ふるさとの記録―2・拙著『フォットエッセイ・ふるさと』(村のアルバム記載文書から)から

ふるさとの記録―2・拙著『フォットエッセイ・ふるさと』(村のアルバム記載文書から)から


2020/07/04 20:15 下書き段階で公開開始。

2020/07/05 2:58 微修正

2020/07/05 11時頃から清書中 修正 写真挿入など

2020/07/05 14:54正式公開 16:02微修正 16:07微修正

2020/07/07 4:17 微修正と写真の撮影年月日記載


フォットエッセイ・ふるさと


山もある。
川もある。
田もある。
小川もある。
池もある。
白鷺(しらさぎ)が、鷹(たか)が、烏(からす)が舞(ま)う。
雀(すずめ)が、鳩(はと)が、燕(つばめ)が飛(と)ぶ。
蝉(せみ)が、蟋蟀(こおろぎ)が鳴(な)き、飛蝗(ばった)が跳(は)ね回る。

幼少の頃には、蛍(ほたる)も、目高(めだか)も、泥鰌(どじよう)も、野兎(のうさぎ)もいた。
河原(かわら)には牛が、家には山羊(やぎ)と鶏(にわとり)がいた。
野にある通草(あけび)を、ぐいびを、蛇苺(へびいちご)を、サイシンゴ{虎杖(いたどり)}を食べたものである。
栗(くり)や柿(かき)は記(しる)すまでもない。
山の茶畑を飛び跳ね、蓮華(れんげ)畑に寝転(ねころ)がり、花見は毎年当然我が村で行(おこな)った。
そして何よりも人がいた。
これが我(わ)が故郷(ふるさと)、そしてその中の一二軒(※2020追記箇所参照)からなる我(わ)が組合の姿であった。
……

我が故郷、大字(おおあざ)ID村、そして小字(こあざ)NT組合である。

しかし、これは日本の全ての村の風景でもあるし、また風景であった。
そしてこのアルバムは、とりたてて特に観光の県でもない岡山県の、北の小さな平凡な町・美作町(現・美作市)の、その中の何の変哲もない、ありふれた小さな村・ID村、さらにその中のわずか一二件のみの集落・小字(こあざ)・NT組合の小さな小さなアルバムである。


 《幼少の頃の故郷の自然》

私が生まれ育った頃には、夏は昼から晩まで川で泳ぎ、昼は蝉(せみ)が鳴(な)き、田には魚が舞い込み、夜は蛍が河原で飛び交い、家の中に甲虫(かぶとむし)や蝉(せみ)が飛び込んできた。

泥鰌(どじょう)、目高(めだか)、蜆(しじみ)、蝲蛄(ざりがに)などの小さな生き物は無数にいた。
当然、蚊(か)が家に入り込み群(む)れをなし、その数は凄(すさ)まじいものであった。蚊帳(かや)も懐(なつ)かしい物となってしまった。蠅(はえ)も黒い集団の如(ごと)く塊(かたまり)の蠅(はえ)がいた。

蛇も蝮(まむし)を含めいたる所にいた。
蛇が家の天井(てんじょう)から落ちてくることも、鼬鼠(いたち)が家の中に入ってくることも珍しいことではなかった。

一九七一年故郷を離れ、八八年故郷に戻ってきたときにはその姿は一変していた。
さらに、八八年からの構造改善事業で村は大きく変貌(へんぼう)してしまった。


 《幼少の頃の人の姿》

村の大人達は農作業のため共同で仕事をすることも多く、それを反映し、子供も共同生活・集団生活をすることが多かった。

大人は共同での田植えと助け合っての稲刈(か)り、そのため農繁期には食事は業者に炊事を委託し、そのことが逆に人の絆(きずな)を強くした。

昔は託児所も農繁期には田舎(いなか)の方にあった。
その繋(つな)がりを重視するため、我が組合での旅行、共同での折々の食事(子供の日等)は、組合員全員が大概は我が家に集まり、一緒にしたものである。娯楽も同様であった。
どさ回(まわ)りの一行(いっこう)を今回修正→} 地方巡業の一行(いっこう)が、我が村の集会所で芝居をし、それを集団で見に行った。

子供も、父兄抜きでの集団行動をしていた。毎週か毎月か忘れたが、村全体の子供だけの集会(本当の子供会)があり、そして子供会で神社の掃除を自主的・定期的に行い、神社から駄賃(だちん)を貰(もら)い、その金でクリスマスを子供だけで行っていた。

子供は缶蹴(かんけ)り、鬼ごっこ、チャンバラごっこ、独楽(こま)回し、羽子板、凧揚(たこあ)げ、ペッタン(庭に一枚瓦を置きその上でブロマイド類を投げての遊び)、隠(かく)れん坊、そして何より四〇日に及ぶ集団での川での水浴(あ)び・水泳ゴッコがあった。これだけは、泳げないにも拘(かか)わらず親が順番に見張りに来ていた。

こうして人のいる風景があった。それは自然(田植、稲刈り)と一体となった人のいる風景であった。


 《人のいない村》

三〇年経(た)ち、自然のみではなく、人も大きく変わってしまった。昔は、村人(むらびと)の誰の顔も分かった。

今は、過疎(かそ)になりつつあるにも拘(かか)わらず、いつしか見知らぬ人が村を大勢歩くようになっていった。それのみではない。
我が村でも、それどころか、一二軒からなる小さな我が組合ですら、知らぬ顔の人もいるようになってしまった。人の顔まで変わっていった。

村特有の人間関係は都会の人間関係に近づき、子供の顔も都会の子供と区別がつかぬようになってしまった。

今、我が家近くの田畑を歩き、出会う人の半数以上が顔が分からないときとなった。少年の頃、誰がこれを予測したであろうか。


 《アルバムタイトル・ふるさと》

故郷(ふるさと)は古里(ふるさと)となってしまった。
だから最初の象徴的な写真『ふるさと』は夜しか写せなかった。真っ暗闇の中の田、そこにのみ昔の故郷があった。このアルバムが写真『ふるさと』から始まったのはそういう理由からである。

だが、このアルバムをじっくり見てほしい。

全てがなくなりつつある、今日でさえ、これだけの自然が残っていることを。
同時に、一年のID村、そしてNT組合の姿を。
観光地とは全く無縁の、特に美しくもない、しかもわずか一二軒の家を舞台にした小さな集落でさえ、一年はこれほど美しいということを!

この平凡な村の、その中の何の変哲もない一二件の集落・小字NT組合の一年がこれほど美しいならば、日本のほとんど全ての村は、「日本の美」を失いつつあるとしても、まだこれだけの美しさを残していることを!

同時に、私自身がこのアルバムを作成する中で分かった一年の移り変わりと大地の変化を!
小字・NT組合の人で、あるいは他の村の人で、自分の村が一年のうち一番大きく変化し、大地の凄(すご)さを感じられるのはいつかを答えられる人がいるであろうか。

長年住んでいて、私も知らなかった。
我が村、小字NT組合では9月である。
また、早く去れと常に思っていた2月が小字NT組合では9月につぐ変化の月であり、美しい月でもあることも知らなかった。

逆に、我が村では世間の常識とは逆に3月と10月が余り味けないことを!
特に3月は下旬を除くとそうである。

花三昧(ざんまい)は小字NT組合では4月である。
また、いつの日にか花見を地元・ID村でする人がいなくなってしまった。子供の頃は、私たちは地元ID村の山などで毎年花見をしていたのに。


《人の出てこないアルバムについて》

これらが、このアルバムに人が登場してこない・人のいない風景を撮った理由である。
それを20世紀末のID村の記録として作成した。

著名な写真家の農村の写真は常に人が主人公である。
父の写真ですら、農繁期は人{Z家の小父(おじ)さん、私の叔父(おじ)さん・叔母さん、母、祖母、K家の小母(おば)さん…などが共同で笑いながら田で仕事をしている}を中心に写し、自然と人が一体となりID村の自然を形作っている。

人の顔から、当時の会話や行事さえ、何かを読みとれる。
人の顔から、当時のID村の自然がどんなかを読みとることもできた。
自然と人間は一体となり田舎の美を形作っていた。
現在のカラー写真でさえそうした自然をもはや写すことは不可能となってしまった。
私には、人と自然は1990年代は我が村では分離してしまったとしか思えない。

このアルバムに原則として人が写っていないのは、過疎で人がいないからではなく、東京砂漠ならずID村砂漠だからである。

逆に、記録写真にも拘(かか)わらず、邪道と言われようと美しく写したのは、平凡なありふれた村の中に、それでもなお、これだけの美があることを強調するためである。

人の登場しない村、地元の人でさえ美しいと思ってもいない村が、失われたとはいえ今なおこれほど美しいことを主張すること、それがこのアルバムの主眼である。


《新しい世紀に向けて》

しかし、幾つかの変化も起こっている。
ID村の寺・S寺では昔以上の紅葉の名所となっている。

さらに和霊様も復活した。
これらの新しい変化を下側の写真『和霊様の夜』で表した。
このアルバムのタイトル『ふるさと』は、20世紀最後のID村・小字(こあざ)NT組合の記録であると同時に、私の他の著作の主題の一つである「日本の草の根の自然と美」を訴えることの一環としても作成している。

数十年後『ふるさと』が『故郷』となるか『古里』となるか、はたまた両者となるであろうか?

(※注)
「故郷(フルサト)」は懐かしい、人もいる、自然もある生まれ故郷(コキョウ)の意味で使用し、
「古里(フルサト)」は生まれ故郷という意味と同時に荒れ・見捨てられた地(都市化や東京砂漠化したため人のつながりなどが無くなり、もはや故郷とは思えない地の意味も含む)のニュアンスでも使用し、
「ふるさと」はどの漢字と今後なるか不明の意味で使い分けを図っている。

肖像権・プライバシー権に触れぬ写真を一種(レタッチの仕方変化で2枚)のみ掲載。

(一度クリックでPC大、二度クリックで巨大):写真タイトル「和霊様の夜」(1997年8月15日撮影)

和霊様の夜-1:A型レタッチ

和霊様の夜 -1:B型レタッチ


※注:
①以前、この写真を我が家で見た人もいるでしょう。「少し違う」、…と。家に掲載はアナログ・アナログ転換、今回はアナログ・デジタル転換、スキャナードライバの調整等で難しいのです。(今はOSの関係で私にはできません。業者依頼となります。)
当時は、プロビア100F(RDPⅡ)を業者仕上げのRPプリントでアナログ仕上げ。

②この時の撮影枚数が72枚。その中からめぼしいものを数枚選択。今回はその中の一枚。さらに、この一枚のレタッチの仕方で同一写真が計8枚。その中からさらに選ぶ。時間がかかるのです。今回は昔の雛形活用で一時間余りですが、通常は一日とか数日一枚にかかります。パーフェクト撮影ではないが、良い写真を何とかという場合には、無理な写真をなんとかする訳ですから(大昔の写真の復元作業と同一で)数ヶ月とか、暇をみて思考しながら数年かけるということもあります。



★2020/07/04 19:11解説:2020/07/05 13:00頃大幅追記。


上記の文章は1999年に記述したものである。
今回、若干の誤字脱字の修正をしている。
また、当時はNT組合を11軒と記載していたが、今回12軒に修正している。(ただし、文章の修正であり、写真の方はもはや修正は後に述べる理由などで無理である。)
私が本拠地をふるさと・ID村に戻ってきたのは1988年1月である。正確には、無理矢理、ふるさとへ連れ戻され、事実上、監禁されたのである。
その頃は、NT組合は11軒であった。

1989年から、三度大吐血五度入院の羽目となると同時に、1990年から鬱病(うつびょう)を激しくした状態となり、脳が機能しなくなる状態となる。(ちなみに、政治学専門の私がソ連崩壊を覚えていないくらいである。)
1994年に脳の方は奇跡的回復をしたが、今度は躁鬱(そううつ)病の躁状態の如(ごと)くとなると同時に、内蔵の方は未だに吐血の危険を抱え、再発におののく毎日であった。
また、再起に奮闘し、超多忙の日々となり、我が家関係の日常生活や村のことは一切知らなかった。
さらに、IT組合ではこの頃は、各家から一人が村の付き合いをするとなっており、父死亡後は母がしていたため、私は1997年頃まで、IT組合は11軒と思っていた。後に12軒と知った。新しい家を見たのは1995年頃かもしれないが、NT組合とKT組合の境界線のため、NT組合に入られたとは思っていなかった。

私自身が母に変わり、村の付き合いをしだしたのは2003年初頭からである。それまでは、新しい家の人は知らぬため、不審人物と思われる危険もあり、撮影ができなかった。

万一、事前に許可をとったとしてすら、私の如(ごと)く、(2017年早大撮影でみせたように、地面に這いつくばり撮影することを含めて)奇妙な形で撮影すると、何か嫌がらせをしているのだろうかと、人は誤解をすることが多々(たた)ある。


もっとも、本当は奇妙な形ではない。本格的に撮影をする人は、誰でもオリジナルの奇妙な形で撮影することが多いのである。本格的にカメラをやっている人ならば、「おお、面白(おもしろ)い形で撮ったな」とか「やったな」とか「そういう撮り方もあったか」と即座に気がつく。だが、通常の人が見ると、奇人・変人どころか、自分の家に恨みがあり、嫌がらせをしているのだろうか、と思うかもしれない。
だが、撮影の都度、解説をしていたならばシャッターチャンスも何もあったものではない。(基礎から言わねば分からぬため)一枚につき解説時間も数時間以上になるかもしれない。その上、特許に該当する企業秘密の如くものもある。


撮影上の常識事項でも、通常の人が、不審に思われることさえあった。たとえば、ある家を撮影するには、該当家を中心に近くから360度、遠方から360度、その中間から360度歩いて回り、撮影角度を決めるのが常識である。そして角度を決め、花や空も構想を練り、自然が私が思った条件になるのを1年も、2年も、3年も待たなければならない。
だが、通常の人が360度回っているのを見ると、何をしているのかとか不審人物と思うかもしれない。撮影の常識事項ですら、こういう問題があった。

さらに、村のアルバムは1999年に打ちきり宣言をしていた
人間は霞(かすみ)を食っては生きていけないため、健康が回復したならば、新仕事に就く準備などをするためである。カメラは仕事道具の一つであり、趣味で使用しているのではない。私の(販売用)文献などに挿入するための商売道具である。

ID組合・村アルバムは、「みんなによかれ」と思い開始し、後には母との契約で行っていたが、いつまでも続けるのは道楽以上のものであり、同時に将来老後破綻(はたん)、餓死の道ともなる。そこで、2000年から二枚の写真を除き打ちきりとしていた。


その結果、11軒で作製しているが、「ふるさと―1」で記載したように、このアルバムは封印をし、私の死後50年か80年後に、活用したい人がいたならば活用となるため、特に問題はあるまいとも思う。
相当拘(こだ)って作成したため、一軒でも、数年かかることから不可能である。


また、別の場面(例:レンゲの花など)でも、NT組合(若しくはID村アルバム)は1999年終了としているため、2000年以降に良い写真を撮った場合でも、変更は原則としてしていない。それは、挿入写真約170枚を列車の時刻表の如(ごと)く、(類似のものは原則しようしない…とか、私の主張型)組み合わせ型で作成しているため、他の写真も変更を余儀なくされたり、一軒のみ変更したりすると、他家はどうなるのか…という問題もある。同時に、再度言えば、1999年で打ちきり宣言をしている筋の問題もある。

そこで、2000年以降に、○○家でこの花は○○家と違うと分かっても変更はしていない。ましてや上記の如(ごと)く勘違いをしていたため、十一軒で作製しており、そこを変更すると一軒追加が不可欠となるが、自然と相談するため、一軒でも数年以上かかる。自然が私が要求している条件をつくるのを待ちに待たなければならないからである。
写真は、観念論であり、私の脳によぎった風景を自然がつくるのを待つことの方が多い。勿論(もちろん)、見たこともない風景で即座にということもあろうが、作品上は、それは例外でしかない。更に、一軒追加すると、2000年以降に催眠で撮らされたものと膨大な数の置換え問題、先に記した「この花は我が家の花ではないという家」の処理問題…「ではついでに我が家も…」と全面改訂の危険性すらでてくるため、物理的に不可能でもある。

また、各家・花・花と家でNT組合は構成したが、花などを□□家がこちらがよいと言わんばかりに植え替える度(たび)に、私も何度も撮り直すと、私が花撮影が趣味と勘違いされ…で🤷、ということもあった。ただし、□□家は1999年以降は撮影していない。1998年以前の話である。勿論、予算問題もある。

なお、2000年以降も撮らされたのは既に記載の如(ごと)く催眠撮影である。資金は、雇用能力開発機構との賠償交渉闘争用資金(弁護士費用)などを使用させられた。この箇所でこれ以上記載するのは興ざめのため、今回はここまでとする。

なお、和霊様が復活したと記載しているが、過疎化の中で再度なくなっている。
生きている人間が一番であり、村の人口減少などから仕方のない話である。

次回は、昔の村の姿などを文章で紹介予定。


2020/07/05 13:50追記
今回のフォットエッセイ部分は、拙著『閉じた窓にも日は昇る(上巻)』(Kindle、KOBO各百円、海外では1ドル)にごく一部収録している。
写真の方はプライバシー権、幸福追求権に配慮し一切使用していない。
※📖本の案内→http://h-takamasa.com/book-01/custom33.html

もっとも、私の作品は、文章、写真、自作イラスト…からなり、文書が主人公でもある。長期に亘(わた)り、諸妨害で文書が書けなくさせられているだけである。起業目指して、開始した電子書籍では将来、文章、写真、自作イラストに加えて、音声、動画、諸リンク活用、数カ国語自動翻訳機能装備…などを、目標としているが、妨害三昧(ざんまい)で牛歩状態にある。

2020年7月5日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA