ふるさとの記録―3・拙著『フォットエッセイ・ふるさと』(1952~68年の村の子供達)から

ふるさとの記録―3・拙著『フォットエッセイ・ふるさと』(1952~68年の村の子供達)から


2020/07/16 0:20から下書き開始

2020/07/17 6:13 《◇―2》の下書きを追加

2020/07/17 22時から22時40分修正

2020/07/18 1:00頃から正式公開予定

2020/07/18 10:05写真添付 10:58 解説文も添付。

 


1952~68年の村の子供達

《◇―1・まず水泳ありき》

《◇―2・1960年頃の世相》

《◇―3・1960年頃の子供達》

《◇―4・村の子供の自治と村のつどい》

《◇―5・再度、村アルバムについて》


1999年6月1日記述(2020年7月16日~微修正)


《◇―1・まず水泳ありき》

「まず水泳ありき」とは、これが当時の子供の姿も・村の姿も・教育の姿も・当時の遊びも・健康に関する史料としても、全てを象徴的に表しているからである。そして何よりも1952年から1968年頃までの人間の生き方の土台を表している。正確には水泳でなく水遊びかもしれない。

現在46歳(1999年)であるがプールで泳いでも未(いま)だに結構人目をひく泳ぎ方ができる。大学院時代の20代半ばから後半に東京のプールで泳いでいると水泳の常連者からよく感心してもらったり、お褒(ほ)めの言葉を頂いたりしたこともある。

勿論、泳ぎ方は無茶苦茶であるが、20代後半の頃はスピードが相当あった。同時にクロールなどはかなり力強かった。具体的にはっきり覚えているのは倉敷のプールで1度、美作町のプールで1度、東京のプールで3度ほど、人からお褒(ほお)めの言葉をいただいた。
この内4度は全く見知らぬ人からである。また人と競争して負けた経験も余りない。これは私の水泳自慢をしている訳では決してないし、そのつもりもない。

この文章が後に特に数十年後には教育学からも、世相や文化の研究からも、政治学、社会学からも重要になってくる、生きた歴史の一齣(こま)である。勿論ID村の記録としても重要である。これから述べることは水泳以外にも全てに言えることである。

「まず水泳ありき」というのは、私自身46歳(1999年)の現在まで一度も学校その他で水泳等は習ったことがない。プールも高校卒業まで(岡山県)美作町には存在していなかったように思う。私自身は18歳以下の年にプールで泳いだ経験がない。

それでは誰から水泳の教授を受けたか。二つ上の従兄弟(いとこ)のAHさんであったような記憶がある。教授の仕方は以下の通りである。
AHより、小学校3年の頃ID村の川でボート(船)に乗せてもらい、「隆ちゃん、落ち葉(あるいは虫)がそこに流れている」につられ、船から川を見るとポンと押され、川に落ち、泳ぎ方等(など)は全く知らないがともかく必死に泳がねば溺(おぼ)れるため泳いだのがきっかけである。

もっとも、幼少の頃から川の水に浸(つ)かり、水遊びは大好きであった。後の泳ぎ方も川でAHさん及び(MHさん方三男)MHJさんなどの他人(ひと)の泳ぐのを見て真似(まね)をした。しかし、彼らも誰も泳ぎ方を習っていなかった。当然泳ぎ方の本も誰も読んだりするはずもなかった。

泳ぎ方もまず犬かき、次に横泳ぎ、それからクロール、平泳ぎ、バタフライ、…と進んでいった。誤解かもしれないが当時下(しも)ID村の子どもで水泳が嫌いな子は皆無だったと思う。

何故(なぜ)みんな水泳が好きなのか。単純である。
暑いから水につかれば涼(すず)しいということにつきる。次に、みんなで一緒に遊べるということである。
身体を鍛(きた)えるためとか、水泳選手になるためとか、スポーツで根性を鍛(きた)える等(など)と考えたものは一人もいなかったであろう。

恐らく、現在、学校の授業に水泳が入ってきてから、水泳嫌いの子は相当出現しているであろう。しかも、きっちり指導されても、中学校や高校生が40人いれば20代後半の頃の私より速く泳げる者は数人程度いるか・いないかもしれない(ただし水泳部を除く)。

何のための水泳の授業かと思う。全員が水泳選手になる訳(わけ)でもないのに、型ばかりを習い、水泳嫌いを生みだし、おまけに型は知っていても、全く型を知らぬ私より大半が速く泳げないというのでは…。これは水泳以外にも全て言えることである。

スピードが特に速かったのは早大大学院時代に、約4年間、毎週3回かかさずに温水プールに自転車で通った頃である。特に27歳(1979年)前後であった。この頃は、水泳の本を購入したり、プールで水泳部らしき生徒の泳ぎ方をじっくり見たりしながら、自分で実験して正規の泳ぎ方を少し知ったかもしれない。ともかく、完全に独学である。


(2020/07/15~07/16追記)
早大大学院時代には毎週3回温水プールで水泳をしていた。プールまでは全て自転車で移動した。ちなみに、温水プール活用を教えてくれたのは、当時、家庭教師をしていたときの子供たちである。私が、雑司が谷から中野であろうと、大塚であろうと、神保町であろうと、自転車で行く方が便利なことを子供達に教え、逆に子供達が温水プール活用を教えてくれた。料金は最短時間を選び、200円か300円の記憶がある。休憩抜きで、水泳と水泳の合間に基礎運動を行っていた。交通費は0円である。


なお、東京で移動するときに自転車が便利なことを教えてくれたのは、居酒屋「孔雀(くじゃく)」常連の佐藤さんであった。この佐藤さんをモデルにしたのが、拙著『日本のフィクサーME』登場の「はかせ」である。
今はもう懐かしい、青春時代の思い出である。
30年以上、我が家に監禁されているが、いつの日か再度自由に羽ばたく日々がくるのであろうか。


 勉学の基本は独学であり、同時に「習うより慣れろ( Practice makes perfect. )」を肌で体験した少年時代であった。

ついでに諺(ことわざ)を後二つ記す。

好きこそものの上手なれ。(What you like you will do well.)。

All work and no play makes Jack a dull boy.{よく学びよく遊べ、《諺》 勉強ばかりして遊ばないと子供はばかになる。}

解説Twitterは後で添付(クリックで拡大、二度クリックで巨大)

Facebook 2020/07/18 掲載文
《◇―1・まず水泳ありき》で写真一枚掲載。
📷は私の父が撮影と思うが。(もう肖像権もプライバシー権も関係なかろう。私の村のアルバムも同様に、私の死後50~80年後に…誰かが公開…)
📷村の記録は本質を撮る。
美しく撮る際も同様。
94-99年テーマは…も、
所がアルバム終了後の2000年以降は出鱈目、嘘📷を催眠で…。
いつか書くかも😡🤷
他も現況では生存に非ず。
もし1960年代に、2000年以降に何度拒否しても撮らされた如く、当時見たこともない鯉幟の集群などを写していれば自分の村とは思わず、懐かしさも何もない。
今回の如くに…で初めて懐かしさがわく。
2000年以降…その他万事が万事…、いつか書くかもしれない。
写真は見たとおりには撮らないときでも、本質をえぐる…であり、何をどう撮るか、そのアイデアが命。無料で撮っている以上、決めるのは私である。
それを催眠で…となると記録のみか芸術類の自殺行為。
また、その類(たぐい)の知識も哲学もレベルが違う。
せっかくの思い出が愚痴になるので、今回はこれ以上は書くまい。
ちなみに、《◇―1・まず水泳ありき》に泳いだ箇所はここ(通常は渡し場と呼ばれている浅瀬の箇所)ではなく…であるが、あれは虐(いじ)めではない。当時の記録をさらに書けばわかろう。時代であり…当時の人間模様である。
もっとも、勘違いさせておけば某病人が元気になるかもしれない…。
だから、勘違いのままでよかったのであるが…
ともかく、我が村は勘違いというよりも「せっかち」で…。
最後の愚痴。
このまま人生が終わるのか。自分の…は現況では一切…無理。




《◇―2・1960年頃の世相》(1999年6月1日記述、2020年7月17日誤字脱字のみ修正)

 車は、私が小学校低学年の頃は、下ID村で1人程度しか所有していなかった。
テレビも、我が家には小学校高学年までなく、UZ家の小父さんの所に子供が順番で見に行くという時代であった。遊びはほとんど外であり、集団での遊びである。塾はほとんどなかった。どこにあるかの噂(うわさ)でしか探せなかった。ただし、塾は英語や数学ではなくソロバン等の塾は聞いたことがあった。私は塾・予備校類は、友人との付き合いで中学校二年生のときに英語塾に一年か一年弱行っただけである。

ちなみに英語に携(たずさ)わる教育産業に従事したこともあるが、私の小学校や中学校時代は英語などを音から聞くことは不可能であった。テレビは先に記した状態である。ラジオは教育放送が我が家では十分入らないのである(現在でもそうである)。テープレコーダは中学校の終わり頃に購入したが、英語のソフト等はそのような物は市販されていることすら知らないため、購入するはずもなかった。(高校でも同様である)。

今考えると、高校の英語教師にはひどい発音の先生もおられた。よって耳からの英語等は事実上皆無に等しい状況であり、英語の発音が良くなるはずがない。


しかし、これまた不思議なもので、1998年退職した短期大学校の生徒は十二分にテープ、テレビの英語放送等があり、塾もある。さらには、私が中学校・高校時代には想像もしなかった外国人教師の各学校への派遣もあると聞く。これらの正式な発音教育を受けてきた学生でも、在職当時は100人中、無茶苦茶な私の高校・大学時代の発音よりもましな生徒は年に1人いるかどうかであった。これまた水泳と同じである。

現在(1999年現在)も私は英語の発音が必ずしも良くないが、現在の私より発音の良い生徒は15年間先の短期大学校では当然皆無である。(正確には1983年には1983年当時の私よりましな発音の学生が一人いたかもしれないが、それは1999年の私の発音との比較ではない。)現在の母校の高校の生徒でも同様かもしれない。万事が万事こうである。私が天才でも・秀才でもないことは、村中が私の幼少の頃を知っているため、そのことを知っているはずである。


要するに、水泳でも英語でも型ばかりを強要したり、右に倣(なら)えで比較ばかりされると何にもならぬばかりか、一部の人間を除き勉学嫌いになるのが通常である。素朴に親しんでおけば、5年遅れか、10年遅れか、20年遅れは別にしても、その気になったときには物になるという下地ができているように思える。嫌いにさせられたら元も子もない!

そこで、「まず水泳ありき」からこの文章を開始した。
第一、水泳は、私が子供の頃には遊びを除けば、事故などで川に落ちたときに溺(おぼ)れないようになることのみを課題としていた。これのみが第一の課題であった。
水泳の競争は純粋な遊びとしてのみ存在した。


社会科以外に英語教師もした経験から言えば、英語も先の水泳と同様であり、本来は、その道のプロになる人以外は、万一本当に必要なときに必要なことのみ最低限処理できれば良いということである。

 要するに水につかる(英語を使う)危険があれば、そのときに溺れないようにすることのみである。本格的な水泳を行う(本格的な英語を使う)可能性がなければ、ID村水泳型でよいのではと単細胞人間の私は思っている。


私の経験を振り返っても、小学校時代全体を通し、下手(へた)でも、村で遊ぶときも・小学校で授業でするときでも、大好きであったソフトボールが中学校に入るや嫌いとなった。というのは、ソフトボール部に入っている訳でもないのに、単なる中学校での球技大会に備え、生徒より自分のクラスの勝ちを(過剰に)意識した担任教員の介入と勉強の如(ごと)く強制的に指導されたことを通じて苦手(にがて)かつ大嫌いになり、未(いま)だに苦手かつ嫌いとなってしまっている。

 実際に、小学校の頃は、ごく玉に良いバッティングをするときもあったのが、中学を境に高校ではボールがボットにかすりもしなくなり、ソフトの授業は大抵さぼるようになっていった。小学校6年の頃は教師に「授業を止めてソフトをしよう、ソフトをしよう」と言っていた私が。

ソフトボールも本来遊びつつ身体を鍛(きた)え、健康を増進したり、親睦(しんぼく)を深めるためのものである。1952年から68年の頃に水泳を学校で(人との比較を中心とした形での)指導を受けたり、授業として評価などの対象となっていたりしたならば、私は水泳嫌いになった確率が一定あり、そして万一、川に落ちても泳げず水死するような人間になっていたかもしれない。


  残念ながら、1960年代でも英語に関する学校教育は90年代と同じく問題が多い上に、さらに会話抜きというひどい状態であった。現在(1999年)の私に、英語が使える形で多少なりとも身についたり・つこうとしているのは全て高校卒業後の独学である。水泳・カメラ・パソコンと同様の独学である。

中学・高校時代の英語教育は全く役にたっていないような気がする。
今日の英語の土台云々(うんぬん)も高校卒業後に、中学生等に家庭教師や塾などで教えたりして一から覚え直したものである。そこで先の短大生の例のように、幾ら今日の如(ごと)く視聴覚教材が発達し、それに親しまされていても、私のソフトボールの例と同じで、私の教えた生徒の全てに近くが話にならない英語の発音となっていたように思える。
英語も中学・高校とID村の水泳方式であればどうなっていたであろうか。


 大字(おおあざ)ID村でも、小字(こあざ)・NT組合でも、私の小学校時代には今日の如く塾などに行く子はほとんどなく、身体を使う遊びに専念していた。中学校でも大体事情は同じである。

小学校時代に塾のため、川での水泳を休む子などは想像できぬし、後に述べる(神社の掃除も含めての)子供会を欠席しての塾通い等は村八部ではないが不可能なことであり、この点が現在と違う。
1952年から68年頃の学校論は別の文書で記し、ID村の記録では水浴びとの関連に留(とど)めることとする。

もっとも上記の話はプロとなろうとしている人を除く。
英語でも・水泳でも・何でも、プロは商売ゆえに、ID村水泳方式では通用しないことは言うまでもない。他の商売と同じことである。しかし、全員が水泳や英語やソフトボールのプロになるが如く、みかけだけの学校授業は悲劇より誰にとっても時間の無駄のような気がする。おまけに実質はプロ養成の教育でもない。


最後に 当時の世相に話を移そう。
当時の風呂は大抵薪(まき)であった。そこで、山で木を切り、その木を運んで家に持ち帰り、斧(おの)で割っていた。昔の子供が腕力が強いのはこうした作業の影響もある。

大洪水がたまにあり、我が家下のAH家までつかったこともある。
農繁期は学校が短期間の臨時の休みとなったり、早く終了したりしていた。尚、学校の暖房は石炭ストーブであるが、最初に火をつけるため用の薪(まき)を、生徒が当番で家から持参していた。

物価は地域ごとに格差があり、大阪と美作町では大きな開きがあり、当然、美作町の方がはるかに安かった。さらには、美作町より鳥取市の方が大都市であるにもかかわらず、鳥取で氷を食べると美作町よりも安かった。鳥取ではかき氷が5円程度であった記憶がある。このように地域ごとに食堂は値段が大きく違うのが常識であり、現在の如く大阪も美作もレストランの食事の料金が同じということは考えられぬことであった。

 尚、小学校の高学年の頃姉(次子)の金を拝借(はいしゃく)し、地元のK店でジュースを飲むと瓶(びん)6本程度を飲め、K店の小母(おば)さんが不審に思い、我が家に報告にこられ、姉のお金の拝借がばれたことがある。尚、このとき拝借(はいしゃく)した金は100円である。確か100円でジュースを6本飲め、まだお釣りがあり、もう一度行こうかという前にバレタのである。
ジュースが1本10円か15円の時代である。現在の物価では1本120円(2020年では140円)相当のものと思われる。
尚、当時はこうしたセーブ役の人もおられたということである。

また、遠方に住んでいた小父さんが「キャンデー」、「キャンデー」と叫んで自転車で回ってこられた。アイスキャンデー売りの小父(おじ)さんのアイスキャンデーが5円か10円という時代でもあった。その頃、我が家界隈では道が細く、舗装(ほそう)もされていなかった。
魚も、行商の小父さんが自転車で売りに来られていた。



(2020/07/17 6:07追記)
上記の文章は、大学校講師生活を辞めた直後のため、教育問題が多くなっている。今ならば、教育問題よりも、世相(せそう)を中心に書くであろう。今回は、1999年に書いた文章の紹介のため、誤字・脱字などの微修正としている。追加事項や、世相中心に記すのは別の原稿で行うこととする。
なお、英語が多少できるようになったと記載しているのは、2000年頃の話であり、2003年頃から約20年英語などは本格的に読んでいないため、今(2020年)は再度忘れてきている。とは言っても、大してできた訳ではないが、総合的には2000年から2002年頃がピークだったように思われる。

ちなみに、私は英語の教師ではなく、本職は社会科学が専門であり、高校で言えば社会科の教師である。ポリテクカレッジ岡山も経済学と法学で教壇という話であったが、「是非(ぜひ)、専任講師に。そのためには英語ももってもらえないか」で英語も持っただけである。なお、その数年後に、専任確約を尋ねると、「専任は間違いない。…」であったが、私が(英語力が十分ではないため)「専任採用時に英語の試験があればどうなるか分からないのではないですか」と正直に尋ねると、ポリテクカレッジ岡山初代副校長(前身の高等職業専門学校時代の校長)が「専任時に試験はありますが、浜田先生の場合には心配ご無用です。受けるだけ受ければ、必ず通ります。受けるだけでよろしいです」と断言をされていた。


2020年7月18日 | カテゴリー : 教育, 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA