ふるさとの記録―6・拙著『フォットエッセイ・ふるさと』(1952~68年の村の子供達⑤)から(正式公開)
2020/08/13 1:26 写真掲載途中(全部で20枚ほど掲載予定)
10:43~写真追加中。12:10ひとまず終了。15:10追記。
2020/08/14 16:44 私と動物の箇所に解説を挿入。2020/08/16 7:31 絵の追加
2020/08/16 13:36 清書作業中
2020/08/17 0:17 正式公開 (ただし、誤字・脱字チェックを十分していないため、誤字・脱字は今後も修正することがある。)
2020/08/17 15:38 父の職業(教員)を辞めた話、養鶏で上手くいかなかった話、更に、私のく学生の道などを紫色文字で追記。父の写真(私の家族父母姉弟5人の写真)の箇所の所。
★1960年代に大字(おおあざ)ID村で見られたものを箇条書きする。
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1:生き物
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①動物:
イタチ、野兎、犬、猫、キツネ、狸(タヌキ)、(遠方では猪)、
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②昆虫等:
蝉、蛇、蝮(マムシ)、甲虫、蛍(ほたる)、コオロギ、バッタ、イナゴ、百足(ムカデ)、蛙(かえる)、膨大な蚊、黒い塊の如く蠅、蜘蛛(くも)、トカゲ、蜂、蚕(カイコ)、鼠(ネズミ)、カタツムリ
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③家畜:
牛、山羊、我が家2000羽鶏等、馬(MG家所有)
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鳥類:
雀、燕、ヒバリ、鳩、鶯(ウグイス)、カラス、鷹、その他
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2:魚類:
鮒(フナ)、鯉(コイ)、鰻(ウナギ)、鯰(ナマズ)、鮎(アユ)、ドジョウ、ギギ、メダカ、ヒル、ザリガニ、シジミ、蟹(かに)、亀
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3:植物:
柿の木、栗、ぶどう、すいか、きゅうり、とまと、ほおずき、スモモの木、銀杏の木、まくわうり、もも、梨、サイシンゴ(板ドリ)、
アケビ、蛇イチゴ、サクランボ、桑の実、イチゴ、米、麦、さつまいも、トオモロコシ、タケノコ
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4:地形:
①茶畑、
②現在より大きな小川、
③KH村の大きな池、別にいくつものID村の池。
④川は現在と違い深い箇所及び渦まく急流の箇所あり、
⑤河原、
⑥気温は寒い時は流れる川に凍りが張る。さらに幼少の頃は池の上の氷の厚い箇所の上を歩けた(一度割れて氷の下敷きになったこともある)。
気温は確実に温暖化している。
⑦道:ID村からU温泉への⑦道路は現在の半分の幅で舗装などなし
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5:風物と行事
:KH村の池での年1回の魚取り、和霊様、SS神社の儀式、荒神様の祭り、水子供養(甘茶の日)
子供会→ラジオ体操、クリスマス会、火の用心の行進、お宮掃除、定期的会合、夏の水浴び。
小字(こあざ)NT組合の組合旅行(ほぼ毎年1回)、年4回位NT組合全員での共同での食事
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※時代:著者後書きの項参照→1960年頃の物価や村の子供を中心に村の人間模様を記している。
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☆1990年代になり新しく起こった事
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①鳥:
白鷺が急に増える、カラスが突如集団で現れる。
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②田:
構造改善事業により田が整備されるがどこが自分の田か不明となる(一つの田が半分我家で後は稔家というような区画整理をしたため)。
また農作業は、新型小作により行われID村の人の大半は農業から離れる(地主は小土地所有、小作は何人もから土地を借地し大土地を管理)。
土地への愛着心が失われる。
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③道:
道の拡張と多くの道が増える。田の間の道が舗装される。ID大橋ができる。
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④人:
新たな道等により我が家界隈の田周辺歩いても見知らぬ人が増える。1980年代ですら考えられなかったことが起こる。
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美作町全体として過疎の進行、人口減少にもかかわらず建物はどんどん増え昔より都会化し人口が増えたような感じを受ける。
大字・ID村でも同様。
しかし美作町人口は1960年頃は1万7千人余り。現在は1万3473人(『広報みまさか』1999年4月)である。
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【写真編】写真を順次掲載予定(人間違い予防を兼ねて)
【📷:田園風景】すべてクリックで拡大(写真によれば二度クリックまで可能)
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農作業の休憩中
(クリックで拡大可能。二度クリックまで可能)
前列→左から祖母、私、母、長姉、次姉
後列→左から村の人、叔父、従兄弟
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【私と生き物】(🐐山羊・🐓鶏・犬🐶・鳩🕊、🐰うさぎ)。
①山羊(ヤギ)→当時、我が家も家計が厳しく、牛乳の代わりに山羊の乳を飲むため飼っていたもの。
小学校の頃も、金欠で、カレーライスの肉は鶏時代。
我が家は私が鶏がむりなので、鯨肉をカレーライスで使用していた。今ならば問題であろうが、当時はそうであった。牛肉は高値の花であった。また、カレーライスに肉の代わりにちくわを入れる家もあった。我が家でもいれたことがあったかもしれない。いや、(並の値段の)ソーセージをいれたときがあったかもしれない。
牛肉はともかく、高値の花である。年に一度か二度食べられればよいほう。
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②犬と私
この犬は、近所で無料でもらった雄犬。私が親に頼み込み、飼(か)った。飼うときに、🤡私は「面倒は全部、僕が見るから飼わせてくれ」と親に頼み込んだ。
だが、飼(か)ってから餌(えさ)は親がやったりしたことも…で🙇。
勿論、私もやっていたが、ときどき、忘れかけたり、遅くなったりすると親が代わりに…。
親は私を叱(しか)らなかった。だが、こういうときこそ、親は子供を叱らなければならない。腹が立たなくても、叱らなければならない。
当時の心境「叱られずに済んだ」🙌であったが。後に教育者となり、斯様(かよう)なことを思う。
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③🐰ウサギと私。
このウサギは確か、野ウサギを捕まえて飼った記憶がある。我が村の山には当時、野ウサギがいたのだから。ペットショップでの購入ではない。
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④🕊鳩と私。
この鳩かどの鳩か忘れたが、小学校の頃、親抜きで、鳩をもっている家に売って貰いに行ったことを覚えている。
私が高校の頃の小遣いが月千円であり、小学校時代(中学時代が月5百円ならば、小学校時代は月数百円か)となると相当安かったと思う。ともかく、子供でも買える範囲の鳩である。なお、鳩は一般に雛(ひな)のときから育てていた。
また、我が家に落下していたヒバリの子(雛・ヒナ)を育てようとしたことがあったが、残念ながら死亡した。毎日、箸(はし)で餌(えさ)をやっていたのだが。
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⑤鶏(にわとり)と私。
父は学校の教師であったが途中で辞めた。私を養(や)しなったのが最初は🐓(鶏)、後に🍓(苺)。だから雇い主様を何で食べられようか。それが、鶏の肉嫌いの原因である。では苺(イチゴ)は。🍓(イチゴ)はおいしいから食べる…、と。いい加減か。
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【以下は私のプロフィールに使用予定写真】
【標準的な私の写真】
🤡「小さい頃は醜(みにく)くて」。
🧞♂️「嘘(うそ)言え、今も醜いだろう。」
🤡「いやいや、今よりも更に…」
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【私の家族】
前列→向かって左から次姉・私
後列→向かって左から母・長姉{母ではありません、姉です}、父(祖父ではありません、父です)
(クリックで拡大可能。二度クリックまで可能)
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(2020/08/17 15:18追記)
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父も教師であったが、私が小学校高学年の頃に、病気で教師を辞めたと言っていた。
その後は養鶏で起業しようとしたが、余り、上手(うま)くいかなかったようである。というのも、私が大学の頃には、もう主軸は養鶏ではなく、イチゴの方に移動していた。養鶏ではかなり経済が厳しかったようである。
こうして、私の苦学生への道が始まる。
苦学生の頃の話は、回想録か自伝として、どこかで語ろう。
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なお、父が教師を辞めたのは 1950 年代勤務評定問題を巡ってという噂(うわさ)も、他人から聞いたが、真偽は不明である。父が教頭の頃にそうした問題が起こり、次は校長と思っていたならば、逆に役職を持たない教師になったことが関係しているのではないか、という噂も聞いたこともある。不肖の息子・私は当時(小学校・中学校時代)はそうしたことには興味がなく、左の耳から右の耳であった。
父は私には病気で学校教師を辞めたと言っていたことだけが事実である。
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ただし、高校時代からは大学などに進むならば、国公立しかないと思わざるを得なくなっていた。大学には小学校・中学校時代は興味がなかったが、祖父、父が教師のため、私の職業も教師と擦り込みで思わされており、その場合にはやむを得ずに「大学」という文字が引っかかっていただけである。
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国公立ではなく、私立・関西学院大学へ進んだ(正確には押し込められた)話は別の箇所でしよう。
ただし、通常の学生並みの生活ならば、逆立ちしても、大学四年間は授業料は半額となっていた。実際に、一年目は学費は半額で年間4万円台であった。国公立が年間3万円時代である。二年目以降は、授業料全額免除及び半額免除の申請はできない状態となっていたため、私の方で申請自体をしていない。早大大学院時代の金銭苦労話もどこかでしよう。
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今、考えると、私の進むべき道、天性の職業は教師ではなかった。「プレゼンテーション屋」が私の天性であった。プレゼンテーション屋とは何かは拙著『旅に心を求めて』シリーズ(主たるテーマは人間の幸福とは何かを追求、具体的には金持ちは本当に幸福か等々をテーマとした文献)等を本格掲載すれば分かるであろう。
また、道を間違えた話は『求め続けて』を読めば分かるであろう。もっとも、私が道を間違えたのか、今日の学校が道を間違えているのかは定かではない。恐らく、両方であろう。
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【祖母と(脳卒中で十年余り寝たきりの)祖父】
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【祖父】
(公民館活動か何かのときに)脳卒中で倒れ、死ぬまで約十年寝たきりで、言葉もしゃべられず、右腕も動かず。トイレも行けず…。私が中学三年のときに死亡。介護はいつの時代も大変。もっとも本人はもっと大変。いつも、「死にたい」のジェスチャーをしていたことを覚えている。
元学校教員。校長をしていたと聞いたこともある。
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【祖母】
私が小学校の頃は洗濯機もない、炊飯器もない。小学校低学年時代はテレビもない。ラジオも我が家では一部入らず。…そうそう、水道もない。井戸水。冷蔵庫もなかった時期もある。扇風機はあったと思うが、団扇(うちわ)が活躍した。蚊帳も活躍。冬は炭炬燵(こたつ)、私は練炭(れんたん)の炬燵(こたつ)。
夏は朝晩はお盆過ぎ頃から涼しくなる代わりに、冬は(牛乳配達の)牛乳瓶などは早く冷蔵庫に入れなければ、凍(こお)ってわれる。池なども凍っていた。今はそうではない。確実に🌎温暖化である。
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【写真論】
祖母のうしろの藁(わら)も十分だしていない。
ましてや、藁家(わらや)、蒸気機関車などの写真は我が家にはない。
何故(なぜ)ないか。
当時は、「そんなものどこにでもあるだろう」。
「撮っても仕方ないだろう。」
「いつでも、誰でも撮れるだろう」…で、誰も撮っていない。
鼻の出たバス然(しか)りである。
だから、村アルバムのとき、私は何でもないと人が思うものを撮ろうとした。
ただし、その当時でも注目されるように、場面構成や技術は工夫して…。
ともかく、1999年で村アルバムは終了した。
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