『求め続けて』第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件―(5)私が英語ができるか―…であることが専任詐欺にあった証拠:正式公開

『求め続けて』第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件―(5)私が英語ができるか―…であることが専任詐欺にあった証拠🆕:正式公開


原稿は2022年記載もOne Driveに保存。ブログには2023/01/28 8:01下書き段階で掲載

2023/02/06 19:53写真掲載

2023/08/18 2:50 追加

2023/08/30 21:06から清書化作業開始。2023/08/31 a.m.9:00頃から作業再開。10:25:◎序~◎2まではほぼ終了。12:43 ◎3まで終了。14:56 ◎4まで終了(◎6まである)。15:46 ◎5まで終了。16:04 ◎6も終了

2023/08/31 16:05 正式公開 (但し、誤字脱字はこの後で修正もありうる)。17:09誤字2文字修正。2023/10/31 20:34タイトル一部修正


 

 

構成】
《◇―序・授業の場を奪われ、生きる権利を剥奪されたポリテクカレッジ岡山時代》
《◇―1:駿台辞職とポリテクカレッジ岡山及び勤務校での全ての豹変》
《◇―2・体当たり人物は学生Sの名を語った偽者の証明》🆕
  ―今回新証拠を提出。

《◇―3・未曾有の大流血事件を強制的に回避された話》🆕
《◇―4・精神破壊へのポリテクカレッジ岡山の波状攻撃》
《◇―5・私が英語ができるか―…であることが専任詐欺にあった証拠》下書き

《◇―6・語学論と私の歩み―…日本語・英語大恥連続と早大院時代の修論の屈辱》記載前

《◇―7・駿台事件との関連性と差別》メモ
  ―私が終始一貫して臨む物―民主主義に基づく裁判での解決―

1995年9月18日:11:04撮影:95-101-08A-fM

 


《◎―序・今回から次々回までの原稿内容計画》(2023/08/30 21:55記述)
私が英語ができないのではないかという挑発があった大学で教えながらできない…とは…的な挑発である。
今回は、私が英語の授業を担当したいきさつを記す。正確には騙(だま)されて持たされたのである。
その前に結論を記しておく。
Twitterに次のように記載している。

☆☆☆☆☆
23-239-1【🤡と🦸】真相編。
二つの危害
①🤡であるが故の危害=浜田隆政であるが故の危害。
即ち🦸フィクサーME→🎬
②🏠我が家の住所番地への被害
=人間違い。
この二つが同一にされたのが #駿台 時代
☆☆☆☆☆

①は◇―7で論じるが、どういう世か知らぬが、私には想像をつかないようなCM力や、世界各国で超有名なようである。しかし、川端康成の小説『雪国』と同様にトンネルの向こうの話であり、トンネルのこちら側では平凡な人間である。
トンネルの向こう側では、世界遺産や五輪の存在すら左右する知名度があるようである。
そこで、トンネルの向こう側の利益をもくろみ、トンネルのこちら側で安価な労働者として私を利用すれば坊主丸儲けと言わんばかりに、私にくらいつきCM利用や、各種利益を私に無断で図る組織である。幾つもあった。

その一つが今回登場のポリテクカレッジ岡山(現・能力開発大中国)である。要するに、労働省系(当時)約30の大学校が創設されかけていたが、それを成功させるために私を下記の如(ごと)く無理矢理捕まえたのである。友人の教師は私に「ここは、学校ではなく、捕虜収容所だぞ」と言っていた。後に相談をした神田高弁護士は「浜田さん、(大学校を)辞められただけいいと思わなければいけないよ」と言っていた。
これらは、◇―7で論じる。

ただし、塾・予備校も含めれば小学校1年生から大学生までで教えていないのは小学校3年だけである。その経験や、勉学に全く興味を持たなかった私が、後に語学(日本語・英語・ドイツ語)で苦労した話や、あるべき語学論なども、他の人の参考になると思われるため記すことにした。
同時に、早大での修士論文時の醜態(しゅうたい)と何人かの友人に迷惑をかけた話も人生の終活活動も兼ねて記しておく。
これらは次回の◇―6で記す。
今回は、単純に、大学教師の私が何故、それにふさわしい程度に英語ができないかだけを解説する。これを読めば、私が詐欺被害に遭(あ)ったことが分かろう。


《◎―1・英語ができるか》(2023年1月から徐々に掲載した箇所)

 

私が英会話ができるか。
できる訳がない。
それでは何故英語の授業を持ったのか。
騙(だま)されたのである。

田舎の中学校で英語の教師Aが病気で倒れたとしよう。
5か月くらいで復帰できそうだとしよう。
田舎のため、代理の教師が簡単に見つからない時代があった。そのときには、英語以外の教師が仮免で英語の授業をすることが多い。

「ああ、そうだ。ではジャンケンで決めよう」
ギャンブルが下手な社会科のB先生が負けた。
他の教師はヽ(^o^)丿。

B先生は、社会科の授業をしながら英語も担当することになる。
B先生が英語が得意な訳ではない。学校の事情である。
もし、必死で探して東京から奄美大島の学校に英語の教師Cを呼んだとしよう。探すのに2か月、そして3か月したらA先生が復帰するため、再度東京に帰って貰うことになる。交通費・引っ越し費用はC氏の自腹である。こんなことができる訳がない。更に、なり手が少ない時代もあった。

そこで、田舎などでは別教科の教師が別教科も臨時で担当するときがある。
所でB先生が社会科と英語を両方担当して給料が増えるか。
公務員のため同一である。だが、担当授業数も増えるが、教材研究時間は確実に二倍以上になる。
B先生のことを「貧乏籤(くじ)」をひいたという。


私も同様である。
語学は余りできない。
その理由はいつか紹介しよう(可能ならば次回の◇―6で記そう)。{一部は拙著『閉じた窓にも日は昇る』か『日本のフィクサーME』(part-1)に書いているが、簡単に言えばブリキの勲章(くんしょう)が原因であった}

英会話はさらに無理である。何故ならば、私が小学校の頃は英語の授業はなかった。
中学・高校も、耳からの英語は皆無である。
ラジオ放送は我が家でははいらない。
カセットはなかった。
後にできたが買う金がない。
テレビも同様である。
更に、学校の教師で英語の発音が悪い先生が多かった。
外国人と接触する機会はない。
18才までの様子である。


塾などは中学校2年の頃に社交見学で行ったが、(遊びが)多忙で辞めた。
耳からの英語ゼロでどうして会話ができようか。

(各種資料):添付資料は一回クリックでパソコン画面大、二度clickで巨大。

私=社会科の教師なのでしたが、

高校社会科教師一級免許状:表側

中学校社会科教師一級免許状:表側

高校社会科教師一級免許状:裏側

中学校社会科教師一級免許状:裏側

《◎―2・英語を担当したいきさつ》

それでは英語の授業を何故担当したのか。
先の社会科の教師と同様で貧乏籤(くじ)を引いたと言いたいが、そうではなく騙(だま)されたのである。

(私の能開大への招聘窓口であった)嶋坂逸郎先生(京大で博士号取得:京都外大・甲南大・奈良女子大等等の講師歴任)から、ポリテクカレッジ岡山の話を聞きにいってほしいと頼まれた。
「話だけでも良いのでききにいってほしい。担当は法律学と経済学である」と言われた。

その頃、私は駿台予備学校で軌道にのりつつあり、余分な仕事を減らしている時期であった。岡山の予備校でも「倫社」の授業を校長と揉(も)めながらでも辞めさせて貰っていた。
岡山の予備校の寮での英語も手をひかせてもらっていた。ここが重要、岡山の予備校(寮)でも英語をやめ、政経一本を目指している1982年に、やめるはずの英語を岡山短大から持ってくれであり非常勤講師ならば英語は断る。

証拠とすれば岡山の寮の英語担当の方がポリテクカレッジ岡山の賃金よりも高いのだからである。後者は50分2200円引く交通費である。交通費は百キロ未満はゼロとなっていた。英語や倫社の授業をやめているときに英語を持つなどは専任条件以外ではありえない。その上、語学は余り得意ではなかった。本来格闘技を除けば文系型ではなく理系型の人間である。
後の業務妨害の嵐のときとは異なり、当時は引く手あまたになりつつあった時でもあった。

その後は更に多忙となると同時に、翌年度(1983年度)の目処(メド)もたち(駿台で授業数が増えると1982年後半にその確約を受け)、更に政経と無関係な教科の整理に入っていた時期である。その1982年にポリテクカレッジ岡山で、だまされて英語を持つ約束をさせられたのである

日本史などの担当は駿台ではトイレで騙(だま)された1986年以降であり、ポリテクカレッジ岡山の教壇に立った1983年頃は全く逆であった。
因(ちな)みに、この頃の駿台の単価が50分7千円~7500円(休日は半額保証、交通費はグリーン車、ホテルは駿台が手配、駿台辞職年1987年度は50分9000円、夏期・冬期講習はその1.5倍)、岡山の予備校は60分5000円くらいか(交通費は実費)、ポリテクカレッジ岡山は50分2200円(百キロ未満は交通費は支給しない、夏休み・冬休み・休日などは賃金はゼロ円)である。


次のTwitter参照。

☆☆☆☆☆
浜田隆政 (Takamasa)@Takamasa_Hamada 1月7日
23-007-13【嘘】
#安倍晋三 様は #学歴コンプレックス が強い、
英語を道具と見ず学力所が人間の優劣と錯覚。
そこで🤡に語学挑発🙄

🤡今、中学生に数学を教えたいか☹
英語も同様で1982年手を引いていると能開大で是非専任にそのために英語も…と騙され…経緯を近々書く。
86=政現英歴模😭
真逆😡

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1611684214294085633?s=20&t=bNzqHFk8AGjnXmLKpp0ckg
☆☆☆☆☆

(Twitterがポップしていない場合には上のリンクをclick。他も同様)

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1611684214294085633?s=20&t=bNzqHFk8AGjnXmLKpp0ckg


☆☆☆☆☆
浜田隆政 (Takamasa)@Takamasa_Hamada1月7日
23-007-14【😡】
解説
1986年担当=政経・現社・英語・日本史・
#駿台模試 作成✒、#進研模試 監修😭
更に法律学・経済学の危険…
大阪・美作・岡山・倉敷と巡回&Trouble。

好き嫌いの前に減らしたいに決まってるだろ。
能開大/是非専任で…次年度から3駒/駿台…と全部騙され…上記の羽目に。
真逆😡

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1611687716865052673?s=20&t=bNzqHFk8AGjnXmLKpp0ckg
☆☆☆☆☆



そこで、嶋坂先生の顔を立てて話だけ聞いて、断って帰る予定で行った。
今考えると、その情報が学校に伝わっていたのだろう。
雇用促進事業団職員5000人の生活が、極論すれば、世界のMr. Hamadaにかかっているという状況であろうか。
ポリテクカレッジ岡山のみではなく、同学校群28校若しくは30校の命運である。

すると相手(※1)は奇策にでた。

(※1)対応したのは数人いたが中心人物は森本茂樹氏であった。森本氏は雇用促進事業団運営の岡山職業訓練短期大学校開設準備室室長であった。短期大学校創設時の初代副校長であり、森本氏がが主として私を専任確約で招聘した人物である。校長は約三年おき交代の天下りの飾りである。


私:「経済学と法律学ですね。待遇は非常勤講師ですね」
担当者(森本氏等)「いえ、先生には専任でお願いしたと思います。
私「いつから専任ですか」
担当者「次年度の春からです」
ということは、この会談の後の半年後くらいである。
それならば嘘はなかろう。
ましてや、学校の輪郭は衆議院と参議院を通して決まる、いわば労働省系大学である。
しかも場所は岡山県である。
我が家から通えないこともない。
そこを見越してか担当者が一気に押してきた。

担当者(森本氏等)「しかし、法律学と経済学のみでは専任になるには時間数不足です。先生は英書購読の授業を担当できないですか

私に英語の能力があるかと聞かれれば、不幸は起こらなかった。「余りないです」と言ったからである。英語の授業を担当できるかと聞かれれば、能開大の学生よりは英語はできるし、さらに、私の英語力ではなく、学生に英語に興味を持たせばよいとなれば更にできるであろう。
野球を例にすれば分かる。
星野仙一氏の恩師・明治大学野球部の島岡監督は野球の経験がない。だが、多くの有名選手(秋山登、土井淳、近藤和彦、池田英俊、辻佳紀、高田繁、星野仙一、名取和彦、鹿取義隆、広沢克己、福王昭仁、武田一浩…)を育てた。

(※2)島岡 吉郎(しまおか きちろう、1911年6月4日 – 1989年4月11日)。
 応援団出身・野球未経験の島岡の就任は驚天動地であり…、野球の監督ながら島岡はノックが苦手だった。明治高校の監督として1951年春の第23回選抜高等学校野球大会に出場し、(阪神甲子園球場近くの)甲陽学院グラウンドで練習を行った際、偶然居合わせた同大会に出場する和歌山県立新宮高等学校の古角俊郎監督(明治大学硬式野球部のOB)に「(俺の)代わりにノックをやってくれ」と依頼し、古角が明治高校ナインにノックを行ったエピソードが残っている。
……
37年間にわたって明治大学野球部の指導的立場に就き、東京六大学リーグ戦優勝15回、全日本大学野球選手権大会優勝5回、明治神宮野球大会優勝2回、日本代表チームの監督も務め日米大学野球選手権大会優勝2回の記録を残した。
以上『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋。


教師というものは、自分ができるかどうかではない。学生・生徒ができるようになればよいのである。私が英語が出来ても仕方がない。生徒・学生が英語に興味をもてばよいのである。
アンサリバン女史も当初は英語は余りできないが、ヘレンケラーの教師としては有能であり奇跡の仕事をなす中で英語も身に付けていった。彼女は中学の頃は英語の読み書きはできなかった。

私は今、「世界の歌」なるものをHPで行っている。だが、私に音楽など分かるはずがなかろう。音楽には興味もなければ関心も余りない。才能もあるわけもない。だが、今、世界の音楽界をリードしているときもある。

語学も同様である。
私に語学の能力があるかときかれれば、その後の不幸はなかった。会談決裂でこの学校での後の詐欺や労基法違反の嵐にも遭(あ)わなかったであろう。
「担当できるか」と聞かれれば、正直な私は担当できるので担当できると回答した。
丁度先の社会科の教師が英語を担当するのと同様である。

私に専任招聘の話があった頃は、仕事で余分な物を捨てて、駿台などの政治経済一本を目指していたため、倫社などを断っていた時期である。(他の予備校や高校などの非常勤講師では、担当した日数が、駿台での授業担当時間数拡大の制約になるからである。例外は大学教授の道がある場合のみである。)
だが、準国立、岡山県の学校で専任確定という詐欺(さぎ)にひっかかったのである


《◎―3・専任契約維持のため代役捜しを自腹でする羽目に》(2023/08/31追記箇所)

だから、私が英語が余りできないにも拘(かか)わらず、英語を担当させられたと正直に言った方が物事は早く解決する。私が英語ができて、更に、英語をやりたくて英語をもたせてくれと言ったのではない。余り英語ができない私が英語を持つ羽目となったのは学校側の都合(私のCM利用)のためである証拠となる。

ちなみに、専任確約を再度確かめるため、後に私は正直に聞いたことがある(岡短2年目の1984年秋のことだと思う。対談者は先の森本氏)。
「専任になるときに試験があるのではないですか。英語の試験もあるのでしょう」
試験があれば通る訳がない。多分。
すると森本初代副校長(開設準備室長)は明言した。
「それは大丈夫です。先生の場合には経緯から言って、試験を受けるだけで大丈夫です」
私が余り英語ができないので念押しをすると
「大丈夫です。形式的に受けるだけで問題はありません」であった。

こうして英語を担当することになった。しかも当時(1983年度)は英会話などなく、英書購読一本であった。英会話は1989年度から突如入った記憶がある。

同時に、本来依頼されていた「法学」と「経済学」は、別の人に譲った。しかし、法学、経済学と英語をセットで、前者などの一般教養が専門であるが、都合で英語専門外の人が英書購読という大義名分があった方がよい。その前に、英語全部と他の社会科学系2教科で専任という話でもあった。専任となる上での担当授業数問題があった。

そこで、専任になるためには、途中で「法学」「経済学」を知らぬ人に任せることはできないそのため、「法学」「経済学」の講師捜しを交通費や通信費その他を自腹でさせられる羽目となる。こうして探していると、早大大学院時代の後輩が代役を引き受けてくれた。しかも、彼は既に別の大学の専任講師となっており、私が専任になるときに、簡単に退いてもらうことが可能という都合の良い条件の人物であった。

なお、彼とてポリテクカレッジ岡山(現・能開大)の労働条件で行きたい訳がない。彼は隠れた優しさがあると同時に、ポリテクカレッジ群を知る必要性をもっていたので、それが効いたのであろう。
というのは、彼の母が、岡山県の某大学の創設者である。後に都合で、該当大学から離れ、専門学校経営に主軸を置かれていた。実際に、彼はその専門学校群の理事長に相当前からなっている。その専門学校とポリテクカレッジ群の教える内容の一部(ポリテクカレッジ岡山に当初存在していた産業デザイン科のことではなかろうか)が競合していたので、競争相手の研究という側面もあったようである。本人がほんの少し臭わせたことがあったが、彼の隠れた優しさでの弁明かもしれない。

こうして窮地を逃れた。
そうでなければ、岡山の予備校で政経、前年は倫社も担当、駿台で政経、現社、ポリテクカレッジ岡山で英書購読、駿台模試作成、ベネッセ模試監修、その上に後には騙されて、駿台で日本史(それも政経と関係のある近現代史は外され、古代から近世担当)と岡山の予備校で日本史も教える羽目になっていた。
そして、岡山県美作町、岡山市、新倉敷駅界隈、京都(若しくは大阪)と毎週飛び回ることは不可能であった。


後に彼も忙しくなり、代役を今度は早大大学院時代の先輩にバトンタッチをしてくれて去って行った。先輩の方も私が専任になるときは黙ってさってくれたであろう。知らぬ人間に任すと、専任が実現化するときに支障を来すのは誰でも分かる。

なお、進研予備校(岡山の予備校)で、当時(1985年度と思う)の進研予備校校長・桐山公雄先生(関西高校校長、岡山中学・高校初代校長を歴任)に依頼されて、日本全国から講師捜しと、ブッキングを完全自腹で行ったことがある。国語ならば河合塾の有名講師、駿台の藤村先生、物理は駿台の某講師、英語は名古屋で有名であった外国人の某講師(大学講師)と思う…などを招聘したが、このときに、「英語は私がやりましょう」とは言っていなかった。

ちなみに、この時は真備高校の、私が在籍した当時の小山教頭にも国語をお願いしたが、断られた覚えがある。誤解のないように記すが、教師捜しではなく、授業の良い教師捜しである。小山教頭の授業はこの目で見学をして見ており、授業のリズムから予備校でも活躍か人気がでると分析したからの招聘依頼である。当時は教師過剰時代であり、予備校の講師でもやりたいという人はかなりいた。実際に、何人かの教師に依頼されていたが、私がこの目で見ているか、十分な情報が入手できない人は進研予備校には知人でも心を鬼にして紹介をしていない。しかもこの予備校は福武書店(現・ベネッセ)が運営していた学校である。

進研予備校の命運がかかっていた年であった。当時の福武哲彦氏(現ベネッセ創始者で後に知ったが私の父の知り合い:当時は理由不明で同予備校時代には福武哲彦氏に指名されて、スナック等に何度か連れて行かれてもいた)が最後の賭けと進研予備校を考えていたと思われた年であった。
実際に1986年には合併を決め、87年から岡山学院と合併となる。

英語を担当したいと言えば、(私をかわいがってくれた)尾野作次郎名誉校長・桐山校長時代ならば簡単に岡山の予備校で英語は担当できていた。これが1985年であり、ポリテクカレッジ岡山の教壇に立ったのが1983年度である。

昔(家庭教師時代)は英語を教えるよりは数学を教える方が楽であった。だが、生活に駆られると英語も担当する。同様に後に経済封鎖されれば、政経類では大手予備校以外は無理なため、英語担当も考えるが駿台時代は政経・現社一本で生活可能なため、騙(だま)されぬ限り、あの頃ならばポリテクカレッジ岡山(現・能開大)で英語授業を担当することはなかった。


《◎―4・英書購読担当は専門や一般教科の講義方式より楽なことは事実である》


もし学校側が専任と言う言葉の延長で英語を出さねば、非常勤講師のため、私は断って帰っていたことは既に述べた。実際に断りに行ったのである。法律学(前期2単位)と経済学(後期2単位)では誰が考えても専任ではなく非常勤講師である。すると即座にお断りで帰る。

そこで苦肉の策で、学校が「専任」を強調し、同時にそのためには英語となったと思われる。
確かに、政経専門の私(人間)にとっては、専任としても日本史や地理などを担当するよりは英書購読の授業を担当した方が遙かに楽であると思ったことは事実である。

もう少しこの点を解説する。要するに、何故、英語の代わりを見つけずに「法学」「経済学」に代役を立てたのか、である。

早大大学院生が併行して大学で非常勤講師をやるときに、教材研究で楽をしようと思えば、「英書購読や各種外国語購読の授業を担当せよ」という人が多い。

地方自治論や政党論の授業を担当するよりは、英書購読や各種語学購読の方が教材研究時間(正確には授業準備時間)が少なくてすむからである。講義方式は極論すれば、各種演出を考える上に、喋る内容を丸暗記する必要があるのに対して、大半の語学購読の授業は生徒・学生に訳させて、それを訂正し、一部のみ文法解説をすれば良いからである。

しかも、大学では塾・予備校と異なり、入試問題などは無視し、自分の興味ある文献を選べば、英語や各種言語の前に、意味は分かるからである。
胃癌の専門家が胃癌の英書購読の授業をするときには、既に読む前に内容は分かっているからである。他方、その医学者が「医学史」という教科を担当して、ギリシャ時代の医学の講義を大学の授業でさせられれば、日本語ですら大変である。その上に、胃癌に関する自分の研究は暫(しばら)くおろそかになる。

そこで、専任前提で担当時間を増やすならば英書購読の授業は楽であろう。ただし、専任の話であり、非常勤講師ならば政経などの教材研究の邪魔となるため持たない。また、この頃は駿台以外でバイトをしなくても生活の目処がたちかけており、岡山の予備校の寮の英語指導の仕事を断っていた時期でもあった。(交通費問題や試験作成及び採点問題…を考慮すると)実質時間給は岡山の方が良いのにである。

要するに、どうしても専任条件で当面は非常勤講師として担当するならば、英書購読担当は教師には相対的に楽である、ということに過ぎない。どうしてもとは専任ならば…という話であり、食いぶち問題の時の話である。非常勤講師ならば、駿台以外は辞めた方が金になる。駿台の時間数増大を目指した方がよい。安い学校の仕事をすると、時間を拘束され、金になる場所での仕事時間が減るからである。更に、教材負担や教材研究負担の問題も大きかった。

グリコのおまけ方式で担当するならば専門以外では英書購読の担当は相対的に楽である。もっともクイズ形式の予備校英語は無理な予備校もある。いきなり、駿台予備学校で英語担当、それも東大・京大コースはしんどい。
なお、駿台英語科の人気のある講師の大半は文学部英文科卒や外国学部英語科卒ではなく、経済学部卒や法学部卒が多いことも事実である。更に、私の早大大学院政治学研究科時代の諸君が予備校で仕事をする場合にはまず英語である。社会科担当は私くらいなものである。だが、私とて(授業での人気はあったが)倫社は整理しており、地理などはもちたくないし、英語以上にできない。


《◎―5・授業・英語授業は本当に担当できるか、できる―授業の目的は何か》



学校が、私を獲得するために専任の付録としてでた言葉が英語だったのであり、私も話を聞くまで私が英語を担当するなどは夢にも思っていなかった。青天の霹靂(へきれき)であった。


ところで、駿台などで英語を教えられるか。
二条件を前提にすれば可能である。
テキストは私がつくったもののみとすること。
質問は私が作ったテキスト以外では私にしないこと。
入試問題についての質問をしてこないこと。
この三つが揃えば、今でも遅くとも二年後か三年後にはスーパースターとなるであろう。

再度言えば、明治大学の島岡監督は野球経験なしで、野球の有名選手を山ほど育てた。
英語教師を例にすれば、生徒や父兄の本心は、先生が英語ができるか・どうかではなく、自分が、自分の子供が英語ができるようにしてくれである。
非常に単純な話である。
だが、今の私はそんな馬鹿な世界に構う暇はない

だから、超多忙な私は授業を減らすのに専念していた時期にポリテクカレッジ岡山に行くことになったのは騙(だま)されたからである。
専任前提できてくれ」という言葉に。
後には「うちは給料は安いかもしれませんが、福利厚生が充実していますし、何よりも年金は国民年金ではありません」という殺し文句に。

暫(しば)くして駿台に辞表を書きかけると(1982年晩秋以降と思う)、盗撮されていた如くに、即ポリテクカレッジ岡山から電話があった。
「来年度(1983年度)の春からの専任の件ですが、(中曽根)行財政改革の関係で少し延びます。来年度の春からは無理となりました。しかし、先生の専任は大丈夫です。またそのための最大限の努力はしますので、暫くは非常勤講師ですが来年春からお願いします」であった。

その後の経緯は拙著『恐るべき労基法違反』に詳細に書いている。

☆☆☆☆☆
『恐るべき労基法違反』PDF配布箇所は下記アドレス
→長いため、幾つかに分散して配布中
http://www.h-takamasa.com/rensai/custom.html
呼びかけ文のPDFは下記。

http://hamatakachan.uh-oh.jp/wp-content/uploads/2016/06/778e505109f7c341df4a77b1ccb6c568.pdf

共に、次年度(2024年度)には、教職員を全て実名化することを検討中である。同時に新たに分かった事実を付け加える予定でいる。
☆☆☆☆☆

ちなみに1999年度からポリテクカレッジ岡山などは短大から4年生への移行の年であった。
通常ならば遅いがここで専任のはずであった。
すると、1997年度にSYの名を語った偽学生登場と、労基法違反ゲームに没頭した森脇一雄課長登場となる。

森脇氏の一言がきいた。
私が専任確約でこの短大にきていると言ったときに、彼は言った「専任、君、そんなものなれる訳がないだろう。第一、君を首にすることも簡単なんだよ」と。
1997年4~6月の間のことである。
ここから、私は専任詐欺(最初から専任にする気がないのに、嘘を言って、雇用促進事業団・雇用能力開発機構の職場に閉じ込めた)疑惑である。労働省・厚労省所管のため同省の監禁・強制・貢ぎ労働被害に該当する。何故ならば、当時は雇用促進事業団の理事は労働省幹部の天下り先だったからである。この学校グループの理事長は当時は労働省事務次官の天下り指定席であった。

詳細なメモは当時の日々日程表に記載しているはずである。具体的な日付は特定可能である。
なお、その数年前に、私をこの短大に招聘した嶋坂敬郎先生は「浜田、心配せんでもよい。この学校でいずれ専任になれるがな。お前の専任確約はテープにとって金庫に保存してある」と言っていた。これらは1998年頃から随所に書いている。

もし嘘ならば詐欺罪が成立する。衆議院・参議院を通して決まる学校で、最初から専任にする気がないのに専任で人をスカウトしていれば詐欺罪である。動機は、ポリテクカレッジ群、雇用促進事業団のCM目的と分析される。


英語が余りできない私が大学(ポリテクカレッジ岡山)で英語を担当したことを理論で考えてもそうなろう。
第一、駿台予備学校で「政経だけで三年間(1985~87年度まで)保証する」という確約(関西地区最高責任者・大滝満夫部長:立会人が川端三郎先生、多分在籍したのが深見正明係長)が1984年にあったが、それを大滝満夫部長が恰もトイレで待ち伏せをして、トイレ内で「来年度からは政経だけでは生活が厳しい」と1985年に脅したときに、全く教えたこともなければ不得手な日本史の方を選択したくらいである(1986~87年度)。それほど英語ができれば、駿台で1986年度から、専門の政経・現社と併行して日本史ではなく英語を担当していた。
だからポリテクカレッジ岡山での英語は学校側が私を捕まえるために、「専任」なる語を出さなければ私が即座に断って帰るので苦肉の策でだしたのであろう。即ち「専任前提」=「英語も担当」という論理となる。


さて、ここでこの項目◎―5のテーマに該当することを記す。
もう一度言う。
私が英語ができるか。余り出来ない。
英語を教えられるか。教えられる。それも見事に。
音楽が全く分からなくても「世界の歌」を主催している。
カメラや絵画は全く駄目であったが、今、結構な写真を撮っている。
神戸の叔母に言わせれば「隆政君は凝り性だから」に尽きる。

より高尚(こうしょう)な言い方をすれば、Chaplinはライムライトでは名バイオリニストであり、名作曲家である。だがChaplinは音楽関係者ではない。黒澤明氏は映画「酔いどれ天使」の中の「ジャングルブキ」を作詞した。だが彼は作詞家ではない。
チャプリンは映画『独裁者』の中で、名演説を書いた。当初は(ノーベル文学賞受賞者)スタインベックに頼んたが、満足できずに、中学校の頃まで英語の読み書きができなかったChaplin自身が書いた。

チャプリンは映画『サーカス』の中で曲芸師顔まけの演技を披露した。だが彼はサーカスの団員ではない。
必要性が彼にこれらの奇跡をおこさせたのである。

そして、私も幾分同様であった。
性格的な凝り性、あるいは挑発・催眠により、英語授業に力を入れさせられる。丁度、今の「世界の歌」のようなものである。英語の授業用教材が発展したのは、単に、私の凝り性、否(いな)、それ以上に専任が延期されたり嘘であったりした場合には、老後破綻・生活保護の危機に対応するには、超大手を除く教育産業では英語類しか今の日本社会では無理だからである。

更に、ポリテクカレッジ岡山での専任確約も効いており、準備をしておかないと、どのような理由で専任撤回をされるか不明な状況におかれていた事実上、ポリテクカレッジ岡山以外の仕事は各種妨害で不可能としか思えぬ危害を受け続けていたからである。

それではどの程度の高みに到達したか。

英語を教えるというジョークをやったため、そこで身についたものを来年度披露してみよう。結構、面白い脚本(『Dorothyと10人の出会い』等)を英語で書いていると思う。
音楽番組のプロデューサーが必ずしも音楽についての専門性を持つ必要性はない。

ちなみに、英書購読の最終テキストが以前公開した『求め続けて』である。尤も今書いている『求め続けて』補章は単なる背景(リング外の争いに関する)の解説類でしかない。英会話の方も自分で脚本を書いてテキストを作成した。HPでの公開を検討しよう。
二冊英語で脚本(一冊はかなり長い、百ページを超える内容)を書いた。
一冊が『Dorothyと10人の出会い』であり、もう一つが『浜田隆政版Dumbo』である。
同時に、この頃、(余りにも激しい授業妨害のため)しゃべれない英会話なるものを追及していた。その話やその実践の経緯も紹介しよう。

話さない会話、あるだろう。耳の不自由な人は話さない会話を模索し、目が不自由な人は点字などの工夫をした。よって、世界初の話さない英会話なるものの紹介を検討しよう。

なお、参考までに言えば、最近ヒアリングをしきりに人が強調するが、私は現時点ではヒアリングのトレーニングをする気はない。

学問も含めて勉学は飾りではない私にしかできないものがあり、そちらにウェートを置いていることが一点である。
更に、今、会話やヒアリング能力を必要とされていない環境におかれている。
最後に致命的な一言。
高齢化にともない耳が遠くなっていく可能性が高い。耳が遠くなる年代に入り、ヒアリングの能力でもあるまい。これらから英語のヒアリングには余り重きをおいていない。

まだ紹介していない私の著作が膨大にある。次年度は学問論に関する文献と、しゃべらない英会話を目指して作成した二つの自作教材のいずれかを紹介しよう。別に「日本のフィクサーME」も書かねばならない。ヒアリングなどに時間を当てる暇はない。

ただし、明白に強調しておかなければならないことは、労基法違反が激しかったため、戦意を喪失させられ、本来私が持っている能力を最高現に発揮する気は全くなかったし、できなかった。
ビルゲイツでも、無料でMSを運営していたならば、どうしても戦意に限界があり、彼の能力は完全発揮はできなかったであろう。
おまけに、演出にはコストがかかるが、経済封鎖の憂き目にあっていた。


それでは、私の英語力はついたか。
ピーク時は大学院時代よりは相当ついていたが、大したレベルではない。
インタネット模試類によれば2000年頃が準英検1級なら合格、1級を目指しましょうレベルでしかない。だが、もうそれから23年経っており、自然放電が激しい。


また、知識・研究と授業にはかなりの部分で相違がある。
授業とは拙著『求め続けて』に記したように「プレゼンテーション」、要するに演出である。その最たるものの一つが「セサミストリート」である。知識もプレゼンテーション器財やソフト集めなど、自分の研究との相違がある。

おまけに、私は本職の社会科教師としても、高みを目指す努力を併行して行っていたのである(例:旅に心を求めてシリーズ等等。「生命の畏敬シリーズ」は妨害で中断した)。
最初に掲載したように、私は社会科教師である。

演出能力が一番優れているようであるが、無料では気力に限界があった。


次に、大学講師は何で評価されるべきか。私は以下三点を考えている。
①研究能力が優れていること
②授業能力(演出力と言っても良い)が優れていること。
③学生へのコーチ役としての能力が優れていること
この三つが満遍なくあるか、それともどれか一つが際立っていることであると考えている。

②の演出については上記の通り、演出能力は相当あるが(時代の30年先を行っていたが)、無料では気力も失せ、同時に適切な代価なしでは演出用の予算も捻出できない。
生徒のコーチ役としてはどうであったか。
コーチ役とは何か。
学校の教師は生徒・学生の心理との戦いでもある。野球などの監督ならば幾分分かるであろう。よってときには、各教科内容に精通したり・授業したりするよりも精神論の方が重要なときもある。再度言えば、勉学の道に没頭するのは生徒・学生である。教師が幾ら知識があっても、生徒・学生がそうならねば意味はない。
その役目である。例えば、関西の有名な進学塾であった入江塾の入江伸氏などを連想すればよかろう。

この項目については正当な賃金保障もなく、契約も守られず、その上で偽学生三昧であったため、対応意欲はなかった。
しかし、後に(2000年以降今日まで)、各種スポーツ選手や芸能人…がスランプに陥ったとき、何人を蘇生させたか、何人を高みに引上げたり蘇らせたりしたか…。
よって、本来はその種の能力もあったように思われた。

①は開始使用とするや妨害三昧、更には催眠で阻止され続けているため不明である。


71年の人生で私が思うことは、勉学は飾りではない。
必要性が各人に与える才能でしかない。
必要性と責任感、これが全てである。そして十分な報酬があればもはや確定である。


しかし、上記は正当な代価と契約遵守を前提の話である。趣味では、現世では霞を食って生きていけない以上、家族や社会の重荷になり、気まずい一生しかないであろう。
これを生き地獄という。

1987年駿台で50分九千円(夏休みならば15000円弱。別に出張旅費3500円、交通費はグリーン車、ホテル駿台持ち)のときに、ポリテクカレッジ岡山が50分2200円(交通費なし、休み保証なし。この頃の時間給はもう少し高かろうが)の条件ならば、どのような教科であろうとも行くはずはない。霞を食っては生きていけない。だから専任と言ったのであろう。
最初から、専任にする気がなかった可能性が極めて高い。
労働省幹部の天下り先がなくなっては大変と。
国会での正面からの審議を常時願っている。


《◎―6・次回の予告》

色々と書かされたため、物のついでに、若い人向けに、私の勉学の歩みを次回記しておこう。

(2023/08/18 2:36追記)
だが、大学院に進学して、英語やドイツ語をマスターしただろう。
そうではない。大学院時代の話を次回しよう。

ドイツ語は?
その話もしよう。

しかし、今、英語をある程度訳せるではないか。
それは大学院修了後の独学である。
英語・ドイツ語の前に、実は、私は国語(日本語)も苦手なのである。

名前も知らなかった関西学院大学を受験したのは、国語抜きで受験できたからである。
当時、珍しい入試教科で、英語が必須、後は社会科、数学Ⅰ・数学Ⅱ、国語から二科目選択となっていた。
そこで、英語・数学1・数学2、世界史で受験した。

何故、国語(日本語)ができなかったのか。
ブリキの勲章(くんしょう)からである。
だが、そのツケは大学院修士論文記述の際に現れ、大変な羽目に陥(おちい)り、大恥の修士論文となった。
その前に、修士論文清書の際に、友人諸君に大変迷惑をかけたという苦い思いでもある。
そこで、これらの話をふまえながら、次回、今回の内容の延長でそのときの話を掲載することにする。

だが、ブログではなく、書物にしているものは国語も結構しっかりしているではないか。
それは、大学院時代の反省から、大学院修了後の何度もの独学によるものである。
特に、2007年~2011年の独学が効いているかもしれない。
私の経験をふまえながら、私が今思う語学論を論じよう。
同時に、当時、修士論文でお世話になった人々の名を掲載し、永久の感謝の念を示したい。また返礼をどのような形でしようか…で案中でもある。とは言っても、業務妨害、催眠被害…経済の自由剥奪、人身の自由剥奪、私の思考力自体を剥奪…という大人権蹂躙下で何ができるであろうか。

当時、もう一年留年を考えたが、それができなかったいきさつも掲載する。だが、やはり、あそこはケジメとして留年とすべきであった。

最後に、このときの未完の修士論文の骨子が今、私が展開している世界連邦の代表制理論である。

 

 

《上↑作業進行中》



《下↓以前の下書きの一部》



以降は次回の◇―6の箇所の掲載項目のごく一部である。


追記:
私は1952年生まれ
いつ私が英語の勉強をしたか。
1975年後半から77年大学院入試のため。
77~80年早大大学院時代は授業の大半が英語のテキストで少し。
1988~89年ここで英語の文法などを本格的に行う。
ところが、90~93年の休眠期で相当忘れる。
94~2002年頃。
世間一般の語学力のピーク時がこのあたりである。
面白半分に英検模試該当をすれば、英語の準英検は合格、英検一級を目指しましょう程度である。通常の大学英語教授ならば英検1級が当たり前かもしれない。ともかく、この時期に英語の文法も本格的に行う。
1994年~2005年前半頃までは面白い英語の書物をすべて丸写し作業をした。
その後英語も含めて、再就職準備で学問・文献から遠ざかった。
要するに、23~24歳、36~37歳、42歳~52歳頃(本格的な英文法学習はこの頃)に英語の勉学をしている。
ちなみに、私の高校時代は1968~71年であり、高校時代は英語などはできぬ。
東京時代ですら1977~81年であり、本格的な文法学習をした1994~2002年頃のことは当時の旧友は誰も知るまい。そして、20年余り封印で忘却したため、英語力の証拠はない。
だが、語学は飾りではない。ましてや学問は尚更である。
本格的に開始したときは、老後破綻を防ぐため、場合によれば塾か予備校で英語を食いぶちにしようかと考えた時である。もしくは岡山短大の専任時の準備程度であろうか。
人に見せるためのアクセサリーではない。
ましてや英語といっても広い。
医学英語か、カメラ英語か、哲学英語、ホテルマン英語か……と。
医者ならば医学英語を知ればよいのであり、カメラ関連英語を知る必要はない。
実用的なものである。

参考
日本語(国語)はまだひどい。
し始めたきっかけは大学院時代の家庭教師の頃である。
本格的に日本語学習をしたのは、これは原稿を書くための修行として、2006年頃~2012年頃(54歳~60歳頃)であろうか。わずか6年と言っても、中学校と高校の合計年数に匹敵する。もう少し早い2000年頃かもしれない。すると約10年となり、中学・高校に大学を加えた年数となる。また漢字類を本格的に覚えようとしかけたのは1988~89年頃(36~37歳)であろうか。
きっかけは原稿を商売とするためである。

語学を含む学問とは、必要と思えば、思ったときにすればよいのであり、必要と思わねば一生しなくてもよい側面もある。例えば、フィリピンに行かないのにタガログ語をマスターする必要はあるまい。スワヒリ語とて同様であろう。語学というものは特にそうである。英語も語学のため同様でしかない。
必要と思えばすればよいし、思わねばせねばよい。同時に、必要性を感じてからした方が効率的でもある。
ゴルフとて同様であろう。

ちなみに、私は母校の一つである関西学院大学を受験するときは、数学ⅠとⅡ、英語、世界史であり、国語は入試では選択せずに受けていない。そのくらい国語は苦手であった。今の日本語力は大学院を修了して何年もしてから、必要に駆られて独学で身につけたものである。そのため、昔、国語で大恥をかいたこともあり、その話もどこかでしよう。

 

2023年8月31日 | カテゴリー : 教育 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA