補章-2:授業を求めて(1995年作成・2017等微修正)
【更新記録】2019/05/02 14:39再公開
【補章の構成】
補章―2・「授業を求めて」(1995年記述)→今回記述
補章―2追記1―1・(1997年1月18日授業の後で記述)&追記1―2(1997年記述)→次回紹介
補章―2追記2・「第二の部教育現場の紹介」(2007年記述)→右で臨時掲載中=http://h-takamasa.com/Blog/?p=11577
補章―2追記3・「旅に心を求めて・不条理編」より(2016年5月11日~6月16日記述)→次々回紹介
◎ポップアップ式
補章-2⇒この文書。
補章-2・追記―1:(2019/05/03 掲載予定も未定)
補章―2・追記―2
補章―2・追記―3:(2019/05/04か5/05に掲載予定)
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補章-2:授業を求めて(1995年作成・2017等微修正)
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《◇-1:その後の駿台。今、授業をしながら駿台時代を振り返る》
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第二部に関するテーマとしては、政経と日本史の狭間(はざま)のもの、あるいは、最近では「野麦への旅」「戦争と平和と人間に想う」等幾(いく)つかある。しかし、駿台当時その後順調に授業が進んだかと言えば、そのようななまやさしいものではなかった。もう一度当時の状況に戻ることにする。
イェーリング、「ジョニーは戦場へいった」の再修正、マルクス、水俣等の授業後の1983年後半以降も、決して安堵(あんど)するゆとりはなかった。とにかく失敗の許されない状態がその後も続く。しかし、そんなに簡単に個々のテーマが次から次へと見つかるはずはない。だが、先に書いたように失敗は許されない。
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そこで、6章・マルクスの最初に書いたように自分の全てを投入した。私は字が汚(きたな)いので、それをカバーするため模造紙を何枚も活用した。また、プリントも字の関係だけではなく、必然性があったので、どんなことがあっても準備した。
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準備していても、授業がうまくいかなければ気迫で勝負しようと考えた。大きな声も出した。効果があったかどうか分からない。しかし、授業の途中でうまくいかなかったときに、ほかに何も思いつかなかったからである。ありとあらゆるものを出さねば仕方なかった。とにかくありとあらゆる手段を使った。冷静に振り返るゆとりなどは全くない。授業がよかったかどうかも分からない。
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ただし、授業とは〝自分自身を売ること〟、そして、授業の善(よ)し悪(あ)しではなく、授業の責任を果たすことが重要であるとすれば、1983年岡山の進研予備校の一年間と1984年4月~9月の駿台(京都)の半年間だけは、私が責任を果たしたと言っても、口を挟(はさ)む人はほとんどいないと思う。それ以前や以後の生徒は、私がこれだけ書いているのにあれだけの授業かと言うであろう。
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答えは一つ。「そうです、あれだけやって、あれだけしかできなかったのです」、と答えるしかない。
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ところで、1984年9月と書いたのは、この年の9月からつまらぬトラブル(【付録―3】参照)が起こり、精神が集中できなくなり、更にトラブルが悪化して授業どころではなくなったからである。
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補章-3に授業の必要条件として、教師の「気」、授業の「場」、準備のための「時間を書いているが、その「気」を維持しづらくなった。今、振り返っても、せめて、1984年の一年間だけは授業だけに専念したかった。これから、新たな授業を目指し、以前より万一良くなることがあったとしても、あのときの・あの形態の授業はもう恐らく一生できないからである。
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《◇-2:精神的・肉体的限界を超えた駿台後半時代》
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1986年に駿台大阪校に異動し日本史担当も兼用することになり、もう一つの条件の「時間」もなくなった。
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駿台大阪校で政経と日本史を週4日、別に岡山市の予備校で政経と日本史を週2日、この玉島の短大(倉敷市といっても広島県よりに位置する短大)で英語を週1日、それに幾つもの駿台模試作成、そして進研模試のチェック(一時期は監修も担当)、岡山の予備校での学校内模試、短大の試験・再試・追試問題作成、その上で数年に及ぶ――大きな障害となる――つまらぬトラブルにみまわれるという状態になる。
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政経で全く生活できなくなると半偽(いつわ)りを言われて、仕事を増やしたためにこうなってしまった。しかし収入は岡短や進研模試チェックなど安価な仕事も多いため、これでも一般の中学・高等学校の教師程度かもしれなかった。この頃のトラブルというより常識外の状況や、現在だけではなく、当時の不法行為等の言われなき干渉――刑事犯罪もあった――についてはいつか記す。
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こうした状態で何をすべきか。私の基本的方針は、まず授業の責任を果たした上で、それから自分の授業をするということである。だから、日本史は初めてで分からないため、まずプリントできっちり整理することから始めた。だが、それでも責任を果たすには私の知識は低すぎた。
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しかし、知識がなくても・できなくても、担当した以上は絶対に責任を果たさなければならない。そこで、気の遠くなるようなことを思いついた。過去10年間の関関同立(かんかんどうりつ)・早大等の全学部入試問題等の全問題をそれぞれ約7部以上になるようにコピーし、それを一行ごとに全て切り抜き、項目ごとに分類・整理・貼付け、それをワープロで清書し、プリントにするのである。
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コピーの分量は数百ページどころか、この後で書く大学の入試問題も含めればダンボール単位で幾つかの量であった。一度やってみたら分かるが、一大学(あるいはその一学部)の過去10年の入試問題を一行一行切り抜き・項目別に張り直し・データベースを作成し・それらを分かるような形でプリントにする作業だけでも、どのくらい神経をつかい時間がかかるか分かるであろう。面白(おもしろ)さも全くなければ、したくもない、気の遠くなるような時間のかかる作業であった。それを、上記大学合計約60学部を行った。初めて日本史を勉強したため日本史は良くわからず、駿台でまず責任を果たすためにはこれしかないと考えた。それをやれば、十分分からなくても、予備校での責任は果たせると考えたからである。
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そして、日本史でやり政経でしない訳には行かないため政経でもやりかけた。先の大学以外にも明大等10大学について過去10年に亘(わた)り資料収集したため、またもコピーの量はダンボール箱単位で幾(いく)つかという量にのぼった。その上で自分の好きな授業というか、のめり込める授業を考えなければならない。まず、不可能に近かった。今、考えれば百パーセント不可能であった。徹夜も続いた。3日合わせて3~4時間しか寝ない日もあった。それでもできなかった。
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それでも、日本史で幾つかのテーマのヒントに出会い、それらをこの短大の後期英会話教材『旅に心を求めて』に掲載している。
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当然、生徒は激減した。四分の一くらいになった。生徒が、私がこうした努力していることを知ったとしても、やはり減ったであろう。それが、授業であり、それでも当たり前だとも思う。授業にはそうした面もある。
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しかし、駿台後半時代の生徒の激減はトラブルの影響もあり――大いに嫌ではあったが――駿台の教壇に立った初年度の政経ほど内面的な苦痛はなかった。トラブルのせいという逃げ場があったからである。
特に1987年は、トラブルさえなければ、たとえ殺人的なスケジュールの上に、日本史を十分知らなかったとしても、担当していた全教科で、あれよりは相当まともな授業ができたことは間違いなかった。
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否、常識外の当時の環境で、しかも頭が完全に混乱し、授業どころではなかったときですら、通常の学校教師の授業と比較すればさほどの違いはない。政経等を始めかなりの部分では上回ってさえいた。
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これは自己弁護しているのではなく、後に書くように、逆に言えば今日の学校の授業がいかにひどいかということでしかない。ただし、日本史は、初期の苦悩していた頃の政経の授業以上に、ひどい授業をやっていたであろう。だが、トラブルがあったので「場」が全くなくなり――トラブルのため、インプット、アウトプット、フィード・バックが機能せず――判断のしようがないのである。
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生徒は、恐らく結果のみしか分からないので〝ひどかった〟と言うであろう。だが、私にとっては〝凄(すさ)まじい〟の一語に尽きる2年間(1986~87年)であった。
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《◇-3:駿台時代に得たもの――授業への恐怖》(この箇所、1996年度記述)
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今日の状況においても、私が――授業がほとんどできなくても――熱心に教材研究をするのは、今までの文を読んでもらえば分かると思う。
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それは再度、昔の駿台のような教壇に立ち、しかもこの短大でも一期生の一部(熱心で真面目であった)のような生徒が再び一定進学し出したときに大変だからである。そうした場に戻ったときに準備したのでは絶対に間に合わない。数年前から準備しておかないと全く間に合わないからである。そうでなければ、既(すで)に記した第二部のような苦痛の日々を再度味わわなければならない。
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現在は馬鹿馬鹿しくてやっておられないという心境にしばしばなるのに対し、昔は大変どころか、頂上の見えないとてつもない大きな山をはい登っていたような心境であった。
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さすがに、好きなことをしていたので、もうできないという気持ちは辛(かろ)うじて持たなかったが、とにかく大変であった。と言うよりも、激しい日々であった。
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やり甲斐(がい)はあったものの、如何(いかん)せん教材研究が間に合わず、苦痛を感じていたことが多々あった。だから準備するのである。それは駿台という場で、プロの授業というものを、自分ながらに知ってしまったからでもある。授業というものを知った以上、授業の本当の「場」があれば、授業の責任も果たさなければ昔以上に苦痛を感じるからである。その上、今後は授業を芸術の域に高めなければならないと考えているからでもある。
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そして今、将来への漠然(ばくぜん)とした不安が――実際にはそのような生易しいものではなく――かなり差し迫っている。この短大の給料は、現在の授業時間数が過去の倍になったので倍になったとはいえ、年収80万円台であり、短大と同時に他で稼がねば生活できない。いや、必要な教材費不足のため短大の授業すらできない。
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だから、1987年度若(も)しくは1988年度からは短大以外にも、私の専門である政経を主体に生活の糧(かて)を得るか、塾・予備校で中学生や高校生の英語を教えざるを得ない。
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前者については政経がマイナーな教科なので、将来に亘(わた)って生活するためには再度駿台などの超大手予備校しかない。大手予備校などでは、まだ自分のしたい授業をし、常に生徒を引きつけられるかどうかと言えば自信がない。
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自分がしたい授業を一定抑制し、確実に通用する授業にすれば、政経に関しては確実にできる。しかし、授業の「場」があれば責任を果たした上で、自分がしたい授業をする予定のため、相当な不安が将来にもある。おまけに、そのときに先に書いたように、この短大でも真面目な生徒が再度増えたとき、今度はきっちりと対応しなければならない。だから、将来の短大授業準備も、できる限り、今の内にしなければならない。過去の授業での苦痛と将来への不安が私を授業の準備へと駆り立てる。
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一つの教科でも本当の授業は大変であるが、二つの教科を私の考えるレベルで実施しようとすれば大変というよりは至難(しなん)の業(わざ)に近い。場合によっては前代未聞のこと(前人未踏の域)かもしれない。もう一度書くが、本当のプロの授業というものは一教科でも大変なのである。否(いな)、どの職業でも本当のプロというものは大変なのである。大変でないのは、〝現在の〟中学教師の授業と高校教師の教科を受け持って3年後からの授業だけである。同様に〝現在の〟大学教師の数年後の授業もそうである。だが、本当に授業をしようと思えば、大変である。それは、こうした状況にあるため無から有を作らなければならないからである。まして芸術としての授業となれば。
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1997年度か98年度からの教壇に備え、95年度から超大手予備校用政経教材作成を始めたが、仕事の口がない場合は、生活の糧(かて)を得るため中学生に英語を教えることになるかもしれない。若(も)しくは機会があれば、地方予備校で高校英語を担当するかもしれない。しかし、その場合には、芸術としての授業などを諦(あきら)めたとしても、私の思う責任を果たすことすら相当厳しい状況にある。
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例(たと)えば塾で中学1年生の英語を教えるとしてさえも、今のままでは相当期間失敗し続けざるを得ない状況にある。これらの教材作成・教材研究は短大英語とは全く別教科の準備に等しいからである。教材も生徒のNEED(欲求)も違い、全く別教材を作り、教え方も編(あ)み出(だ)さなければならない。第一、中学生用教材や教材の材料でさえ、良質で優(すぐ)れた物については少なくとも日本では皆無に等しい状況にある。そこで、収集作業ですらどのくらいの時間がかかるか分からない。高校用の英語の材料よりは、中学生に使用可能な良質な材料は遙(はる)かに少ないのが現状だからである。
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中学生英語など誰でも分かる。だが、分かるのと教えるのとは全く別問題である。極端に言えば、英語が良く分からなくても、教え方を編(あ)み出(だ)すことの方が重要なときすらある。どのような教材を作成し・どのように教えようかと思考する教師はほとんどいない。ましてや、絶対失敗してはならないという危機感をもって臨(のぞ)む教師は中学・高校では皆無に等しいため、その困難さを多くの人が知らないだけである。
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あるべき授業の準備には相当長い年月と努力と費用を必要とする。今年の後半から多少の準備をし、来るべき授業に臨んだとしても――芸術としての授業などは長期に亘(わた)り完全に諦(あきら)めたとしてさえも――一定期間確実に苦しまざるを得ないのが現状である。そこで、二本立てを考えると、この短大の教材研究のピッチを幾らあげても速すぎることはない。
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その他の教壇は、より幾つかの条件がなければ目指す授業も不可能であり、更に収入面でも長期に亘(わた)っての生活の可能性はないのでここでは触れない(巻末【付録―2】・「学校」参照)。
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こうした授業への恐怖心をもつ切(き)っ掛(か)けとなったのが、『求め続けて・第二部』・駿台講師時代を通してである。私が駿台で体で得た授業とは、他の講師や評論家の評価や理屈ではなく、勝負なのである。他の講師や生徒に対してではなく、一つ一つの授業自体との勝負である。勝つか負けるか。負けたら仕事を辞めなければならない。
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綱渡りに例えれば、綱を何としても渡るか、落ちるか。それだけである。一生懸命しても落ちたら終わり。どんなことをしても成(な)し遂(と)げなければならない。だから、駿台の教壇以降、万一誰かが私の身体の自由を奪ったり、催眠により教材研究を妨害したりしない限り、かなりの勢いで教材研究をし続けるであろう。そのくらい、この駿台時代の頃は大変だったのである。そして今、授業とは芸術でなければならないと考えると、目指す域はまさに艱難辛苦(かんなんしんく)の道である。
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《◇-4:補足・今回の第二部の教材化を振り返って》
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1988年以降のことは第三部で述べるが、今回のプリント第二部の作成に当たって、どのような取り組みをしていたかを知ってもらうために、1994年度プリントに記した箇所の一部も引用して結びにかえる。
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◆◆◆「政経・1994年プリント」より抜粋◆◆◆
今……第二部をどう組み立てるかということで頭がいっぱいである。良いidea(アイデア)があれば教えていただきたい。……第二部はすべて英語では全く初めてのテーマであり、……本年(1994年)初頭から構想を練り、幾つかのテーマについては既に東京の諸団体に問い合わせたり、岡山・神戸・京都・大阪と足を運び、本屋や各地の図書館、UNESCO、UNICEF、アムネスティへの問合せや、あるいは様々な団体の催しものに行って資料収集をしたり、文献も常識的には注文できるものは100%間に合うように海外発注をしてきた。
さらに、これから6~8月は、本格的にこれにだけ絞り具体的作業に入り、……構想の具体化を兼ねたある発表の機会も設けたが、授業として納得できるものとなるかどうかは分からない。
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授業とは、金(キン)を堀当てる鉱山夫のようなもので、一定の予測にもとづき掘り始めても金が出てくる保証はないからである。
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運よく入手できた資料でも……私の欲しいものがあるかどうか分からない。何とかなりそうな気もする反面……過去政治学関係の本では数百冊の文献で使える本は1冊くらいであったことなどを思い起こせば、かつての厳しい舞台であれば使用できるか否かはわからない。
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ただ、それでも第二部は私の専門であり、また“導きの糸”も見つかり、それに向かって進んでいるので、鉱山とは違って、過去たまにあったように金は出なくても何か出ることを期待して作業を進めることにする。本を数十冊読んでも授業にならないこともあれば、たったた一言あるいは書物の1~2行の文章――若しくは1枚の写真・映画の1シーン――で授業へと進むこともあるので、ヒントがあれば協力をお願いしたい。
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(1994年6月記す[95年一部修正。2007年と2017誤字脱字修正])。
◆◆◆「政経・1994年プリント」より抜粋終了◆◆◆
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以下、全体追記【2016年9月22日追記】・「求め続けて」について。
【2016年9月22日追記】・「求め続けて」について。
今回掲載の『求め続けて』は、1994年から1997年にかけて、短期大学校の一般教養・英書購読用に作成したテキストである。授業も、テキスト・教科書も生き物でなければならないという視点から作成した。
今回、公開の『求め続けて』は当時のテキストの誤字・脱字を修正したにすぎない。ただし、当時の『求め続けて』には、多数の写真を挿入していた。しかし、公開するに当たり、他人の写真のため著作権問題からほぼ全て削除している。
また、当時のテキストでは図表やイラストを含むレイアウトを重視していたが、電子書籍やインタネット公開ではPDFでない限り、それらを反映させるのは難しいため、レイアウトも時間をかけて通常の平凡な物に変えた。さらに、難しい単語には発音記号をつけていたが、発音記号も文字化けするため、削除した。
教えている学生向けに作成したため、随所に「君たち」という語が登場するが、事情を察しの上、違和感を持たないでいただきたい。
最後に、大学一般教養のテキストは大学生のみか、中学・高校生、社会人、時には小学生が読んでも興味を示すものでなければならないと考えている。このテキスト・『求め続けて』もそうした考えのもとで作成している。ただし、難解な箇所も幾つかある。もう一つのテキスト・『旅に心を求めて―教材編』の方は誰もが興味を持つ物という目標を達成しているが、世に問う順番待ちのため、紹介するのはまだ先になるであろう。
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