ふるさとの記録―5・拙著『フォットエッセイ・ふるさと』(1952~68年の村の子供達④)から(正式公開)
2020/08/02 1:06 下書き掲載 (後日、微修正と1950~60年代の写真を添付予定):現在下書き段階で、後日、微修正予定。
2020/08/02 12:20長い追記(紫色字の箇所):13:04 微修正
2020/08/05 10:54 写真と写真解説を追記。
2020/08/05 13:33 正式公開
2020/08/05 14:20 最後の父の写真解説。
1952~68年の村の子供達
《◇―1・まず水泳ありき》
《◇―2・1960年頃の世相》
《◇―3・1960年頃の子供達》
《◇―4・村の子供の自治と村のつどい》
《◇―5・再度、村アルバムについて》
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1999年6月1日記述( 2020年8月1日~8月 日微修正。ただし、追記箇所を明示した上で大幅追記)
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《◇―4・村の子供の自治と村のつどい》
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子供同士の集団の自治は小学校の1年から始まっていたことも子供会の項で記した。ちなみに子供会は小学校1年生から小学校6年生で構成し、親は一度も子供会の監視や指導にはこない。お金の管理からラジオ体操の統率からお宮の掃除の統率まで下ID村の小学生のみで行っていた。リーダーも、学校と異なり教師の指導や安易な誘導もなく本当の意味での選挙で選んでいた。
数年前に辞職したある短期大学校の自治会よりも、下ID村の小学校1年生から小学校6年生の子供会の方が自治の機能や統率力などはすぐれていたように思う。だから昔の子供は問題なかったかといえば先に記したように集団で石のぶつけ合いや、(肝試しでの)何かの少量拝借の真似(まね)行為をしてもいるが。
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《(※注1:2020/08/01追記)
子供会の行事は、会議、(アルバイトでの)神社掃除、(左で得た金で)クリスマス会、夏のラジオ体操、昼からの水泳、冬の火の用心回り、集団での登校などである。大人の参加は水泳時の見張りのみであり、後は全て子供のみで行っていた。ただし、ラジオ体操は親が一部準備をしていたかもしれない。
登校も、小学校六年生が指導・指揮をし、親は一切でてきていない。他も同様であった。
ただし、学習会などの勉学はなかった。私は本当に小学校の頃は勉学は学校で授業中にするもであり、それ以外は宿題がない限り、家では勉強をする必要はないと思っていた。実際に家では宿題以外は一分一秒たりともした覚えがない。
もっとも、「朝日年鑑」「読売年鑑」などは読んでいたが趣味・娯楽であった。小説はめったに読まなかったが、よく読んだ漫画と同一感覚であった。》
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次に小字(こあざ)・NT組合について記す。ちなみに、私が小字(こあざ)・NT組合(当時Y家が入っておらず代わりにU家とM家の)12件の家で座敷にあがっていないのはMSHさん宅だけか、あるいはこの家にもあがらせていただいているかもしれない。
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勿論、MSHさん宅の庭では何度も遊んでいる。YM家には子犬遊びと鬼ごっこや缶けりの関係で何度か、MHさん宅はYM家のみんなか誰かと一緒にTH君が生まれた頃に、KHさん宅は、KHさんの奥さんの弟さんと仲が良かった関係で、奥さんの実家にもあがらせていただいているはずである。
他の家は言うまでもなく全部座敷に(村の行事などの関係や子供同士の遊びの関係で)何度も上がっている。また我が家は本家であり、昔は大きな家の関係で1年に何度も子供も含めて小字(こあざ)・NT組合全員が上がっている。
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現在の小字・NT組合の子供でNT組合全部の家の座敷に上がった子が何人いるであろうか。ひょっとして0人ではなかろうか。また小字・NT組合全員で冠婚葬祭以外で、単に子供の日か何かで集まることはいつからか全くなくなった。
現在の溝(どぶ)さらいなどは、一軒から1人というのであるが、昔は何かの集いでは、幼児も含め小字・NT組合全員が集まっていた。だがいつからかそうした習慣はなくなっていた。
勿論、小字・NT組合全員での旅行や泊まりがけ旅行も皆無となった。昔は老人以外全員で行くのが当たり前であった。そうなるともはや上下関係も何もないどころか、挨拶(あいさつ)自体が逆に恥ずかしいというか・ありがた迷惑という感じすらしてくるのが人情であり、これが通常の心理となる。
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《 ※注2:(2020年8月1日追記)
溝(どぶ)さらいは1989年頃からであり、昔はなかった。何故ならば、今の溝(どぶ)に該当するミニ小川には幾多の生物が住んでいたからである。アメリカトチガニやシジミ、鯰(なまず)、メダカ、鮒(ふな)…と。溝さらいなどすると生物は死んでしまうからである。今は当然、生き物は一切いなくなっている。》
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当時のこどもや世相を知ってもらうため、お年玉について記そう。ただし、お年玉は小字(こあざ)NT組合ではなく、親戚間のみの話である。小字(こあざ)NT組合でも同組合の中の親戚のみであり、親戚以外ではそうした習慣は当時でもなかった。
親を除けば大抵は金銭ではなく物でいただいた。しかも、私などは、相手からでなく自分からもらいにいった覚えもある。一例を記せばMNHさん宅などは正月が旧正月であるため、旧正月にもらいに行っていたと思う。
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そして、この家のお年玉は毎年必ず干し柿が入っていた。またグリコのキャラメルを入れたお年玉の家も多かった。善(よ)し悪しは言わないが、当時は親戚関係のお年玉は金銭ではないのが当然であったような気がする。
(相当濃い親戚では)金銭も入っていたのかもしれないが覚えていない。
覚えているのはグリコのキャラメルのお年玉が多かったこととミカンも大抵の家がお年玉に入れていたような気がする。絶対的事実はMNHさん宅のお年玉に毎年干し柿が入っていたことである。これだけははっきり覚えている。ともかく大きなお年玉の袋か新聞包みの中に何が入っているか開けるまで興味津々(しんしん)であった。
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現在、お年玉と言えば現金か、現金に換算すれば相当な額の玩具(おもちゃ)などの商品が通常となってきている。私はこれを大きな後退であると考えている。私達の頃は仮につるし柿が余り好きでなくても「何だつるし柿(干し柿)か」とは思わなかった。
今の子は人からもらったものに「何だ、これか」という発想がでてきたように思われる。いや、子供以上に親の方が過剰な反応を示すことすらある。また数学が苦手と言いながらも、もらったものを子供のときから現金に常に換算してものを考え出してきてもいる。
昔の私達は、お年玉にグリコのキャラメルが入っていたならば、キャラメルの中のおまけが何か(車のミニ模型か人形のミニ模型か)これを気にしていた。
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ただ一つの事実のみ記す。
私も、子供の頃には現金でお年玉をもらうことは大歓迎であり、特に大きな金額をくれる人がいたときには 大喜びであったと思う。現金の次が自分の好きな駄菓子類であった。正直に言って、干(ほ)し柿は余り好みではないというより、やや嫌いな食べ物に近かった(今でも余り好きではない)。
だから干し柿をもらっても、当時は余り嬉(うれ)しくなかったかもしれない。当時とて貰(もら)う側は現金ファーストである。
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しかし、46歳(1999年)の今誰が私に現金をくれ、誰が食べ物等の品物をくれたかすらよく覚えていない。親や伯(叔)母・伯(叔) 父などには現金でもらっていたと思うが幾らもらったか皆目覚えていない。否(いな)、伯(叔)母・父類には現金だったかどうかすらよく覚えていない。
だが、当時余り好きでなかった干し柿などは30年経(た)っても、40年経(た)っても良く覚えている。同時に懐(なつ)かしい思い出でもある。万一、私が80歳か90歳まで生きていたとしても、毎年干し柿をもらっていたことは忘れることはないであろう。
同時に干し柿と連想し、MNH家の昔の家の構造や雰囲気や姿まで思い出すことは間違いない。これは理屈や善悪や「お年玉はこうあるべき」論抜きで、我が家の中では一番金銭に執着した私のもらった側として記す事実である。{干し柿は、その家のしぶ柿を干したものであり、購入したものではない。}
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勿論、物でもらっても何をもらったか当然思い出せないものもある。だから何を与えるかも考える必要があるかもしれない。それでも多くの家でおまけ付きグリコキャラメルやミカン等もらっていたことは良く覚えており、懐(なつ)かしい思い出である。
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ともかく、結論として、我が家では一番現金でもらうことを喜んだかもしれない私が、もらった側の現在の事実のみを再度記す。余り好きでないものでも、その家のシンボルとして毎年渡され続けると40年経(た)っても、恐らく生きている間中、懐(なつ)かしい思いでとして残るし、残っているということである。
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子供の頃は誰とて現金に飛びついたとしてすらそうなのである。ただし、言うまでもなく当時は余り好きでないものでも「何だこれは!」などという失礼なことや失礼な態度は誰もとっていなかったと思う。我が家界隈(かいわい)では一番そうした態度をとりそうなのが、少年時代の私であり、その私がそうであれば後は推(お)して知るべしである。
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《(※注3)【2020/08/01追記】
お年玉の箇所で延々と催眠を含めた挑発があった可能性がある。
ここ十年余り、我が村や私に関して、冠婚葬祭を含めて異常な反応がある。更に、検閲のごときに上記の文章ですら、過敏反応がある。ヒトラー時代を彷彿(ほうふつ)させる如(ごと)く、私の言論の自由への様々な異常・過敏反応があるというよりは、誰かがデマを飛ばし回わり、罠(わな)・謀略(ぼうりゃく)疑惑がある(最後の※注5参照)。。
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ちなみに、私が貰(もら)ったのは、全て親戚であり、ID村やNT組合でも、親戚以外からは一軒もお年玉はもらったことがない。私及び我が家だけがそうなのかどうかは他家は知らないため記述できない。私は1952年から1968年の村の世相を記録として残しているのである。後世に良かれと思って無料で記述しているのであり、不必要な挑発や検閲類は問題が多い。
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この十年前後、誰かがこの村で狂った策動をしているようである。
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ただし親戚間でも、お年玉の習慣はなくなりつつあるかもしれない。そうであれば好ましいことと思う。何故ならば、実態は昔は親戚だからという形でのお年玉ではなかったからである。子供と大人の人間関係としての「やりとり」であった。簡単に言えば、大人と大人の付き合い、子供と子供の付き合いのみならず、大人と子供の付き合いが昔はあった。これは、村でもいえた。
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そこで、大人と子供の付き合いがなくなった以上、昔の如く、お年玉類には私は抵抗が大きい。要するに、昔はお年玉その他でも、子供が直にお返しをしたか・いずれするという風習があったが、今はないからである。
例えば、従兄弟のAHは、修学旅行から帰り、私の父に「伯父さん、お土産(みやげ)」と持参したことがあった。私の長姉も、AHの父母を招待したがったり、実際に招待してもてなしていた。
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私も裏の小母さんに何かもらったときには、母ではなく、私がお礼をしようとした。例えば、時期はずれても、小母さんが小母さんのお母さんを見舞うときに、往復50㌔余りを車で送迎し、小母さんが見舞いを終えるまで外で数時間待機した。
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また、後に私が大きな部屋で・見晴らしがよく、しかも安いホテルを見つけたときには、AHの小父さん・小母さんを招待していたならば…と想像したこともある。もし、叔父さん・叔母さんが生きていて、更に、私に経済的自由・職業選択の自由があり、社会通念上の金があったならば実際に招待をしていたであろう。こうして、大人と子供自体の人間関係があった。
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しかし、今は、大人と子供同士の人間関係は親戚でも村でも廃(すた)れた。すると大人と子供の直の密な人間関係がない以上、私は昔の習慣はやめた方が良いと思っている。何故ならば、昔の関係は大人と子供のバーターの関係だったからである。これはNT組合全体にもいえた。お年玉は貰わないが、NT組合の親戚以外でも、大人と子供の直の人間関係は昔はかなりあった。善(よ)し悪しは別として、今は全くない。
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後日、記述妨害や挑発がなくなった頃に、昔の人間関係、大人と大人、子供と子供、大人と子供の人間模様を記したい。今は誰かXの錯乱(さくらん)・罠(わな)・謀略(ぼうりゃく)疑惑があり、他の仕事に支障を来すため記載できない。それ以上に、私の主張ではなく、歴史の記録を後の世代に残すために記載しているのである。本旨を損なうため、ここまでとしたい。
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当時の写真同様に、文書で当時の村及び世相の記録を、後世のため記しておこうとする、私の善意まで、罠・謀略・諸挑発で妨害する必要はなかろう。》
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(2020/08/02 11:52追記)二点追記をする。
私がNT組合のほぼ全部の家に行ったと言っても、私が特異なのではない。逆に言えば、当時のNT組合の子で(本家と呼ばれていた)我が家の座敷にあがっていない子はゼロ人と思う。子供の日などは、女衆が混ぜ御飯をして、我が家に村のほぼ全員が来ていたのであるから。
なぜ、そうしたことをしたのかは、当時はほぼ全家が農業を営んでおり、機械化以前の状態では共同生活をする以外に術(すべ)がなかったのである。葬儀も同様であった。
今はほとんどの家が農業をしていない以上、なくなるのは当然である。だが、村構造が変わったにもかかわらず、残存しているものがあり、それが今の村人の苦痛の根源の一つとなっている。
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もう一つは、物を貰(もら)って嬉(うれ)しいは小学校の頃までであり、中学校、特に高校以降は正直に書けば逆であった。
何故(なぜ)ならば、当時は、物をもらうと礼状を書かなければならない。それに将来お返しをしなければならない。だから、正直に言うと苦痛であった。礼状を書くだけでも苦痛であり、高校時代などは誰かに物をもらうと「かなわんな」と思うことがしばしばあった。
何かもらっても親か対応してくれるだろうと言う風潮が今日(こんにち)あるのだろうか。借金と同様で、もらった本人がその時及び将来返礼をしなければならないのに。常識上は、面倒くさくて苦痛なはずであるが。どうなっているのであろうか。
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おまけの追記。
私が小学校6年のときには、私が小学校の会長をしていた。本当は優秀な親友のMS君がするはずであるが、彼が私がなるように誘導し、彼は副会長か書記をやり、私を支えてくれた。
彼と彼の家の納屋の上で、彼のお母さんが御飯のこげたのをおにぎり{🍙}にしてもってきたのを食べた思い出もある。彼は私がつくった友人だと思う。
ところで、父の思い出である。私は、一定の時期から父親を子供の教育者としてはろくでもない父親と思うことが多々あった。だが、その父が私にくれたプレゼントでよいものが二つあった。それはいずれも友達である。
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一人は小学校時代に、村のTS君を紹介され、彼のお姉さん共々、誕生日を双方でやっていたことである。これほどすばらしい贈り物はなかった。
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もう一人は、中学校・高校時代の親友・HI君である。彼の父親と私の父が同じ学校の教師をしていたことがある。そこで多分、彼も父からのプレゼントであったかもしれない。彼の家にも、高校時代泊まりがけで遊びにいったり、大学受験では世話になったりした。
後者について言えば、私は受験勉強は図書館ではなく、彼の父が運営していた神社を借り切り、そこで勉学をしたことがある。今考えると非常識そのものである。もし、人が拝みにきたならば、私が一人で勉学をしているのを見て驚く{(O_O)}という常識はずれのことをやった。
彼が柔道部時代に一緒に格闘技で遊び、後に柔道・空手の両有段者となった人物である。要するに、父がくれたプレゼントでは(良い)友達をみつけてくれたことである。これが今考えると一番の贈物であった。
教育上の視点からは、ろくでもない父親でも、よいことを玉にはするということである。要するに、(後に考えると)一番良い贈物はお金でも、品物でもなく、良い友達である。後は干し柿などは覚えていてもお金は覚えていない。ただ返礼の文書などで面倒であった。申し訳ないが、これは本音である。
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《◇―5・再度、村アルバムについて》
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アルバムにふさわしくない長い文を幾つも挿入したが、これらは30年50年後を考えると、あるいは清書は相当長持ちするインクで行うため100年先を考えると資料として残すために記した。
同時に、1990年代の小字(こあざ)・NT組合の子供諸君も知っていても良いことでもある。これは小字・NT組合の記録と同時に歴史のミクロ的な記録として記した。
同時に教育には現在は関心ないが、それでもその方面に貴重な資料となるように事実に即して記した。現在の子供にとっては誇張(こちょう)のようであるが本当に私が体験したことである。
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ところで写真撮影となるとこうした要素が大きく響いてくる。
通常、時代の記録は地元の人の撮影が不可欠である。父の写真でも共同の稲刈り、田植の写真等々が幾つもある。
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しかし、私が人抜きで撮影した理由がこのアルバムの長い文章で分かっていただけたと思う。人の顔にID村の村の刻印(こくいん)が消え失(う)せたからでもある。大都会の下町でなく、ビジネス街には人はいても人はいない。しかし、人口が少ない村でも昔は人は多数いたのである。
だから昔は人を入れた自然の風景が撮れたのではなかろうか。過去の如(ごと)く、生きてきた私が人を撮れば『ふるさと』という写真であるにもかかわらず、ビジネス街の人の写真の趣(おもむき)の写真となり、もはやアルバムは『ふるさと』ではなくなるかもしれない。
しかし、それでもふるさとは美しい。それを強調するため、邪道(じゃどう)でも綺麗(きれい)な映像を強調して撮影した次第(しだい)である。
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◎万一将来健康を取り戻し、結構長生きすることがあれば、次は2020年か2030年にID村のアルバムを記録として後世に残すために作成する予定でいる。
そのときは人のいる風景か、新しく創造された自然環境か、あるいは都会化したID村かは不明である。高速道路のインタチェンジがK村、即(すなわ)ちID村周辺にできるという情報を受けており、最後の最悪シナリオもありうるであろう。
そのときには万一生きていれば 私はどこか廃(すた)れた所に住んでいると思うが、ID村のアルバム撮影に出張してくるようになるであろう。
尚(なお)、この10年余り闘病生活を余儀なくされたが、以上のようにして育った私がこんなに長い病気をするとは不思議以上のものである。
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《※注4(2020/08/01記述)
村アルバムは1999年で終了した。その後は二場面(二回を除き)撮らない方針でいた。理由は物事にはケジメが必要である。それ以上に、霞(かすみ)を食っては生きていけない。再起に専念したい。カメラは仕事道具であり、撮るのは商売用文献、拙著『旅に心を求めて』シリーズと『生命への畏敬』シリーズ関連のみとするとしていた。
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ただし、2020年か2030年頃、村が大きく変貌(へんぼう)していたならばその頃再度の撮影を検討すると上記の如く明記している。ところが2000年以降、催眠で撮影強制をさせられ、…ガタガタとされた。金などないが、闘争資金(弁護士費用)に手をつけさせられ…である。怒りまくるも…。それらは徐々に分かろう。
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本年2020年であるが、1999年頃と変化がないため撮影意思は一切ない。
同時に、村アルバムは村によかれと思って開始したが、その逆となり、散々な目に遭(あ)った。
2030年も未定である。
なお、このアルバムは私の死後50年か80年後の村の人間に役立つよう配慮しておこう。80年後くらいには肖像権もプライバシー権も無関係であろう。それでは無意味ではないか。今、父(1993年死亡)が1960年頃に撮影した写真をときどき紹介しているが、父の死後でも、十分意味を持っている。
ともかく善意で開始したが…。今はもう何も書くまい。
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また、村の行事や村人の人間模様などを後日、徐々に記録に残しておこう。それらはときには、写真以上に価値をもつこともあろう。
例えば、葬儀などは埋葬であり、葬式行列があり、…葬式の食事も女衆が…であり、組合抜きでは不可能であった話などである。今は業者が全部行い…とくに村の協力はいらない。
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結婚式も、昔は、村の女衆が食事をつくっていた。また、飲食に呼ばれて祝いも何もしなかったならば、相手は大赤字となる。大赤字で新生活をとは誰も思わない。簡単に言えば、結婚祝いとは飲食費用(会費)と同一である。もっともその前は村の銀行・講での金の貸し借りと同一の性格が祝いであった。今とは全く違う。今は結婚式に呼ばれないことも当たり前である。そうなると、結婚祝い一つでも、各家で様式が異なるため(NT組合用宴会をする家・しない家…その他もマチマチとなり)、混乱が蔓延してくる。
(私の考えは、「現在は全てパーティ方式・会費制が望ましい」である。招待状を出し、参加した場合には主催者が決めた会費を徴収する。参加しなかったり、招待状がなかったりした場合には何もしない。新築祝いでも、新築祝いパーティがあれば…パーティに参加するときは会費を…。出産祝いも、還暦祝いも、古希祝いも、全て祝いパーティをして、参加するならば会費を…。それらがない場合には、相手が自分の家のパーティに参加して会費をもらっていても何もしない、である。お返しや、返礼の祝いもここで死滅する。)
電話も、昔は村で共同で一軒のみ所有し、その家の人がスピーカーで案内をながしていた話などをしよう。「○○さん、電話がかかっています」、と。3百メートルほどはなれた家でも大急ぎで…であった。しかも、車も下ID村では一軒程度しか所有していない頃である。
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医師も往診は自転車かスクーターが主流であった。我が家の主治医は自転車できていた時代である。そうした世相を記録として残したかったのであるが、今回も激しい妨害に遭(あ)い、記述時間がなくなってしまった。
なお、こうした村構造の上に、当時の村制度ができたのである。こうした村構造がなくなった以上、当時の制度は必要なくなったが、それでも存在しており、それが人の軋轢(あつれき)の温床となっている。
詳細は拙著『旅に心を求めて―懐かしきの心を求めての旅(鑑真和上)』に記載しているのでいつか一部を紹介しよう。
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(※注5:2020/08/01記述)
まさかと思うが朝日新聞及び毎日新聞デジタルでも「平等・不平等か」何かとか「冠婚葬祭が…」であると、挑発の如き感じがした。具体的にはミスターオバマのTwitterを見ていると突如、私のTwitterにいいね類が二つ登場した。いずれも冠婚葬祭の箇所である。そして、即座に朝日と毎日新聞に自治会と統合失調症患者の問題が掲載された。両新聞同時にである。
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今回の問題で、朝日・毎日が私の原稿を意識して記事を記したならば大変な人権侵害の疑惑がある。もし、事実ならば、朝日新聞及び毎日新聞は私の人権侵害をしているのか、それとも、世のために私に協力をしようとしているのか明白に回答をせよ。
これらにより、当時の世相を記載する時間も奪われた。
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A小学校時代・写真はクリックでいずれも拡大。
【写真―1】:田植え風景=共同作業でないと昔は不可能。
そのために村落共同体社会を構築し、その上に各種制度ができる。
今は、田植えは機械化・更に農業をしていない家が多数となった。その結果、昔の習慣及び各種制度と村住民の生活が対立し、トラブルの温床となっている。
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【写真―2】:各家庭での生き物(次回の「ふるさと-6」村で住んでいた生き物で何枚か追加)
【写真-3】・(参考)高校一年の時(昔は各種興業があった。)。写真は1968年頃か。
私の小学校・中学校時代は、大相撲の巡業が来たり、プロレスが来たり、…村でも公民館などで各種地方巡業があった。小学校時代のものがないため、やむをえず、私が16才(1968年)のときものものを掲載。場所は津山市。(このときのアントニオ猪木さんとジャイアント馬場さんの写真もいつか公開。ただし、私と一緒に写ってはいない。私と大木金太郎さんとの会話内容は残念ながら覚えていない。)
ちなみに、中学校時代は親友IH君が私よりはるかに成績がよく、その代わりに、腕力や格闘技の才能は私の方がはるかにあった。ところが、高校時代以降は逆となった。彼は柔道・空手の両有段者となり…私は今日の如(ごと)くに。だから随所(ずいしょ)に書いている。私は「道を誤った」のだと。後悔先に立たず。本当ならば、私が柔道?段、空手?段、合気道か少林寺拳法か何かの?段だったのだが。
なお、彼は正直であった。教師が「頭を鍛(きた)えよ」を勘違(かんちが)いし、木のゴミ箱か何かに頭をたたきつけ、頭突きの訓練を…と。嘘ではない。冗談と思えば本人にきいてみるがよい。ちなみに、頭突き(ヘッドバット)は当然、格闘技の正当な技でもある。上記の写真でも当時が分かろう。大木金太郎氏は力道山の命令もあり、ヘッドバットの名手であった。
※大木金太郎(おおき きんたろう、1929年2月24日 – 2006年10月26日)は、大韓民国(日本統治時代の朝鮮)・全羅南道高興郡金山面出身のプロレスラー。本名は金一(キム・イル、김일)。身長185cm、体重120kg(現役当時)。生年については当初1933年と公表していた。…。韓国では「大韓プロレス」のエース兼プロモーターとして、韓国プロレス界の発展に尽力した。{Wikipediaより}
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【付録写真・プライベート用】
【写真―4】高校一年(16才頃:1968年頃)。柔道部にも所属したが、16才ではまだ筋肉はつかない。大木金太郎さんと一緒に写った頃。場所は村の川付近。
上記の如く格闘技狂であり、高校一年時は柔道部にも所属し、毎日腕立て伏せ合計500回、ダンベル、エキスパンダ、スクワット、腹筋、ランニングをしていた。しかし、16才では肉はつかない。下に参考までに1999年(46才)と2004年(52才)時のものを掲載。
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【写真―5】ポリテクカレッジ辞職一年後:クリックで拡大可能。
1999年8月29日セルフタイマーで私が撮影:46歳後半:服を着ると着痩(や)せするタイプ。ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)講師時代も、うつ病をはげしくした時期を除き、この体である。いや、より若いからもっとすごかったか。ただし、力をいれないときは通常の肉である(詳細解説は写真6)。私の性格が温和・やさしいため、学生が勘違いしていたようである。もっとも、大学校の教壇では、予備校講師と同様に、教師の腕力は通常は無関係のはずであるが…。
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女子高校教師時代も当然、これに近い体。もっとも、温水プールでのトレーニングを毎週おこなっていたことや、ときおり階段を上り下りのランニングなどで、腕力のみか体のバネも強かったが、女子高校生相手ではどうしようもない。いくら女子高校生が授業中に反発してきても、裸を女子高校生に見せる訳にもいかない。
ただし、女性には絶対に暴力を振るわない方針であり、今日まで実行しているが、万一、女子高校教師時代などに本気で殴れば、病院行きの大怪我か…瀕死(ひんし)の重傷となりますよ。勿論、人間の急所類は知っており、的確に決めることもできます。小学生や中学生前半ならば死亡すら起こりかねません。
尤(もっと)も、再度言えば、私は暴力否定派、かつ、理性がある限り、万一正当防衛でも生徒相手では当然手加減をします。(生徒・学生が先に暴力行為に及んだという)正当防衛のみであり、それも女性はいうまでもなく、小学生や中学一年生程度相手では当時の腕力では不可能です。危険すぎました。運良く、正当防衛もせずにすみました。
ちなみに、どの教壇でも、教師の恐(こわ)さで態度を使い分けするならば、「お前らこそ、公平さがない。極論すれば差別者だ」となる。
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【写真―6】53才頃(服を着れば着痩[や]せする)。誰も私が腕力が強いとは分からない。クリックで拡大可能。
2004年7月20日セルフタイマーで私が撮影。04-013-14:52歳8箇月。
格闘技の理想は、通常はしなやかな筋肉、力を入れたときだけ、筋(すじ)を中心に筋肉が浮き上がる形がよいとされる。重要なのは体の柔らかさである。そこで、ストレッチが一番重要となる。だが、腕立て伏せ以上にストレッチは難しい。理由は面白(おもしろ)くないから。面倒だから。だが、トレーニングで一番重要なのが準備体操に似たストレッチ類である。
※【写真5と写真6】のみ、「アナログフィルム」→フィルムスキャナー→デジタル変換の写真。他は写真プリントをフラットスキャナーでデジタル化。いずれもTiff入力後に加工し、その後で圧縮Jpeg転換。なお、写真5はフィルムはネガフィルム、写真6はポジフィルム。
私の顔の写真を公開しても、各地で騒動が起こらねば公開検討。海外にいけば私の警備の人が大変なのです。国によれば今でも警察のみではなく、軍隊が登場します。もう、海外に行くこともない可能性もあり…公開してよければ公開を検討しますが…。
相当年数に亘り、セルフタイマーで私を撮影していますので、プロフィールか自伝若しくは回想箇所に随時掲載予定。
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【写真7・プライベート付録】人間違い・家間違いの可能性を懸念して。
ふるさとと無関係であるがここに掲載後にHPプロフィールなどで掲載予定。父は元小学校教師。
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●この写真の解説と世相は後日検討。
1950年代や60年代前半当時は、「お父さん、僕と遊んでくれない」という家は田舎(いなか)ではまずない。その逆はある。「お父さん、お母さん、元気で昼は留守がよい。さあ、友達◎◎君と遊びに行くぞ…」と。
ゲームどころかテレビもない時代、遊び相手の友達は山ほどいる。18才頃の人間が彼女とデートを楽しむか、親との遊びを楽しむか、と同一である。
ただ、小学校の頃は彼女ではなく、男友達が…である。これが当時のデファクトスタンダード(標準)である。大正時代や明治時代でも同様であろう。世相と絡(から)めていつか解説しよう。
この写真掲載目的は「人間違い」が強調されているため、そこで、私のみか私の父とZ氏の父などの人間違い類を懸念しての掲載でしかない。
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