【写真関連の話―1】私的撮影をしない(1994年)と言ったにもかかわらず私的撮影させられた経緯
2020/05/08 2:57 下書きの一部掲載。
2020/05/08 14:50
私的関連掲載を2020年2月26日に歯科で独り言で言わされると、妨害だらけで、今日(2020/05/07)まで、お寺割りの件一回しか記載できなかった。
なお、この項目は、感情・解説抜きで、起こったことをそのまま掲載予定でいる。
しかし、今回だけは、撮影経緯のため、多少解説が入る。
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【記載予定項目】
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(1)カメラは仕事道具のため、プライベートでは使用しないと宣言(1994年)
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(2)上記が崩された経緯。
――村アルバム作成と親戚類撮影へ誘導された経緯。
ただし、それでも上記の村アルバム終了が1999年であり、親戚関係の撮影終了宣言が2004年である。
その後での撮影は、催眠と罠(わな)であった。
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(3)催眠強要撮影の事例と罠の話。
私は撮影前にも・撮影中にも・撮影後にも、独り言で怒りまくって撮影をしていた。
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(4)だが上記も逃れ、村・親戚・知人を一切撮らなくなってから、よりデマや不可思議な雰囲気が出た話。
事実上は2010年1月にこれも逃れ、後は一度の例外(母贈呈用の孫2012年一度を除き)一度も撮っていない。正確には2009年11月下旬からは一度も、催眠ですら撮っていない。
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【参考】文字通り完璧にやめられて(2009年末)からでも11年、更に、正式私的撮影しないという宣言(村は1999年、親戚は2004年)をだしてから、村は21年、親戚は17年目に入ろうとしている。ところが、…
誰かの、全く「火のない所に煙」であるデマをとばした疑惑。
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(5)催眠撮影も含めて、親戚・知人類に写真贈呈時に、「私へのお礼は固くお断り」は何度も言ったが、その逆はない。
それがおかしなデマの臭いが。
参考:代価を伴うときには事前に契約、更に詳細明記の請求書を送付する。姉に一度のみ前例あるが、他は無料のため送付していない。また、正式な支払時には領収書を渡す。
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(6)何故(なぜ)、私の仕事道具・カメラに他人が過剰意識することへの疑問。
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(7)なぜ、撮影処理に時間がかかるのか。
これは過去の手記を掲載すれば分かろう。ちなみに、2005年頃のPCのパワーが、私が5年前購入のスマホの約四分の一、今の先端スマホの約十分の一のパワーであった。そこで写真一枚当時の最高63 MBを加工処理する訳である。できる訳ない。その通りである。それもアナログからデジタル転換もした。
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主として上記を簡単に掲載。可能な限り、過去手紙で書いたり、記載したりした文書で処理したい。残り少ない人生において、重要度が低いため、誤字脱字の類も丁寧な見直しはせず、記載を続ける予定でいる。
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(1)カメラは仕事道具のため、プライベートでは使用しないと宣言(1994年)
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老後に向けて、専任確約の岡短(ポリテクカレッジ岡山・現ポリテクカレッジ中国)で専任(教授)になるとしても、非常勤講師で据え置かれた期間が長いため、出版などで印税・原稿料を稼ぐことを兼用しないと老後は不安(無理)と予想された。
そこで、岡山短大でも教材としていた、『旅に心を求めて』シリーズに没頭予定でいた。同時に、その後で『生命への畏敬』シリーズなども検討項目に入っていた。文献化候補は全部で数十あったと思う。
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当時の、『旅に心を求めて』シリーズには五つの特徴があった。私が作製したイラスト地図、バイリンガル化、挿入写真、深くテーマを追う、さらに拙著英会話創作集『Dorothyと10人の出会い』等との対応である。
この中で、挿入写真だけが、当初は他人撮影のものを使用していた。当然、著作権・版権問題が絡むため、写真を自分で撮る方向へと舵(かじ)を切ったのが1994年からである。いきなりは無理なので徐々に置換えを計画していた。
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当初、コンパクトカメラで撮影していた。ところが、1994年9月頃にコンパクトカメラが連続して壊れる。私が購入したものも、父のも。更には父の一眼レフカメラ(ペンタックス)などが不調となる。
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そこで、母や親戚の一部からの助言があったのではないかと思うが、一眼レフカメラに切り替えた。具体的には母が「10万円ほど出してやるので、カメラ・レンズ・三脚などを買え」と言ってきた。更に義兄の紹介で津山の某店でカメラF401Xの中古とシグマのレンズキット、簡単な三脚などを購入した。
このときに、仕事で使用するために購入したのであり、青色申告などでややこしいため、プライベートは一切撮らない方針をたてた。(実験とメンテナンスを除く。)1994年のことである。
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青色申告のときに、カメラを仕事(原稿・教材)関連で使用していることの証明は簡単である。だが、カメラを仕事以外で使用していないことの証明が大変だからである。また仕事使用率、プライベート使用率の計算もややこしい。
駿台時代などは、①通常授業は賃金、②夏期講習などは講演料、③模試作製やテキスト作製などは原稿料であった。①は源泉徴収、②と③は青色申告であり、青色申告には慣れていたため、尚更(なおさら)、カメラをプライベートで使用することはややこしいと感じていた。
次に、公私混同を避けるため、仕事道具は私的には使用しないとした。
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実際に、1994年12月に家族旅行(私と母と姉・義兄・甥2人・姪1人)でいったときには仕事に使えそうなものしか撮らなかった。家族の集合写真どころか、家族の写真も撮っていない。例外は、城の上まで甥がついてきて、側(そば)に来たのでやむを得ず2枚だけである。それ以外は、人物を小さく豆粒型オブジェにするとき以外は撮っていない。簡単に言えば、通常の人型写真は撮っていない。
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それが、徐々に壊されていく。
まず、村アルバム作成の経緯。
(村全体、組合全体、各家・各家の花・花と家)1994年後半から1999年迄(まで)続く。この経緯から記そう。