(臨時掲載)教育委員会・旧同和教育課主催校外学級を振り返って(拙著『求め続けて・第一部』より抜粋)

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(臨時掲載)教育委員会・旧同和教育課主催校外学級を振り返って(拙著『求め続けて・第一部』より抜粋)

掲載目的→日本のフィクサーME・続編メモ3の続きとの関係で。

ただし、この原稿は一定の時期に出版するため、出版契約により、一ヶ月から二ヶ月後に削除する。

 

追記-2:第一部の教育現場の紹介(2007年10月作成)

追記―2は、読者が読みやすいように、本文に登場する学校関係の紹介である。第一部~第三部の各補章・追記―2に該当する。
以下Aが第1章、Bが第2~第3章に該当する学校時代の解説である。

A・T中学校と西宮市教育員会時代(第1章対応)

◇―1:仕事の内容とT中学校

 西宮市教育員会嘱託としての仕事内容を解説しておく。1975年4月に西宮市教育委員会に嘱託として私と5人が採用された。
仕事内容は、13時頃から担当した各中学校(私の場合にはT中学担当)で勤務し16時頃学校を出て、夜は約2箇所にある校外学級の場所へ移動する。校外学級は確か18時から20時頃までであった。そしてその後始末をして終了である。


当時の労働条件は、勤務は週休2日制で、賃金は新卒の正式教諭と同一くらいであったが、学校の教師と異なり週休二日制のため、実質的には若干良かった記憶がある。保険も健康保険と厚生年金が完備されていた。冬・春・夏休みは完全休暇で仕事は一切なく、祝日・休日も仕事はなかったが、いずれも正式な賃金が全額支給された。ボーナスも正式教諭と同程度支給されていた。

 昼の学校での勤務は、派(は)遣(けん)される学校ごとに異なっていた。私の友人Iさんは、H中学校に派遣され、H中学校では正式な職員室で待(たい)機(き)し、H中学の教職員とソフトなどをして遊んでいたようである。ただ、特にこれといった仕事はしていなかった。
私は5つの中学校の中でも一番荒れていると言われていたT中学校へ派遣された。私の方は、T中学校では、昔図書館か何かで使用されていた部屋をあてがわれ、そこにじっとしていただけである。

要するに、どの中学校も、私たちに何をさせたら良いのか思いつかなかった。というのも、こうした制度が始まったのがその前年度(74年度)くらいであり、74年度は昼間は教育委員会、夜は校外学級となっていたため、中学校への派遣は私が勤務した75年度が最初であり、どの学校も何をしてもらったら・させたら良いか、全く見当がつかなかったのである。

 こうして、私は昼間はT中学校へ行くが、学校がどの教科でも私に尋ねて良いなどと無茶な形で生徒に紹介されたため、最初は月に数人程度質問に来ていた。しかし、中学校1年、2年、3年の英・数・理・国・社・技術体育・美術・音楽の全教科では対応できる訳(わけ)もなく徐々に生徒もこなくなった。
勤務して数(すう)箇(か)月(げつ)後からは、この大きな部屋に13時頃に入(はい)り、16時頃まで何もせず、ただじっとしていただけである。途中、掃除の生徒が来るが、私の顔も十分覚えておらず、この先生は学校で何をしている人だろうかと、常に不思議そうな顔をして見ていた。授業の教師でもない、部活の顧問でもない、保健室の先生でもない、図書館の人でもない。何だろうか、と。

なお、本文で述べた悪戯(いたずら)電話をした生徒への注意の件(※注2)から、T中学校同和担当教師は私にかなり頭に来ていたようで、私が待(たい)機(き)している部屋へ時々来ては嫌(いや)みを言っていた。また、この大きな部屋に、事実上一人でいると、玉に先の教師類が嫌みを言うための訪問以外にも、顔も知らぬ生徒が何(理科か・歴史か・地理か……)を聞いてくるかという不安な日々であった。

(※注2)は一番最後に掲載。

 しかし月日が流れ、年度半ば頃からは同和担当教師にも私の性格が幾(いく)分(ぶん)理解され、更にこの教師が病気をしたときに私が見舞いに行ったことを契機として和解となり、私に何かと気を遣(つか)い幾分友好的な形での話し相手として訪問してくるように変化していった。

また、何事にも丁(てい)寧(ねい)な先生や親切な年配の先生も私のことを気遣ってか時々訪問して頂いた。さらに、夜の校外学級の私に懐(なつ)いた生徒が、時々、私の遊び相手に来るようになっていった。中学生とは面(おも)白(しろ)いもので、何故(なぜ)か、男子生徒の方が若い教師には先に懐(なつ)くのである。体つきも、精神年齢も小学生と余り変わらぬ生徒もおり、そうしたのが、ちょうど子猫か子犬のような振る舞いで、私が退屈していないかと様子を見に来だしたりもした。

後半頃はこうした生活にもなれ大学院入試の勉強をしたいと思っていたときでも、仲の良い子が気を遣(つか)って、浜田先生が退屈しているのではと、ひょっこりと顔を出していた。要するに、昼間のT学校では特に用事はなかった。印刷も年数回程度しか頼まれていない。

◇―2:仕事の内容と夜の校外学級

 夜の校外学級は、同和地域の子供の学力向上のため、教育委員会が主催していた。各学校とも週2回の間隔で開かれていた。私はT中学校を週2回と、H中学校を週2回、それにI中学校が週1回を割り当てられた。

仕事は、プレハブの校外学級用教室管理と補習授業の補佐である。こちらの方が昼と異なり、はっきりとする仕事があるため楽であった。しかも授業指導も、はっきりと学年を固定され、教科も通常は英数のため対応もできた。T中学校では主として1年生の補助であったが、玉に3年生のクラスにも顔を出していた。H中学校は、人数が少ないので小さい公民館のような所を借りて行(おこな)っていた。H中学校だけが校外学級用の校舎を使用していなかった。

 夜の校外学級のT中学校担当では、最初は中学1年生の男子生徒が懐(なつ)き、やがて中学3年生の男子生徒の何人かとも親しくなり、最後の方は時々私のアパートの掃除に来てくれる女の子も出てきた。この女生徒は私のアパートの近くに住んでいたが、夜は物騒なので親が校外学級に行くのを反対していけなかった子である。そこで、当時、(購入価格8万円ほどで)ポンコツの車を購入していた私が送迎するということで、親が了承し、毎回送迎していた子である。この件は学校にも教育委員会にも言っておらず、今回初公開である。

この子の関係からか、この学校を辞(や)める前頃には、T中学校の女生徒数人以上と、念のためT中学校の若い男性教師にも同伴を頼み、箕(みの)面(お)でハイキングなどをしていた。また、中学3年生などで仲良くなった子供の親などからお歳(せい)暮(ぼ)などを貰(もら)ったこともある。駄(だ)菓(が)子(し)類であり金額もしれており、身分も正式な公務員ではないため、返還しない方が良いと思い貰った次(し)第(だい)である。

 H中学校の校外学級の方では、授業が終わると、後半頃は毎週3年生の女生徒3人組が私のアパートに1時間程度入(い)り浸(びた)りとなっていた。若いということと、正式な教師ではなく補助的教師ということで近づきやすかったのであろう。校外学級時の質問でも、正式な教師よりは、私などの方がともすれば引っ張りだこになる。ここから、私が学校の補習などで、ボランティアを地域から集めることを思いついた次(し)第(だい)である。

もう少し夜の校外学級に関して解説をしておく。まず、T中学校の校外学級ならば、T中学校の教師が夜の教室に一クラス当たり数人入り、私もそれを補助する。そして、時々か頻繁であったか忘れたが父兄も参観に来ていた。そうなると、一クラスに教師数人と私、更に父兄も時々来るとなれば、生徒は大人しく勉強に励(はげ)んでいた。結構楽しくやっていたように見えた。こうなると授業妨害とか、そうした類(たぐい)のものはこの校外学級ではみたことがなかった。なお、父兄は、「子供が悪いことをしたら学校だろうと、校外学級だろうと殴ってくれ」とよく言っていた。この校外学級の長所、短所は今回記述はしないこととする。風景描写に留(とど)めた。因(ちな)みに、2002年頃、私の友達でこの校外学級に参加していた教師に聞くと、もう中止したとのことであった。

 書く時期に応じて、大変であったというイメージで記したり、逆に楽しい思い出を中心に記したりしている。それは両方事実だからである。それもあり、昔の原稿を修正せずに追記方式とした。大変であったのも事実である。

T中学校ではパトカーがくるほど学校が荒れていたが、私の場合には無関係であった。ただ、大変であったのは、T中学校では最初の頃は何でも相談に乗れる先生と紹介された関係で、歴史の質問に来たり・地理の質問に来たり、……であり、いつ理科の質問に生徒が来たらどうしようかという不安の方にあった。後には、(親しくなっていた)夜の校外学級の子以外は来なくなったが、いつ校外学級以外の生徒が何を――生物か、物理か、歴史か、地理か、数学か、音楽か、美術か……を――聞きに来るか不明であり、多少参(まい)っていた。

さらに、当時教師志望の私が、T中学校にいって何もせず、ただじっとしているのでは、本文に記した某先生の「浜田先生、大の大人のすることではないので、教育委員会の嘱(しょく)託(たく)は辞めた方が良い」と親身になりアドバイスされたことは一理あった。私も痛感していた。他校から来た若い女の教師へのお茶くみをさせられたときなどは、プライドの問題もあった。

因(ちな)みに、私の専門の公民は夜でも昼でも誰も一度も聞いてこなかった。また、次に得意な数学も、私が全く習っていなかった新課程の二進数などの所だけは質問にきたが、それ以外はほとんどか全くこなかった。要するに昔家庭教師などで教えたことのある分野や専門の公民は誰も聞いてこなかった。偶然にすれば余りに確率の低い話である。

◇―3:当時の事件と私の腕力について

 私も、年をとり、懐(なつ)かしさで記した。ところで、学校の電話で悪戯(いたずら)をしていた生徒に対して、私がその悪戯を止(や)めさせたときに突っかかってきかけた生徒(※注2)はその後どうなったか。中学2年の生徒の方は最初は、T中学校で出会ったならば、粋(いき)がって体当たりの真(ま)似(ね)(悪(あく)魔(ま)で真似)などをして挑発していたようであるが、余り気にならず無視をしていた。これは良かったと思う。万一、うかつに手をだしていたならば体力差から、大変なことになっていた。まともに、私のパンチが数発当たれば骨折程度ですむかどうか不明であった。参考までに、相当衰(おとろ)えた47歳頃の私の体力を(※注1)に記しておく。さらに、既(すで)に述べた如(ごと)く他の生徒も懐(なつ)きだしており、徐々に挑発は止(や)んだ。

(※注2)は一番最後に掲載。

その後、中学3年生の某生徒が一度、体当たり型挑発をしてきたため、このときは理性が十分働かず、一発くらわそうと手を出しかけると、急に大人しくなり、以後借りてきた猫の如(ごと)く状態になった。同様に先の中学2年生の方も、いつの間にか昼間のT中学では全く出会わず、夜の校外学級でさえほとんど見ることはなくなった。この頃は体力もありほとんど気にならなかった。むしろ、既に記した昼間のT中学校で、いつどの教科の質問に誰が来るかの方が遥(はる)かに怖(こわ)かった。質問に来る生徒が可(か)愛(わい)い女生徒であっても。こちらの方で参っていた。

 因(ちな)みに、先の挑発をしてくる生徒の対策をとろうと思えば、幾(いく)らでも手はあった。T中学の3年生とも何人かと顔なじみであり、彼らを通じて押さえ込むことも可能であった。また、中学1年生の父兄に地域のボス的な存在の人がおり、その人の子供とも仲良く、それだけでも簡単に対応はできた。更に、教育委員会やT中学校の担当教師への対応問題も、私が大学1年の頃にこの地域の部落研究集会に参加していた関係で、校外学級付近には顔なじみの地元の有力者もいたため、こちらの対策も難(むずか)しいことではなかった。おまけに、教育委員会付近のボランティア型子供会にも大学一年末頃に参加したこともあった。ただし、地元の有力者とそうした相談は一(いっ)切(さい)しなかった。

だが、そうした対策すら必要は当時はなかった。何(な)故(ぜ)ならば、殴(なぐ)ってくれば、当時の体力差では大人と子供であり、3人程度相手でも数分で叩(たた)きのめせるため気にもしていなかった。私は高校時代に柔道部退部後も自主トレーニングをしていたし、学校の道場では全員有段者(しかも何人かは高校時代から二段クラスの実力)の友人達を相手に格闘技の実(じっ)践(せん)訓練に近い遊びをしていたため問題にならなかったのである(当時の仲間は今柔道3~4段とか、空手、柔道の両方の有段者となっている)。最初に記した悪戯(いたずら)電話した生徒の件は、もう1箇月目からはほとんど気にならなくなり、夏頃以降はその存在すら忘れていた。それだけのことである。

 (※注1)私の47才時の体力。拙著『閉じた窓にも日は昇る』から引用。
「参考までに二〇〇〇年一一月(四七歳時)に行った体力測定値を記しておく{( )内は九九年七月一七日実施}。
①身長一六九センチ、
②体重六〇~六三キロ、
③連続腕立て伏せ二〇〇回、
④腹筋連続五六回、
⑤上体そらし(+八〇センチ){母測定。男子二〇代平均+五〇~六五}、
⑥横飛び(八八回/三〇秒){男子二〇代平均が五一~六〇回}、
⑦目を閉じて手を横にしての片足たち六〇〇秒{飽きて途中で中断。男子二〇代平均四〇~九〇秒}、
⑧椅子立ち上がり一〇〇回/三〇秒{母測定。男子二〇代平均二八~三三回}、
⑨前屈+二八・五センチ{母調査。手を足より下に何センチでるか→男子二〇代平均+一〇~一七センチ}、
⑩三〇秒間の腹筋回数二三回{男子二〇代平均二一~二五回}、
⑪椅子に腰掛けて手をつかわずに片足で立ち上がる→通常の椅子でも、より低い炬燵の上からでも、右足のみでも左足のみでも、全く自然な状態で簡単に楽々何度でも立ち上がれる{母の立ち会いの下で実験}。
⑨~⑪は朝日新聞二〇〇〇年一一月六日の項目参照」

 私の自伝ではなく、社会科教育法のため記しているので、幾つかその点から述べておく。腕力は生徒への対応では意味はない。しかし、私は腕力・体力を鍛えることを勧める。男性で一定腕力のある人ならば相当な体をつくることを。そうしておけば宮本武蔵型活(かつ)人(にん)剣(けん)が可能となる。だが、それ以上に、授業には体力が必要であり、授業をするためにも体力をつけておいた方がよい。次に、生徒の挑発は若い教師の場合には、良かれ悪かれ避けることはできないと考え、気にしないことである。

 少し例をあげて説明しよう。H中学校の校外学級では、毎週女生徒が私の靴(くつ)を隠(かく)して喜んでいた。私も時には本気で頭に来ることもあった。だが、H中学の某教師がふといった。「うらやましいなぁ、僕なんか生徒にそんな子としてもらったことがない」、と。そう言えば、他の先生にはおとなしい、真(ま)面(じ)目(め)な女生徒達であった。

また、T中学校校外学級でも、一年生では私に懐(なつ)いていた子がかなりいた。そうしたある日、余り態度が良くないと思われている子の悪(い)戯(たずら)に頭に来たことがある。捕まえて尻の一つでもたたこうかと思うと、その子はゲーム感覚で恰(あたか)も鬼ごっこをしているように凄(すご)く喜んだ。要するに構ってもらったと喜んでいた。こちらも気が抜けた。よって、今振り返れば、若い教師へのちょっかいは、生徒が構ってほしいという表現の裏返しであった。私はそう魅力はないが魅力ある教師ほどされるため、若(わこう)人(ど)税(ぜい)と諦(あきら)めて、気になるであろうが、気にせずに授業の準備のみをすることを勧める。こうした面では幾(いく)ら腕力があっても同じことである。意味はない。ただし、授業を必死でやるには腕力も含めて体力が必要であり、その視点から腕力と体力は役に立つことは必ずある、というだけのことである。

 ただし、昼間のT中学校の方には、生徒が教師を殴った問題があったり、私が辞めた後で確か朝日年鑑に校内暴力でパトカーが来たりしたという記事も掲載されていた。ただ、私の場合は、様々な所で免(めん)疫(えき)があったため気にならなかった。免疫とは格闘技方面では高校時代に柔道の有段者と格闘技に明け暮れ、大学時代は学園紛争のあおりを食い……である。それ以上に昼間のT中学校では何もしていないため、関係がなかった。学校は大変だと教師の何人かがぼやいていたが、見た範囲では、私の卒業した中学校と余り大差はなかった。私の中学校でも、卒業式などはお礼参りなどを警戒して教師が見張りをしていたくらいである。

また夜の校外学級では、私が一人で教壇にたっての授業ではないため責任がないという問題もあった。しかし、幾ら腕力があっても、授業に責任感を持ち、授業をするとなると大変であったかもしれないし、参るとすればそちらで参っていたかもしれない。

 ただし、それでも、夜の校外学級では問題は起こりにくかったであろう。一教室に教師が複数と父兄も時々参加のため。だから、問題が多くて困るならば、日常的に父兄参観を勧(すす)めたり、教師も一人ではなく数人で共同授業をしたりすることも検討に値する。例えば、生徒が乱れているときには、教師1人対生徒40人を教師1人対生徒20人とするよりは、教師2人対生徒40人で教えた方が教師がやりやすいときもある。あるいは、生徒との繋(つな)がりのため、週数回度程度は、教師5人対生徒40人くらいで授業をするのも良い。一人の教師で、クラス全部を常に相手とする必要はない。

【2016年6月1日追記】
今回、超多忙かつ膨大な世に出さねばならない原稿がたまっている関係で、大きな追記はできない。それでも以下の点を記しておく。

 ①三つの子供会。
私が経験した子供会とすれば、私自身の小学校六年の頃の子供会、西宮市教育委員会付近で短期間参加したボランティア型の同和地域の子供会、そして先の教育委員会主導型の校外学級がある。最初は大人完全抜きの子供会、次が地元の青年が中心となった子供会、最後が教育委員会と学校が主導した校外学級である。いずれ、この三つを比較した原稿を書き残したいと考えている。

 ②当時の校外学級を教育行政の面からどう分析するかという問題である。
夜のT中学の校外学級ならば、T中学校の教師が多数参加するため、T中学校の同和地域以外の子供が参加したいと申し出があった。そのときに、学校及び教育委員会がどう回答したかを、当時の同僚などといつか確認をしたいと思っている。また、T中学の校外学級に参加していた子供の中に、ずば抜けた学力を持っていた生徒がいた。その子にとっては、当時の校外学級での補習授業では、学力面だけで言えば、時間の無駄であったように思われた。しかし、T中学校の教師が来るので休むことには抵抗があったように見受けられた。

これらも踏(ふ)まえて、コスト、効率、効果、教育行政全体の在り方としての問題なども、いつかまとめてみたいと考えている。

 ③当時の時代状況について。
私が西宮市教育委員会嘱託となる、約4か月前に、ウィキペデイア表記「八鹿高校事件」なるものがあった。1974年11月22日である。場所は西宮市のある兵庫県である。ウィキペディアに次の表記がある。

「(1974年)12月2日……主犯……が他の部落解放同盟員3名と共に兵庫県警に逮捕される(第一次逮捕)……このとき出動した警察官の数は5000人にのぼり、浅間山荘事件における警察の動員数1200人を遥かに超えていた……。12月12日Oら7名の部落解放同盟員が逮捕される(第二次逮捕)……。このとき出動した警察官の数は2000人……。」 ウィキペデイア「八鹿高校事件」より抜粋。

部落解放同盟の主張、(教育現場で)怪(け)我(が)をした教師達の主張、あるいは怪我をした教師達を支持した部落解放同盟正常化連(後の全解連)の主張もあろう。しかし、私が問題としているのは、一日で5000人の警察官が動員されたにもかかわらず、当日NHKなどはまともな報道をしなかった問題である。数日後に報道したようであるが、わずかな報道であったと思う。1974年以降で一日に一箇所で5000人の警察官が動員される事件は珍しく、通常はトップニュースどころか臨時ニュースで流す大事件となる。あるいは実況生中継などの特別番組が組まれるであろう。一つの事件で警察官が一日のみでも5000人動員されたのであるから。さらに教育の現場で起こった事件となれば。

2016年5月27日のオバマ大統領広島訪問のときですら、広島県に動員された警察官は四千人台である。しかも、これは事件ではない。何故、マスコミが本格的な報道を迅(じん)速(そく)にしなかったのかを検証する必要がある。本来、海外のメディアでも大報道されるべき事件が、日本のマスコミが本格報道しなかったため、恐らく海外では報道されていなかったと想像している。

今からでも、主要新聞社、テレビ局はマスメディアの在り方として、この事件を本格報道しなかった問題を総括すべきである。この問題も、いつか取り上げたいと考えている。当面は超多忙で難しいが。
ともかく、私が西宮市教育委員会に籍をおいていた時代風景を参考までに記した。

※私がこの目で見た教育懇談会とか父兄懇談会などの実態描写は後日の課題とする。

(※注2)本文掲載のトラブルとは以下のことである。

(※注1)トラブルとは、仕事の初日に、生徒が職員室に準ずる部屋の電話で教師が見ている前でいろいろな家に悪戯(いたずら)電話をかけ、相手が出ると面(おも)白(しろ)がり切るということを繰り返していた。公衆電話ではなく学校の備(そなえ)付(つ)けの電話でである。それをどの教師も止めないので、私が無理矢(や)理(り)やめさせると、生徒が突(つ)っかかってきた。やむなく正当防衛権を行使しようとすると、何人かの教師が止(と)めに入り、一戦を交(まじ)えるには至らなかった。その後、不思議なことに注意をされたのは生徒ではなく私であり、私の上司に当たる教師からしばらく嫌がらせを受ける。(後にその教師との関係は改善したが)。職員室の電話を乱用するという意味ではなく、その悪戯(いたずら)電話で他の人に迷惑をかけていたため、私は止めざるを得なかった。また当然犯罪でもある。学校の電話で犯罪をするのを黙認していた他の教師の神経が分からなかった。

しかし、こうしたことをした生徒はわずか数人でしかない。あとの生徒はこれから書くように、私に結構なつき、かわいらしかった。この仕事を辞める頃には、H中学校の生徒が毎週2回ほど数人で下宿に来たり、あるいはT中学校の生徒とハイキングに行くなどしたり、ある生徒は部屋の掃除に来てくれたりしていた。生徒も結(けっ)構(こう)懐(なつ)いていた。丁(てい)寧(ねい)に指導していた生徒の父兄からお歳(せい)暮(ぼ)を貰(もら)ったこともある。こうして、私の教師生活の中では珍しく少しだけ懐(なつ)かしい思い出も残っている。

今、考えると正式な授業を担(たん)当(とう)していなかったおかげであったかもしれない。すなわち、授業について、私自身がまだ全く何も知らず・分からず、後(のち)に味あう授業での苦しさや罪悪感などを持っていなかったからかもしれない。私の側(がわ)では後に味あう授業に対する引け目はないし、生徒の側は若い先生でしかも正式な教師ではないので近づきやすいという相互作用があったようである。

だが、これは夜の校外学級の子と父兄の話であり、昼間学校に行っていたT中学校ではほとんどの子に対しては疎(そ)外(がい)感を持ち、また自分は何なのかと感じていた。T中学校では、授業補助も含めて何もせず、ただ図書館で待(たい)機(き)していただけなのであったから。玉に印刷の手伝いをさせられたが、T中学校の全校生徒に分かるはずもない。

しかも、先の日記に書いたように、同年代の教師が授業をしているのを見ると複雑な心境であった。そして、私がまともな立場であったならば、T中学校で全生徒に対しても何かできるのに、と考えもした。後に分かる授業を創る苦しみを知らなかったため、知らぬが仏(ほとけ)であったのであろう。だが、事実上何もできないような状態よりは何かがしたいとは今でも思う。ともかく、そうした思いのときに、某(ぼう)幼稚園の同(おな)い年(どし)の女先生がT中学校へ用事で来たときに、上司からその幼稚園の先生へのお茶組役を命じられたときは、「自分は一体何か」と思うなど、やはり限界であった。夜はわずかとはいえ活躍の場はあるが、昼は言わば若き窓(まど)際(ぎわ)族であった。このT中学の紹介と夜の校外学級の紹介は補(ほ)章(しょう)ー1の後の2007年補足情報に今回追記をしている。

※(2016年1月23日加筆箇所)私は幾つかのタイプの子供会活動に参加した経験がある。同和地域に限定しても、三つのタイプの子供会類を経験した。(事実上の分裂前と分裂後の両方の)解放運動団体が行う子供会、市民団体が行う子供会、そして行政が行う子供会である。最後のは、当時、校外学級と言っていた。今回、記しているのは、最後のタイプである。この頃は、行政もこの事業を開始して二年目のため、何をしてよいのか分からなかったと思われる。(数年前に、この事業はかなり前に中止したと聞いている。)

しかも、昼はT学校に派遣されたが、この仕事は原則として同和事業とは無関係に近かった。そして、私が準窓際族の思いをしたのは昼間のT学校の方である。夜の校外学級の方では、多少存在感は感じたが、それでも同年代の現役教師を見ると、自分の力が発揮できずに焦(あせ)りを感じていた。(校外学級でも、授業を担当するのはT校ならばT校の現役教師であり、私は教員免許を持っていても補助役でしかなかった)。なお、先の悪戯電話の生徒の件は、進路を含む焦りの関係とアパートなどに来る生徒などの人間関係で、数か月後には私の脳(のう)裏(り)から全く消え去っていた。夜の教室でも、中学一年生と三年生はほぼ固めていた関係で、もはや無関係事項となっていた。詳細は別の原稿で記すことにする。

2017年9月20日 | カテゴリー : 教育, 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA