《🔚公式Blogへ》駿台真相編7D-2・駿台との交渉―2

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《🔚公式Blogへ》駿台真相編7D-2・駿台との交渉―2

【表紙写真】(📷表紙の写真:駿台への内容証明

1987年末頃の状況-A1

 


【更新履歴】

2025/05/08から下書き開始:4/25から安らぎ文庫へ下書き掲載;

2025/05/11 から修正作業開始

2025/05/13~5/15にかけて《◇―4》の本体を独立させ、別箇所へ移動。移動先は《◇5》に記載。ただし、一部は《◇―5》【資料】に掲載している。

2025/05/16 修正中

2025/05/17 14:25 追記 今日から見ると、大家が私の部屋をモニターかアパート内の住人経由で監視していない方が不思議となることと、警察官が常時関与している疑問を記している。裁判所か国会での審議に持ち込めない限り、この謎は解けないことを追記した。例外は世界の首脳が人権問題として一斉に関与してきたときだけであろう。

2025/05/18に 公式Blogで正式公開予定:正式公開後の修正は公式Blogのみで行う。

(公式Blog)https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=50719


 

(クリックで拡大)

実名で書かざるを得ない根拠と実名合法性の解説:クリックで拡大

駿台真相編目次


 

1987年末頃の状況-A1

【本題】・《🚧準備中》駿台真相編7D-2・駿台との交渉・2

 

【駿台信組編・7関連】

 

【公開済み】

7-A1・駿台と村を取り巻く謎の利権集団
7-A2・駿台刑事犯罪被害の開始シグナル―謎の女性三人登場
7-A3・姪登場、催眠と睡眠薬、ホテル群破壊と証拠隠滅工作
7-A4・山城の女、映画説強調、そして真逆攻撃
7-A5・駿台での業務妨害と刑事犯罪の激化
7-A6・犯人の仮説

【公開予定】

7-B1・差別文書問題-2025年見解
7-B2・差別文書問題2007-10年見解-1
7-B3・差別文書問題2007-10年見解-2
7-B4・差別文書-2019-24年分析チンプンカンプン編
7-B5・差別文書-2019-24年分析・人間違い編
7-B6・差別文書-女性、部落問題の謎と不審死連続の謎:人間違い
7-B7・差別文書-2019-24年分析・映画説と駿台CM説融合論

7-C1・玉子事件―外部と駿台内部と外部の共謀・共犯と2016年政治家が介入(今回の箇所)
7-C2・エアコン事件-徹底した小細工動員の事例
7-C3・マイク攻撃―証拠隠滅例

7-D1・駿台交渉資料編1
7-D2・駿台交渉資料編2(今回の箇所)

7-E1 (or 8)・その後(永久の映画説と現世の矛盾、だが解けぬ謎)



【今回の構成】(今回も一万文字を目処も今のままでは三万字を超える)

《◇―1》駿台辞職直前の状況―1・日本共産党への救済依頼

《◇―2》駿台辞職直前の状況―2・再度、駿台幹部への救済依頼

《◇―3》駿台辞職と故郷への監禁・戦前の軍国主義の手口

《◇―4》【資料】堀江部長への手紙・96年駿台復帰願い送付

《◇―5》【資料】党派中立への道・催眠強要文書―駿台事件に何の関係があるのか→一部別原稿へ

 


 

《◇―1》駿台辞職直前の状況―1・日本共産党への救済依頼

駿台に内容証明を送付しても、効果がなく、犯罪被害が続いていた。更に、その前に弁護士(岡山合同法律事務所・豊田弁護士)に相談しても門前払いされていたり、直接に岡山地方裁判所へ訴訟用の用紙をもらいに行ったりしても門前払いをされており、打つ手は全てなくなっていた。

残った手段は、(当時の状況では)大昔に関係していた日本共産党に救済依頼文書を出すしかなくなっていた。しかも、差別文書を手渡された後は、部落解放同盟と(部落解放同盟)正常化連との争いに巻き込まれた疑惑を感じさせられていたため尚更であった。

当時、駿台講師時代の被害は幾ら考えても、納得できる原因が不明であり、消去法で考えると、岡山合同法律事務所の豊田弁護士に不審人物あつかいされたため、(岡山のササズシという食堂で、店のママさんから常連客ということで偶然紹介されていた)「分裂前の部落解放同盟副委員長、分裂後の部落解放同盟正常化連議長)岡映氏と知り合いなので、私が不審人物ではないことは岡さんに聞けば分かる」と言ったことが原因で、岡さんと対立するグループの部落解放運動関係者が絡められたように思わされていたからである。

下記文書が、1987年末頃に日本共産党中央本部に送付した救済依頼文書の下書きと思われる。

ところが、(結論を先に書けば)効果が全くなく、この直後と思われるが再度駿台の恐らく大滝部長宛に救済依頼を出すことになる。なお、ポリテクカレッジ岡山でも労基法被害を膨大に受けたため、このときは救済依頼の中心は小渕恵三総理(早大大学院政治学研究科先輩)に送付するなど、救済依頼の中心は総理大臣(小泉純一郎総理・官直人総理)等や国会議員(延べ百人に書留送付)中心にするようにシフトしていく。

 それが日本のフィクサーMEへの道に繋がっていったと思わされている。

以下、その時の文書を掲載する。ただし、数ページ不明となっているように思われる。

1987年末頃の状況-A1

1987年末頃の状況-A2

【上記文書の掘り起こし】(日本共産党宛文書と思われる)

 

[1ページ目]

前略。
突然の手紙で失礼いたします。
私は駿台予備学校大阪校及び岡山進研学院、岡山職業訓練短大で講師をしているものです。
今の現状では精神的・肉体的に限界状況に達しています。


どなたかに助けを求めなければ、生活ができません。
一応、読むだけでも読んでください
信じていただけないかもしれませんが、これから書くことは事実です。

私は現在約100人以上の興信所の人に囲まれ、毎日、さまざまな脅迫を受けております。

①私の過去を洗いざらい調べ、その調べたということを見せつけ脅かす行為。(過去の付き合った女性などありとあらゆるものです。)プライバシーはすべて暴かれました。

②いく先々でのさまざまな嫌がらせ(自転車をおけば紐をまきつけ、サウナに行けば見も知らぬ人間に挑発的な言動をされ、そして自転車に乗っていれば車に何度もひかれそうになり、行く先々全てに手を打たれ、日常生活すべてに介入され、生活が極めて困難になっています。

③ホテルに宿泊しても冷暖房を夜中に操作し(時には暖房切っても24 30度をこえたり)暖房をいれても部屋の温度が24度で冷風が入ったりと 寝ている時に操作をされましたので、何度も定期的にされましたので、体にはあまり良くはありません。
そして私が何等かの行動をしようと思うと 様々な威嚇行動をされています。
たとえば警察官(恐らく偽物)だと思いますが。手紙を誰かに出し 救いを求めようとすれば、郵便局員をつかい 手紙を出したとしても無駄であるという威嚇をうけました。

 ことのおこりはささいなことで、学校で三年程前にある女の子を好きになり、それがこじれたことが原因です。女の子には指一本ふれず、職場でデートをしたこともなく、職場で二人きりで話をしたこともほとんどないのですが、その後学校でマイクをだされなかったり (その結果何度も声がつぶれました)

冷暖房を操作されたり、私の持ち物を勝手にみられたり、無関係な生徒を部屋に入れ 授業妨害を受けました。
そして、直接の原因になったのは今年の夏に通信の秘密をおかされ、職場と無関係で時々会っていた女の子なのですが、郵便物をを見られ、その子に何かを言われ

〈最終ページを除く二ページ目以降の下書き文書群が不明〉記憶ではおびただしい車の更新による威嚇、私の通る道路におびただしい動物の死骸が置かれていたことなどを書いていたと思う。私が赤旗日曜版読者であることもしるしていたと思う。赤旗日刊紙や赤旗ではなく、日曜版と明記していたはずである。この頃は、共産党員ではないため、共産党員からの救済とは記せなかった記憶がある。これについては、下記の党派中立・宗派中立の項目参照。

下書き用紙が出てくれば、そのとき抜けている部分を掲載をする。

[最終ページ目]

起こったことを箇条書きすれば

①通信の秘密おかし、対人関係をこわされ、(彼らは金でもみけしています)

②部屋の話はすべて隣人等を通じ すべてつつぬけになり

③プライバシーをあばかれ、さまざまな脅迫をうけ、ひどい時には、私の部屋の中にあるもので、それを見られて脅迫されたこともあります。

④徹底的な尾行というより威嚇をともなった尾行をされ

⑤日常生活にさまざまな干渉され、
早朝ポスト(朝5時、6時頃)をたたいたり

⑥学校での授業妨害(最近は少し少なくなりましたが)

私の生活面ですべて不法な介入を受けました。

学校側に抗議しても、これは暴力団の仕業であり、不満があれば警察に行くように言われましたが、警察に行ってもすでに手はまわされています。

部屋でものを書けばその内容がすぐにバレているのです。おそらくモニターかなにかと思います。

(🤡Comment:2025/05/11)

 上記に記したように、おびただしい車の数による威嚇など、当時の状況を記したものの一部が抜けているようである。

 次に、部屋の温度操作問題は駿台真相編7―C2で記したように、温度計自体が操作されていたか、もしくは部屋に巧妙な小細工がなされていた疑惑が高く、温度は不明が事実である。本日、💻(パソコン)室でエアコン抜きで作業したが、部屋の温度は8時半が20度、18時39分が21度であり、その間も小雨の日のためほぼ同一温度であるが、寒さは全く感じていない。

 ところが、当時の温度操作の恐怖は20年近く、ホテル宿泊時の恐怖として残り、ホテルに泊まるときは服を多めに持っていき、寒さ攻撃対応策をとっていた。だが、冬に暑さ攻撃もやられている。真夜中に汗びっしょりで目が覚めたときには家から持参した温度計は30度を超えていた。12月のことである。通常はそこまで温度が上がらないようになっているはずであるが、何等かの特殊操作がなされていたと思われる。

ちなみに、駿台講師時代も含めて、この温度攻撃は1952年生誕時から2025年5月11日の間では、1987年10月頃から1988年1月頃の東洋ホテル(中津)のみである。そして、この期間中は例外なく毎日被害を受けていた。

 後にも先にもそうしたことは一切なかった。東洋ホテルでも上記の期間以外は全て正常であった。東洋ホテルは1986年4月から1988年1月まで、夏・冬・春休み以外は毎週3泊していた。勿論、夏・冬休みは特別に夏期講習・冬期講習が別にあったが、これらの特別講習でも異状は1987年度の冬期講習のみであった。

また、普通に寝ているのではないことも注意願いたい。当時、罠にかかって、政経、現代社会、日本史、英語を担当し、多くの模試を抱えていた関係で、寝るのは午前4時過ぎが多く、起床は午前7時半か8時頃が多かった記憶がある。その短い睡眠時間中に集中攻撃を受ければ体は参ってしまう。これは牢獄での、隠れた拷問に近い所業であったと言える。

なお、日本共産党中央本部に救済依頼をだしたが、全く無反応であり、私への連絡は一切なかったそこで、やむなく、再度、駿台経営陣に救済を依頼せざるを得ない羽目となる。

 ちなみに、岡山市庭瀬界隈の共産党員も、駿台京都校や大阪校の共産党員も誰が共産党員か全く知らないため、共産党関係者の人物保証をつけずに、共産党中央本部に救済依頼を出している。知っていたのは、岡映氏くらいであったが、友人の「岡さんは部落解放運動の分裂問題でそれどころではない。岡さんの邪魔をしてはならない」で相談は一切していない。

 赤旗日曜版は1985年途中から講読していたが、配達人の顔は知らないし、代金も半年か・一年分かまとめて払っていた記憶があり、「お金です」、「はい、領収書です」程度の会話であり、集金人の住所も名前も知らなかったと思う。そこで、相談は不可能でもあったし、(親しくもない)配達人に相談することすら思いつかなかった。

 あるいは、共産党中央本部レベルでないと、相談しても意味がないと思われた上に、配達人は全く知らぬおっさんでもある。要するに、警察官、弁護士、裁判所受付で直に相談(門前払い)、再度警察官、駿台への相談、駿台へ内容証明、更に警察署、共産党中央本部…全部に無視され、再度、出てきた記録の断片からは駿台経営陣に救済となっているようである。

 なお、我が家でも相談したが、全く無視に近かった。それどころか、ときには家族も駿台と裏で提携しているのかと疑う始末であった。今でも流れからはその疑惑もある《◇―3》などは、2000年前後から振り返れば、綺麗に🎬映画説の一貫として、家族も逆に「自宅監禁労働」への協力者となっているとしか分析できない。全員が、狂気の🎬映画説グループの一員であると漠然と考えていた可能性がある。

だが、ドメスティックバイオレンスは犯罪である。こうして、再度、駿台へ手紙を出すことになったのであろう(若しくは出すことを考えたのであろう)。仲間も味方も完全にゼロであった。その上での被害である。しかも、危害の原因には心当たりはないというおまけ付きである。

(ただし、大雑把に言えば、こうした意味不明状態がその後も約40年続くとは当時は全く思っていなかった。後には、死ぬまで続くのかもしれないと思うことが多い。だが打つ手は全くないのが現況である。)

 

《◇―2》駿台辞職直前の状況―2

駿台京都校宛への手紙と思うが、最終的に送付したか、下書のままでやめたかは覚えていない。ただし、内容証明送付後の文書である。更に併行して日本共産党中央本部宛に救済依頼をだしたが効果がなかった。そこで、再度、駿台京都校宛にだした救済依頼文の下書きと思われる。ただし、こちらは下書きはあるが送付したか・否かの記憶はない。

原稿用紙は相当前から・多分駿台辞職後から所有していない、駿台京都校の用紙である。

 

1987年末頃の状況-B1:
多分今日渡航宛文書の下書

下記の№2だけが長期紛失していた謎。

駿台宛手紙-B2

1987年末頃の状況-B-3

1987年末頃の状況-B-4

B5-駿台手紙

【上記文書の掘り起こし】駿台予備学校宛てへの手紙の下書き

[1ページ目]

前略。
内容証明書 読んでいただけたでしょうか。
内容証明に書けなかった不確かな部分を、これから数回の手紙で書かせていただきます。

私の願いは次の点にありました。


私の健康を害する行為を一切やめていただくこと。(ホテルの夜中の冷暖房の操作など)
ひどいときは夜中に暖房をきって30度をこえたり、逆に暖房入れても24度で冷風が入るということがありました。

②授業に必死に取り組む環境を作っていただくこと

③人の私生活に無〈む〉やみに介入しないこと

④通信の秘密をおかして、対人関係をこわされたみたいですが(駿台と無関係な人との)、あとは干渉せず、そっとしてほしかったのですが、それすらみたされなかったみたいです。今最後の願いは1月15日までの授業を必死にしたいので、不法な介入をやめていただけないでしょうか。(あるいは駿台と本当に無関係ならば駿台の力でやめさせてください)

 今日も気分転換に海に行こうと思えば 車が威嚇的にぞろぞろくるは、飛行機まで飛ぶは、では困ります。
それと私の部屋にモニターがついているみたいですが、それをとりのぞいてください。

(🤡:2025/05/11Comment)

温度24度の件は既に記した駿台真相編-7C2の如く、温度計か部屋を操作されていたようであり、24度ではなかった可能性が高い。少なくとも、今(2025/05/11 8:30)屋内温度は20度であるが、エアコン抜きでも特に寒くないため、尚更である。

「飛行機が飛ぶでは…」次回記す駿台真相編-8の如(ごと)く、不可解な🎬映画説が背景にあり、面白半分に本当に故意に飛ばした可能性が高い。展開されたレベルはその次元であったことは後の海外旅行で判明した

[2ページ目]
一時 訴訟を考えたこともありますが、それは話〈し〉合いでということを明言していると思います。ただ、話し合いというたびに干渉がひどくなるのは何故でしょうか。

どうもこの間の干渉は、最初は私を脅迫して、訴訟をやめさせようとされているのかと思いましたが、そうではなく実験をされていたみたいですね。
ずっと考えていくと 私がなぜ駿台側と話〈し〉合いをしたかということを実験されているのではないでしょうか。
そんなことは口で聞いていただけたらいつでも言うことです。

そのために授業中クーラーを下げたり、マイクを操作したり、夜中にホテルのエアコンを調整したり、脅迫してみたり、そんな馬鹿なことがあってよいのでしょうか。

あるいは夜中に私のアパートの郵便うけをたたくなどの不法行為や、アパートに不法侵入をし、石油缶のふたを盗み、それを外に 石油かんをおき気づくかくかどうかの実験をするなど、人権侵害もはなはだしいのではないでしょうか。

ただ、授業に専念したいのです。
1/15〈1月21日の誤り、訂正は会談時に行っている〉まで まだ〈の〉席は駿台にあります。それまでに事態を改善していただけないでしょうか。また威嚇を伴った尾行もやめさせて下さい。


また、これらのことは駿台のお金でなされていないかもしれ

[3ページ]

ませんが、駿台のお金でそういう状態をなくすよう努力して下さい。

はっきり書きますが、訴訟など誰でもしたいわけはありません。

しかし、人権侵害を平気でされた以上、自分を守る手段はそれしかなかったのです。

ただ、それも今は取り下げ。話〈し〉合〈い〉で解決すると言った途端に事態は一層激しくなりました。

何度となく不法介入を受けた以上、すごい恐怖心はあります。訴訟取り下げ、事態が一層ひどくなったみたいです。精神的・肉体的限界で外部にやむを得ず救いを求めようと思いましたが、それすらうまくいきません。そこであなたに救いを求めるものです。

とにかく次のような行為を駿台の力でなくしていただけないでしょうか。

①威嚇をともなった尾行

②部屋への不法侵入(生徒からあずかったコピーが紛失したこともあります。)

③プライバシー権の侵害

④日常生活介入の不法行為(早朝、郵便ポストをたたいたりすること。あるいは自転車をおけばひもをタイヤにまきつけたりすること

[4ページ目]

⑤東洋ホテルでの夜中のエアコン操作

⑥私のアパートのモニター(の撤去)

⑦隣人をつかっての私の会話の盗聴
これらを駿台がもし関係していないとしても駿台の力でなくしていただけないでしょうか。

いろいろ 私がなぜ大阪校の松本課長と話をしたのかという実験であると分かった以上、私の方も内容証明にあるよう訴訟は書いておりません。


また外部に駿台関係者に著しい不法介入〈を受けたのではないかと思い〉 あるいは脅迫を受けたのではないかと思い救いを求めましたが、上記実験ではないかと思いましたので、救いを求めたところに私の思った訂正文を出すことになります。

もし実験でないとしても、私の今の力ではどうしようもないので駿台に救いを求めたいと思います。

なお、前回の内容証明書の(一)の大阪校での授業妨害 これは本当に大阪校で起こったことです。

(二)の私の日常生活への不法介入はどう考えても駿台の関係者ではないかと思いますが、それを駿台の力で調べ明確にしていただけないでしょうか。私の方も明確になった〈時〉点で民法 刑法に

[5ページ目]


違反する行為はどうしたらよいかあなたにお願いすることもあります。

内容証明を出しながら と思われるかもしれませんが、●●〈判読不可能「親に」に見えるが不明〉手をうたれ、●●〈判読不可能:「お●」〉手をうたれてはどうしようもありませんし、また、よく考えれば、現時点で駿台に席がありますし、駿台の誰かが関連している疑いが強い以上 以上のことをお願いします。

《◇―3》駿台辞職と故郷への監禁

こうして、当時の状況では打つ手は全てなくなっていた。その上に、駿台での最後の交渉時に、「三年たって、先生にその気があれば、駿台は大きく門戸を開けて待っています」(関西地区大滝部長の正式な約束)と、大阪校責任者堀江部長などの「先生、充電期間です。充電が終わればまたもどってきてください」(こちらは雑談風)もあり、更に、我が家の父が駿台での会談内容を知っていたように思えたため、駿台と父親でほとぼりが冷めた後でまた復帰できるのかと漠然と思わされたこともあり、訴訟類は完全中止とした。

同時に、ポリテクカレッジ岡山との専任契約もあり、一定の期間のみ耐えれば何とかなると思ってもいた。私をポリテクカレッジ岡山へ招聘した嶋坂先生は「浜田、心配せんでもええがな。ポリテクカレッジ岡山で専任になれるがな。お前の専任確約はテープにとって金庫にしまってあるので、(最悪の場合でも)ここで専任になったらええがな」ということを言っていたこともあった。嶋坂先生のこの台詞は1988年以降、先生が神戸女子大か神戸女子大学瀬戸短期大学に移動されるまで、何度も聞かされていた。

そこで、訴訟類は完全に中止として、政経・現代社会と日本史の組み合わせから、政経・現代社会と英語(大学での一般教養型プレゼンテーション型演出と、当面の食い扶持をつなぐ塾などでの英語)の技能を磨くことに専念しようとも考えた。ともかく、父と駿台経営陣とで話しがついたと思い、共産党中央本部には「父も絡んでいるようなため、救済依頼中止」の文書と迷惑料としてカンパ(確か)3万円をつけて送付した。すると、「カンパありがとうございました」という礼状だけがきた。

ここまでは良かったが、後に、父が知り合いの(🎬映画説グループの関与したとしか思えない)病院での危機、ポリテクカレッジ岡山事件の際にも、頼る類(たぐい)が全滅のため、共産党中央本部類に救済を依頼するが、全くに近く無視されるどころか逆効果となり、《◇―4》に記す党派中立・宗派中立が心情的にも作られていく。

話を元に戻せば、ポリテクカレッジ岡山の専任問題は中曽根行政改革の関係で、まだ長引きそうに思え、三年程度は何かをして食っていかねばならない。そこで、岡山市を拠点として、岡山の予備校、ポリテクカレッジ岡山、岡山の塾講師などで食っていくことにした。

ところが、その拠点としなければならない岡山市を追い出されることになる実家に戻れば、専任確約のあるポリテクカレッジ岡山は往復200キロとなり、岡山の予備校も往復120キロ以上となる。さらに、まともな大手塾や予備校もない。そこで、実家に戻ることは、(大滝氏の約束が守られるとして)最低でも3年以上の生活苦を意味していた。

しかも、駿台ドタバタ劇のストレス対策で、飲み回っており、預金は余りなかった。第一、1987年12月上旬でも駿台を辞める意思は全くなかったため、いつでもある程度の金は貯まるということで本格的預金をしていなかった。

その上に、IT革命の序幕のため、パソコンや本格コピー機購入などの出費が相次ぎ、この残金では都市部での住居は敷金・権利金・引っ越し費用・捜す費用などで無理となる。そこで、田舎にもどれば、ポリテクカレッジ岡山と岡山の予備校系だけとなり、大変なことになることを意味していた。要するに、自立の道が閉ざされること(寄生生活をよぎなくされる状態に追い込まれていくこと)を意味していた。三年余りの辛抱でも長い。高校は三年間であり、それと同じ長さである。

 ところが、その三年後に復帰が嘘の上に、その間にポリテクカレッジ岡山での労基法違犯・不法行為の嵐で参り、ついには大吐血、更には脳が機能不全となり、生きる屍状態が1993年末まで続くことになる。

その自宅監禁・寄生生活への流れを拙著『閉じた窓にも日は昇る』{原稿を文藝春秋に送付したバージョン(結局、出版されなかった原稿である。今発売中の電子書籍版とは少し相違がある}から抜粋して紹介しておく。

〈  〉内のみ2025/05/11~の間につける

☆☆☆☆

第一一章・駿台予備学校辞職と一七年ぶりの故郷(ふるさと)へ

当時は、駿台を辞職すれば犯罪行為からは解放されると考えていたため、岡山市を拠点にバイトなどを探す予定でいた。だが、まず大屋が、次に姉がアパートへ突然来て「アパートを出ろ」である。理由は事実上告げないに等しいか、少なくとも筋の通った正当な理由は聞いていない。私は当然出る意思はない。田舎に帰れば長期的視点から考えると、岡短〈ポリテクカレッジ岡山〉しか事実上仕事がなくなる危険があった。実際に、その後膨大な仕事の機会を奪われた。


だが、血相を変えた姉が「アパートを出ろ、実家が嫌ならば岡山市で別のアパートを見つけろ」、である。姉の子ならば簡単である。要するに金さえあれば、商売上大量の文献が収納でき、駐車場付きとしても家賃六~一〇万円の物件ならばある。しかし、私の場合はそうではない事を忘却した挑発でしかない。駿台辞職後は、当然数年程度は金欠が予想され、あのアパート〈岡山市庭瀬にあった「グリーンハイツ」〉は出る訳にはいかなかった。


このアパートは台所を含めて六畳三間、バス・トイレ付き、車と自転車の両方駐車可能、駅まで徒歩七分で二万八千円である。同一条件のアパートを探すには半年位かかる。このアパートを見つける時も、その位はかかった。また、荷物が多い上に、引っ越し屋も頼めぬ関係で、以前の住居・(大量の文献のため、実家も併行使用していた)高柳アパートとこの庭瀬アパートの両方に三箇月余り家賃を同時に支払い、徐々に引っ越した位である。仕事上不可欠の大量文献が収納可能・駐車場完備で安いアパートを探すのは至難の業(わざ)であった。しかも、駿台辞職後は数年程度の金欠が予想され尚更である。が、後に述べるように、事実上数日で探せに等しい状態にさせられ、結局追い出された。

 アパートを追い出された時の問題、正確には田舎の自宅監禁への道は、例えで言えば、次のような手口での謀略によるものであった。即ち、暴漢に頭を殴られ金銭を奪われたため、大慌てで暴漢を怒鳴りながら追いかけた。だが外に出ると、暴漢の仲間が私を指さし、「お前は凶暴かつ不審者である」と叫び回り、逆に私の方が不審者扱いされた、という手口である。

 あるいは、空き巣に入られ泥棒が逃げたので、木刀を持ち追いかけて外へ出る。すると、即、「お前は凶悪だ」と逆に私が警察に逮捕されるように〝さくら〟を使い誘導する。要するに、戦前の軍国主義者が中国などを侵略した時に、目障りな住民を放逐するために使った手口にはまっただけである。


このアパートの件はまさにその典型であった。自己防衛努力以前に、警察に何度も被害届を出しに足を運んでいたにも拘わらず。(庭瀬派出所では、被害届手続は断られ、被害状況を記したメモのみ数度受け取っただけであったが。)後には大家にも事情を話しているし、弁護士相談は不法侵入事件前の授業妨害段階であったが、弁護士にも相談していたにも拘わらず、私の方が逆に不審者扱いされる。


しかも、部屋への不法侵入された直後等に、犯人捜し時の数度の木刀携帯は、通常の人へ威嚇を与えぬようにするため、アパート周辺約三メートル内に留めていた。それ以上は素手で犯罪者捜しをしている。本当は犯罪者捜し時には常時木刀類を所持しておかねばならない。

 何故ならば、犯罪者が刃物等を保持している危険性があるためである。ましてや、警察にも既に届出をしていることもあり、身の危険を避けるためには防衛器具所持が不可欠であったが、駿台類が犯人ならば不審者扱いされる罠を警戒して、アパートの部屋から約三メートル以上は手ぶらで捜索せざるをえなかった。アパート内の部屋の風呂に入っている時に、物を動かされた疑いがあった直後ですら。もし、犯罪者が駿台関連でなかったならば危険すぎた。

因みに、二〇〇七年にこの件を再調査していると、私の母親が、当時、大屋から我が家にも電話があったと言った。そこで、母に大屋が言った内容を尋ねると、このアパート二階のTG〈中国女子〉短大〈現・中国学園大学〉女学生が怯えたのが理由との事――若しくはそう解釈したとの事――であった。すると不可思議な事が幾つも出てくる。


第一に、大家〈西本さん〉が「アパートを出てくれ」と威嚇的かヒステリック型で言ったため、大家の言動の証拠保全用にカセットテープレコーダーを持参して大屋の家に行くと、大家は一言も喋らなかった。TG短大生が怯えたというのならば堂々と言うはずである。カセットを持参していない時は、TG女子大生の件は言ったかどうか覚えていないが、ヒステリック型挑発で訳の分からぬことを言いまくったのに。しかも、カセットは私のアパート内でポケットに入れ、大家の家の近くでは見せていないのに。大屋が私の部屋の中を監視モニターで覗(のぞ)いていた如くであった。


なお、〇七年に、この事を我が家の庭で母に解説していた時に、大昔から馴染みの、親戚を含む近所の人が二人、「今も同様に監視しているのだから、当時もそうだったのですよ」と言うが如くに、私を見てウィンクするような形でニッコリと微笑んだ。〇七年の隣人の件は気のせいと考えても不思議ではないが、大屋の件は余りにも不自然であり、気のせいとは思えなかった。


第二に、当時大屋が、アパートを出て欲しい理由を〝理性的・丁寧〟に解説していれば、簡単に誤解は解けていた。先のTG短大は、私の早大大学院ゼミ一年後輩〈平田君〉の母親が創設した学校である。おまけに、この学生達をTG短大で教えていたと思われるS先生(女性助教授=〈清水先生だったと思う〉)とは、岡山の予備校講師として同僚であった。大屋が冷静に言ってくれば、本当に学生の誤解ならば、〈私とも何度も会話をしていた、温和な感じのする〉S〈清水〉先生経由で簡単に誤解は解けていた。〈当時は小さい短大のため、当然、庭瀬のアパートの女子大生は全員が清水先生の授業を受けているはずである。そこで非常に簡単に誤解ならば解けていた。誤解ならば…。謀略ならば相手は脚本が狂うと慌てたであろうが〉

あるいは、〈早大大学院時代の〉後輩の家でTG短大創始者〈当時はこの中国女子短大は平田学園が運営していたと思うが、その創始者〉にも会ったこともあり、TG大学当局からの身元保証の言動さえも不可能ではなかった《ただし、2000年前後頃から運営権者は平田学園から学校法人中国学園に変更されている》。

 また、このアパート周辺や大屋の家界隈には、私が家庭教師をしたA家〈住所・名前全て控えているが今回は一般の人のため省略〉や〈岡山進研〉予備校〈の教え子の家が近くで焼き肉などの食堂をしていた〉・〈真備〉高校の教え子の家、他にも多数の知人がいた。それも昔から庭瀬界隈に住んでいる人たちである。

 私が家庭教師をしていたA家の人達は、大屋とも顔見知りと言っていたことから、尚更誤解は解けていたはずである。本来ならば、誤解は簡単に解けていた。大屋が丁寧に・冷静に言ってくれば。本当に学生の誤解ならば。今、考えれば、逆に誤解が解けないように、大屋が暗に言葉を濁し、故意に冷静に言わなかったとの疑惑を持っても不思議ではない。


第三に、犯人が駿台ではなく本当に泥棒ならば、私よりも彼女らが危険となる。女学生抜きでも、大屋及び警察は、アパート住民及び周辺住民全員に、「浜田氏の部屋で不法侵入があったので警戒するように」と呼びかけを行う義務があった。ましてや八七年夏には、私の部屋ではないが、このアパートに空き巣が入り、パトカーが来ていたのだから。私の部屋への不法侵入事件が始まる少し前の頃である。また私の件も、既に述べた如く、警察にも届出はしてもいた。大屋にも。


第四に、私の部屋の天井からの薬落としは、通常は、大屋か二階の女学生の協力抜きでは至難の業である。おまけに、この事件と前後して、女子学生たちが二階の廊下・床を故意に踏みつけているが如く大きな音を立てて下まで音を相当響かすことを何度もしだした。暗に薬落としは二階からと言っている(と思わせる)が如くに。

では、何故、被害者であった私が最終的に妥協してアパートを出たのか。その経緯を記す。

大屋が最初にアパートを出るように言ってきたのは八七年一二月末であった。だがこの時には、大屋からアパートを出て欲しい理由を〝理性的・紳士的・丁寧〟に聞いた覚えはない。理由を一部故意に濁し、ただ私を挑発しているように感じられた。当然、アパートの立ち退きは拒否した。

こうして、私がアパートを出るのを拒否していると、ある日突然、最初に述べた如く、血相を変えた姉が来て「アパートを出ろ」となる。当然、これも拒否し言い合いとなった。

その後、カセットを持参して大屋に事情を丁寧に聞きに行った。この時に、大屋は「契約書」とだけ言い、後は何も言わなかった。この言葉と同時に契約期間(切れ)問題を突如思い出した。というのも、その二年前に大家が、私の印象に残る形で、「本年で契約期限となりますが、お宅の方で異存がなければ、契約更新しますが」と言われていたからである。印象に残る形で。(ちなみに、細かい契約書など全部覚えている訳がない。

 しかし、二年前のこの件で契約期限の項目があることだけは覚えさせられていた。それ以前は、西宮でも東京でも、大家が出てくれというか、自分が出るというまで居住できると漠然と考えていたのだから。)だから思い出したのである。そこで、アパートに戻り、契約書を調べると、二年契約で次回の更新期限は八八年一月末となっていた。


こうなると、大屋の不可思議な対応抜きでも出ざるを得なくなった。岡短や進研模試の仕事は言うまでもなく、駿台での大滝部長との最後の会談時に、学生への責任問題より八八年一月下旬(共通一次試験直前)迄、駿台で授業をすると約束していたのであるから。十分な賃金を貰い、共通一次試験直前の授業をしていた以上、生徒への責任がある。講義する以上は、教材研究を疎(おろそ)かにすることはできない。

因って、最後の授業、しかも共通一次試験直前の授業をしている超多忙な時に、契約書に賃貸期間が明記され私も同意し、その契約切れ時に立ち退きを要求されることが、即ち契約書自体が、合法か違法かまでを法規で調べたり、弁護士に相談したり、争ったりするゆとりはない。

 そこで、大屋の挑発型対応への理不尽さに怒りながらも、アパートを出ることに同意した次第である。尚、この時契約期限問題がなく、大屋がTG学生問題などを理由に追い出しにかかれば、断固拒否していた。大屋が裁判などに訴えてくれば願ったり適(かな)ったりであり、万歳をしていた。アパート不法侵入事件や拉致事件問題なども裁判で明らかにできる可能性があったため。

今考えると、手口は巧妙であり、アパートを出るのではなく、実家に帰るしか方法がないという罠にはまった。少なくとも、結果はそうなっている。


要約すれば、

 ①大屋が八七年一二月末に挑発型でアパートを出るように言ってくる(この時、大屋は契約書記載の契約期間切れ問題を一切言わなかった。私を困惑させる目的で故意に契約期間切れ問題を言わなかった疑いが濃厚である。尚、契約更新しない場合には該当期間の一箇月以前に予告が必要となっていたが、後に調べると大屋が来た時は丁度一箇月前となっていた)

→②次に姉が来て言い合い

→③そして大屋宅で契約期間が八八年一月末と暗示を受け契約更新日に気づく

→④もはや、この時点では、一月末までの残った期間から岡短・駿台の授業と授業準備や模試チェック時間を引くと、数日しかなく、実家に戻る以外に百パーセント選択肢はなくなっていた(※注三)。

 一月末前後の家への引っ越し時ですら、もう荷物を箱詰めする時間もなく、友人に頼んでトラックに荷物を山積みしての引っ越しとなった位である。今考えると、大屋のやり口は、姉などを利用して、可能な限り、自分の手を汚さず型を貫き、同時にアパートを単に追い出すのみではなく、絶対に実家へ戻す策略であったように思える。


(※注三)参考までに、契約書(二〇一〇年四月現在も契約書コピー保存中)の内容を紹介しておく。

第二条に更新は二年置きと記載されていた。計算すると二回目更新期日は八八年一月であった。第一一条には、大屋は契約の解約を正当な理由があれば契約期間中でも一箇月の予告で立ち退きを要求できると明記があるが、契約期間中は即座の立ち退きどころか、△△月後に出てくれとも一言も言ってこなかった。第一七条契約書但書きには、「……賃貸人より注意した事が守られない時は敷金を支払うことなく即時退室するものとする」と、自筆書きがあったが、退室に当たって敷金は私に返還されている。(二〇一〇年四月上旬記述)


駿台などの金になる仕事や定職がある時に実家に戻ることは、仕事上有益な場合が多い。例えば、当時の駿台の如くどこから通っても交通費・ホテル代が十分に支給されるならば、田舎の実家ならば膨大な文献・資料が保管でき、しかも食事・洗濯などの雑務がなくなるため、一九八三~八七年などは逆に岡短の仕事がなければ家に戻っていた。だが、まともな金になる職がない時に田舎の実家に戻ることは、専任確約のあった岡短〈ポリテクカレッジ岡山:現・能開大中国〉のみが命綱となる事を事実上意味していたし、実際にその杞憂は的中した。再度の都市部への移動は、第三編では、絶対に不可能な策略がなされるのである。


大屋の行動と言動の解釈は今回は読者に委ねよう。ただ、テープ持参でない時に、大屋の捨て台詞型で言った次の一言だけは覚えている。
「鍵を紛失された時があったでしょう。あの時、合い鍵を作ってあげたでしょう」。(「不法侵入があっても、自分の責任でしょう」とも言ったような記憶もある。鍵に名前・住所は書いていないが。)

(二〇一〇年追記)右記(※注三)を記すと突如見た事もない、大家からの内容証明書(岡山中央郵便局 昭和六三年一月一七日 第七八五号)が二〇一〇年四月一三日午後九時に出てくる。立ち退き理由は「近隣から苦情」が原因と記述あり。以下、必要事項のみ記載する。


(1)①この内容証明書を渡された覚えはない。②内容証明が出てきた袋の関連書類は、過去十度以上整理したが、この日以外全くこの内容証明書はなかった。③内容証明書の受け方は特別専用封筒なのか、通常封筒なのか、郵便局員が読み上げるのか今も全く知らない。④内容証明中に「催告しないで」という文字があるが、私は漢字音痴で「催告」を知らないので当然辞書で調べるが、調べた覚えはない。⑤当時の記録より、一月一八日は深夜日帰りで、翌一九日は早朝岡山を出て二一日迄、駿台大阪校で授業をし、二一日深夜から未明にかけて鳥取の海に行っている。

(内容証明の日付は二〇〇八年一月一七日となっており、⑤の日程より、万一見たとしたならば一月二一日となるが、その内容証明をもらった後、その対策に専念せず、鳥取の海を見に行くであろうか。)

⑥家族もこの内容証明書は知らないとのこと。

⑦内容証明書が本物か偽物か不明であるが、念のため、コピーもとり保存予定。馬鹿馬鹿しい!


(2)大家を善意に解釈してみよう。二階の女の子が、二階をドンドンと大きな音で踏みならした。私は、やめてもらうために、その趣旨を書いた用紙を二階の廊下においた。そこで終わり。ところが、これとは別に部屋に不法侵入があった時に、この不審人物を探すことがあった。当然、私の顔は殺気だっている。この時の顔を二階の女子大生が見て、自分らに怒っていると勘違いし、怯えることはありうる。同時に、二階からの薬落としがあった時の天井チェックの音で勘違いもありうる。善意に解釈すれば、こうなる。だが、〈『閉じた窓にも日は昇る』文藝春秋版と宝島社に送付した原稿には電子書籍版には省略している〉第五編の仮説を読めば、もはや何をか況(いわん)んやである。


(3)訴訟になった場合には、不法侵入の実態が明らかになり、私が救われた可能性がある。それが無理でも、右記の理由では、私を追い出すことは不可能である。何故ならば訴訟となれば、(2)の誤解が解ける上に、約五箇月前にも私の部屋以外にも泥棒が入っており、半年の間に二度そうした犯罪があり、かつ大家が防犯対策及び防犯の徹底した呼び掛けを住居人にしていない以上、大家の管理責任が問われるため、右記内容証明では、立ち退き請求は通常は不可能である。それどころか、大家がヒステリックにならず、落ち着いて、必要時には第三者を交え、話し合えば簡単に解決していた事でしかない。


(4)右記(1)の如く、この原稿を書いていると、全く身に覚えのない文書が出て来たり、我が家内にある文書が書き換えられたりした被害があった。第四編に記す理由以外にも、こうした問題があるため、第三編「機構」への訴訟は不可能と思い込まされた。特に、第五編に記した信じられない事が事実ならば。その上、他人が私の原稿内容を見せてもいないのに発表前に挑発し、(商売道具である)作品の質は劣化させられた。(1)の真偽の前に(3)で十分であり、話にならない。逆に言えば、話にならない(落ち着いて物事を考えたり・きっちり調査したり・双方の言い分をじっくり聞いたりしない)人間を、こうやって煽って感情に任せ、無茶苦茶を言わせ、私の人生を台無しにされたとも言える。
(以上、作品の質劣化を我慢し、二〇一〇年四月一四日追記終了)

〈2025/05/11 追記:後に母とこの大家の話をしていたときに母が聞いた。

母「もう時効になったか」。

私「まだ時効にはなっていない」。

すると母が「それではまだ駄目だ」と笑いながら言った

1987年当時も姉は真顔であったが、母と母の姉(私の伯母)は喜び回っていた謎がある。更に、駿台辞職して半年後に自転車で千年家(せんねんいえ)に行った帰りに、警察か自衛隊の服を着た人間に絡まれた。そのときに叫び回っていた女性が大家・西本さんそっくりの声であった。

(参考)新一言 2023年9月25日公開

新一言【千年家】№54・過去出会ったことのないほど強い人に絡まれた1988年の思い出―交通問題
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/2023/09/25/2798/

未公開の『閉じた窓にも日は昇る(真相編)』を公開すれば、簡単に謀略の筋書きは分かろう。

このアパートに泥棒が入ることが過去に何度かあったことも、二階でドンドンと音がして弱ることも、このアパートに入って即座(多分1984年前半)に隣の住居人から聞かされていた。当時は「まさか」と思っていたし、1987年夏頃までは全くそんなことはなかった。

 ところが、このアパートに入って4年目の1987年夏頃に🚓パトカーが二階に泥棒が入ったといってきていた。これを契機に刑事犯罪被害が起こるのである。同時に、このときの警察官は不審人物に見られても仕方がない態度でもあった。要するに、1984年駿台ドタバタ劇が開始直前にアパートでも1987年の住居不法侵入等は予告されていた。京都女子大卒の同級生が(駿台講師室係🚺)西山登場を予告したように。

ちなみに、契約切れ問題を半年前(せめて2ヶ月前)に言われていれば、確実に岡山市でアパートを捜していた。契約切れに気づいてからアパートを出るまでに10日あったか・否かである。しかも、その間ですらポリテクカレッジ岡山の授業や模試監修などの仕事が入っている。膨大な書物と書類がある以上、これでは家に戻る以外の選択肢は奪われていた。こうして「死を待つ家」に監禁されることになる。

 家に戻るや、今度は数ヶ月後からポリテクカレッジ岡山での労基法違犯の嵐とその後の大病続きで自宅に監禁されていく。例外は、うつ病を激しくした休眠期の1991年度前半のみ、河合塾の教壇にたてたが、脳が機能しておらず、時既に遅しであった。脳が機能していれば、河合塾で大活躍をし、再度、家を出ていたであろう。尤も母が老いた2008年~2012年は親の面倒を見る責任の一部はあるが、当時はまだ母が60代後半の頃である。追記終了

2025/05/17 14:08 追記の追記

 今日の村に監禁されている状態から見れば、大家(西本さん)が、アパート内をモニターか何かで監視していない方が不思議となる。直接か、アパート内の住人を経由してかは不明であるが。勿論、このアパートではないが、高柳の仮アパート時代も駿台に辞表を書きかけるとポリテクカレッジ岡山から専任延期の電話があったのも、やはり盗聴か盗撮であろう。今の状況と対比してみるがよい。

なお、翌年1988年には兵庫県の千年家(ぜんねんいえ)帰路に警察の服か似た服を着た人間に絡まれたが、そのときに大家そっくりの女性の声がしたのも偶然ではなかろう。簡単に言えば、後の流れからの状況証拠では警察官と大家がぐるであったとなる。だが、何故、警察官が?それも、いつも警察官が登場してくる。庭瀬界隈で🚲自転車を二度盗まれたが発見したのは全て警察官、駿台事件で刑事犯罪被害が登場する直前に不審人物の如き警察官がアパート二階に泥棒が入ったとパトカーでアパートにきていた。駿台事件のピークでった拉致被害事件も警察官の服を着た2人組である。警察官と名乗ったと思う。その後も続く。1997年の交通事故ではポリテクカレッジ岡山の蒲田先生は笑いながら警察を示唆、2000年深夜の我が家…と。

 分かっているのは、交通問題に絡められると、交通事故死者数が1万数千から2千人台になり交通問題から解放され、今、暴力団が激減中であるが、暴力団問題に関わるのは御免被る。ともかく一覧表をつくると驚くほど警察官が登場してくる。「4」の強調以上に「110」の強調の方が強い。介入理由は、せいぜい、山田洋次型映画への警察官の協力かと思う程度で、本格的な理由は全く不明である

次回、少しだけその検討を行う。

 なお、私が不法侵入者を追いかけようとしたのは、正当防衛ではなく、「現行犯逮捕」を試みたのである。勿論、当初は警察にも何度も被害届をだしてもいた。更に、その数ヶ月前には泥棒がアパート2階に侵入してもいた。本来は、怪我をさせずに捕まえると表彰される事項であった。

現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる」(刑事訴訟法第二百十三条)である。よって、不法侵入事件直後以外は逮捕は試みていない。

 なお、姉は上記の通り血相を変えてであるが、母と伯母(母の姉)は笑いまくり、父は本質的には「にたっと」喜んでいた気配があった。その表情からも、私は3年後の駿台復帰の約束は父と駿台経営者との間でも話しがついているのかとも余計に思わされていた。

※※※追記の追記終了※※※

 こうして、自宅監禁・岡短蛸(たこ)部屋労働への道がここで作られていた。戦前の軍人が海外で行った手口と同様な形で、アパートを追い出され自宅監禁への道となる。今振り返ると、八七年で事実上、私の授業屋生活は最後の年となっていた。同年で終わったのではなく強制的に終止符を打たれた。後は自由と希望を奪われ、もはや自分の人生ではない、戦前の強制労働下状態で、教壇とは無縁の偽善と虚構の世界に閉じ込められた。そして、何よりも応(こた)えた生活の糧(かて)と私産も逆に奪われ、度(たび)重なる労基法違反に苦しめられ、家族への屈従・屈辱の寄生生活を長期に亘り強いられる。


 もう書かずとも予測がつくように、駿台を辞めるや否や、第三編の中心である岡短職員の態度が一変し、駿台時代以上の危害の連続が待ち受けていた。実際に、右記の如くひどい目にあった駿台に、九〇年には直に足を運び復職を求めるほどであった。要するに、第三編で記す岡短で行われた労基法違反・不法行為・貢ぎ労働などは、犯罪が行われた駿台が天国の如くに思えるほど凄まじいものであった。しかも、その後はナチのアウンシュビッツ収容所の如く拷問も待っていた。特に八九年末~九三年末の間は、本当にナチが行ったのと同様の拷問であった。もちろん、九五年以降もそう生易しいものではなかった。〈ポリテクカレッジ岡山での仕事に〉ドクターストップがかかった位であるから。『閉じた窓にも日は昇る』(文藝春秋[2010年版]から抜粋終了)

 

《◇―4》【資料】堀江部長への手紙(1996年送付)

前略。

突然の手紙にて大変失礼をいたします。私は1982~1986年に駿台予備学校の京都校で、1986~88年には大阪校にて政経などを担当させていただきました浜田と申します。覚えていただいておりましたら有り難いのですが。1988年にいろいろありまして退職する際に、復職の意思が出てくれば問い合わせるようにとの有り難いお言葉を、堀江部長、大滝部長はじめ、何人かの教職員の方からいただきました。


あれから、相当な月日がたち、私の方もその後授業上の多くの武器を入手し〈、〉それに磨き〈を〉かけ、大きく前進いたしました。そして、再度活気ある教壇にて活躍したいと考えるようになり、今回突然の手紙を書かせていただきました。特に次年度より、浪人生も新課程へ移行するに及び一つの区切りとも考えたこともあり、今回手紙を書かせていただいた理由でもあります。京都、大阪は言うに及ばず、北海道から九州まで全国どこにでも行く意思がありますので、1日の授業でもかまいませんし、時間数も少なくともかまいませんのでご検討ください。


尚、堀江部長の職務・職責上、あれから月日もたち、私の腕の方に不安がおありでしょうが、それは心配ありません。一応参考までに、最近作成した教材の種類を最後に【ご参考】として書いておりますし、実際に一部教材の見本も同封しておりますのでご覧いただければ、私の腕の方のご心配はなくなるかと存じます。

また、1985年の合格者名簿関西版(1984年度生の寄せ書き)での生徒の私の評価の一部を同封しておりますのであわせて参考にしていただきたく存じます。

そして、1984年の政経の私の力を10とすれば、1986~1988年の大阪での政経の授業はいろいろあり3かせいぜい4位の力しか発揮できませんでした。

それでも、堀江部長はじめ他の職員の方にも政経の授業に関してはお褒めをいただきました。当時、堀江部長からは「政経の授業に関しては申し分ない」と直にお言葉をいただきましたこともあります。

そして、現在は、当時の10の力を遥かに越える多くの条件、技術、武器をもっております。そして、私の言っていることが事実に反すれば当然1年で解雇していただいてもかまいませんが、まずそうしたことは絶対ありえないことでもあります。


担当〈単刀〉直入にいって、政経で現在の私以上の教師を探すということは至難という以上のことかと存じます。そこで、是非一考を願いたく存じます。尚、以前大阪校にて、授業する上でいくつか困ったことを相談させていただきましたが、もはや9年という月日もたちそうした問題はないかと存じます。また、先に書きましたように、九州でも東京でもどこでも行く意思〈が〉ありますのであわせてご検討ください。

堀江部長宛手紙

※尚、1997年度より駿台の教壇に私が復職する可能性がない場合は、何等連絡はいりません。ただ、予備校という性格上、今後も何らかの可能性をおききするため、時に問い合わせをさせていただくかもしれませんことをご了承願いたく存じます。1985年合格者名簿関西版での生徒の私に関する声の一部を抜粋し同封しておりますのでご参考にしてください。


駿台予備学校は“愛情教育”というスローガンをかかげられており、山崎理事長とは数度しかお会いしたこと〈が〉なく、また挨拶をさせていただいた程度ですが、本当にこうした理念をお持ちの方とお見受けしました。そこで、山崎理事長に私の授業への熱意をお伝えしようかとも考えましたが、余りにもお忙しい方なので失礼になってもいけないと思い、また筋としてもまず堀江部長に駿台予備学校への復職についてのお願いをさせていただきました。

駿台予備学校1985年度パンフから抜粋(1984年度の生徒の声の一部)

※※※※※※

(2025/05/16 20:33追記)

上記の堀江部長宛手紙は1996年9月か10月の手紙である。すると、1997年1月に岡山県英田郡美作町巨勢下倉敷で仕掛けられた交通事故の罠にはめられる。続いて、97年夏に奇妙な学生が登場してくる。更に、97年晩秋(駿台で差別文書を渡された1987年とほぼ同じ月の頃)には偽学生と断定してよい人物に体当たりをされる。同時に、この年も各種の契約違反をポリテクカレッジ岡山でおこなわれると同時に、私の専任確約に対して、当時の森脇課長から「君、専任、そんなものなれる訳ないだろう」と(労働省所管)ポリテクカレッジ岡山で専任契約詐欺に遭ったことが判明する。

それらの心労からドクターストップがかかり、駿台辞職の丁度10年後の98年1月で教壇を事実上去ることになる。正式な退職は98年3月かもしれないが。まるで、駿台とポリテクカレッジ岡山が示し合わせているのかとういう有様であった。なお、所管労働省には五度休載依頼や問い合わせをしたが梨の粒であった。

また、ポリテクカレッジ岡山での一番大きな労基法違犯や先の交通事故の際には共に「人間違い」が示唆されてもいた。

※※※(追記箇所終了)※※※

《◇―5【資料】》(駿台真相編と無関係も催眠で許容された箇所)党派中立への道

記載途中で目が覚め(催眠がとかれ)下記理由により大半を省略した。省略部分は下記に収録している。

【💁】安らぎBlog
(駿台真相編から削除予定の部分)駿台真相編7D-2・駿台との交渉・2の《◇―4》 #党派中立への道
http://h-takamasa.com/Blog/?p=36085

#駿台 事件と無関係にも拘わらず、催眠強制で書かされた箇所
2025/05/15 #安倍晋三 が #志位和夫 氏と #プーチン大統領 と🤡私とを📺(テレビ)で…を設定した箇所を上記のBlogに追記している。

(疑問:駿台事件と下記が何の関係があるのだろうか、と)催眠から目が覚め、大半を安らぎBlogに移動

駿台事件を再度記す。高校時代に友人の🚹K君が某女性に交換日記を申し込んだ。断られた。🚹K君は女性に「お騒がせしてすみません」と詫びた。The end (終わり、それだけのことである。)

ただ、私の場合はK君と異なり、好みではない女性に催眠で熱をあげさせられ、催眠で手紙を手渡した。後はK君と同じ。私も西山に断られ、手紙を出した一週間後に「おさわがせしてすみません」と本人に直に詫びた。これで本当にThe end. (終わり)

なお、🚹K君は高校2年のときに、女性Aと女性Bが🚹K君に関心があるように思えたので再度、どちらかと交換日記をしようかと迷いだし、私に相談した。しかし、ややこしいと思い始め、結局、K君は高校時代は誰とも交換日記をしなかった。

私も同様であった。それが横家と後藤である。駿台での女性問題とはそれだけの話である。

駿台女性まとめ

駿台真相編と真相をつければ、現時点で分かっているのは山﨑春之理事長と(我が家の住所番地を70年使用していた)Z3の強調のみである。

そして山﨑理事長と言えば、1985年春に360度回転して逃げた女性Nazoを連想する。同時に、その頃駿台は破竹の勢いで伸び、北海道から九州まで全国制覇を試みていた。おまけに、私が教壇にたてば、駿台の躍進どころか予備校文化がおこった。これが駿台真相編の全貌である。

よって、駿台真相編に党派中立・宗派中立論を記述するのは範疇誤謬(カテゴリーが違っている)である。

ただし、日本のフィクサーMEの世界では、 駿台事件とポリテクカレッジ岡山事件を通して、心情的にも党派中立・宗派中立となったことを強調しておく。もっとも党派中立・宗派中立となったのは、もっと早い1981年頃であり、1985年には完全党派中立・宗派中立宣言をしている。参考までに党派中立の流れを箇条書き的解説と萌芽的党派中立・宗派中立の形成過程の資料だけをここでは収録しておく。

【第一段階・萌芽的党派中立】(1971年末頃の乱闘未遂事件の問題点を、多くの友と別れた後に、1981年頃から授業を通じて学問的に振り返ったことから。1985年に明確な中立宣言)

【第二段階・心情的党派中立】(1987年から93年夏頃:救済依頼に対して無視より逆に被害に遭ったことから)

【第三段階・理論的党派中立】(赤旗日刊紙等を44年以上一切見ていないため独自理論が生まれたことによる党派中立)

【第四段階・契約的党派中立】(2000年の小渕恵三総理への救済依頼以降:私の救済依頼とバーターで社会に有益なことには、どの政党・団体の相談にものるし、協力もする。前提は私の人権救済に動くこと)、なお第三段階と第四段階は逆にしてもよい。

 明確に言えば、私は大物政治家などと知りあいになり喜ぶという名誉欲はない。そのような欲があれば服装も綺麗にしている。何故ならば同じ飾りだからである。あくまでGive and Takeの付き合いしか求めていないその代わり、私の完全人権救済をするのならばどの政党・議員でも応援をする。これが契約である。

☟(参照)
浜田隆政回想録―1・1982~2020年:党派中立への道
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=29431 参照公式Blog 2020年11月4日)

心情的・心理的党派中立・宗派中立は駿台事件のときの豊田弁護士の件などから分かろう。更に、ポリテクカレッジ岡山事件のときの問題がそれを加速させた。詳細は上記を参照。

ここでは参考までに、今回も萌芽的党派中立の契機の事件と私の心情を紹介しておく。これが党派中立・宗派中立の土台になった。以下、拙著『旅に心を求めて―不条理編・下』(Kindle、KOBO各百円)第2章・「広島への旅―『原爆の子の像』と『教師と子どもの碑』を前に命に想う」の中の「2・戦争と平和と人間に想う」からごく一部を抜粋をする。

☆☆☆☆☆

……

拙著『生命への畏敬(いけい)』(未公刊)第三章四節で、「かつて、私(浜田)は戦争へ行った」と書いた。疑問に思う人もいるかもしれないが、客観的に考えて事実である。大学時代に、自治会再建運動に参加したことがある。中学、高校でも生徒会はある。大学でも当然そうしたものは必要と考えた。その運動は暴力を否定し、平和と民主主義の実現を目指し、「学問のために」をスローガンとしていた。


しかし、あるとき、「自治会を守るために」という名の下(もと)に、私達は何をしたか。私は何をさせられたか。自分の学部とは無関係の他学部の自治会選挙のときに、自治会室とは無関係のグラウンドの片隅(かたすみ)に棍棒(こんぼう)と石を持ち並んでいた。俗に言う新左翼学生は間違いなく襲ってくることはきいていたが、私達の集合場所に多量の投石用の石や混紡があるなどは教えられていなかった。

ヘルメットは用意すると聞いていたが、逆に身を守るヘルメットは準備されていなかった。こうした中で、我々を襲撃(しゅうげき)してくる相手は鉄パイプと火炎瓶(これは後に報道で知った)を用意していた。そして衝突するわけである。これはある意味で戦争である。銃こそないが火炎瓶などは竹槍(やり)程度の役割は果たす。百パーセントの確率で怪我(けが)人はでる。死者がでても何一つ不思議ではない。実際に、日本の各地で、その当時はほぼ毎年死者が出ていた。その衝突が起こると分析されていた前日には、私自身の死についても、特に怪我をすることについては覚悟していた。というよりも、ほぼ同数の、相当数の人間(集団)が混紡や鉄パイプで殴り合いをし、怪我をしない方が不思議である。


当日、学校へ行くと、大学内の中央芝生上で、ヘルメットをかぶった学生が武闘訓練をしていた。もはや、私の運命は決まった。そして、約束の時間に関西(かんせい)学院大学(以下、関学[かんがく]と略す)学生会館前で混紡と石が山積みされている前に立っていると、ヘルメットをかぶった学生達が予想通りに襲ってきた。ただ衝突の直前に、私達の指揮者の「逃げろ」という声で正面衝突は避けられた。


しかし、逃げ遅れた人が鉄パイプで殴られ入院した。みんな逃げるのに夢中で見殺しにした。ちなみに、逃げるルートは関学附属中学校の方角であり、グラウンドで体育の授業の真っ最中であった中学生たちも驚いて、「逃げろ」と叫んで必死に逃げていた。万一、中学生が巻き込まれていたならば、どうなっていたか。


また、既述(きじゅつ)の如く、相手の集団は、朝から学校の(正門を入った所の)中央芝生で、ヘルメットをかぶり武闘訓練(長い棒で剣道の如くに殴り方の訓練)をしていた。学校の教職員が良く見える所で。正門の前には交番もあったような記憶がある。だが、誰も止(と)めなかった。


この夜、ラジオでこの事件は報道された。私は聞いた。夕刊か朝刊か忘れたが新聞にも報道された事件であった。私が大学一年のとき(一九七一~七二年)のことである。こんな馬鹿な学校があるだろうか。しかもキリスト教を重視している大学で。宗教とは一体何なのか、と言いたくなる。


振り返ってみると、ただ「平和」「民主主義」「学問」と「みんなの自治会」の名の下に、あらゆることを十分知らされもせず、気がつけば棍棒を持たされていた。今考えると、人間は自分の生死を賭(か)ける(※注六)瞬間ですら、よく分からずに、そうなるということを経験した。だから、戦争というものも、人が自分の生命を賭けるから慎重になるというものではなく、自分の本当の意思を離れ、戦場に赴(おもむ)き人を殺すということを身を持って体験した。だが、この文章を読んで、「民主主義」のためにやむを得ないと思う人がいるかもしれない。それは、「祖国」「学問」とか「平和」「民主主義」という言葉に惑(まど)わされているのである。実態をよく見てほしい。

……

このときの運動は正しかったのであろうか。自治会運動とは、自分達の仲間を自治会選挙で役員に通すことにあるのではなく、学生全体が心から自治会に参加するように努力することであり、学生全体で「平和と民主主義」のために「学問」を捧(ささ)げることを目指すものでなければならない。当然△△系自治会などという称号がつけば、その時点で機能不全となっている可能性が高い。


このときの実態を振り返ってみよう。私達は自分達の仲間が自治会選挙で勝つことにのみ固執(こしつ)しただけであり、肝心(かんじん)の学生の大半はこの自治会に実質的どころか形式的にも十分に参加していなかった。私達は、自治会の重要性を、単なるビラ配布ではなく、他の学生との日常的な粘(ねば)り強い繋(つな)がりの中で、我々の姿を通して、学生全体に呼びかけ続けなければならなかった。

 しかし、そうした長期の努力などは、命懸けどころかまともな形ですら存在していなかった。命を賭けた衝突を考えるならば、命を懸けた自治会の必要性を、全学生に自覚させる長期の地道な努力の方が必要だったはずである。そうした命懸け所かまともな努力すらなく、部外者に頼り、殴り合いで勝てば自治会ができるという発想が暴力を否定し民主主義を実現する運動であろうか。

その種の民主主義は、アルバイトの護衛等を雇えば簡単に守れる。(勿論、相手も同様にするであろう。だから今の戦争と同じだったのである。)しかも、このような形での衝突は相手の死を持って完成することを意味している。うまく相手を適度に痛めるなど、都合の良いことが常に起こるという発想は身勝手すぎる。これは殺しあいの事態であった。

……

私達の目指した自治会運動とは、私達の知り合いが委員長に選ばれることにあるのではなかったはずである。学生全体が自治会に心から参加し、大学の自治の一翼を担うことにあり、そして憲法の精神に基づいて自治会が運営されることにあったはずである。その理念が守られている限り、誰が自治会長になるかは問題外のはずであった。

だから学生の心からの参加がなく、その努力もない以上、万一暴力で我々が勝ったとしても問題は何も解決していなかったのである。「星条旗よ永遠なれ」という名の下に、ジョニーは戦争に行き何を見たかを思い出してほしい(※注八)。私も、ジョニー同様に、人間がいとも簡単に戦争に行く心理がこのときに分かった。「民主主義」「自由」「平和」「祖国」、こうしたスローガンは極めて人を戦争に導きやすい言葉であることを実感した。

当時から一定の時期まで、こうした疑問を感じていたが、仲間の大半は善良な人であったため、正面から批判することも、〝正当防衛論〟(今考えれば、詭弁[きべん]であり、似非[えせ]正当防衛でしかなかったが)という名の理論を批判することもできなかった。生活費を稼ぐためのバイト三昧(ざんまい)の学生生活でもあったため、深く考えられる状態ではなかったこともある。
だが、大学・大学院を修了し、駿台講師時代に、江戸時代の百姓一揆(いっき)に関する諸著作に出会い、私の当時の素朴な疑問は正しかった、と再認識した。大学時代のあの武力衝突事件は誤りであったと考えるようになった。

江戸時代の一揆について簡単に紹介する。命を〝かけた〟百姓一揆は、命を懸けざるを得ないほどの追い込まれた状況があり、そして命を懸けた越訴(おつそ)(誓願)等の(今日ではごく当たり前の)平和的手段を考えたり、実施したりした上で、それでも解決しない場合に始めて一揆となる。しかも、一揆に当たっては徹底した全会一致に至るまでの討議が存在していた。追い込まれ、命を懸けた平和的手段の後での一揆である。その上、第3節で記すように、相手の命ではなく、自分の命を〝かけて〟いたのである。


それに比べれば、私たちのしたことは「命のもて遊び」にほかならない。もしあのとき、衝突が起こっていたならば、そして相手が私の下敷きになっていたならば、私はその相手を棍棒で殴っていたのであろうか。現在、百足(むかで)さえ殺さない私がどのようなことをしていたのであろうか。(泥棒に襲われたのとは全く違う。)この百姓一揆について知った後で、当時の大学紛争(※注九)を再度振り返るようになった。

☆☆☆『閉じた窓にも日は昇る・上』より抜粋終了☆☆☆

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(2025/05/16 20:58追記)なお、百姓一揆については日本史ではなく、政経の授業の「地方自治の歴史」を調べているときに出会った資料である。

『旅に心を求めて―不条理編(上巻)』の解説は下記参照
安らぎ文庫HP>発売中の書籍>『旅に心を求めて―不条理編(上巻)』
http://h-takamasa.com/book-01/custom.html

※※※(追記終了)※※※

2000年以降は、これに契約的党派中立・宗派中立も加わる。

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【第四段階・契約的党派中立】(第三と第四は逆にしてもよい)
更に、救済依頼を主要政党全部に送付したため、契約的党派中立と考えている。契約とはどの政党でも、思想・信条とは無関係に私の救済への努力をしてほしい。同時にそれは政党の義務でもある。私の方も、世の役に立つことには、どの政党であろうとも、可能な範囲で協力をするという契約である。
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浜田隆政回想録―1・1982~2020年:党派中立への道
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=29431 参照公式Blog 2020年11月4日)

なお、新免昌和(美作市元共産党市議)に立会人を依頼したが、契約的党派中立を伝えてそれを守ると言う条件で特別の契約の下で立会人を依頼している。
新免氏との契約は以下である。

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なお、立会人及びその後の窓口的役割への便宜(べんぎ)に対しては、謝礼も便益(べんえき)も一切提供していない。新免議員には「完全にケリがついたならば、新免議員が私のために汗を流した時間だけ、(政治関連ではなく)引っ越しの手伝いとか、そうした類(たぐい)の手伝いをすることにより相殺(そうさい)したい」と明確に伝えている。

新免議員の側からは「私に対する個人的な礼は不要である。美作町(現美作市)全体若(も)しくは他政党・無党派も含めて全議員にとって町政(市政)の参考になるような形で礼はしてくれれば良い」とのことであった。

尚(なお)、旧美作町議会議員には知り合いのH議員(公明党)もおられたが、我が家の親戚かつ近隣のため除外した。何故(なぜ)ならば、親戚・近隣(きんりん)の場合には、どうしても少しは私の有利にという感情が働き、平等性が失われる危険性を懸念(けねん)したためである。極論すれば、「機構」などから賠償を取る場合でも、H議員よりは新免議員の方が安い額になる可能性は高い。安い額を望んでいるのではないが、平等・客観的な対応が望ましいため親戚類は除外した。
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『閉じた窓にも日は昇る(下)』(Kindle、百円、1ドル)第四編・閉じた窓にも日は昇る、第二二章・闘争の開始
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党派中立・宗派中立について体系だって記したBlogには上記以外に下記がある。
気がむけば一言【党派中立】№213 駿台事件から党派中立第2段階(心情的党派中立)へ、更に第3段階へ
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1413/ 参照 新一言2020年11月3日)


だが、党派中立宣言の流れが一番分かりやすいのは浜田隆政回想録―1かもしれない。

駿台真相編で何故か、赤が強調されるため、1994年頃から授業のプリントで公開し続け、2015年から電子書籍でも書いていたが、今回も党派中立・宗派中立の経緯を書いておいた。

2025年5月18日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA