第二部・補章ー2・追記―2駿台辞職の経緯(2007年10月記述)

第二部・補章


第一部から第三部ごとに、補章を記している。今回は第二部(第5章から第7章)の補章である。また、補章には原則として、次の追記がある。

第二部補章

補章・追記―1(1997年)
補章・追記―2(2007年)
補章・追記―3(2016~2017年)である。
今回は追記―2である。


第二部・補章ー・追記―2駿台辞職の経緯(2007年10月記述)

 

 駿台予備学校の状況は今回は暫定記述とする。それは、まだ駿台の授業妨害・その他の危害の後始末が済んでおらず、何が何かよく分からない面があるためである。全貌(ぜんぼう)が分かった時点で追記―2をきっちりと記すことにする。

 

 

★今回は英語と日本語です。英語が不必要な人は日本語だけをご覧になれば良いと思います。


 

《◇―1・職場状況と労働条件》

 

 私が駿台予備学校の教壇に立っていた頃は、各地方に地元の予備校があり、大都市部に大手予備校が陣取っていた。大手予備校が全国展開を開始する直前であった。
 駿台の教壇に立つまでは、予備校は受験勉強一本槍(やり)と偏見を持っていたが、駿台に立つと全く違っていた。駿台などでは、表三郎先生の如く、授業以上に学問的雑談をする教師が受けていた。

 ともかく、当時は予備校ブームともいえる時代で、予備校文化の全盛期であった。『ザ・予備校』(第三書房)などが出版されるなど、予備校が世の脚光を浴び始めたのもこの頃であった。

 駿台京都校の同僚・表先生などは、東大・京大などの大学祭に講演依頼が来たりと華々しく活躍されていた。駿台でも英語正統派講師・故伊藤先生の授業を中曽根総理(当時)が見学に来られたこともあった。
 また、駿台には東大元全共闘書記長・山本義隆氏(後に大仏次郎賞受賞)などもいた。代々木ゼミナールでは授業中に歌ありなどで話題をさらった土屋博英氏などがおり、河合塾でも型破りな牧野剛氏などがいた。

 正統派授業講師から、受験オーソリティ型講師、人生哲学主体講師、エンターティメント型講師……と多彩な顔ぶれがいた。私が予備校講師となった頃には、代々木ゼミの看板講師であった故小田実氏(後に河合塾に移動)などもいた。この頃まで、私は、小田氏は作家が本職ではなく、予備校英語講師が本職と思っていた。

 三大予備校がまだ全国網を作る前であり、大型拠点校で授業をしていたため、有名講師が予備校には溢(あふ)れていた。2007年現在の如く、全国津々浦々(つつうらうら)まで三大予備校が浸透すれば、当然、予備校生諸君は有名講師などにほとんどお目に掛かることはないであろう。 現在の如く、超大手予備校が全国展開すれば、超大手といえども本当に優秀な講師を各校に隈無(くまな)く揃(そろ)えることは不可能である。超良質な講師は人口1億人の日本では数える程度しかいないからである。超抜きの優秀講師のみで学校を運営することすら、もはや不可能である。

 依(よ)って、第二部を読んだ読者が、予備校に行き、私の書いた内容と全然違うと思うのは時代が変わり・情勢も変わり、予備校も当時とは変わった後だからである。

 因(ちな)みに、私が勤務していた駿台は、当時は学生数は今の半分程度にも拘(かか)わらず、東大合格者は1500名を超えていた。しかし、学校が拡大した現在は逆に1300名前後となっている。私が駿台に出講した頃は、まだ駿台が現在ほど拡大していないため、駿台に入るための予備校があったくらいである。またクラスによれば、大阪市立大学等に合格したが、駿台の某コースの試験は落ちたという生徒などはざらであった。駿台には予備校入学試験があり、クラスによれば国公立大学よりも難しかった。今や昔物語であり、現在の駿台を見て当時の生徒・教師を想像してはならない。

 駿台での私の労働条件は以下の通りであった。講義料50分7~9千円(83年度7千円~87年度9千円)、夏期・冬期講習などはこの1・5倍が時給となる。具体例で記せば、87年度50分1万3500円であり、6時間教えれば1日のみで出張手当を含めて約十万円となった。また、授業と授業の待ち時間、私の都合の休み・祝祭日・休日も通常の時給の半額がでていたため、87年度では1日6時間の授業日が祝日であれば(一日のみで)2万7千円が何もせずとも入っていた。

 これらと別に、準ボーナス該当の一時金が支給され、新幹線はグリーン車、その他は原則タクシー代支給、居住地は岡山市でも岡山の実家でもよいという条件提示、ホテル手配と代金駿台持ち(ホテル内での食事代を含む。ただし、私は原則としてほぼ全て自腹で外食とした)、出張手当として1日につき3000円くらい支給、その他として歌舞伎座顔見せ公演チケット2枚送付、京都校前半時代は授業後は大抵接待でクラブ類に週1度……連れていかれていた。

 模試1本大問4題(短大などの定期試験一回分相当)を作成すればこれだけで岡短創設時の年収(名目約20万円、交通費無支給のため実質10万円余り)に等しい程度の額となる。勿論、採点料・テキスト作成料は別途支給されていた。そして授業も徐々に軌道(きどう)に乗りだしていた。途中では駿台専任前提の助専任の話もあった。

 一年目は見習扱い(試用期間)で授業時間数が少なく(勤務日数年間60日程度のため)年収200万円程度(ただしグリーン車差額その他の収入は除く)であったが、それ以外の年は上記から計算すれば分かるであろう。一番多い年は他の仕事もいれれば一年に入る金(授業の元手を引く前の金)は700万円程度であろうか。専任になれば、当時ですらこの約2倍となる。有名講師はそれ以上であった。

 二十代から三十代前半のアルバイトの年収とすれば良かったと言える(四十~五十代や今の年齢から見れば極めて悪い条件とも言えるが、二十代後半から三十代前半でのアルバイトの収入である)。もし、他の仕事を全部辞め、駿台のみとすればもっと年収は増え、同時に休みも増大していた。駿台自体は、年間労働日は100日程度でしかなかった。仕事のある月は忙しく、2月末から4月上旬までは仕事ゼロというように連続した休みだけで年間150日程度あった。だが岡短、岡山の予備校云々が入り忙しくなった。

 ちなみに、1987年度岡短では年間36日と別に試験・再試作成・採点・書類記入などの雑務があった。もし岡短を辞めれば、教材研究日及び実家に戻れるため、年間で軽く70日以上自由になるのみか、年収引く元手で計算すると赤字であった岡短がなくなれば逆にお金がたまる構造となっていた。87年度は岡山の予備校も年間100日程度拘束されていた。こちらも、岡短とは比較にならぬくらいましとはいえ、金には余りならなかった。

 岡山の予備校は(職員との友好関係からの)人情出講であり、岡短は専任詐欺被害でしかない。これらと福武(現ベネッセ)進研模試・駿台模試作成で相当忙しくなったとも言える。こうして、英語・日本史・政経の授業と模試作成、それも岡短・地元の予備校・駿台と場所が違えば、教材研究・原稿書きなどで事実上休みはゼロとなる。また本文で記した移動の時間も大きい。一教科につき年間教材研究日が50日程度では当時の駿台ならば解雇される。三教科では教材研究は150日でも厳しい。まして新しい教科日本史となると200日以上は必要であった。岡短を辞められていたならば。

 

 駿台では、試験採点などの雑務は免除され、同時に進路指導上の大学研究(大学偏差値)類も、教師は全く無関係で何も知らないし、知る必要性もなかった。それは職員の仕事であった。

 勿論、専任講師も含めてクラス担任の仕事などは一切無関係であり、誰もしていなかった。偏差値、進路指導、受験勉強の相談類は全く免除されており、高校の講師の方が受験に毒されていた。有名講師ほど大学の偏差値や進路指導は全く無縁かつ何も知らないのが大手予備校である。ただ、授業のみという環境であった。

 だから、生徒が教師を慕って受験相談に来ることはあっても、どの大学にはどういう教授がいるという観点からでしか相談には乗れなかったのではあるまいか。私は駿台時代に、大学の偏差値類は一度も見たことがないに近い。それどころか偏差値といっても分からなかった。簡単に言えば偏差値60とか70と言われても、どの程度の学力で、どこの大学に入れるのかは知らなかった。またそれで良いとされていた。必要なことは授業のみ。

 ただし、大学入試問題には精通していた方が喜ばれた。しかし、それすら気にせぬ講師もいた。この種の講師の代表例は勉学(学問追求)型授業一本槍と人生哲学主流型講師である。当時の大手予備校は高校の教師とは比較にならぬくらいに受験には毒されていなかった。ここも世間は勘違いしていた。高校などの方がよほど世間が言う予備校に近いと駿台にたって初めて知った。

《◇―2・鷹(たか)[隆(タカ)]は自由に空を飛ぶ》

駿台の1982年度は駆け出しであったが、82年度後半か1983年度から徐々に人気がでたようである。簡単に言えば1983~84年度は大きく伸び続けた時期であった。

第6章で述べたユージン・スミスの後から徐々に私を取り巻く生徒が増大し、1984年度などは授業後の膨大な生徒の質問で3時間を超える日はざらであり、授業日以外に質問日を設けても朝から夕方までぎっしりと埋まった。最終授業日には記念のサインも求められた。更に最終授業記念として男子生徒が手作りの大きなケーキを持参してきたこともあった。

岡山の予備校でも、83年度は熱心に授業してくれたお礼のお返しだといって、謝辞という形で受講生から花束を贈呈された。アシスタント希望者も駿台及び岡山の予備校でも相当いた。鞄(かばん)持ちをしてくれる生徒も駿台では出てきた。その他書けばきりがない。

これらが消え失せたのは、補章―2に記した、(1986年頃からの)授業妨害が開始してからである。よって、早口でも字が汚(きたな)くても、妨害が入るまではそれらを克服していた。因みに、早口だから字が汚いから授業は無理だろうと言う人間が実は通常授業妨害をしていた。生徒ではない。同時に、岡山の予備校でも、校長が私に「君、授業については△△ですべきだよ」とえらそうに言われたことが一度だけあったが、その校長が授業妨害に手を貸していた疑いが強かった。よって、私は言い返したかった。「△△のアドバイスをする前に授業を妨害するのを止め、授業に専念できる環境を作る義務を果たしたら」、と。授業妨害が開始するまでは、

私は確実に実績をあげる進行形のまっただ中にいた。
因(ちな)みに、授業の武器を、講義で1つ、板書で1つと数えるならば、2007年現在は多分100程度武器を持っている。もの凄(すご)い種類の武器を持てたのも早口と字が汚いおかげであった。今回登場した、紙芝居、模造紙、岡短で使用したプロジェクター、大イラスト絵地図、OHP、6章で登場するフィールドワークの種々の活用……などを、それぞれ一つと計算して百である。

ワープロ活用は85年度からであり、パソコン活用は88年度からであり……これ以上は一部企業秘密で記せない。どこかの大学で社会科教育法などの教科教育法を担当したときに膨大な武器、技法を伝授しよう。板書は控えめに見てもOne of them でしかない。白墨(はくぼく)式黒板に至っては教師・生徒の健康上使用しない方が良いとすら思っている。チョークの粉が肺に入って健康に良いとは思えない。

第三部で登場してくる一切話さない授業もできる。教壇に復帰すれば披露しよう。第一、チャップリンはサイレント映画で人を釘付けにしたのであり、当然授業でも可能である。しかもチャップリンの時代と異なり、自分が声を出さなくても声を出す機器はビデオ・DVD・カセット・CD・BD・MD・携帯HDD・カード・音声朗読器だけではなく山ほどある。機器でなくてもアシスタント活用の対話型授業法、演劇型授業法、ティームティーチングすらある。正式な教壇に復帰するときか、『求め続けて』が大手出版社から出版されるときに紹介しよう。勿論、私の技能以外でも古代ギリシア時代から今日のIT社会に至るまで教育の歴史があり、膨大な技術をいろいろな人が工夫してきた財産もある。再度言う。授業技術・道具類は山ほどある。

通常の生活をしている教師が自分の能力を私に当てはめ、結論づけることに常に憤慨(ふんがい)している。相撲の強い小学生が自分の能力で大相撲全盛期の大鵬の能力を勝手に決めるのと同様である。

だが講義は絶対的と言う人には次のように回答する。絶対的な物は想像を絶する熱意と準備、それと残念ながら膨大な投資である、と。膨大な投資と膨大な(数十年という)年月をかけての準備と修行は不可欠である。病気が回復しつつある現在、教壇への復帰も一つの選択肢にした理由が、この膨大な技能を後継者に伝授することにある。ただし、伝授には膨大な費用がかかるため、労働条件が良くなければ私は餓死をする。要するに、拙著エッセイ『学校』に記したように、「教育は芸術でなく科学であるが、授業は芸術である。」もう少し解説すれば、教育の方は教育現象であり、現象であるならば法則があり、それを発見する科学が教育学の本質である。しかし授業はプレゼンテーションであり、芸術である。

こうして、駿台時代、1984年はまさに飛ぶ鳥の勢いになりつつあった。私の名前が「タカマサ」であり、もじって「鷹(タカ)は自由に空を飛ぶ」ときであった。

※駿台での教師間競争に関して。
当時、関東に比べて規模の小さかった駿台関西地区で、しかもマイナー教科の政経でも講師は私の在籍時代に5人いた。出身大学など何の意味もないが参考までに記しておく。私(関学法卒、早大大学院政治学研究科修了)、A先生(東大法卒)、B先生(この先生だけが現在も駿台現職のため学歴はプライバシー保護より掲載しない)、C先生(京大工学部卒後、東大法学部に再入学し、京大卒・東大法卒)、M先生(京大卒)であり、最終的に政経では私とM先生の二人だけが残った(もっともB先生は多分違う意味で他教科に転向された)。なお、駿台模試の関係で、関西地区の窓口となっていた関東のZ先生も東大法卒であった。

こうした過激な競争社会である。因みに、駿台では実力主義であり、東大法卒のみでは通用しない社会である。高等学校の方が肩書・学歴社会全盛であり、東大卒となれば、大学時代や卒業後の勉学状態を無視し、凄(すご)い先生とか優秀な先生と盲目的に美化する封建・非民主主義社会であった。駿台では東大卒、京大卒も活躍はしているが、同志社や國學院大卒でトップクラスの講師もいた。勿論、東大卒・京大卒でも、実績をあげねば事実上解雇されていた。これが正常である。

《◇―3・辞職に至る事件の連続》

1985年度からは訳の分からぬ女性の登場で振り回され、授業は一定後退した。
1986年度~87年度は授業妨害だらけとなった。教室のマイクを何度も故障させられ、生徒が受講しなければならない別の授業と私の授業を同一にされたり、教室の冷暖房を無茶苦茶され寒くて授業に支障を来したり、無関係生徒が授業中に乱入してきたり、プリントの印字を悪くさせられたり、駿台斡旋(あっせん)のホテルでは夜中に部屋の温度を寒くされたり・扇風機のような形で夜通し風を当てられたり・逆に暑くされたりで夜寝られなかったり……である。大半証拠があり、証言を確約してくれた生徒もいる。

他方で、外では全く見知らぬ人間に両腕を掴(つか)まれどこかにつれていかれようとしたり(大阪と島根で二度あり)、アパート内の天井から物を落とされたり、アパートへの不法侵入の跡があったり、真夜中に郵便受けを叩(たた)かれたため出るとポストに卵のパックを入れられていたり、自転車の荷台の紐(ひも)をタイヤに巻き付けられたり、車のラジオアンテナを盗まれたり{警察に被害届に行くが、管轄(かんかつ)が違うため管轄内の警察にと言われ、管轄警察署に行く前日には再度着けられていた}、その他記せばきりがない。

これが1986~87年度にかけてあった授業妨害である。
勿論、その都度警察に届けたり、弁護士に相談したりしたが逆に門前払いをされた。駿台にも抗議したり、後には駿台責任者と会談したりした。

詳細は、拙著『閉じた窓にも日は昇る』に記した。実名入りでは拙著「2007年度年賀状救済呼びかけ文」に記している。ただし、駿台内での事件と駿台外での事件は同一犯人ではないかもしれない。1987年夏には、私の部屋ではないが、私のいたアパートに泥棒が入ったということでパトカーが来る事件があった。よって、同一犯人ではなく、別々の犯人による被害が偶然重なったのかもしれない。もし、そうならば、アパートへの不法侵入事件などは、私の命の危険もあった事件といえる。警察が動かなかったのは憲法・刑法などの法律違反である。勿論、同一犯人の確率もある。しかし、現在の私が犯人全員を知る術(すべ)はない。同時に、それらは警察及び治安確保・市民生活擁護という国の仕事である。ただし、駿台内の事件は当然駿台にも責任は明白にある。

詳細な全貌(ぜんぼう)がある程度分かるまではこの件の記述はここまでとする。なお、1986~87年度に私の授業を受け、授業内容に文句のある者は、私にではなく駿台に抗議せよ。最低でも学内でも授業妨害があり、駿台当局がそれを放置した以上当然である。

おまけに、駿台の関西地区最高責任者とは、1983年末頃に3年間(84~86年度迄の3年間)は政経一本で生活保障するという約束があり、駿台が約束を遵守(じゅんしゅ)していたならば、私は日本史を担当せずにすんだ可能性も高い。何故ならば88~89年度頃から駿台が校舎を相当増やしたため、政経・現代社会のみでも食べていける条件がうまれつつあったからである。また万一日本史を担当しても1986年度ではなく87年度に延期できたため、授業の準備を一年するゆとりがあった。それも含めて、1986年から87年にかけての授業に関する責任は学校にあった。この点を明白に主張しておく。

因(ちな)みに、日本史に関しては1987年度からは一定の目処(めど)が立ちつつあり、87年度からは86年度と異なり、日本史の勉強自体は大地を耕す苦難と喜びの両方を味わいながら家でしていた。同時にフィールドワークを授業の武器の一つとして導入したのもこの年からである。もの凄い授業の武器が増えつつあり、日本史の授業時代は87年度からは幾分(いくぶん)か楽しくなりつつあり、それ以上に日本史担当でも将来やってけいる自信もつき始めていた。しかし、妨害はそれに比例して激しくなっていった。この頃、日本史で得た武器や知識が後の岡短後期教材『旅に心を求めて』で具現化される。

これ以上は、このときの全貌(ぜんぼう)が幾分(いくぶん)分かってから記すことにする。

【2017年4月20日追記】

 今読み直せば、文章が冗長(じょうちょう)かつ物足りない部分もあるが、記録としての意味もあるため、誤字・脱字などの修正を除き当時書いたまま掲載する。現在考えていることは追記という形で補う。他の章その他も同様である。今回の文書(補章2―追記2)は最初に記載した2007年10月の文書である。

 この補章2ー追記2を書いて十年経(た)った現在は考えが多少変化している。もはや、本年で65才になり、いつ召されても不思議ではない年齢となった。そのせいか、人生の後始末として、昔良かった思い出もある駿台などとは相互理解の方針を立てた。私の(世間一般で言う)能力が開花したのは駿台からである。小学校から高校までの、俗に言う学業は無であった。私の(世間一般が言う)学業は駿台の教壇に立ってから始まった。

 駿台には良い意味での懐(なつ)かしい思い出も多い。しかも、駿台と私には大きな共通点があったはずである。良い授業をする、という。ガラス張り全面情報公開をすると宣言している以上、その通りにガラス張りに全面情報公開するが、根底には相互理解を願望としている。

 もっとも、俗に言うではなく、今日の社会では余り評価されない、実質面での社会分析能力は高校時代と大学時代に仕込まれてもいる。同時に現時点ではまだ活力もエネルギーもあふれており、駿台時代と比べ後退した部分が一部ある反面、前進した部分の方が多く、後者が前者を遙かに上回っていることも事実と思う。ただし、この三十年間も妨害だらけであり、それらがなければ今日(こんにち)、どのようになっていたであろうかは絶対的事実である。

 最後に、駿台合格最終決定が11月22日であった。同時に早大大学院政治学研究科の最終合格も11月22日であった。そして、私とオバマ・米国前大統領との間でやりとりしたと思われる暗号も11・22であった。この11・22という数値はいくつかの書物で書くと思われる。

◎2017年4月20日追記16:01追記。

駿台辞職経緯のより詳細は下記文献を参照。
『閉じた窓にも日は昇る・上巻』(Kindle版)百円
本の案内は安らぎ文庫>発売中書籍>『閉じた窓にも日は昇る・上巻』
http://h-takamasa.com/book-01/custom33.html

今回のHPは全て事実である。なお、駿台は当然、私の住所などの連絡先を知っているため、必要時には問い合わせ可能なはずである。ただし、まず上記の文献を読まれることを勧める。わずか百円である。
冥土に行く前に、世界の我が友達(ともたち)が注視する中で事実は事実として公表しなければならない。

○トラブルの一部か全部か不明も、原因は、赤ちゃん取り間違い事件と同様に、人間違い(ひとまちがい)が原因と多くの人は言う。

ただし、どこからどこまでの危害なのかは、未だ不明である。

(詳細な経緯は下記から連続で続く)

気が向けば一言【徒然・私事】№134:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違い、と言う。

http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1099/

【徒然・私事】№134:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違い、と言う。

 

 

(分析を伴い、分かり易いのは下記。こちらの方が一般読者にはお勧め)

気が向けば一言【変恋】№119・日本のフィクサーME・パート2付録編⑨・「お嬢から、女性C、そしてオジョウと映画説」

 

http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1036/

 

気が向けば一言【変恋】№119・日本のフィクサーME・パート2付録編⑨・「お嬢から、女性C、そしてオジョウと映画説」

 

 

 

 

2019年4月26日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA