教育・女性をめぐる各種デマへの反論(回想録兼用)―2・西宮市教育委員会時代―悪戯電話と当時の教え子回想

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教育・女性をめぐる各種デマへの反論(回想録兼用)―2・西宮市教育委員会時代―悪戯電話と当時の教え子回想


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2021/06/04 2:19公開 2:39微修正

 


《◇―2・兵庫県西宮市教育委員会時代―悪戯電話と当時の教え子回想》

《◇―1》で書いた経緯から、1975年4月から西宮市教育委員会嘱託として勤務することになった。部署は同和対策課と言うような名であったと思う。

当時、西宮市では同和地域の子供だけを集めて、教育委員会主催で校外学級を実施していた。

仕事内容は下記《(臨時掲載)教育委員会・旧同和教育課主催校外学級を振り返って(拙著『求め続けて・第一部』より抜粋》)に当時の仕事内容を記載している。


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1:仕事の内容とT中学校

 西宮市教育員会嘱託としての仕事内容を解説しておく。1975年4月に西宮市教育委員会に嘱託として私と5人が採用された。
仕事内容は、13時頃から担当した各中学校(私の場合にはT中学担当)で勤務し16時頃学校を出て、夜は約2箇所にある校外学級の場所へ移動する。校外学級は確か18時から20時頃までであった。そしてその後始末をして終了である。

当時の労働条件は、勤務は週休2日制で、賃金は新卒の正式教諭と同一くらいであったが、学校の教師と異なり週休二日制のため、実質的には若干良かった記憶がある。保険も健康保険と厚生年金が完備されていた。冬・春・夏休みは完全休暇で仕事は一切なく、祝日・休日も仕事はなかったが、いずれも正式な賃金が全額支給された。ボーナスも正式教諭と同程度支給されていた。


 昼の学校での勤務は、派遣(はけん)される学校ごとに異なっていた。私の友人Iさんは、H中学校に派遣され、H中学校では正式な職員室で待機(たいき)し、H中学の教職員とソフトなどをして遊んでいたようである。ただ、特にこれといった仕事はしていなかった。
私は5つの中学校の中でも一番荒れていると言われていたT中学校へ派遣された。私の方は、T中学校では、昔図書館か何かで使用されていた部屋をあてがわれ、そこにじっとしていただけである。

要するに、どの中学校も、私たちに何をさせたら良いのか思いつかなかった。というのも、こうした制度が始まったのがその前年度(74年度)くらいであり、74年度は昼間は教育委員会、夜は校外学級となっていたため、中学校への派遣は私が勤務した75年度が最初であり、どの学校も何をしてもらったら・させたら良いか、全く見当がつかなかったのである。

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(臨時掲載)教育委員会・旧同和教育課主催校外学級を振り返って(拙著『求め続けて・第一部』より抜粋)
http://h-takamasa.com/Blog/?p=10260
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夜の校外学級は、地元にあるプレハブ校舎で運営していた。その建物の管理運営と授業補佐が夜の仕事であった。
問題はここで起こった。問題というほどの次元ではないが、1998年頃から突如、デマが飛んでいる気配がするため記すにすぎない。

トラブル(問題)とは以下のことであった。

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…トラブルとは、仕事の初日に、生徒が職員室に準ずる部屋の電話で教師が見ている前でいろいろな家に悪戯(いたずら)電話をかけ、相手が出ると面白(おもしろ)がり切るということを繰り返していた。公衆電話ではなく学校の備付けの電話でである。それをどの教師も止めないので、私が無理矢理(やり)やめさせると、生徒が突(つ)っかかってきた。やむなく正当防衛権を行使しようとすると、何人かの教師が止(と)めに入り、一戦を交えるには至らなかった。
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なお、このプレハブ教室は教育委員会が建て、T中学が校外学級の日ならば、T中学の教師全員が順番に来て、授業をしていた。テキストを使用し、分からない生徒に、一学年に対して教師6人程度で対応していた。そこに私も参加し、学習補助をするという形である。
一学年30人程度の生徒に対して、私を含む教師5~7人程度で、「先生、分からない」と言った子の側(そば)にゆき、教えるというシステムである。一種のティームティーチングの如(ごと)きであった。

T中学の場合では中一から中三まで三教室で上記を行っており、T中学の教師が参加するため、いわば学校の延長であった。建物も、T中学の日はT中学の校舎の一つと言って良い。管理者は西宮市教育委員会である。

この学校に準ずる場所で、他の教師集団が到着する前に数人の生徒が来て、ここに備付けの固定電話で、アトランダムに電話をかけ、相手がでると、「お~、出た出た」と言って、笑いながら切るのである。
教師集団が来る前であるが、一人だけ教師がきていた。いたずらをしていた生徒は2人だったか3人だったか覚えていない。
要するに、さほど大きな記憶がない、特に記述するに値しないレベルのトラブルであった。

ところで、この件での挑発が多いが、それでは「あなたならば」どう対応しますか。無視してすきなようにさせますか。止(と)めますか。
放置すれば、生徒との軋轢(あつれき)は生じず、楽ですよ。しかし、電話をかけられた家はたまらない。
それ以上に、この校外学級に参加している生徒に対して色眼鏡で見られるようになったならばどうしますか。あるいは、差別を助長する危険はないですか。
後に松本龍氏が登場したようなので、彼が生きていれば、彼に聞きたかった。
あなたならばどうしますか。私に教えてください。

ちなみに、松本龍{まつもと りゅう、1951年5月17日 – 2018年7月21日:第15代環境大臣:部落解放同盟副委員長などを歴任}氏が高校時代から部落研活動をしていたならば、私は彼と1968年に全国高校生部落問題研究集会・岡山大会で出会っているはずである。私が高校一年生で、彼が高校二年生である。
当時沖縄から来た人が、パスポートをとり、ドルを円に両替し参加するのに大変であったと分科会で言ったのを覚えている。

1968年は部落解放運動分裂前で、全員が一緒にやっていたときである。1969年が分裂年であり、様々な大会がまだ対立しながらも一緒に同一集会とか、別れて集会とかマチマチであったと記憶する。1970年(私が高校三年の時)が分裂した後である。分裂は当時は考え方ではなく、地域(県連や支部)ごとに一つの団体となって分裂していた。その前に高校生の私にはそうした分裂騒動は分からなかった。また、バイトで超多忙のために、どちらの団体にも所属していない。単に、ボランティアで子供会に参加したり、地域の父兄に差別を受けた話を毎年夏休みなどに聞きに行ったりしていただけである。

ともかく、1968年は全員一緒にしていたので、一年先輩に当たる松本龍氏が生きていたならば彼に聞きたかった。
「あなたならどうしたか」、と。
私を挑発するならば、誰か回答を教えてくれ。


ちなみに、T中学校の老いた先生がいつも私にぼやいていた。
「浜田先生、誰かが嫌われ役にならなければなりません。ボクが嫌われ役になって、生徒の叱り役をやっているのです」、と。
誰でも叱るのは嫌に決まっている。
だが、この老いた先生は、子供には叱られる権利があると思っているが如(ごと)しで、よく生徒に小言を言っていた。この先生にも結構、私はかわいがられたと思う。この先生は体罰否定派にみうけれられた。少なくとも小言は言っても、暴力を行使している姿は見たことがない。私は、言うまでもなく、完全な体罰否定派である。私は教師時代に生徒に一度も暴力を振るっていない。

この先生が来ていれば即座に小言を言ってやめさせたであろう。その前に生徒もこの先生の顔を見ればしていなかったであろう。
この先生の「子供は叱られる権利がある」のみか、私は放置したならば地元での部落差別を助長する危険を感じたこともある。

ともかく、叱ったら駄目ならばどうしたらよいか教えてくれ、となる。
ただし、叱り方は穏やかに開始し、徐々にきつくの方がよかったかとも思う。しかし、当時も、催眠でいきなり、生徒が持っている受話器を下に降ろしたような記憶がある。しかし暴力は一切ふるっていない。
今、考えると催眠状態であったと思う。催眠状態の中で、2~3人が突っかかってきそうになったので正当防衛の体制に入った。くれば組み伏せると。

しかし、催眠がなくても、悪戯(いたずら)電話は止(と)めないと誰にとってもよくない。
その後どうなったか。
T中学の同和主任の教師は面倒なことをしてくれた、という雰囲気で少し嫌がらせをしてきた感じがあった。もう一人、それに類似した教師がいた。
後の教師は、注意して当たり前だ、一々気にしなくて良いという雰囲気であった。
同和地域の父兄は喜んだように思えた。
顔も十分知らぬ父兄が私の側(そば)にきてよく言った。当時は意味が分からなかったが、今、考えると歓迎したのであろう。
父兄が私に言ったことは「先生、うちの子が悪いことをしたら、構わないので殴ってくれ」であった。何人もの父兄が私にそういった。「是非、叱ってくれ」と是非に近い言葉を使った親もいた。


生徒の方は全く無反応であった。私は中一と中三を担当していたため、その両方の反応を示そう。
中一の子はそんなこと抜きで、若い教師が来たで、男の子も・女の子も無邪気に私の側(そば)に来ては話し相手となってくれた。よくなついていましたね。
男の子でも私の膝の上に乗ろうとする子も何人もいた。
大学院浪人をするために、この職場を辞めるときには、生徒を十人ほど連れて箕面に行った。男の子も声をかけたが全員女の子だった気もする。ともかく、私一人では生徒が事故に遭ったならば困るので、もう一人KM先生に同行を願い、快く一緒してもらった。その先生は後に淡路島の教師に異動されたが、当時の写真を記念に送付していただいた。ところが、その重要な写真が突如、紛失している謎がある。

この子らに最後に会った時は、もう西宮市教育委員会を辞めた直後ではないかと思う。この生徒らが、その時の私を見て勘違いかびっくりしたかもしれない。というのは、アパートにいると電話があった。内容は「姉危篤、即、病院に来い」であった。そこで、大慌てで、真っ青に近い形で国鉄西宮駅(現在のJR西宮駅)に飛んでいった。そのときに、国鉄西宮駅で何人かと出会ったと思うが、気が動転しており、声掛けどころか挨拶(あいさつ)などはできなかった。当然である。姉はその数年後に亡くなる。
これが当時の生徒の一部を見た最後である。
なお、男の子もなついていたのが多かった。中三ではなつくという語は使用しないが、中一は本当に無邪気な子が多く、なつくという表現が当てはまる。女生徒はなつくではなく、話し相手という感じであったが、この年代は男子生徒の方が女子生徒よりも幼いのである。
ともかく、男子生徒の一部は面白(おもしろ)かったですよ。女子生徒もかわいらしかったですよ。

中学一年が担任という感じで、中学三年生が副担任という感じで参加していた。中学三年生の方は高校生にやや近く、男子生徒は結構礼儀正しかったように思う。少なくとも私に対しては。
女子生徒の方も「先生、ここが分からない」…と何度も声をかけてくれた。しかし、私の容姿問題もあり、声かけが多いのは男子生徒の方であったようにも思う。そこで、男子生徒の父兄から、(今考えるとよくなかったかもしれないが)、「先生、お世話になっています」と駄菓子類をお中元などに貰(もら)ってしまった覚えもある。
なお、中学三年生の子の中には、例の電話事件を知っている子もいた。女子生徒がHDを呼び捨てで「先生、HDのことなど気にしなくてよい」と言っていた。その程度の反応である。

なお、当初、この電話事件で私としこりのできた同和主任も途中で急変した。この主任が胆石で入院したときに見舞いに行ったのを契機としてである。その後は、今度は、この先生は私の引き立て役に変貌した。例えば、T中学の忘年会類があれば、「今度は浜田先生に歌をお願いします」というようにである。また、私が夜の校外学級に行くまで待機していた図書館を改造したような部屋にも、私の話し相手にくるようになっていった。
さらに、その後、この電話事件の生徒の一人が、T中学内で私に体当たりをしてきた。柔道をやっていた関係で、条件反射で一発食らわしかけたが、とたんに相手がおとなしくなったため、何もせずにすんだ。
この話もこの同和主任に伝わったが、今度は態度が全然違っていた。
同和主任が私に「先生、先生の気持ちも分かる。私も若いときには生徒を叩(たた)いていた。(しかし、きりがないのでやめたか)何かを言っていた。そして、「浜田先生の思うようにすればよい」と言ったような記憶があるが、後者は定かではない。
しかし、ここではっきりさせるが、私はT中学校でも、後の女子高校教師時代でも、更に能開大学校時代でも生徒・学生に暴力を振るったことは一度もない。

私は体罰否定派である。
ただし、柔道その他の格闘技をやっていた関係で条件反射で応戦体勢に入ることはある。また、生徒の方に一定の体力があれば正当防衛権はやむを得ないと思うが、実際には一度も行使をしていない。

さらに、この校外学級付近は、大学一年のときにボランティアで、子供会活動に参加したこともあり、顔見知りの人もいる。部落解放運動をやっていた地元の人も何人か顔見知りでもある。またいくつかの集会というか学習会で偶然一緒になった生徒もいる。更に、T中学のボス的な人の子も私と友好関係にあった。

ということで、この電話事件は大した話ではなかったのである。この頃は何か困ったことがあれば後藤峯雄先生(関学時代のゼミ指導教授)に相談にいっていたが、この件は一度喪相談したことがない。それどころか、大した問題とは思っていなかったので、長期忘却していた。
悪戯(いたずら)電話はよくなく、とめないのは大した問題であるが、止(と)めるのは大した問題ではないのである。

そこで忘却していたが、ポリテクカレッジ岡山(能開大中国)を辞職するや、この問題を連想させられるのである。一体なんなの?
(厚労省所管)ポリテクカレッジ岡山と西宮市教育委員会時代の話がどういう関係があるのだろうか。さっぱり分からない。

なお、この校外学級のあったプレハブ校舎付近に、本当に人間のよくできた小父(おじ)さんがおり、一杯飲み屋を経営していたため、おりに触れてここによせてもらった。また、早大大学院時代も、西宮市教育委員会時代のアパートがこのプレハブ付近であり、何度も立ち寄っている。本当はプレハブ校舎付近でアパートを借りる予定が、適切なアパートがなく、JR西宮駅と阪神西宮駅の間付近のアパートとなった。

私が大学一年の頃から気に入っていた場所がプレハブ校舎界隈であった。そこでこの付近にアパートを相当前からと思っていた。何故(なぜ)か、私には居心地が良かった。
それでも、私の借りたアパートはこのプレハブ校舎からはかなり近い場所であった。そこで、T中学と、もう一つ担当していた、H中学では、生徒が校外学級の後で、三人揃(そろ)って毎回遊びに来て、私のアパートで騒いでいた。女子生徒三人組である。一人ではきていない。三人揃って仲良く、私のアパートに週二回程度来ては騒いでいた。これも懐かしい思いでである。


ということで、西宮市教育委員会時代がどうかしたのであろうか。何が問題なのかさっぱり分からない。やはり、1998年以降の挑発もちんぷんかんぷんである。しかも、1977年から81年にかけて何度もこの地に足を運んでいるが、いつも温かく迎えてくれた雰囲気であったのが、全く無関係のポリテクカレッジ岡山を辞めるや突如、昔の電話事件とは一体何なのであろうか。


ただし、一つだけ気になることがある。映画説の立場からである。
T中学にしても、真備高校にしても、駿台予備学校講師時代にしても、最初の頃、不可思議な事件が故意に作られることである。一部は催眠であり、一部は「他人のふんどしで相撲を取る」型事件である。
このT中学に関しては、最初の電話問題の件である。

このとき、悪戯をしていた生徒は2人か3人だったかも覚えていない、大した事件ではなかった。最低でも2人いたと思うが、このときすぐ側(そば)に教師がいたことである。注意もせず、ただ見ていた。
そして、私が最初に書いた如(ごと)く(催眠誘導)形で止(と)めると、彼らが殴る構えをした。そこで条件反射で構えた。すると、側(そば)にいた教師が、「お前等、先生に謝れ」か何かを言ってとめに入った。

映画説ではこうなる。
この生徒は両方とも腕力は相当ない。同時に、HDという生徒は中二であるが、彼は小学校時代に生徒会役員か何かをしていたという(かなり真面目なタイプにも思えるかもしれない)生徒である。私の友人で同僚のI氏から聞いたと思う。
また、T中学の箕面に一緒に行っていただいた先生は「HDは大した問題の生徒ではないので(その生徒の話などは気にする次元ではない)」ということを言われていた。
すると、この両生徒は、誰かに頼まれ、故意に私にとめさすために悪戯(いたずら)電話をしていたのではないかということである。そして、もし、私が正当防衛権行使に入れば、側(そば)にいる教師が必ずとめてやるので安心しろという約束で、先の悪戯電話をしていたのではないかという疑惑である。

というのも、真備高校でも別のシチュエーションで最初に揉(も)めるように仕向けられ、駿台予備学校では後に述べる🚺NM登場の件が共に不可思議な形で起こっているからである。
恐らく、この仮説は当たっていると思う。
どの教師もHDは大して問題のある生徒ではないという感じであった。ちなみに、HDは中学二年であり、T中学では中学二年だけ担当しなかったため詳しくは知らない。ただし、中一のかなり体格のよい生徒がHDを名前(First Name)で呼び捨てしていた。もう一人の生徒も余り教師が大した問題と思っていなかったような生徒に思えた。中学三年生の女子生徒がやはり彼のことを名前(First name)で呼び捨てにし、「先生…など気にしなくて良い」といっていたくらいである。

誰かに頼まれ、何かあればとめてやるという条件で、この両者が悪戯電話をしていたのであろう。第一、そうした悪戯は通常は教師のいないところでやる。私のみか、もう一人正式な教師がいる前では通常はしない。さらに、大勢の教師がくる間際にすることは通常はないと思う。しかも、かなりのときに父兄が参観でくるのである。
ちなみにHD以外のもう一人については名前も顔も覚えていない。さらに二人だったか三人だったかすら覚えていない。

私が中学校の頃にも悪戯をしたり、無茶(むちゃ)をしたりする生徒はいたが、通常は教師のいないところでやっていた。わざわざ教師のいる所でする必要もあるまい。電話料金問題と言っても、教師がいて、更に間もなく教師が大量に来る頃に教育委員会管理の校舎でするはずもなかろう。

ちなみに、教育委員会の同和担当の人はその話は一切せず、触れることも避けていたようである。当時の教育委員会同和担当課の人は学校教師が来て担当し、その後は学校の校長か教頭という出世コースと同僚の友人から聞いていた。そして、とにかく、印鑑を強調する人であった。

なお、ポリテクカレッジ岡山を辞める直前に体当たり学生S(正確には偽学生)が登場したが、そのときも事務の人は「先生に謝れ」と同一言動をしたような記憶がある。ポリテクカレッジ岡山の方は18才以上の学生を対象に行うのであるが、この体当たり学生…は西宮のときと異なり、教育問題では一切なかった。勿論、人権問題でもない。単に、学外の人間が学校に忍び込み、私に無法を働いたという事件であった。罪名は住居不法侵入と業務妨害、場合によれば傷害罪である。
偽学生間違いないため調査を要求したが、森脇一雄課長(1998年当時)と松尾貞志副校長(1998年当時)の回答は「Sという学生は在籍していますが、そのSが先生に無法を働いた学生かどうかはしらべていません」であった。私はSは私自身が担当したことがあり、Sはそうした学生ではなかったと思われ、偽者なので調べてくれと調査を要求したのである。事実上、偽学生ということを暗示して交渉は終わった。

他の講師も暗に偽者を臭わせてもいた。馬鹿馬鹿しい。
そして、ばかばかしいことが真備高校、駿台と続く。真備高校の件は『求め続けて』で紹介済みであるが、この学校でも私は人気があったのであり、逆ではない。
T中学も、先の如(ごと)く、箕面にハイキングに行き、生徒からは下記の手紙をもらい…で、担当していない中学二年生は知らないが、中学一年と中学三年では結構人気があったのであり、その逆ではない。
それが、ポリテクカレッジ岡山を辞職するや、突如、デマが飛んだ気配があった。

最後に、教え子や生徒はかわいいものである。当時の下記やその他の子がずっといれば、伴侶になれば可愛(かわい)くて楽しいが、残念ながら私の顔は福山雅治にはほど遠かった。それ以上に、大学院浪人の身となり実家に戻り、更に姉・(同居の)伯母と危篤続きとなり、翌年からそれ所ではなくなった。

この件に関して、次に松本龍氏のちんぷんかんぷんな話を記す。その後で、今回のHD同様に駿台で起こった奇妙な話に入る。

【西宮市教育委員会を辞めるに当たってT中学の女子生徒から貰った手紙】(クリックで拡大)

西宮市教育委員会及びT中学を去るに当たって生徒から貰った手紙:1976年

2021年6月4日 | カテゴリー : 教育 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA