世界の歌を通じて世界を知る。アメリカ文化の源泉とアフリカ

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世界の歌を通じて世界を知る。アメリカ文化の源泉とアフリカ


【更新履歴】

2023/04/29 23:42 下書き掲載

2023/04/30 17:43から清書化の一部作業。正式公開は、2023年5月1日掲載予定の第14回世界の歌USA・Part 1の№3とほぼ同一時間か、その直後を予定している。

2023/05/01 18:59 掲載

2023/05/02 15:42 正式公開

 


(April 29)

第14回世界の歌・USA Part 1№3予告。アフリカとアメリカの文化交流はいつか。

(下書き抜き・推敲抜きの殴り書きで失礼):誤字・脱字は後日修正予定。

誰かが言った。

アメリカとカナダの文化の源泉は同一ではないか、と。

違う。

アメリカは準州や自治区を含めると横が広い。

下記、地図をご覧いただきたい。

(日本から見て)東はグアム(Guam)までである。グアムは台湾やフィリピンのすぐそばである。

準州でのみではない。(アメリカ合衆国50州の中で最後に加盟した州である)ハワイも日本とアメリカ本土の中間の位置である。

(日本から見て)アメリカの西の自治区はプエルトリコ(Puerto Rico)である。

プエルトリコからアフリカまでの距離もそう遠くない。

(図はクリックで拡大、二度クリックで巨大)

ここで注意をしてもらいたい。

アメリカ文化の源泉は、①②③はカナダと同一である。

即ち、①はUkraineやモンゴルなどからシベリア経由でアラスカを下り、北部アメリカのラインである。

②は、北欧からグリーンランド、そしてカナダ東部やアメリカ北部のラインである

③は、南米と北米の往来である

ここで私・浜田隆政は世界の歌の関係から、どうしてもコートジボワールあたりと、カナダのファーストネーションの踊りや衣装に共通点をみつけた。

そこで浜田説では、マリ王国→コートジボワール→難破船などで南米へ、そこから北上しアメリカ・カナダに文化が伝播(でんぱ)した説をとなえた。

上記までは下記参照。

☆☆☆☆☆

🎼第四回世界の歌・🇨🇦カナダ改訂版・まとめ編

http://h-takamasa.com/Blog/?p=28866

🎼第四回世界の歌・🇨🇦カナダ改訂版・まとめ編

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ここまではカナダとアメリカは同一である。違うは次の二つ若しくは三つである。

④北部アフリカ・西アジアのベリーダンスが、タヒチ・ポリネシアでベリー(腹の部分)がお尻に置き換えられて類似若(も)しくは同一の踊りがみられる。

 そして、タヒチ・ポリネシアの踊りがスローになったのがハワイのフラダンスである。それが証拠に、ハワイでもポリネシア・タヒチと同一の踊りも見られる。

 ハワイはアメリカの正式な州であり、アメリカ合衆国そのものである。そのハワイに北部アフリカ・西アジアの文化が、西洋のアメリカ移民前に、ハワイの先住民に伝わっているのである。

 コロンブス(Christopher Columbus:1451年 10月31日- 1506年5月20日)やアメリゴ・ヴェスプッチ(イタリア語: Amerigo Vespucci, 1454年3月9日 – 1512年2月22日)以前に、ベリーダンス系統の文化がアメリカのハワイに伝播している。

 正式会場の公式HPで次回紹介するが、全て紹介できないため紹介できない部分は臨時のブログで踊りを掲載するので比較してご覧いただきたい。

 ちなみに、世界の歌・今月の歌の関係で、西アジアの文化・北部アフリカの文化のベリーダンスがインドまで伝わっていることまでは確認できた。それではインドから、ポリネシア・タヒチまでどの経路で伝わったかを調査中である。

 こうしてアフリカの文化の一つは、西洋からの移民がアメリカ大陸に来る前に、既にアメリカのハワイには到着していたとなる。ただし、ハワイからアメリカ本土の先住民にはつたわっていなかったようである。

(資料用動画)
ベリーダンス(ダンサー自体は中東や北部アフリカではないが、中東・北部アフリカのベリーダンスの型が分かりやすい物を掲載。場合によれば中東か北部アフリカのダンサーに置き換える場合もある)
https://youtu.be/UKGc5o-QHAA?t=60
https://www.youtube.com/watch?v=UKGc5o-QHAA
https://www.youtube.com/watch?v=UKGc5o-QHAA

 

ハワイの踊りの一部

⑤:次に、アメリカの準州⑤のグアムについてである

結論から記せば、南部アフリカのズル族の衣装と大変似ている踊りのときの衣装が、グアムで幾つか見られる。

 踊りの形態はかなり違うが、服装が極めて類似している。

1)グアムの民族踊りの一つ

2)グアムの民族踊りの一つ

3)南Africa共和国あたりのズル族の踊りの際の民族衣装

4)南Africa共和国あたりのズル族の踊りの際の民族衣装

 ただし、南Africaあたりから、グアムまでのの⑤のルートは現時点では全く不明である。

 南部アフリカのズル族の踊りが、どこを経由してグアムに行ったのか、その謎は当面残しておく。

 その鍵の一つが、私はニュージランドかインドネシア界隈の先住民や、ポリネシアの踊りを紹介するときに何かヒントを発見するように、現時点では想像というか空想している。現時点では全く不明であるが、大昔のグアムの衣装にアフリカ南部の衣装が見られる発見を今回のアメリカ特集でした。

 ともかく、衣装を上記に紹介したので、読者の方で比較検討をしてもらいたい。

この謎は、まだ、私が世界の歌をやり続ければ、いつか自ずと解明されるであろう。

学説ではなく、私はただ単に、世界の歌を掘り下げてやっているだけであるが、こうした事象に出会うのである。学問とは机上ではだめとつくづく思う。

⑥:次にアメリカ自治区の⑥のルートのプエルトリコである。

地図をみれば分かるようにアフリカからプエルトリコは極端には遠くない。東京からニューヨークに行く距離の三分の一程度である。

 そこで、⛵の難破などでアフリカ文化がプエルトリコ界隈にきていても良さそうなのであるが、今回はそこまでの資料集めはできなかった。

 プエルトリコでアフリカ文化を確認したのは16世紀からであった。スペインがアフリカにも進出し、アフリカの人の一部をプエルトリコに移動させたそうである。これが⑥のルートである。

 ともかく、16世紀は確認ができた。

 そして、その紹介を公式HP・世界の歌で2023年5月1日に予定している。

 しかし、アフリカはアメリカの独立宣言より以前に、マリ王国などの文明があった。マリ王国が巨大な⛵をつくっていた話はカナダで紹介した。マリ王国から海にでるためコートジボワールへの川を下ってでたと推定している。

 こうした⛵が難破すれば、南米にはつく。(Africaから南米までの)距離はニューヨークからロサンゼルスまでの三分の二程度だからである。アフリカからプエルトリコとなると、ニューヨークからロサンゼルスまで距離であろう。

日本では、1590年頃生まれた山田長政などが海経由で、それ以上の航海をしてタイに行っているため、私のおとぎ話ではない。

また鑑真和上が日本を目指し難破しベトナムに漂流したのは、7世紀の話である。

※鑑真(がんじん、Jiàn zhēn:688年〈持統天皇2年〉 – 763年6月25日〈天保宝字7年5月6日〉)

日本からベトナム程度の距離である。南米と西部アフリカはそれ以下の距離である。プエルトリコとアフリカはそれに毛の生えた程度の距離である。

◎上記の探求の意義は何か。

面白いではないか。

同時に、その探求を推し進めると、私の昔の専門であった政治学の世界に行き着く。

アフリカとアメリカ先住民の間で文化の伝播があった。

例として、マリ王国→コートジボワール→南米→北上し、アメリカとカナダ(ファーストネーションズの衣装と踊りなど)にその証(あかし)が残っていることはカナダ特集で実証した。

ここでは、対等関係での文化の伝播であった。ところが、その後で奴隷制度がアメリカに導入される(奴隷は西洋の犯罪者の一部→先住民→最後にアフリカの黒人に目をつける…)。

 対等なものが、偶然に差別そして、セグレゲーション(人種分離)とはならない。

すると、黒人奴隷を合理化するための政策や教育が意図的に行われたとなる。時にはそれを徹底的に植え付けるための、政策と実行があったとなる即ち、原爆をつくるのと同様に差別を作る研究がなされ・実行されたことになる。私に言わせれば、裏の政治学である。

 そこで、私の古巣・政治学の世界が見えてくる。

 一部の国での人種差別は、裏の政治学で、裏で政策決定(Decision Making)されたとなる。

 だから、そうした政策決定を裏でなされていなかった、Brazilやキューバには黒人差別は存在しないとなる。

 私が研究した範囲では、差別の大半というよりもほぼ全部が、政策でつくられていた(少なくとも、差別の制度化や強化が政策により行われていた。戦前の植民地支配の事例を見れば即座に分かろう)。

 日本などはその典型であった。それも、植民地主義の時代の政策でも、それ以前の封建時代の政策でも両方でなされていた

朝鮮半島出身者は昔は、先端文化を日本にもたらす、エリートとしてみなされていた。それが、明治以降は違ってくる。ここも政策でなされたことを、私はいずれ証明をするであろう。

 ただし、もう人生はわずかなため、政治学の世界には戻りたくないので、音楽を含む文化の世界で証明をしたいと考えている。世界の歌をまだやり続けるならば、日本特集か韓国・北朝鮮特集の際にそれを証明したいと考えている。

差別のメカニズムの研究は世界から多数の差別をなくす上で貢献できると考えてもいる。

同時に、新たな差別を作らぬための予防薬となるとも考えている。

民主主義の発達は遅々(ちち)として進まぬように思えることが多い。

だが、私が高校の頃には、「差別なき社会を」と言えば、様々な圧力が加わったこともあった。

アメリカなどでは命がけでもあった。

キング牧師が暗殺されたのは、私が高校一年のとき(1968年)であり、私が「差別なき社会を」への道を歩み進めた年でもあった。

思い返せば、その一年前の1967年では白人と非白人の結婚を禁止する州がアメリカでは13存在していた。それを考えれば、民主主義は遅々としても、やはり浸透はしつつあるのであろう。ただし、ジグザクと後戻りを時にはしながら…。

2023年4月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA