求め続けて第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件―(3)体当たり人物・未曾有の大流血事件を強制的に回避された話

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求め続けて第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件―(3)体当たり人物・未曾有の大流血事件を強制的に回避された話🆕


原稿は2022年記載もOne Driveに保存。ブログには2023/01/28 4:52下書き段階で掲載

2023/01/30 18:41から清書作業中。2023/01/30 21:02 限りなく清書に近い下書き終了。後は誤字脱字程度のチェックしかしない予定でいる。


 

 

構成】
《◇―序・授業の場を奪われ、生きる権利を剥奪されたポリテクカレッジ岡山時代》
《◇―1:駿台辞職とポリテクカレッジ岡山及び勤務校での全ての豹変》
《◇―2・体当たり人物は学生Sの名を語った偽者の証明》🆕
  ―今回新証拠を提出。

《◇―3・未曾有の大流血事件を強制的に回避された話》🆕
《◇―4・精神破壊へのポリテクカレッジ岡山の波状攻撃》
《◇―5・私が英語ができるか―…であることが専任詐欺にあった証拠》🆕
《◇―6・駿台事件との関連性と差別》🆕
  ―私が終始一貫して臨む物―民主主義に基づく裁判での解決―

 

(A)1997年の公式声明であり、当時(事件直後)書いた文書である。公式文書であり、これが全てであるとも言える。
(学生に配布しているため、証拠でもある)
学生SY(正確には学生SYの名を語る部外者)事件への対応は当時の学生宛(あ)てプリントに記している。

下記を参照されたい(是非、アドレスをクリックして公式声明街頭文書を読んでいただきたい)。

☆☆☆☆☆(公式声明該当文:1997年:これが全て)☆☆☆☆☆

岡山短大と在校生・卒業生の名誉を守るために
-1997年11月14日、無理難題の押しつけ及び暴力的行為に及んだ学生に関連して、
  岡山短大及び大学生に値する行為・言動・礼儀への学生への呼びかけ

資料-4:97年11月暴力学生事件→学生配付プリント
http://www.h-takamasa.com/rensai/custom1.html
☆☆☆☆☆

①事実は、これらのプリントを配布したときに学生が奪い合うようにしてプリントをとったことである


②このプリントも含めて、これらのプリント作製時間はすべて無料労働として処理されている事実がある。

③当時、この学生との模様を外部から何人か(当時から教育実習生か現場の若い教師を連想)が眺めていたことである。

④事務員も含めて、芝居がかった(茶番劇の)雰囲気が随所に見られ、無料労働を暴力で強いられたと感じていた。

⑤当時、「確定申告にいくと担当者がこのままでは生活保護しか道はないのでは」と客観的な判断をしていたが、正にその通りであった。
その上で、幾つもの労基法違犯・契約違反で金銭の損失と無料労働を強いられていた(これらの被害は偶然の域を超えていた上に、故意に犯罪の証拠を残しているとしか思えぬ奇妙な状態となっていた


当時の状況の中では次のような精神状態に置かれ大変危険であった。私の精神が長期の貢ぎ・監禁・奴隷労働で相当に疲弊させられていたようである。
その模様を「閉じた窓にも日は昇る」などから主として抜粋し、その後で2022年に記載した当時の構想を掲載する。

なお、『求め続けて』はプレゼンテーション屋の道への記録である。だが、もはやプレゼンテーション屋の道は駿台辞職後、正確には(駿台辞職前の)1985年から閉ざされたようであり、もはや、私が生存しても意味はないと思う状態が長期続いている。
現在も、催眠多投(たとう)被害で、生きる意味はないと常時思っている。安楽死・突然死が唯一の願いの状態である。このピークがポリテクカレッジ岡山時代であった。


(B)資料(1997年の覚書文書:1997年11月24日記述文書)


(2023/01/30 追記箇所)既に体当たり人間を学生SYの名を語った偽物と判定した後の状態である)―当時書いたとはいえ、文書内容に催眠誘導が入っている危険もあり、催眠がとけた後でしか審議は吟味できないが、本日までの26年間はこのように考えたいたと思っている。同時に、キーホルダー……は学内ではなく、無頼漢が学生SYの名を語った部外者と考えていたため、我が家から学校へ着くまでの道中を主として想定していた。

【参考―19:1997年11月24日付の覚書より】〈  〉内は今回分かり易(やす)くするために補った箇所。

なおSY学生についてはどうしても偽物としか思えず、よって次のようにも今考えると思っていたようである。
当時は、部外者への乱闘については、私が大吐血したこともあり、他人がどの程度大流血に耐えられるのかその性根と甲斐(かい)性を一度見てやろうという思いもあり、車のキー・ホルダー等を持参しており乱闘になればこれで眉間(みけん)をかち割り流血させてみようかと考えたこともあり、恐れなどは当時一切ない。

しかし、精神は張りつめ、真っ暗な深夜でも我が家の付近で桑を踏みその枝が当たってくるのを枝が見えないのに両手でクロスして防げたのはこの頃であったように思うそのくらいに精神は常時張りつめていた。こうした中で上記症状によるドクターストップである。

尚、これは明白に 1997 年 11 月の暴力学生を事務員がかばったことから起こった。それまでは、具体的手段で相手を血だるまにするなどは考えたこともない。
勿論、1996 年以前には、岡短以外のどの職場でもそうしたことを思ったことすらない。何よりも、11 月の暴力学生とそれを擁護した学校の件を契機に上記症状が授業の度(たび)に続くのでは参ってもしまう。研究者は受験生のような心境であり、時間は貴重である。

学校で問題もなく授業をして帰ってから寝るや「大変なことが学校であり……」と思わされたり、そして覚書やその他の不必要かつ無意味な文章書き抑制不可能現象で膨大な時間を奪われたり、同時に頭も機能しないのではどうしようもない。しかも、全く問題なく、何も無〈な〉かった日に大変なことがあったと寝るや思い出させられると手の打ちようがない。

これが 11 月から新たに加わった症状である。主治医のドクターストップを無視し、あのまま3月まで勤務していたら、精神はどうなったであろうか。あるいは、万一課長の気が変わり私を解雇せず、何かの拍子にあのまま岡短に居続けたら、精神は生きる屍と化していた可能性は今考えると極めて高いと思われる。(当時の覚書を拙著『恐るべき労基法違反』p91に収録したものである)

(C)閉じた窓にも日は昇るから当時の裏舞台を紹介(これは2007年頃に書いた文書である)

―文書内容に催眠誘導が入っている危険もあり、催眠がとけた後でしか審議は吟味できないが、現時点までは斯様(かよう)なことを考えていたように思う。

《学生SY事件》
一九九七年一一月一四日。当時の日程表(日記)を見ると、腕立て(五回分割合計)二五〇回、ブリッジ三五回、スクワット五〇回、腹筋二〇回、柔軟体操。これらを十分に視聴覚教室で行い、格闘技上ベストコンディションに近い直後に学生SY事件が起きる。
この日、大学祭準備のために視聴覚教室に机などを借りに来た学生がいた。一番目のグループは常識的なマナーで入室し、私も事情を聞いて視聴覚教室の机を出すのを許可した。さらには、どのグループか忘れたが彼らが机を出すのを私自身が手伝いもした。ところが、最後にSYを含むグループが入ってくる。


あのときは何故(なぜ)か教師の良心が優先してしまい、暴力に訴えずかつ理想的な形で体を張ってしまった。今でもふと思うことがある。当時はまだ四四歳であり、もう一度来れば的確に急所のどこかに一撃を入れたのに、と。だが、友人類は「手を出さなくてよかったね」と言う。



《学生R事件》
解説の前に重要な二点、即(すなわ)ち私の体力と学生対応状況を記す。
体力に関しては、第二五章の体力測定値の如く五〇歳時ですら、腕立て伏せ連続二百回、体の柔軟さはずば抜けてあり、何と言ってもブリッジは鼻所か顎(あご)の一部まで着く。高校時代に受け身以外は少ししか習わぬ内に柔道部を退部したとはいえ、その後も柔道部の有段者などと格闘技の練習は道場でしばしばしていた。格闘技に狂っていたため、家でも独学で一定の練習はしていた。

攻撃技は、①打撃、②投げ技、③ストレッチ技、④関節技、⑤その他からなる。因(ちな)みに、私が実践で使用できるものを紹介する。
②は柔道では一本背負い程度しか知らないが、ブリッジを使った投げ技ではジャーマンスープレックス(原爆固め)、バックドロップ、横投げを始め各種スープレックスは過去何度も実践練習をしている。

柔道・空手の両有段者や、柔道の有段者で体重八〇キロ前後(現在四段程度)の友人類相手に、何度も練習をし確実に投げている。ブリッジを強調したのはそのためである。
③は最も得意な分野で、プロレスのコブラツイストなどは多数の実験をしている。
④の関節技は腕ひしぎ十字固めや、崩れけさ固めから腕の関節を取る技などは習ったのだが十分マスターしているとは言えない。ただし顎(あご)の関節技を含めて知らぬ訳でもない。
⑤は柔道で蟹鋏(かにばさみ)などは習ったが、それ以外でもパワーボム、バックブリーカー等々は全て実験済みである。

裏技(危険技・禁じ手)も幾(いく)つかは知っている。
①の打撃系だけは実践練習はできなかったが、独学で人間の急所(こめかみ、目、鼻、顎(あご)、喉仏(のどぼとけ)、鳩尾(みぞおち)、股間(こかん)、太股、向(む)こう脛(ずね)……)もきっちり知っており、確実にピンポイントでそこに一撃を食らわすことはできる。
何と言っても腕力以上に体の柔軟(じゅうなん)さ(③やブリッジ技に繋(つな)がる②)が最大の武器であった。こうした技(わざ)は、柔道や合気道などと比べて馬鹿にされるが、実践で十二分に活用できれば問題はない。

そして一九九六年頃から、主として体調不全と闘い、体を鍛(きた)える目的で、基礎運動として腕立て伏せ・ブリッジ・腹筋(ふっきん)・スクワット・エキスパンダ・縄跳(なわと)び・柔軟(じゅうなん)体操などを再開していた。因みに、駿台時代の不法侵入事件の頃(一九八七年)も防衛上こうした運動をしていた。そこで一九八九年は一九九七年以上に腕力があったことを強調しておく。なお、駿台時代や大学院時代の温水プール通いのときには、右記の腕立伏せなどの基礎運動は相当していた。また、こうした運動を休止していた頃ですら、腕力は通常の人とは比較にならないくらいにあった。

次に学生に対してであるが、駿台京都校時代は一週間に一日割(さ)き、質問日を設けねば処理できないくらいに学生に小(こ)まめに対応していた。岡短でも病人等には援助の手を差し伸べたり、希望者への学習指導を放課後や昼食時間などに行(おこな)っていたりしたことは言うに及ばず、アパートですら無料で行っていた。また手取り足取りで自己紹介時の英語指導等も行い、更に学生用に膨大なプリント印刷を岡短内で行っていた。

恩師・後藤先生宛(あて)への手紙に「……例(たと)えば、学生の要望もあり自主教材を作成するに当たり、家を早朝五時頃出て学校の門が開くのを待って、毎回プリントを印刷し、昼も御飯(ごはん)を抜きか印刷しながら食べ、授業後もサービス残業で印刷をし、そして無料で学生に配付してきました。(九七年度後期のみは業者による簡易印刷販売としましたが。)これらは、学生が常に見ていることでした。
さらに、教材配付日に休んだ学生には、一人当たりプリント、最高で(前期のみで)三百枚近く(一九九七年度後期や一九九六年度以前はこれより多い枚数)を、私が(一人の学生分に対して)一時間かけ閉じて手渡しました……」(一九九八年一月五日手紙・誤字脱字今回一部修正)と当時の風景を記している。
一九九五年度学生も含めて相当手取り足取り指導した学生もいたため、その後ろ姿は全学生が見ている。

こうした私の後(うし)ろ姿は腕力以上に強力である。当然、創設以来、一九九〇~一九九三年の休眠期を除き、一九九五年度学生でも余りに失礼な口のきき方をしてくる学生は確か一人もいなかった。一九九五年度学生は後期から豹変(ひょうへん)したが、それでも会話では確か丁寧(ていねい)に近い口のきき方を全員がしていた。他(ほか)の年度も休眠期を除けば同様である。よって、一九九七年に登場するSYは一九九五年度学生であったと事務員から聞いたが、それならばSYの名を騙(かた)った別人か学外者としか思えない。

一九九七年度に、前年や前々年の再履修(りしゅう)者と称する人間が横柄(おうへい)な態度を取っていたが、右記のことからあり得ず(実際に該当年度にそうした学生はいなかったため)、SY以外でもこれらの部外者・学外者を一九九七年度に放(ほう)り込(こ)んだと考えた。
映画説の刺客か、X1の刺客(しかく)か、若(も)しくは通常説ならば学外者としか思えない。ヤクザですら小学校のときに世話になった先生には弱いと聞くように、手取り足取り指導したときには枠(わく)を超えた反抗は存在しない。
これが教育現象に関する法則である。ある種の例外はあるが、この短大はその例外に該当しない。一九八九年の漫画読み学生の件も本来ありえない。



(D)2022年に思い出した裏話を追記(これは2022年頃書きかけた文書である)
―文書内容に催眠誘導が入っている危険もあり、催眠がとけた後でしか審議は吟味できない。この内容については2008年前後から我が家で言っていた記憶はあるが1997年文書との矛盾が幾つもあり催眠誘導で書かされた危険がかなりある文章である。

 例えば、予想すらできない体当たり人間(SYの名を語った偽物)が登場するや即、こうした反撃の具体案が頭に浮かぶ確率は大変低い。通常はあり得ない。
何の目的かは不明であるが、車問題同様に、この箇所は催眠誘導文書がかなり入っていると思われる。

構想1案
当時の構想は的確に喉仏(のどぼとけ)へ一撃(ぐうをして逆型で一撃)→相手の太ももに膝をぶつけ→後ろに回り、顎(あご)の関節を占める→次に、足を絡(から)めて寝技に入る。
最後の箇所を具体例で言えば、コブラツイストの形を取り、転び、相手の左足に絡めた私の左足で相手の動きを止(と)め、更に絡めた左腕で相手の動きを止め、左腕を脇から絡めて反(そ)り、右肘(みぎひじ)を相手の右頬(ほお)の関節にあてる。これで相手は身動きは取れない。同時に、体が相当柔らかい人間以外は常時痛みがあり、ギブアップしかない。


構想2案。
これ以上の貢ぎ労働には耐えられず、不可思議な動きを止めるため、新聞沙汰かテレビ沙汰にならねば無理と考えたような気もする。
そのときには、喉仏(のどぼとけ)に一発、次に髪の毛をつかんで窓ガラスにぶつけるという案が浮かんだような気が後にしたが定かではない。
当時の覚書の中に車との正面衝突を狙う…などがでてくることから、もう、このままでは飼い殺しにあい生き地獄であり、それに終止符を打つためには、新聞沙汰やテレビ沙汰(ざた)、場合によればパトカーなどが来ねば無理という思いもあったと後に思ったような気もする。しかし今となっては当時のこの案は定かではない。


構想3案
その逆に、私がコテンパンにやられてもかまわない。新聞沙汰、テレビ沙汰、…にならぬ限り、私は安楽死よりひどい飼い殺し状態が続くと考えていた時期の事件である。
それも当時は常時体を鍛(きた)えており、まだ45才である。
当時の私の裸像を再度掲載しておく。
服を着たときには着痩せするだけである。
記憶は定かではないと記しておくが、キーホルダーなどを…は覚書にあるため事実と思う。ただし、それはSY事件が起きた後で持参したのであり、先に持参していない。それもSYを学外者と考えていたからである。


構想4案
相手が相当強かったならば、強くは思えなかったが、その場合には指二本で相手の目を突くこともあり得たかもしれない。今考えると大変危険な精神状態であった。



それでは何故、実行しなかったか。
一番目は、私は暴力反対主義者であり、正当防衛でしかできない。そこで一回目に来たときに条件反射でしておけば良かったと思ったが、まさか、約15年の勤務から考えても、ポリテクカレッジ岡山でそんな学生がいるなどとは、夢にも思っていなかったことからのタイミングロスである。

実際に、ポリテクカレッジ岡山の学生では一切ないと今でも思っている。
ましてや、私の教え子であるはずがない。

ちなみにポリテクカレッジ岡山の学生も部外者も両方ともに、私が体を鍛えていることは知らなかったのであろう。特に部外者の方は。
ましてや、着痩(や)せと穏健な優しい顔をしているため、相手は気がつかなかったのであろう。だが、ポリテクカレッジ岡山の学生ならば、(休眠期以外は)手取り足取り指導をしたり、プリントを休んだ胃人の分まで私が自分で閉じたり…とこま目に面倒を見ていたときの後ろ姿がきいているため、ここまでの無法は人情から考えてあり得ない。この想定外の事項のためにタイミングロスで反撃の機会を失った。
なお、上半身裸になれば相手はびっくりしたであろう。しかし、裸にはなれぬ。


二つ目は催眠でストップがかかり、金縛り型で動きを封じられていた。
催眠行動もあるがその逆もある。


三つ目が、正当防衛に固執するため、一回目の機会を失ったため、もう一度体当たりに来るのを待っていたように思うが、相手が私への催眠か何かで私の行動を事前に聞いていたようで、私の先の行動案を察知して、口とは裏腹にかなり冷静に判断していたようである。
同時に、相手の重心の位置から言って、格闘技類のド素人のため「知らぬが仏」だったのかもしれない。
私は非暴力主義者である。体罰は反対であるが、個人的な偶発時の正当防衛権は仕方ないと昔は思っていた。

かなり頭にはきていたが、私の方も技のコンビネーションは考えていたようにも思う。
これらは、今(2022/12/13)書いていることであり、当時は何をしようとしていたかは定かではない。
構想1案ならば良いのであるが。これは相手は痛いのと動きを止(と)められるだけで相手は怪我(けが)はまずしない。


勿論(もちろん)、バックをとって後ろにそって投げることも当時はできたが、これは危険であり、場所によれば命にかかわるため、これだけはしないと思う。これは高校時代などに何度も柔らかいマットレスの上で実践練習をしており、確実に近く50才までならばできた。ポイントは体の柔らかさと、㞋(そ)るときに俗に言うヘソで相手を投げるという技である。
兎(と)も角、催眠ストップと、相手が私の手の内を催眠か何かで事前に調べていた気配があったことが、大事件にならなかった要因であろう。

逆に言えば、大事件になっていれば、私の監禁・強制労働生活は2000年頃には終止符をうてた。正当防衛でも、相手が死んでいない場合には、後遺症が激しくない場合には懲役25年などはある訳がない。だが何もしなかったので、1998年春ポリテクカレッジ岡山を辞めた後も、完全貢ぎ、監禁、強制労働は続いている。赤字貢ぎ労働被害は25年に及ぶ。


この箇所は、2022年12月13日に書いたのであり、当時、どういう計画だったかは明確には覚えていない。ただし、常時1案は持っているであろう。一案はまず相手は怪我をしない。だが痛い、同時に身動きを封じられる。一種の紳士的な護身術である。
今はもう無理であろう。年齢が古稀(こき)になったこと以上に、基礎トレーニングを2016年春からしていないのだから。常時行う基礎トレーニング抜きには第1案~5案は無理である。


もう、年であり、同時に斯様(かよう)な状況にはならぬと思うが、基礎トレーニングはそれ自体が楽しみでもある。娯楽でもある。もっとも、長期休止した上で玉にしようと思えば苦痛である。
ともかく、今度は健康維持のため、基礎トレーニングが再開できる日を待っている。基礎運動をやめたのは2016年春に美作市役所に電話するや否や、それを契機に催眠ストップがかかったためである。もう簡単には復活できないが、毎日しているときはそれ自体が楽しみであった。

長期の(最低でも1988年以降の)監禁労働・貢ぎ労働・強制労働に怒り、過労状態の上に生活保護への道まっしぐらで、その上にあの対応では…通常の人ならば傷害事件となるであろう。刃物を使ったり…と。
しかし、私は刃物は絶対に使う意思はなかったことだけが事実である。


再度言えば、この学生(正確には部外者)が体当たりした頃の私の上半身裸の写真を数枚掲載しておく。彼は私を格闘技派と知らなかったのであろう。当時の学生全員も知らなかったようである。当時、温水プールにいっていたならば、全部阻止できた。もし、1997年もプールにいっていたならば、私の裸像をみたならば学生の対応は変わったであろう。そこで映画説ならば映画関係者が私のプール行きを阻止していた。何度も行きかけたが汚い手で阻止された。


そういえば、学生SY(正確には彼の名をかたった部外者)は西宮市教育委員会時代の余り知らぬ(担当していない)生徒の真似(まね)だったのかもしれない。
当時の中学生はまだ体ができておらず上記の1~5案はする予定はなかった。中学二年生であったか、小学生並みの腕力と分析した。

私と格闘技ゴッコをしていた友人諸君も、相手をみれば同様に感じたであろう。
1975年頃の中学生の体当たり……時に、私がとったファイティングポーズは反撃ではなく、柔道の受け身同様に、相手が体当たりや構えたら、私も脳を通さずに条件反射で構えたにすぎない。
受け身同様の単なる条件反射であった。

他方、ポリテクカレッジ岡山での偽者、部外者は20才くらいの立派な成人であり、身長も私とほぼ同一のため、中学生のケースとは条件が全く違っていた。そこで、西宮市教育員会時代とは事情が全く違っていた。

更に、西宮市教育委員会時代は完全監禁労働や貢ぎ労働ではなかったし、そう考えたこともない。おまけに労基法違反や契約外労働を強制で押しつけられてもいない。そこも全く違っていた。今、考えればこの違いもかなり大きかったかもしれない。

西宮市教育委員会時代のは単なる受け身同様の条件反射であり、どうするかは完全白紙であった。しかし、かかってきても、腕力の差を考慮して、押さえつける程度であったと推測される。危険すぎる。ポリテクカレッジ岡山時代のは正当防衛公使を二度目の体当たりと同時に即座に行う予定でいた。
もっとも正当防衛は常にできるようにしておくことが望ましい。技と毎日の基礎トレーニングが不可欠である。それぬきでも基礎トレーニングには毎日すれば・できれば娯楽である。

1999年(ポリテクカレッジ岡山辞職後1年目)

99-012-19A-fA写真はクリックで拡大。二度クリックで巨大):後日顔つきに

2002年:02-001-24-f2写真はクリックで拡大。二度クリックで巨大)

2004年(写真はクリックで拡大。二度クリックで巨大)

 

(E)ポリテクカレッジ岡山時代の問題の本質(2022年記述文書も次回の1998年頃にまとめた文書とほぼ同一である。

 そこで次回の(4)の文書を参照願いたい。2000年前後には小渕恵三総理など議員・政府関係者数十人に書留送付している内容である。



正当防衛権の具体的プランを長々と書いたが、本質は、長期の貢ぎ・監禁・奴隷労働にあった。それも詐欺被害による労働であった。ここから逃れぬ限り、生活保護の道は避けられない状態にあった。その上での膨大な労基法違反被害である。

そして、さらなる貢ぎ労働を強いられていた。手口は、病院経営者がアルバイト医師に17時以降仕事をするな、しても賃金は支払わないと言い、他方で、故意に17時1分頃に死にかかった患者を山ほどアルバイト医師の目の前に置くやり方である。
ポリテクカレッジ岡山で言えば、各種無頼漢を学外から導入し、その後始末を私にさせ、それを映画や学校関係者にみせる。だが、それらへの対応のほぼ90%以上が時間外での処理に回され、私の膨大な労働を無料で搾取されるという手口である


学生SY(正確にはSYの名を語る部外者)事件もさらなる無料労働を私に強いたと感じたことが本質である。


この本質部分は次回の(4)を読めば理解できるであろう。

2023年1月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA