💁“求め続けて第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動💁被害と各種工作事件―(4)・精神破壊へのポリテクカレッジ岡山の波状攻撃(正式公開)

“求め続けて第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件―(4)・精神破壊へのポリテクカレッジ岡山の波状攻撃(正式公開)


【更新履歴】

2023/01/28 5:26 下書き掲載(ただし、昨年末からOne Drive保存){もっとも、今回は2010年に菅直人総理など数十名に書留送付済み原稿の一部である}

2023/02/06 19:24 一番上に、ポップアップ用写真と追記を記した。後は、諸トラブルから見直しは不可能となり、1月28日掲載のまま公開する。19:51 追記


構成】
《◇―序・授業の場を奪われ、生きる権利を剥奪されたポリテクカレッジ岡山時代》
《◇―1:駿台辞職とポリテクカレッジ岡山及び勤務校での全ての豹変》
《◇―2・体当たり人物は学生Sの名を語った偽者の証明》🆕
  ―今回新証拠を提出。

《◇―3・未曾有の大流血事件を強制的に回避された話》🆕
《◇―4・精神破壊へのポリテクカレッジ岡山の波状攻撃》
《◇―5・私が英語ができるか―…であることが専任詐欺にあった証拠》🆕
《◇―6・駿台事件との関連性と差別》🆕
  ―私が終始一貫して臨む物―民主主義に基づく裁判での解決―


(2023/02/06 19:24 追記)

【表紙の写真】(写真はクリックで拡大、二度クリックで巨大)

(2023/02/06 19:47掲載)

1995年4月24日19:46撮影:写真№95-050-06A-f

写真の下に以下のコメントを書いた。
「地蔵様は願っているのです。学生が、・・・・・・。そして大学は、教師は・・・。」
拙著『旅は“心”なり:孤独な道・短大からの道を振り返って-孤独な友とたどった道:岡山探訪-短大編』より抜粋。
1995年4月21日午前7時24分頃撮影。

次回の、ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)の写真もご覧いただきたい。
こうした感じで学生と接していて、前回までに記した体当たり人物が学生の中から登場するはずがない。
ちなみに、我が家からこの学校までは片道100キロある。午前7時24分撮影とは何時に家をでたかも注意してもらいたい。午前5時半以前には家をでないとラッシュアワーに巻き込まれる。片道2時間余りと考えると、この日は何時に家をでたか。
同大学での使用プリント用に撮影した。
撮影後は授業開始までに学生用プリント印刷作業である。全て無料労働であるが、これらは問題がない部類である。だが、拙著『恐るべき労基法違反』に記している、悪質な無料労働例をご覧いただきたい。

1995年撮影とあるが、学生Sはこの年に担当した学生であり、体当たり人物とは別人のはずである。

(19:30 追記)

この建物群で、私が最初に行った頃は学生は百人もいなかった。私が辞めた1998年は水増しで学生総数は300人近かったかもしれないが、今は4年生でも300人くらいだろう。だが、建物群はこの1.5倍から2倍になっていると思う。雇用保険料を原資として運営している労働省系大学のため赤字は無関係経営である。当時、約30校全国に存在していた。島根では当初40人程度で敷地面積は7万2千平方メートルあった。

雇用促進事業団(後の雇用能力開発機構)運営であったが、一度、必要度と費用問題をチェックすることが不可欠である。授業内容は文部省系大学とほぼ同一であった。


 

この事件は私の脳が疲弊していたため極めて危険であったかもしれない。当時は精神疲弊で、逮捕などという生やさしい物ではなかった。
同時に、問題の本質を記す。

当時、私が怒っていたのは、学生以上に、学校か、それとも学校に指図をして、私に強制労働・貢ぎ労働を強いている人間に対してしてであった。それに学生S(正確には部外者S)も加担したという怒りではなかろうか。

それも、このままいけば、学校に出校(出講)しても生活保護間際であったため、怒りは更に熾烈であった。
それらの事情を記す前に、一つ訂正若しくは追記をしておく。
1995年度学生が突如豹変したのが先か、私の脳が突如軌道を外れたのが先かと言えば、後者の可能性もある。
私の精神疲弊は各種記録では1995年3月の労基法違反から引き起こされていた。この事件は簡単に言えば年収100万円契約を一方的に50万円に、藤井氏によりされるという暴挙であった。
しかも脅しではなく、実際に世取山課長により50万円×約4年の被害を受けている。
そこから精神疲弊は徐々に起こっていた。タイ、京都の東寺と。…

これらの攻撃は、1995から1997年へと継続して起こっており、精神の限界に来ているときに、更に、学生Sの名を語る部外者をつかい、私にまたもの貢ぎ・強制労働かという怒りが根底にあった可能性が高い。大変危険な精神状況となっていた。

それでは、以下、拙著『恐るべき労基法違反』から必要部分のみを抜粋する。


☆☆☆以下『恐るべき労基法違反』から抜粋☆☆☆


《◇-2:再度の労基法2条2項違反》
1994 年度は、何故か学生が真面目だったような記憶がある。
ところが、95 年 3 月 6 日に、またも労基法 2 条 2 項(労働契約の遵守)違反が勃発する。95 年度より週 2 日と口頭で労働契約をかわし、その後に学校長印のある労働契約書(3 月 1 日付)まで送付されてきた後で、3 月 6 日に藤井光生氏から変更理由も告げずに週 1 日にすると電話での一方的通告があった。

私が生活問題から労働契約遵守を要求したにも拘わらず、「今まで(年収 40 万円台)で生活できたなら今後もできないはずがない」の繰り返しで、激論の挙げ句に電話は切られた。年収 90 万円くらいが 40 万円台になったことを意味する。
これは打診ではなく労働契約違反である。……(『恐るべき労基法違反』p68)

この時期の全体概況を記せば、1995年3月6日から 頭の痺れの初症状 が開始し、翌 7 日も同症状が見られ、以降こうした現象が続発してくる。尚、3月9日になり、労働契約違反を撤回するとの電話が入ったが、この間の激論(事実上の喧嘩)により、学生に対する事務員・職員と私の連携は不可能となったことは常識である。これと同時に94年度と異なり、95年度学生が 89 年に類似し、乱れ始める。


この労基法違反を契機に今度は 98 年辞職までに、体重は痩せに転じ、退職時には約 55 キロまで痩せ、内蔵はむかつき軽い吐き気、胸焼け・不快感 が始終起こり、精神面は頭の麻痺、 自己意思分裂(対立)現象 、 自己意思急転現象 、 頭の痺れや白紙化状態 が車運転中にも起こり、約6度交通事故死の危険に遭遇し(第三節参照)、
(『同上書』p69)

1995 年3月6日の電話がどの程度の衝撃だったのかを、以下99年に記した『恐るべき労基違反』をそのまま再録(誤字脱字は今回修正)することにより実証する。
藤井氏が労基法 2 条 2 項違反の通告してきたときに、しつこく言った言葉が「今まで週1日(2 齣=200分で年収約 40 万円該当)で生活できたのだから、週 2 日(4 齣=400 分)と労働契約を結んでもそれを 1日(2 齣=200 分)にしても生活できない訳はないでしょう」であった。

これに対して、私が「生活できない」と何度繰り返しても、変更理由を正式に告げることもなく、彼も
同じことを何度も強硬に繰り返すのみであった。そして、結論として週2日の労働契約を守るという言動なしに電話は切られた。

まず、言おう。今まで生活できた訳がない。
週1日で年収 40 万円台である40 歳の人間が年収 40 万円台では生活できる訳なく、(99年当時)80 歳の老いた母親の年金と内職に寄生して生活しており、生活は今までもできておらず、(教師を中途退職した)故父のわずかな貯金や姉への借金等で食いつないでいたのである。

年収 40 万円台とは生活保護よりも低い。国民年金の掛金十数万円、通院費などの医療費年約 10 万円、いつ入院か分からぬため止められない生命保険の掛金 8 万円強、また田舎のため通勤用の車(膨大な教材運搬のためには車通勤が不可欠)の維持費・車税・任意保険料・車検積立金で 20 万円以上等々を合わせると、授業に関する事実上の義務的経費のみで 50 万円を超える。その上で教材関連の元手も必要である。

しかも第1章での投資(貢ぎ)や、第2章で記したように 92 年3月にも労基法 2 条 2 項違反で大被害を受けていた。その他の労基法違反や不法行為だらけ、そして専任確約で招聘され、働き盛りに 10 年に及ぶこうした生活の中で、またもの労基法 2 条 2 項違反である。また、他の仕事をできなくしたのは誰か。

即ち、第2章で記した 89 年3月の岡短不法行為のために商売道具の頭が使い物にならなくされ、更に 92年3月の労基法2条2項違反のせいで河合塾などを棒にふり、同時に十二指腸潰瘍再発させられた疑いが強く、入院、大吐血で再入院……となり、生活できなくさせたのは誰かということである。今までも岡短の犯罪(労基法違反等)のために、老いた親に寄生して生きており、今まで生活できたのでなく、できていなかったということである。それらを抜きにしても、私の方が労働契約を遵守している以上、私が心から同意しない限り、岡短には労働契約を遵守する義務があった。(『同上書』p70)
……
3/6:労基法違反:契約を結んだ週2日4齣(400分)を週1日2齣(200分)に変更する(年収が半分になる)事を通告される。
→頭の痺れ初現象7時間続く
(『同上書』p71)

3/12:: タイへ出発→関空で女性職員に些細なことで激怒(過去40年この種の激怒の前例は皆無)。 …
→私にすれば前代未聞の些細な件で怒鳴る異常?精神関連破壊(若しくPTSD)の証明

→深夜超不快感のため、旅行止め帰国決定。吐き気とも腹痛とも表現できぬ訳の分からぬ胸焼けと超不快感。後の1995年後半以降の不快感連続の初現象。
3/14:朝、添乗員に帰国を申し入れる→事実上拒否される。

→不快感はバスに乗るや軽くなるも継続。バスで揺られ、歩く度に体調やや改善へ向かう
3/14-16:体調→車酔いでないのは、不快感がバスに乗るたびに緩和、飛行機も同様。

3/26:義兄と喧嘩
→近くで食事と言われ遠方迄連れて行かれ、体調が悪く、再度吐血の恐怖に怯えているときに引き回されたことが原因である。通常ならば、義兄には何故怒ったか理解は不可能と思われる。義兄に問題は一定あったとはいえ、義兄に伝わるように怒鳴るということは家族崩壊に至る大変な事態のため通常は慎重になる。
→義兄への怒鳴りは当時気づかなかったが私の精神が既に破壊されていたか、少なくとも高揚が激しかったせいかもしれない。{関連→第2章四節の《◇-3》の資料文参照}
p72

[1995年]
1)5月:精神高揚:東寺で(相手に不当性があるとはいえ従来は無視するレベルで)大喧嘩で人垣ができる。大声をだしパトカーを要請したため、係員もかけつけたので、受付の人か誰かが覚えているであろう。相手の写真は撮っている[5月 21 日]。
p73

2)6 月:精神高揚:学生用教材に 89、93 年の吐血が不自然に起こったため、誰かの仕業と考え、それを相当な枚数のプリントにして正面から怒りをぶつけている。心身症でも心身症と分からねば原因不明の病気で誰かの仕業と考えて怒るは当然であるが、問題はそれをプリントにして配付するという行為にある。従来ならば、数行程度ならともかく本格的な形ではしない。翌年は当然没としている。精神が正常なときにはそうした物を学生向けには配付しない。

4)10 月緊張→何故か前期に何ともない学生を見て急に心臓のドキドキ現象が起こる。誰かが催眠でもか
けた如く形で。私は映画か何かで学生を出汁にして話題提供のため、本当に催眠で心臓をドキドキさせられたと考えて、授業中に怒り、「何故私がドキドキさせるのか」と学生相手にぼやいている。季節の変わり目であり、95年3月に自律神経失調症を再発させられたため自律神経失調症の可能性も高い。

[1996年]
8)頭麻痺:同時に96年1月と2月に車を運転中に、無法車を見て頭が麻痺し、交通事故の危険に遭遇する。

9)1 月[95 年 12 月頃から何回も言ったか]学生に「お前らを扱うのは簡単も、職員に手を焼いているため何もできぬのだ。ナメルナ」など授業中に怒る。
10)96 年 3 月:不快感:小豆島ツアーを申し込むや、原因不明で、体調が悪化しキャンセルする。

13)6月:異常興奮:無法車に怒り正面衝突を狙うが、何故か激突せず。即死と思った日
→第三節に当時の覚書収録。

16)9 月:一日入院(自律神経失調):突如体調悪化、寒気から急に熱くなり、更に悪寒で 1 日入院。白血球が 12000 で盲腸か自律神経失調かと言われる。(96 年 9 月 23 ~ 24 日TJ病院入院)
17)9 ~ 11 月:内蔵超不快感:相変わらず、常識から考えれば精神を破壊されたと思われる覚書を記し続ける。また9~ 11 月は超不快感か何か表現しづらい体調悪化で一歩も歩けぬ日々が続く。ところが一端バスに乗るとさほど何ともない。訳の分からぬ体調が続き、私は現代科学の観点からは病気として当時は理解できず、ここから「永久の世の映画」説が更に強まる。第3章六節参照。
18)11 月:自己意思分裂現象。
p74
19)1月:頭の白紙化・記憶喪失:車の事故に遭遇(警察の判定では私が起こしたとなっている)。

22)97年11月無法・暴力学生がでてくる。学校がこの学生をばったことで怒り心頭→第四節参照。
23):11 月意思の急変現象と精神の高揚
【参考―8】学生と相打ちの双方の瀕死状態か死亡を願うような極端な発想も登場してくる。

やはり危険なため 97 年秋に車は廃車とし、それ以降姉などが無料で車をやると言っても断り、車には一切乗っていない。
1998年1月→主治医AO医師のアドバイスで岡短を辞職。
「薬を山ほど積んでもそうした症状は抑えられない。原因ははっきりしている。職場(岡短)にあります。辞められるものならば辞めた方が良い。」
【参考―10】この時点では、私は心身症という言葉も知らないし

第二節:94年から辞職迄の労基法違反と不法行為
⇒病気に関する学校責任問題の補足
1)94 ~ 96 年全体:労基法 15 条違反・所得税法231条違反・所得税法242条:相変わらず賃金等の月極支給明細書なし、94 ~ 96 年内の数年は辞令もなく時給も不明、95 年か 96 年頃、毎月の賃金が 30 日締めで計算、5日支払ということを聞くまでは何日締め・何日払いかも不明。

2)95年3月6日:労基法2条2項違反(簡単に言えば、締結した労働契約から推定される年収を一方的に半額[約40万円台]にすると通告してきたこと)。専任確約問題を加味すれば労基法1条違反ともいえる。
3)95年秋:職務怠慢、教育放棄:校内の本館出入口直前を車で暴走した殺人未遂学生への対処放棄(『同上書』p76)
……
※膨大な労基法違反は参照

……


《◇―4:岡短無料強制労働疑惑》(斜め字は『同上書』から引用)
……実際に学生を入れ替え話題提供を図った疑惑である。即ち、九四年度は駿台型学生を集めて、
意識を回復した私の「求め続けて」に火をつける。次に色々なタイプの学生、否、生徒をいれて、私を金八にみたてて、私がどう裁決し、どう行動するかを全国の教職員に見させる。これがこの期の本質となる。もし、第五編第二幕に記したことが事実ならば、学生SYや学生Rは学生ではなく、若手教員か教員志望の大学生・大学院生の可能性が高くなる。前者ならば、おそらく自分が生徒から受けた被害と同じことを私にして、私ならばどう裁くかの実験をした疑惑が大である。少なくとも、この事件以外でも、様々な実験を私にして私がどう処理するかを、外部の教員が岡短に来て観察していた雰囲気は九五年か九六年頃以降しばしば感じていた。

(そのおかげで、著述業家でもある私は、原稿を何十本書き損なったか分からない。被害甚大という物ではない。確か、二〇一〇年七月一三日の『徹子の部屋』の追悼番組の中で、井上ひさしが言っていた。彼の方が原稿を書くのをキャンセルした場合の違約金は、1本につき五千万円だそうである。その逆の場合はそれ以上となるであろう。)

ただし、腕力も回復した私では学生が危ない。そこで九五年三月に、九二年同様の大労基法違反をして、私の脳を狙い一発で恰(あたか)も脳震盪を起こさす。同時に職員と私の連携を遮断する。そして九五年度学生を八八年若しくは八九年型学生にするために、半分は真面目で半分はチャランポランに近いどこかの高校生を放り込む。私の脳が弱体化するまでの間(前期)は大人しくさせておく。
-(『同上書』p88)
脳震盪が効いてきた後期になり一変させる。しかも、和気藹々(わきあいあい)と仲良く双方紳士的に一定期間接した後で、急変されれば誰でも戸惑う。九六年度は管理徹底型教育、まさに家畜の調教型で躾(しつけ)られている生徒の集団を放り込む。

九七年度は、私が担当している四クラスに、全部バラバラなタイプの学校の生徒を高校か中学校と提携して入れる。(私は同意していない。)そして、現在の中学校や高校に不満を持っている生徒などが、私を金八にみたてて、こういう態度をとると浜田先生ならばどう対応し、自分の学校の教師とどう違うか、という実験を事務員と連携して行った疑惑である。これでは、私は①授業準備でも同じ教科で四回リピートですむ所が、四クラス別々の教え方をせねばならず、教材研究時間が四倍となる。

②学生がおかしなことをしたことへの私の裁定・注意文書作成や配付作業等で費やす労力は更に増大する。

③その上で、労基法違反も続発し、事実上それらへの対応を強要される。こうして、①~③を
合計すると同一賃金で労働時間は十倍以上に強化された。賃金の十分一以下への事実上の切下げである。しかも、こんな馬鹿な状況下で、事実上一日十数時間かつ年に三六〇日もこの岡短に取られていた。
(『同上書』pp86-87)

……九七年無法学生Rと体当たり学生SYは、実は、学生ではなく教師であった。
……。
第三編で、登場した体当たり学生SYは何者か。これも映画説では全く信じられない人物となる。
私の仮説では、体当たり学生SYは、実は学生ではなく、教師だったとなる。即ち、現場で学生に手を焼いていた教師が、私(浜田先生)ならば、そうした学生をどう裁くかを、私から学ぶために敢えてやった芝居だと分析している。若しくは、教師でないとすれば、教師志望の大学生か大学院生である。

その根拠は、私と学生SYが言い合っているのを、第三編に記した如く、事務室の奥の会議室に類似した部屋で、何人もの人(当時ですら多分教師と想像した人達)が見学していた気配があったからである。まるで、学生への対応の仕方を研究するための教員の研修会の如く雰囲気が九五年から九七年には終始あった。このSY事件のときはまさにその典型であった。そうした実験は随所に見られた。


授業中に帽子をかぶったらどうなるか、どうしたらよいか。こうした実験が、特に九七年は集中した。

これが映画説から見た回答である。特に、SY事件やR事件に関する、浜田見解のプリントを配付すると、奪うように学生がそのプリントを取ったのだから。
なお、この前後に当時中学校校長をしていたITさんが、私に、「兵庫県で面白い仕事があるぞ。
現場の中学校などにただ出向き、各教師の授業などを見学しコメントするだけで良い」という話を雑談風にしたことがある。即ち、学生ではなく教師を教える、若しくは指導する仕事を、と。

よって、この仮説にたてば、現場の中学生・高校性を岡短に山ほどいれると同時に、その学校に関係した教師を何人か岡短に放り込んだとなる。そして、私に突っかかってきた学生R、SYは、実は逆で、現場で生徒に手を焼いている教師の方であったとなる。自分が生徒にやられたのと同様なことを私にし、私ならどう対応するかを肌で学び教育上の参考にするためであった、と、辞職一~二年目から疑っている。
(『同上書』p90 )

一九八八年に東京法律事務所に相談に行ったときに、弁護士の神田君がふと漏らした話である。「浜田さんさ~、最近では(教員志望の)大学院生でも、教師に体当たりする人がいるんだって」、と。


だが私がその種の仕事は、正当な労働契約の下で私が大学の教育学部などに籍を置き、正当な賃金などの報酬を前提として、学生(若しくは若い教師)に正々堂々とするものである。依って、数年前から、筋を通させるため、幾つかの大学の教育学部教授・准教授の公募に応募している。卑怯な手でやられると、こちらは永久に金が入らない。

岡短学生の代わりに、他大大学の学生や(例えば現役)生徒を私に無断で入れ替える等も、当然契約違反をしたことになる。労働強化などによる、私への被害として、「機構」は私に償いをしなければならない。

もし、私の仮説(私を実験材料にした強制・貢ぎ労働)ならば、強制労働という刑事事件であり、刑事告発と、民事ではこの労働に関して家で拘束された時間に対する報酬に利子をつけての支払を求める。同時に慰謝料も。
(『同上書』pp89-90)

大するのとは逆の大学校である。増えるのは学生数増大に起因する職員増員による雇用促進事業団の収入のみである。

(B)二重労働問題
もう一つの〝高校〟恐怖症の二重労働とは条件が違うということである。これは岡短に急に(通常は園児行動であるが今日では)高校生らしき人間が増え、どこかの高校から委託を受け、私に授業をさせられたとしか思えなかったからである。ここでのネックは賃金の問題である。

東大生を教えるという約束で東大の時給にOKを出す。ところが、現場には幼稚園生をおく。ただし通常の大学生らしき人物も2名ほどいる。すると授業の準備は大学用の準備をせねばならず、しかし学校では園児のおもりもしなければならない。しかも、契約上より東大生用の準備をする義務も負わされる。東大用の授業準備と授業が=仮に 200 分2万円で、園児のおもりが 200 分2万円なら、当然 200 分4万円もらわねば割が悪いとなる。また労働契約にも違反もしている。

岡短では、一応岡短ということで岡短用教材作成と授業の準備をする。ところが学校では 95 年から急に身体つきは高校生の様相であるが、園児の如く(昔の乱れとは異なる駄々(だだ)っ子・構(かま)ってほしいための挑発型)行動をする者が多数でてきた。


また、通常の高校生そのものと見える学生も少しでてきた。すると、授業準備は常に大学用をし続け、学校では同時に中学・高校生用の話もせねばならず、また園児の指導もせねばならず、おまけに殺人未遂暴走車などの後始末で生活指導まで押しつけられたのが実態・実体であった。

よって岡短時給= 3700 円、中高用指導料= 3700 円、園児の相手料= 4000 円、生活指導料= 5000円と全部もらわねば割が悪い。これは妄想かもしれないが 95 年からでてきた不満の土台の一つである。(2010年現在では、妄想ではなくまず事実と考えている。)
大学非常勤講師の賃金のみしか支給せず、大学用教材などの元手を購入し、その準備をし、学校に行くと高校生が甘えまくり、幼稚園生が走り回り、それらの全部を私に押しつけ、その面倒をみさせられるとなると労働の強化であり、労働契約違反であるという感情が常に土台にあった。


しかも、妄想ではなく本当に高校生を委託し引き受けたのではないか、という疑念を今も持っている。
もし、これが誤解としても、それは私の精神の乱れからでなく、現実に現在の甘え型高校生(昔の過保護駄々っ子型小学校低学年)の行動様式が 1995 年頃から学校の過保護の下で蔓延してきたからである。


更に、岡短の時給は最後の辞める頃には 3700 円で一見すると良いように思うかもしれないが、

(かつての真備高校の非常勤講師と異なり)夏・冬・春休み・祝日は賃金0円であり(これ自体は労基法にも[日本が肝腎な点を保留しているため]国際人権規約にも抵触しない)、おまけにボーナスなどの一時金もなく……で、兵庫県の小・中学校、高校非常勤講師や私立の岡山県の明誠学院(旧・真備高校)等の高校非常勤講師より同じ時間数を持っても年収では安いのである。

(『同上書』pp107-108)


……
何故、岡短を辞めなかったのか。大昔の女郎の例えでは、九〇~九三年は「足抜き」をしたいが、
女郎の仕事が原因で大病になると抗議どころか、他で使い物にならぬため女郎を首になるのを恐れることは既に述べた。万一、その女郎が元気になっても、監禁され逃亡できぬようにされるのみか、もの凄い組織力で他の望ましい仕事を完全に封じられれば、月日とともに観念せざるを得ない。観念をすれば、女郎の範囲内で少しでもましな待遇を求めるものである。例えば、「女郎としての確約された待遇だけは最低でも保障しろ」、「せめてピンハネするのは止めて、決めた約束だけは守ってくれ」、「むやみに暴力を振るったり私物を盗んだりするな」とかである。これが、私の九五年~九七年である。私にとっての「確約された待遇」が〝専任待遇〟であり、「ピンハネするな」は〝労基法違反を止やめろ〟であり、「暴力や私物を盗むな」が〝偽学生を放り込み二重労働(卑劣な手段で労働の強化)を強いるな〟や〝職員のミスで私物を盗むな〟である。

だが、通常説であろうと、X1説であろうと、映画説であろうと、私が精神を疲弊させられた事は事実である。しかも、八八年度以降の武器は同一である。結論から言えば労基法違反である。そして、岡短辞職後のパッチテストと思わせた巫山戯た話題提供型挑発でも、被害・病気の原因は労基法違反であると反応ははっきりとでている。もはや、労基法違反被害症候群が病気の本質と確定したと言ってよい。こうした不法行為→心身症→自律神経失調症→内臓疾患となる。全貌が明らかになれば、新聞のトップ記事になる犯罪であり、TVで、場合によれば世界中のTVで、報道されるべく大事件である。

どの説ですら、厚生労働省所管、独立行政法人雇用・能力開発機構(私の在職時の理事長は労
働省事務次官の天下り)による労基法違反を中心とした大被害だからである。再度記す。嘘は何一つ記していない。本当に現在も進行形の事件である。
友人の同僚A講師は、この岡短を捕虜収容所とか強制収容所とか称していた。そこで彼に敬意を表してこの第三編を「強制収容所」とした。本質は、教育問題ではなく労基法一条(人たるに値する生活)違反の上で、更に多数の労基法違反被害であり、収容されたのは学生ではなく私であり、戦前の蛸(たこ)部屋、強制連行の世界での貢ぎ労働連続であった。

ちなみに、岡短を辞職辞職して数ヶ月の間に、岡山県明誠高校(岡山県で公私あわせて、最も年俸の高
(『同上書』p 118 )
い高校)より専任で来て欲しいと、岡山の予備校にも、我が家にも電話での教壇への誘いがあったが、とてもいける状況にはなかった。精神疲弊が激しすぎた。第一、即座に教壇に立てる状況ならば岡短を万一辞職するとしてすら、一九九八年三月末にしていた。常識である。
まさに江戸時代の女郎の世界、それが岡短時代であった。上記と重複記述であるが再度記しておく。

振り返れば、89 年末頃から、特に 1990 年以降は岡短を辞めたいというよりも、〝足抜き〟をしたいに決まっている。女郎は当然足抜きをしたい。だが、女郎の仕事が原因で大病になると、抗議どころか他で使い物にならなければ、女郎を首になることを恐れるという逆の思考になる。それが私の 1990 ~ 93 年であった。万一その女郎が元気になっても、監禁され逃亡できぬようにされるのみか、もの凄(すご)い組織力で他の理想的な若しくはそれに準ずる仕事を完全に封じられれば、月日とともに観念せざるを得ない。

観念すれば、女郎の範囲内で少しでもましな待遇を求めるものである。例えば、求めるものは「女郎としての確約された待遇だけは最低でも保障しろ」、一応報酬の約束があれば「せめてピンハネするのは止(や)めてその約束だけは守ってくれ」、「むやみに暴力を振るったり私物を盗んだりするな」とか、……である。これが、私の 1995 年以降である。

女郎にとって「確約された待遇を実現せよ」が私にとっての専任待遇であり、「ピンハネするな」は「労基法違反を止(や)めろ」であり、「暴力や私物を盗むな」が「偽学生を放り込み、二重労働(卑劣な手段で労働の強化)を強いるな」である。特に中心は、監禁労働、社会的意義なし労働でも、安いとはいえせめて岡短の専任の賃金をくれである(ましてや、専任確約で閉じ込め、非常勤講師としての労働条件すら侵されるでは何をか況[いわ]んやである)。だが、それは最悪の選択肢の中での最悪の選択でしかない。当然、
その枠組自体をなくし、自由になり、転職と自分の能力に相応(ふさわ)しい仕事に就(つ)くことへの妨害自体をなくしたい。これが理想である。否、権利である。
(『同上書』117-118)
……
(C)結局この会談では、上記以外ポイントの中の幾つかは以下の通りの返答であった。
(1)体当たり学生〝SY〟についてはもう卒業した。但し、私に暴力行為をしたのがSY本人かどうかは不明でありその確認はしていない。
(『同上書』p136)

2023年2月6日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA