は更にその意味を語る。あるいは百年後、千年後でも写真は何かを語り続ける。川の鯉幟は十以上、川もある、花も探せばあるかもしれない。だが、そこに何があるのか。何もない。一〇年もすると村人(むらびと)は言うであろう。「見たことのあるような川だけれど、この川の鯉幟は〝何〟。じゃ、古里(ふるさと)の川じゃないわ。では一体この川はどこの川」と。

懐(なつ)かしさも何も沸(わ)き起(お)こらないであろう。まして、川の鯉幟(こいのぼり)は十よりは百、百よりは千、千よりは万が良いし、立派な物がよい。しかし、孫の祝い用の鯉幟は立派なのも結構、立派でないものも結構、自分で造ったものでも結構、いずれも結構である。どのような形態であれ、そこには人の想(おも)い(愛と情)がある。こうしたことが他にも多々あった。

第一、金はどうなるのか。私の老後を誰か見てくれるのか、となる。まず過去の膨大な作品群の補強写真を。これを崩(くず)されると餓死する。蟻(あり)地獄(じごく)から抜けてから、飽(あ)きるほど故郷(ふるさと)は撮り、無料でみんなに配ればよい。その逆では、蟻地獄、底なし沼の道でしかない。
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『閉じた窓にも日は昇る』・2008年幾つかの出版社へ送付原稿。
2016年からは『閉じた窓にも日は昇る』(Kindle、KOBO共に上下各百円)で発売中。
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このときの内容は上記原稿で2008年にはいくつかの出版社へ送付済みである。
原稿に関する撮影は貴重な投資であるため、下着代金などを下着購入をやめ、撮影費用を貯(た)めて行こうとするや、その前に村撮影などを強要され、費用がなくなりフィールドワーク中止は多数ある。

私はカメラマンではなく、著述業者での起業を図っている人間である。写真は従で、著作権の関係で、自分で撮らざるを得なくなっただけである。綺麗なものを撮るのではなく、商品となる原稿に関係する写真を撮らなければならないのである。
なお、催眠は絶対的なものであり、人を殺せという催眠をかけられればそうなるであろう。
当然、私は加害者ではなく被害者である。もし、人を殺さぬ時には、そう思えても、実際には殺すまでの催眠がかかっていなかったというだけのことである。催眠とは絶対的なものである。正確には催眠該当事項は。

村撮影時の催眠撮影は明白な記録のみか証拠能力のあるものは2002年4月鯉のぼり、記憶・当時の記録・第三者への文書(2008年から幾つもの出版社)へとある。勿論、それ以前のも記録があろうが、既述の理由で調べても無意味である。




村撮影云々で…どこから費用がでると思ったのであろうか。世界の七不思議の一つである。何故、私が昔、靴下をはいていなかったと思うかである。靴下代金なども写真代金にである。投資である。だが、仕事と無関係な撮影は浪費かつ自己破滅の道である。

私は村に写真代金を一円も請求していない。また貰う予定もない。そして写真代金が高くても村人の懐とは無関係である。
それでは、何故、私の写真代金を気にするのであろうか。まさに、ちんぷんかんぷんな話である。費用を気にするのは私のはずである。

ちなみに、コンクール応募1枚を前提に写真をとれば幾らかかるか、コンクール狂に一度聞いてみるがよい。Lサイズ応募でも25円とか50円とか120円では無理ですよ。これがA3とかA4(4W)となっても同じです。サイズを大きくするから費用が高くなるのではないのです。原本をつくるのに…。しかし、請求していない金額について解説しても時間のロスである。

この後は、しばらく、昔記述した作品と行っても良い文書から、村アルバムと村の風景を掲載予定でいる。私的ブログにはアドレスのみ掲載し、安らぎ文庫ブログか公式ブログなどの正式なブログで公開予定でいる。これは、日本の記録としても意味があろう。
また、誤解類の解き方は、本来は上記の解説文ではなく、作品類を発表するのが本道である。作品をみれば全てがわかろう。ところが、催眠で作品作製と発表を阻止され続けているのが、この二十年余り、その隙をついての風評被害である。逆に言えば、風評被害対策も作品作製妨害の大きな一因でもあった。

最後に、Twitter記載の下記の簡潔な文を掲載する。本質の一端が分かろう。



《◇―5・資料》


最後に、Twitter記載の下記の簡潔な文を掲載する。本質の一端が分かろう。

○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1264835907393163264?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1264835907393163264?s=20

上記Twitterも全て。もし、私が二枚目に写っていたときに、綺麗(きれい)な顔の私(浜田隆政)を撮らせてあげたのだからお礼を言えとは言わぬ。

私の顔をみれば分かろう。

ならばほかも…。

○○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1264428291512872960?s=20

 

○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1264438817148133376?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1264438817148133376?s=20

(ポップしていないため2020/11/11 14時頃 Twitterを貼り付け)

20-145-3【#写真】📷で商売する人が #プロ 。
他も同一。
#梅宮辰夫 氏の料理が幾らよくてもアマチャ。
通常の #うどん屋 でもそれで生きていればプロ #職業。
生計に繋がる本業が全て

私はプロ🕊️著述業者で📖挿入写真だけが必要。
良い写真以上に仕事に使える写真。
勘違いと催眠強制被害の人生

 

また、上記も事実。

《その他の追記》
短大授業使用の「フォトビジョン FV-10」は1996年10月22日購入である。しかし、この商品の発売は下記の如(ごと)く1995年4月26日である。更に、そのCMはその数か月前からでている。

金欠の私は、商品が発売されても即座に購入できず、資金を一部先に渡されても、価格が下がるのを待たなければならない。更に、旧商品を見て、新製品が出ると読むと、新製品が出るのを待ち、更にでてから価格が下がり購入となる。両者とも一年などはザラである。
例えば、CoolscanⅣを見てⅤがでると分析し、1年待ち、更に価格が下がるのを1年待つ。

D800に至ってはD700がでて迷うも、まだ不十分ということで、オーダーメイドの如くニコンに膨大な要望を送付や伝え、D800発売の裏情報を2011年夏に知り、2012年初頭発売も、失敗せぬように各種情報収集し、ニコンサービスステーションで実写しSDに録画し家で分析し、購入は2012年秋である。

2007年11月から待つこと5年、デジタル移行を考えた2000年頃から待つこと12年半であった。高い商品のため購入ミスは許されないからである。買い直しは無理だからである。
ニコンレンズED 70-300も1998年から要望を繰り返し、購入までに相当年数がかかっている。当時のAF 75-300が必ずリニューアルされると読んだからである(ニコンの職員の一部は新製品はでないと思うと言っていた頃である)。

よって、母との約束と購入時期にズレがあっても上記の関係であろう。万一違っていれば、別商品で母と村アルバム作成計画をしたかもしれない。過去の膨大な記録を調べればわかろうか、村に費用請求していないし・する気がない以上調べても時間ロスでしかない。
確実に即座にある記録(正式記録・他人も何人も見ている『○○村アルバム』最後に記載の公開記録)は1999年終了、万一金が入れば次は2020年~2030年頃再開と記述をしているのが全てである。逆に言えば2000~2019年は村関係は撮らぬという記録である。

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画像入力装置 [フジフイルム フォトビジョン FV-10]
部門
商品デザイン部門
受賞企業
富士写真フイルム株式会社 (東京都)
受賞番号
95K0629
受賞対象の概要※掲載している情報は、受賞当時の情報のため、現在は異なる場合があります。
デザイナー
富士写真フイルム株式会社 デザインセンター 近藤 昭三

開始日
1995年4月26日
価格
79,800円
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GOOD DESIGN AWARD
https://www.g-mark.org/award/describe/22397
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2020年6月7日