💁“求め続けて第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件―(2)体当たり人物は学生Sの名を語った偽者の証明

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“求め続けて第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件―(2)体当たり人物は学生Sの名を語った偽者の証明


2022/12/30 01:10下書

2023/01/02 12:52 写真を一枚追加して後は下書のまま公開:後日清書(清書では大幅修正や追加予定)。14:40誤字脱字の一部を修正

2023/01/14 22:06 修正と前書きを追記。

2023/01/15 1:09 正式公開 15:33微修正 15:39微修正 16:04重要な付け加え

2023/01/17 13:55 【今回文書項目別掲載日と事件の経緯】: 14:14 14:32全体微修正。14:38微修正

 


構成】
《◇―序・授業の場を奪われ、生きる権利を剥奪されたポリテクカレッジ岡山時代》
《◇―1:駿台辞職とポリテクカレッジ岡山及び勤務校での全ての豹変》
《◇―2・体当たり人物は学生Sの名を語った偽者の証明》🆕
  ―今回新証拠を提出。

《◇―3・未曾有の大流血事件を強制的に回避された話》🆕
《◇―4・精神破壊へのポリテクカレッジ岡山の波状攻撃》
《◇―5・私が英語ができるか―…であることが専任詐欺にあった証拠》🆕
《◇―6・駿台事件との関連性と差別》🆕
  ―私が終始一貫して臨む物―民主主義に基づく裁判での解決―


【今回文書項目別掲載日と事件の経緯】(2023/01/17 13:52追記)

第一段階1997/11/14 事件
1997年🚹体当たり事件
職員 #藤井光生 氏が🚹は学生Sと。

第二段階(1997年後半~98年)
Sは🤡(私)が1995年担当学生→偽者を疑う
🤡→学校に調査依頼
1998年学校正式返答=調べていない
松尾貞志副校長・森脇一雄課長:立会人・新免昌和
(調べたが結果は教えないという雰囲気=感触は偽者)

第三段階(2000年代前半)
偽者は 駿台 事件との因果を疑う

第四段階(2000年代後半から)
学校自体が行ったか共謀事件
目的→🎥(映画)・📺(テレビ)等への話題提供のため

第五段階 2022年9月頃から⚾村田兆治事件が
何故か学生S事件を暗示

第六段階 学生Sに関する🤡保有の資料を分析(2022年後半)
体当たり🚹は学生Sとは無関係としか分析できず。吟味後も偽者判定・断定
資料と🚹との論理矛盾が多すぎる。

🤡は1997年後半以降=体当たり🚹は学生Sの偽者と主張。無法🚹を学生Sと言ったのは学校であり、私の(1997年後半~今日迄の)Sの偽者との主張を握りつぶしたのも学校である。

今の結論学校自体が行ったか共謀事件

【今回の構成】

1/15記述:★(序)2023年1月15日16時4分の追記(と分析)

以下2022/12/30下書で2023/1/2下書に少し追記と微修正して公開か

(1)ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)学生Sの名を語った体当たり学生を思い出す経緯。《1997年事件頃の経緯と2022年9月⚾村田兆治事件》

(2)1997年は学生Sの名を語った部外者の証明―1:《1997~98年の経緯》

(3)1997年は学生Sの名を語った部外者の証明―2(2023年に証拠調べをした結果)

(4)当時の私の怒りの根源には何があったか。(専任詐欺と1988~97年の強制・監禁・貢ぎ労働の実態)

★(序)2023年1月15日16時4分の追記(と分析):2023/1/15記述(見だしのみ1/17)

この原稿の下書きを書き、掲載の準備にはいりかけるや、何故か駿台事件のことを延々とかかされる。現在、そのメモをアメーバーに収録している。本年(2023年)2月下旬には、私のHPのいずれかに収録予定でいる。この件につき、奇妙なことを数点、今回付け加えておく。

①この事件を書きかけるや、上記の如く、駿台事件を書くことに置き換えられた。恰(あたか)も、あれは駿台…から派出したのですよ、と言わんばかりであった。

②このときの偽学生Sの行動は西宮市教育委員会時代の某生徒と類似していた可能性があった。ただし、岡短事件当時(1997)には西宮市時代の生徒は37才くらいになっており、自分の子供の子育てなどで大変な時期であり、同時に年齢も偽学生Sとは17才ほど(大雑把に言えば20才)度違う。

③駿台事件と、ポリテクカレッジ岡山事件の類似性。

教壇に立つ際

共に、私が教壇にたったときに強力なCM塔を必要としていた。

駿台は全国制覇(北海道から九州まで)の前であり、東京でしか知名度のない駿台の大CMという目的が、私を雇うことにあったと推定される。

🤡をポリテクカレッジ岡山創設年に招聘(しょうへい)―雇用促進事業団(当時職員数5千人以上)の軸足を教育におき、いわば、ポリテクカレッジグループ約30校の命運がかかっていた。

教壇を去る際

1988年駿台を辞職するが、その年の後半に駿台は関西地区だけで京都南校、大阪南校、上本町校、神戸校などができており、1998年度も駿台に在籍していれば、日本史などをやめても駿台の政経・現社だけで生きていける可能性がでていた時である。

1998年、ポリテクカレッジ岡山を辞めるときは、同校のグループが四年生に移行するときであり、私の専任確約問題が再度クローズアップされるときであった。

目立つ事件が起こるのが、駿台は1987年、ポリテクカレッジ岡山は1997年、辞める覚悟で…は駿台は1987年末、ポリテクカレッジ岡山は1997年末、辞職決定は駿台が1988年2月前後、ポリテクカレッジ岡山は1998年2月前後、辞めた時の体重は駿台もポリテクカレッジ岡山も両方とも同一の55㎏へと激やせしていた。無関係学生の導入等…その他いくつかの類似性もあった。

相違はポリテクカレッジ岡山では🚺女性問題などを捏造(ねつぞう)されることは不可能であり、🚺女性の「ジ」の字もでなかった。また、ポリテクカレッジ岡山は労働条件は最悪であったが、駿台は非常勤講師とすれば労働条件はよかった。逆に言えば、女性問題は一切本質ではないことの証明であり、その前に人が思う女性問題などは駿台時代でも存在していなかった。家に監禁された現在の、隣人女性など数人の待ち伏せ、挑発、罠…と類似でしかなかった。

再度、両者への共通点を記せば、両方とも、私は斯様(かよう)な被害に遭(あ)う心当たりが全くないということである。回答は、ここでも人間違い(ひとまちがい)以外考えられない。

更に、部落問題関係は駿台時代は「化学の北山先生から…」と言って、見知らぬ人間から差別文書をわたされたことが一度あったが、それ以外で部落問題…にからめられたことはない。ポリテクカレッジ岡山では終始部落問題はでてこなかった。ポリテクカレッジ岡山辞職後に、突然、登場するのであるが、何のことか「ちんぷんかんぷん」である。この問題については、未だに、何のことか意味不明のままである。

※差別文書を渡されたときに、見知らぬ人間は「北山先生」と言ったが、北山氏が本当に絡んでいたのかどうかは全く不明である。北山一氏が何らかのコメントをHPかSNSでだしてくれれば分かるのであるが。彼も無関係ならば、不愉快であろうと思う。関係しているならば、その理由を明示してもらいたい。可能ならば、私のHPに全文を掲載するから。同時に、嘘があれば、私の反論も書こう。今は(正式には1987年から37年に亘り)「ちんぷんかんぷん」であり、コメントのしようがない。

駿台事件は裁判で、ポリテクカレッジ岡山(現能開大)及び雇用能力開発機構事件は裁判か国会でしかケリはつかないと分析している。だが裁判は完璧に妨害されている。国会は議員や総理などに何度も救済依頼をしたが無視されている。古稀を迎え、後何年か本当に不明となった。そこで、遺書の意味も兼ねて、大半実名記入に踏み切っている。またプライバシー等へ配慮していたが、いつまでも嘘が飛び回っている感じがするため、具体的な数値などで書かざるを得なくなった。そうでない限り、いつまでも、デマが飛び交い、私は老後破綻まっしぐらとなるからである。一部、プライバシー権配慮がおろそかになっていても、それは私の生存権を守るための緊急避難と同様の超法規的措置に該当する。

しかも、現時点での仮説は、学校当局により、仕組まれた事件であったことを疑っている。最低でも、S体当たり事件が起こる前から、学校はそれを事前に知っていたことは相当の確率で事実である。理由の一つが先の🤡使用しての学校CM、次が駿台事件との因果である。

 


(1)ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)学生Sの名を語った体当たり学生を思い出す経緯。(2022/12/30下書:2023年1月2日下書公開)

 

村田兆治(1949年11月27日 – 2022年11月11日)といういぶし銀のピッチャーがいた。彼は、奇妙な事件にひっかかり、後に死亡した。
村田さんの事件がポリテクカレッジ岡山学生Sをさしているのかと思い、S学生を思い出した。
学生Sは、村田さんの母校の後輩だったからである。
実際には村田さんの話とは幾つもの違いがあるが、取りあえず村田さんの話を紹介しておく。

本来はこの事件の頃(1995年頃)は、私はマザーテレサとの対面・対談、あるいはマンデラ氏…などがあり、1995年のことならば、それらを今丁寧に書かねばならない。更に、今は「日本のフィクサーME・パート3」でMr.オバマとの関係の深化などの方に優先事項があり、学生Sの件を書く暇はない。しかし、村田さんは、私とも懇意にしていた星野仙一氏と対談していたということもあり、学生S事件を記すことにした。

天国の村田さんよ、読めば分かるように、村田さんのケースとは幾つもの違いがあるよ。

取りあえず、村田さんの話から開始する。

☆☆☆☆☆☆
浜田隆政 (Takamasa)@Takamasa_Hamada11月11日
22-215-3【#訃報】
#村田兆治(1949/11/27 – 2022/11/11)さん死去を知る。
現役時代はカミソリのようなピッチャーの感じを受けた。
哀悼の意を表します。

本日調べると #三原市
#近畿大学附属広島高等学校福山校 出身と知る。
1997年同校出身学生の名を語った #偽者 (証拠あり)が🤡授業中に…
https://twitter.com/taiheiyo_club/status/1591002338361479169
☆☆☆☆☆☆

ところで、村田氏が死亡する前に奇妙な話があった。


☆☆☆☆☆☆
2022年9月23日、村田兆治氏が暴行罪で逮捕されました。村田容疑者は「マサカリ投法」で知られ、通算215勝をあげた有名な元プロ野球選手です。

報道によれば、現場は羽田空港の保安検査場、被害者は30代の女性検査員、村田容疑者が被害者の左肩を右手で押す暴行を加えた疑いとのこと。

村田容疑者は職員の通報により駆けつけた警察官に現行犯逮捕されました。携帯電話を手にして何度も金属探知機にひっかかり腹を立てていたようです。

村田容疑者は、「左肩を押していない。」、「前に立ちはだかったからどかしただけ。」、「殴ったり蹴ったりしていない。」と容疑を否認しているようです。

(引用元はNHKだったと思うが)

関連記事のアドレスを掲載する。

https://deathwish.jp/muratachoji-haneda-airport/

https://wellness-keijibengo.com/mr-murata-taiho/

☆☆☆☆☆☆

村田さん、幾つも違いがある。

一番目は、🤡に体当たりした人間は学生Sの名を語る偽者。つまり、住居不法侵入・業務妨害…など。

二番目は次回掲載予定の《◇―3》を読んで。村田さんなら、偽学生に怒鳴り上げるところだ。

三番目は《◇―5》を読んで見て。

要するに、全然事情が違うのだ。

(2)1997年は学生Sの名を語った部外者の証明―1(2022/12/30下書:2023年1月2日下書公開)

Sという学生に直に後に記す「体当たりをしたか…」どうかを聞けば分かろう。学校にもその趣旨の対応を要求したが対応なしである。賠償交渉でも後に記す如(ごと)くはぐらかされている。
結論から記そう。この後で記す体当たり学生はSではない。

①私がポリテクカレッジ岡山へ在籍当時の学生は逆(さか)らうといっても口頭で屁理屈をいう程度である。若(も)しくはその雰囲気である。体当たりまでする学生はいなかった。

②Sならば、私が1995年度に一年担当している。人数が多いと言っても一クラス25人前後である。当然名前を覚えられていると思い、名前を隠したりはしない。

③だが、この体当たり人物は何度名前を聞いても返答しない。事務室に連行しても名前を言わない。彼が去った後で、学生課の職員・藤井光生氏が「あれはこの学生です。Sです」と言ったのである。本人がいるときには藤井氏も、体当たり人物の名前を私に言わなかった。

④この事件の後で、(比較的故意にしていた、昔の教師、当時は嘱託でこられていた)横山豊さんが「先生、うちの学生を信じてください。先生にそこまで(体当たりするまで)の学生はいません」と言い切っていた。要するに、「内の学生ではない」という意味であろう。
また、暗にこの人物の写真を撮っておいた方が良いと暗示された。その話は後で記そう。しかし、私はカメラを遠方の非常勤講師室に置いているため撮影はできなかった。カメラをとりにいったときにはもう姿はなかった。

下記はこの事件の一年後くらいから、労基法違反・契約違反被害及びこれらの違反と因果関係が強い健康破壊に関しての賠償交渉を開始した時点での会話内容である。
⑤1998年度に相談に行った(親友でもある)弁護士神田高君の一言も気になる。
「浜田さんサー、最近は大学院生でもサー、体当たりする学生がいるんだって」と。暗にこの人物Sが学生ではないという雰囲気であった。

⑥この学生Sが出現する前に、このSの名と関係のある私の友人であり、関学の先輩が一言言った。「おい、いい仕事があるぞ。学校の教師に授業などの仕方を教える仕事だ。金もでるし、やってみないか」と。即ち、この事件は教員類の研修のために無理矢理強いられた強制・貢ぎ労働という感じを受けた。

⑦当時の賠償交渉文書に記載があるが、この学生Sと私が揉めているのを事務室横付近で何人かの教師か事務員が見学していた雰囲気を感じた。若(も)しくは見学していた。恰(あたか)も、見本か手本を吸収する実験というよりも実習という。

⑧駿台講師時代後半から偽学生の何度もの登場である。
何度か掲載したが下記写真を参照。

なお、この📷(写真)を掲載した頃に、元プロ野球選手・村田兆治が死亡した。

(2023/01/02 12:48追記)ポリテクカレッジ岡山以外でも、駿台大阪校以降は随時偽生徒・学生が登場し、私の授業破壊活動をしている。

一例の写真掲載(写真はクリックで拡大、二度クリックで巨大)

(3)1997年は学生Sの名を語った部外者の証明―2(2023年に証拠調べをした結果)(2022/12/30下書:2023年1月2日下書公開)

《資料:学生Sに関するdataからも、上記人物は学生Sの偽者である》学生Sは私が1995年度に担当した学生である。


平成7年(1995年)度学生Sについて

私が作成した(学校の成績とは無縁の)実力試験 50点(20問中10問正解)
クラス順位10位/30人  2クラス51人中で18番目
なお、私が実施した前期試験での、彼が在籍する機械システム系の得点分布図→優が14名、良が11名、可が23名、不可が4名

Sの前期試験15点、再試合格で60点(ここは数日後に置換え案→合格点までには4倍必要な点数であり、また再試も下駄を履かせ合格としたはずである。実数公開はしたくないが、偽学生調査要求に学校が応じぬ為、学生Sの偽者証明上やむを得ない措置である。責任は偽者調査に応じぬか、知っていてもそれを隠した学校にある。)
授業出席度 欠席1度のみ。(17回の授業)


再試合格とは問題行動がなかったと分析される。
問題行動多い場合には再試受験資格なし、更に、ギリギリでは不可とする。かなり下駄をはかせて合格としている結果となっているため、授業態度はよかったと分析される。
1995年度の学生で私に体当たり型で逆(さか)らう学生は皆無と記憶するし、記録でもそうなっている。

後期は英会話でクラスは生産技術科に所属。
24名中で優が3名、良が5名、可が12名、不可が4名も不可はいずれも後期試験を受験していない。選択教科のため本人の自由である。
学生Sも受験していない。


出席状況は試験を除いて14回あるが、欠席は2度のみである。
出席簿にー1の表示があるが、これは恐らく、当てられたときに、拒否権を行使する権利を与え、その代わりにマイナス1とするとしたシステム上の問題と記憶する。
マイナス1は正式な試験は受けられるが、不合格でも再試は受けられない、また正式な試験での下駄ははかせないというシステムである。しかし、正式な試験で80点ならば一点もひかずに優とするというシステムでもある。これが本来の姿である。{追試ではなく、再試である。関学や早大などに再試など最初からある訳がない。なお、追試は病気等により、百点満点で再度正式試験を行う制度である。これもこのポリテクカレッジ岡山には別にあった。}

同じクラスにマイナス1をつけた学生にKSがいるが、彼は83点で優をとっている。彼の実力試験の成績は60点であり、学生Sとほぼ同一である。

前期(英書購読)と後期(英会話)は、この頃は教科が違っており、前期は独立して2単位、後期も独立して2単位である。そこで、経済学や法学で2単位をとれば、わざわざ受ける必要性はない。例えば、英語で60点になりそうなときに、経済学で80点をとっていれば受験しない方がよい。受けてもうけなくても卒業はできる。だが企業によれば優は+1、可はマイナス1、良が±0であり、不可は記録残らないためノーカウントで無視となる。すると、有名企業では、マイナス1となる可ならば、選択教科の場合には受験しない方がよいとなる。こうした事情で受験していないのではないかと想像するがプライバシーの問題のため聞いていない。
この学生・Sが1995年度の授業中に私に逆(さか)らったり、授業妨害したりした記録も記憶もない。この学生が、1997年に突如豹変(ひょうへん)するであろうか。回答はしない。学生Sの名を語った偽学生としか分析できない。

同時に、Sに氏名を尋ねたが私には一切回答しなかった。1994年度学生ならば、顔を知られていると判断し、名前を黙秘することはない。事務所に連行したが、彼自身は名前を一切言わなかった。
「S」という名を言ったのは職員の藤井氏である。彼自身は一度も名前を私の前では言わなかったことが事実である。しかも、藤井氏もSがいるときには名前を言わず、Sがいなくなってから言っており、Sは違っていても否定のしようもないという(1988年から岡短に終始存在した)小細工つきである。

記憶:Sを含めて、1994~97年度の学生では誰も私にそこまで逆(さか)らう学生はいなかった。それ以前には1989年に漫画読み学生が一人いた。これも偽学生か外部で雇われた人間と分析される。私がポリテクカレッジ岡山の教壇にたった1983年度から、駿台を辞職する前の87年度までは逆に、私に対しては学生は逆らうどころか全員おとなしかった。
理論:Sには前期試験は下駄を履かせて通している。ということは、彼は私にさからっていなかったし、問題行動もおこしていなかったと分析される。

記憶:Sなる名前は本人ではなく、本人がいなくなってから職員の藤井氏が言った言葉にすぎない。
記憶と記録:他の職員(横山豊さん)などは偽学生を当時(1997年)から臭わせていた。


記録:記憶:証人:

偽学生かどうかの調査を岡短辞職後に要求した。

回答は「Sという学生はいることはいますが、彼が先生に無法を働いたかどうかは調べていません」であった

返答者は当時の松尾貞志副校長と森脇一雄課長であった。場所は我が家で、当時の美作町議会議員・新免昌和氏を立会人としての交渉時であった。日時は当時の記録から完璧に特定できる。私は会談全部の録音をする予定でいた。しかし、新免氏に相談すると、隠れてしない方がよい。雇用促進事業団運営・ポリテクカレッジ岡山の担当者に事前に通知した方がよいとのことであった。そこで会談前に全面録音を申し出たが、森脇課長及び松尾副校長により拒否されていたことも付け加えておく。

私は調べてくれと要求したのである。部外者ならば教育問題、人権問題ではなく、住居不法侵入、業務妨害、傷害罪に該当する、単なる刑事犯罪事件である。
結論は、部外者、百パーセント、私が教えたSでは一切ないということである。池田小学校事件と類似のケースである

(4)当時の私の怒りの根源には何があったか。(2023年1月2日記述)

当時、私が怒っていたのは、学生以上に、学校か、それとも学校に指図をして、私に強制労働・貢ぎ労働を強いている人間に対してであった。それに学生S(正確には部外者S)も加担したという怒りではなかろうか。よって、村田氏のケースとは違う。村田氏に例えれば、彼が現役のときに、契約違反で膨大な損失を受け、更に無料労働を多大に強いられたときの怒りに近い。全く例が違っている。問題のすり替(か)えでしかなかった。

それも、このままいけば、学校に出校しても生活保護間際であったため、怒りは更に熾烈(しれつ)であった。
それらの事情を記す前に、一つ訂正若しくは追記をしておく。
1995年度学生が突如豹変(ひょうへん)したのが先か、私の脳が突如軌道を外れたのが先かと言えば、後者の可能性もある。


私の当時の精神疲弊は各種記録では1995年3月の再度の大労基法違反から引き起こされていた。この事件は簡単に言えば年収100万円契約を一方的に50万円に、藤井氏によりされるという暴挙であった。
しかも脅しではなく、実際に世取山課長により50万円×約4年の被害を受けている。(写真の件で、誰かが勘違いをして怒っていたが、その時の額の20倍の額である。それもそれを一回っやられ、再度1995年にやられかけたのだ。どの程度の怒りかわかるであろう。それも、赤字労働のときに。金がないときに、この額の被害はどの程度こたえるか、写真問題に絡んだ人には想像が一部つくであろう。)
そこから精神疲弊は徐々に起こっていた。タイ、京都の東寺と。…

これらの攻撃は、1995から1997年へと継続して起こっており、精神の限界に来ているときに、更に、偽学生Sをつかい、私にまたもの貢ぎ・強制労働かという怒りが根底にあった可能性が高い。大変危険な精神状況となっていた。

体当たり問題とは何かは次回記す

2023年1月15日 | カテゴリー : 教育, 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA