写芸楽No.1・関学撮影での天国と地獄―写真は観念論か唯物論か(アイデアか、場面か)

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写芸楽No.1・関学撮影での天国と地獄―写真は観念論か唯物論か(アイデアか、場面か)


映画監督黒澤明氏の講演会をインタネットで見ていた。
すると、黒沢氏が、恰(あたか)も、私に話しかける如(ごと)く形で言った。
「違うんだよ。最初にアイデアがあって、その通りになるようにするっていうのは違うんだ。」

これは、私が昔言ったことへの反論のように思われた。
私は昔、独り言でよく、次のことを言っていた。
「私はどちらかというと唯物論者である。しかし、写真は逆で観念論である。」
簡単に言えば、撮影前にアイデアがあり、それを撮影で具現化するのが写真である、。


現場で見たものを綺麗(きれい)に写すのではなく、先に、自分の頭の中に撮影のアイデアがあり、それを実現するのが写真である。

「アイデアが一番重要である。
土門拳さんが、晩年車椅子の身となった。しかし、彼は撮影を続けた。三脚を立て、シャッターを押すのは助手である。アイデアだけが土門さんのものである。土門さんは車椅子から指示をだしているだけである。では、この写真作品は誰のものか。当然、土門拳さんのものである。

そのあと、続けて言った。
「黒澤明氏などを見るがよい。
絵コンテを始め、映画の流れは作成前に彼の頭の中にある。
それを具現化するだけである。
だから、写真は風景を見て写すのではなく、先にアイデアが頭の中にあり、それを具現化するという観念論なのである」、と。

では、初めての風景を見たときはどうなのか。
プラトンだったと思うが、彼はこう言った。
「正三角形は誰も見たことはない。
厳密に測れば左右かどこか長さがわずかではあるが違う。
よって、誰も見たことのないものが頭にある(正三角形のイデア)。
そして、それに近いものをつくるだけなのだ。」

写真も同様で、初めての風景でも、先に脳の中に幾つものアイデアがあり、その中から一番近いアイデアに従い撮影するだけである。
よって、シャッターを押す前に、頭の中に画像があるとなる。


しかし、黒沢氏は、インタビューの中で、恰(あたか)も私に反論するように言い切った。「違うんだ。先に頭の中にあるんじゃないんだ。撮影の途中でどんどん進化し、そして予想以上の結果がでたときが、それが一番うれしんだ。」


だが、これは私の言っていることと、実は矛盾したものではない。
それを、2016年10月11日の関学撮影を振り返り記す。
なお、このときの写真は「写真ブログ・特別編」
(関学2016年10月11日「曇天の関学を一枚の落ち葉で撮る」)★アドレス
http://takachan1.xsrv.jp/photoblog/?item=504
http://takachan1.xsrv.jp/photoblog/?item=532
参照。


この日の関学は曇天であった。

しかも、綺麗な雲ではなく、空が白く、一番たちの悪い空に見えた。
関学撮影前に考えた。
曇天の撮り方技法は昔、「写真物語館・技能の間」で紹介した通りである。

具体的には、開けて撮るか逆に思い切って絞って撮る、である。
砕いて解説すれば、絞りを開けて被写界深度を浅くして撮る。要するにバックをぼかす。
逆に思い切り絞って撮るとは、被写界深度を深くし、同時にコントラストをだし、白い雲に階層をつくる方法である。昔は難しかったが、今は、レタッチ用ソフトが進化しているので可能な場合もある。その代わり昔と異なり、デジタルカメラは回析現象かなんかしらないが、絞り過ぎると画質が劣化するという弱点がある。


では、関学では両方をやってみようと考えた。すでに、頭の中に関学写真のイメージはできていた。私の頭の中では、撮る前に、もう関学の写真プリントは終わっていた。

ただ、現場につき、一枚の落ち葉を利用することを思いついた。これも昔何度もやった技法である。これを使って開けて撮るのと、逆に絞って撮る両方に応用しようと考えた。


落ち葉利用は三場面で行った。
一場面は明暗のない、日本庭園である。ここは落ち葉利用で通常の形で撮った。
二場面目は、時計台の裏側から、落ち葉を近くにおき、そこにピントを合わせ、時計台と曇った空をぼかした。俗に言う「開けて撮る」である。
三場面目は、中央芝生で、小津安二郎(おづ やすじろう、1903年12月12日 – 1963年12月12日)以上に、ローアングルで、関学の中央芝生を一枚の落ち葉を入れて絞って撮った。後はレタッチの腕次第で、空の階層もだせる程度まで絞った。


結論は、私の頭にあった通りの、当時の状況からは満足のいく結果がでた。
これが写真は観念論という意味である。

★今回は二番目と三番目の写真を掲載。

□(開けて撮る)

16-027-067 347kb

16-027-067 347kb

□(絞って撮る)

16-027-067 347kb

16-027-067 347kb



一番目などは、併行して掲載している「写真物語館・ブログ」(特別編)参照。ここに二十枚以上の写真を掲載している。

これ以上に、完璧に、私の頭に描いた通りに行ったのが、2016年4月4日の夜桜と関学時計台であった。

家を出る前に、あの写真は既に、私の頭の中にあった。



ところで、10月11日は撮影の途中で、私の得意技・多重露出を行っていた。
その写真を家で レタッチしていると、すごいことが起きた。
これも「写真物語館・ブログ」技能編で紹介する予定でいる。

絵画の世界である。
今回は、完全ではなかったかもしれないが、新しい技法のヒントは得た。
いずれ、世間を驚かせる作品を完成させる予定でいる。
★下記に一枚掲載。他は前述の「写真物語館・特別編」参照。

関西学院大学時計台

関西学院大学時計台


後者が、黒沢明監督が言わんとしたことであろう。
すなわち、やはり映画の流れは彼の頭の中に撮影前に存在している。
ところが、撮影の途中で、予期せぬことが起こり、自分が当初計画していた以上のことが起こることがある。その瞬間が一番楽しい、という意味で言ったのであろう。
それも、然(しか)り、である。





なお、12月18日に、関学イルミネーション撮影に行った。
まだ、撮った写真は長崎・島原・水俣の写真が処理前なので、関学写真に手をつけるところまでいっていない。

このときは、現時点では敗北の確率が高いか、相当厳しい状況になっているであろう。
理由は、関学イルミネーションの動画を、関学に行く前に数度みたにも拘(かか)わらず、アイデアが十分湧かなかったこと。
さらに、類似の物は幾つもみているので、現場を見れば、一定時間で過去類似場面でのアイデアが代替案としてでるはずであった。

ところが、当時は子供が走り回る云々(うんぬん)で、アイデアを考える時間・思考力を奪われた。
さらに、一番良い場所を放棄するようになったと思い込まされ(マインドコントロールされ)、自分を失った。

自分を失ったとは、一番良い場所を放棄したので自分を失ったとは書いていない。
そうではなく、「一番良い場所」という語句自体で、もう駄目なのである。
「一番良い場所」とは、私にとって一番良い場所ではなく、多くの人にとって「一番良い場所」である。
すでに、その一語でオリジナリティは喪失している

作品は、写真に限らず、映画や小説のみならず、勉学・研究においても、オリジナリティが要求されるものなのである。

みんなが良い場所というよりは、良い位置と思う場所での撮影はもうオリジナリティがない。
簡単に言えば、一定レベル以上の人ならば十人が十人撮っており、スカのようなものである。
□□

だから、場所争いは二重の意味で好まない。
一つは、私の性格に合わない。他人(ひと)との場所争いは、カメラも柔道などの道があるとすれば、カメラマン道に反する。勿論、私の性格にも合わない。

二つ目は、多くの人がこの場所が良いという場所から撮影することは、既に述べたオリジナリティの喪失でしかない。

だから、私は神戸ルミナリエ撮影でも、数千万枚か億単位の写真があろうが、そこにない・誰もやったことのない撮り方を常にする。それも人がうなるようなやり方で。(勿論、位置確認や、原稿に掲載用の通常写真も撮るが、それらは写真作品ではない。)


長くなるので、この話は関学12月18日「関学イルミネーションを撮る」掲載のときに記すことにする。そのときに、知人・親戚類のことを一部記す。

人は「ここで、こう撮ったらよいとか、この表情が良いとか、ここでこう撮ればすごいだろう」などと、私に仕向ける。
今回は一つだけ記してておく。

「そんなことをしたら、写真は私が撮ったのではなく、あなたが撮ったことになる。土門さんの例を思い浮かべよ」、と。
どう撮るかは、商業依頼を受けていない限り、私が決める。人物の配列・表情も私が決める。

双方何の契約もしていないならば、普通にしておき、私に構うことは道義に反している、となる。


最後に、撮る前はカメラマン、撮影後は画家。よって、12月18日の写真も、現時点ではどうなるかは不明である。