ふるさとの記録―4・拙著『フォットエッセイ・ふるさと』(1952~68年の村の子供達②)から

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ふるさとの記録―4・拙著『フォットエッセイ・ふるさと』(1952~68年の村の子供達②)から

 


2020/07/23 0:29下書き掲載:0:38微修正 1:22修正

2020/07/23 16:00頃から一部清書作業。明日、当時の写真を三枚つけて正式公開予定 17:51清書の続行

2020/07/24 1:14清書公開。同時に写真を四枚つける。1:38微修正。1:43微修正。2:16微修正

 

 


1952~68年の村の子供達

《◇―1・まず水泳ありき》

《◇―2・1960年頃の世相》

《◇―3・1960年頃の子供達》

《◇―4・村の子供の自治と村のつどい》

《◇―5・再度、村アルバムについて》


1999年6月1日記述(2020年7月16日~7月24日微修正。ただし、追記箇所を明示した上で大幅追記)

 


《◇―3・1960年頃の子供達》


私が大学を卒業した頃、「校内暴力」という言葉が流行し、次に「いじめ」という言葉が流行した。
そして最近は「学級崩壊」「学校崩壊」なる言葉が流行している。
どうして、こうした問題が最近起こったかなどという風潮がある。
昔の子はまじめで問題がなかったのかとなる。
結論から記す。

悪いことをしても真面目(まじめ)な子として受け取られたのが昔である。
先に、私が姉の金を拝借(はいしゃく)と記したがこれは泥棒とも言えるかもしれない。
しかし、私が100円(現在の金で1000円以上)拝借しても大字(おおあざ)ID村や小字(こあざ)・NT組合の人は誰も私を非行児とは思わない。
また、悪いことというよりも悪戯(いたずら)をして、他の家に迷惑をかけ、手を焼かせ我が家に苦情が舞い込んでも、非行児と思われなかった。


我々の頃校内暴力やいじめなどがなかったかといえば、川を挟(はさ)みH村の子供たちと集団で石のぶつけ合いをし、本当にぶつけられた子もいた。
同じく従兄弟(いとこ)のNHも川ではないが、道で誰かに石をぶつけられ血を流したことも確かあったと思う。

また、これまた誤解ならお許し願いたいが、AHさんか・SHさんか・誰かの指導の下で集団でぶどう等の軽い拝借行為をしかけた経験もあるような気がする。正確には肝試(きもだ)しでその真似(まね)をした覚えがある。簡単に言えば度胸試しで、その真似をして遊んだのである。ちょうど、肝(きも)試(だめ)しに夜に、山の上の墓に一人で行けるかどうかが、どこかよその村で流行(はや)ったという噂(うわさ)を聞いた時代の頃である。
そのときに、猟銃(りょうじゅう)か何かで脅(おど)かされたか、何かで「逃げろ」のかけ声で必死で逃げた覚えもある。
現在の子が、このようなことをしたならば、校内暴力やいじめや学級崩壊等以上の大問題とされるであろう。

《【2020/07/22 追記】
現時点での記憶では葡萄(ぶどう)はとっていないはずである。なぜならば、私は小学校の頃はぶどうがやや嫌いに近く、今でも種ありぶどうは面倒(めんどう)でまず食べないからである。また記憶上も、とる真似をした段階で、猟銃(りょうじゅう)の音か何かで逃げた覚えがある。
なお、隣の村の人が子供を脅すために、猟銃を撃(う)つこともあるはずがない。たまたま、猟銃の音が聞こえたので面白がって、誰かが『逃げろ』と言ったのであろう。》


暴力を伴う喧嘩(けんか)も当時の子供でしていない子は少ないのではなかろうか。私は当然何度もある。もっとも、小学校までであり、中学以降は殴り合いなどはしていない。例外は、高校時代に柔道部の仲間と格闘技ごっこをした程度である。ごっこと言っても結構痛かった。高校卒業後一人は柔道三段以上となり、一人は柔道・空手の両有段者となった。高校時代も既に柔道の初段にはなっていた人間が相手である。隣家のMHJさんもあるであろう。しかし、MHJさんなどは誰からみても優等生であり、また実際そうでもあった。従兄弟(いとこ)の、AHさんしかりである。(いや、AHさんは、今考えると、そう見えるだけで、していない可能性がある。)
さらに中学校の卒業式のとき等はお礼参りを警戒し、教師が集団で監視をしていた頃の話である。お礼参りとは、下級生が、自分をいじめた上級生の一部に仕返しをすることを意味していたと思う。

《【2020/07/23追記】
いずれ『閉じた窓にも日は昇る―付録編』で記すが、上記の喧嘩(けんか)類は、映画説か何かで、私の父が仕組んだ疑惑が高い。ちなみに、それでも、私は自分の方から先に手をだした覚えがない。父か誰かが、相手の友達に頼んだのであろう。実際に、彼らが私にけんか腰で怒る理由がなかった。いずれも、相当腕力が強い人間であった。小学校のときでも相手は170センチ以上で、70㌔を超える人もいた。そこで、彼らも恐怖心なしに、父か誰かに頼まれたことをやったのであろう。更に、その後、そうした友とも、長期友好関係があり、喧嘩の後で双方でいがみあっていなかったと思う。

こうした不思議なことが小学校時代にも玉にあった。これらの不思議なことを『同上書』でいずれ記そう。今から考えると、上記のブドウに名を借りた肝試しは父か誰かが映画説か何かで計画した疑惑がある。人数は十人ほどで、いきかけ、猟銃(りょうじゅう)の音がするや、「逃げろ」であり、余りによくできた話である。

ただし、こうした不思議(ふしぎ)なことが、現在と違うのは昔は玉にあったのであり、1984年頃からはない日が玉にあると逆転している謎がある。》



ところで当時の田舎(いなか)の子は一般に腕力(わんりょく)が現在の子より強かったと思われる。
何故(なぜ)ならば、腕力などは昔は自然と鍛(きた)えられたからである。先の箇所で記した薪(まき)割り、山で木を切り持ち帰る。川で渦巻(うずまき)に逆(さか)らい、そこを逆に上流へと泳いでみる。米俵(こめだわら)をかつぐ。
缶(かん)蹴り、鬼(おに)ごっこ、「かくれんぼう」とて全力で走る訳である。押しくら饅頭(まんじゅう)もあった。娯楽の一つであった縄(なわ)跳びでさえれっきとしたトレーニングである。相撲(すもう)もしかりである。


自転車でも、津山市大崎の福力の祭り時などは、従兄弟(いとこ)のAHさんの自転車の後ろに乗せてもらい二人乗りでいったこともある。往復40キロ近い距離である。途中交代をしたと思うが定かではない。

私も、逆に、AHさんの弟・NAなどを乗せた経験もある。自転車に乗せていると、突如軽くなったことがある。振り返ると、NAが自転車から落ちていたこともあった。なぜならば、当時の道は舗装していないため、自転車が道のくぼみで跳(は)ねたからである。

【写真―1】(2020/07/24 1:07、当時の道の写真を掲載)

クリックで大、二度クリックで更に大。写真のゴミ取り・黴取りは後日。時間がかかるのです。

小学校時代―醜(みにく)い私。自称Ugly Taka-chan

【写真―1】(当時の道の写真を掲載):小学校の頃の私(父が撮影)。かなりふっくら型であった。高校直前頃から大きく体型が変わる。突如、やや痩(や)せ型になる。次回などに掲載予定。

本題に戻り、この道が当時の主要道路。ここを鼻が出たバスなども通っていた。舗装(ほそう)はされていなかった。バイパスもなかった。



また、学校では忘れ物をすると家まで取りに帰らされたこともある。小学校までは歩いて往復4キロ、中学校では自転車で往復8キロである。私は多分、人より多く経験したのではなかろうか。
だが、これまた一向(いっこう)に苦にならない。学校で授業を受けるよりはましである。
こうして一日中運動していた。

他の遊びも含めて、1990年代とは異なり、全てと言ってよいくらに、外での遊びであった。即(すなわ)ち、遊んでいる間中、身体を使っていた。要するに。遊びは全てに近く足が・腕か・どこかの運動であった。同時に、遊ぶ分量が極端に多かった。
水泳は全体で昼1時から2時間、その後で隠れて遊泳禁止の深い所や渦(うず)の巻いている所で夕方までしていたことが多い。冬はおしくら饅頭(まんじゅう)や缶蹴(かんけ)りで絶えず走り回り、これまた半日近い分量をこなす訳(わけ)である。


さらに、次のようなこともあった。先のAHさんが中学のときであったと思うが、川でガラスを踏(ふ)み、病院で縫(ぬ)わねばならぬほどのかなりの出血をしたことがあった。AHさんは出血をみてある意味で喜んでいた。格好(かっこう)がよいということである。「これが男だ」と言わんばかりであった。

後に、私が中学三年の頃、川の渡し場(わたしば)と呼ばれている浅瀬(あさせ)の、上流の「ひもの」の崖(がけ)から頭から川の深い所へ飛び込(こ)んだ。ところが、落ちる箇所の計算を少し間違え、深くない所へ飛び込んでしまったことがある。その箇所では、岩が川の下ではあるが、深くないところにあった。尖(とが)ってはいなかったものの、頭をそれにもろにぶつけ、同じく何針か縫うという大出血をした。

そのときに、一番気にしたのは帰りがけに血が止(と)まったらどうしょうかということであった。AHさんと同じく、せっかくの大出血(頭・胸・腹・足まで全身血だらけ)を人に見せられないからである。実際、家に帰って伯母(おば)などに見せたが、そのときには対岸からID村側に再度泳いで戻る際に、血が川の水で相当流され、当初の大流血の状態は十分に見せられなかったかもしれない。それでも相当出血していた。豪快(ごうかい)なのでなく、これらが少なくとも私の周辺では当時は当たり前であったように思う。
ちなみに、後で糸を抜く時は昔は痛かった。それは抜くまで知らなかった。

【写真―2】(2020/07/24 1:07、当時の飛び込んだ川の崖の箇所の写真を掲載)

クリックで巨大

写真は16才頃。中学校時代にこの崖から頭から飛び込み全身血だらけ…と。

▽クリックで大

懲(こ)りて、足からに戻した。

【写真―2】(当時の飛び込んだ川の崖の箇所の写真)。
写真は高校一年頃(16才頃)である。もっともこの位置から頭から飛び込んだのは中学校時代である。この崖から通常は足から飛び降りるのであるが、一度だけ魔(ま)が差し、この位置から頭から飛び込む。この崖付近は岩の地層で浅瀬であるが、岩が切れた所から、突如深くなる。脚から飛び降りるときは相当下まで落ち込むため(一気に背が立たない所まで落ち込むため)、当然、そうなると思い飛び込んだら、浅瀬の岩に頭をぶつけることになった。水の中でも音が聞こえた。ゴツン、と。否(いな)、ガーン、と。

高校時代人権活動に関わると同時に、柔道部に所属していた。高校時代の大半が丸坊主で学生服を着ていた。ところが、自分の意思とは逆の意思にある日突然支配される。「人権活動、柔道部、それに受験勉強は無理だ、前二者をどれか一つにせよ」と暗示があり、柔道部は高校二年になる前にやめた。スポーツ音痴(おんち)の私が一番適したスポーツでやめたくなかったことを覚えている。この現象は、当時も不思議であった。今考えると、多分、催眠型で無理矢理やめさせられたのであろう

 



それでは、当時は何故(なぜ)これが大問題とならなかったか。要するに石のぶつけ合いの暴力行為も、葡萄(いちご)等の拝借も遊び、悪戯(いたずら)の延長として、村の人は怒りながらもみていたからである(もっとも、今振り返ると実際にはとっていない記憶がする)。

非行児と思われなかったのは、怒られた時には誰も恐縮(きょうしゅく)し、ひたすらに謝るのみだったからである。まさに平身低頭である。誰も口答えなどをするわけがない。自分らがしてはいけないことをしているのであるから。また、当然。日常的に挨拶(あいさつ)はきっちりしており、顔も覚えてもらっており、これらから悪戯(いたずら)として考えられたのであろう。

さらに、被害者の家でも子供がおり、その子が加害者的な悪戯(いたずら)をすることもありうるため、それもきつく言えない原因と思われる。付け加えて、《◇―4》で述べる、子供間の子供会の如(ごと)く結びつきがあり、同時に大人同士の結びつきもあり、大人と子供の結びつきもあったからでもある。

ちなみに葡萄(ぶどう)などの拝借(はいしゃく)を命じられたといっても、その家が困るような大量の拝借などは当然思いつきもしない。葡萄ほしさでなく、見つかったならばどうするか、という肝試(きもだめ)し的な次元で行おうとしたのだと思う。

《【2020年7月22日頃追記】
今(2020年)考えると、結果として盗(と)っていなかったと思う。この文書を書いた頃(1999年頃)は、持ち帰りはしないが、一粒か二粒、肝試(きもだめ)しでその場で食べたという雰囲気で書いたのかもしれないが、現時点で考えるとそうした記憶はない。誰かが食べに行こうかと言って行きかけた頃に猟銃の音がして、ただただ逃げたのが事実と思う。それも、そうした行為はその一度のみと思う。肝試しの遊びで誰かが考えたのであろう。》

石のぶつけ合いも危険ではあるが敵意ゼロでのぶつけ合いである。
また、(石投げではないが)我が家でも何度か苦情に来られたり、怒られた家に詫(わ)びに行かされたりした経験は当然ある。覚えているのは田にある藁(わら)ぐろに飛びけりをして、少しくずしたときではなかろうか。親を伴わず、わびに一人で行くと、相手の家は笑いながら、「よく来た」と褒(ほ)めてくれて、飴(あめ)をもらったような記憶もある。しかし、それ以外にも集団で詫びにも行っており、ほめてもらったのはどの件かは定かではない。

なお、今でも私に対して怒られているか、それとも、怒った家自体が「そういう子がいて困ったが隆政ちゃんではなかったでしょう」となっているかは不明である。恐らく、後者の可能性の方が高い気がする。

ところで、不思議なもので子供間の上下関係は当時以下のようになっていた。二つ上くらいには、余り極端に逆(さか)らえば怒られるため逆らえない。しかし、五つか七つくらい年上になると、今度は何を言っても怒られない。逆(ぎゃく)に、かなり年上の人間の方が年下に手を焼き困っていた。そこで相当年上と相当年下の間に、手を焼く子供よりも二つくらい年上の人間に命令し押さえさすというような構造であった。


【2020/07/23 17:12追記】
《我が家前を先ほどバリバリといわせて通った単車を見て思い出した。そう、岡山短大{厚労省所管のポリテクカレッジ岡山・現能開大中国}の学生でこの単車と同様なのがいた。ただし、昔との大きな違いがある。昔は、そうしたことは人のいないところでやる。隠れてやる。見つからないようにやる。ところが、私が1998年に辞職した岡山短大などでは、敢(あ)えて、見つかる所でやる。
岡山短大の話をすれば、単車のバリバリ音ならば、事務室の斜め前で、学校長室の前でやる。
学校や教師の気を引こうとする、駄々っ子型行動様式が、駿台を辞職するやいなや、同校でみられだす。駿台辞職まではなかったのであるが。誰かが偽(にせ)学生などを入れたが如(ごと)くに駿台講師辞職の一年後の1989年から突如様変わりした。もっとも、職員の一部は何故か駿台辞職と同時に1988年度からコロッと態度がかわった謎もある。

学生の方は『ブリキの勲章』{能重真作著、民衆社、1979年11月)}の世界かもしれないが、私は学校に生活指導にいっているのではない。第一、専任確約も、騙(だま)され一貫して非常勤講師に据(す)え置かれた。「非常勤講師に生活指導を押しつけるならば、授業時間以外に、別途賃金を出せ」が当時の一貫した思いであった。霞(かすみ)を食っては生きていけない。
その前に、大学校であり、生徒ではなく学生のはずであるが。ちんぷんかんぷんな話である。》




【★ここ以降は2020/07/21 19:54追記: 2020/07/24 1:18:修正&清書★】

上記以外の遊びとして、たこ揚げ、羽子板、バトミントン、チャンバラごっこ、エッセイで紹介した「ぺったん」などがあった。馬跳びも思い出した。さらに、小学校時代はソフトボールも大好きであり、川の近くの広い箇所で田舎の子供達でソフトをしていた。嫌いになるのは前回記した中学校時代の件からである。また、女の子の間では「おはじき」もあったと思う。ゲームは当時はなかった。幼少の頃はテレビすらなかったのであるから。

そして、自然にある食べ物は遠慮なくとっていた。例えば、蛇イチゴ、イタドリ、あけびなどである。更に、アメリカトチ蟹(がに)、ナマズ、フナなどである。
どこにいたか。AH家の下の溝というか小川のミニ小川である。今は、毎年(排水溝清掃の名の下で)どぶさらいをしているため、魚など住める訳がない。水清ければ魚(うお)棲(す)まず。( Clear water does not breed fish. )
小川ではないが、川にはウナギもいたことがある。懺悔(ざんげ)で記す。AHさんと川にモジ(鰻籠・うなぎかご)をつけて、早朝5時頃に、かかった鰻(うなぎ)を取り出し、近くの温泉宿に売りに行ったこともある。勿論(もちろん)大人抜きでの話である。何故、懺悔(ざんげ)かは当時は川で魚を捕るのは免許がいったかもしれない。それとも、鮎(あゆ)だけが免許がいったのかもしれない。後者ならば、問題はない。私は鮎(あゆ)はとったことがない。

私がヤンチャだったのか。違うと思う。つきあいである。
今回は、やんちゃな話を書いたので、次回は、村の子供のまじめな面も記そう。
子供会、廃品回収、村を回る火の用心、集団ラジオ体操などは、当時は大人抜きで、子供だけで行っていた。大人は監視も含めてゼロである。小学校6年生が統率するのである。なお、この子供会は小学校1年から6年生までで、中学校からは子供会から外れるようになっていた。

ちなみに、小学校の頃はヤンチャな性格と村の子供達との付き合いで色々としていただけであり、それ以外では真面目だったような気もする。
中学校に入ってからは、授業妨害その他をしている生徒の大半と仲良くしていたため、私もそのグループと思われていた。当然、中学校から成績はどんどん下がる。学校授業の予習・復習をする習慣もなかった。また予習・復習をしなければならないことすら知らなかったこともある。勉強は学校の授業中にするだけでよいと思っていた。
そこで、小学校の頃は、家で、学校の勉強は宿題以外はゼロ時間であった。学校の予習・復習を意識しだしたのは中学校3年頃ではなかろうか。しかし、一貫して正義感は強かったのであるが。
中学校の頃は、学校まで往復8キロの自転車通学であった。道は今と異なり、片側一車線の、舗装(ほそう)されていない道である。可能ならば一枚写真をつけよう。(2020年7月24日掲載。)

1968年に高校に入ると、今度はヤンチャに近いことをしても、「おまえはおもしろい性格をしている」とか、中学校時代ならば教師に逆(さか)らっていると思われた言動でも、「おまえは冗談がおもしろい」と教師の間で評価される。豚もおだてりゃ木に登る( Even a pig climb a tree when flattered! )と言う訳でガラッと変わる。体型までかわっていく。小学校の頃は、肥満児一歩手前が、ほっそりとしてくる。
そして、実際に真面目(まじめ)になっていく。
人権問題活動に参加したのも、この頃である。大きくがらっと変わる。性格も小学校時代は、社交的であったのが、高校時代から徐々に人見知りをするようになり始める。(人見知りのため、親しくなれば…であるが、親しくなるまでに時間がかかるようになる。)小学校時代は、親など抜きで、知らぬ大人の人に鳩(はと)や切手を売って貰(もら)う交渉を友達と平気で直(じか)にしていたのが、高校以降は知らぬ人には人見知りするように逆転してゆく。流血も逆となる。昔は「男の勲章(くんしょう)」、後には「誰でも嫌だろう」となる。


その結果、早大大学院を修了した後で、教壇に立った女子高校(当時、真備高校と言っていた)では、生徒対策で弱ったときなどに、当時の教頭先生などが「浜田先生はずっと真面目で優等生だったから、生徒の心理がわからない」など言われ続け、いつのまにか、私自身もずっと真面目だったと勘違(かんちが)いをさせられる始末であった。

高校に入り、各種人権活動などに参加し、大きく変わる。同時に、受験勉強も多少意識させられる。中学校の頃までは、大学などは頭にないが、父が小学校の教師の関係で私も学校教師になることを意識したかもしれない。しかし、小学校・中学校の教師の出身大学などは生徒は誰も知らないため、学校などはどこでもよいと考えていた。有名大学に進学したいなどは一度も考えたことがなかった。

だが、高校時代は当時は進学校、正確には田舎(いなか)の進学校のため、受験を意識させられる。しかし、考えはこうであった。父が教師を中途退職し、家に金がないため、大学は授業料の関係で国公立大学がよい。だが、教師の場合にはどこの大学でも無関係のため、偏差値が高い大学ではなく、偏差値が低い大学がよいであった。要するに、国公立大学の如(ごと)く授業料が同一ならば、偏差値が低ければ低いほど、通る確率が高くなり、受験料と交通費・宿代が無駄にならないからである。
しかしながら、人権活動などを、入試の一週間前までしていた関係で、多教科入試ではない私大を受けることになった。詳細は、拙著『閉じた窓にも日は昇る』(Kindle、KOBO各百円参照)。

なお、高校講師時代や大学校講師時代などのみか、私が小学校・中学校時代もずっと真面目(まじめ)でおとなしい優等生と勘違いを…させられたが、大学講師を辞めて、家に監禁されてからは逆のデマが飛んでいる気配も感じて参考までに付け加えをしておいた。
大学卒業(関西学院大学卒業、早大大学院修了)から大学校講師を辞めるまでは、教育委員会で嘱託として中学校へ、女子高校教師、大学校講師、予備校講師、日本の大手模試二社(駿台模試と進研模試と)模試作成…と教育産業に携(たずさ)わっていた人間である。小中学校時代は腕白(わんぱく)、後には人見知りと真面目(まじめ)すぎる人と長期思われ、大学校講師辞職後はまた逆のデマが…で一連の思い出を長めに記しておいた。後に著書類に収録するときには自伝類は別の「回想録」に回し、村アルバムからははぶき、村アルバムには世相類のみ収録しよう。

なお、大学の偏差値など気にしなかった私を、つまらぬ偏差値などのマインドコントロールを受けたのは大学に入学してから1、2年間であろうか。その後は再度、偏差値などはつまらぬと相手にしなくなっていく。頭が正常となっていく。詳細は、私が書いた「偏差値のイドラ」参照のこと(現時点では、完全清書ではないが、下記に収録している)。2014~15年頃などに連載した時は、結構評判がよい原稿であった。
さて、次回からは再度、村の話に戻り、当時の姿の紹介に専念しよう。

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偏差値のイドラの目次アドレス収録箇所は以下。この中の五回「現代のイドラ・偏差値批判(その一):偏差値とは何か」 から第十回「現代のイドラ・偏差値批判(その六):偏差値の出鱈目さ?」が偏差値のイドラである。
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教育関連―毒饅頭の教育批判(安らぎBlog所収):目次アドレス集。
http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?item=%E5%AE%89%E3%82%89%E3%81%8Eblog%EF%BC%9Aa-007%EF%BC%9A%E3%80%90%E9%A0%85%E7%9B%AE%E3%80%91%E6%95%99%E8%82%B2%E9%96%A2%E9%80%A3%E2%80%95%E6%AF%92%E9%A5%85%E9%A0%AD%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2%E6%89%B9
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浜田隆政16才頃


【写真―3】16才頃の水泳。
今、見ると、バタフライの型が全くできていない。
当時、誰からも教わらず、水泳の本も読まず、こうだろうかと適当にやったため、致し方がない。また、16才頃は(柔道部で毎日腕立て伏せなどを合計数百回していたのであるが、まだ十分には)体も出来ていない。ただし、ぽっちゃり肥満児一歩手前(小学校時代)が痩(や)せてきた時期でもある。今回は、顔が見えないため、次回は顔の写っているのを紹介しよう。プロレスラー・(30代頃の)大木金太郎(キム・イル、김일、Kim Il )氏と一緒に写った私の16才頃の写真か、全身と顔の写った写真かどちらかの公開を検討中である。尚、小学校時代も順次公開しよう。

現在の写真公開は旅先等で大変な騒ぎを懸念して保留中。この数年以上は予定を秘密としても、人口千万人(蘇州・上海各2日の20時頃の外出時、大阪城でも夜桜撮影時に一度だけ)人が零人か、逆に大変な人出か(幾多の事例)で大変…😵。もっとも2017年東京は通常であったと思うが…。

なお、2012年から(1984年以降の)一連の事件は人間違い原因を臭わされている。だが顔でなく何等かの書類を今疑っている🧐。私・私の母・私の父⇔誰か?、誰かの母・誰かの父…不明🤔
現時点では人間違いは1983年度からの可能性が高いと分析している。詳細は別原稿で。



2020年7月24日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA