教育問題を語る(毒饅頭教育批判)・第一回 「英語のできる人間は優秀であるという発想を打ち砕(くだ)きたい理由」(前編)

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教育問題を語る・第一回 「英語のできる人間は優秀であるという発想を打ち砕(くだ)きたい理由」(前編)

 

 

◎今回から、教育問題の特集を数回行う。
今回と次回は、1996年の授業で行った「英語のできる人間は優秀であるという発想を打ち砕く」を掲載する。その後で、大センセーションを巻き起こすことを期待して、「偏差値なるものを打ち砕く」を掲載する。後者を先に掲載した方が、爆弾の如(ごと)き内容のためインパクトがあるが、数日前から執筆中のため、推(すい)敲(こう)する時間がいるので後回しとした。
なお、途中で、今月の歌関連の掲載があるので、教育関連の掲載連載は本年七月頃まで続く可能性が高い。本日より、二か月程度は「安らぎ文庫Blog」は、教育・今月の歌・新刊紹介と、一週間に一度余りの掲載となる。
最後に、今回の文章は李登輝元台湾総統の来日に絡む件(けん)の発端になったそうである。詳細は拙著『日本のフィクサーME』第4章第二節参照。この話は次回の教育関連(第二話で紹介する)。

 

【予定】
第一回 「英語のできる人間は優秀であるという発想を打ち砕(くだ)きたい理由」(前編)
第二回 このプリントを配付するにいたった経緯。
第三回 「英語のできる人間は優秀であるという発想を打ち砕(くだ)きたい理由」(後編)
第四回 李登輝元総統来日に際しての解説。
第五回 現代のイドラ・偏差値批判(その一)。
第六回 現代のイドラ・偏差値批判(その二)。

 

 

補助プリントNo-4:真の英語学習への勧めと学問の精神
    ――「英語のできる人間は優秀である」という発想を粉(こな)々(ごな)に打(う)ち砕(くだ)きたい理由について――

 1996年5月31日(金)の授業にて、「英語のできる人間は優秀であるという発想を粉(こな)々(ごな)に打ち砕(くだ)きたい」と授業で話した。ただ、時間的なこと、また学生諸君が十分に私の話を聞く体勢になかったため、言葉足らずで終わってしまった。だが、大学の一般教養の英語を担当している以上、その理由をきっちりと学生諸君に伝える義務が私にはある。そこで、今回の補助プリントにおいてその理由を記すことにした。反論のある諸君も、最後までこの文を読めば、私の言っていることに同意してもらえるのではないかと期待している。
今日(こんにち)の学校教育において、英語のできる生徒は優等生で、できない生徒は落ちこぼれであるという発想が蔓(まん)延(えん)しているように思われる。しかも、他教科に比べて余りにも英語の場合はそうした見方が強いのである。それが何故(なぜ)問題なのか。結論から書こう。
外国語学習の目的の中で一番大きなものは、真の国際性を身につけ、いかなる国の人に対しても同(どう)胞(ほう)の精神で接することのできるようになることであり、そして内外を問わず人間の尊(そん)厳(げん)を尊重する精神を養うことにある。だが、今日の英語教育の効果はそれと全く逆の効果をもたらしているのである。即(すなわ)ち、後に詳しく述べるように、アメリカ人、イギリス人を重視し、しかもまず白人に限定し、そして途上国の人などを軽視するような役割を今日の英語教育が結果として果たしている。

 

また、英語ができる人間は優等生という発想があるにもかかわらず、決して長期に亘(わた)って英語学習をする人が多くいる訳ではない。否、ごく一部の人を除けば、ほとんど全ての人にとって学校教育後は忘却の日々が始まる。朝日新聞の1996年6月3日の記事によれば、高校2年では半分の人が英語は嫌いであるという。そして、高校を卒業すれば大半の人は英語学習をすることは皆無に等しい。大学ですら、専門としている人を除けば、単位修得のためだけの、中学1年生は言うに及ばず、老人でぼけ防止に語学を学んでいる人以下の学習量となる。そして、修得後は事実上英語とは無縁となる。しかも、その後英語のできる人は優秀という潜在意識のみもち、その他の言語や途上国の人などへの差別意識にもつながる状態のみが残っているのではなかろうか。
そこで、私は大学の一般教養の語学の目的が、真の国際性を身につけ、内外を問わず人間の尊(そん)厳(げん)を尊重するという学問本来の精神を明確にするために、「英語のできる人は優秀」という発想批判をしたいと考えている。そして、できるならば本当の意味で、生涯に亘(わた)って日本語以外の一つの言語に親しもうと考えてもらえれば幸いである。

 

 

《◇-1:語学学習に当たって注意しなければならない過去の教訓》

 

台湾の総統は、彼が話せる言語の中で、日本語が一番流(りゅう)暢(ちょう)なのを、諸君らは知っているだろうか。
本年(1996年)3月、台湾総統(日本で言う首相)となった李(り)登(とう)輝(き)氏は、北京語、台湾で使われている言葉、米国留学の関係で英語、それに日本語が話せるという。だが、彼が一番流(りゅう)暢(ちょう)なのは日本語であるという話を聞いたことがある。さて、実はここに多くの問題がある。台湾などでは年をとった人が流(りゅう)暢(ちょう)な日本語を話すということは、諸君らも知っていると思うが、もし知らない人のために少し解説をする。そして、その後で語学学習に当たっての問題提起をしたい。

かつて、日本は韓国・朝鮮を始め多くのアジアの国を侵略した。そして、韓国・朝鮮、台湾では日本語以外を使用させない政策をとった。台湾では、実に約50年に亘(わた)って日本語が押しつけられてきた。学校の授業はまず全ての教科を日本語で行(おこな)った。
勿(もち)論(ろん)、国語(日本語)の授業は大きなウェートを締(し)めていた。当然日本語のできない生徒は落ちこぼれ以下の存在である。

 

日本語のできる生徒は優等生である。そして、先生はその生徒より日本語がうまい。偉い先生である。だが、先生より日本本国に住んでいる人は一般的に更に日本語がうまい。当然、日本人は偉いという発想を持ちやすい状態になる。少なくとも、日本人は台湾や朝鮮・韓国の人に対して優越観を持ちやすくなるであろう。しかもこのときには、その裏返しで、力のない民族や原住民の言葉を話す人は、より劣った人間であると一般的に思いやすくなるのである。それは台湾や日本に限らず、歴史は余りにも多くそのことを証明している。

 

 

 

《◇-2:今日の語学学習を振り返って》

 

話を現在の日本に戻そう。今日の日本も今まで書いてきたことと同じようになっていないだろうか。中学から英語を勉強し、試験の点で評価され、選別される。英語の成績の良い生徒は優等生、悪い生徒は落ちこぼれである。しかも問題は英語のみならず、人間性全体の評価にむすびつけられてはいないだろうか。要するに、英語の成績の良い生徒は英語の優等生というよりも、人間としての優等生と思われる傾向にある。逆に、英語の出来の悪い生徒は人間的に問題のある人間として。そして、その延長上に英語のできる人は全て優秀な人間、偉い人 間と思われる。

 

 

英語をペラペラと話せる日本人を見ると、秀才・エリートに見える。当然のことながら、英語のペラペラな英米人に対して、潜在的にコンプレックスというか、一歩下がってしまうようにはなっていないだろうか。頭では平等と思いながらも。特に大学受験で英語のウェートが余りにも大きいため、余計にそうなってしまうのである。しかも、外国語と言っても事実上英語に限定されていることが、一層偏見を助長してしまう。その結果、タガログ語の学習をしている高校生などを優秀どころか、変人でしかないというような発想となる。英米人コンプレックスなどは全くないという人がいるかもしれない。万一、それが事実としても、次のような二つの問題があることを忘れてはならない。

 

第一の問題は、英語のペラペラな外国人は先生の如くであると言っても、事実上白人に限定されてしまっているということである。例えば、NHKのTV英会話などの講師などは白人に限定されてきたという事情がある。(1996年になり初めて3か月のみではあるがアフリカンアメリカンの人がホスト役を演じたが)。その他の英会話教材も似たり寄ったりの状態にある。その結果、英語のペラペラな外国人は優秀と言っても、事実上白人のみで、アフリカンアメリカンも、米国内に定住しているラテンアメリカ系アメリカ人も、アジアの様々な国出身のアメリカ人も全て除外されることになる。ときには、そうした人達に対して日本人より劣った人々とすら思う人がいるかもしれない。こうして、今日の英語教育は真の国際性や人間の尊厳の尊重ということと逆の効果を生み出してきたのである。

 

尚(なお)、誤解のないように言うが、私は決して白人嫌いではない。現にTV会話などで、幾つかの点で興味を持つ講師もいる。しかし、語学学習の目的の一つが真の国際性を身につけることであるとすれば、セサミストリートの如く、意図的に多用な人種や民族の人を講師にしなければならないのではなかろうか。そうでなくても、日本は島国で偏見を持ちやすい国(くに)柄(がら)なのであるから。

 

もう少し付け加えれば、英語と言っても、ほとんどの教材や講座の講師が白人に限定されていることから、同じように英語を話してもシンガポールの人は大したことはないとか。フィリピンの人で英語をネガティブの如く話しても、しれているというような感情を空気を吸うが如く植え付けられているのではあるまいか。だから、私が嘗(かつ)てフィリピンの友人の何人かの女性(いかがわしい場所ではない本当の[今は日本には存在していない、ショー見学・生バンド演奏観賞型大型居酒屋である]キャバレーで知り合った女性達)を大学に連れてこようと、本気で考えた理由がここにある。こうした、日本人に植え付けられた発想を粉々にし、真の国際性と人間の尊厳、そして何よりも英語学習を再考する機会とするために。

 

そして、今日の英語教育の危険性の第二点は次のことにある。「英語のできる人は凄(すご)い」という発想の逆は、「英語を話せない人・民族は駄目だ」とか、その他の言語を学習している人を軽視するというよりも、目下(めした)に見る傾向である。英語しか話せなくても、英語の話せるアメリカ人は優(すぐ)れた人間、否(いな)、英語学習者等にとっては先生の如(ごと)くに見えるかもしれない。しかし、ブラジルなどから日本に来た人で、母国語のポルトガル語がペラペラでも、誰も当たり前だと思い、何の評価も下さない。実際母国語なのだから当たり前のことである。だが、英語は違う。バイリンガルでも英語が絡(から)めば凄(すご)いとなり、これがタガログ語などなら何の評価も下されない。それどころか、ブラジルやペルーなどから日本に来ている人が、懸(けん)命(めい)に我が国の言葉・日本語を学んでいても、誰もその姿を見て優等生とは思いはしない。逆ですらある。しかし、日本人の誰かがあれほど英語を勉強していれば、すごい勉強家だと思うにもかかわらず。

 

 

ハングル語を母国語としている在日コリアンの年をとった人が、老いても、なお日本語の読み書きを勉強しているのを見ても、落ちこぼれで大変だなとしか思わない人がいるかもしれない。中には目下にみる人すらいるかもしれない。しかし、その人はハングル語はペラペラで、日本語も流(りゅう)暢(ちょう)に話せるが、ただ単に漢字の読み書きの練習をしているにすぎない。それでも落ちこぼれだとみなされるのである。

 

もし、日本の学生が英語を流(りゅう)暢(ちょう)に話し、その上で英語の読み書きの練習をしていたら凄(すご)い秀才・インテリだと思う場合が多いかもしれない。山田洋次監督の映画『学校』の中で、夜間中学で日本語の読み書きをしていた、年をとった在日コリアンの婦人が出てくる。ひょっとすると、この婦人を見て落ちこぼれで大変であるが、それでも年をとっても、努力して偉いなと感じた人がいるかもしれない。私に言わせればとんでもないことである。これは凄(すご)い人(ひと)なのである。実際英語とハングル語を置き換えて考えてみればよい。アメリカ人で英語は母国語でありペラペラ、そして日本語も流(りゅう)暢(ちょう)に話す。その上で日本語の読み書きを習っている。しかも老いてもなお、日々学習している人がいれば、人はどう思うであろうか。この人が若い人であれば凄い人で、老いていれば素(す)晴(ば)らしい人とみるのではなかろうか。おまけにおごることなく、学問に謙虚であるとすればどうであろうか。こんな凄(すご)いことはないであろう。

 

だが、今日の日本では英語とハングル語が入れ替われば、秀才・インテリと落ちこぼれの違いとなって表れる。ここに今日の学校教育での語学学習の弊害が表れているのではなかろうか。また、日本人が語学の学習するとしても、英語を始めとする先進国の言葉の学習を懸命にしている人は秀才、タイ語やタガログ語などのアジアの言語の学習をしている人は、大学などの研究者を除けば、全て変わり者としか見ないのではなかろうか。

 

 

今日の日本の学校での英語教育は、こうしたおかしな現象を生み出すのを助長する役割を担っているのではなかろうか。だから、「英語のできる人間は優秀であるという発想を粉々に打ち砕きたい」と私は言ったのである。この文を読んで誤解している人はいないであろうが、英語の勉強をするなと言っているのでない。先の在日コリアンの老いた人が日本語を学ぶような謙虚な気持ちで英語を学んでほしいし、そうした形で語学を学習している人こそ評価されなければならないといっているのである。だが、良く意味の分からない人のために大学の一般教養の授業にふさわしい形で以下記すことにする。