今月の歌から世界の歌へ(1)―今月の歌を振り返って。

このエントリーをはてなブックマークに追加

今月の歌から世界の歌へ(1)―今月の歌を振り返って。


今月の歌の第一回はリムジンガンであった。
曲名も一曲、歌も一曲、当然歌手も一人であった。すなわち、一コンテンツのみであった。
今月の歌・第一号は韓国のイム・ヒョンジュ(임형주、林亨柱 1986年5月7日 – )である。

それが、曲名は一曲であるが、一人の歌手で数コンテンツとなった。2015年4月の
カチューシャからである。


やがて、2015年5月(水色のワルツ)からは曲は一つであるが、歌手は数人となった。

さらに、7月の中国特集からは曲も二曲、歌手も多数となり、そして年末頃からは今月の歌附属今週の歌も開始した。

こうして、今月の歌は肥大に肥大化した。

今月の歌どころか、今週の歌選曲に当たっても、徹夜が数日続く大作業であった。
しかし、私や日本人が知らぬ素晴らしい歌手や歌が世界には眠っており、それを見つけたときは疲れがとれる気もした。

しかも、一部、私自身のオーダーメイド的なコンテンツも登場しだした。
良い曲を必死で集めるのみではなく、いつの間にか、裏の世界でか、私の要望、私のリクエストにあわせるコンテンツも登場した。

この今月の歌と附属今週の歌が、世界の音楽の一部を変えたとまでは思っていないが、歌を通じて世界に平和をというメッセージは世界に浸透しつつあるように思える。

何故ならば、今月の歌、今週の歌に登場する人達が、銃を持って戦うことの愚かさに、一部の人が気づきだしたからかもしれない。


こうして、集めた歌は、私のみか、オーバーに言えば世界の財産ともいえる。

国、年代を超えて、良いものだけを集めたのだから。

それらを独り占めする訳にはいかない。そこで、過去に蓄えた、歌を整理し、世界に向け開放しようと考えている。
勿論、私以上に、コンテンツを作成した人、歌手、曲を作った人の尽力でしかない。

しかし、それをまとめて世に出す人間がいなければ宝の持ち腐れとなる。その縁の下の役目を私がしているだけである。


そこで、過去の今月の歌、附属今週の歌、更に特別編で使用した歌などを現在整理する作業をしている。それが、この世界の歌・ブログである。

そして、それが終了した時点で、今度は過去紹介していない国や曲を再度開始したいと考えている。
図示すれば以下となる


【世界の歌・ブログ】集めた曲を常時公開する資料館。
更に、このブログは以下からなる。

[世界の歌]過去の今月の歌、そしてその収集・整理が終了した時点で、新しい世界の歌を紹介するコーナー。

[今週の歌]上記に付随する一週間か、十日おきに掲載した歌である。これも、過去の収集・整理が終了した時点で新しい歌に入る。

[特別編]過去、ささやかな英語、安らぎ英語、公式ブログなどで臨時に使用した歌の中から優れたものを掲載するコーナーである。

[資料館]歌詞、歌手、曲などを必要時に紹介する資料館である。

なお、過去の収集整理作業が終了し、新しい曲に入ったときには、その曲は世界の歌ブログと併行に、固定ページ「世界の歌」で別に行うことも検討している。
理由は固定ページの方が装飾がしやすいからである。

ただし、固定HPは毎回イレースする(更新に当たり消し去る)ため、別に世界の歌ブログでも、常時、相当長期にわたり、極論すれば半永久に掲載し続ける予定でいる。



最後使用した「今月の歌」収集・整理作業に関する、重要な原則を記述する。
過去の今月の歌では、今後、いかに良い曲がでてきても、過去採用した歌手と曲名に限定するということである。

例外は、過去使用させていただいた歌手が同一曲名で歌い、それに懐かしさがあれば、置き換えではなく追加という形で掲載する。

また、過去使用したコンテンツと同一のもので画質の良い物がでてくれば、同一歌手・同一曲・同一内容に限定して、置き換えはありうる。


しかし、私が過去選曲した今月の歌収録のコンテンツよりもよいものがでてきても置き換えはしない。

理由は、既述のごとく、私の場合には一部オーダーメイド型のものもあり、それを作成した人、歌を歌った人、アレンジをした人、演出をした人、画像を撮った人に対して不誠実になるからである。


今回、カチューシャを掲載するに当たり、(ロシアの)Marinaのカチューシャが随分よくなっているのでいれたらという誘惑があったが、先の事情で追加はしなかった。

追加は、過去、その歌を歌った歌手に限定される。どうしても迷ったときは、世界の歌編ではなく、特別編に挿入するかもしれない。


最後に、今月の歌、今週の歌を作成していて、私が知らぬ、世界の多くの歌手にであった。我が家に監禁されていると、更に懐かしさを感じた。
同時に、私は今、64才であるが、結婚なるものは一度もしていない。当然、子供もいない。

そうした中で、自分の子どものような歌手も何人か登場し、彼女・彼らを見るにつけ、目尻が下がることがある。

その一人が、先に名をだした、ロシアのMarinaである。また、韓国のKim So-hyang などである。

ちょうど、日本国内での福原愛浅田真央を連想するときがあった。

浅田真央は早くして、反抗期は過ぎたが、福原愛には「参った」「参った」が続いた思い出がある。彼女ももう結婚した。

だが、その隙(すき)を埋めるが如く、世界から第二、第三の彼女らが登場している。

家に監禁され、伴侶もえぬ生活をしていると、実に彼ら・彼女らはかわいらしいものである。

もっとも韓国のSo-hyang は結婚しているが、自分の子どものようであり、それはどちらでもよい。


また、彼女らと違うタイプの歌手も印象に残っている。それも徐々に紹介する。
今回のカチューシャのバラバラ(Варвара/Varvara )の歌を聴いたときも、日本の音楽教育に疑問を抱いた思い出がある。

1月の韓国の男性歌手(イム・ヒョンジュ)のすがすがしさ・声量の良さ、そして映像も備わったコンテンツとの出会いも思い出深い。

2月は過去に英会話で聞いた歌である。これも懐かしい。

3月は、公民権運動の頃に何度か聞いたWe shall overcomeJOAN BAEZ である。

4月が先のロシアの話である。

同時に、歌には、歌手の実力のみではなく、その歌の申し子なるものが存在していることも、今月の歌を通して知った

今回は、2015年1月から4月に特集したコンテンツ関連である。次回は2015年5月から数ヶ月となる。


最後に、本日も徹夜での作業のため、推敲(すいこう)なしの文書をお詫(わ)びします。