9月の歌掲載に当たって―「Dear Australia!オーストラリアへの手紙」

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9月の歌―Waltzing MatildaとI am Australian:オーストラリアです

 

Dear Australia!

 

9月の歌特集はオーストラリアの歌です。
その前に、私事(わたしごと)を書かせていただきます。

ウィリアムス君(Dear MR. Williams)元気ですか。
今から約40年前(1977年~80年)の頃を思い出します。
君が手を振りながら、「お~い、ハマダさん」と言ってくれた頃を思い出します。ちなみに、日本に来たら、相手の人に「さん」をつけてみたらとアドバイスしたのは私です。少なくとも、私のことは「タカマサ」ではなく「ハマダさん」でいこう、と提案しました。これは文化です。(ファーストネーム方式を否定していませんが、国ごとの哲学が土台にあります。)

 

貧乏学生だった私が、安アパート(都電鬼子母神(きしぼじん)付近で、4畳半と3畳、それに自炊ができて、一万八千円の、雑司ヶ谷にあった、ぼろアパート)で、勉学していたときにも、何度か遊びにきてくれました。一緒に、セントウ(銭湯)にも行きました。

私が「いつか、オーストラリアに行きたい」と言うと、君は言ってくれました。「オーストラリアは宿代が大変安い。交通費だけで行ける」、と。私が「どうして」と尋ねました。すると、君は「私の家に泊まるのだから」と言ってくれました。
いきつけの食堂のママさんは、ある日、私に「兄弟みたいね」と言ってくれました。
私はいつかオーストラリアに行くつもりでおりました。君が私に言った「オーストラリアの蜘蛛(くも)はこんなに大きい」と、スイカ以上の大きさの表現をした、蜘蛛も見るつもりでいました。

1981年頃に岡山に戻り、やがて1984年頃は、京都で大手予備校講師、岡山の予備校講師、大学校の教壇、福武書店の模試監修、駿台模試作成……と超多忙となりましたが、そのかわりオーストラリアにいつでも行ける費用が貯(た)まっていました。
超多忙と、1985年頃から開始した、訳の分からぬトラブルの中で足踏みをし、やがて1988年から超貧困のどん底生活となり、それが現在まで続いています。

 

40年弱の月日の中で、君も私も大きく変わったでしょう。勿論(もちろん)、当時と異なり、君も大家族を持っていると思います。だから、もし再会しても、少し話をできる程度しか願っていません。
しかし、現実問題として、私は死ぬまでに、オーストラリアに行くことは現在の経済状況や置かれている状況下では無理な可能性が高いです。今のままでは死ぬまでオーストラリアの大地を見ることはないでしょう。

 

今月の歌(9月の歌)で、オーストラリアという国を思い浮かべ、オーストラリアの大地に行った気になるしか、私にできることはないと思います。

 

40年前に、早大大学院の時期にはゼミでもカリフォルニア大卒の人、それにハーバード大卒の人が時々参加しておりました。でも英会話は覚えられませんでした。何故(なぜ)ならば、ウィリアムス君を始め、彼らは日本語を学びに日本に来たので日本語で話してほしいと言ったからです。
そして、長期に亘(わた)る自宅監禁とトラブル続きの中で英語は忘却の一途(いっと)を辿(たど)りました。(特に2001年以降はひどいものです。)

 

そうした中で、夢見る大地・オーストラリア特集が9月の歌です。