💁『求め続けて』第3部補章―3・各種工作事件― (6)・語学論と私の歩み―…日本語・英語大恥連続と早大院時代の修論(正式公開)

このエントリーをはてなブックマークに追加

『求め続けて』第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件―

(6)・語学論と私の歩み―…日本語・英語大恥連続と早大院時代の修論(正式公開)


2023/09/20 0:13からメモ開始。3:31本日分打ち切り。2023/09/20 15:47 写真のみ追加。

2023/10/28 3:42 大幅修正。2023/10/28 12:05 前書きを追記。

2023/10/30 19:10頃から清書化作業開始:2023/10/31 1:25とりあえず打ち切り。起床後に《◇6-8》を修正予定でいる。2023/10/31 12:30~14:51下書き終了。

2023/10/31 18:08 正式公開 (ただし、誤字・脱字、不適切な表現などは、この後でも修正する場合がある)。19:00漢字などの微修正。

2023/11/15 22:21 10/30の追記の箇所の中に次を追記→小学生くらいの年齢に見えた女の子 

2023/ 11/16 11:49 What is a history→What is historyに訂正。何故、aをつけたのだろうか。私がaを書いたのだろうか? historyにaは履歴関連(cf. 病歴)などだけである。

 


 

 

構成】
《◇―序・授業の場を奪われ、生きる権利を剥奪されたポリテクカレッジ岡山時代》
《◇―1:駿台辞職とポリテクカレッジ岡山及び勤務校での全ての豹変》
《◇―2・体当たり人物は学生Sの名を語った偽者の証明》🆕
  ―今回新証拠を提出。

《◇―3・未曾有の大流血事件を強制的に回避された話》🆕
《◇―4・精神破壊へのポリテクカレッジ岡山の波状攻撃》
《◇―5・私が英語ができるか―…であることが専任詐欺にあった証拠》下書き

《◇―6・語学論と私の歩み―…日本語・英語大恥連続と早大院時代の修論の屈辱》記載前

《◇―7・駿台事件との関連性と差別》メモ
  ―私が終始一貫して臨む物―民主主義に基づく裁判での解決―

(写真はクリックで拡大=パソコン画面大、二度クリックで巨大)

1996年撮影:写真№ 96-075-03-f

1996年撮影:写真№ 96-075-03-f

1996年撮影:写真№ 96-075-03-f

 

《◆6-0:2023年前書き》(2023/10/28(11:35)記述:2023/10/30 19:34修正)


 以下は、第二次安倍政権になってから、勉学挑発を受け続け、面倒でもやむを得ず記したものである。

私の基本的考えは以下である。
私の両親が生前、イチゴを栽培していたときがある。我が家の家計を支えるためである。当然、イチゴについての勉学はする。だが、取り立ててそれを人に言うようなことではない。イチゴを他の勉学に置き換えても同じである。そこで記述の必要性や返答の必要性はない事項である。だが、何故か、安倍晋三氏は学歴コンプレックスが強かったようで、私にもそれを(勉学的コンプレックス論)を無理矢理おしつけてきたようであった。彼のような振る舞いは、(彼の出身大大学)成蹊大学出身者に対して失礼極まりないと常に思っている。

こうした一連の、安倍氏による攻撃のため、他の書かなければならない原稿を犠牲にして、今回の原稿を記した。
なお、私が最終学歴で早大大学院を公開し始めたのは2009年からである。それまでは特に言う必要もないので言っていない。公開した理由は2009年に村で自治会傘下の組合長になったときに、村のぐるみ選挙に巻き込まれそうになったからである。
表では田舎のタカちゃんであるが、裏では世界のMr. Hamadaである。ぐるみ選挙に巻き込まれると、市長選挙のみならず、国政の政党分布にまで影響を与える危険があった。これでは何のための党派中立かは不明である。それ以上に、私の(主要政党全部に送付した)人権救済依頼がご破算となる。一部の政党や議員が動かなくなる危険があった。

これは2009年の(岡山県)美作市長選挙のことである。近隣の安東美孝さんがに立候補…で、某人物が、「組合長が先頭でお供をして各家を回る…」を臭わした気配や…であった(神社の宮司さんの氏子回りの件でも同様のことを言っていたため、後に考えると本気で実行しようとしたのか・どうかは不明である)。

 この美作市長選挙では、親戚の方は別候補をおして、「◎◎を頼む、彼は、君と同じ関学出身だ…」と、我が家へ来られた。後者のときに、私は政界との柵(しがらみ)があるので、どの候補者もノーコメントと言ったが、真(ま)に受けられなかった。
そこで、やむなく、人脈の関係で早大大学院を公開しただけである。もっとも隠すも・隠さないもどうでも良い次元でしかない。実につまらぬことであるが、人脈は言っておかないとJA改革アンケート以上の問題が起こる危険が当時も今もある。面倒なことである。

通常の人にとって、大学などは、その人脈から商売上のお客様が増えるかどうかでしかない日大ならば日大出身といえば、政治家ならば日大卒業生の票が入るとか、旅館経営ならば日大出身者の人が来てくれる…でしかない。後はパソコンと同様に、商品価値=大学時代の教育サービスが良いか・どうかの商品価値の問題でしかない。

このときに、政治家とのしがらみを公開して、ぐるみ選挙と一線を置き、どの候補者にも「ご健闘をお祈ります」しか言えない理由を明白にするために、早大大学院時代の人脈を記さざるをえなくなった。早大大学院とは、たかだか早大の大学院であり、公開の必要はなかったが人脈の関係からであった。公開しておかないと、最近記しているJA改革アンケートの二の舞以上となる危険があったからである。

早大大学院・政治学研究科時代
大学院時代の恩師は内田満先生である。長期自民党顧問をされていたが、後に民主党に変更されたという噂も聞いた。恩師の恩師は吉村正氏で、吉村氏は自民党党学校校長もされたことがあった。
私の大学院時代のインタビュー相手は市川房枝氏であった。当時の選挙参謀が菅直人氏であり、市川氏の窓口が紀平悌子氏であり、紀平氏の弟は警察官僚として有名な佐々淳行氏であった。

また、大学院時代に出くわしたと思われる人物(試験監督中の学部学生)は、政経学部では野田佳彦、大塚耕平両氏などであり、法学部では岸田文雄、稲田朋美両氏などである。
それ以外にも、(当初現在の天皇のゼミを担当すると言っていた、学習院法学部長であった)飯坂良明先生との縁から学習院…との関係もあろうし、(少し縁があり、年賀状を先生の側からだしていただいた)慶応の内山秀夫先生の門下生で政治家になっている人間も多かろう。その他多数のしがらみが早大時代にできていたため、それを強調するために、早大大学院政治学研究科時代を公開しただけである。
恩師・内田満先生との関係で、小渕恵三氏を始めとして、政経学部出身の総理とは間接的な縁もあろう。
ちなみに、2000年以降は早大出身総理が多かった。
小渕恵三氏(政治学研究科)、森喜朗氏、福田康夫氏(政経学部)、野田佳彦氏(政経学部)、岸田文雄氏と早大卒が急増した。

さらにテレビ対面が事実ならば、小泉純一郎氏をはじめとして多くの政治家と知り合いになってもいた。逆に言えば、小泉政権時代には、大物政治家で私の名前を知らない人はいなかった。その上に、主要政党幹部や厚生労働省幹部などに、能開大被害の件で救済依頼を書留送付もしていた。

早大とか、大学院修了などは本来、言う必要もないし、言っても意味はない。2009年までは言うはずもない。そこで2008年まで、親戚や近所でも知らなかった人は多かろう。大学の関西学院(関学)も私は言っていないが、親か誰かが言ったので知っていた人が多かったかもしれない。もっとも、田舎では関西学院大学自体を知らぬ人が多いし、私も受験する数ヶ月前まで名前も知らなかった大学である。

安倍晋三氏はかなり学歴コンプレックスがあったようであるが、それは本人の勝手である。しかし、それを多種多様な手段で私にまで押しつけられるとたまったものではないといつも怒っていた。そんなつまらぬことはどうでもよかろうに、と。その上、語学挑発までしてくる始末であった。彼は本当に右翼か。日本男児かと今の右翼に疑問を持つ。ちなみに、安倍晋三の祖父・岸信介は大学受験も英語ではなくドイツ語であった。


こんな馬鹿な原稿など記すは時間の無駄であるが、余りにしつこい挑発でやむを得ずの記載でしかない。どうせ記述するならば、「偏差値のイドラ」か「毒饅頭の教育」の修正版か続きでも書いた方が良い。特に「言語帝国主義論」について記した方がましである。
せいぜい、自分の中で留めてくれ、と。つまらぬ原稿のテーマであると今でも怒っている。


《6-1:ボンの勉学論》

勉学とは必要なときにすればよい。必要でなければする必要はない例えば、フィリピンなどで使われているタガログ語は必要があれば覚えればよいし、必要がなければ覚える必要はない。英語も同様である。
若(も)しくは役に立たぬことでも面白ければやればよい。パチンコをやるよりも面白ければ勉学をすれば良いし、パチンコで負けない自信があれば、パチンコをやればよい。受験以外に目的をもっていない勉学では同じことである。

学問とは麻薬のような物で面白ければ止(や)められない。面白くなければしなくてよい。ただし、マルクスが言ったように「問題あるところに解決あり」{MARX ( Translated by S. W. Ryazanskaya; edited by Maurice Dobb), A CONTRIBUTION TO THE CRITIQE OF POLITICAL ECONOMY, INTERNATIONAL PUBLISHERS, 1989}、即ち、問題があり、その問題を解決したければ、あるいはする必要があるならばそのための勉学はした方が得策であるし、するように追い込まれるであろう。
農作物や商売で儲(もう)けようと思えば分かろう。

昔の人は正直であった。「勉強をする暇があれば家の手伝いをしなさい。この子は勉強ばかりして、家の手伝いもせずに」と。すると子供は「お母さん、お願いだから勉強をさせてください」と(※1)。もっとも、私は元来は勉強どうでも良い派のため、「それでは遊ぼうか」それとも家の仕事でも腕力がつくならば家の仕事でも手伝おうかとなったであろう。勉強・勉学…どうでも良いが、本来の私の性格であった。
今は、時折、子供が言う。「お母さん、勉強してやるから小遣いをくれ」と。ヽ(゚∀゚)、最後は冗談にならないことを書いてしまった。今や、これが多い。また、好評であった「偏差値のイドラ」と「毒饅頭の教育」の続編を記そう。

学問とはアクセサリーではなく、必要なものを発見したり、習得したりすることである。
私自身は、本来、力仕事好きで、余り人間関係がややこしくない腕力などを使うだけの肉体駆使型労働者(土方は今は差別用語となっているため置き換え)などの仕事を好み、平凡な人生を志向していた。

せいぜい、柔道部の顧問をやりながら、田舎教師などが本来の目指す道であった。
それが、映画説で、違う道へと誘導されたようである。

性格的な、凝り性が災いし、今、妨害がなければ、社会が必要としている幾つかの項目について提言や発見を行う能力はついてしまった。ただし、妨害だらけで披露できないだけである。

※1(2023/10/30追記)
私が幼少の頃、田舎ではテレビもなく、娯楽もなかった。そこで、地方回りの一行が村の公民館に芸を披露しに来たことがある。ついてきた小さな女の子(小学生くらいの年齢に見えた女の子)が、私などに聞いたことがある。
「学校っておもしろい」「字はどうやって書くの」…。
私は終戦の7年後生まれである。その頃の日本は中進国で、UNICEF等から経済援助を受けていた。学校に行きたくても行けない子もいた時代であった。いつか「飽食の教育批判」や「ハングリー精神と勉学論」も「毒饅頭(どくまんじゅう)の教育批判」の中で記述しよう。途上国では学校崩壊・授業崩壊などはなかろう。

《◇6―2・言語類が苦手な私の生まれた風土》

いつ私が英語の勉強をしたか。
私は1952年生まれであることをメルクマールとしてもらいたい。
小学校は塾等はなく、外国人に出会うこともなく、テレビでも語学番組はやっていなかったと思う。それ所か小学校低学年の頃はテレビは家にはなかった。ラジオでも、FM放送程度しか入らず、英語番組などを聞く機会はなかった。CDどころかカセットテープもなかった。勿論、学校教育では英語はおしえられていない。

中学校時代もほぼ同様であるが、この頃はテレビは所有していたが、英語番組の放映をしていた可能性のあったNHK教育は写りが悪かったか出なかった(1989年ですら画質は相当悪かった。度のつく田舎である。その代わりに、イノシシやイタチなどは随所ででていた。マムシもでていた)。中学時代所か高校時代ですら、英語のカセットテープなどは買う金がない。塾も社交見学で71年の人生の中で一年しかいっていない。
中学校の授業でのヒアリングはしれている。一回7行程度である。大半発音が悪い生徒が読み、教師は簡単に数回程度の音読である。それも週に約3回のみである。

高校時代は、英語の発音の悪い、一定数の教師がいた。
無から有は生じない。英語の音声を聞かずに、正しい英語の発音は無理である。こうして、元々、都会と田舎の格差があったため、当時は田舎の生徒は英語が苦手かせいぜい英訳や文法程度しかできない運命を背負っていた。インタネットなどあるわけがない時代であった。

都市と農村は当時は大きく違っていた。一物一価の法則は適用されない時代でもあった。即ち、かき氷でも都会では100円クラスがあったが、我が村では5円程度のものもあった。

もっとも勉学では有利な条件も合った。娯楽がないのである。同時に我が家付近では店も少なく買い物も余りしなくてよい。いわば一長一短であった。
そこで、私の出た田舎の進学高校・林野高校では私の頃でも普通科一学年180人中50人以上が国公立に合格していた。最盛期には(難易度で大学の善し悪しははかれないが)毎年京大・大阪大学には合格者をだしていた。

我(わ)が愛すべきクラス47名でも、約半数程度(簡単にチェックすると最低でも20名)が国公立に合格し、私立でも関関同立も二桁以上、(青学や日本女子大…等)類似大学を含めれば有名私立大学にはクラスの半数以上が合格をしていた。塾等がほとんどない反面、当時は都市と農村格差があり、娯楽という誘惑がないことも大きかった。私のクラスのみでも最低でも大阪大学を2名が受験して1名合格、神戸大学経済学部にも1名進学…となっている。大学院にもかなり進学している。

それ以上に、民主主義教育も学問、最低でも勉学と考えるならば、当時は岡山県下の屈指の民主主義教育の名門校であった。私が高校一年(1968年)のときの部落問題全国高校生集会には泊まりがけにも拘(かか)わらず、全校生徒が千人もいないのに、百名以上が参加をしていた。先輩が良かったのである。誰か、私、それは冗談である。{※岡山市から我が家までは約60キロであるが、宇野バス利用ならば約2時間かかり、大阪に行くのと同時間かかっていた。}

今日、「民主主義」「民主主義」…「人権」「人権」と言いながら、これらの勉学、ましてや実地の勉学は英語・数学・国語と異なり、今ですら学問とは大学進学後までは見なされない。大学院ではインタビューや実地調査は評価されるが、高校までは、それらは勉学放棄と見なされていた。少なくとも、私が高校の頃までは。ちなみに、1968年とは部落解放運動の分裂前であり、沖縄がアメリカの施政下にあった時代である。沖縄から来た仲間は、ドルを円に両替してきたと言っていた。全国でも有数の民主主義教育を標榜していた母校も今はそれも駄目になったように思われる。

「英語がどのくらいできるか」を強調したり、神経質になったりしていた安倍氏に聞きたい。「君は、民主主義教育や人権についての学習はどのくらいしたのか」と。比較すれば、どちらが大事だろうか。少なくとも政治家の資質としては。同じ問いを、国会議員全員にしてみたい。残念ながら、このおかしな現象はアメリカにも見られる。中学校や高校時代に、「セルマからモントゴメリーの行進」に参加したり、非暴力の公民権運動をしたりしていてすら、それらは勉学類とは無縁と見なされる。教育や勉学に関して、正常ではないのが、今の世界でもある。

私の高校時代に、もし、今のような自己推薦入学制度があっても、これらの活動をしていれば、落とされることはあってもその逆はなかった。大学入試や就職試験に際して隠すことが賢明な時代でもあった。ミスターオバマが大統領になった頃から、漸(ようや)く、変化が起き始めたかもしれないが、また元に戻りつつある可能性がある。これが世界の民主主義若しくは「民主主義教育」の実態である。

何度か菅直人内閣以降に名前と顔を知った松本龍氏(部落解放同盟副委員長、菅直人内閣の環境大臣)とも、ここで(1968年の全国部落問題高校生集会・岡山大会で)まず出会っているはずである。彼が、高校時代でも部落解放運動に熱心だったならば…の話である。松本氏が高校二年生のときである。今回、名前は出さないが、他の大物政治家も当時高校二年生として来ていた可能性が高い。
翌年は分裂で中止となり、後に京都や和歌山での高校生集会に参加したときには、残念ながら分裂状態で二つの集会となっていた。


今は、都市と農村の格差がなくなり、それにインタネットが拍車をかけた関係で、逆に、俗に言うつまらぬ偏差値で区切れば、母校・林野高校の進学実績は極端に落ちたようである。結構なことである。どうでもよい。

時代に逆行した事実上の学区制廃止が主因だったかもしれない。学区制だけは、現在の高校進学率の高さを考えると国公立は雁字搦め(がんじがらめ)の小さい学区制が好ましいと思っている。私立は別である。特に、国庫助成を受けていなければ自由である。国公立高校は、本来、進学実績で競争するものではない。予備校や塾ではあるまい。公立高校の使命感の欠如でしかない。

ただし、私の母校の一つ早大の看板学部・政経学部(私が進学したのが早大政治学研究科)だけが、林野高校を指定校にしたときがあったようであるが、私の頃とは上記の如く時代が異なっており、無理があった。その後で当然廃止にしたようである。私を見て当時の林野高校と今の林野高校を錯覚したのであろう。

なお、語学苦手には先の土壌以外に私の性格が関係していた。それが次である。
ユニークな林野高校の教師と生徒の人間関係は下記を参照されたい。

☆☆☆☆☆☆
徒然なるままに・第一回高校2年時の担任U先生の思い出―高校生の私と教師がパチンコ屋で出会ったときに先生が言った言葉
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=4933
☆☆☆☆☆☆

《◇6―3・拙著『日本のフィクサーME』より、国語音痴のボンちゃん(私)の話》

実話であるが、人名などが相違しているし、二人を一人に合成したりしている。
例えば、高倉君は親友の◎◎君(柔道と空手の有段者)と親友になりたかった▽▽君(剣道の有段者・国語が私と同様に苦手で某国立大進学者)の合成である。
これを読めば、私の語学苦手の土台は分かろう。


☆☆☆☆☆

☆☆☆☆☆
勉学面でも二律背反(はいはん)の性格をしていた。小学校時代は、家での勉強時間は本当に零(ぜろ)分であった。而(しか)も授業中もまともに授業を聞くような性格ではなかった。
そんなある日、小学校の算数の授業中に、教師が難問を出すが、これが解けたならば通知表で五(当時は五段階評価で五が最高)を出すと言ったことがある。こういうときだけは授業を熱心に聞く。そして解いた。正解であった。だが、授業態度は良くないし、家でも勉強はしない。教師は私に五を出すには抵抗があったようである。そこで教師は前言を翻(ひるがえ)し、もう一度問題を出す。今度こそ解ければ本当に五を出すと言った。私は解いた。

こうして結局五を貰(もら)ったことがある。だから、勉強は家でも学校でもする必要はないと考えていた。そこで、友人と遊ぶため、時には遊びのはしごをし、一日に何軒もの家で友人と遊びまくっていた。

当然中学校に入り成績は下がった。家や学校で勉強しないと成績が下がることを初めて知った。中学一年の終わり頃か二年初頭の頃である。それまでは、勉強などは学校に行きさえすれば点数は取れると錯覚(さっかく)をしていた。
他方、私の小学校高学年頃の愛読書の一つが『朝日年鑑』『読売年鑑』などであった。ほとんど隅(すみ)から隅まで読んでいた。しかし、『少年朝日年鑑』などは学校の授業に役立つが、『朝日年鑑』では小学校五年や六年の試験問題とは全く無関係なレベルのことしか書いていないため、授業用勉強はゼロとみなされた。

なお、ボンちゃんは国語、特に漢字が苦手であった。これには深い訳がある。否(いな)、単純な理由があった。我が家の近くで初盆の法事か何かがあった。そのときにお茶を出された。私はそのときに得意げに言った。

「僕はこのお茶の種類が分かる」
すると、周りの人がその回答を聞きたがった。そこで、私は得意げに言った。
「緑茶ではない」
「そう」と誰かが答える。
「これはほうじ茶でもない」
かしこい子という雰囲気がその場を覆(おお)う。
「番茶でもない。煎茶(せんちゃ)でもない。玄米茶でもない」
それでは何茶と言うか、周りの小母(おば)さん連中は興味津々(しんしん)となった。そうした周りの注目の中で私は言った。
「これは粗茶(そちゃ)である」

その場に居合わせた一部の人は笑い、他(ほか)の人は私の母親に遠慮し笑いを必死に抑えた。尤(もっと)も、これは母親が悪く、私が粗茶の意味を聞いたときに、面倒臭がって、「苦いお茶のことを粗茶という」と教えられたことに由来する。余りに受けたため、ブリキの勲章(くんしょう)に倣(なら)って、漢字の間違いをそのままとし、自らの勲章にするため、高校時代に私も漢字苦手組にいた。

我が高校は進学校であったが、〝田舎(いなか)の〟進学校という、形容詞〝田舎(いなか)の〟が必ずつく高校であった。この田舎の進学校では、何故(なぜ)か漢字の苦手な生徒が多く、比較的数学のできる生徒が多いという奇妙な学校でもあった。依(よ)って、我が高校ではas easy as pie(とてもたやすい)とかa piece of cake(楽な仕事だよ)という代わりに、易しい事柄はas easy as mathematicと言っていた。
例えば「Playing baseball is as easy as mathematic (野球をするなんて朝飯前だよ)」という具合に。逆に漢字は「A Chinese character is all Greek to me.(漢字はチンプンカンプンだよ)」と言っていた。

こうして、この奇妙な高校では、誰かが授業中に漢字を読み間違えると大受けをしていた。否(いな)、みんな心待ちにしていた。馬鹿にするのではない。田舎では授業の下手な教師が教材研究を全くせずに授業するため、みんな授業が退屈で仕方なかったのである。
そうしたときに当てられた人間が、漢字を読み間違えると息抜きとなり、みんなで大笑いをした。特に眠いときはそうであった。嘲笑(ちょうしょう)や馬鹿にするのではなく、親近感からの笑いであった。ここで、私は更に漢字は可能な限り覚えまいと決意を新(あら)たにした。

これは我が友・高倉君も同様であった。彼のときは特に期待が大きかった。毎回必ず間違うのである 。「……は御立腹(ごりっぷく)なさいまして……」を、「……はゴタチハラなさいまして……」と読むなどは日常茶飯事であった。そう言えば、彼とは中学も同じ学校であった。

彼は中学校の修学旅行で引率(いんそつ)の教師を真っ青にさせたことがあった。京都か奈良であったかは忘れたが、著名なお寺へ行ったときのことである。彼は何を思ったのか、有名な寺の境内の大きな木の枝に飛びつきぶら下がろうとした。
彼は「よいしょ」と掛(か)け声を掛けて跳(と)び上がったが、幸いに木の枝に届かなかった。もし木の枝にぶら下がれば、有名な寺の木の枝が折れていたかもしれなかった。教師は怒る前に驚き真っ青となり、やがてほっとしたようであった。教師も彼の性格を知っているため注意のみで叱ることもなかった。

なお、高倉君は浪人はしたものの、香川大学(国立大学)へ進学した。私も、遠方の田舎の地方国立大学にでも引っ掛かればよいと考えていた。別に国立大学でなくてもよいが、家に金がないため授業料が安い大学が良いである。
もし、地方の私立大学が授業料完全免除かつ生活費該当の奨学金をくれれば、それでもよい。田舎の地方大学には――失礼な言い方をすれば田舎の地方六流大学には――ロマンがある。番傘(ばんがさ)をさし、下駄(げた)をはいて学校をのんびり登校しようかと。

実際、関学に進学後、大学一年から二年にかけて学内を歩けたときは、首にタオルをかけ、下駄を常用して歩いていた。お嬢などは、「二メートル離れて歩いてとは言わないけど、一メートルだけ離れて歩いて」と良く言っていた。

因(ちな)みに、高倉君は、真面目(まじめ)で素直で、私の好きな性格の人物であった。彼は剣道と柔道と空手の有段者でもあった。とは言っても、全て初段であった。ところで、漢字を間違えたときの、この種の親しみの笑いは〝高校時代のみ〟と限定がついた。それは大学に進学してから知ったことである。

だが、他方でボンちゃんこと私は、高校時代から社会問題関係の文献を読むのみか、高校三年の夏ですら自衛隊の実地見学をするなど社会問題関連の勉学では優等生であった。これまた二面的性格を持っていた。勿論、これらは当時は学業の評価対象とは全くならなかった。

その結果、大学入試において、国語のない大学を探すという前代未聞(みもん)のことをすることになった。そんな大学なんてある訳(わけ)がないと思っていたら、一九六八年《2023/10/30訂正:一九七一年》入試では関西学院(かんせいがくいん)大学(関学)が該当していた。
そこで、私が高校三年中頃まで、名前も知らなかった関学を受験することになった。私が受験した年の同大学入学試験は、選択の仕方次第で、(国語抜きで)英語、数Ⅰ・Ⅱ、社会一科目の合計三教科で受験できた日本で唯一の大学だったからである。

英語のみ必須(ひっす)で、後は社会、数Ⅰ・Ⅱと国語の中から二科目選択というユニークな入試であった。これならば、数学で満点をとり、社会科で八十パーセントもあれば、英語では何点でもまず合格となる。苦手な国語はない。こうして関学に進む。
……
要するに、ボンちゃんこと私は、一本気で単細胞型のあっさりした天真(てんしん)爛漫(らんまん)な性格であるが、格闘技など一部の方面では勝ち気な性格をしている。頭の方は義務教育時代は全く勉強をせず、逆に大学に入ってからは本の虫に近い人間となる。

☆☆☆☆☆

拙著『日本のフィクサーME・上巻』(Kindle、KOBO各百円 or $1 )第2章・盧武鉉(ノムヒョン)大統領への伝言――日本の領土問題:第一節・ボンちゃん
☆☆☆☆☆

☆☆☆☆☆

これは嘘みたいな話であるが、登場人物の名前以外は実話である。
教育の実践記録の中に『ブリキの勲章』なる本があるが、私も同様であったのかもしれない。もっとも、目立ちたいのではなく、冗談を言って受けたいだけであった。

《◇6―4・私の語学遍歴》

さて、今度は国語ではなく、英語の話をしよう。もっとも高校時代の英語学習は記述に値すまい。小学校1年の算数ができるか・否かというが如(ごと)しである。ともかく、私自身の語学学習の経緯は以下である。

①長文読解―1975年後半から77年大学院入試のため。毎日数十ページの英文を読み続ける。ただし、音声・発音は一切入ってこない。自宅浪人のため、田舎では電波の関係でテレビやラジオでは英語番組は入らない。カセット類は金欠で購入できない。

②77~80年早大大学院時代は授業の大半が英語のテキストで少し英語を読み続けたようであるが、大した話ではない。

1988~89年、駿台予備学校辞職後、ここで英語の文法などを、イギリスなどの英文法書を含めて本格的に行う。目的は、専門の政経以外に英語でもバイトで教える戦略に移行のためと、ポリテクカレッジ岡山での英語専任準備のためであった。簡単に言えば、両方とも、商売用である。同時に、政経・現社・日本史・英語…多教科担当の整理(日本史などの切り捨て…)の意味もあった。

④ところが、90~93年の休眠期{躁鬱(そううつ)病の鬱状態の激しい時期に類似}で相当忘れる。

⑤1994~2002年頃英語学習の再開。ここの学習も商売目的である。
世間一般でいう語学力のピーク時がこのあたりである。
面白半分に英検模試該当をすれば、英語の準英検は合格、英検一級を目指しましょう程度でしかない。通常の大学英語教授ならば英検1級が当たり前かもしれない。ともかく、この時期にも英語の文法も本格的に行う。

⑥同時に、1994年~2005年前半頃までは面白い英語の書物をすべて丸写し作業をした。
「To kill a mockingbird」や英語版「Heidi」等々である。

その後英語も含めて、再就職準備で学問・文献から遠ざかった。

要するに、23~24歳、36~37歳、42歳~52歳頃(本格的な英文法学習はこの頃)に英語の勉学をしている。いずれも商売活用目的であり、趣味ではない。

ちなみに、私の高校時代は1968~71年であり、高校時代は英語などはできぬし、テキストから言っても論外であり、カウント以前の話である。嘘と思えば、留学経験のない東大卒の国会議員の英語力を試せば分かる。私の言うことにうなずく、東大卒国会議員は結構いるはずである。彼らは正直なのである。
それが勉学にも正直という証拠となる。何故ならば、彼らが学ぶ必要があるのは、職業としての政治若しくは政治学だからである。同様に必要面からの経済学である。
使用しもしない英語ができた・できぬというのならば、つまらぬ偏差値で判断してはならぬが、本当に東大を出たのかとなる。もっとも、日本語と同じスピードで消化したり、海外の諸制度を研究する上で、やむにやまれず、語学をしたりする場合には別である。
(国会議員が)語学などをする暇があるならば他にすることがあるだろう、となる。

東京時代ですら1977~81年であり、本格的な文法学習をした1994~2002年頃のことは当時の旧友は誰も知るまい。そして、20年余り封印で忘却したため、英語力の証拠はない。とは言っても、先の英検準一級程度であり、今となればどうでも良い。

また、語学は飾りではない。ましてや学問は尚更である。
本格的に開始したときは、老後破綻を防ぐため、場合によれば塾か予備校で英語を食いぶちにしようかと考えた時である。もしくは岡山短大の専任時の準備程度であろうか。
人に見せるためのアクセサリーではない。

ましてや英語といっても広い。
医学英語か、カメラ英語か、哲学英語、ホテルマン英語か……と。
医者ならば医学英語を知ればよいのであり(それ以上に医学上のアイデアや手法・技法が身につけば良いのであり)、カメラ関連英語を知る必要はない。実用的なものである。

もっとも、日本の科学力や学者が優れていたならば、英米の研究者が日本語を勉強するようになり、留学生も日本からよりも、日本への留学生が増えるであろう。
英語をやる前提には、優れた研究者などの相当数を英語圏が占めていることを前提としてでしかない。その目的は英語の習得ではなく、研究の習得にある。

わかり易く言えば、癌の特効薬の開発に寄与することが重要であり、語学をマスターすることは付録でしかない。海外移住をするならば別であるが。


参考までに、日本語(国語)の話の続きを書こう
国語の勉学をし始めたきっかけは大学院時代(1977~80年:25~28歳)の家庭教師の頃である。
上記はきっかけであり、本格的に日本語学習をしたのは、商売用原稿を書くための修行として、2006年頃~2012年頃(54歳~60歳頃)であろうか。わずか6年と言っても、中学校と高校の合計年数に匹敵する。もう少し早い2000年頃かもしれない。すると約10年となり、中学・高校に大学を加えた年数となる。また漢字類を本格的に覚えようとしかけたのは1988~89年頃(36~37歳)であろうか。
きっかけは原稿を商売とするためである。

語学を含む学問とは、必要と思えば、思ったときにすればよいのであり、必要と思わねば一生しなくてもよい側面もある。例えば、フィリピンに行かないのにタガログ語をマスターする必要はあるまい。スワヒリ語とて同様であろう。語学というものは特にそうである。英語も語学のため同様でしかない。
必要と思えばすればよいし、思わねばせねばよい。同時に、必要性を感じてからした方が効率的でもある。
(私が一度もしたことのない)ゴルフとて同様であろう。

ちなみに、私は母校の一つである関西学院大学を受験するときは、数学ⅠとⅡ、英語、世界史であり、国語は入試では選択せずに受けていない。そのくらい国語は苦手であった。今の日本語力は大学院を修了して何年もしてから、必要に駆られて独学で身につけたものである。そのため、昔、国語で大恥をかいたこともあり、その話も《◇6-7》でしよう。

《◇6-5・勉学の虜(とりこ)に―スロット・パチンコよりも面白かった文献との出会い》

尚、勉学への本格的な目覚めは大学一年の時であった。単なる偶然である。
大学一年のときに、カール・マルクスの『賃労働と資本』なる本を読んだ。
内容よりも、論理が余りに数学的な関係で虜(とりこ)になった。というのも、数学的思考は一種の趣味だったからである。
続いて『賃金・価格・利潤』という本も読み、更に本の虜となった。しかし、レーニンの文献からは余り、論理の魅力は感じなかった。悪魔で内容ではなく、論理の話である。
ともかく、簡単に言えば、パチンコのやり方を覚えて面白くなり、パチンコに凝るのと同様な側面が学問にはある。

小説などは余り好きではなかったが、実地見学と思い、石川達三の『人間の壁』や『次郎物語』などの長い本も読んでみたがさっぱり面白くない。後に、松本清張の『点と線』などを読んでも同様であった。
川端康成の『雪国』や『伊豆の踊り子』などを読んでも、文体が気色悪くて虫唾(むしず)がはしったくらいである。文体が気色悪いとは、読んでいると、頭でっかちの人間が机につき、しきりに考えまくり、文体だけでもたせようとしているようなイメージが浮かんだからである。実際に、雪国の英語版・『Snow Country』を数度読むと、川端康成が何故ノーベル文学賞なのか更に不思議であった。

袖の下(日本政府などが、日本の面子をかけて根回しをして、外交的戦略で賞を取らせた)かなどと書くと世のバッシングを浴びるだろうか。
映画の方は監督の演出力、それ以上に主演女優のお陰であろう。伊豆の踊り子ならば山口百恵と三浦友和であり、雪国では岩下志麻と加賀まりこが効いたのであろう。もっとも、『雪国』は英語版で3回以上、日本語版で数回読んだが、『伊豆の踊子』は一回しか読んでいないので簡単に結論はだせいないかもしれない。

 何故、日本語版で数回読むのか、出版社を変えて読むと文章(日本語)が一カ所ではあるが違っていた。翻訳ではないのですよ。多分、川端康成が達筆で、編集者が文字の解読で困り、違う日本語にしたのであろう。川端康成は偉いので「正直に読めませんが、何と書かれていますか」と聞けなかったのであろう。これが医学や科学だったならば大変な事になっていた。

吉川英治の『宮本武蔵』も全巻(8巻)読んでみたが、確かに面白いが、虜にはならない。どうも、数学的論理が性に合っているようであった。

よって、左か右かではなく、数学的論理が好きなのである。

大学院入試に向けて、関学時代恩師・後藤峯雄先生から、バートランド・ラッセルの『History of Western Philosophy』(『西洋哲学史』)を勧められ、ノートを取りながら読んでみた。古代ギリシャ時代などはさすがに手こずったが、ルネサンス以降は結構面白かった。それ以上に、バートランドラッセルの英語の文体が気に入った。

 ラッセルも調べると、数学者であった。ちなみに、ラッセルのこの本は日本語の翻訳は金欠で購入せず、英語で読み進んでいった。後に、日本語の翻訳も少し買ったが、ほとんど日本語では読んでいない。というのも、ラッセルの文体は非常に理解しやすく、翻訳本の必要性を感じなかったからである。

文体と言えば、児童文学ではあるが、『The Wonderful Wizard of Oz』(Lyman Baum著『OZの魔法使い』)も、英語の倒置の仕方が見事であった。正に英語の倒置の教科書であった。内容も良かった。かなりの回数読み、一部の文献はボロボロとなっている。ただし、第1巻のみの話である。ボーム編では続編を含むと14巻となる。

 数学者でもあるルイス・キャロル(Lewis Carroll)の『不思議の国のアリス』(Alice’s Adventures in Wonderland)の方は英文には余り興味を持てなかった。

 なお、両本とも挿絵は興味深かった。


大学院を出た頃に、今度は近代経済学者のサムエルソンの『経済学』を日本語と英語で読みかけた。これも大変おもしろかった。都留重人氏の本も同様であった。両本とも、作者の人柄もでていた。サムエルソンは本も授業も、学生に分かるように努力をしていたと後で聞いた。都留重人氏は姿勢もアイデア・発想も素晴らしかった。熱意もあった。両者共に学問と社会への姿勢も良い。

なお、数学的ではなくても、EHカー(E. H. Carr)の「What is history」(『歴史とは何か』)や文学でもディケンズの「Christmas Carroll」(クリスマスキャロル)なども興味深かった。ただし、後者は文体ではなく、内容と発想の方である。

 また文体は私の文体の如くまとまりが悪いが、ジョン・スチュワートミルの何冊かの文献の影響をかなり受けたようである。(商売上の弁解、私の文体の如くまとまりが悪いとは、この種の数度の見直ししかしないブログ類を指しており、既に出版している本は12~16度の見直しと書き直しをしており、まとまりは悪くない)

注意してもらいたいのは、人には好みがある。そこで、私が薦める本に興味を持てない人も当然いよう。ちなみに、私の食べ物の好みは、キャベツを煮て、何もつけずに、そのキャベツを食べることである。私のフルネームは「Forgetful. Takamasa Cookie Hamada」と面白半分に言うが、実はCabbage Manでもある。好みや目的は人それぞれである。どうしても文献に興味がなければ、別に興味のあるものに没頭する方が良い。それが王道への近道であり、好きこそものの上手なれである。

同時に、必ずしも文献に拘(こだわ)る必要はない。文献、漫画、映画、音楽、絵画、写真、イラスト、演劇、ミュージカル、一人芝居…と表現媒体は多数あり、自分が面白いと思ったものを優先することを勧める。
職業として取り組む場合にも、読んだ文献の冊数ではなく、社会が必要としている問題への処方箋であるそこで、勘違いからでも・まぐれからでも・失敗からでも、結果がだせれば何でもよい。学問はアクセサリーではないからである。だから文献に限定する必要はない。ちなみに、優れた発見・芸術手法は偶然や失敗からが多い。ペニシリンの発見、いわさきちひろの画風、モンテスキューの三権分立論などが代表例である。


私が、学生諸君に勧める文献の一覧としては下記を参照されたい。

☆☆☆☆☆
私が学生に薦める文献:日本語で12冊、英語で18冊。
また勉学の基礎として日本史・世界史全集をデータベースをとりながら読むことなどを勧めている。私は日本史は中央公論26冊・『日本の歴史』(読売新聞社)15冊、…ほか数十冊、世界史もほぼ同数を、パソコンで項目別にデータベース作成作業をした。無限検索が可能となるため、後に授業をするときなどには大変便利であった経験からのアドバイスである。
安らぎ文庫HP>本の情報>④お勧めの本
http://h-takamasa.com/custom29.html
超多忙で、HPの改訂作業の途中で中断したため、レイアウト乱れが生じているが大半閲覧可能なはずである。いずれ、HPの大改訂・レイアウトを本格的にしたいと考えている。
☆☆☆☆☆


《◇6―6:基礎・基本を飛ばしての勉学のツケの表面化―恥辱・修士論文》

だが、小中学校の国語の知識なしで、そこを飛び越えて学習したため、後に大きなツケがでた。
それが大学院の修士論文であった。国語の基礎を抜いて勉学をしていたことのツケである。
分かり易く言えば、中学校の英語学習を飛ばして、大学入試や大学院入試を受けることを考えればよい。
大学院入試などで出てくる英語の意味は分かる。大学入試でも同様である。だが、中学一年の頃の英語学習を飛ばしていたならばどうなるか。

要するに、木曜は英語ではThursdayというを暗記していなかったならばどうなるか。
大学入試ではまず、木曜日はMondayかTuesdayかThursdayかでは入試にでない。大学院入試でもでない。だから大学入試や大学院入試で困ることはない。
駿台時代にいた、英語の本尊・神様と称された伊藤和夫先生の授業でも、「Tuesdayは火曜日です。しっかり覚えなさい」とは言わない。嘘みたいな話であるが、大学入試や大学院入試で困ることはない。

「月」も同様である。Augustを8月と訳せなくても大学入試で困ることはほとんどない。特に大学共通一次試験などでは、長文読解でも直に訳さないため、全く困らない。
共通一次試験で絶対に「August」は①「4月」か、②「6月」か、③「8月」か、④「10月」か、で出題されることはない。これが今の学校教育である。

しかし、大学入試や大学院入試ではなく、日常生活となると支障を来すことがある。同時に、高度な学問領域でも、ごく希(まれ)に困ることがある。希ではあってもそれが致命的な損失となることがある。

ただし、今思えば、英語や国語を他の勉学に置き換えても同様である。特に早大などは数学抜きで入試を受ける人が多いため、高校数学どころか、小学校や中学校の数学問題を聞いてもできない人が多数いるはずである。小学校時代は算数が絶対優先、中学校時代は英数が両翼にもかかわらず、早大文系学生などは小中の算数・数学ができない人が相当いると思われる。ただし、国語は受験で鍛えられているうえに、人前で使うので目立つだけのことでしかない。大学なんてそんなものなのである。

と言うことで、私は小中学校時代の国語文法は全く知らない。
そのツケがよりによって修士論文時にでたのである。

大学卒業後に一年兵庫県西宮市教育委員会にいて、一年は大学院浪人をし、後一年は大学院で留年をしているため、修士論文の作成時は27~28歳のときであった。
金銭的問題から大学院を大学院3年で修了することにして、修士論文作成に取り組んでいた。正月を返上して東京で朝から晩まで作業をしていた。見積もりでは遅くとも修士論文提出期限の数日前には完成するはずであった。

下書きは終了して、清書であったが、一カ所だけ論理展開がねじれている箇所があった。ページにすれば200字詰め原稿用紙1~2枚程度である。そこを直すのは1~2時間と見積もっていた。後、議会制度の命令委任代表と自由委任代表の論理に1~2日かければ完全完成と考えていた。

ところが、修士論文締め切り日の4日ほど前に夢を見た。夢の内容はこうであった。
「お前の原稿は、段落区切りの後で、字下げをしていない」であった。段落区切りも意味を余り知らなかった。調べると、字下げ強調がどの本にもあった。真っ青となった。正にパニックである。

字下げをしていないため、既に9割以上(多分96%以上)清書を終了していたが、全部清書のし直しである。当初の見積もりでは残り4%の下書き部分だけを清書すれば良いとなっていたため、確実に間に合う予定でいた。ただし、その残り4%に、私の書いた原稿の核心部分があった。そこに原稿の付加価値・オリジナリティがあった。

 この箇所が、現在、世界連邦の設計図で主張している、国連型の総会・安保理は廃止して、命令委任型上院議会・自由委任型下院議会からなる世界連邦議会に置き換えるに繋がっている部分である。

そこをじっくり直せば綺麗に仕上がるはずであった。だが、そこはもはや空白というか論理矛盾のまま放置し、既に書き上げた96~98%の清書部分のやり直しを決行しなければならない。

見積もりでは、とても、間に合わない。もはや、思考の余地はなくなっていた。今、考えれば催眠であろう。
催眠で、ミスに気づかされた。

 今、考えればミスではなく、形式が他の人と違うだけである。50代になって日本語の国語について調べると、日本語にはほとんどルールはないのである。字下げは単なるレイアウトであり、しなければならないというルールは本当はない。例えば、朝日新聞の天声人語などは字下げは当然しない。日本国憲法も同様のはずである。それ以上に、修士論文作成規定には一切支障は来していなかったため、修士論文のチェックには問題はなかった次元であった。

しかし、催眠でパニックとされていた。

50歳代に知った(字下げは単なるレイアウトという)真相を知らなくても、もう一年留年という手があった。もし、様式をなおしたいならば、もう一年留年すればすむだけの話であった。年次でいえば、1980年度(即ち、1980年4月~1981年3月に該当する)だけの留年である。

実際に、修士論文は提出したが、1980年度は大学院をでたが、東京でバイトをしながら、教員採用試験浪人をしていた。それならば、留年しても、もはや授業はゼロのため、毎日、ゆっくりと清書し直しをすれば膨大に日数のおつりはくる。今、考えれば、もう一年留年すれば良いだけの話であった。

当時、大学院の内田満ゼミ同期生は四人いた。私以外には、吉藤君、斉藤君、今村君(現・早大社会学部教授)である。全員、そろって一年は留年している。更に私と今村君以外は両者ともにもう一年留年を決意していた。また上級生でも大学院修士課程を二年留年する人が多かった。

私に言わせれば、大学院を留年するか・しないかは指導教授が決めるのではなく、学生自身が決めるのが大学院と考えている。実際に、早大政治学研究科は留年の年数は学生が自分で決めていたのが実情であった。また、何年留年するかは題材(テーマ)と生活状況(バイトなどでとられる時間)が決めると考えている。
自分で、この辺りで修了しようと思った時が修了年次である。それが、当時の早大大学院政治学研究科の姿であった。

そこが、同じ早大でも法学研究科と相違していた。と言うのは、法学研究科は修士課程から博士課程入学は比較的スムーズにいっていたが、その代わりにオーバードクターの数が膨大にいた。即ち、博士課程の学生はどの辺りで博士課程を退くかを自分で決めていた。講師や助手の口かあるかどうか…などである。
他方、政治学研究科では博士課程進学はストレートではかなり難しい面があった。その代わりにオーバードクターの数が少なく、オーバードクターの年数は短く、ストレートで大学講師に決まる人が多かった。その分だけオーバーマスターが多かった。具体的には、政治学研究科の修士課程入学者は28名か29名であったが、博士課程入学者は多くても毎年3名程度であった。

そこで、オーバーマスターは当たりまであると同時に、いつ修了(大学院は卒業と言わずに修了と言う)するかは、自分で決めるのが実情となっていた。法学研究科は逆にオーバードクターをどこでやめるかは自分で決めるようになっているのと同様である。

要するに、本来は迷わずに留年すべきであった。ところが、次の催眠でパニックになっていた。留年したらどうなるか。生活費は同様であるが、授業料が大変だぞ、と。留年すると、早大は授業料は半額になるとはいえども、当時はかなり上がっており半額でも年10万円+αだぞ、と。関学時代は授業料は8万円台のため半額ならば年4万円であったが、早大は半額でも10万円前後だったような気がする。いや、もう少し安かった気もする。いつか調べてみよう。

なお、大学院進学にあたり、親のだした条件は、奨学金の有無にかかわらず、仕送りはゼロ円。生活費用も、引っ越し費用も、確か、アパートの敷金・礼金も含めて一円も出さないであった。実際に早大大学院の前半は奨学金が一円もでていないが仕送りはゼロ円であった。西宮市教育委員会時代に貯めた金でやりくりをしていた。もっとも、半年遅れて奨学金がでるときには4月から遡ってでるため、穴埋めはできた。
だが、留年となると奨学金は一円もでない。実際に、留年1年目は奨学金ゼロ円、家からの仕送りもゼロ円での東京生活であった。
授業料は大学院一年目と二年目は親がだしてくれたような気がするが、大学院三年目は自分で出していたような記憶がある。

ちなみに大学時代はもう少し条件が良かった。家からの仕送りは一か月に一万五千円を上限とするとなっていた。奨学金は月五千円でていた(特別奨学金の場合は月一万五千円時代である)。帰省旅費などは当然自分で出すであった。授業料は親がだしてくれたが、関学は当時は関関同立の中で立命館と並んで安く、年8万円台であったが、学校に頼んだならば半額免除で年4万円台にしてくれた。
もっとも、学園紛争に巻き込まれてからは授業に余りでていないため、半額申請をやめて全額支払いとなっている。学園紛争がなければ大学四年まで確実に半額免除のはずであった。当時の国公立の授業料が年3万円のため、ほぼ同じとなっていたはずであった。

今考えれば、早大大学院授業料が半額となり年10万円ならば月に1万円のため、留年するのが正道であった。催眠のなせる技であった。

《◇6-7・当時支援してくれた人達》

本題に戻ろう。

一人で清書をするのでは間に合わない。そこで、助っ人を探した。徹夜で清書作業に付き合ってもらうのである。常識を逸脱した借りをここで作ってしまった。

今、考えれば、非常識なことを頼んだものである。言い訳をすれば、大学時代は恵まれた人脈を持っていた。そこで、私が困ったと言えば、頼まなくても、徹夜でも助っ人にくる人材を同級生や下級生に相当持っていた。高校時代も同様な面があったかもしれない。そうした人間関係に恵まれた所から来た甘えというよりも、虫の良さだろう。だが、恥じ入ることこのうえない失態であった。

依頼して引き受けてくれた人間の名前を記載して、永久に名を残しておこう。
①大学院同級生の吉藤君。(彼にはドイツ語の相談でも世話になっており、彼には多大な借りがある。当初は、私が自由になり、同時に活躍して、全国的な知名度がつけば、彼が塾を開業しているならば、無料で手伝いに行って穴埋めするつもりでいた。私は長期に亘り、彼は塾か何かを自分で開業していると思っていたからである。後に、自分では開業していない趣旨の手紙をもらったが真偽は今でも不明である。)


②早大後輩の平田君(彼は私が困っているのを見て、彼の方から援助の手を差し伸べてくれた。彼は相当前から岡山の某専門学校理事長となっている。)


③居酒屋・孔雀で知り合った佐藤さん。


④同じく、居酒屋・孔雀で知り合った神田さんの息子の神田高君。彼は、私よりも一年遅れて早大大学院に進学して、政治学研究科ではないが法学研究科に籍をおいていた。私が大学院2年目からは早大大学院法学研究科の一部の諸君との学習会で一緒していた関係もある。彼は後に弁護士となり、ポリテクカレッジ岡山の件で、私が相談した弁護士である。

⑤従兄弟の典明君。



彼らに清書のやり直し作業を依頼した。私が書いた清書原稿をそのまま、単に字下げして清書し直すだけの作業である。私も、清書前の残り4%部分は無視して、清書のやり直しに没頭した。結局、修士論文は出すことはだせたが、清書前の4%部分は思考せずに、下書き部分をそのまま清書しており、論理展開の乱れの修正等を含めて最後の詰めはせずに提出となった。
当然、この4%部分には論理展開の乱れがあった。また、日本語にもなっていないとも言えた。修士論文の口頭試問では、そこを見逃さずに、清水望先生が突いてきた。だが、当初考えいた論理構想を解説して納得していただいた覚えがある。

しかし、この4%部分が大きい。
後に、早大大学院法学研究科の某人物が、一言言った。「そんな小さいこと。形式など気にせずに内容重視でいけばよかったのに。(字下げ問題などは)そのままで良かったのに」と。確か教育法が専門の人であった。

私も50代になって、国語の勉強をして分かった。
日本語のルールには、読点ですら、誤解を生じない場合には規則はない。字下げ問題も単なるレイアウトであり、規則ではない。天声人語はもとより、契約書でも字下げはない。レイアウト問題のため、適当な所で文字の色を変えてもよい。何よりも、修論作成規定上は、問題は一切なかった。これが全てである。

さらに、今の如く、ワープロで書いても良いならば、字下げ修正などは300頁でも1時間もかからないであろう。手書きの場合にはそうはいかなかった。


しかし、上記は私自身の問題であり、彼らへの借り問題の方が重要である。当時からいずれ借りは何らかの形で返そうと思っていた。
駿台時代に返せたはずであったが、駿台一年目はかけだしで年収も100万円に毛の生えた程度(大卒初任給の半額以下、三分の一程度である)、二年目は政経前田氏との京都校での激闘で解雇か前進かで、それどころではなかった。

駿台三年目からが借りを返すチャンスであったが、三年目の夏に、催眠強制で駿台講師室係西山美千代なる女性に手紙をださされ、その後、振り回され、それのみか、駿台での大騒動、後には大阪校異動後からは各種授業妨害、更には刑事犯罪被害の連続となり、それも今日まで被害が連続しており、未だに、彼らに返礼ができていない。

人権を回復したならば、絶対に返礼せねばならぬと常時思っているが、現況では老後破綻の道のため、何もできないのが実情である。本来は終活活動の中でも、最優先すべき事項である。

《◇6-8・大学院時代の五重苦》

①家からの仕送りは東京時代には一貫してなし(ゼロ円)である。

②奨学金は二年のみで、留年を含む後二年はゼロ円であった
生活費、研究費、帰省旅費等は全て自分で稼がねばならなかった。

③大学時代でも、大学院進学予定はなかったため、大学院を目指すまでは英語も十分していなかった。
その上、大学時代も、先に書いた事情でバイト三昧でもあった。十以上のバイトをしたであろうか。新聞の世論調査、道の清掃作業、寿司屋での巻き寿司まき、ホテルのボーイ、荒れ地から庭をつくる手作業型の肉体労働(土方は今は差別用語となっているため置き換え)、鉄パイプかつぎ、プロパンガスの配達、各種宿直、夏休みのみは家庭教師、電話の受付、…と。

さらに、大学時代は民主主義活動もあった。特に大学二年生のときには関学全体の中心人物的役割をさせられてもいた。詳細は下記参照。

☆☆☆☆☆
……
ところが、学園紛争の暴力場面を見て、私はとにかく、学内での暴力対決だけはやめさせよう・民青の諸君に関与させまいと考えて、やむを得ず、関西学院大学の民青のボス《トップ》となったことがあった。その関係で、ベトナム戦争問題にも首を突っ込んだ。もっとも、非暴力主義の私は、ベトナムへの直の支援はせず、医療品・医薬品を送る活動などだけに限定していた。当時、ベトナムで犠牲になったグエン・バンチョイ(Nguyen Van Troi)という人物を記念したノートなどを売り、そこで得た金で包帯や消毒液や医薬品などをベトナムに送る活動にも参加していた。


「日本のフィクサーME・パート3」第3章訪米・第2節-1・開業妨害の嵐と突如の訪米へ
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=40247

特に「(3)次なる候補地はベトナムであった―ベトナム戦争と私」の箇所を参照してもらいたい。

☆☆☆☆☆

④大学院進学で語学一つであったが、修了及び博士課程進学に際して語学2つとなり、ドイツ語で苦しむ。
と言うのも、大学時代は大学院進学など考えていなかった。そこで、生活費を稼ぐバイト三昧であり、大学前半は婦人問題研究部に所属してのクラブ活動、同時に上記の如く学内での民主主義活動、高校部落研先輩として大学に入ってからも全国集会に参加したり、実態調査への協力をしたり、お盆前後は地元での差別を受けた老人たちの話を聞きに行ったりしていた。
おまけに、大学一年後半はわずかな期間ではあるが、兵庫県西宮市での子供会活動にも参加していた。その上で、大学一年後半から大学二年時は宝塚ホテルのボーイをして、一日おきに事実上の徹夜をしていた。要するに、夜間用のボーイである。おまけに、大学一年と二年の頃は、教員免許で社会科と英語の両方をとろうかとも思い、単位履修を相当していた覚えがある。

これでは語学などは何とか単位がとれれば良いに終始し、まともに授業は受けていない。授業にでる時間もなく、よく休んだが、友人諸君が代返をしていてくれた可能性が高い。私自身は代返は頼んだことはないが、高校時代・大学時代は友人に恵まれていたため、頼まなくても何人もの友人が私の尻拭いをしていてくれた可能性が高い。ともかく、大学院進学を考えていなかったためドイツ語は全くに近くせずに、一夜づけで試験はパスさせた記憶がある。ただし、カンニング類は一切していない。

そして、大学院入試は語学一つのため、大学院入試に向けてもドイツ語は一切していなかった。こうして大学院に行くや、即、ドイツ語専門書{ライプホルツ[Gerhard Leibholz]のParteienstaat und Repräsentative.であったと思う。私がドイツ語専門書講読の単位を修得した1978年3月の後で、清水望先生が翻訳『現代政党国家』(早稲田大学出版会)を1979年に出版されたのであり、翻訳本はでていなかった}でのドイツ語講読であった。勿論、大学院の試験類でもカンニング類は一切していない。特に大学院ではどの授業もゼミ形式であり、教師との人間関係・信頼関係があるから尚更である。

語学問題は、今の大学院生には分からないかもしれない。今は、恐らく、修士課程修了要件として語学二つを課していない可能性がある。博士課程進学でも同様の可能性がある。
(プロ野球選手)桑田真澄君も早大大学院に進学して一年で修了と言っていたが、英語とドイツ語若しくはフランス語などで、専門書の原書講読試験に簡単に通ったのであろうかと、不思議に思った。
ちなみに当時であると、ハングル語や中国語に堪能でも、別に英語とフランス語かドイツ語が必須となっていた。名古屋大学教授になった鮎京正訓さんなどは、確か、大学時代は英語とドイツ語、大学院でベトナム法を専門としたため、フランス語とベトナム語の修得となったようである。修士課程修了要件や博士課程進学に際しては、幾らベトナム語に精通しても、英語とドイツ語(若しくはフランス語)の二言語が必須であり、大変であったと想像している。

(プロ野球の)桑田真澄君などは、どうやって語学二教科を一年間でクリアしたのか不思議で仕方がなかった。それも、ドイツ語(フランス語)でも、その国の大学生でも理解が簡単ではない原書である。
スポーツ選手やタレントなどが簡単に大学院を一年で修了できる謎は未だに不明である。

特に、当時の早大政治学研究科は語学学校の様相すら示していた。第二外国語でも、二教科ほどご一緒した飯島昇藏氏(後に政経学部長:私が早大を久々に訪れた2017年に死去)もドイツ語も達者であった。同一時期に早大政治学研究科に在籍した姜尚中氏もドイツ留学をしているためドイツ語ができたのであろう。あるいは、法学研究科にいた水島朝穂氏もドイツ語が達者であったようである。これは第二外国語の話である。第一外国語にいたっては、授業の大半が日本語テキストではなく英語テキストでもあった。
正直に言って、桑田真澄君などが一年で修士課程を修了したのはどうやってなのかが未だに分からない。私は語学でも苦労をした。

語学に泣かされたのは外国からの留学生も同様であった。私のゼミにオブザーバーで参加していたカリフォルニア大卒の女性は、英語はペラペラであるし、日本語も会話はペラペラであったが、大学院入試が英文和訳形式のため、合格をなかなかしなかったようである。{日本人からみれば、和文英訳(俗に言う英作文)となる。それも長文である。}
中国・韓国からの留学生も同様であろう。彼らは母国語(中国語もしくはハングル語)は達者であるし、日本語会話も流暢となっているが、英語とドイツ語(若しくはフランス語)の専門書文献での試験に通らなければならないからである。その場合には英語・ドイツ語(フランス語)を日本語にしなければならない。彼らの母国語は中国語(若しくはハングル語)である。そして、授業の大半は外国語のテキストで行われ、謂わば、第二外国語(英語)を第一外国語(日本語)に置き換える作業となる。先のドイツ語(フランス語)の例ならば、第三外国語(ドイツ語・フランス語)を第一外国語(日本語)に翻訳する作業となる。

芸能界やスポーツ界の人が簡単に大学院に入ることは分かるときもあるが、簡単に修了できるのがいつも不思議であった。今も不思議である。もし、語学が1教科となっていれば、語学学校ではないため、その方が良かろう。だが、当時はそうではなかった。京大法学部を卒業して早大政治学研究科に来ていた人は「今日も徹夜」かと漏らされていたのを聞いたことがある。

もし、語学学校の様相から脱皮していたならば、それは大いに結構なことである。面倒なので、最近の大学院事情は調べていない。当時の回想を記しただけである。


⑤研究テーマの緊急変更―これが一番応えた。
しかし、一番参ったのは研究テーマを大きく変えたことである。大学時代の研究テーマのままならば、修士論文は相当早くできたであろう。研究の質も、高校一年生(16歳)のときから研究していたテーマのため、相当高いレベルとなっていたであろう。そのテーマとは以下であった。

研究テーマは「政治学と差別」である。差別を解消するための政治学的研究であった。特に部落差別が重きをおいていた。関連とすれば、世界の差別の比較研究なども考えていた。
だが当時の状況では、私が「政治学と差別」をテーマとし続けた場合には、指導教授も指導が不可能となる可能性が極めて高かった。差別関連の研究では世界中で、各種タブーがあることもあり、指導教授によれば、どこか他の大学院に移動してくれと思ったり、言われたりすると考えたこともあった。内田満先生の場合にはなかろうが、各種タブーで、尻込みをする指導教授が多数存在していた時代であった。

そこで、高校時代から一貫して研究テーマとしていた部落差別や各種差別問題とは全く無関係な議会に突如変更したため、一からのやり直しとなった。大学の卒論も部落問題としていたため、本当に、全くの一からの再出発となっていた。学部変更よりも、まだ激しい状況に置かれた
▽特にテーマの変更は相当こたえていた。


これらを総合すると、もはや、回答はでていた。修士課程中の研究は不可能か、若(も)しくは修士課程2年を4から6年かけるしかなかった。なお、私が大学院に進学した頃から修士課程在籍年数の上限は5年から4年に短縮されていた。


《学問論》
学問や勉学はアクセサリーではない。
癌の研究はアクセサリーではなく、癌を壊滅させるのに成功すれば良い
そのときに、字下げ問題よりは、社会が抱えている問題への解決方法が正しいことが重要である。
名より実である。特に職業としての学問はそうである。
「注射が痛い」と言えば医師などはこう言ったかもしれない。
「鉄を指すのだから、痛いのは当たり前である。もっとも使用する人の腕の問題もあるが…」と。

だが、大学院どころか、大学も高校もでていない、しかも医学と無関係の中小企業を経営している人はこう考えた。それでは痛くない注射針をつくろう。確か、岡野雅行さんであったと思う。
これが本来の学問なのである。
最初に記したように「問題ある所に解決がある」と
同時に学問の世界が如何に「裸の王様」かを露呈させた。
私のBlogで次のように書いている。
☆☆☆☆☆☆
「注射が痛い」と患者が言えば、「子供みたいなことを」と偉い医者の一部が言うかもしれない。
ところが、大学院、大学どころか、高校もでていない零細、小企業経営者である岡野雅行氏(※1)は、注射が痛いならば痛くない注射針をつくろうで、つくった。
日本ではやった痛くない注射バリは、医療知識がない、中学校だけをでた人が発明したのである。
検査は苦しい。では苦しくない器財を発明しようが正論である。それは個々の医者ではなく、日本・世界の人々に呼びかけることになる。
☆☆☆☆☆☆
気が向けば一言【夢か・私事】№59・私事、各種脅し、そして医療。
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/617/
☆☆☆☆☆☆

ちなみに、川端康成は東大国文学科卒であるが、松尾芭蕉は大学院も大学も高校も中学校も小学校もでていない。だが、文章のリズムでは松尾芭蕉に軍配があがる。人生最後に近づき、肩書きや世間体からの脱却、各種偏見やイドラから脱却できることを夢見ている。


だが、職業としてではない勉学や学問は、困らないならばする必要はない。
困ったときや、必要になってからすればよい。必要でなければ生涯しなくてもよいが、私の持論である。
ただし、面白ければパチンコ同様に、勝手に没頭するであろう。
もっとも、私の修士論文の如(ごと)くにならぬようにするためには、何が必要かの勉学は地図を見る如く一応見渡しておいた方がよい。それが義務教育の範囲である。


私自身は原点に戻りたい。
もともと、単純肉体労働特化型労働の好きの人間が道を間違えただけである。否(いな)、多分、各種挑発などで誘導されて道をはぐれたようである。今、即原点に戻れないのは「老後破綻対策」で計画していた起業を完全に諦(あきら)めていないからである。諦めれば、数年後には老後破綻か生活保護の道となるからである。
同時に、今日まで生きてきて思うのは、「今の社会で必要なのは高等教育よりも幼児教育の方である」が最近の感想でもある。

早大政経学部政治学科とは、いっときは、私立大学の文系全学部全学科の中で、(どうでも良い偏差値では)一番難関といわれていた。そこの大学院での大恥は、今となれば痛快である。ただし、受けた恩を返していないことだけが痛恨の極みである。

蛇足。
安倍晋三氏は大学時代に、親などから毎月幾らもらっていたのか。

アメリカに留学していたときの仕送りは幾らか。

また、彼はバイトなどをしたことがあったのか。

私に余分な挑発をするならば、これを明確にするがよい。
因みに、彼の親は国会議員のため、全て税金からの金とも言える。



《◇6-9・真逆デマ攻撃の謎と学問の世界に誘導されたため二人の私(本物と偽物)が存在の羽目に…》

どうでも良いのであるが、私が本を読んでいない趣旨のデマが飛んだ気配があったが。真逆である。
1985年に岡山市のアパートで撮影。(写真はクリックで拡大、二度クリックで巨大)

1985年に岡山市のアパートで撮影。その後40年近い歳月の間に、一番多い時は当時の5倍以上になったであろうか。我が家は大きいが収納できないので一部捨てたため、現在は減ったが、それでも当時の数倍はあろう。

その後40年近い歳月の間に、一番多い時は当時の5倍以上になったであろうか。六段本立て換算で50以上になっていた。我が家は大きいが収納できないので一部捨てたため、現在は減ったが、それでも当時の数倍はあろう。
全部飾りであるはずがなかろう。
最近本を読まぬのは妨害・挑発、催眠と書いている文書の数をみればよい。読まぬ代わりに書きまくっている。真逆のデマが飛び回っていたようである。

差別も、私は差別解消が本来の研究テーマであり、長期に亘り、実践してきた人間であるが、幾つもの真逆のデマがとんだ疑惑があった。
偶然ではなく、真逆のデマはまさかで相手(私)が気づかず、簡単に攻撃をすることが可能であり、各種トラブルの種を蒔(ま)けるという戦略から来ている。だが、そのような被害を受ける心当たりはない。しかも嘘のため嘘をつく方は何でも思いついたことを簡単に言えば良いが、論破するのはときには大変時間がかかる上に、嘘のため長期に亘り、気がつかない。特に真逆のデマは。一種の知能犯である。


しかし、謎は私が斯様(かよう)な攻撃を受ける心当たりは一切ない。
亡き友は「人間違い(ひとまちがい)が原因」と言い切った。

人間違いと言えば、我が家の前で1954年以降、我が家の住所番地を使用していたZ家がある。この家の三男(Z3氏)と私は随分似ている所が多いのに驚いているが、相違点が四つあった。
一つ目は容姿端麗でアイドル型で女性にもてたのはZ3氏であり、私は幼少の頃は肥満児で、女性には無縁であった。更に、私は「押し」が極端に弱く「引き」が本質となっている。早大大学院時代でも、素敵な女性から「気が向いたら電話をして…その面白い飲み屋に連れて行って」と言われたが、電話をする度胸はなかったくらいである。真逆である。
二つ目に小中時代の学業優等生は私ではなくZ3氏であり、私は勉学無縁派であった。
三つ目がスポーツ万能はZ3氏であり、私は運動神経が鈍かった。例外は格闘技類だけである。
四つ目が高校時代から各種差別反対・解消運動をしていたのは私であり、彼は無関係派であった。

所が、先の如く、無理矢理学問の道に進まされ、二番目の区別はつかなくなった。
一番目の区別は駿台でありもしない女性の仕掛け(1983年度入社の講師室係限定)により、目くらましをされていく。
三つ目は社会にでれば学校で行うスポーツからは縁遠くなっていく。

四つ目は、Z3氏は田舎に戻るや、岡山県美作市の人権擁護協会委員となり、この点の区別も難しくいなる。私は1988年から自宅完全監禁となり、近隣に私の本当の姿は見せられなくさせられてもいた。
こうしてZ3氏と私との判別は無理となる。

だが、もう一つ違いがあった。五つ目は善し悪しは別として性格は真逆に違い。ここだけが識別項目となるであろうか。

 

 

2023年10月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA