気が向けば一言【仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」

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気が向けば一言【仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」


【登場語句】#


【更新】下書き公開ライブ型で2019/01/11 19:48から下書き公開。 2019/01/12 1:08下書きは一応終了。 2019/01/12 16:33公開。




《はじめに》


この原稿は、やむを得ない理由で、大急ぎで書いたため、一部ミス記述があるかもしれない。取りあえず公開して、しばらく寝かせた後で、修正版を「公式ブログ」に掲載予定でいる。

《全箇所共通注意事項》

(1)著作は、原則として、十二回の見直しをして作成している。
(ブログは、通常、一回程度の見直ししかしていない。)
今回の原稿は、この十二回の見直し以前の単なるメモである。
そこで、作品時点では大きく様変わりするであろう。
それを頭に入れて読んでいただきたい。

(2)この文書は、故意に嘘(うそ)を数パーセント程度いれている(私から見れば多分一パーセント程度)。どこが嘘かは公開できない。善良な第三者に迷惑をかけないための措置である。
総論として、この文書はフィクションとして書いている今回だけは実験的に、原則として実話で記述。ただし、著名人以外は名前は伏せる。逆に言えば、今回の内容に関しては、名前をだしても問題ないと判断したからである。

(3)『日本のフィクサーME』登場人物のキャラクターなどは以下を参照願いたい。
安らぎ文庫>>6-1・『日本のフィクサーME・下』《『日本のフィクサーME』登場人物の紹介》
http://h-takamasa.com/book-01/custom57.html
◎風景描写→字数の関係で、メモではごく一部を除き風景描写は原則として大きく省略する。



2013年訪韓問題については①韓国政府説、②北朝鮮説は既に記した。次は③ニコンのライバル社説(企業説)と政府説であるが、催眠誘導で、④政府説は飛ばし、かつ先に⑤映画説や、⑥カムイ伝型謀略集団説を書けと暗示があった。流れが失われるため、余り乗り気はしなかった。だが、幾つもの脅し的な物もあり、やむを得ず、下記⑤及び⑥を今回と次回掲載する。

なお、当初は③企業説は問題なかろうと思っていたが、企業説に絡み、私の住んでいる市…も、多少関わったばあいに備えて先に⑤映画説、⑥謀略集団説を書いておいてくれとの指示もあった。

読者獲得上は③企業説が先であるが、妨害及び各種威嚇上やむを得ず、⑥集団謀略説と⑤映画説を先に掲載する。今回はテーマも訪韓の経緯―4ではなく、「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」となり、順番が狂うが先の威嚇のため、どうしようもない。まず、最初に訪韓での諸妨害の犯人に関する仮説を【資料】として掲載する。



【資料】
☆☆☆☆☆☆
六つの仮説
☆☆☆☆☆☆

①(韓国謀略説)訪中の後で、従軍慰安婦肯定論を私に結びつけられ、その誤解から器財をやられた。韓国国民の反感をかった。
……
②(北朝鮮説)訪中の際に、#張成沢 #金正男に絡められ誤解をされ、北朝鮮政府ににらまれた
……
③(ニコンのライバル社説)カメラメーカーの争いは熾烈(しれつ)であり、まさに企業戦争であった。
……
④訪韓の最大目的は安重根記念碑撮影であった。さらに、当初は韓国から竹島(独島)に行くか、それとも板門店に行くかを検討していた。そこで、日本政府関連の一部か何かが、その妨害工作をした。
……
⑤映画説で話題提供を図り続けている人間による仕業。
……
⑥さらに、その中で、私の周辺で、白土三平の『カムイ伝』型で、私と近隣の親戚をいがみ合わす工作(近隣・親戚間との分断・対立策謀や謀略)が2002年頃、遅くとも、2005年頃から徐々に進行していた。その関係者達による一貫した攻撃の一部かもしれない。
その工作は、該当者のアキレス腱(けん)若しくは琴線(きんせん)を狙い、徹底的に、ときにはこじつけてでも無理矢理、私と該当者と対立をするようしむけてきた。
……
徒然(つれづれ)なるままに№23・写真残酷物語第七話・政経編(残酷物語最終回)
●http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=22085

徒然なるままに№23・写真残酷物語第七話・政経編(残酷物語最終回)




「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」

 


今回だけは実話で記すが、前回までとの繋がりは不明としておく。ただし、著名人以外は実名では記さない。
奇異な人生、仕事の能力がないときは仕事が降ってくる。能力があるときは奇異な形で潰される。大学卒業時(1975年)から駿台予備学校辞職(1988年)までを振り返る。
それ以降は、拙著『閉じた窓にも日は昇る』(Kindle、Kobo各百円)か、『恐るべき労基法違反』(PDF無料配布:http://h-takamasa.com/rensai/custom.html)を御覧いただきたい。


【大学卒業時:1975年】
大学時代に就職活動は一切しなかった。就職課にも一度も行かなかった。
就職口は相手から来た。
①新日鉄(確か新日本製鉄)が、私の知人を通して誘っていただいた。仕事内容は新日鉄内の従業員一部を学校型で教育をする。待遇は正社員であった。教職に未練があったため断る。
②教育委員会の仕事。
友人を通じて打診があり、ここにする。待遇は正式教員とほぼ同等も、雑務がない分だけ労働条件はよかったかもしれない。ただし、身分は嘱託であった。


【教育委員会終了時:1976年】
高校教員から大学院進学に進路を変更したが、大学院浪人前に、運試しに新聞などを見て幾つか応募した。
①出版社。内定。一次が書類審査。二次試験三名{私(関学)、早大学生、金沢大学学生}であったが内定の連絡があった。
②EECだったか何か忘れたが。合格。ただし、大学院浪人に入るために、辞退した。

【東京4年目:1981年】
早大大学院に就職課があるのを知らなかった。そこで、一度も相談に行っていない。そのようなものがあるのを知ったのは55才頃であった。
寺島実郎(1947年8月11日- )氏は早大大学院政治学研究科の先輩で、ゼミも内田満先生のゼミで同一である。ただし、時期が違うため一緒していない。
彼の経歴を調べると以下の表記があった。
1973年3月 – 早稲田大学大学院修了。政治学修士
1973年4月 – 三井物産に入社し、調査部→業務部。
どうも、事務で就職の斡旋をやっていたみたいである。私は全く知らなかった。もっとも当初は博士課程までいくつもりだったこともある。
☆☆☆☆☆☆
☆☆☆(早大政治学研究科のHPより)☆☆☆
政治学研究科
2015年度・主な就職先・進路先
一般社団法人共同通信社、(株)岐阜新聞社、(独)国際交流基金、(株)小松製作所、日本銀行、(株)日本経済新聞社、(公財)日本財団、日本放送協会(NHK)、三菱商事(株)、 三菱マテリアル(株)、(株)ローランド・ベルガー、(株)ワークスアプリケーションズ、(株)河合塾進学研究社、アムンディ・ジャパン(株)、早稲田大学政治学研究科博士後期課程
https://www.waseda.jp/fpse/gsps/appilicants/career/
☆☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆☆
当時(1977年~1981年)は学生数が少ないため(私が入学したときは政治学研究科は一学年合計28名であった)、今よりはかなりよかったとも聞く。

1980年は、まだ1981年も東京にいて、事実上の大学院生活(研究生活)予定でいた。そこで1981年4月からの東京の仕事(アルバイト)は全て決まっていた。
ところが、突如、学校教員への焦りが出現した。
1981年3月下旬頃から岡山県の教育機関に手紙攻勢をかける。
岡山県のめぼしい高校数校や予備校にダイレクトに手紙を郵送した。

高校は真備高校から連絡があり、一度来て欲しい。ただし、高等学校からの返事はこの学校だけであった。予備校は二校ほどだし両方の予備校から返事があった。

真備高校は非常勤講師で、しかも教科は未知の倫社、岡山の予備校(福武書店系列の予備校)は教師はいるが特別枠をつくるので週一度きてほしい、倉敷の予備校は週二度で決まる。
こうして3月下旬に手紙をだし、4月上旬には一気に決まった。まさか決まるとは思っていなかったため、1981年4月からの仕事先(塾・家庭教師先)に詫び状をだし、気まずい思いをしながら、彼ら・彼女らから夜逃げの如く形で岡山へ戻る。

私が女性につきあってほしい趣旨の手紙をだしたことに眉をひそめる人がいたが、仕事ではこうした手紙で相当の確率で返事があった。それではアタックも手紙でもとなった。内容も紳士的に記している以上、更に自分の一生がかかっている以上、ましてや知らぬ人でもない以上、この手紙作戦を実行した。恋愛以外の面での手紙作戦の効果がなくなったのは1990年後半頃からである。
私の考えは、仕事口は待つものではない。相手が募集していようと・いまいと自分から売り込むものだと考えてもいた。

(以上、2019/01/11 20:31下書きで)以下、続く。


こうして、1981年度(1981年4月~1982年3月)は、一か月前まで思いもしなかった岡山に戻ることになった。
中心は、真備高校である。ここでは教えたことも・習ったこともない倫社を教えることになった。恐らく、手紙を出した効果で、採用試験なしで教壇に立つことになったのであろう。
私の思う就職活動は、大学時代若しくは一定の時期に自分の技量を磨き、その技量を相手にアピールすることにあると思っている。そのためには、相手に迷惑にならない範囲で売り込みをしなければならない。その手段として手紙は紳士的と考えている。応募の有無などとは無関係にである。
この真備高校時代の授業を求めての活動は拙著『求め続けて・第一部』(長期連載でHPで公開済みであり、後は微修正し出版待ちである)で紹介した。

もう一つは予備校である。ここで面白い校長に出会った。名は小野作次郎だったと思う。岡山県の校長の最年少記録の持ち主である。この予備校は福武書店(現・ベネッセ)系列であった。(今は合併して、福武書店系列ではなくなっている。)
一度、面接に来て欲しいとの返事があった。行くと、小野先生はこう言った。「今、政経の講師はいる。だから本来ならば口はない。しかし、君の熱意に打たれたので、君用に政経の口を特別枠として一口つくろう。だが、規模が小さい予備校なので、一時間しかない。その代わりにどこにいても来てくれ」、と。
この校長、当時名誉校長だったかもしれないはユニークな人物であった。上手くいっている予備校のノウハウを吸収させるために、その予備校に職員を派遣するだけではなかった。「私は長い生きがしたい。だから、長寿の人に会いにゆき、その秘伝を聞いてくる」、と。そして実際に会いに行ったようである。

この予備校在籍時代に、この校長に結構気に入られた。何しろ、熱心なだけが取り柄なので。そこを気に入られたのか、後に駿台で活躍した点を評価されたのかは知らない。

1982年から駿台の教壇に立つが、一年目は相手(駿台)は実験使用のため、余り仕事がなかった。そのときに、仕事口をこの校長(小野先生)に相談すると、次のようなことを言った。小野校長が福武書店に頼まれて別に本格的な進学塾(灘校型の有名私立中学・高校入学用塾)を運営しているので、そこで仕事をするか・どうかという話となった。採用試験は以下であった。

「塾の講師に授業をさせるので、君がその授業風景を見て、君ができると思えば即合格。できないと思えばやめればよい」。要するに、自分で合否を決めろと言われた。かなり私への信用は高かった。岡山県で最年少で校長になった人物で、福武書店にスカウトされる形で、福武系列の学校幹部とも言えた。なお、この人物は真備高校理事もしていたことは後に知った。

(以上、2019/01/11 20:57記述。以下下書きは続く)



更に、二十年ほど前頃に不思議なことに気づいた。
第一が福武哲彦氏の話である。
先の予備校は福武書店(現・ベネッセ)系列である。
福武哲彦(ふくたけ てつひこ 1915年 – 1986年4月26日)氏が、予備校の忘年会・新学期開始時の会…に頻繁に顔をだされた。職員の一部も不思議がっていた。この予備校は大変小さな予備校で、駿台の大教室一つ程度の学生数であった。
他方、福武書店は日の出の勢いであった。女子学生の就職人気ランキングの常にベスト10に入っていた。ボーナスも、12か月だしたときもあったそうである。思えば昔の話である。自惚(うぬぼ)れ抜きで言っても、私と蜜月のときには大抵の企業がそうなっていた。十以上簡単に実例を挙げられるが別の機会にしよう。

福武哲彦氏が、二次会でスナックなどに行くときに、遠方から私を指指し、「あれを(あの先生)もつれていけ」とよく言っていた。そして、スナックのような場所で、女性職員を通じてレミーマルタンを飲まして貰(もら)っていた。
ところで、2000年か2010年頃かわすれたが、父の遺品を整理していたときに知ったが、福武哲彦氏は岡山師範時代、私の父の一年後輩であった。当時は全寮制と思うので何度も口をきいていたであろう。

2010年頃までは、こうした経済界の大物と表から知り合いかと驚いた。今は、『日本のフィクサーME』の世界では、こうした経済人の方がME登場のボンと知り合いかと逆に驚くであろう。息子さんの福武総一郎氏との出会いは後で記すが、後五年このまま過ごせば、(現在は同国ではまだ無名に近いかもしれないが)New Zealandでも私の名はかなりでるようになるかもしれない。そのときに分かるであろう。
超巨大企業(北欧などの国家以上の規模を誇る企業)では、既にそうなっているか・なりつつある。通常の巨大企業では、国家情報を入手できぬため、何も気づかない場合が多い。自惚(うぬぼ)れではなく、世界の経済・政治の流れの中で私の存在抜きでは理解できぬ部分がでてきた以上、はっきりと書いた方が良い。

1981年度にはもう一つの動きもあった。
倉敷の予備校である。ここでは賃金支払遅延を含む労基法違反のオンパレードで泣かされた。詳細は今回は省く。この予備校は後に倒産したが、倉敷で大労基法違反に遭(あ)うことをここで予告されていた。実にこの予備校以上の労基法違反に遭遇する。それも労働省の職場とも言える所で。
こうして、1981年度を終え、1982年度に以下入る。
なお、この1981年が岡山県教員採用試験の年齢制限上最後の年であった。どうなるのであろうか。


【真備高校退職時:1982年】
1982(1981年4月~82年3月)年の就職口は以下の状況

①駿台甲府高校採用試験全国公募に応募→合格
将来、専任可能、甲府高校への移動も可能、ただし、しばらくは予備校で授業をしてほしい。交通費はどこから通っても新幹線など全額支給する。グリーン車待遇は後に知る。ホテル代金などは予備校持ちとの話であった。ちなみに、一次から三次試験まであった。最終合格日は面談の1981年11月22日で、担当者は矢田部長といった。尚、早大大学院政治学研究科の最終合格発表も1976年11月22日であった。

②岡山県立井原高校から二年間専任できてほしいと電話連絡が入る。同校の教師が留学か何かで二年間不在となるためだそうである。後に人から聞いた話では、井原高校校長の息子さんを私が予備校で教えていたようであった。そこから私に目をつけたそうである。待遇は正式教師と同一であった。私が岡山県立高校採用試験の年齢制限にかかるので、二年後から大変ではと聞くと、「(もし来られたならば)悪いようにはしない」と言われた記憶があるが、当時は意味がサッパリ分からず、断る。

③岡山の(福武書店の)予備校からも将来専任にならないかなどと、個人的には言われていた。

④小野作次郎校長が関与していた福武書店系の塾→「授業風景を見て、君ができると思えば即合格」=自分で決めろとも言われていた。

⑤自分で採用してくれと手紙をだした学校から返事があった。当時の校長と会談した。一つが岡山中学・高校(岡山の灘を目指すと称して設立した学校)、もう一つが白陵高校(兵庫県)である。後者は、理事長か学校長自身が対応してきた。時期から言えば、このときに会談したのが創始者・三木省吾さんだと思う。大変ユニークな人で、後に、岡山白陵中学に一時籍をおいていた、楽天の三木谷浩史君(楽天株式会社社長)に諸事情からそのときの話を手紙に書いて檄(げき)を飛ばしたことがある。会談に当たっては、交通費も手当も支給してきた。
 結論は両方とも、担当教科問題その他で駄目であったが、両方とも、校長自らが長時間一対一で対応してきた。

⑥公の私学センターなどを通して、正規に受けた私立高校は全部駄目であった。 もっとも、ものすごい人数で、ベルトコンベア方式で処理されていた。

※⑦これらの活動をする前に、当時の真備高校校長に、私を真備高校で専任にしてほしいと直訴した。校長は「担当教師の数からいって無理である」。
私「将来も無理か」。
校長「将来も、今後少子高齢化社会、学生数激減を考えると難しいと考えた方がよい」。こうして、動く前に、まず真備高校校長に将来の相談をしていた。

以上 2019/01/11 22:52下書き 以下続く。


【1982年、悪魔のささやき】
1982年は駿台(政経)、岡山の予備校(政経・倫社)、福武模試監修、岡山の予備校関連の寮などで教える…となった。駿台は、まだ私の観察期間のため、週二日(三コマ六時間程度)であり、こうした掛け持ちとなる。

ところが、駿台でやり甲斐(がい)があるのみか、駿台での私の評価もあがっていった。同時に、思っていた以上に駿台での教材研究はものすごい時間をとられた。そこで、授業への責任上、仕事を減らす方向に入った。まず、寮関係を辞める。次に、岡山の予備校の倫社関連をやめようとした。かなり評判が良かったようで、当時の校長から相当引き留められたが、次年度から辞めると押し通した。相当気まずくなった。

ところが、整理しているはずが、相棒のS先生(京大で博士号取得、湯川秀樹博士の授業も受け、奈良女子大などでも教壇に立っていた、私よりも二十才ほど年上の教師)から、労働省系大学が新設されるので、一つ話だけでも聞きに行ってくれという打診があった。私は当時は喧嘩をしてでも、仕事を減らしていたときである。その上、次年度(1983年度)からは、駿台の授業担当数も大きく増えると部長から聞いてもいた。コマ数は17コマ前後と。1983年度からは、実際に、月曜から木曜が授業、金曜日は質問日で月曜から金曜まで京都のホテル住まいとなった。

駿台という舞台で政経を教えるのは、私に大変マッチした。生き甲斐があった。ここで人生の勝負はあった。後は伴侶をえて、毎週三日温水プール、それ以外は授業準備だけ、…そして老後という、私にとって最高の人生となってい。私にすれば理想であるが、ドラマとすれば大変平凡な物語となったであろう。そこで、悪魔のささやきが始まる

岡山の予備校で校長に引き留められても減らしているときに、新しい仕事を持つ訳がない。ちなみに、減らそうとした岡山の予備校の単価は60分で五千円台か六千円台である。(駿台はそれよりも高い。)交通費などは当然支給される。他方、労働省系列大学は当時50分二千円か二千二百である。その上、百キロ未満は交通費なしという。担当教科は「前期法学、後期経済学」である。

こうした教科の準備は大変であり、即断ろうかと思ったが、相棒S先生が「浜田、確かに良い口ではない。しかし、駿台は所詮予備校であり、他の大学の教壇に立つには、労働省系大学の方がよい。ともかく、話を聞くだけ聞きに行ってくれないか」。
私は駿台でやり甲斐をみつけており、行く気はなかったが、ともかく話だけを聞きにいくことにした。
そしてお断りして帰る予定でいた。
ところが、行くと、「非常勤講師ではなく専任できてほしい」。
だが、当てになるだろうか。S先生は、この学校は労働省系の大学校で、重要な根幹は衆議院・参議院を通して決める学校だ…(だから心配ない)と言われていたが、駿台などで居心地がよく、辞めたくなかった。しかも、S先生の言動を疑う訳ではないが、もし、御破算になることをも警戒した。駿台に辞表を出した後で、御破算になれば路頭に迷うからである。

そこで、私が聞いた。
「専任と言うのはいつからですか」
当時の前身高等岡山職業訓練学校校長(ポリテクカレッジ設立後の初代副校長)が、「次年度(1983年度)春からです」。ということは、半年後くらいから即専任ということである。半年後ならば間違いはなかろう。
我が家の実家は岡山県、更に、私も安定した道の方が将来楽だろうと、考えていくことにした。
校長が言うには「法学と経済学だけでは無理なので英語も担当してほしい。そうすれば間違いない。一般教科の専任は二人で、一人はM先生が数学と▼▼を担当し、もう一人が浜田先生で英書購読(五クラスで五齣。ところが実際には二コマであった。後に五齣にすると言っていたが)と法学・経済学担当…ということで」で話がついた。

英語と言っても英書購読である。
こうして、教材集めに入った。ただし、駿台に迷惑をかけないため、いつ辞表を出すか迷っていた。
即出せば良いが、念には念をいれて、両方の準備をしていた。しかし、突如では駿台も困るため、もう辞表を出そうと思い、辞表を書くことを決意した。
すると、それを察知したかの如(ごと)く、岡山短大から電話があった。できすぎたくらいに間一髪であった。
岡山短大がいうには、「来年春からの専任は難しくなった。しかし、必ず専任にするので、しばらくは非常勤講師ということできてくれ」であった。
なお、すべて非常勤講師で、英語・法学・経済学、更に予備校で政経、模試作成や監修では無理なので、取りあえず、法学と経済学の授業を私の友人に担当してもらい、英語だけにできないかと相談した。相手はOKであった。ただし、将来の専任になるためには、見知らぬ人に法学と経済学を任すことはできないので、私の知人で固めた。
簡単に言えば、教師捜しを私がした。
こうして、1983年は専任前提での岡山の短大、駿台、岡山の予備校、模試監修や作成となった。短大は新倉敷駅(岡山県西側)、岡山の予備校は岡山市、駿台は京都市…で忙しい日々が始まる。
短大がなければ、我が家から駿台まで高速バスですぐであるし、あるいは岡山の予備校まで自家用車かバスで行き、そこで授業をし車ならば預けて、新幹線で駿台に行き終わりであった。我が家の建て直しが終われば、我が家へ戻り、我が家を拠点に活動が可能であった。
短大用の宿を準備し、更に交通費は自腹であった。
もし、駿台に辞職をだしていたならば大変な所であった。



【1983年度】
1983年になると、恰(あたか)も専任詐欺もみ消し事件が起こる。
岡山短大と全く同じパターンで、灘高校を目指していた、岡山中学の校長から電話が入る。
「専任になってほしいので、少し話を聞きにきてくれ」、と。
行くと、桐山校長が「来年春から、専任できてくれ。担当は中学校の国語だ」。
私「免許は社会科のため、教壇にたつとしても社会科で」
校長「それは心配しなくてもよい。(仮免か何かで)対応できるし、一定の時期には社会科に移ってもらう」、と。
突然の話の上に、この頃は引く手あまたであり、この学校の労働条件が余りよく見えなかった。1981年と83年では全く状況は違っていた。

駿台も大変居心地がよくなっていた。
それよりも、岡山短大との専任契約がある。
同じ専任で、しかも両方とも地元・岡山県ならば、短大・大学校の方が楽である。
しかし、何か勘違いをしているようで、「お前(若しくは)、君、来る(だろう)な(=来るだろう=来なさい)」と一方的であり、私の返答もできない状態にあった。

しかも、筋問題から、専任確約の岡山短大などと相談しなければならない。
どうも、桐山校長は、私を教員浪人で(1981年頃と同様に1983年頃でも)相当困った状態にあると勘違いしたのであろう。若しくは灘を目指しているため、もの凄(すご)い学校からオファーしているのだから有り難く思えと勘違いをしている節があった。とにかく一方的であった。

この頃は、労働省系短大に専任確約でおり、駿台には新幹線グリーン車で、ホテル代学校持ちという厚遇、福武書店系列・岡山の予備校でも「いつでも専任」という雰囲気の上に、福武哲彦氏から直(じか)に指名されて、スナックなどに連れて行かれていたときである。模試も、進研模試、駿台模試と日本四大模試の二つまでてがけていた。
おまけに、東京校の駿台文庫の職員から、丁寧な形で接待され、進研模試などについての話を言わされた(企業秘密部分は言っていないし、私は企業秘密は知らない)。後に、これがきっかけでベネッセと駿台の共催模試となる。いわば、この仕掛け人が私に近い。


この頃は、はっきり言えば、岡山中学・高校などは、単なるOne of themであった。しかし、ここでも効いたのが、数か月後から即専任という口説き文句である。
しかし、同一文句は岡山短大で聞いている。
そして、一方的に返答の有無を与えず、帰された。
一体何なのか、と。
このややこしさ。

岡山短大は即専任から暫(しばら)く待って貰(もら)えば確実に専任、岡山中学は即専任も当面中学の国語担当である。
私が一番苦手な教科が国語であり、私に断らすために故意に言ったのではないかと疑う始末であった。私が大学受験で関学を受けたのは当時は珍しい国語抜きで私立大学文系を受験できた唯一の大学だったからである。私が受けた、関学の入試教科は数Ⅰ・数Ⅱ、英語、世界史であった。選択次第で国語がないので関学を受けたことを知った上で、国語で勧誘したとしか今は思えない。当時は今以上に大変国語が苦手であった。
そして駿台は面白いのみではなく、採用に当たって専任は可能と言われていた。しかも場合に寄れば駿台甲府高校ですら不可能ではないと言われていた。

①岡山中学は即専任(約数か月後~半年後:ただし教科は一番苦手な国語)
②岡山短大は必ず専任。それを前提に教壇に。経営者は旧労働省所管、雇用促進事業団運営で潰れる心配はない。牧歌的で1987年までは大変授業は楽であった。
③駿台=専任可能性が大。楽しい。金が良い。ただし、いつ専任かは不明のみか、前回書いた女性問題が浮上しつつあった。

今、考えれば、迷うように仕向けてきたか、若しくは後に言う岡山短大の専任詐欺を隠蔽(いんぺい)するために岡山中学をいれてきたのだろうか…。
しかもその証拠が間もなく登場する。
結果として、岡短の専任確約を隠蔽する罠(わな)となっていた。このときはややこしい詐欺にあった状態にあり、相談した人には大変迷惑をかけてしまった。しかし、故意に錯乱するように仕掛けられると誰でも何が何か分からなくなる。この時の岡山中学・高校校長が、後に記す、どの職場に移動されたかを読めば即座に理解できるであろう。
岡短の件は、(岡山中学の件ではなく)全体の流れから巧妙な結婚詐欺にあったが如(ごと)くであった。

話を元に戻そう。結局駿台と岡山短大で迷う。ただし、駿台と岡山短大のケリをつけてから岡山中学は断る予定でいた。もう、この頃は後者を相手にするような状態ではなかった。岡山中学・高校の校長と知人が知り合いとか、その他で門前払いできなかっただけである。1981年と83年では全く違っていた。


駿台に相談すると
H係長「交渉に当たり、部長は浜田先生を助専任にと言う腹はあるので、専任前提の助専任として一筆をとられるように」
●●部長「駿台は浜田先生を必要としています。三年間は政経一本で生活保障、三年後は先生がどうなっているか不明のため三年後に…」(H係長のみか後の校長W先生も在籍の場)
私は、岡山短大との専任確約があったため、ダブルクロスになるのを避けるために、駿台専任確約はとることは道義的にしなかった。同時に、岡短専任問題も三年間は保留で筋を通すことにした。
ところが、●●部長が政経のみでの三年保証を、担当教科全部での三年保証へとすり替え、それをモニターに残らぬように偶然トイレであったという形で、トイレの中で事実上変更された。本当に臭い話である。厳密には契約違反であった。詳細は『閉じた窓にも日は昇る』の中に当時の詳細な経緯を記している。
もし、政経のみで三年保証ならば、日本史担当はしなかった。
強く抗議できなかったのは女性問題(指一本触れず、外でもあったことはないが不可思議な女性問題)が浮上したことや岡短との契約問題からであった。


岡山短大副校長との会話は以下の通りである。

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☆☆☆☆☆☆
【(3)の内容】1983 年度出講後に、岡山中学からの専任招聘要請時に当時副校長へ専任の件の問合せ時の返答。
①専任の件 1984 年頃は中曽根行財政改革の関係で難しく数年間は無理かもしれない。
②但し、数年間を過ぎれば理論的に考えてまず専任は大丈夫
③同時に、事業団と私の専任への交渉は行ってもいく
④この場で、細かい専任の賃金一覧表、また職員住宅の説明及び専任への具体的ななり方。即ち「専任時には採用試験は一応あるが、あると言っても、浜田先生の場合には形式であり、受ければ問題はない(必ず通る)ので 気にする必要はない」など。
……
(解説)私が正規職員の労働条件に不安を感じていると、「機構」職員等の年齢別賃金一覧表を見せられた。そのときに、私が専任・職員等の賃金が安くてびっくりした顔をしてしまった。すると、上記④などで、職員住宅などがあるので……と説得をされた。依って完全に引き留めと解釈した。少なくとも心理的にそう理解し、岡短専任になると決意し、岡中、駿台の専任の口などを棒にふった。確か、私が岡短にいるという結論をだした後で、副校長は「君の一生の問題故に岡中に行くなとは私の口からは言えないが……」となっていたと思う。事実上専任ということで引き留めて、岡短にいるとなった後での言動である。
☆☆☆☆☆☆
第3回配本:『恐るべき労基法違反』第1章:公開日2016年7月7日。PDF=(1.5MB)(7/28微修正)24~25ページから抜粋。
配布箇所→http://h-takamasa.com/rensai/custom.html
☆☆☆☆☆☆
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そこで、岡山短大を選んだ。(また、S先生によれば、この専任確約の件はテープか何かで金庫か何かに保存されているので安心しろ、と何回か聞いてもいた。)
そして岡山中学・高校を断ろうと考えた。
これまた良くできた話が起こる。
お断りの手紙を出そうと考えていた頃、福武書店系列の、岡山の予備校に行く。驚いた。岡山中学・高校の校長が予備校に来ていた。私を呼ぶので、専任契約の話で返答が遅いという苦情かと思うと違っていた。
何と、岡山中学・高校の校長は解任され、福武書店系列の岡山の予備校校長になったという。書いていて思わず笑ってしまった。こんな馬鹿なできすぎた話があろうか。

今度は、(岡山中学・高校の)校長は態度がガラッと変わり、事情も幾分分かったのか極端に低姿勢で私に対応してきた。
「君に専任確約の件で返答するのが遅れて申し訳ない。だが、こうなった以上、この予備校をもり立てるため是非協力をしてもらえないだろうか」、と。

こうして、この福武書店系列の予備校用に良質教師をスカウトする作業を無料で私が行うことになる。
このときにはこの予備校はまだ合併前で、福武書店系列・直営の予備校であった。
国語の教師に駿台でかなり評判の良かったF先生を、河合塾から看板に近いA教師を、駿台で評判がよかった物理のN教師を、名古屋界隈(かいわい)であったか、外国人で英語講師として評判がよかったD先生を相棒のS先生経由で…と。これら交渉のための交通費、通信費は全て自腹である。

だから、この頃、福武総一郎氏(当時福武書店副社長)に桐山予備校校長か、それとも事務長(福武書店社員、後にベネッセに戻る社長室係室長?)などを通じて紹介されたときに、福武総一郎氏はいつも「お世話になっています」と、私に会釈をしていた記憶がある。
この頃は、彼はまだ副社長だったと思う。
哲彦氏が生きていた頃と思う。

福武哲彦氏と私の父の話や、哲彦氏に直(じか)にスナックに誘われた件を除いても、実際に自腹をきり何人もの教師をスカウトさせられていたのである。その代価は一円も請求していないし・もらっていない。
同時に、岡山の予備校は1983年~84年頃は(職員の一部に世話になったため)義理で行っており、経済的には場所問題から必ずしもプラスではなかった。ただし、この頃に関してであり、それ以外の時期ではない。
幾ら社長でも、恩恵なしで、他人に世話になったり、他人の労働力・私財を無料で受け取ったりしていれば「お世話になっています」とかお礼を言うのが当たり前だろうし、そうなっていた。


【1988年駿台辞職後:職業選択の自由・経済の自由・人身の自由剥奪の表面化】
何もかも変わるのが1988年駿台辞職後である。
辞職に至る刑事犯罪被害の事例は『閉じた窓にも日は昇る』に掲載しているため省略する。ただし、学外の刑事犯罪被害に駿台が関与したとは一言も言っていない。

岡山短大がガラッと変わった詳細は拙著『閉じた窓にも日は昇る』参照。

ここで、気になることを先に追記する。
①職員がガラッと変わる。私に対して借りてきた先生対応から、もうどうにでもなるわ型先生対応へと変わる。同時に労基法違反が効きだす。私の仕事とされていなかった仕事まで無料でおしつけ、ビデオ没収事件…と。

②学生が一変する。1983年から1987年まで、他の講師にはともかく、私には一切逆らわなかった学生が突如授業中の私語や、態度が一変する。正に一変であった。あたかも、誰かが故意に学外者をいれたが如く変化が起こる。

③(因果関係は不明であるが)この頃から、入学式や卒業式での君が代や国旗が式場から外された。良い悪いは別として、不可思議な形で式に変化が起こる。

④外部からバイトか何かで派遣されたと思われる、鉄砲玉学生が突如登場してくる。

⑤岡山の予備校でも、政経の授業では1987年度と1988年度の学生がほぼ全員一緒で、同じ授業がやりづらくなる。日本史の授業では、駿台で教えた子とそっくりな女の子などが登場する。善(よ)し悪(あ)しは別に、もはや、現世ではないので何の仕事もさせないという暗示にすら感じる始末であった。

⑥偶然をよそう形で他の仕事を全部遮断されていく。
それらの手口は、労基法違反部分は拙著『恐るべき労基法違反』(PDF無料配布中)、全体としての流れは『閉じた窓にも日は昇る』(KINDLE、KOBO各百円)参照。

⑦駿台辞職が1988年1月である。岡山短大辞職が1998年1月である。駿台での刑事犯罪被害が激しくなるのが1987年である。岡山短大で徹底した学生などをつかっての挑発が起こるのは1997年である。そして、『恐るべき労基法違反』を記述しているときに、何度も1998年を1988年に、1997年を1987年に改竄(かいざん)される。恰(あたか)も、両方とも犯人Xの仕業で、両方の加害者は同一であると言うが如くに。

⑦全体として、駿台時代に不法行為に及んだ(駿台と関係しているとは一言も記していない)Xグループが、駿台辞職後も、新たな職場に入り込み策動を与え続けているかのような感じも与えられた。


⑧次に、福武書店(後のベネッセ)が作成している進研模試のチェック(80年代後半は監修、後に多忙さからチェックに戻す)の仕事でも、幾つもの労基法違反が発生してくる。その行き着く果ては、私の赤字労働への道であった。ただし、時期はベネッセが子会社に模試チェックなどの業務委託した前後のように思えた。その模様はトラブルブログに掲載している(該当者の氏名は念のため公開していないが、ベネッセが希望すれば氏名は伝える)。当時、模試担当職員に送付した手紙もそのまま三頁に亘り掲載している。手紙への返答の一部は正直に言えば、特に2000年前半頃は、人をかったような電話対応などもあった(意味のないことを電話で一時間ほど喋られたこともある)。

 ベネッセには商談をした職員や知人も多数いるため(この知人には含めていないが、福島保ベネッセ元社長は高校時代の同級生である)、更には岡山の予備校職員もベネッセに知人がいるため、こうした対応をとるとはベネッセの職員では無理としか思えなかった。(実際にその可能性は高い。)この手紙は雇用能力開発機構と交渉時の立会人新免元町議会議員・市議会議員にも大半送付しているため、私の方での改竄(かいざん)はできない。こうして、ベネッセの模試チェックの仕事も不可能とされた。

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▼http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?p=8767。下記以下五回に亘り連載を参照。ベネッセの元幹部などにも年賀状送付しており、見られていると思う。可能ならば、福武総一郎などと、正面から話し合うことが望ましいと考えている。ただし、ガラス張り全面公開を宣言しているため、密談は不可能である。

重要情報公開№6・労基法違反編(1)―長い付き合いのあったベネッセで何故私が被害を(相互理解の為に記述)

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⑨全体として、攻撃は悪質であるが、一部に幼児性としつこさが一貫してみられた。

この後の流れは『恐るべき労基法違反』と拙著『閉じた窓にも日は昇る』参照。また、岡短の学校崩壊論理は拙著『親方日の丸』参照。
さらに、これらの問題への救済文書送付から、私が裏で活躍するようになった経緯は、拙著『日本のフィクサーME』シリーズ参照


最後に五点強調しておく。
一点は岡短が私を専任教師として招聘(しょうへい)したのは、雇用促進事業団全体のCMが目的の疑惑が高い。軸足をレジャー産業から教育産業に移動するため、ポリテクグループ全体30校弱のCMである。なお、もし当初から専任確約が嘘(うそ)ならば詐欺罪に該当する。

二点目は、犯人は不明であるが、(仕事が不可能な)病気のときにはどんどん仕事を提供し、その逆のときには仕事に就けないような行為が一貫してみられた。前者では、鬱病(うつびょう)状態で知能が機能しないときには河合塾の教壇提供、躁(そう)状態で知能が疲弊しているときには岡山MS学院高校専任の口を。もし、応じようものならば別の手で潰すであった。
知能が少しでも機能するときには、車の事故で自家用車を奪うなど、交通手段・脚を奪われた。田舎の人間関係でできることは職場でも全て可能という脅し。それ以上に、裁量動労などを悪用した労基法違反連続危害、…で潰された。

三点目は自己意思に反する言動・態度の危険性問題である。1997年の交通事故が最たる例である。これも、仕事上ネックという恐怖心を抱かされている。。

四点目は労働省職場での労基法違反被害が効いている。どこでも何でもでき、赤字にさせてやるという脅しとなっている。

五点目は同時に上記の如く、現実では理解できない面がある。


更に付け加えれば、救済を断れぬときには関係者はどんどん死んでいった。早大大学院政治学研究科先輩に当たる小渕恵三氏(当時の総理大臣)に手紙を送付すればその夜から緊急入院、仲がよい筑紫哲也氏(早大政経卒)に救済依頼を送付すれば肺癌と告知し、やがて死亡。
そして、駿台時代に、京都駅で偶然であったのは、山崎 春之(やまざき はるゆき、1926年 – 2010年1月13日)理事長であった。駿台のパーティで何度か紹介され腰の低い人と感心をしていた。この時には相談はしなかった。しかし、村の組合長を辞めた、2010年にもはやこのままでは餓死の道と考え、直(じか)に復帰の相談をしようと住所を探すとほぼ同一時期に死亡されていた。肺癌であった。山崎氏は大変丁寧な人で、私が駆け出しの頃ですら、御礼と記した手紙を郵送されてきた。勿論、私だけではなかろうが。
1984年か85年頃に京都駅で出会った、真っ白いスーツを着ていた、山崎春之理事長の姿は未(いま)だに印象に残っている。

誰が犯人かは不明であるが、何をしても、仕事はできないようにされているとしか思えない状態が30年ほど続いている。大学や大学院時代のバイト時代ですら味わったことのない状態である。


今回を持ち、私の言いたいことを書くのは終了とし(いな、事実は今回も含めて書きたくない事を書くのは終了とし)、後は、読者諸君が興味を持つことのみを記したいと考えている。HP活動は趣味や遊びではないからである。ましてや愚痴を書く場ではない。2019/01/12 1:02下書き終了。(原則として小さな追記以外は書かず、ここで下書きは終了とする。)

重要な追記。2019/01/12 2:02。 岡山短大(ポリテクカレッジ岡山)の専任の件はどうなったかって。1997年の課長が一言いった。「専任、そんものなれるわけがないだろう」、と。

2019年1月11日