補章-2:追記―1・授業の苦しみ:(1997年1月18日授業の後記す)

補章-2:追記―1・授業の苦しみ:(1997年1月18日授業の後記す)


【更新記録】2019/05/03 22:45 から公開

2019/05/04 13:10 同時公開の案内。

 


第一部から第三部ごとに、補章を記している。今回は第二部(第5章から第7章)の補章である。また、補章には原則として、次の追記がある。

第二部駿台時代・補章=http://h-takamasa.com/Blog/?p=11573

追記―1(1997年)=今回の文書。

追記―2:(2007年記述)=http://h-takamasa.com/Blog/?p=11577

追記―3(2016~2017年)である。→後日掲載。

今回は追記―1である。



補章―2(第二部)

補章-2:授業を求めて(1995年作成・2017等微修正)

 

追記―1・今回の文章。(1997年)

追記―2・

第二部・補章ー・追記―2駿台辞職の経緯(2007年10月記述)

追記―3・後日掲載予定。


(2019/05/03解説)
駿台在籍時に下記の件があった。
☆☆☆☆☆
19-113-3【#私事】
#営業妨害 #職業選択の自由 剥奪は1987年 萌芽1984年
原因→S予備校女性の件?
指一本触れず、学外で一度も会わず、学内でも人前でしか会わず。
会話量も一人当たり6年合計10分程度で。
しかも私の方がふられて?
35年以上の危害。そんなバカな。
友は人違い危害と明言。
明日✎
☆☆☆☆☆
○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1121235086131679232

☆☆☆☆☆

1987年後半からは学内での授業への支障が続く事件が頻発する。学外では(拉致されかける等)刑事犯罪事件に遭遇(そうぐう)した。その結果、1988年1月に駿台を辞職した。(正確には辞職に追い込まれた。)
辞職するや、突如、第三部登場の岡山短大が一変して、ここでも被害連続。被害が強すぎ、1989年末から1993年末、鬱(うつ)病を激しくした状態に陥り、思考機能が大半停止する。やがて1993年大吐血を契機に意識が戻る。
戻ると同時に、駿台時代の(犯人不明の)刑事被害を忘却していた。
その被害を思い出すのは、1998年1月の岡山短大辞職後である。
そこで、第二部補章(1995年記述)、第二部補章―追記1(1997年記述)には駿台時代の(犯人不明・駿台関与不明の)刑事犯罪被害は登場しない。

この被害を思い出したのは第三部岡山短大辞職後である。
なお、奇妙なことに、岡山短大辞職経緯は駿台辞職経緯と類似があった。ちなみに前者のピークは1997年であり、後者のピークは1987年である。そして辞職は前者が1998年1月、後者が1988年1月である。
更に、岡山短大運営者・雇用促進事業団、所管団体・旧労働省などへの交渉文章記述中は何故か、1998年や1997年が1988年や1987年に置き換えられた疑惑事件が頻発した。

2007年頃から記述を開始し、ペーパー版を出版社へ送付した『閉じた窓にも日は昇る』に事件の経緯を記している。今回は追記―2と追記―3に簡単に刑事犯罪被害を記している。

その後、(永久の世の)映画説と思い観念した後は、駿台の件は再度忘却していた。しかし、2013年か2015年頃から駿台の鉛筆などが我が家の至る所に置かれていた。若しくは当時ミスでもって帰っていたかもしれないものが、突如、置いた覚えがないのにどんどんあらゆる箇所からでてきた。

しかし、今や、裏では世界のミスター・浜田である。更に、体力問題や意義から言っても、駿台に復帰意思はもはや全くないに近い。そして、このままでは、国民年金(年約70万円)のみのため、生活保護への道のを回避するため、起業にまっしぐらで超多忙である。だから、駿台の件を思い出すのは時間の無駄でしかなく、起業妨害でしかないというのが本音であった。

ところが、2014年頃から、偽者や人間違いが大変強調され、実は、駿台での女性に絡めた問題も「人間違い(ひとまちがい)」が原因という指摘が随所でなされた。だが、私には起業、更に大義がある事項が山積しており、残された人生で駿台の件を取り扱うのはためらいがあった。(もっとも、人間違いの指摘は2000年前半頃からあり、2012年には友人が人間違いが原因と言い切ってもいた。)

だが、多くの人の指摘などから、やむを得ず、再度駿台時代を振り返ることにした。そこで、以下の項目を順次公開開始した。
①『求め続けて』第二部駿台時代の中から、第二部の補章だけを連続で再度掲載。
一度、二年前に安らぎ文庫HPで掲載済みである。HPから消したのは、出版予定であり、その場合の契約とすれば、HP等で公開している場合には削除条項があったからである。今回も、その理由のため、安らぎブログでの暫定(多分半年か長くて一年程度の)公開である。

②気が向けば一言で駿台での女性に絡めた問題(女性問題ではない。女性に絡められた問題である)を、ありのまま掲載中。小学生か中学生の恋をもじったドタバタ劇であり、時間のロスであるが、やむを得ず開始した。
同時に、1984年夏から87年夏にかけてのみ、私に好きな振りか好感を持っているように見せた女性が20人(2か月に一人の割合で、しかも山頂など女性に会うはずがない場所を含めてあらゆる場所で)登場した謎なども今回ありのまま記している。
人生67年中、この三年以外は皆無にちかいのに。

③私の全体仮説は、永久の世の映画説である。
それらは出版待ちの『閉じた窓にも日は昇る―付録編』に記述している。というのも、生まれて暫(しばら)くしてから、数年か一年に一度程度自己意思に反する行動が見られた謎があるからである。だが、1984年夏以降はその逆でない日がその数値に近い状態となっている。
そして、映画説の中でも現世で「人間違い」による危害が最近強調されており、その部分が上記の過去と異なる危害頻度の原因と臭わされ、過去の問題の検討を強いられることになった。それらを上記②などで、今、吟味を開始した次第である。

④最後に、『日本のフィクサーME』シリーズで登場する事項との関係は必要がでれば、公式ブログに掲載予定でいる。

◆では、1997年記述の補章―2:追記―1を1997年当時記載した内容を以下掲載する。
ただし、誤字脱字は2007年頃修正した可能性がある。だが、1997年記述箇所は当時の岡山短大学生全員に配布しており、改竄(かいざん)は不可能である。



補章-2(追記―1・授業の苦しみ):(1997年1月18日授業の後記す):本文


《◇-1:今週の不可避な交通事故-なすすべのない人間の不測の事態について》

 先日(1997年1月13日)、あり得ない形で交通事故に遭遇(そうぐう)させられた。道の急カーブに入る前に、いつものように徐行するため、道の広い所で車を止め後ろの車に抜いてもらった。その後、見晴らしのきかない直角のカーブを曲がった所、そのカーブに入るや、いきなりトラックがセンターラインを踏んできた(事実上のセンターラインオーバーである)。

 当然、トラックに目をやり、カーブを曲がるや、路上ど真ん中に三台の車が駐車をしていた。1台目が右折とのことであるが、3台目が携帯電話で話をしていることから、事実上、見晴らしきかぬ急カーブ路上ど真ん中での駐車である。事故が起こらないはずがない。

 不思議なことにその場所がいつも通っている所であるが、事故現場(推奨速度三十キロの場所)を別の場所(制限速度五十キロの場所)と勘違いさせられ、交通法規を守っていたにもかかわらず、恰(あたか)も催眠にでもかかったかの如(ごと)く、私自身がスピード違反をがしていたというような証言を警察でさせられた。あらゆる状況から判断して、私に加害の第一責任がないというよりも、実際は被害者であるにもかかわらず、私が唯一の加害者にされてしまった。
 ※2017年追記。今考えれば、催眠も含める何らかの、私の意思へのマインドコントロールがなされていた。

 これらのトラブルは相当頭に来るし、連続すれば当然生活はできない。だが、この日の事故は私の力では百パーセント避けられない。まず常識的には、ほとんどの後続車が事故を起こす危険性のある、車という凶器の事故を誘発する悪質駐車であった。(法律で言えば、安全義務違反とも、故意ならば殺人未遂罪に該当する)。

 もっとも、普通の人ならば、九十パーセント以上、事故につながるかもしれないが、私はあの場所は本来超安全運転をする場所のため、絶対に事故にはならない場所であった。道路交通法に一応結果としても違反していなかったとはいえ、交通法規を普通に守るという人並みの運転をさせられた。

 私は、あの見晴らしのきかぬ・しかも民家のあるカーブの所は、通常の人の安全運転ではなく、超安全運転をしていた場所である。この日もその予定でカーブ直前の空き地で車を止め、かなり後ろの方の車も含めて全て抜いてもらい、超徐行運転にはいる予定でいた。ところが、先のトラックのセンターラインオーバー(最低でもミラーはセンターラインオーバー)を見るや、催眠にでもかけられた如く、いつもの私とは異なり、超安全運転ではなく通常の安全運転をさせられた。これは、いつもとはかけ離れたものである。

 たとえれば、催眠で学校の生徒めがけて車を突っ走らされたような本来あり得ないことをさせられた。こうしたトラブルは私本人の力では、どのようにしても避けることは百パーセント無理である。一億回考えても、こうした一連のトラブルは避けることは絶対不可能である。されたら終わりである。(巻末【付録―3】参照。)

 ※(2017年追記:オレンジ色箇所)この事件は、道交法問題よりも、計画的になされた傷害未遂罪・殺人未遂罪若しくは業務上過失罪、器物(きぶつ)損壊(そんかい)罪に該当し、(加害者とされた)私が被害者であった。そのことはやがて世界の友たちが必ず実証してくれるであろう。

《◇-2:もう一つの苦しみ――なすすべのある人間の不測の事態について》

 上記◇―1とは性質が違うが、私にとって、ものすごく苦しいことがもう一つある。学校も、生徒も全てまともな教壇で、責任を持つ授業ができないときである。そして、この短大の英語だけでは生活ができないことを考えると、いずれ必ず、この短大と掛(か)け持(も)ちで他の教壇で、場合によれば全然違う教科を担当するかもしれない。

 これは現実の問題であり、時期や教壇によれば非常に大変な事態である。〝キザ〟な言葉ではない。予備校などでは生活がかかっているにもかかわらず、教師が何人辞め、あるいは何人解雇されているか。それを考えてもらいたい。しかも、その教師の苦痛は、解雇や自ら辞める以前の教壇の場にある。

 こうした視点から言えば、多くの教師・生徒が日々考えている事項やTV・映画の教師物語は、教師の苦悩を全く逆な形で強調していることがある。即ち、うるさい生徒や言うことを聞かない生徒の多い学校は大変だ、と。だが、これは、時には全く逆の効果をもたらしていることがある。

 仮に、生徒が全員静かで懸命(けんめい)に学ぶ意思があったとしよう。ここで何教科か(仮に高校英語・高校日本史・高校政経)を担当させられたとしよう。当然、責任ある授業など相当困難である。そして他に優秀な教師もいたとしよう。生徒の「A先生に習うよりB先生の方が良い」という陰口が伝わってきて、やがて真正面から言われ、その内授業中に〝もろ〟に言われだしたならば、教師はどのような心理になるか。

 だから、生徒が学習しないことや、学校の雑務などで、どの先生もひどい授業をすることで大いに助かっているのが現実ではなかろうか。

 生徒の方は真面目(まじめ)にやらないから引け目を感じ何も言えない。全く予習をしない教師から、「何故、おまえは勉強しないんだ」と言われても、常に生徒は自分のみ悪いと錯覚(さっかく)をする。しかし、本当に授業に懸命な生徒を前にして、責任を果たせねば、そのときの教師の苦悩というものは大変なものである。

 私はこの短大のみでは生活ができず、いずれ他の教壇で他の教科(政経など)も並行して教えざるを得ない。その時期・教科・教壇によれば、時には致命的な問題すら抱えることになる。特に大手の予備校となれば。

 そして、万一、私が将来結婚できるとしたならば、そのための今できる一番大きな準備は教材を今のうちに作れるだけ作ることである。

この種の不測の事態、即ち、準備していないときに準備不足の教科も突然担当しなければならないという事態、これがいつ起こるか分からない。ならば、今確実に教えている教科などは、今後教えるかもしれない他教科や他の教壇に備えて、幾ら教材をつくっても・準備しておいても、しすぎるということはない。

《◇-3:第二部駿台講師時代を振り返って。
―本来の教壇における準備不足は不測の事態以上の苦しさを伴うものでさえある》

 先の自動車事故(◇―1)は、一億回考えても、私の力で絶対に避けることはできない。しかし、後者の事態(◇―2)は私の力で避けることができることもある。よって、今の内に教えている教科の教材をできるだけ完全に作成しておくことが重要である。それは自分の力で避けうる不測事態への唯一の備えでもある。

 これが、『求め続けて』第1章のラッセルから学んだことであり、そして、この第二部駿台時代に痛いほど味わった授業への苦痛から、私が常に警戒していることでもある。本来、授業をまともな場でするということは、大変なことなのである。野球選手が一軍の場でポジションを常時維持することと多少似ているかもしれない。

 尚、初めての教師などにとって、生徒が授業をまともに聞かないときは、実はある面では、こうした苦しみから解放される特効薬となる。それに気づく人間・教師は余りに少ない。

 私が、この短大で英語を教え、岡山の予備校で政経と日本史、それに駿台で政経と日本史、更に数々の模試の原稿を抱えていたとき、たまたま、駿台で幾つかのトラブルや授業妨害があった。もし、これらのトラブルがなかったならば、駿台で日本史を教え初めていた1年目前半に完全にノックアウトされていたかもしれない。何故ならば、トラブルや妨害があるので仕方がないという、自分への逃げ道がなくなっていたからである。

 それでも、日本史担当一年目では力量不足のため、毎回授業前に新大阪駅で缶ビールを飲み、頭を少し麻痺(まひ)させてからでなければ教壇にはたてなかった。授業ができ、かつせねばならぬ場では、授業をするということは大変なことなのである。

 大変さの比較はできないが、第一部に登場した真備高校の教壇では授業前に毎回ビールなどを飲み頭を麻痺(まひ)させようなどとは思いもしなかったし・する訳(わけ)もない。だから、万一学校当局も含む授業妨害などが一切なかったならば、日本史を担当した半年目あたりでノックアウトであった可能性が高い。

 過去、政経を教え一定評判が良かったという経験がなかったならば、そしてトラブルもなかったならば、その上で生徒が減少したならば、全て自らの責任と考え、教えるということに完全に自信を失っていたかもしれない。ひょっとすると別のタイプの教師を目指すことになったり、あるいは、今日の〝授業屋〟への道を歩んだりすることはなかったであろう。それどころか教壇を永久に去っていたかもしれない。そのくらい、授業の失敗や行き詰まりは本当は怖(こわ)いものなのである。

 しかし、学校で生徒が授業を十分聞かないとき、自分の授業の質の悪さに気づくことはまずない。よって、これにより教師は随分(ずいぶん)助けられている。こうした教壇では、確かに面倒ではあるが、割り切れば時には良い金儲(もう)けにもなる。

 尤(もっと)も、日本史を担当した二年目にはトラブルがなければ、全教科において、もっとましな一定レベルの授業はできていたはずである。しかし、日本史担当初年度前半は今考えても無理であった。なお、本来の授業の場においても、このことは常に頭の痛い問題でもある。と言うのは、徐々に授業の質が向上しても、昔、失敗した授業を受けた生徒へのやり直しは二度とできないからである。駆け出し医者の初期の失敗と似ているかもしれない。これも、やはり授業の怖さである。しかも、予備校などは、主として生徒との人間的つながりは授業のみといってもよいため、尚さらである。

 (2017年追記:下記オレンジの箇所のみ)

 拙著『閉じた窓にも日は昇る』で書いたが、日本史を担当した二年目からは、社会に関する裾野(すその)が広がり、知的好奇心が広がり、社会に関する教師としての力量は大きく伸びかけていた。もし、妨害やトラブルがなければ、上記の文章とは違う形で、物事は推移していたかもしれない。このときの知識やアイデアの一部が後に、拙著『旅に心を求めて―教材編』で花開くことになる。妨害がなければ、日本史を担当し、二~三年目から花開きかけていたであろう。よって、授業妨害やトラブルを免罪(めんざい)する気はない。

《◇-4:再度、授業について》

 学校は給料を十分だす。生徒は熱心に授業を聞き、そして真剣に学問に取り組む。父兄も一緒に授業に臨(のぞ)む。そして他の教師も必死で授業をする。そのときに授業の努力もせず、ただ威圧感で生徒を鎮圧(ちんあつ)することしか能力のない教師は、肩身の狭い、ビクビクし通しの教師となるであろう。

 今、学校の怖(こわ)い先生で全く授業内容がない先生を、仮に大手の予備校で雇わせ、絶対に1年は辞めさせないという条件で授業させたならばどうなるか。

 まず、その教師は借りてきた猫のようになり、終始ビクビクし通しになるか、酒に溺(おぼ)れて逃げるであろう。ともかくガタガタになってしまう。さらに、生活がかかっていれば大変である。しかも本当は辞める以前の教壇において苦しみ続ける。

 本来、高校以上では教師の苦しみというのはそこになければならない。そして、そうした苦しみというものを正面から取り上げる番組などは存在しない。教師は何をする人か。高等教育では、教師は授業をする人である。今日の高校の相当数は、歌手が歌の練習をせずに、どのように怒ったらお客さんが静かになるか、それのみを訓練しているのと同様である。また、学生にも授業料を払っているという意識のなさに驚く。

 かくいう私も面と向かって昔の教師に、その教師の授業批判をしたことはない。しかし本当にひどかった。悪い商品を売っても文句がでず、時には居直(いなお)れるのが教師である。そして商品の質を全く問題にしないのが今日の社会である。しかし、私がいずれ立つことになる教壇は、そうはならないであろう。

 また、逆に予備校などの生徒へのアンケートも無意味である。超一流の音楽家・俳優・画家が一々一般の人にアンケートをとることはない。そんなことをしたならば、プロではあるまい。一般の人が知らない世界を提供するのがプロであり、一般の人の言うように演奏したり、絵を描いたりしだせば終わりである。が、彼らは常に求め続けているはずである。

 本当の授業の場で授業をするということは、もの凄(すご)いことであり、授業後エネルギーを使い切り、かなり長い時間にわたり虚脱(きょだつ)感というか、そうした状態になるものである。うまく行けば頭が興奮する。逆に失敗すれば、惨(みじ)めである。しかし、駿台などの大手予備校では惨めという前に解雇されることさえある。

 よって、私が自分の力で避けられることのできる、唯一の苦しい不測事態への備(そな)えは、今できる教材づくりと授業準備のみである。今回の、無茶な交通事故にあわされた週に、再度このことを思う。

 いろいろな苦しみは、比較できるものではない。しかし、本来まともな場で授業をするということも、相当苦しいことであり、駿台後半の如(ごと)くトラブルという心の逃げ場があっても、力量不足のときは授業前に酒の勢いを借りねばならぬほど大変だったのである。

 『求め続けて』第二部の舞台である駿台講師時代に、それを痛いほど味わった。尚、同じトラブルでも授業の場がなかったときには(学生の対応が突如不自然となったときなどには)、短大などでは割り切れば、授業(講義)を必死にせずに教材作成の方へ相当なエネルギーを割(さ)くことが可能になる。勿論、授業前に酒を飲もう等は想像もできないし・する必要もない。だから、真の授業の場というものは本当に大変なのである。

 ※尚、日本史の件で酒を飲んで毎回授業したのは、確か、トラブルがまださほどなかった、日本史担当の一年目――授業の見通しも全くなく、自分でもこの授業では駄目(だめ)と思っていたが、どうしようもなかった一年目――である。

 トラブル激化の二年目には、トラブルのために前年度以上に授業は困難になったものの――超多忙及び主としてトラブルのためほとんど披露(ひろう)できなかったが――私自身の側(がわ)では授業に見通しが一定立ちつつあったため、酒を飲んで授業はしていないはずである。授業の怖さということを再度、この補足文を記すことにより、付け加えておく。

尚、酒を飲むとは、飲まねば怖くて教壇に立てないし、何も話せないからである。第一びびってしまい、それを生徒に見透(みす)かされれば、授業は不可能となるため、それを恐れたことにある。実際あの状況では、2~3分でビール1本くらい飲んで授業した方が、結果としても、まともな授業ができるということも事実であった。

 本当に駿台予備学校を辞めなければならないかと真剣に思ったのは、日本史を初めて担当した1986年度ではなく、駿台の教壇に初めて立ち、政経を教え始めた1982年度前半であることも付け加えておく。

 先に書いたように、日本史を担当したときはトラブルがあったため、自分自身への逃げ道があり、それに対して政経を教え始めた年は、すべての人間が授業に協力的であり、一切逃げ場がなく、しかも授業が思うようにいかなかったからである。これが、本当の授業の怖さというものである

(2017年追記)

 この補章2―追記1を記した年(1997年)に、上記事故に関する解説文を下記に記している(追記-1(その2):授業、そして生徒に想うパート2。)。これはHPの長期連載では「トラブルブログ」の下記と同一のため省略する。HPでは下記リンクをクリックすれば該当箇所にリンクする。

重要情報公開№5(その1)私の生活権を奪った、不可思議な1997年の交通事故。
(これが上記、「追記-1(その2):授業、そして生徒に想うパート2」と同一分である。)

http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?p=8095

 今回の掲載に当たり、幾つかの地名・人名は略号とし、矢印類は→に置き換えた。また、追記―1の補足1(追記―1の2)では誤字脱字の一部修正をしている。

今回は以下省略

【求め続けて第6章関連動画の御案内】

【動画の御案内】
YouTubeコンテンツを中心に紹介。著作者の都合で途中で掲載中止となる場合もあります。御了承ください。

付録↓ (左のアンダーラインをクリック)
①【タイトル】第38年ぶりの石川さゆりショー 水俣病患者ら企画し成功(日本語)
②【タイトル】水俣病患者 資料映像
≪Minamata disease (a type of poisoning caused by industrial mercury pollution)≫

★以下、ユージンスミス関連
③Smith,Eugene(音楽と映像のみ)
④EUGENE SMITH EXPOSICIÓN DE FOTOS, PHOTOESPAÑA 08 (音楽と映像のみ)
⑤ 1×22 William Eugene Smith (音楽と映像のみ)

(2019/05/04 13:08)本日(2019/05/04)同時公開の💁案内

気が向けば一言【徒然・私事】№139:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違いと言う(5)

○http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1122/

 

気が向けば一言【徒然・私事】№139:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違いと言う(5)

 

2019年5月3日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA