気がむけば一言【駿台】№208 女性問題でっちあげ被害、引き続くトラブル、人間違い被害疑惑(4-2)・当時の女性理想像と催眠変化被害。
掲載履歴
2020/10/07 17:48~18:38から下書段階で掲載(大幅追加と大幅修正を徐々に行う)。
2020/10/07 19:27追記。(食事などで休憩。食事といっても、汚れがたまった食器を洗い、素材から自分で料理をし…であり、食べるだけではないのです。)
2020/10/09 8:03から記述再開。《◇―6》記述。9:50《◇―8》の下書終了。
2020/10/10 20時頃から清書作業中、今、1:12現在。2020/10/11 3:07 正式公開一歩手前:先に(5)同和問題を臭わされる謎の下書進行中
2020/10/11 14:22 一番下に長い追記。14:54追記。14:58追記。
【構成:不可思議なこと】(順次清書中:数回に分けて掲載)
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(1)女性問題としての実態のない不可思議なトラブル。
女性に指一本触れず、デートもせず、学外でも会わず、学内でも人前でしか会話せず、会話時間も一人当たり6年合計で10分程度である。勿論、ストーカーや、パワハラなどもしていない。さらに、(4)で述べる如(ごと)く、私の方が駿台NMさんに手紙を渡し断られたのである。
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(2)刑事犯罪被害に結びつけられた謎。
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(3)駿台辞職後も30年尾を引いている疑惑
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(4)出発点の不可思議さ―人間違い説
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(5)同和問題を臭わされる謎
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(6)人間違い説疑惑を解説しようとするや各種危害のオンパレードとなる謎。
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(4―2)を掲載。(4)の《◇―5》以降に該当。ここだけはテンポが駿台事件とやや異なる。また、今回は後日、今までの下書を修正のみか、大きく削除予定でいる。ただし、今までの下書は今回のシリーズ(4)の箇所(「一言№207」)に当時の下書のまま保存している。
(クリックで拡大可能)
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《◇―5・「水俣」で出会った女性の小さな♥の思い出と、人物連動説の脅威》
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(2020/10/07 18:37記述)こうした中で、昔を思い出していると、奇妙なことを思い出した。
駿台事件の開始は1984年夏ではなく、1983年夏なのである。
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1983年夏前に、1983年度駿台の職員になった🚺NMさんと、お茶をついでいただいた際に数度お茶のついでに短い会話をした。勿論、ガラス張りである。そのときの第一印象は、私とは生き方が違うので、しゃべっても無駄という思いをしたことを覚えている。
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ただし、数分程度の会話のため、NMさんの性格は分かる訳がない。だが、容姿などは私好みでは全くないし、次に述べる(私の)女性理想像とも異なっているとしか思えず、更に、既述の如く、女性職員と男性教師の付き合い類は管理職か古株の専任教師の斡旋というか見合い設定抜きには無理なシステムとなっている。
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容姿も私好みではない(容姿は、ファッションモデル類型ではなく、既に記載した高校生コースの子の如く純真無垢とか、榊原郁恵タイプのため全く違う)。さらに次に述べる本質面でまずあわないという感じを受けたため、もはや近づく動機もない。そして接点がない上に合わないと思った女性に近づく人はいない。
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例えば、銀行の受付女性に客が近づく手段はないが、嫁さんになってほしいと熱を上げる人もいるかもしれない。だが、合わないとか自分好みではないという第一印象の銀行の窓口の女性に、伴侶候補者を求めて、お客が近づくことはないのと同様である。
こうした場の付き合いは、当然、全て結婚前提であることは何度も書いた通りである。
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そして、相手も、それを察してか、私の方を無視近い状態となった。それで良い。それで世の中はうまくいく。
当時の、私の家族・伴侶理想像は以下の写真にある。
ミスター・オバマのSNSなどはよく見ている。彼の掲載する写真に時々うなる物がある。この日は、「(血の日曜日事件の象徴)セルマの橋」(公民権運動で、アラバマ州セルマから州都モントゴメリーまで行なった大行進の途中で起こった惨劇場所セルマの橋)の写真掲載があった。
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どこが良いのかと言えば二点ある。
一点は、家族、愛、社会正義…絆(きずな)が凝縮されている点である。
写真に向かってMr. Obamaの隣が、ジョンルイス氏(キング牧師などと公民権運動を行っていた下院議員)、その隣がミシェル夫人、その隣がナターシャさん(オバマ夫妻の次女)、その隣が、ロビンソンさん(ミシェル夫人の母)、その隣がマリアさん(オバマ夫妻の長女)である。
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この写真のもう一つの良さは場面構成である。例えば、マリアさんの横の男性が一部切れているが、これでよい。ミスター・オバマが喜ぶからではない。左を切ることにより、読者の目がマリアさんに向く。
写真の詳細な技術面は後日、芸術欄で触れるとして、今回は第一の点のみを強調しよう。
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前者のみを解説しよう。
人間関係は複雑である。単純ではない。順風満帆ではない。しかし、先の写真の一瞬には紛(まぎ)れもなく〝美〟がある。人間愛という美である。
そして、一枚の写真が後には多くを語るときがある。言葉以上に。夫婦、親子、祖母、孫…が手を取りあう姿。そして彼ら・彼女らの中には公民権運動活動家・ジョンルイス氏もいる。老いた車椅子の老婆もいる。
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彼ら・彼女らが「正義と公正」を求めて手を取り合う。その輝く一瞬である。人間は高潔なるものを求め続けている、正にその瞬間が一番美しい。達成した後よりも美しい。これが私が求める〝美〟である。
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もし、家族が予期せぬ危機に遭ったとき、それを一枚の写真が救うこともある。ユージンスミスは「写真は時には物を言う…」と記したことは拙著『求め続けて』に書いた通りである。これが私が求める芸術でもある。
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話を本題に更に戻そう。
私が水俣に行ったのが1983年であった。その頃の私はちょうど30才であった。女性の理想像も高かった。
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私は日本語の「奥さん」を、自分の奥さんを指す場合には、英語では「Wife」とは書かない。「Partner」とも書かない。通常は「My better half」と記述することが多い。
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そこで、当時の私の女性理想像は、「公正と正義」を求めて、私と手を取り合い進む人である。更に、下記に記すように、女性自身の高尚な目標も持っていただきたい。可能な限り、女性自身も自立し、経済的に私と同等となるとき、真の恋愛が生まれるという立場であった。
もっとも、当時は多少、マインドコントロールされ、容姿も好みの人を探していた。ただし、容姿は世間一般ではない。水俣で出会った女性(後で写真を掲載)などは十分私の要望を満たす容姿である。それを書けば大体分かろう。
私の好む容姿とは、俗に言う美人、「ミスユニバース」とか「ファッションモデルタイプ」の女性ではない。
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大学時代の前半婦人問題研究部にいた関係で、「万国の女性よ自立せよ」型女性をも志向していた。
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(参考)
エッセイ・写真―1回・万国の女性よ自立せよ。
http://takahama-chan.sakura.ne.jp/p-essay/custom7.html
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しかし、私も年を取った。本年間もなく、68才である。
そこで万一、現世で結婚なるものが可能ならば理想は多く変わった。
ミスター・オバマは私を軽蔑するかもしれない。
だが今の本音を書こう。
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「君は私を軽蔑するかもしれない。
だが本音を書こう。
女性の理想像は昔は水俣の箇所で書いた通りであった。
今は。もう68才。
仕方がないではないか。
今の思い。
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私の皿洗いを手伝ってくれる人。
墓掃除を手伝ってくれる人。
掃除の指揮監督をしてくれるひと。勿論、私もします。
料理などの家事を分担と言いたいが、せめて、私の作った料理をおいしいといって食べてくれる人。
いや、ここは妥協できません。家事は分担です。
言ったぞ\(^O^)/、オバマ。
やはり、今でも、私が先に書いた「万国の女性よ、自立せよ」を思う。
当然、置き換えても同様。
「万国の男性よ、自立せよ」と。
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同時に、私の伴侶の英訳は今でも「My better half」としたい。」
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《◇―6・問題の仮説》 (2020/10/09 7:58記述)
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前ページの《◇―2》で書いたように、私が駿台女性NMに熱を上げて1984年秋に手紙を出して物事が始まったのではない。《◇―7》で再度述べる如(ごと)く、1983年夏に水俣で出会った女性にほのかな熱を上げたのを見て、その後でNMが工作員の如く近づき、最後は催眠熱でNMに熱を上げさせられたのである。
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目的は私を駿台から放逐(ほうちく)するだけではなく、その後の経済の自由剥奪(はくだつ)や結婚の自由剥奪にあったと思われる。ただし、NMがそこまで知っていたかどうかは別である。
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犯人に関する仮説を書けばこうなる。
①首謀者はXである。Xが🚺NMに何かを依頼したとなる。
②映画説である。永久の世か何かの映画・TV説である。映画・TV該当する媒体の監督がNMに何かを依頼したとなる。
③その折衷案である。即ち、②には違いないが、Xを絡めて物語を作ったとなる。
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《◇―7》で述べる催眠に該当する行為をしたのは②では映画・TV関連該当者、①ではX、③ではXか映画・TV関連該当者となる。
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『閉じた窓にも日は昇る』(Kindleで上下各百円若しくは1ドルで発売中)では、一般説、X説、TV説のいずれかが犯人と書いていた。しかし、もはや一般説は消えうせた。催眠類、TVなどを通じての対話が可能となった以上、一般説はない。
TVやインタネットを通じての対話や人物連動説が登場した以上、解答は③しかない。 だが③の場合にXも事情を知った上での演技なのか、Xが事情を知らずに、映画類に踊らされたのかは不明である。また、催眠類の犯人も、この場合にはXか映画・TV類関係者かは不明である。更に、この世において裁かれる場合にはどちらが責任を取るのかという問題もある。
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なお、Xが事情を知らずに映画・TV類に巻き込まれている場合には、XがZに恨みを持ち、Zと私とを勘違いした可能性が高い。少なくとも、亡き友人が断定したように、Zと私との人間違いである。
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今回の原稿は、上記の赤字部分をXなどに気づかせることを主たる目的としている。同時に、社会告発を目的としてもいる。更に、🚺NMさんなどが大義面から協力した場合には人間違いが分かれば、彼女らも何らかの証言に協力し、問題が解決する場合もあろう。これが今回の原稿の目的である。
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その一貫として、《◇―7》では、1983年水俣訪問の思い出を語ろう。
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《◇―7・1983年水俣訪問と淡き恋心》(2020/10/09 8:12 大幅修正と加筆)
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1983年夏に、先輩であるが親友のIT氏に、熊本で行われた教員の研究集会に誘われた。会の名前は歴史教育者協議会であっただろうか。ところが直前に彼は参加できないと言い出した。その結果私が一人で参加した。
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当然、こうした研究会に知り合いがいる訳がない。弱ったというものではなかった。しかし、何日かたてば、社会科とか教師に感心がある人の集団のため、会話をする人が何人か登場した。
大きな研究会のため、各種分科会があった。ある分科会で、私好みの女性に出会った。美人ではないかもしれないが、私好みのタイプであり、容姿もこの種の容姿は私のお気に入りの一つである。ただし、現職教師ではなく、教員志望の学生のようにも見受けられた。
水俣訪問当時の写真の一枚を掲載しよう。もう37年前のため、私も含めて顔もかわっており、また大勢の写真のため、肖像権問題もなかろう。更に、どの女性かは書いていない。本人と《◇―8》で登場する女性群しか分からないため、問題はなかろう。
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【1983年水俣訪問時の写真】
(この写真の中のどこかにこの女性がいるか。名前は当時の参加者名簿で特定は可能である。当時の住所も同様である。裁判等が可能となり、証言が必要時には、本人からの具体的聞き取り調査だけが意味を持つ)。
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この集団の中で、男性教員には簡単に話しかけられたが、この女性には何回か同一分科会で会ったものの、声をかけたり、会話をしたりする度胸がなかった。しかし、この頃は私は30才(数か月後に31才になる)で結婚に焦りを感じていた。伴侶ならばこうしたタイプがよい。どういうタイプかは《◇-5》のオバマ大統領写真の箇所に書いている通りである。
更に付け加えれば、教育、社会科、社会問題に関心を持っており、恐らく教員として自立していく女性であろう。その上、容姿も私好みである。数日見た範囲では全条件が揃(そろ)っている可能性が高かった。もっとも、実際に見合い該当、その後の付き合いをせねば詳細は不明であることは言うまでもない。
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もはや分科会も最終日となり、諦(あきら)めた。だが、現地見学(フィールドワーク)がオプションであるという。私は水俣コースを選んだ。彼女がくれば、今度こそ、決死の覚悟で話しかけると心の中で決定した。
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だが来るわけがない。何故(なぜ)ならば、当時は数千人が参加しており、そして水俣行きのオプションツアーはバス一台か二台である。確率論から言って、50分の一以下である。
しかし、来れば、絶対に会話をすると決めていた。
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そして、水俣行きのツアーに参加した日に彼女は来ていた。オプショナルの水俣ツアーは一泊二日である。部屋は違うが同じ宿で寝ることになる(水天荘という国民宿舎である)。このときのコースや思い出は拙著『旅に心を求めて―不条理編(下)』(生けとし生ける者は生き続けなければならない){Kindle、KOBO各百円参照}に書いている。もっとも、女性のことは書いていない。
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だが、結局、声をかけることはできなかった。会話のチャンスが幾つもあったのに。食事時、バスをおりて歩いているとき、…と。実際に、夜は半徹夜で、様々な教師と語り合ってもいる。
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なお、この女性には客観的に考えて脈があったようにも思えた。というのも、私がバスの中でマイクを持ち「授業論」などを語ると、この女性はにっこり笑い、くいつくように私を熟視し、うれしくてたまらないという顔で私の話を聞いていたのを覚えている。一瞬は、ふりむき、私の顔を真っ先にみたのも覚えている。
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双方が関心をもつ女性には滅多(めった)にであわない。そこであの顔をみたならば、最後の別れ際とも考えたが無理であった。
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こうしてツアーは終わった。だが、運良く、参加者名簿を渡された。そこで、今度は絶対に手紙を出そうと決心した。しかし、口実があった方がよい。そこで、年賀状を兼ねてだそうと冬を待った。
だが、年賀状を兼ねて手紙を出そうと思うも、何度も迷い、臆病となり、1983年中に出す度胸はなかった。ちなみに、こうした手紙をだしたことはないため尚更(なおさら)であった。同時に、こうした所で出会った女性に手紙を出そうというアイデアを思いついたのも、この女性との出会いであった。それまでは、出会った女性や職場の女性に見合い該当の申込みを手紙で直(じか)に出すというアイデア(考え)を持ったことはなかった。思いつきもしなかった。
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しかし、未練はあった。そこで、1984年1月の駿台講習時も、まだ遅れた年賀状か寒中見舞いかを兼ねて手紙を出そうと思い続けていた。
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ところが、不思議なことが起こる。
思い続けて悩んでいた時間を1984年1月●日YY時とすれば、ある一瞬を契機に、突如その手紙の件は忘却し、駿台の先のNMという女性に熱があがったのである。当時は催眠というものを知らぬが、不思議で仕方がなかった。そこで、催眠とは知らないが抵抗をし、昔、真備高校(女子高校)で同僚であった先生に手紙…となる。だが抵抗もむなしく、催眠攻撃でやむなくNMに手紙を出す羽目になるように物語は進行していった。
この手紙という発想は水俣で出会った子にコンタクトを取るために思いついた手段であった。何故(なぜ)ならば、他に手段がなかったからである。
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なお、駿台女性NMさんは、1983年夏に私が水俣で出会った子に熱をあげたのを確認してから、1983年秋頃から私の関心をさりげなく引く素振りを開始した疑惑がある(駿台にいるはずがない赤ちゃんと登場とそれをあやす、それも私が必ず見るように…)。だが、このNMさんが私に関心をもっていれば、1984年夏に手紙を渡した際に、良い返事をするはずであるが全く逆であった。
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NMさんには《◇―5》で書いた、私の希望の女性とは縁遠い印象を受け、更に容姿も私好みではなく、おまけに人がいない場所での会話の機会もゼロのため、私の方で話すだけ時間の無駄と1983年夏前に無視した女性である。
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ただし、深見係長が1985年春に言ったように「NMさんは美形なので男性からの誘い類には慣れていると思いますので、浜田先生の手紙などで怯(おび)えるようには私には思えませんが…」とクスクス笑われていたことも既に書いた通りであり、世間一般の男性は関心を持つ女性かもしれない。だが、私のHP類を読めば分かるように、私は世間一般の男性では全くない。
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(NMさんへの印象などは下記参照。一言№119が本質であり、この問題はこれでケリがついているのである。だが、その後も何度も書かされる。1997年頃から何度書かされても同一のことしか書けない。それが事実だからである。)
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気が向けば一言【変恋】№119・日本のフィクサーME・パート2付録編⑨・「お嬢(🧜・🎎)から、女性C、そして🎃オジョウと🎦映画説」
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1036/
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(もう少し現実風に書けば下記)
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【徒然・私事】№136:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違い、と言う(2):駿台等
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1112/
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気が向けば一言【徒然・私事】№137:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違い、と言う(3)。
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1115/
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随所に書いているが(多分1990年代の後半から書いているが)、この女性NMさんに私が熱をあげて揉(も)めて駿台を辞職したのではなく、私を駿台から放逐(ほうちく)し、さらに、私が長期に亘(わた)り(ときには一生涯に亘り)仕事をできなくするために、このNMさんが誰かに頼まれて、私の関心を引こうとしたという仮説である。それがうまくいかないので最後は催眠であった。
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なお、この種の催眠は過去にも、高校時代に部落研究会の後輩女性MTさんに熱をあげていたら、ある日、午後からは同じ後輩のHTさんに熱が移動した。それも僅(わずか)か1分程度で。さらに、駿台大阪校にいってからは、岡山の予備校でも、女性TYさんに突如熱をあげさせられるが、それがある日、突如YJさんの方に熱が変わるという不思議な体験もあること等は既述の通りである。
駿台女性関連は、1986年春の深見係長からの(京都校から大阪校移動への打診)電話を合図に全て感情が消え去った。催眠とはそういうものである。これらは今回の《◇―3・聞き取り調査のポイント》に書いた通りである。
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しかし、高校時代のそれと異なり、他のは、特に駿台NMさんの件は、私を駿台から放逐(ほうちく)するためとしか分析できない。
だが、私は他人から恨みを買う心当たりは一切ない。そこで、高校時代の件なども思い出しながら、山田洋次型ドタバタ劇でこうしたシナリオを考えたのだろうと、駿台辞職後(1988年1月)の半年後くらいからは、そう考えていた。
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多分、(1986年1月頃の)駿台京都校の高校生コースの女の子と職員🚺NMの目があい、火花か散ったように思えたのを契機に催眠がかかり、(1986年春の)深見係長からの電話を契機に催眠がとけたのであろう。
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その後、NMさんへの好意的な形で思い出したことはただの一度もない。さらに、先の熱を催眠で上げさせられる前も、同様に好意的な形で思ったことは一度もない。
要するに、私は意味不明の(多分、永久の世の)映画説の主人公であろう。そしてNMさんの件はどたばた劇の導火線と解釈を長期していた。その根拠は《◇―8》を読めば分かろう。
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ところが、2012年の友人の言動や、就寝中に、映画説でも何かストーリーがあろう、脚本があろう、…と思わされた。さらに、人間違い被害を連想させる事件が相次ぎ、ひょっとすると、どたばた劇でも最初からのどたばた劇ではなく、どたばた劇を開始するためのシナリオがあったのではないかと思うようになった。
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簡単に言えば、XがZに恨みか何かを抱き、Zに女性を絡めて失脚させ、人生を台無しにする。そこで、Xが駿台🚺NMさんなどに何かを依頼をしたという映画・TV類の脚本があるという仮説である。
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だが、私は人に恨まれる性格ではない。誰かが故意にデマを飛ばさぬ限り。そして友人の一言「人間違いが原因」とか、世界の指導者が臭わせた「偽者」なる語を疑いだした。要するに、XがZ(若しくはZの母か父)に恨みをもったかもしれないが、私はZではなく、私は浜田隆政である。
ここ十年余りは人間違いを裏付けるような形で物語は進行している。Zは誰かは、私はXやZではないため特定できる訳がない。
ただ、人間違いが起こりそうな箇所を、プライバシー権に配慮しながら、臭わすしかないであろう。
それが、人生残り少ない時間を駿台時代の催眠誘導でしかも何の実態もない小学生レベルの恋愛どたばた劇について書かされている理由である。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
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《◇―8・筋書のないドタバタ劇と考えていた理由》 (2020/10/09 9:50記述)
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もっとも、筋書が一切ない、単なるどたばた劇の可能性もまだ捨てきれない。
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何故ならば、先の🌊水俣(🐬)でであった女性は、1987年夏にも岡山の社会科教員研修会で出会った可能性が高いからである。1983年当時に出会った子とよく似た子がお嬢の一人(🎎)と同様の仕草をしながら、1987年夏に、岡山の研究会で私の前を歩いたからである。
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駿台事件若しくは駿台トラブルの開始は1984年秋の手紙ではなく、1983年夏が終わった直後の秋からである。1983年9月から…先の赤ん坊…と続く。そして、刑事犯罪がピークなる直前の嵐の前の静けさが1987年夏である。駿台女性陣関連の開始時と終了時に水俣で出会った女性🌊は登場している。{駿台女性人ではなく、駿台女性陣である。}
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さらに、私を熊本の社会科教員研究会に誘ったITさん(男性先輩)は、あの女性🌊(🐬)は、お嬢のもう一人🧜と同一だ。さらに、駿台時代に慌てて見合いをした🛵女性(私は🌈と表現したい)「おじょう」とも同一だ、と言う始末である。
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駿台を1988年1月に辞職するや否や、女性歌手かアイドルとして西田ひかる(🌞)がデビューする。そして、西田ひかる熱が催眠型で、1995年頃から進行する。進行がひどくなるや、彼女はおじょう(🛵=🌈)女性と同一であることを強調する仕草をしたが真相は不明である。
西田ひかる熱は後にお初天神の所で出会ったオジョウ(🎃)という女性の登場とともに消え、同時に西田ひかるはその直後頃に結婚をする。
ちなみに、西田ひかるは今、私の大学時代の下宿から約1キロメートル、西宮市教育委員会時代に派遣されていた中学校からは約五百メートルの所に住んでいるようである。
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気が向けば一言【謀略】№204・愛宕山、🌈おじょう(🛵)から安倍昭恵まで。#駿台:🧜・🎎→🌊(🐬)→🛵(🌈)→🌞(📺)→🎃
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1375/
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オジョウ(🎃)に会うときに、某人物が🛵(🌈)女性とオジョウが同一であることを示唆する。オジョウと出会う日に🛵(🌈)女性の名を出すからである。
さらに、オジョウは初代お嬢(🎎)とそっくりな顔になったことがある。ちなみに、お嬢(🎎)とおじょう(🛵=🌈)の筆跡は大変似ていた。
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その上、オジョウは一昨年頃に、歌手であったが如く振りをする。正確には西田ひかるを連想させる演技をしたことがある。カナダのセリーヌ・ディオン(Céline Dion)の名を出したときに、ライバル意識を見せたのである。若しくはライバル意識を持った振りをしたのである。
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するとこうなる。
1971年~73年主として西宮時代のお嬢。
私が大学に入ったときには、先輩としてお嬢(🧜:人形[Doll]みたいと言われていた女性。尚🧜は人魚、即ちMermaidの絵)がいた。私が大学二年の時に、もう一人のお嬢(🎎:同じく人形[Doll]みたいと言われていた女性、🎎=おひな様)が入学してくる。一学年下ではあるが浪人しているため同い年であった。日本のフィクサーMEでお嬢を登場させるときに、迷惑がかからぬようにするため、この二人(🧜と🎎)を合成して一人のお嬢としている。
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77年~80年東京時代。ここだけ多分フリー。ただし、世話になった飲み屋が後に登場のおじょう(🌈=🛵)と同じ名字である。
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🤡が81年岡山市に。即、お嬢(🎎)が福山、更には岡山市に引っ越してくる。
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83年水俣の女性(🌊=🐬)に出会う。水俣の海が印象に残ったため海(🌊)で表現したいが、96年水俣再訪時に🐬(いるか)が強調されたため🐬で統一を検討中。
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84年上記の如く🐬熱を催眠でNM熱に変更させられる(\(◎o◎)/!)。
この頃、女性関連の🤡の指揮者が同じ岡山市にいたお嬢(🎎)である。
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84年後半、おじょう(🛵=🌈)と見合いをして付き合う。
おじょうに誰かがデマでも飛ばしたか如く雰囲気がしたときから、双方の感情がこじれる(1985年2月中旬か下旬頃)。
🌈(虹)の意味は、駿台NMに振り回され弱ったある日、岡山から京都へ向かう新幹線で虹を見るや、見合いでおじょうと出会ったからである。そして1985年正月頃に鳥取でおじょうを写真撮影すると、おじょうの後ろに虹(🌈)が写っていたからでもある。そこでおじょうを🌈で表現したいのであるが、駿台にいる英語美人教師がブログでスクーターを強調するため、おじょうもスクーターに乗っていたのでやむを得ず🛵でも表現したのである。
だが、いずれ🌈だけとしたい。なお、訪米時もお嬢類の化身がいたが、その女性と🤡がいたときに、レイクパウエルで🌈が出た。
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86年~87年駿台大阪校。
このときは先の人物連動説は途切れると思うが定かではない。お寺を連想する女性が数か月登場したり…である。恐らく、化身続きが何人も…であろう。
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88年1月駿台辞職。88年~1998年岡山短大講師時代=西田ひかる(🌞)。
お嬢類(🧜、🎎、🐬、🌈)は全部消えた。そして西田ひかる(🌞)が登場する。
🌞=光=ひかる、である。また、日本のフィクサーMEでは光源氏が登場するため、ひかるを強調するときもある。なお、大阪で私が拠点としていた地のほとんどが光源氏モデルの源融(みなもとのとおる)と関連した場所でもあった。
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1999年(1996年中継ぎ)~2020年現在。
岡山短大を98年1月に辞めて間もなく、オジョウ(🎃)が登場し、2020年現在となる。オジョウ登場前の96年から99年迄、お嬢(🧜)が生まれたお寺のある地域と同じ名の女性が登場し、オジョウ(🎃)と引継ぎをする。
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すると、1971年から2020年まで同一女性連動(🧜/🎎→🐬→🌈/🛵→🌞→🎃)となる。もう間もなく半世紀(50年目)となる。事実だと思わされている。ただし、一部違いもあろうが。
ちなみに、先の人物連動説が事実ならば、その他も原則として全部同一となる。違ったときにはお嬢群が😡のですぐ分かる。ミスター・オバマもいつかは分かるときが来るの一つが人物連動説である。
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もっとも、一生涯同一女性が良いかどうかは人それぞれである。重要なことは以下のみである。
α)契約を守る。浮気をしないという契約をすればそれを守る。契約がなければ自由である。金銭・家事類その他も同様である。
β)暴力類を振るわない。暴力、ドメスティックバイオレンス、パワハラ、セクハラ、ストーカー類はしない。
γ)卑怯(ひきょう)なことはしない。
この三点が必須。その上で以下があればよい。
δ)My better halfの努力をする。
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よって、既成の道徳観からは離脱をさせられたが、皮肉にも、お嬢類の手の平にいるだけの気もする。
だが、不明の点もある。
合成したお嬢🧜と🎎は一年関学でダブっている。もっとも両者が一緒にいるのを見たかどうかは覚えていない。
また、西田ひかるは結婚し、子供もいる。(ぽっちゃりした感じもでてきた)西田ひかるが、…「私でいいですか…」、🤡「いいえ、結構です(=No, thank you.)」となっている😺。
更に、オジョウにディオンの話をしたときに、オジョウは「セリーヌ・ディオン(Céline Dion)と知ったげに言った。同時に、私も(恰も西田ひかるの化身の如く歌手で)歌手としては負けていないわよ、という感じもした。しかし、私が「好きな歌手の一人にドミンゴさんがいる。ドミンゴさんは良い」というと、歌手としての嫉妬(しっと)ではなく女性としての嫉妬をした感じを受けた。ドミンゴさんとサンづけで言ったのでドミンゴさんを女性と思ったのであろう。オジョウが歌手ならばドミンゴさんを知らぬはずがあるまいとなる。
プラシド・ドミンゴ(Plácido Domingo)さんですよ。知らねば下記をクリック。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B4
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日本のフィクサーME登場の布袋(ほてい)さんならば、(二枚目な)ドミンゴさんではなく、ルチアーノ・パヴァロッティと言えば良かったのにというだろう。嫉妬対策で。いえいえ、私は伴侶や結婚願望は異性対象なのでどちらも同じです。良いとは歌手として良いと言う意味です。
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《◇―8》から言えることは、「人間違い」云々(うんぬん)ではなく、単なる筋書のないドタバタ劇の可能性も捨てきれない。その場合にはこうした文書を書くだけ時間の無駄である。
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しかし、人間違い説を調べぬ限り、私に対して(トラブル・風評被害・デマ・悪戯による経済損失…不法行為…の被害)危害を加え続けるという脅しがあるため、やむを得ず、念のため人間違い説を検証しているだけである。
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貴重な時間がもったいない。駿台の件など時間の無駄が当初の心理であった。
未(いま)だに賠償請求をしていない。賠償請求をしていないときに相手が賠償してくる訳がない。駿台に年齢のみならず戻る意思はない。見て分からぬか。万一、駿台に復帰する自由があるならば、もはや、私は更に私にふさわしい・自分の能力のいかせる場で活躍するであろう。
2000年頃(私が48才頃)ですら、後藤田正晴氏が私に「君は総理はまだ早い。君は今は大臣程度だ」といっていたが、しがらみだらけの政治家には興味がない。しかし駿台復帰などの経済の自由、人身の自由があれば、私の能力を生かせる場は駿台ではあるまい。何で、私が今更駿台なのかとなる。その上、年齢問題もある。更に政経などは入試の題材該当のときには、私が政策決定(Decision making process)に関与した事例もあるため、生徒が各国のスパイや官僚だらけとなろう。
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よって、駿台の件を書くのは時間の無駄どころか、人生の無駄である。その上、駿台や写真残酷物語は読者が興味を持たずに、HPなどの読者が激減する被害もある。
書いている私も面白い訳がなく、時間ロスでしかない。
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また、NM熱が催眠でなかったとしてすら問題は一切ない。それを否定してもプライドを含めて意味がない。ただ、偽者・人間違い説がでたため、💌が原因ではなく、逆であることを実証すれば、人間違いが分かろうということで書いているにすぎない。
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駿台女性トラブル開始のNMさんの件は催眠であることは間違いないが、それが筋書のないドタバタ劇の導火線なのか、訳の分からぬドラマのシナリオ(人間違いを起点)なのかは判明しづらい状態が続いている。催眠類熱であることだけが事実である。
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だが、何故、未だに駿台NMの件を書かされたり、駿台の件を書かされたりするのかさっぱり分からぬと同時に貴重な人生の無駄であると、人生終活に入り、参っている。馬鹿馬鹿しいことこの上ないである。
○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1302929268993716224?s=20
https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1302929268993716224?s=20
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追記:(2020/10/11 13:56追記)
①なぜ、私を無理矢理、この🚺NMに限定して、催眠類で熱をあげさせたのか。
②なぜ、この🚺NMは私に対して好意を持っていないのに、私に彼女に熱をあげさせる工作に参加したのか。
③なぜ、この🚺NMに指一本触れず、デートもせず、学内でも人前でしか会話せず、会話時間も3年合計でも見合い一回分の何十分の一程度で、40年もこの🚺に関しての問答強要をされ続けるのであろうか。もし、授業上の要請での会議室での3人による会談を抜けば、3年合計で10分未満である。
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④この🚺NMは誰に何を依頼され工作に加わったのだろうか。
⑤どうして、この件が刑事犯罪被害や、40年近い長期に亘(わた)る被害に結びつくのであろうか。
⑥この🚺NMは最初から最後まで同一人物であったのだろうか。(この点の追記を下記にしている。)
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結論として、私には何が何かさっぱり分からぬ状態が続いている。だが老後破綻を前に、更に人生最後の勝負もあり、斯様(かよう)なことに構っていられないのだが、無理矢理催眠類で、小学校時代の恋問題に近いことに反論され続けさせられ弱っている。
その前に、私には何が何かサッパリ分からずに参ってもいる。
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なお、⑤(最初と最後では人物が相違疑惑)について正直に記す。
1990年代後半に何度も書いた疑問である。この🚺NMは最初と最後の方が別人に見えた。最初(1983年頃)は、美形ではあるが、世間一般の人が見てもさほどの美人には見えなかった。勿論私好みの容姿でもない。性格は少しひ弱な感じもした。俗に言う良妻賢母型であったかもしれない。あくまで想像である。
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校舎を移動する最後の年(1985年度)、特に1985年後半から1986年1月頃は全く違って見えた。勝ち気な性格、そして怖いような攻撃性、恰(あたか)も映画で言う「◎◎の妻」の如(ごと)くに見えた。催眠下でも、一種の恐怖のような物すら感じた。更に容姿は世間一般で言う美人に変化していた記憶がある。
そして祭りの神輿(みこし)に担がれ、「無法松の一生」の主人公の女性版の如く、激しさがあった。
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さらに、永久の世の映画説ならば、お嬢類が🤡(私)に復讐(ふくしゅう)などと戯言(たわごと)を言い、🚺NMになりすまし、私に攻撃的な仕草を開始した如くであった。もはや恋愛類ではなく、各種攻撃であった。具体的には私の方を見て作り笑顔攻撃、無視すると髪をかき立て怒りを顔に表す。…もはや恐怖の世界であった。事務室の席から、講師室で私が座っている席をめがけて、他の講師に気づかれぬ形での…が多かった。
こんな恋など聞いたことも見たこともない。やはり「ちんぷんかんぷん」である。
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なお、京都校最後の頃は髪型を、私の長姉の姪(めい)の如くにしたことも印象に残っている。しかし、姪は実際に怖いときもあるが(若しくはうるさいときもあるが)、かわいいときの方が多い。私によくなついてもいた。特に私は末っ子のため、事実上の妹の如くであった。よって、こうしたNMタイプではない。年だけがこの🚺NMとほぼ同一(2才ほどしか違わない。ミシェル・オバマさんとほぼ同一年齢か全く同一年)でしかない。
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なお、長姉の子(私の姪)がきっかけで写真残酷物語が開始したこともどこかで記そう。これももう25年程度の悲劇となっている。それまでは写真撮影では公私分離でプライベート写真は一切拒否を貫けていた。1995年に姪の長子が生まれたのを契機に…。愚痴ではなく楽しい思い出としてどこかで記そう。しかし、95年は楽しい面もあったであろうが、後始末で…各種謀略が行われ、後の幾つもの危害へと…後に各種催眠や罠(わな)類で大変な目に遭遇することになったのも事実である。これらは姪が登場せぬため、姪には意味不明で、また😡かもしれない(「キーキーキー」と🐒の如くに)。
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結論として、駿台🚺若しくは駿台女性陣の件は今でも何が何かサッパリ分からない。ただ言えることは女性問題では一切ない。客観的に言えば、さらに世間の常識からみれば、第一女性問題自体が存在していない。
同時に、🚺女性にかこつけても、起こったことは恋愛云々(うんぬん)ともカテゴリーが違っていること(営業妨害、刑事犯罪被害、デマの組織的流布…経済の自由剥奪、各種人体攻撃…など)だけである。
※もっとも、今回の◇5~◇8だけは、いずれ『日本のフィクサーME』のどこかに一部収録する可能性が高い。
今回は上記まで。修正と清書がのこっています。次回は(5)か(3)のどちらかを予定。
(4)も聞き取り調査を願う。1984年1月の高校生コースの子とNMさんの視線が合うや火花の謎。
高校生コースの子に聞き取り調査を。NMさんも場合によれば証言するかもしれない。調査内容の重要なポイントは、誰かに私の件で誰にいつ何かを依頼されたかである。
余り意味は持たないが、水俣で出会った女性にも聞き取り調査は可能なはずである。当時の名簿は今でも持っている。写真物語館・水俣に掲載の写真にも大勢の中に小さく写っている(個人情報問題からどの女性かは書けない)。私が関心を寄せていたのはうっすら気づいているはず。
とにかく、一番重要なことは人間違いの確認をすべきである。
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