教育・女性をめぐる各種デマへの反論(回想録兼用)―1・西宮市教育委員会で勤務した経緯。
【掲載履歴】
2021/05/25 8:18下書の一部を掲載し下書段階で公開
2021/05/28 5:33公開準備中:下書の半分から1/3掲載。また全体は2~3ページ予定。
2021/05/29 18:58 当初のタイトルは「教え子回想―(西宮市教育委員会時代編)」であったが追記内容が暴走し、教育論と回想録となり、同時に西宮市教育委員会勤務時代については全く記述ができなかった。次回記述予定でいるが、催眠類でどうなるか不明である。
2021/05/29 19:34 正式公開 20:07 一部追記と微修正。 20:28 松本龍氏の箇所がおかしな誤字 菅直人内閣→菅直人…威嚇…とおかしな誤字に改竄された疑惑あり、20:28訂正。
20:30 また【記述予定内容】の⑤と⑥がひっついていたので今修正。誤字修正→20:50。
👧回想ではあるが、今回は👧(女性)回想ではなく、👧👦(女の子・教え子)回想である。
1975~76年の話である。敢えてする必要はないが、何か、ここでもデマが飛んでいる気配がするため、また思い出として記録の意味もあり書いておこう。
…《中略》…
(後は後日、登場人物の実名を略号に置き換えてから掲載・現在、他者による改竄防止・丸山和也氏…の例回避上OneDrive等に保存中)
上記は2021/05/25 8:18であるが、2021/05/29予定を大きく変更し、タイトルも変更となった。内容は前回の下書への追加で私の回想録と教育論となってしまった。
下記は本日(2021/05/29の内容)
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教育・女性をめぐる各種デマへの反論(回想録兼用)―1・西宮市教育委員会で勤務した経緯。
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(序)今回の原稿の目的。
デマが横行している。
駿台講師時代に某教師が「火のない所に煙はたたない」と私に聞こえるように言った。
だが、逆である。煙も立つはずのないことを陰で言われると、こちらはそのデマに気づくのに膨大な年月日がかかる。
なお、この講師と私とは対立関係はなく(特に奥さんも駿台講師であり、教師としては好感を持っていた)、単に、軽い弾みで言ったのであろう。当時、関西地区で尤(もっと)も有名講師であった。
ともかく、私に関するデマの気配はその逆手(さかて)をとって一貫して行われている。
そのデマには幾つかの形態がある。
A)私の通常の方針と逆の話。
するとまさかと思うため、そのデマには十年以上気がつかぬことがザラとなる。(例:お金の問題。私はお金にかたいというよりもかたすぎるといわれた人物である。)
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B)他人の言動や行動を私に押しつけられているケース。
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C)全く意味不明で、まさかと思う事項。
柿の話などは未(いま)だにデマが飛んだのか・とんでいないのかも不明。墓付近の水道もである。これが膨大にある。
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D)催眠を悪用したデマの元。
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そこで、(1)今回は西宮市教育委員会勤務時代でのデマの話、更に、(2)それとの共通点で駿台🚺NM熱、(3)また後に不可解な女性🚺登場の話(後に偽者かという事件)の三点を記す。
今日は(1)以前の教育委員会で勤務するようになった経緯である。同時に、回想録を兼ねてもいる。私が大学時代に何故就職活動を一切しなかったか、大学とは何かという教育論でもある。
ともかく、催眠類も含めて、脱線するようである。本日も、突如追記で、奨学金・授業料無償化条件などを書かされている(重要ではあるが、本題から外れている。)
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【記述予定項目内容】
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①西宮市教育委員会時代に関するデマの気配(私の逆差別や差別を防止する行為が、称賛されてもその逆はないはずであり、実際に同和地域の父兄は喜んだが、どうもデマが飛んでいる気配が20年以上ある。生徒の多数も同様…に歓迎…ごとが。)
②同教育員会勤務開始直後の不可解な事件。{悪戯(いたずら)電話事件の真相。}
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③これに関して、後に松本龍氏を催眠で連想させられた謎(私は彼の名前や顔は菅直人内閣成立《2021/05/29 20:27ここがおかしな誤字となっていたので今修正》直前まで知らなかったのだが。)
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④どの職場でも勤務するや直後の不可解事件は毎回ある。真備高校でも、駿台予備学校でも。
⑤駿台予備学校での不可解事件は駿台🚺職員NM熱を突如催眠で熱を上げさせられた謎。(川の鯉幟(こいのぼり)撮影同様に何度も拒否したのに)。何故、私に催眠をかけてでも🚺NMに熱をあげさせる必要があったのであろうか。
⑥同時に、揉(も)めたが、私が駿台を辞めても、🚺NMが駿台を辞めて結婚しても、まだ引き続いているとしか思えぬ謎。この謎を今度は別の角度から検証。
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⑦同和問題が臭わされる謎(全く意味不明?)もしそれが事実ならば、私の過去の行為は部落解放運動をしている人間に称賛されてもその逆は一切ないはずである。何が何やらさっぱり分からない。
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⑧能開大での労基法違反と健康被害に関する賠償交渉を開始すると、何故が、駿台時代の年号に改竄(かいざん)される謎。(例:能開大辞職は1998年1月と記すと、後に1987年1月に改竄されていた。後者は駿台を辞職した年である。)
※西宮市教育院会時代(1975年度頃)は同和対策部は出世コースと言われ、同対策部の担当者になると、次は校長か教頭と友人が言っていた。
なお、関連して、ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)で労基法違反をした世鳥山清氏は、私が調査を本部に依頼した後はトントン拍子で出世の謎(能開大四国学長、本部勤務…)。
全体として何が何やらサッパリ分からない。
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⑨偽者事件。
私の危害の本質が偽者・人間違いであったという人が多い。何のことかサッパリ分からない。ただし、後に、私以外でも幾つもの偽者が登場したため、👧回想(回想―6を指す)の件ももし、これが偽者ならばはっきりと真相を語ったるに決まっている。本物ならば本人に任せる。大変信用できる人であるから。だが偽者ならば、催眠部分などをきっちり指摘した方がよい。
なお、出来事自体は中学レベルの話であり、たいしたことはないが、他方、握手でもハグでも強要した場合には大した話(問題行為)となる。後者に地位が絡んだ場合は立派なパワハラで処分対象となる。その視点(握手・ハグですら駄目という相手に強要するのは問題が大きいと思う)から、はっきり書いた方がよいかと迷っている。
偽者ならば話ははやい。ありのまま書けば即座に何もかも分かる。
本物でも本人が一部知らないならば記述した方がよいかもしれないし、相手の幸福追求権…への配慮と迷っている。
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上記の👧回想は下記を指す。
👧回想―6・(大学5)[№227]:関学時代5・🔏を握る👧登場
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1465/
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特に1987年に何度か会った元教え子?(未成年ではないどころか駿台講師室係女性とほぼ同い年)は後には偽者としか思えないからである。
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本来は、これら全ては国会か裁判で真相解明をすべきである。特に、雇用促進事業団(後の雇用能力開発機構、今の高齢・障害・求職者雇用支援機構)の職場だからである。私が勤務した当時は重要事項は衆議院・参議院を通してしか決まらないと言われた職場(当時は労働省系大学校)のため、国会での調査依頼を国会議員・政府に書留延べ百部送付しているが、前に進まない。本年再度依頼を検討中である。
国会で、偽証罪が通じる形で、ガラス張り(プライバシー以外は全て全報道機関に内容開示して)で真相を解明するのが筋と考えている。同時に私への賠償も。
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もう少し事情が分かれば駿台予備学校にも調査依頼を出すことも検討する。
過去の被害では、適当に私に関してデマを言い、事情が分かりかけると、逆に私の口封じに入り、何もなかったことにしようと何度もされた。私は一貫して、裁判所とか国会でしか問題は解決しないと言い続け、厚労省が絡んだ以上、国会での決着を望んでいる。
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《◇―1・西宮市教育員会嘱託になった経緯》
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大学時代は、アルバイト三昧、自治会再建運動、一時はクラブ(婦人問題研究部)、それに同和地域の子供会に参加していた。おまけに、関学とは別に高校部落問題研究部のOBとして、部落問題研究全国集会などにも参加していた。さらに、ゼミで鍛えていただいた。
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一番忙しかったのは大学二年(昭和47年度:1972年度)である。バイトは宝塚ホテルで一日おきに行っていた。ローテーションがあり、一日目は18時頃から仕事で、22時就寝、午前4時おきで午前8時頃まで仕事、次は午前0時就寝、午前5時半起きで午前8時まで仕事、次が午前2時就寝で午前8時起床、その次が午前4時就寝で午前8時起床である。この仕事を約1年行った。回数は一日おきであるが、夜に行って朝帰るため連日とも言える。
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このバイトの前が寿司屋で巻き寿司まき、その前が文字通りのどかたやプロパンガス配達…などである。
別にクラブが週三回、自治会再建運動が当時全学部のリーダーで百分以上の会議類のみで週4回+α、別に子供会をボランティアで週1度(半日潰れる)、それ以外にビラまき、ビラの印刷…。またクラブの合宿、自治会再建関連の合宿…おまけに、この頃は教員免許で社会科と英語の両方をとろうとしていたため履修科目がすごい数であった。
さらに、その合間に高校部落研究部OBとして、関学とは別に幾つかの行動をしていた。先の子供会(国鉄西宮付近)も関学とは別のサークルである。
大雑把(おおざっぱ)に言えば、クラブから授業を含むと90分授業換算で週に60コマ以上となる。別にバイトと移動時間である。授業の大半を最初に捨てた。
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読書は毎月10冊以上を目処(めど)としていた。当然できる訳がなく、クラブも子供会も辞めた。自治会再建関連のリーダーも、当然できる訳がなく、大学三年になると同時に(若しくは大学2年末に)退いた。またバイトも変更した。宿直関係に切り替えた。
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自治会再建運動のリーダーも、最初から時間的にできる訳がないが、一種のだましうちと、もう一つは大学一年の頃に正当防衛権の名の下に、ヘルメットをかぶった学生と(女性を除く)百人対百人程度の衝突事件があったため、馬鹿なことを辞めさせるためやむを得ずなったという経緯がある。
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この件は拙著『旅に心を求めて―不条理編(下)』(Kindle、KOBO各百円で発売中)に書いているが、私は命のもてあそびと解釈し、二度とこうした衝突を起こさないため(阻止するため)、やむを得ずリーダーとなった。
予定された集団での正当防衛権は私は私闘と解釈してすべきではないと考えている。これらが、後に党派中立・宗派中立の前提となった。泥棒に突然襲われるのとは事情が違う。私が指揮したのは非暴力派の自治会再建運動であるが、正当防衛権の名で当時は予期された大集団での衝突の回避は(私がリーダーになる以前は)せず、容認していた時代であった。
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私は予期される形での集団正当防衛権の名の下の武闘対立は(百人が武装して襲ってくることを前提に、百人程度でそれを暴力で阻止することは)、非暴力と相容(い)れないと今でも解釈している。昔のアメリカの各地域や日本の戦国時代(七人の侍時)とは時代が違う。
それではどうするのか。粘り強い警察などへの取締り依頼・要請と80~90%な学生が参加しているならばブーイング類のみで衝突事件の回避であり、その程度の学生が参加していない場合にはそれ自体が問題であり、自治会などは時期尚早となる…。詳細は別の原稿で回想しよう。若しくは拙著『旅に心を求めて・不条理編(下)』(Kindle、KOBO各百円)を参照してもらいたい。この本(電子書籍)は2015年発売であるが、その考えの文書化は1988年頃、学生に配布したのが1994~97年能開大などである}
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それでも自治会再建運動は――家からの仕送りは最高月五千円、奨学金が月五千円のためアルバイトや、後藤ゼミで鍛えていただいたことや、高校部落研OBとしての各種催し参加を大学4年頃まで続けていたが――リーダーを辞めた後も、細々と、継続しておこなっていた。通常はバイトと教員免許取得、それとゼミで手一杯である。ちなみに、生活費と研究費は大学1年の頃は月3万円程度であったが、インフレで大学4年の頃は月10万円近くとなっていた。その数値からバイトの分量が分かろう。
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当然、何かを犠牲にしないと生活は不可能である。そこで就職活動を犠牲にした。関学の就職科がどこにあるのかも知らなかった。一度も行っていない。しかし、妙なもので、私自身は就職活動は一切しなかったが、私の人柄を見込んだということで、新日本製鉄であったか、そこで正規職員としての仕事などが舞い込んできた。仕事は職場に学校があるのでそこで教えてほしい。待遇は正規の職員として迎えるであったと思う。
教員志望のため断った。しかし、教員採用試験の勉強などできる訳がない。実際全くしなかった。卒論などの方に没頭した。
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また、この頃長姉が大病で入院していた関係で手伝いにも行っていた(その数年後に死亡した)。そこで、大学4年の頃に兵庫県で起こった八鹿高校事件などは一切現地見学にすら行けなかった。だが、採用試験の勉学も一切していないため、どのくらい忙しかったか分かろう。
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こういう訳で、就職活動は一切しなかったし、採用試験の勉強もしなかったため、どうなるのだろうかと思っていたならば、友人(先輩)が、「西宮市教育委員会同和対策課で指導員の仕事があるので来るか」と声をかけてきた。
こうして無試験で西宮市教育委員会の嘱託となった。賃金は正規の教員とほぼ同一額であった。また夏休み・冬休みもあり、その賃金も全額保障され、ボーナスも正規教員とほぼ同一額、また(共済年金ではなかったが)厚生年金(国民年金以外の年金掛金はこの一年間のみである)、健康保険も完備されていた。
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(後は後日、登場人物の実名を略号に置き換えてから掲載・現在、他者による改竄(かいざん)防止・丸山和也氏…の例回避上OneDrive等に保存中)
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(2021/05/29:参考追記)
就職活動について。私は大学生は就職活動は一切すべきではないという持論を持っている。少なくとも、奨学金などを受け取る場合には就職活動をせずに、勉学に没頭することを条件とすべきと考えている。ましてや授業料無償化を実施する場合には絶対条件と考えている。
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それでは就職はどうするのか。大学時代に懸命に自己の能力を磨き、その能力を一覧表と実証できる形でまとめ、卒業した翌年に自分で会社に「自分を雇ってくれ」と交渉することが筋と考えている。
学生の唯一の美徳は勉学に没頭することである。それ抜きでは奨学金や授業料無償化はすべきではないと考えている。
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これらの資金は大学に行かぬ人の税金から相当とり、それを費やされ、大学で麻雀と合コンで過ごし、一番研究せねばならないときは就職活動のみを行い、就職すると大卒の肩書で給料が最初から違うのは問題が多いと考えている。
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それではお前はどうしたのか。
私は大学時代は一切就職活動はしていない。それどころか教員採用試験の勉学すら一切に近くできなかったし、していない。そこで関学の就職課には一度も相談に行っていない。
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大学院時代も同様である。大学院時代は早大の政治各研究科でも就職あっせんや紹介があることすらしらなかった。大学院では就職の世話は一切しないことになっていると勘違いをしていた。そこでそうした就職活動への援助類があることすら、就職課があることすらしらなかった。
知ったのは2010年以降、大学院を修了して、寺島実郎(早大大学院政治学研究科修士課程修了)が三井物産に入社したという経歴を見て、不思議に思い調べると早大大学院でも就職の斡旋(あっせん)をしていることを知った。大学院を修了して40年近くなった頃である。
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なお寺島実郎氏は早大大学院政治学研究科の中でも、私と同じ内田満先生のゼミであることを数年前に知った。内田先生が亡くなられたときに、先生を偲ぶ会の招待を頂いたが、金欠と多忙で行けぬ(行かぬという不義理をしたが)、行っていれば寺島氏に会っていたようである。
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それでは就職ができぬではないか。
大学や大学院は就職をするためにあるのではない。
相手(企業)が自己の労働力商品を欲しがるように能力を身につけ、自分で自分を売り込めが私の考えである。
関学のときは、先の如(ごと)く、新日本製鉄正式社員の口を某人物から打診された。また、卒業一年目に模試変わりにうけた極東書店(最終面接は私と早大卒と金沢大卒の三人)やEECか何とかという会社でも合格の通知をもらったが、大学院進学準備のため断った。
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早大大学院修了後も売り込みである。大学院時代は就職活動は一切しなかったため、大学院修了した一年後の後半から、自分で岡山県に売り込みを開始した。すると、真備高校、ベネッセがつくっていた岡山進研予備校(後にこの学校の校長・尾野作次郎氏[岡山県で最年少校長記録保持者]にはかなりかわいがられるようになった)、倉敷の予備校から非常勤できてくれであった。
真備高校時代に本格就職活動を開始した。岡山県の井原高校からは「取りあえず…2年間専任でその後は悪いようにはしない」、駿台甲府高校採用試験は合格も、最後の話では取りあえず予備校に回ってくれ、その後は岡山中学(井上あさひなどの母校、今の岡山中学・高校)からは即専任で来てくれ、…河合塾もOKと(ただし河合塾時はうつ病を激しくした状態で授業不可能。そうでなければ牧野氏以上のスーパースターとなっていた)、その他…と結構あった。
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勿論(もちろん)、断られた学校も山ほどある。しかし、採用試験とは無関係に、自己アピール文を載せて問合せをすると結構返事があった。例えば、白陵高校創始者の三木さんに手紙を出すと、一度来てくれ、交通費も出すから、(それとわずかであるが日当もあった記憶がある)ということで兵庫県に車で行った。そして、兵庫県にある白陵高校で三木氏(写真から判定すると三木省吾氏と思う。時期は1981年の終わりか、1982年初頭と思う)と長い会談をしたことがある。
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残念ながら断られたが。原因のひとつが模擬授業が世界史であった(私は政経の教師であり、政経以外は社会科では倫社しかおしえたことがない)。また、非常勤講師をしていた真備高校でも在籍時に、一部の教員から見込まれていたため、専任にしてくれと当時の校長・金谷達夫先生に頼んだが(1981年後半の会談)、これから少子高齢化になるため、難しいと事実上断られている。そこで全戦全勝ではない。それでも、自分から売り込めば反応は結構あった。
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学生は奨学金を得たり、あるいは授業料無償化を要求したりするのならば、就職を犠牲にして勉学のみに専念すべきが私の持論である。そして就職活動は自己の能力を磨き、それを証明できる文書と証拠をつくり、それで直(じか)に企業や学校経営者に売り込めが私の持論である。私が文部科学大臣になると、日本中がびっくりすることが起こるであろう。だが、なる訳がない。立ちションもできなくなるから…(^▽^)。
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なお、真備高校は後に明誠学院と名をかえ、1998年冬に私に専任にと当時の予備校と我が家に電話があったが能開大の件で、精神疲弊をしており、行ける状態ではないので断っている。
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それでは何故今のような状況か、二つある。
一つは、上記に能開大グループ(労働省所管)が割り込んできて、「是非、専任できてくれ」と、当時の私の相棒(京大で博士号取得・京都外大教授、奈良女子大学講師等歴任。彼の父が某有名大学学長)者を通じて、誘いがあり、それを真(ま)に受けて専任詐欺に遭ったことである。これで全部潰れた。
二つ目は、これから徐々に記す、駿台予備学校講師の途中から営業妨害が慢性化し、その営業妨害で就職も起業も阻止されているとしか思えない状態が続いていることである。
それでは何故、営業妨害されるのか。私には心当たりが全くない。
また、何故か、西宮市教育委員会時代のデマが長期続いているため、まず、このデマを今回完璧に粉砕することにした。
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ちなみに、もし、私が岡山中学・高校{私を招聘(しょうへい)したのは桐山公雄校長}で就職していたならば、私は井上あさひを教えていたのであろうか。もし、白陵高校の模擬授業が世界史ではなく政経で白陵高校に就職していたならば、私は三木谷浩史君(楽天の創始者でいっとき岡山県白陵中学に在籍)を教えていたのであろうか。
世の中は面白いものである。
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なお、三木省吾氏は調べると昭和58年死去とのこと。教え子の手記では体罰も辞せずとの話が書いてあった。私と会談したときも厳しい話はしていたが体罰の話はなかった。私は体罰反対派である。
ただし、教師といえども、正当防衛権はあると考えている。生徒・学生が理不尽な形で暴力を振るってくれば、殴り返さねば仕方がない。特に高校生や中学3年生ならばそうなる。女子教師ならば逃げて警察をよぶしか方法はない。
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学内でも暴力は刑法208条などに該当し、学内は例外などの規定はないはずである。生徒・学生に体力があれば当たり所が悪ければ死亡したり、障害が残ったりするのである。当然正当防衛権などは不可欠となる。だから女子教師ならば必要時は防犯ブザーをならし、救いをよび、学校全体で毅然(きぜん)たる態度をとる必要がある。これらは体罰の逆である。
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だが、。一般には男子生徒、それも体が大人並みをさしての話であり、過剰防衛もよくない。女子高校の講師をしたが、女子学生には、私は性格的に無理である。腕力の差が大きすぎる。もっとも、浜口京子クラスならば話は違うであろうが。ただし、女子高校講師時代では、私に関しては正当防衛権の必要性も感じるできごとは一切なかった。
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私は正当防衛権以外の体罰には反対である。
もうひとつの例外は柔道の渇(相手が気をうしなったときにする行為)に該当する行為のみである。あるいは、生徒・学生の気が動転して(若しくは試合前に緊張すぎて)、本人自身が危険な場合に正気に戻らせるための医学的意味での行為のみである。柔道の絞め技の後での活(かつ)、禅宗での喝(かつ)などが例外となる。
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当然、条件反射ではなく、予期して教師集団対生徒集団での集団的正当防衛などは茶番である。
勿論、学校の教育には存在しないが、大学紛争当時は集団での正当防衛権論なる欺瞞(ぎまん)の論理があった。今でも私は否定している。「命のもてあそびである」、と。
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(最後の追記)今回は、予定を外れて、教育論となってしまいました。
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下記は次回以降へ