(💁:公式Blog同一正式公開)🆕駿台真相編―具体的展開解説05-4・京都校二号館女性㊤

(💁:公式Blog同一正式公開)🆕駿台真相編―具体的展開解説05-4・京都校二号館女性㊤

 

【更新履歴】2024/09/06 13:23 公式Blogで正式公開;(アドレスは以下)

(💁:正式公開)🆕駿台真相編―具体的展開解説05-4・京都校二号館女性㊤

2024/09/12 18:45 正式公開 :何故か、このBlogのみ過去5年以上で公式Blogで一番読者減のため、機械的トラブルを警戒して、安らぎBlogでも併行掲載。

 


【駿台事件全体構想】
駿台事件真相編―1・催眠
駿台事件真相編―2・ゼノンの詭弁と駿台事件の手口・女性編
駿台事件真相編―3・企業と私―駿台大CM編
駿台事件真相編―4・駿台CM作戦と映画女性活用編
駿台事件真相編―5・駿台CM作戦―女性刺客四人組活用編(その1・黒幕編、その2具体的展開、その3と4展開解説付き。その5・その6・その⑦=世界からの情報)
駿台事件真相編―6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(岡山予備校。能開大との因果)
駿台事件真相編―7・駿台CM作戦―業務妨害から刑事犯罪被害へ
駿台事件真相編―8・駿台CMと🎬協同で☠映画説グループを絡め作戦と能開大・村への移行


【注意箇所】個人情報を掲載理由(毎回掲載)
下記理由(この事件に絡んで何人かが死亡…や私自身も命を落とす危険が何度もあったことなど)で、実名での公開を原則とする。
下記はZ家(浜田稔・正典)家であるが、どうも、我が家(浜田耕治・隆政)との家間違いが駿台事件の原因の一つのようであるため、駿台事件も実名とする。同時に、駿台講師時代も拉致未遂被害や学内外での業務妨害や刑事犯罪被害に遭(あ)ったため尚更である。

※疑惑も含めれば死亡者は10名以上、MEの世界を含めれば20名以上かもしれない。ただし、私は完全に無関係である。


個人情報公開理由(📢浜田稔・正典家の登記簿上の住所648-5の場所には2024年5月頃から浜田正典氏以外の人がお住まいなので注意ください。)

 

各種個人情報が出てくるが、
(A)我が家の住所(戸籍=現住所=登記簿:祖先は1600年代後半から系図あり:本家)を使用され、各種被害(2017年のみでも2万円損失させられたことをはじめとして多数)、その他の膨大な被害(灯油のみでも無断で5回いれられかけ、実際に2度いれられた)があること、
更に、
(B)我が家住所番地無断使用者・浜田正典氏(司法書士)に是正を求めても改善されず、
(C)該当者自身の職業が司法書士という法の専門家であること、
(D)上記の行為により、生活に支障を何度もきたしたこと(例:死亡は嘘の疑いが高いが、浜田正典氏が死亡した際には葬儀屋が我が家へ来て私が対応、霊柩車も最初我が家へきたようであるなど)…その他膨大な被害があること、
(E)私が意味不明の40年近い被害を受けている原因が家間違いの疑惑があること、
(F)多くの情報網を持っている世界の我が友=世界の指導者が10人以上、暗に原因は家間違いであることを示唆したこと
(G)深い事情を知っていると思われた、亡き友人(司法試験にも合格したと言っていた)が「トラブル被害の原因は人間違い」を明言したこと、
(H)岡山県美作市役場などに相談しても適切な対応はとられなかったこと、
等等から、個人情報であっても、私の生命を含む人権を守るための、超法規的措置もかねて公開に踏み切った。個人情報を含む人権は濫用してはならない。公共の福祉との整合性より公開可能と判断

 超法規的措置と言っても、浜田正典氏は司法書士事務所の関係で使用住所の一つ位田648-5は各種ホームページで公開されていること、…で、彼ら(司法書士)の住所はCM扱いとなっているため、(私への人権蹂躙を阻止するという)正当な理由抜きでも、今回の情報公開は合法とも考えている。

☆☆☆☆☆
上記は下記を一部修正して抜粋
私の人権編:⚔⑧―40年の人権侵害全貌解明:8月16日編(8月24掲載)
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=40006
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表紙の写真は問題の🔐を握っている姫路

【駿台真相編-05-3と4の構成】
(序)
(1)駿台講師への道
(2)私の生き甲斐と駿台CMの矛盾―契約詐欺
(3)私の女性像と西山🙅NO決定
(4)西山好きな振り詐欺第一弾と催眠女性熱動員の暴挙(人権侵害)
(5)人生の終わり―西山への手紙催眠強制
(6)駿台ドタバタ劇強制・契約外労働と🛵おじょう
以上まで。駿台真相編05-3予定:長くなったので上記(3)迄を05-3A(㊤)と(4)~(6)05-3B(㊦)と二分割する。

以下(駿台真相編05-4予定)

(7)横家・後藤本格登場

以上が今回の㊤、(8)~(11)は次回の㊦で記す。
(8)西山好きな振り詐欺第三段とドタバタ劇強制参加(労働)・契約外労働
(9)横家の使命と催眠悪用言動―2号館ドタバタ劇
(10)西山別人と入れ替わり疑惑と恐怖(パワハラ類似)
(11)駿台経営陣の1983年講師室係組🚺四人組限定政策


【表紙の写真】

犬養毅生家にて。87-003-17-fR

 



(7)横家・後藤本格登場

(A)回想・おじょう(田中)との日々、そして、別れ

■年表22: 1984年11月~1985年2月🛵おじょうとデート三昧。この世の春と当時は思っていた。
私の岡山のアパートにも来た。
私は1985年夏か、少なくとも1985年くらいに結婚した方が良いと思っていたので、私の両親にあわせ、おじょうの両親にも挨拶にいく。🛵おじょう〈田中さん〉の父が、「結婚問題」をきいたため、私はどんどん進めたいが、おじょうが約一年はしたいことがあり…で進展の遅延を解説した。
父「うちの娘の方が言ったのならば、仕方がない」であった。

データだけで言えば以下の通りである。
デートの前夜は小学校の頃の遠足前夜の気分であった。
デート中は楽しかった。🎃オジョウと同様に私の誘導が大変うまい人であった。
デート後も気分高揚であった。
これらははっきりと覚えている。

🛵おじょうの容姿は、後に水俣で撮った写真と比べると、水俣で出会った🚺🐬(女性)の首から上だけを入れ換え、首から下は同一に見える。笹山の先輩はあれは🧜お嬢(Miki)だ。水俣で出会った子も同一だ、といつも臭わしている。ただし、不思議なことは、彼女をこの先輩にも会わせたことがある。すると、おじょうは余り機嫌がよくなかった思い出がある。なお、そのときに友人(先輩)が🛵おじょうに「こいつ(=🤡私)はかたい人間だから」と念を押していた。

岡山にいるときは、西山のことはまず考えたことがない。おじょう(田中)のことを考えていた記憶がある。
こうして順調にいくはずであった。
ただし、🛵おじょうは🎃オジョウと同様であった。私に対する操作術でブレーキとアクセルを使いわけるのである。自分に関心を寄せる必要があるときには、関心を持たせる演技を行い、私を引きつける。だが、少し、私を離そうとするときにはその旨の演技を行う。
これは🎎お嬢(カマタさん)にも言えた。どんどん寄られると困る。最低でも今は困るという状況が随所に見られた。今考えれば理由は簡単である。どんどんよれば結婚となる。しかし、結婚をすれば🎬映画説の後の脚本が展開できない。そこで、私の熱が上がりすぎる危険があると、私を引き離すのである。

長姉(私よりも13歳くらい年上の一番上の姉)に言わせれば、私は単細胞人間のため、扱いやすかったであろう。


年表23: 1985年1月頃、興味もない小泉今日子(一人二役)の映画を見る。その直前に藤村尚美氏(駿台国語担当)から、小泉今日子の映画ではないが何かの映画(恐怖映画と思う)の券を渡されていた。二本立てであったのであろうか。何故、興味・関心もない小泉今日子の映画を見たのかは全く覚えていない。
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映画自体は1984年12月22日に小泉今日子さん初の主演映画「生徒諸君!」が公開された。小泉さんは、双子のナッキー(妹・北城尚子)とマール(姉・北城真理子)の二役。
或る日の出来事
http://bojingles.blog3.fc2.com/blog-entry-3168.html
https://eiga.com/movie/37428/
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🥴催眠:小泉今日子=横家とダブって思わされる。次に連続して横家=(高校時代部落研後輩)船田さんとダブって思わされる→以降、船田さんと喋っている感覚となる。性格も≓(イコール)との🥴催眠刷り込みがなされる。
【🥴催眠】妄想で船田さんとの会話と刷り込みがなされて、横家さんとの会話がスムーズになる。2000年以降、横家幸子に関してもたらされた情報は膨大にあり、それらは駿台真相編-05-6で記している。

ちなみに、私は小泉今日子には一切関心がないし、好みでもない。この種の映画も興味は全くない。私の好みの映画は「七人の侍」、「アラバマ物語(To kill a mockingbird)」、「ライムライト」などである。催眠とは言えども、もう、無茶苦茶であった。
横家と小泉今日子と船田さんは三人ともに顔は全く似ていない。この二段階催眠という手口は🚺Nazoの時も使われた。全く同じ手口であった。

年表24: 1985年2月京都愛宕山へ=🛵おじょうとこの頃がピークであった
確か、おんぶのし合いをした。当時、飲み過ぎて65 kgか67 kgあったが、簡単に私を背負ったので、ロボットかと思ったくらいである。
結婚を意識して付き合った始めての🚺女性であった。
🎎お嬢(カマタ)とも奈良等でデートをしたといっても、いつもデートのときは、ポイントごとに先手を打って、彼氏(後の旦那)の話をするため、デートとは思えなかった。ときどき、この👩女はサディストではないか、と思ったくらいである。

そこで、おじょうが唯一、デートを意識して付き合った最初の女性であった。デートは他にも多数したが、以前書いたように、あれがデートと分かったのは30年以上経った50歳以降のことである。おじょうの場合には最初からデートと意識してデートをしていた。
だが、これでは、横家・後藤の出番がなくなる。
更に、横家か後藤がでてこなければ、西山一人では私を駿台から放逐するまでのもめ事を起こすのは不自然となっていた。それでは、🎬映画説の視聴率がとれない。同様に、駿台CM効果も弱まる。第一、駿台は何のために、横家と後藤を採用したのか、となる。

駿台女性は美人で、そこで、🛵おじょうから横家・後藤へ目が移ったというのは嘘である。
写真で比べれば一目瞭然であるが、肖像権に配慮して絵風加工して掲載する。
揉(も)めたくないので簡単に言えば同一レベルである。西山もほぼ同様である。美人といえば、既に紹介したマリーサ等である。
次に駿台女性とは付き合う手段はない。おじょうとは付き合っている。

人生についても話あっている。おじょうは彼女の父の面倒(最低でも仕送り)はしたいようであったし、その趣旨のことを口頭でも言っていた。他方、私は非常勤講師のため、どうなるか不明であるが、余裕があれば仕送りは可能と言うと、お嬢は自分でバイトも含めて仕事をするので大丈夫といっていた。

 おじょうはイラストか何かの特技を持っていた。学校は芸術短期大学卒であった。彼女の作品風のものもみせてもらったような気がする。将来、私の授業の手伝い(イラスト)などの手伝いもできるかもしれないとも言ってくれた気もする。

他方、駿台女性(1983年度入社駿台京都校🚺四人組)の生き方は全く知らない。すると、何のために、おじょうから横家・後藤にチェンジするのかと言えばその動機は全くない。その結果、後藤と横家の出番は当然ない。


【横家・後藤の写真の絵風加工と🛵おじょうの写真】

絵風写真掲載予定

85-002-00A-f100kb:絵風加工で肖像権対策:拡大すれば分かる

🆚

写真掲載予定:🛵おじょう。

85-001-04A-f.-Tanakajpg_01:45Kb


その結果、おじょうが自分で潰れるように計画を立てたようである。勿論、催眠も動員された。
だが、私が後で大きく後悔とか罪悪感を持たないように各種細工をしてくれた。愛宕山に登っても随所で知らぬ🚹男性などに手を振る。相手もお嬢を知っているかの如く応答する。そのときは山岳仲間なのだろうかと思った。だが、飲み屋でも同様である。
更に、映画狂の藤村尚美氏(国語担当)が🛵おじょうのことを何かを言う。🛵おじょう(田中さん)は駿台の人間と違うのだが。こうして、訳ありを強調し続けていた。今考えれば🎬映画説を強調したのであろう。

ともかく、バレンタインで贈り物をもらうまでは順調であった。
その直後から関係が突如悪化する(おじょうの演技)。口論となる前から、相当挑発をされていた。下記をやってくれた。何度も。


☆☆☆☆☆
彼女が私にしてきたのは、正に、それであった。
飛行機はエコノミークラスであり、前の座席と私の座席の間は狭い。
その上、彼女はリクライニングシートを倒してきた。
他方、私は小さい方のカメラバックを私の膝の下においていた。
そこで、足を引っ込めることはできない。
その結果、彼女のシートが私の膝に接する形となった。

そのときに彼女がしたのは、何かの合図の如く、こんこんと椅子にもたれることである。
要するに、腹筋の如く形で、体を二度ほど軽く浮かせてリクラインシートから私の膝に振動を伝えてきた。
私は当初は無視をした。

しかし、Mr.オバマ、先の話を思い出してほしい。
ミッシェル夫人が手をつないでと手をだしてきたときに、君にその手を払いのける度胸はあるだろうか。
正に、それが、私のそのときの心理であった。

(公式Blog 2024/5/26公開)日本のフィクサーME・Part 3・第3章「開業・企業を目指して訪米」・第7節帰国への道―バンクーバーでの大暴れ、再度、私は何者かhttps://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=43811

{【2024/08/30 参考記述追記】もう間もなく、私は👼(天国)か}
1984年春頃、東京の行きつけの飲み屋のママさん(田中さん=当時80歳くらいであったであろうか)に見合いを斡旋される→84年夏池田動物園でその店のお孫さん(田中さん)連想の女性と見合い→84年10月か11月🛵おじょう(田中)さんと見合い:🌈二度虹を見る→2015年訪米池田動物園連想の添乗員池田さんとレイクパウエルで🌈虹を見る。参加費二人合計で112200円(いいふうふ)とのこと。

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今まで腕組みをして歩くのが、双方の習慣であったが、大阪のデートのときには何度も払いのけてくれた。理由は不明である。
相当頭に来た。正に単細胞人間MEである。良い言い方をすれば高倉健同様である。
もう一度やられたならば、「あなたみたいな人は意味不明である。私は馬鹿にされているようで、もう、ここまでとさしてもらう」と啖呵を切る一歩手前で通常に戻った。

その後は、些細(ささい)なことから喧嘩となってしまった。
だが、おじょうが全て計算でやったことであろう。(前座=腕組み拒否=払いのけ→試合=言い合い→催眠で興奮促進である。
そうでないと横家と後藤は絶対に登場できないからである。

私の方は、この後、三日間一食もとれなかったのを覚えている。


年表25: 1985年3月頃【🥴催眠】(違っていれば4月頃)おじょうと会談。もはや修復困難と判断:この会談前も会談時も私に催眠がかけられていた。証拠あり。多分、破綻促進用催眠である。

【🥴催眠と⚔工作】

この会談の途中で軽度とはいえ彼女の頭に手をつけた。暴力は元より、暴力の匂いのすることは女性には絶対にしない。これは確実に催眠であり、同時に催眠が入っていた証拠である。私が好む人物にカナダのトルドー首相がいる。彼はフェミニストである。もし、彼が催眠をかけられ、同様のことを女性にさせられたならば、催眠がとけた後で、彼はどうなるか。
本当に、言い訳ではなく、私のプライドはガタガタとなった。


女性と子供には絶対に暴力は振るわない主義を破壊された。勿論、暴力は振るっていない。だが、その臭いをさせられることですら、私のプライドは崩れ去る。
後にも先にも、こうした経験はない。
催眠も動員され、潰(つぶ)れたというよりも潰されたのである

ちなみに、岡山の女性も含めて、ほぼ全催眠が解除された後、思い出していたのは🛵おじょう(田中さん)のみである。1988年から1989年末まで🛵おじょうを懐かしんでいたことは覚えている
Green Fieldという歌を翻訳したのはおじょうとの思い出を偲んで、翻訳をしたのである。

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【ささやかな掲示版―第1回・Green Field】
http://h-takamasa.com/Blog/?activity=6340
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他方、駿台女性については1986年春の深見係長の☎電話を契機に催眠が解除され、その1~2ヶ月後には、岡山の予備校職員・滝沢さんに催眠熱を上げさせられている。西山よりも強度が強い熱だったかもしれない。だが、数ヶ月後、正に、一秒で同職場の🚺吉田熱に変化する。正に催眠であった。この両者にも手紙を出しており、この手紙でもって、西山手紙は相殺(そうさい)され、意味をもたなくなる。催眠による手紙強制の証拠である。これらは駿台真相編06で記す。

他方、🛵おじょう(田中さん)の思い出は、駿台辞職後も長期続いていた。上記の歌はポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)の教材で使用したが、その動機が彼女を思い出したことにあった。
ところが、おじょうの思い出は一瞬でやむ。


1989年末、川崎医大附属病院心療内科に行った。でてきた医師は、駿台の岩佐部長そっくりであった。そのときに「私は催眠で揺り動かされているとしか思えないので、私に催眠をかけて調査をしてくれ」と依頼して断られた話は既に記した。

その直後の1990年1月から意識が大きく後退し、うつ病を激しくした状態で生きる屍となり、その時点でおじょうのみか、女性そのものへの関心は全くなくなった。私はこの時期を休眠期と名付けている。約四年間続いたが、1993年大吐血で奇跡的に意識が戻る。

だが、意識が戻るや、駿台辞職と同時にデビューした西田ひかる(1988年1月か2月にデビューしたと聞いたことがある)という女性アイドルがいたが、催眠熱で彼女への熱が急速に高まり、西田ひかるにより、🛵おじょうの思い出は完全破壊された。もし、破壊されていなければ駿台女性回想を催眠でさせるとしても、難しかったであろう。恐らく、後に、映画『羅生門』型で駿台回想させるために、🛵おじょう(田中さん)の思い出を破壊したのであろう。
1988~89年はおじょうのみを思い出しており、駿台女性関連はゼロだったのであるから。それでは現在も含めて、後に困るということで、駿台を辞めた後でも、駿台関連回想のために、打ち砕かれたようである。

なお、西田ひかるは途中で🛵おじょうの真似をしていた。えくぼをだしてみたり、…と。そして、彼女は今、兵庫県西宮市美作町の近くに住んでいるそうである。私の実家が岡山県英田郡美作町(現・岡山県美作市)である。彼女は神奈川県出身であり、🧜お嬢(Miki)の嫁ぎ先も神奈川県と聞いた覚えがある。嘘か本当か知らないが、浜田という人と結婚したと聞いたこともある。


🛵おじょう(田中さん)には別れた後も長期悪い感じをもっていなかった。しかし、2024/08/25に、第60回世界音楽祭Spain№4の「④番”El baile del Gorila”」を掲載した時点で、その中の一人が次に記す🎃オジョウそっくりなのを見て、突如一人二役説が気になり、完全にお嬢{🧜お嬢(Miki)・🎎お嬢(カマタ)、🛵おじょう(田中)・🎃オジョウ}群から撤退する可能性がでてきている。
ここに登場する女性の一人は🎃オジョウそっくりだったからである。

※{🎃オジョウと会うときに、誰かが🛵おじょう(田中)のGiven nameの方を強調することが多く、🎃オジョウ=🛵おじょう(田中)が脳裏に焼き付いているからである。}

スペイン特集№4の④番を掲載したときに(西田ひかると小泉今日子が強調した)一人二役説が脳裏をよぎり、🛵おじょう(田中)=西山美千代=🎎お嬢(カマタ)、あるいは本の関係で🎎お嬢(カマタ)横家幸子🧜か先のお寺の関係でお嬢(Miki)=横家幸子が脳裏をよぎり、もうそれならば完全にご破算としたいと思い出した。

そのくらい、駿台の女性には頭にきており、世間の解釈とは真逆であることの証明である。
西山美千代については西山ファーム事件との絡みで「山﨑も悪い」と「あんたの奥さん」という書き込みがあり、同時に🎃オジョウがFashion(西山はFashionモデル型と駿台当時におもった)と人形(Doll)を強調していたことにある。


横家幸子については小泉今日子一人二役から、脳裏にはいっていること、更に、🧜お嬢(Miki)の生まれた寺に来ている人を横家と思わされたこと、また横家に贈呈した婚約祝いの本は🎎お嬢(カマタ)からもらったのと同一の本であったことなどを思い出したからである。

それならばお嬢群は全部ご破算としたいとなった。そのくらい駿台女性には頭にきている。西山への怒りは既に書いた駿台真相編05-3㊤㊦でわかろう。横家については今回の「(9)横家の使命と催眠悪用言動」の箇所を読めば分かる。
楽しそうに話すこと自体は問題はない。私が問題としているのは(9)の箇所である。あれは汚い。人道に反すと。🚺Nazoの所でも少し触れる。

もっとも、🛵おじょうの思いは西田ひかるが打ち砕き、西田ひかるの思いは🎃オジョウがうち砕いた。全部、お嬢群と解釈していたが、お嬢群に駿台の🚺女性二人が入るならば全部まとめてご破算がよかろうと思っている。ただし、🎃オジョウに会えたならば事情を聞かねば早とちりもあるため、お嬢群への思いは様子見中である。
言えることは、そのくらい、駿台女性陣には気分の悪さを持っているのであり、その逆では一切ない。今回のSpain特集ではっきりしたであろう。更に、駿台真相編05-4㊦を読めばよりはっきりするであろう。ましてや、駿台真相編07まで読めば私の怒りが分からない人は皆無となろう。

 






〈📢★★★📢ここから、当初書く予定がなかったものを催眠強制記述。特に、(B)~(C〉である。催眠完全誘導記述箇所の終わりにも📢★★★📢〉記号を打っている

📢(B)の主たる催眠部分は、駿台とは何の関係もない🎎お嬢(カマタさん)と岡映氏に関する催眠強制部分である。駿台の項目で記述とは意味不明である。
📢(C)の催眠部分は、横家・後藤を一緒に我が家界隈へ…との招待を催眠強制でさせられたことの証明と2号館合同食事会への疑問部分である。


(B)朋(とも)あり遠方より来(き)たる また楽たのしからずや(部落解放運動参加の日々と🎎お嬢招待の真相)

―我が家への駿台二号館女性両方誘い事件から1974年🎎お嬢を我が家へ招待しようとした件を思い出す

📢→ここは2024/08/30にお嬢関連を記述をさせられ、青山医院帰宅後の9/3~9/5には、どこから出てきたのか、催眠で岡映氏関連の解説・記述を強いられている。また両者ともに、私の部落解放運動をしていた頃の記述もある。いずれも駿台と無関係なため削除し、他の原稿へ移動が適切であるが、催眠問答の流れを知ってもらうために、駿台と無関係な記述であるが、そのまま掲載している。何故、駿台の箇所で書かされたのかは全く不明である。唯一のヒントは人間違い(Z3)関連と思わされている。

《1985年前期》

年表29: 二号館で男女問わず合同食事会をすることになり、その準備。

(下記以降は下書きに全くなかったことをを2024/08/30突如追加した・若しくはさせられた箇所である。

念のために保存した下書きを9月4日か5日に復元して再掲載予定》

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当初の下書き箇所のアドレス

【🚧メモ段階】駿台事件真相―🆕5-3と5-4の分割前の🖊用尾メモ。駿台CM作戦―新女性刺客四人組活用編(🆕5-3・続・具体

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=44536

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この合同食事会を何故することになったのか、現時点では覚えていない。下記の関係だろうか。
その前に、🛵おじょう(田中さん)とは事実上ご破算になっていた。そこで、後藤・横家が私に関心がわずかでもあるならば、見合い材料として、それ抜きでもどんな人か知っておいてもよかろうと思ったのがきっかけであろうか。そこで、次のような提案をしたのを覚えている。〈2024/09/05 12:47追記。いや、忘れていた。この日か(2024/8/30)頃に寝ていて、催眠により突然思い出した可能性が高い。〉

面倒なので、横家・後藤の両者を二人一緒で、我が家へ招待しようかと思い、実行しかけたが、他人には奇抜でびっくりした気配があったので合同食事会を検討したのだろうか。

この話をする前に、同じく突如、思い出さされた、大昔に🎎お嬢(カマタさん)を我が家に招待しようとしたことの真相を記す。掲載理由は私の人権問題への取り組みの紹介もかねてである。 〈2024/09/05 13:46追記。おかしい。駿台真相編に🎎お嬢(カマタさん)や🧜お嬢(Mikiさん)は何の関係もない。それを長々書けば、内容が煩雑になるし、話がそれる。一度書いたので消去しないだけである。〉



大昔(1974年であったであろうか)に、🎎お嬢(カマタ)を我が家へ招待したならば、彼女がいろいろ考えてこなかったことがある。随分、来なかったことか何かを気にしていたようである。これは文化の違いである。

私でも、女性の実家に行くとなると相当身構える。相手の家が「通常ならば」、誰とて異性の家に行くときは身構える。だが、我が家は昔は公民館に近いのである。今の家も大きいが、昔は更に大きく、二階だけで8畳クラスで四部屋、だが固定資産税対策で部屋にしていない所、天井などがない部屋が2部屋あり、部屋に改造すれば六部屋となる。一階が8部屋余りであろうか。

村の組合で、大人・子供が全員集まってする宴会や「子供の日」の行事などは全てに近く我が家でしていた。農繁期のときには公民館を託児所にしていたが、その保母さん該当の人を我が家に二人ほど泊めていたこともある。要するに、村の組合集会所に近く、通常の家ではなかったとも言える。この辺り、相当範囲に亘る本家でもあった。

家族も最盛期には、私の家族が父・母・長姉・次姉・私、伯母さんが訳あり同居していたが、伯母さんの家族が祖父・祖母・伯母・従兄弟、更に祖母の母で合計10人である(同居していた伯母は皆木さんではない。皆木さんは浜田稔・正典家の敷地内にあった)。その上、一時は叔父の家族も同居したときもあり、そのときには叔父・叔母・従兄弟と合計13人になる。ただし、(我が家番地使用の)Z家(浜田稔・千代子・Z3こと正典)は我が家に住んだことは一度もない。


更に、姉などが民主主義活動をやっていた関係で、姉の男性友人が来たことも何度もあり、私とも一緒によく喋っていた。

姉(次姉)の男性友達が我が家へ来て…であるが、男女問題とは全く無関係に、社会を論じて帰っただけである。だが、その前に当時は我が家は活気があった。
今よりも、大きな家で大勢が住んでいた時代であり、組合の集会は子供・大人全員を含めて我が家に集まりパーティをしていた名残のある家である。「みんなでわっとやろうか」、でしかない。あの頃は今と違い、そうしたことが面白かった頃でもあった。いずれ記す、松江の山小屋の話を書けば分かろう。

そこで、嫁さん・旦那さん候補とか彼女・彼氏だけが来る家ではなかったのである。
勿論、親戚も様々な所から終始きていた。


簡単に言えば、通常の家に来るのではなく、民宿か小さい旅館に行くようなものであった。
1974年頃にお嬢を誘った理由は、部落解放運動の関係で、私が毎年夏に行っていた隣保館などで、大昔(明治・大正・昭和の初期に)受けた差別の話などを老人に語ってもらうのを一緒に聞きに行かないかということで誘ったのである。🎎お嬢(カマタさん)は、私とは現在でも(かなり仲の良い)友人である(和田アキ子ならば意味が分かろう)。それは自他共にのみならず、知人の多くが知っている事実である。駿台女性問題でも彼女が相談役であった。

それも、通常の語り部型ではなく、みんなでせんべいをかじりながら、「私は若い頃にこんなことをされて」とか「私もこんなことがあった」と和気藹々(わきあいあい)で語ってくれるような所であった。私も色々な集会に顔をだしたが、牧歌的な雰囲気で、人見知りするようになっていた私でも気軽に行けて大変記憶に残っている。似たような物はあっても、あのような雰囲気でとなると、もうお目にかかれないかもしれない。これなどは、部落解放同盟とか、地域連とか、自由同和会…など誰でも評価するものであろう。

昼間は、私が活動していた岡山県北高校部落研高校生主催の集会・会議に顔を出し討議に参加をし、夜は先の隣保館で話を聞き、そうした経験を🎎お嬢は生涯そうできないであろう、ということで招待したのである。しかし、意味は十分通じていなかったかもしれない。

 なお、この集会には岡映氏もたまに来られて講演されることがあったが、当時の私との関係は、群衆の一人の私と部落解放同盟副委員長(後の正常化連議長)・岡映であった。要するに、加山雄三コンサートに来ているお客の一人が私に該当する関係であり、この頃は岡映氏は知人ではなかった。雲の上の存在でしかなかった。食事をご一緒させていただいたのは、1981年に双方が行き着けの店が同一で、その店のママさんからの紹介であったにすぎない。

 

9月3日~9月5日にかけての🥴催眠誘導の文(駿台事件と何の関係があるのだろうか。40年間考えても意味不明である🤔):青山医院から帰宅した後で🥴(催眠)となり🖊記した部分である。


※※※2024/9/3深夜挿入箇所(一番下は9/5の追加部分を含む)※※※

(2024/09/03 :岡映氏とは地元では、部落解放運動に携わった人物群として、①~⑧と同様な形で見られていた。否、地元以外でも、部落解放運動家の間ではかなりそうした評価を受けていた時期があった)

①松本 治一郎(まつもと じいちろう、1887年〈明治20年〉6月18日 – 1966年〈昭和41年〉11月22日):福岡県
②阪本 清一郎(さかもと せいいちろう、1892年(明治25年)1月1日 – 1987年(昭和62年)2月19日):奈良県
③西光 万吉(さいこう まんきち、1895年(明治28年)4月17日 – 1970年(昭和45年)3月20日):奈良県
④上田 音市(うえだ おといち 1897年2月25日 – 1999年1月21日):三重県
⑤朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年〈明治35年〉5月25日戸籍上は7月4日 – 1983年〈昭和58年〉4月29日):京都府
⑥木村 京太郎(きむら きょうたろう、1902年6月19日-1988年6月11日):奈良県
⑦北原 泰作(きたはら たいさく、1906年(明治39年)1月1日 – 1981年(昭和56年)1月3日[1]):岐阜県
⑧岡 映(おか あきら 1912年7月10日 – 2006年4月13日):岡山県

更に、現在の政治家や民主主義活動家と異なり、独特の雰囲気を持っていた。後に部落解放運動は分裂をするが、されども、岡氏の人柄では、大昔に岡氏と寝食を共にした活動家ならば、岡氏と対立していた部落解放同盟の人でも、懐かしく思うという側面があった。

共産党員の岡映氏ではなく、部落解放運動をしていた岡氏が偶々共産党員でもあったというように私には思えた。
要するに、部落解放運動をしていて良いと思った人が、偶々(たまたま)社会党員であったとか、偶々共産党員であったとか、偶々キリスト教会の牧師さん(キング牧師のようなものである)であったとか…そういう意味である。
勿論、自民党員であることもあろうし、公明党員であることもあろう。演繹ではなく帰納という概念に近いかもしれない。

次の例えが分かり易いであろう野球の巨人ファンだから巨人の選手が良いというのではなく、素晴らしい選手がいたが、その選手は巨人に所属していたという見方である。後者だと、他にも素晴らしい選手がいたが、その選手は阪神であったとか、西武ライオンズであったとか…多様になる。

一言で言えば、共産党員が部落解放運動をしているのではなく、部落解放運動をしていた人が偶々共産党員でもあった、である。この両者では実は違いが大きいかもしれない。
批判ではなく、例としてあげれば、前者が榊 利夫 (さかき としお、1929年2月21日 – 2003年8月19日:共産党の同和問題の専門家)氏であり、後者が岡映氏(水平社時代からの部落解放運動家)である。両者が同じか違うかは本題を外れるため何も書かない。単にイメージの話である。

こうした解説は今回は話がそれるのでしないが、人間・岡映氏とその活動仲間として書いただけである。そして、私もいろいろな世界を見てきたが、かなり珍しいので。🎎お嬢(カマタさん)にも見ていただきたいと思ったのである。

そこで、🎎お嬢(カマタ)が岡山に来たときに、この集会で間近で会談できれば、歴史・教育などに携わる上で参考になるであろうとも考えた。


1974年当時は岡映氏は雲の上の存在であった。

しかし、その後の私は、東京で市川房枝氏(その頃の選挙参謀が議員になる前の官直人氏であった)と直に一対一で対談したり、対談はしていないが、早大大学院時代には政経学部の野田佳彦氏・大塚耕平氏・岸田文雄氏・稲田朋美氏・江川紹子氏などの試験監督をしたりしていたようである
ちなみに、私は大学院時代に内田満ゼミ(先生は当時は自民党顧問)であったが、江川紹子氏も内田満ゼミであったようである。私と同時期であるが、当時は学部学生とはゼミ活動を一緒にしていなかったので、50歳を超えてから知った。


更に、その後はおかしな世界に巻き込まれて、Clinton、obama、Trump、Biden、プーチン、温家宝、李克強、盧武鉉、文在寅、マハティール、トルドー、Merkel…と膨大な知人が増える。 勿論、習近平、江沢民、胡錦濤、金正恩、モディ、ジョコウィ(前インドネシア大統領)、フック(Vietnam元首相・国家主席)、ズマ(南アフリカ共和国元大統領)、メイBritain元首相、オランド前フランス大統領、マクロンフランス大統領、李登輝…と膨大な知り合いが増えていく。朴槿惠氏も、李明博氏も、蔡英文氏も…も私のことは知っていよう。日本の政治家は書く必要もなかろう。

こうして、雲の上の岡映氏は部落解放運動以外では無名に近く、世界では全く無名であったが、いつのまにか、世界のMr.HAMADAの知り合い・Akira Okaとして世界の何人かが興味を持つと同時に、Wikipediaなどでも掲載されだしていく。当初はWikipediaには岡氏は掲載されていなかった。世界も含めれば知名度は真逆となっていった。

もはや、今では、世界のMr.浜田が人権活動家、差別反対主義者であることは世界160カ国以上で周知事項となっている。知らぬは我が村だけであった。そこをついての策動が後に行われた。世界は笑い話として見ていたようである。同時に、村の出来事の一部は近所の人間よりも世界の方が詳しい。近所とのもめ事でも、2013年訪中の際にはかなりの人が真相を知っていた。村では誤解だらけでも。それが実話である。

なお、私が党派中立・宗派中立(中立となり現在で40年余りとなる)に変わった経緯は下記などを参照。駿台時代は、もはや、党派中立・宗派中立時代であったことも強調しておく。駿台真相編07参照。だが、一貫して、差別反対主義者・人権重視主義者である。

★★★★★★

☆☆☆☆☆
(公式Blog2020/11/4公開)浜田隆政回想録―1・1982~2020年:党派中立への道
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=29431
☆☆☆☆☆

私の党派中立は四段階からなる。
①萌芽的党派中立⇒「旅に心を求めて・不条理編(下)」(Kindle、KOBO各百円)
②心理的党派中立⇒今回のBlog等に記載
③理論的党派中立⇒40年以上📰と👋で、独自理論へ
④契約的党派中立⇒これのみ後日、詳細。簡単に言えば、🤡の人権回復を積極的に応援した人間には全面応援をする。それが悪魔(=👺)ならば👺でも応援する。文書で明記済み(1999年)。そこで契約と記述。
各年号はパソコンならばプロフィールの右側参照。①からでは、現在では、もはや40年以上となる。

公式HPのプロフィール
http://takahama-chan.sakura.ne.jp/profile.html
★★★★★


🎎お嬢(カマタさん)を招待したのは「彼女」として来いという意味で誘ったのではなかった。更に、この後の記述を読めば分かろう。それと同時に、当時は、我が町の一部は面白い形の民主主義が成熟していた。これも知らぬは我が村だけである。この種の民主主義は当時も今も余りみたことがない世界であった。

排他性もなかった。岡大全共闘書記長をしたこともある某先生…も、誰もが暖かく迎え、某先生も私をかわいがってくれた。

部落解放運動の形態も、兵庫県西宮市教育委員会主催の郊外学級とは異なるし、また、西宮市で少し参加したボランティア型子供会活動(1970~71年)とも違う。この子供会は分裂した後は解放同盟中央の方か、それとも正常化連の方かも知らない。またどちらでもよい。

この子供会をやめたのは超多忙が原因であった。宝塚ホテルで一日おきの徹夜型バイト、婦人問題研究部、自治会民主化活動、民青、…では無理であった。更に、いっときは関学民青のリーダーにもされていたため、物理的に不可能となりやめただけである。

しかし、私が見た私の地元での活動家とは随分雰囲気が違った。ちなみに、大学一年(1971年頃)に、西宮であった部落問題研究集会に行ったときか・それとも婦人問題関連の会議に行ったときに、ゲストとしてこられていたのかは忘れたが、西宮市芦原で部落解放運動をしている人と偶然知り合いになった。分裂前に部落解放同盟支部長をしていたという噂も聞いたこともある。亀田という人である。

だが、この子供会の指導者のメンバーと亀田氏が知り合いには見えなかった。勿論、このボランティア型子供会のメンバーは、私が1968年から部落解放運動の関係で各地(京都・大阪・和歌山…)の集会に参加していたことなどは一切知らぬと思う。
なお、部落解放運動の対立の見方は下記に書いている。幹部はともかく、下の方の層は実は相当数が同じであることも分かろう。戦争と幾分似ているかもしれない。日米が戦っている時は双方憎悪に見えても、日本の庶民の本当の姿とアメリカの庶民の本当の姿では対立要因はない。同様の側面があった。

☆☆☆☆☆☆
日本のフィクサーME・パート3・第1章1節:山口県・光市・萩市への旅(部落解放運動分裂模様から世界連邦まで)2021/11/21公開
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=34251
☆☆☆☆☆☆

ともかく、田舎に存在していた人権活動は、教育委員会型とも、この芦原のボランティア型子供会とも異なる、珍しい民主主義型であった。関学でも、早大の様々な分野でもみたことのない世界であった。

今は当時のようではない可能性が高い。私が上記の形で、顔を出していた時期は1968年~1974年までである。

1968年頃とは世界ではスイスには女性参政権がなく、アメリカでは公民法は成立したが暴動が起こり続け、韓国では戒厳令だらけであり、オーストラリアでは人種差別がまかりとおり、「日本人は特別に名誉白人にしてあげよう」と言われていた頃である。沖縄もアメリカの領土であった。

駿台真相編とそれたが、この変わった民主主義(排他性を排除し、寛容性があった、素朴な民主主義)の話を読めば、🎎お嬢を誘った意味も分かろう。同時に、駿台時代に人間違いも相当利用・悪用されたようであるが、人まちがい(恐らく、我が家の住所番地を70年使っていたZ家のZ3との人間違い)も、更にはっきりするであろう。

このZ3と私とはどちらがよいか・悪いかではなく、かなり真逆の性格のため、駿台を離れた今は、こうした文書が意味を持つかもしれぬため、それもありよそ道にそれても消去せずに残しておく。


📣★9月5日追記★(追記の終わりに📢★を打っている)
かなり仲の良い友人が民学同に所属している。岡映氏と知り合いになった後で、彼を岡映氏が登場している集会に誘おうと思ったことがある。恐らく、彼は部落解放同盟中央の方であろう。だが、方向転換などの画策ではない。第一、私は党派中立・宗派中立となっている。

もし、私が、田中角栄に会う機会があればあったであろう。松本治一郎氏でも同様である。荒畑寒村・野坂参三氏でも同様である。この世で、大きな役割をはたした人に会うことは何かになるかもしれないし、各種偏見からの解放を意味する。

 後に、テレビの世界で小泉純一郎氏や中曽根康弘氏と対談してから、余計にそう思うようになった。

マザーテレサとも対談したが、彼女はキリスト教徒である。だが、彼女は救った人に改宗を迫るどころか、その人が死ぬときにはその人の所属している宗教の儀式で弔ったと聞いている。

自民党員でもあった与謝野馨氏は麻生内閣のときに、宮本太郎氏を内閣参与にした。宮本太郎氏の父は宮本顕治氏(日本共産党元委員長・議長)である。当然、反対があった。

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麻生内閣時代の安心社会実現会議に委員として参加したのは[2]、当時財務大臣だった与謝野馨の推薦によるものである。与謝野が宮本を知ったのは、宮本の著書『福祉政治―日本の生活保障とデモクラシー』を政務秘書官に薦められて読んだのがきっかけだという……宮本は、共産党の宮本顕治の息子であるため、「そんな人を首相直属の有識者会議に入れていいのか」と主張する与党(当時は自民党と公明党)幹部もいたが、与謝野は「誰であろうが、優れた意見を言う研究者なら何が問題があるのか」と突っぱねたという。……


(Wikipedia)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E

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与謝野氏と私とはかなり気があったように思えた。彼が言う通りである。

なお、私は野中広務氏(1925年10月20日 – 2018年1月26日)ともやや縁があった
彼に対して、彼が自民党を離党した頃に、自民党の中でやや批判めいた感じを受けたときがあった。そこで、私は下記Blogを掲載した。

不吉な予感がして、野中さんの寿命が近づいたのではないかと感じたからであった。彼は自民党に戻って死にたがっていると思い、下記の文書を記した(野中さんと麻生氏は険悪となっていた。だが、野中氏が麻生内閣が出来る前に、「麻生氏を応援してくれ」と神妙な顔つきで私に訴えたときの話である)。
この話を公開した背景には、野中さんが自民党に戻っても、多くの人が温かく迎えるようにとの思いからであった。その半年後に、彼は死亡した。だが、私は自民党員ではないし、自民党支持者でもない。党派中立・宗派中立である。

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日本のフィクサーME・続編メモ:三第一次安倍総理、麻生総理誕生に関する裏話―2・麻生政権との野中さん。(2017年7月27日公開原稿)
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=14493
☆☆☆☆☆

先の話に戻せば、民学同の友人を岡さんグループへの異動…を考えたことは一度もない。ただ、苦労をした多くの人を知ることも何かになろうと思い、気が向けば我が家界隈で岡氏が講演でもすれば一度様子を見にいってみたらと言っただけである。勿論、私もついていき、彼に気まずい思いは絶対にさせない。

🎎お嬢(カマタさん)にも同様の意味で、苦労して、ある方面で歴史的な人物と出会うことは何かになるかもしれないと思っただけである。

組織を見てから人を見るのではなく、先に人を見た方が良いときもある。

📢★9月3日への9月5日深夜追記部分終了📢★

※※※2024/9/3深夜挿入箇所終了※※※


話を元に戻そう。


我が家内でも、お嬢の話し相手には私の姉や女性の従兄弟などがいるし、また、解放運動をやっている人も話に来るかもしれず、話し相手にも不自由はしないということであった。


田舎の民主主義最先端の地での草の根の民主主義とか、牧歌的な形で、差別の語り部の話を聞く機会は、彼女の世界ではなかろうと思い、真の意味で勉学になるということで誘ったのである。先の民学同の友達は限りなく親友に近い感情を抱いており、🎎お嬢(カマタさん)は紛れもなく親友である。(ただし、お嬢=西山美千代とかお嬢=横家幸子と、一人二役…となれば、単なる知人か、もはや🔚終わりとなろう。)


〈2024/8/31催眠誘導で書かされた箇所〉

その後、我が家は新築され、家族も大きく減った。
だが、横家・後藤なども、温泉町もあるので一緒にはしゃいだらで声をかけた頃は、祖母・父・母・場合によれば姉夫妻(3~5人)、など8人程度である{訂正→後に記しているように三人である。姉は私の婚約者でもないかぎり、もう結婚していたので来ない。更に、別の形での催眠尋問により、気がついた大きな訂正を翌日(8/31)と翌々日(9/1)にしている。だが催眠記述の移り変わりの証拠として保存しておく}。

〈2024/8/31催眠誘導で書かされた箇所の続き〉😴(寝る)場所も幾つもあるし、家が小さくなったと言っても、私の部屋だけで8畳を中心に3部屋、一階でも5部屋ある。
もっとも、私の部屋は立花隆や家永三郎とまでは行かぬが、6段本立て換算で50個以上あったが、それらは当時は大半岡山のアパート(3部屋)に持っていっており、今のような立錐の余地もない部屋はなかった。(後日、全部屋を写真で紹介すれば分かるが、二階は満員電車に近かった。昨年かなり改善したが、それでも立花隆の部屋を思い出せば分かるように満杯の部屋もまだある。以前は2階3部屋と二階の廊下はほぼ全部そうであった。)

なお、思想的で困るとの心配はご無用である。
人数が多いから、全てOKである。

次姉は革新派、長姉は石原慎太郎派、私は当時は革新派(その後40年以上党派中立派)、父は社会党系かと思っていたならば自民党員証がでてきた。私は父は社会党中道派と今でも思っているが。母は近所のボスとの関係で平沼赳夫(自民党→たちあがれ日本→太陽の党→日本維新の会→次世代の党→自由民主党)関連にいれることが多いようであった。義兄は自民党員(途中でやめたかもしれず)、もう一人の方は革新派、一緒に住んでいた従兄弟は革新派、途中で我が家から離れた近くの従兄弟は自民党派、…祖母と伯母は「派」は「派」でも入れ歯派ということで全部OKであった。
こうして民主主義というものを肌で感じた。

〈9/5追記:成り行きで平沼赳夫氏の選挙風景の写真を撮らざるを得なくなったことがある。場所は我が家の前からである。平沼氏はその30メートルのとこで手を振っていた。いずれその写真を公開しよう〈下記である。2005年8月31日 12時50分頃のフィルム写真である〉。これでは私が平沼氏を応援していると誤解される可能性が大変高かった。しかし、成り行き上やむを得なかった。

2005年8月31日:12時50分頃05-015-03A-f

2005年8月31日:12時50分頃05-015-03A-f

2009年も今度は平沼氏ではないが、別の形でぐるみ選挙に巻き込まれそうになった。そこで、やむなく、私の政界との繋がりを強調し、党派中立・宗派中立であることを証明するため、早大大学院恩師内田満先生(自民党顧問)、小渕恵三[恩師の知人・早大院政治学研究科修了=🤡の先輩]…大学院時代に直にあった)市川房枝(当時の選挙参謀が官直人)…との関係を公開するため、早大大学院時代の話をした。人脈上、特定の人の選挙応援類は不可能であることを分かってもらうためである。

それまでは、言う必要がないので、我が村・美作市位田どころか、位田の中田組合内ですら、私の最終学歴が早大大学院であることを知らぬ人は多数いた。親戚も同様であった。

高校時代の恩師ですら、知らぬ人は多かろう。早大も関学も似たようなものであるが、関学の方は村ではその名を知らぬ人が多く、キャベツのような物であった。私も高校三年の途中まで名前を知らなかった。入試教科の関係(選択次第では英語・世界史・数学1と2で国語抜きで受験可能な大学、戦後、日本の全大学でこの入試教科は関学の1971年の一度のみである)で興味を持っただけであった。

小学校・中学校時代の恩師類はあの悪戯好きの手を焼かした生徒が…であり、大学に行くことすら思っていなかったかもしれない。見る目があったと思う。私も道を間違えたと何度も書いているくらいである。中学校時代の学業優等生は、我が家の住所番地使用のZ3(多分、彼と人間違いをされた)の方である。〉



ちなみに、実家に彼女として招待したのは🛵おじょう(田中さん)だけである。教え子・西田などは、アパートにも、実家にも平気できていた。結婚した後でもきてくれていた。


もっともアパートや下宿の方では、女性が何人も一人で来ている(自治会運動や民主主義運動の関係と🤡私の人柄の関係からであろう。一部は婦人問題研究部の箇所を読めば分かろう)。姪は友達をつれて、実家に来てくれればよいのに、大半を私のアパートで居候をした。一週間程度いたような気もする。実家には頑固爺さんがいたので私のアパートなかもしれない。(なお、その1年半前に、西山美千代が姪の髪型を突如した謎もある。)


ともかく、昔は、実家は文化と我が家の特性からオープンなので、通常の異性の家に行くのとは全く違っていたのであるが、今考えると、🎎お嬢(カマタさん)は通常の家を連想して勘違いをしていた可能性もある。


それと、私は大学一年の頃婦人問題研究部に所属しており、当初は男性は私一人であった。後に私の友達が入るが、それ以前に男性一人で合宿にも参加しており、感覚が通常の人とは違っているのである。

女性の一年先輩の部屋に行くときでも、ノックをして、相手が「誰ですか」、「浜田です」。すると、簡単に「入り…」であった。こうして、異性への抵抗心が余りなかった。ほかに誰もいなかっても、赤子を扱うような雰囲気であった(長姉に言わせれば、単細胞人間MEである)。異性として接していない時期が多かった。

他の民主主義活動をしている女性でも、女性が一人できて、「パンストが破れたので履き替えるから、ちょと出て行って」と言ってきた人もいた。彼女は下宿ではないため、履き替える場所がなかったのであろう。かなりの人が来ていたが、同性がくるのと同様感覚で覚えていなかった。2022年頃から徐々に思い出した。

駿台事件の頃は女性が異常に登場してきて異様であったと記したが、昔も、同数以上登場していた。違いは、ただの一度も揉(も)めたことはなかった。

結婚式の案内状を送ってきてくれた女性も数人いる。未だに、誰とも長期会っていなくても双方、心情的には友好関係にある。勿論、住所や電話番号は未だに保存している。住所も電話番号も不明は駿台女性のみである。

いや、駿台でも、教え子の女子生徒は、年賀状のみか住所を聞いている。(超多忙なので、質問に返答するには手紙で後日しかなかったからでもある。それでも、律儀に私に礼状を送ってきた生徒はかなりいた。全員、住所はきっちりと書いてあった。1982年度の教え子ならば駿台京都校1983年度講師室係🚺四人組と3歳しか違っていない(2浪ならば2歳違い、コンドウさんなどとは1歳違いである)。住所を聞いて…女性の返答は「先生、連絡が遅れすぎで怠慢である」等の苦情類程度である。その逆は一切ない。

勿論、住所を教えないのはある意味では正論である。だが、「それならば私に寄ってくるな。紛らわしい」と😡怒る。それも一年半職場で見ていて。通常は異性としての警戒心よりも、何かのやましさからの警戒心と解釈される。特に1984年の西山からの返答に住所抜きの日本郵便は、社会常識に反する。それならば、私を無視してくれ、となる。最低でもある種の(本質上の)セクハラ・嫌がらせと解釈される行為はするな、と怒る。再度言えば、西山の異常行動(当初は意味不明の極端な怯え攻撃、1985年後半は文字通り各種威嚇類。だが前半)は、🛵おじょうと見合いをする以前であり、横家・後藤と会話をする以前からであった。それでは何故…。誰かが西山ファーム事件をもじって、SNSで「山﨑も悪い」と書き込んでいた。

 

同時に、駿台時代は、信頼関係と異なる、工作とか罠で登場してきたようである。また駿台時代の後半はストーカーとか嫌がらせ型で女性を使ってこられて、大変、仕事に支障をきたした。簡単に言えば業務妨害をしてきた所に違いがある。女性ではなく、軽犯罪者が女性として登場し続けている気分であった。


婦人問題研究部部長は社青同協会派の人であったが、こちらは一対一ではないが、何度か下宿やアパートに招待され、「インスタントラーメンにはキャベツを入れなさい」か何か指導をうけた記憶がある。社青同協会派の人には何人も知っている人がいた。

また、後輩の女子生徒であったが、学園紛争の最中で、どうも弱わっていたならば、彼女が腕を組んできて私が守ってあげると言ってくれた人もいた。彼女はブンドではなかったかと思うが、暴力…さえ関係せねば、私は当時から党派には余り拘(こだわ)っていなかった。

だから、最初に書いたように、通常の女性はみたことがないと記した意味がこれで分かろう。

なお、女性を抜きにすれば更に付き合いは広い。

また、私と仲が良い友人がおり、大学四年の頃、ゼミ合宿が解散した後で、途中で二人で小豆島へ行ったことがある。彼は民学同に所属していたようであった。

東京を去る頃には、創価学会の友人もできていた。もっとも、長期年賀状をやりとりをしていて、お子さんが二人とも創価大学に進学していたため、想像しただけであるが、特に何の意味ももたず、記述に価しない話でしかない。

実際に、高校の柔道部仲間などの体育系諸君とも機会があれば付き合っていたし、今でも付き合っている。星野仙一記念館に行った話を思い出しても分かろう。



分かり易く言えば、もう一人の🧜お嬢(Miki)の生まれは由緒ある大きな寺(真言宗)である。だから、男性の友人も平気で何度か行っていたようである。私も二度見学に行ってきた。とは言っても私は2017年前後である。笹山にいる先輩が余りに🧜お嬢(Miki)のことを強調したり、兵庫県の親戚の寺(真言宗のお寺)の人が暗に🧜お嬢(Miki)を示唆することが長期気になっていたからである。

今、考えれば(横家と後藤に)「二人で一緒に(温泉町もあるし)遊びに…」と奇妙なことを言ったのだろうかと思っている。(実際には紙に書いただけでいっていないか・手渡していないかもしれないし、手渡したかもしれない。本当に覚えていない)。

ともかく、オープンな性格、女性ばかりのクラブ(大学では前半は婦人問題研究部)にいたこと、家が合宿所・集会所風であったことなどからの言動であったが、通常の人ならば奇異と思ったかもしれないと反省している。簡単に言えば、家が民宿をしていれば、男女問わず、皆さんで遊びに来てという雰囲気で言っただけである。

私は、元来、田舎の六流大学で、下駄をはいて、番傘をさして、腰にタオルをまいて歩く派であった。その後で田舎教師になろうかであった。道を間違えたのである。

それが原因かどうかは不明であるが、二号館でそれでは浜田先生の負担で合同食事会となったのかもしれない。それとも別の形で合同食事会の話が出たのであろうか。今となっては、何故、合同食事会かは覚えていない。私が言い出しっぺかどうかすら覚えていない。だが、私が全費用負担と言ったならば、私が言い出した可能性が高いと考えただけである。

ちなみに、(横家・後藤との)見合いへの道などがご破算になってもそれは全く無関係である。
大阪校で夜のクラス生徒(全員男性)10人余りを連れて、全部私持ちで飲みに行ったことがあるが、そうした性格である。当時は今と異なり、年収があったこともある。駿台京都校の教え子も、男女問わずに、飲食に私持ちで、何人も連れて行っている(ただし、大半が駿台をでて、大学進学後である)

今は長期(1988年以降)、金がない。2002年頃からは完全無収入である。現時点では国民年金以外の収入は皆無である。親の遺産がつきるのは間もなくであり、インフレがそれを更に早めている。通常の平均寿命までいきたならば。老後破綻地獄が待っている。

新免氏(元共産党市議)との付き合いを大切にしているのは、雇用促進事業団との賠償交渉立会人のみならず、生活保護を申請に行くときに、間に誰かを入れた方が取りやすいからである。同様のことを別の議員が責任をもってやると言えば、その議員でもよい。党派は問わない。

元来は、現在の村での印象操作とは逆で、「気があえば、みんなでバーとやろう」であった。ポリテクカレッジ岡山を紹介された嶋坂先生と飲みに行くときは全てに近く、(連帯保証人問題で)金に困っていた先生に対して、駿台で金が入っていた関係で費用は私持ちであった。

駿台時代に次姉が「子供に地球儀を買ってくれ」と依頼されたときは、岡山市で該当箇所を回り、一番高い地球儀を買って贈呈した。

姪が友達をつれてきて居候(1987年ゴールデンウィークの頃か)したときにも飲食代金その他で約5万円とんだがそれは余りきにならず、いつまでも居候されると授業の準備ができないことから、顔に😡がでてしまった。

今は無理である。ない袖は振れぬ。強盗してまで昔に戻る気は一切ない。村で、ここでも真逆のデマが飛んだのであろう。


(資料)

吉田課長・岡田欽之課長・深見正明係長・大滝満夫部長への西山の件の解説と彼らの反応。更に合同食事会の解説

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2020/9/12 気がむけば一言
【駿台】№205 女性問題でっちあげ被害の謎と、引き続くトラブルの謎、更に人間違い被害疑惑(1)。
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1377/
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(C)謎の横家・後藤を我が家へと招待事件と駿台京都校二号館合同食事会未遂事件に関する催眠尋問。

→ここは2024/08/3oに記述をしたが、その翌日2024/08/31~9/2に就寝中に催眠解説があり、(C)の箇所は大幅な修正か削除が必要となったが、催眠問答の流れを知ってもらうために、そのまま掲載している。8/30の方は一部事実に反していた。)

(2024/08/31:12:22~)上記の「朋あり…」文章は昨日(2024/08/30)突如書かされたことに対して、2024/08/31催眠で確認を取られた内容である。。
すでに公開していた下書きには当然ない。
上記を書いた後で、寝ると、催眠による問答と解説と訂正があった。
すでに何度も書いたように、私に催眠をかけてくる人間は今や複数以上いる。

①一番:私が横家と後藤を我が家に誘ったのは催眠ではなかったのかという示唆である

🥴(催眠)「過去、こういう形での女性を実家への招待等の前例があるか。」

🤡(私)「当然全くない。」


例外は部落問題などの人権活動をやっている人の場合である。これが🎎お嬢(カマタさん)が該当する。

あとは、お嫁さん候補である。

🛵おじょう(田中さん)だけである。
いや、よく思い出せば、あと一人🎃オジョウがいた。

後者(🎃)については2000年前半ごろに、ややこしいので結婚した方が良いのではないか(結婚が望ましいが、私が無収入の関係で結婚が無理でも正式交際した方が良い)と思ったのが原因であった。

その日は大阪からの帰路、雷が鳴りまくり、家に帰ると母が「お前は馬鹿だ」と言わんばかりに大笑いをしていた。(いや、「お前は阿呆だ…」に近い言動をした。だが、母には🎃オジョウの話は一言もしていない。来る段階で、母に解説予定でいた。多分姉にも)。

20年ほど前のため、母が健在な時であり、母がいる前での招待であった。私はこの時点できっちりとした正式な付き合いに移行したかった。本来はどちら(🛵おじょう・🎃オジョウ)もあそこで結婚に繋がっていた可能性が高い。
なお、🎃オジョウはそのときは適当にはぐらかした。いずれも、お嬢類である。

小泉純一郎氏の時、(今回は名は伏せるが)某大物政治家…が 「あれは萩本欽一と同じだ」と言っていた。ちなみに、🎃オジョウとは本当に曾根崎心中で有名なお初天神の入り口(商店街側からの入り口)で出会ったことがある。

実家訪問者女性のもう一つの例外があった。西田の如く教え子というよりも友達関係の人間である。もっとも西田の場合は私が誘ったのではなく、彼女の方からやってきた。母がそのときにいたか・どうかは覚えていない。

◎結論:横家と後藤と会話を開始した時点であり、常識的には誘うことはありえない。前例上は皆無である。


②二番:次に横家・後藤両方(一緒に)の誘い方の奇怪さである。

🥴(催眠):「メモをコピーしたときの件を思い出せ」

🤡招待は簡単にメモをして、駿台京都校二号館事務室のコピー機で3部ほどコピーを取った。私と横家と後藤用と思う。


ところが、そのコピーをした元原稿を駿台事務所内のコピー機の上に置いたまま忘却をしていた。
すると、受付の美人女性(こちらは前年の1984年以前からいる、大変生徒に人気のあった女性である)が「これは先生のものではありませんか」と私のところに持ってきた。
こうした文書を通常は駿台のコピー機の上に忘れて帰るなどの忘却をするか。当然するわけがない。駿台職員全員が見るのである

◎回答は催眠により彼女らを招待をさせられ、それを駿台内のコピー機でコピーをし、さらに催眠でそれを忘却させられ事務室に置いたまま帰ったとなる。通常は常識上忘却することは絶対にない。
よって、催眠による一連の騒動=駿台のCM稼ぎのための謀略であったと分析される


③三番:合同食事会の呼びかけ人について。


🥴「合同食事会を呼びかけたのはお前か。」
🤡「まったく記憶にない。常識的には私であろうと思い、それならばこういう考えだったのであろうかと思い書いたのが下記(D)である。」


誰かが言い出して私が乗り、それならば一つお世話になっているので私が全費用を出そうかと言ったのか、私の方から合同食事会を言い出したのかまったく記憶にない。
何らかの意図で合同食事会を言い出していたならば、私が呼びかけた動機や発案者を忘れることは常識上はないと思う。

◎要約すれば、a・誰かが言い私が賛同した、b・催眠で私から言わされた、c・私はどういう意図のもとで提案したのかを覚えていないが、私が言った。だがcの場合は、動機を覚えているはずであるが全く覚えていない。下記(D)の解説は当然、私が言い出したものと考えて、もしそうならばこういう考えではなかろうかと論理分析したものである
戦略的意図に基づいて合同食事会を言いだしていたならば明白に覚えているはずであるが全く記憶にない。


④四番:催眠問答を契機に思わされた全体的流れからの分析。

◎結論は「西山美千代と横家幸子に必ず私を絡ませる」というシナリオ至上主義であった。
1985年の流れ→2月頃🛵おじょう(田中)が猿芝居して撤退→85年度授業開始頃コピー機に原稿置き忘れ事件→合同食事会→「(8)西山好きな振り詐欺第三段とドタバタ劇強制参加(労働)・契約外労働」→「(9)横家の使命と催眠悪用言動―2号館ドタバタ劇(工作・催眠・謀略・強引なこじつけ)の一環としての流れと思われる。

これを錦の旗として駿台大阪校での授業妨害・業務妨害、後の刑事犯罪被害へと繋がっていく。まさに戦前の謀略事件同様の形態である。同時に戦前型暴力事件が大阪校時代以降随所に見られ出す

これらは、🎬映画説の視聴率上昇と駿台CMの効果を高め、更には後の一連の被害の火だねを撒き、その後ですら映画「羅生門型」回想での話題提供へと繋がる。また、後に煙に巻くため「一人二役説」が随所で強調されていた。


⑤五番:(催眠問答の後で思った)もう一つの分析視角。


◎α駿台予備学校の経営分析(私が駿台教壇にたったとき、辞職後もCM効果が出ると予測される時期、私が駿台に疑問を持ち告発類を書きだした後の経営状態の三者分析)の方が重要ではないか
βまた、関係者の全面的自白若しくは告発、最低でも(偽証罪前提での)聞き取り調査が必要である。
上記一番から四番より、この二つ(αとβ)で通常は完全解釈が可能と分析される。そのためには裁判が不可欠であった。政治家が絡んだ場合には国会審議も不可欠である。

コピーの件は少しは覚えていたが、重要ではないと考えて書いていなかっただけである。また、合同食事会を誰が提案したかと改まって聞かれると、正確には覚えていない。通常は私と思ったし、思うが。

(2024/09/01の追記事項:今(2024/09/05 8:52)考えると次姉(二番目の姉)が「馬鹿、おばあちゃんのことを思い出せ」と言った用に思われた。

ともかく、9月1日記載事項を誤字・脱字修正以外はそのまま掲載する)


(2024/09/01 追記した内容:誤字・脱字以外はそのまま掲載)
私は催眠状態で動かされることが多い。催眠の種類によれば、即座に催眠と分かり、抵抗して事なきを得る催眠もある。それでも、抵抗しても、強引に動かされる催眠もある(西山熱や川の鯉のぼりの件)。逆に、催眠加害者が種明かしをするまで気がつかない催眠もある(今書いている件など)。

そこで物理面・理論面から検討する。
◎結論:「横家・後藤…に(気が向けば)我が家へ来たら」と書いたような覚えがあるが、それは完全に🥴催眠と分析された。

主たる理由:この頃(1985年頃)、我が家の実家は母と父、それに祖母だけとなっていた。だが、母はこの年には93歳で、体調が悪く母が面倒を見る必要があった。実際に、両者招待?の件の3ヶ月もしないうちに、祖母は1985年7月に亡くなる。ちなみに、本当に横家・後藤が両方でこられたならば、寝る場所・食事…その他の対応は母がすることになる。この1985年は無理である
母に依頼することもできない。

1985年1月に🛵おじょう(田中さん)が我が家へ来たと言っても、1時間程度しか滞在せずに、鳥取か、奈義の菩提寺かどちらかに行っている。一時間の滞在と宿泊を伴う滞在は全く違う。近くに国民宿舎はあったが、予約問題で簡単ではなかったかもしれない。
現実問題としては不可能である。

同時に、横家・後藤は充分どころか、まだ全く知らない人である。逆に、私が彼女らの実家に招待されたならば確実に断っている。これらより、これは催眠と断定される。


ちなみに、1974年🎎お嬢(カマタさん)のときは、別棟で祖母の面倒は同じ家にいた従兄弟と伯母がみていた。祖母もまだ81歳でもある。
我が家の方は〈時期が夏休み、まずお盆頃のはずであり〉母と父、姉と私がいる。すると、宿泊その他の準備は姉と母に頼める。
しかも母はその頃は50歳前後である。


また、🎎お嬢(カマタさん)の話相手は私のみか、姉と従兄弟が対応する。教育問題、社会問題、人権問題、婦人問題…で、お嬢と姉(小学校や中学校教師:大学時代は婦人問題研究部)や同じ家内の女性従兄弟(高校教師:自治会運動もやっていたよう)とは話が合う。

更に、昼間は湯郷の集会(岡映氏が来ることもある)、夜は集会場近くの隣保館で老人の話、その後の僅かな時間ですら、(私抜きでも)姉と女性従兄弟がいた。

そして、その集会・会議〈この集会・会議は確か、私が高校部落研究部に所属していたときに、「県北五校交流集会」として、私も中心となり、単車で幾つかの高校を訪問して作ったものである〉には姉や女性従兄弟、ときには私の長姉も見学に行っていた。ただし、1974年頃は長姉は大病をしており、実家に戻れる状態ではなかった。
🎎お嬢と姉たちは話は結構あっていたと思う。


話相手に不足はもうなかろうが、それでもまだ話相手がほしければ、🎎お嬢の一学年上の小島さん(お嬢と同じ関学文学部:歴史関係のクラブにいたと思う。お嬢とも知り合いの女性)に声をかけることも不可能ではなかったかもしれない。小島さんは、私とは高校三年間はクラスが同一、大学は学部は違うが同じ関学に四年間いた女性である。美人と言えばこの人(小島さん)が美人で(美人と書いたで!)。〈この一言追記で、偶然会ってももう大丈夫。否、高校の卒業アルバムを見れば分かるが本当に目に付くような美人である。〉


小島さんと私との会話で覚えているのは以下である。

高校時代、体操の時間の後か前に服を着替えようと思った。だが、彼女がいた。たまたま二人だけだったような気がする。
そこで、私が言った。「服を着替えるので、外にでてもらえないだろうか」と。
すると、彼女が驚いて言った。

「え~。浜田君でも恥ずかしがるの」と。
これが高校時代の私のイメージである。
ちなみに、その後、私は早大大学院(政治学研究科)に進学し、小島さんは関学大学院に進学した。今は海外で何かをしているようである。〈2024/09/05追記:彼女は聡明な女性であり、私は長姉にパチンコで鍛えられ、ギャンブルが強かった。それが関学に進んだ理由の一つであろうか。∵クイズ式、択一式入試=ギャンブル。〉

〈(2024/09/05追記)小島さんは本の少し変わった所もあり、理由を告げれば来たかもしれないし・来なかったかもしれない。もっとも、彼女は言うであろう。「浜田君ほど変わってはいないわ」と。

また、お嬢と小島さんは知り合いではあるが、どの程度の関係かは知らないので、何故、小島さんの名を書いた(🥴催眠で書かされた)のかは不明である。ただし、私の関学時代の「笹山の先輩」が🧜お嬢(Miki)を絶対的に強調し、次に、水俣でであった女性と🛵おじょうは同一と示唆したが、何故か(笑いながら)小島さんの名を出した覚えがある。ちなみに、小島さんは🛵おじょうの育ての親の当時の現住所と同一の町に住んでいた。

私との関係は、縁が長いと同性化するという感じに思えた。〉

だが、姉等もおり、かなりの強行軍でもあり、彼女への声かけなどの必要性はあるまい。またお嬢と仲の良い女性(私も知っている女性)が岡山県の県南(邑久町だったであろうか)にいたので、そこまで送ることもできた。〈我が家から車で1時間以内で行ける場所である。〉


当時の構想では、早朝から夕方まで湯郷での集会と会議、夜は隣保館で話を聞き、我が家へは深夜帰宅となる。その上、姉と女性いとこが会話するであろうから、私は邪魔者で我が家での会話にすら参加できなかったかもしれない。

🎎お嬢(カマタさん)を招待したのも催眠であったかもしれない。理由は、お嬢が私を彼女の実家に誘っていたら、私は断っていたかもしれない。何故ならば彼女には彼氏(私とも友達)がいたからである。
それとも、お嬢を誘ったのは、水俣集会同様に、お嬢にとって生涯を通して、貴重な経験をする機会であると催眠抜きで考えたのかもしれない。何故ならば、彼女は私の親友に近いともいえる友人だからである。
しかも、物理的に受け入れ条件は十分にあった。横家と後藤については受け入れ条件はなく、祖母の件などで対応や準備は物理的に不可能であったとしか(今は)思えない

どこからどこまでが催眠か不明であるが、1985年の一学期(4月~6月)に誰かを招待することは確実に近く無理であったため、1985年の件は催眠と断定してよかろう。

なお、今回の(A)の後半と(B)(C)は当初下書きには全く なかったし、後に追記した一太郎の追記原稿にも当初はなかった物がほぼ全てである。催眠誘導で思い出さされ書かされたものである。だが、それが催眠誘導とは2024/09/01まで気がつかなかった駿台講師時代の横家・後藤の件はこれと同様の催眠であった。

〈9/5: ただし、西山、岡山の滝沢・吉田と異なり、催眠熱はなかった。(全く性格・生き方も不明のため)通常の女性熱もなかった段階である。控え目に書けば、容姿は🛵おじょう(田中さん)と同一・類似である。〉


次に(D)で記す「合同食事会」を言いだしたのは私であったか・どうかは未だに分からない。覚えていない。横家か後藤に尋ねて、もし、「そうである」と言えばそうである。彼女らに聞くのが一番早い。常識的にはお金を私が(全額)負担する以上、私が言い出したと考えただけである。私が言い出したか・否かの記憶はもはや全くない。

〈(Bの)📢★★★📢からここまで、当初書く予定がなかったものを催眠強制記述箇所終了。特に、(B)~(C〉である。催眠完全誘導記述箇所の開始箇所にも📢★★★📢〉記号を打っている




(D)駿台京都校2号館合同食事会


年表29: 合同食事会(本題)
【合同食事会】合同食事会の提案を誰がしたのかは、2024/08/31改まって聞かれると、覚えていない。(私が全費用を持つならば当然)私であろうとの推定(想像)で、もし、それが事実ならば動機は下記の通りであろうという解説を以前していた。


下記の文書は最低でも2019年頃から一貫して書いている内容である。
(参加メンバーと構想)

(もしよろしかったら、♨(温泉)もあるし、二人で遊びにきたら…という)上記の関係か、みんなで昔よくやっていたようにパーとやろうと思ってか、駿台京都校1号館での気まずさを吹っ飛ばすためか忘れたが、合同食事会の計画を立てたのであろうと想像される。

男女、未婚・既婚を問わずに大勢で食事に行く計画である。🚹男性の岡田課長も参加が決まっていた。
女性の人選は横家さんに一任した。そのときに、某女性(名前は覚えていない🚺女性)が「私、結婚しているのですが(違っていれば婚約しているのですが)、参加してよろしいですか」と聞いたので、「どうぞどうぞ…喜んで」と返答していた。実際に男子職員も来てくれた方がよかったのであるが、幹事が女性のため女性ばかりになったようである。ただし、岡田課長だけは私が同伴をお願いした。
こうして、合同食事会のメンバー集めは進行していた。

合同食事会のメンバーは横家さんに一任して、お金だけ全額、私が払うとしていた。思えばあの頃は金があった。大阪校に異動した後も、夜間コース10数名ほど全員をつれて飲みに行ったこともある。お金は私が支払ったはずである。

当時決まっていたのは「🚹私、🚹岡田課長、🚺横家、🚺後藤、🚺近藤、🚺既婚女性●」であったが、後数名増えるような気配であった。


この種のことは私にはつきものであった。兵庫県西宮市教育委員会時代に、大社中学校郊外学級では女子生徒の一人が「先生、みんなでどこかへ行こう」といわれ、その気になった。人選はTという女子生徒に一任した。
彼女が男子生徒にも声をかけてくれたが、その生徒は遠慮したいと言ってきた。結果として、女子生徒ばかりになり弱った。そこで男性のカミキ先生に、無理を言ってお供をお願いしたことがある。行き先は箕面である。箕面では猿が大量にでてきて、暴れて、女子生徒が怯えて弱った覚えがある。

カミキ先生にそのときの参加者(10名以上)と一緒の写真を撮って頂き、丁寧に、我が家まで何枚も送付してきていただいた。ところが、その写真が長期行方不明になっている謎がある。


当時、大社中1年(サブとして大社中学3年)と浜脇中3年(浜脇中学1年もたまに担当)の郊外学級担当をメインとしていた。客観的に言えば、相当人気があったが、我が村(岡山県美作市位田)を中心に、真逆のデマが後にとんだ気配があった。浜脇中学3年の女子生徒は校外学級が終わった後で、毎回3人で私のアパートに遊びにきていた。遅い時間であったが…。


真備高校も同様(かなり人気があったの)である。大社中学校校外学級1年や一部三年、浜脇中学校三年校外学級の生徒などに、当時の生徒はほぼ全員が生きているため、今、すぐ直に聞けば分かる。真備高校でも同様である。2年7組から9組の生徒などは覚えていよう。また2年1組や2組でも、通常である。誰が、何の目的でとばしたデマであろうか。特に大社中学校1年や浜脇中学校3年の生徒はよく懐(なつ)いていた。


大社中・浜脇中などの担当100名余りとは別の、教師か教育委員会から依頼されたと思われる、担当外の悪戯電話生徒(噂では小学校時代は生徒会長等の本当は優等生)だけを、2000年以降強調され続けた謎がある。何故悪戯電話かは、🎬映画説の話題提供(視聴率稼ぎ)のためであり、主たる実行役は悪戯電話をしていた生徒のすぐ側にいた男性教師としか分析できない。🎬映画説→西宮市教育委員会→電話のすぐ側にいた教師→悪戯電話生徒の図式である

また、西宮市教育委員会を大学院進学準備のため辞めたが、実家に引っ越しの少し前に、長姉が危篤となり、大慌てで大阪にかけつけた。そのときに、国鉄西宮駅で、大社中学の生徒何人かにあったが、姉の件で狼狽しており、無視するような形となった。病状は一刻を争うと聞いていたからである。当時の生徒はここで何か誤解をしたかもしれない。

また、長姉危篤の電話がある直前は昼寝をしていたが、長姉の夢をみた記憶がある。映画説・私の姉(特に長姉首謀者の一人)の証拠であろう。なお長姉は今も生きており、ろくでもない画策をし続けているとしか思えない。目的は🎬映画視聴率のためであろう。言うまでもなく、親や兄弟姉妹であっても、暴力該当や人身売買は大犯罪である。

更に、この頃、私が住まいとしていたアパート(西国ハウス)は兵庫県西宮市櫨塚町(はぜつかちょう)にあった。ところが、(我が家の住所番地を70年使用していた)Z家の次男Z2が10年ほど前から神戸かどこかから西宮市櫨塚町に移動して住んでいる。また、当時の生徒のかなりの子供が住んでいた集合住宅に、我が村(美作市位田中田組合)の勝さん(数年前死去)が移動した奇妙な偶然もある。

東京時代も、飲み屋・孔雀青年部で二度ほど秩父に合同での宿泊パーティを行っていた。自治会やクラブの合宿とは別のアッケラカン型・型抜き「無礼講バーとやる会」である。
私にすれば、合同食事会は昔よくやっていたことの一つでしかなかった。


この会の前後に、岡田欽之(駿台京都校二号館)課長から、駿台女性と付き合いたい場合には、必ず岡田課長経由で行い、直接には行わないという確約をとられていた。
しかし、見合いと言っても、後藤さん・横家さんが、私に関心を持っているとしても、どんな人か全く分からない。それ以上に本当に関心を持っているか・どうかも不明である。もし、私に関心がないのが事実ならば、彼女らと見合い検討どころか、彼女らを女性として見ることは百バーセントなかった。これだけは明白に言い切れる。
横家か後藤との見合い自体を、漠然と考えていたのは1985年の冬頃に、ある程度情報が入った段階で見合いの打診をしてもらうか・否かでしかなかった。勿論、見合いなしもあり得た。


この食事会について七点記す。

一番目・この食事会で婚約者有無、彼氏の有無などの情報が入れば何かの役に立とう。
これは実話であるが、真備高校の教壇に立った頃、かわいらしい女の先生がいた。もっとも小憎らしいような所があったが。私と最終的に一番よく口をきいた女性(サトウさん)である。顔は美人類であろう。
それでは、何故、その女性にアタックしなかったか。


宴会の席で彼女が私に言った一言が全てである。
「言っておくけれどね、私は結婚しているのよ。学生結婚をして、彼も今、岡山県の◎女子大学で教えているの」と。
これは貴重な情報である。彼女は確か東北大学を卒業して即真備高校に来たと聞いていた。
この情報は貴重であった。おかげで彼女に女性熱をあげることもなく、会話もそれを聞く前よりもしやすくなった。確か。いつも職員室での席は私のすぐ近くにあった。

合同食事会をすれば、同様に。既婚女性から「浜田先生、横家には彼氏がいますとか、後藤には彼氏がいます」という情報が入ったかもしれない。これまた貴重な情報である。食事会に行って、後藤さんとか横家さんと会話ができなくても、大変重要な情報となっていた。こう言う情報は独身女性よりも既婚女性から入ってくることが多いような気がする。

ちなみに、横家さんがこの年の夏に婚約をしたといっていたが、もし、この食事会でそれを言えば、私は必ず言った。「本日は、横家さんの婚約祝いを兼ねての食事会です。みなさんで祝福しましょう」と。本当に心から祝福したであろう。後藤さんでも同様である。


丁度、1985年春頃に、生徒担任の関係で会話をしていた植野さんが婚約をしたときと同様に。このときは確か二号館講師室で、東京鬼子母神の手作りの木菟(みみずく)を結婚祝いとして手渡した覚えがある。
1985年度のおかしなゲーム雰囲気とは異なる形で気持ち良く、心から祝福をしていた。和田アキ子が婚約したと聞けば、森繁久弥氏が心から祝福するのと同様である。

横家さん・後藤さんには、催眠でも熱がかかっていなかったため尚更であった。そこが西山との違いである。罠型ではなく、通常の形で婚約などを聞けば祝福だけであった。これは本当である。


第二は生き方と性格などの情報についてである。
横家さんも後藤さんも全く生き方も性格も何も知らない。勿論、西山さんも知らない。
こうした情報も含めて、性格や生き方を知るためには、一度、大勢での食事会も悪くなかろう、くらいであろう。


食事会に行って、女性は女性、男性は男性で会話や食事となる可能性もあった。それでも情報は入る。岡田課長から「後藤さんは……という性格で、横家さんは…という性格をしています」ということなども聞けるであろう。両者ともに性格は白紙状態のため貴重な情報となっていた。
実際に、私と岡田課長とで会話、女性は女性だけではしゃぐ可能性は高かった。しかし、はしゃぎ型でも、駿台内での講師(商品)と職員との関係ではないため、かなりの情報が得られたであろう。
ちなみに、駿台での催眠による女性熱は西山のみであり、横家さんと後藤さんには催眠でも熱はかかっていなかった。


第三に駿台外で見合いを何故しないのか。
常識的にはそれが一番良い。だが次の問題があった。
当時、こう思わされた。見合いをしても良いと思えば断られ、断ろうと思えば相手はよってくる。これでは話にならない。そこで、横家さんか・後藤さんが本当に私に関心をもっているならば、どうせ見合いをするならばそちらの方が成功率が高いのではないか、と。関心を持っているのが嘘ならば、そうした演技はやめてもらわないと困る。それは詐欺の一種である。否定するならば、(9)番を読めば、それよりも悪質なことをしていたことが分かるであろう。

他に見合い該当を考える人がでてきても不可能となる。同じ職場で何人も見合いなどは余り好ましくないからである


見合いでも、同じ職場では横家さん・後藤さんとの両方と同時にはできない。そこで、見合いはどちらか一人としなければならない。だが、性格も生き方も全く知らない。それどころか婚約者や婚約者該当の有無も知らない。
ともかく、情報はあった方がよい。
両者からでなくてもよい。彼女らの知人からでもよい。

次に、私の恋の指南役お嬢(🎎:カマタ)が言うには、「🛵おじょう(田中)とは別れるかどうかの正式な会談はせずに、自然消滅が良い」とのアドバイスであった。そこで、🛵おじょう(田中)の件があり、別れるという明快な話をしていないため、駿台外での見合いは不可能となっていた。自然消滅ならば最低でも一年程度は必要である。復縁も理論上は可能であるが、当時の雰囲気では可能性は低いように思われた。それもあり、岡田課長への打診は早くても1985年冬頃を検討していたような覚えがある。早くてもである。勿論、「見合いなし」の可能性もあった。
今度は急ぐの逆であった。


四:見合いなる物について。
もし、後藤さんと横家さんが別の職場ならば、こういう場合には見合いのため連続しておこなっても良い。しかし、同一の職場のためにできないと思わされていた。


固い見合いの場合には、岡田課長若しくは岡田課長夫妻、私の両親と私、相手の両親と相手の女性で行うこともある。二回目からが見合いのお付き合いとなる。私はCasual派のため両親同伴は私の側はしない。相手の方はご自由にとなる。なお、出自等は一切きかないし、調べない。これは記述の必要性もない。その種の情報は不必要であるし、同時に犯罪でもあると考えている。

一回目は単なる情報交換の場である。だが、その一回目以前の話であった。

こうして、催眠連続と挑発で思考力を欠如しており、幾多の判断を誤っていたようである。
迷いに迷った。見合いどころか、見合いの打診(見合い以前に断られることもあるため打診段階である)を岡田課長に依頼するとしても、どちらにしたらよいのか、と。世界の歌の選曲以上に迷った。何故ならば、両方とも、生き方どころかどんな性格かも全く知らないのであるから。

容姿は、後藤さんも、横家さんも、🛵おじょうも同一でしかない。西山も類似も、私の好みの逆で、催眠軽度前はNOと言い続けていた話は既に記した。それならば回答は🛵おじょう(田中)で決まりである。それでは🎬映画も駿台も、準備がご破算になり、困るということで🛵お嬢の演技で破綻となったのである。


五:両方潰(つぶ)れたならば
(居酒屋)孔雀青年部で言った秩父は楽しかった。だが見合いではない。(合同見合いではなく、合同食事会であるため)同様である。
実際にその可能性はあった。


見合いの一回目で、諸条件でご破算となった可能性もあった。それどころか、岡田課長にお願いして、どちらかに打診してもらうと、「いや、浜田先生、お気の毒でした。彼女には彼氏がいるので…と断られました。先生に、くれぐれもよろしくとのことでした」と会う前に断られていたかもしれない。
もっとも、話をしてみて、「これでは…」と私の方から断ることもあったし、合同食事会で本性を見て、これでは見合いの打診前にやめておこうと思ったかもしれない。全く、性格も生き方も想像がつかない女性達であるから。


再度書けば、見合いではないが、秩父へみんなで行ったときは楽しかったし、思い出に残っている。だから、品評会ではなく、合同食事会と書いている


六:合同食事会
上記の如く、私の内心の暴露は見苦しい。見合いのための情報…は解説してはならない。契約は合同での「バーとやろう食事会」である。よって、本来は見合い…なる解説はしてはならなかった。


七:痛恨の極み
(8)で記す「西山好きな振り第三段」の関係でややこしくなり(これ以上ガタガタされたならば授業が手につかなくなることを恐れ)、この合同食事会は流した。これは大きな誤りであった。未だに後ろめたさとなっている。これは人間として、良識人としてよくない。


簡単に言えば、横家さんや・後藤さんが途中で結婚しても、約束は守らなければならない。割り勘ならば流すことはできたし、さほど問題はない。私が全部支払うという条件での食事会は(8)で記す内容でのご破算は良くない。
ご破算にしても良いのは、私が大病を突如したとか、我が家の両親が大病や危篤となり、それどころではないという大義なくしては約束は守るべきであった。横家も人選をしていたのであるから。

大変失礼なことをしたと今でも反省している。これが唯一の汚点であった。
それ以外はどうでも良いことである。

なお、横家さん、後藤さんとの件がパーになったならば綺麗な形ならば問題は一切なかった。まだどんな性格の女性か、生き方がどうなのか、共稼ぎ志向かどうか、オウム真理教などの新興宗教などにかかわっているかどうか、相手が養子前提か否か、それ以上に真備のサトウ先生ではないが、婚約などをしているかどうか…何も知らないからである。西山の如く、催眠での女性熱もない。


(8)「西山による好きな振り詐欺…第三弾」の件を気にして見合いが不可能となれば、今、考えればある意味で(人生の目的であった「授業に専念できる」という意味で)せいせいしたと思う。見合いは駿台外ですれば良い。当時は、駿台外でも良い女性がどんどん出現していた頃でもあった。

私の方も横家さん、後藤さんがどんな人かしらないため、余り大きな問題ではなかった。

当時は催眠で揺り動かされており、催眠型で意味不明の動揺をさせられた(もう、女性は今後一切登場しない型催眠などでの動揺)かもしれないが、当時の状況を客観的に分析すると意味はなかった。

思えば、関学時代から、🎬映画説の関係で、膨大な女性が登場していた。過去との違いは、それでも揉(も)める(正確には危害を受ける)ことは一切なかった。更に、駿台外の女性(高校から大学時代の友人女性)の大半かほぼ全員と友好関係にあり、未だに双方そう思っているはずである。

(2024/09/05 10:24 記載)

もし、彼女ら(駿台京都校講師室係🚺四人組)に良心がのこっているならば、「人間違い」を明確にすることが、問題解決に一番早い。

何故ならば、駿台経営陣や🎬映画説の命令のみでは、人間の良心の抵抗があろう。好きな振り詐欺のみか、後に、大刑事事件に誘導する戦前型謀略事件への協力は、私ならば一億円積まれてもしない恋愛詐欺・好きな振り詐欺ですら無理である。だから、怨念(おんねん)が絡んでいたとしか思えない。私には心当たりが皆無のため、友人が指摘した、世界の首脳が示唆した、彼女らの行動分析は人間違いが唯一の回答となる。

なお、問題解決とは、「目には目を…」が許されぬ限り、駿台等の自主的な適切な(私への)賠償を意味する。

契約外労働・強制労働・刑事犯罪事件への事実上の協力、業務妨害、一部の具体的契約違反…更に(故意にやられたと結果としてなっている)健康危害…(催眠加担)奴隷労働等々に対してである。場合によれば、結果として人身売買危害(駿台真相編06で一部分かろう)である。

1987年に、裁判を考えたが、今考えても適切な判断であった。これらは駿台真相編07で記す。

 

次回、駿台真相編05-4㊥1号館すきな振り詐欺3段と2号館、その後㊦2号館と支離滅裂の日々として記す。今回は上記まで。

2024年9月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA