【駿台】№209 女性問題でっちあげ、トラブル、人間違い被害疑惑(5)・同和問題を臭わされる謎(正式公開)

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気がむけば一言【駿台】№209 女性問題でっちあげ被害、引き続くトラブル、人間違い被害疑惑(5)・同和問題を臭わされる謎。


2020/10/11 3:12 下書公開開始:5:10追加。23:24追記

2020/10/17 2:16 追加

2020/10/17 19:50頃から清書作業開始。2020/10/18 3時25分、次回の原稿の下書を追加

2020/10/18 3:27から正式公開開始。(ただし、誤字・脱字類は修正する場合もある。)

2020/10/18 15:28 各HPからのアクセス用アイコンのアドレスが改竄されており、今修正。16:27 また本文の誤字脱字修正へ


(2020/10/17 Twitter追記)

下記の如く、この原稿は当初予定の時期を、催眠で前倒しされ、更に、当初書く必要がないと思っていたことまで催眠で書かされたものである。

現時点では、既に書かされた物の中で、今更消去する箇所はないと思われるため、そのまま掲載することにした。

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315445138429149185?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315445138429149185?s=20

(Twitter20-285-2)から一部抜粋

下書段階で公開開始。
🥴予定外に催眠類で本日書かされたため、今一つ切れが、また午前6時前までやらされ健康に悪い。
尚、昨日起床時、OFFしたPCの電源が


(2020/10/11 1時頃~3:09の間:下書: 2020/10/17 19:45から微修正・清書)
駿台の件で、大阪校に異動してから刑事犯罪被害が起こってきた。この時点での解決策は、裁判所しかないように思えた。偽証罪が通用する場で、第三者による公平な判定を求める。勿論、中心は女性問題ではなく、刑事犯罪被害問題である。それが一番公正で、民主主義と思えた。

こうして裁判を目指すや、今度は学外での刑事犯罪被害が加速してくる。ただし、現在の刑事犯罪被害と異なるのは、当時の刑事犯罪や各種脅し類は「訴訟を断念しろ」と言う脅しに思えたのに対して、今の刑事犯罪や各種脅し類は何を目的に、「何をしろ」と言っているのかサッパリ分からないことである。「駿台に戻る意思はない」「駿台相手の賠償交渉は一度もしていない」「駿台相手の訴訟も駿台辞職後は一切検討していないかった」「駿台女性と付き合うはずもない」。それでは、この脅し、それも駿台辞職後から30年以上ともなる脅しや、私の生活破壊活動の目的は何なのだろうか。40年近く考えても全く心当たりがない。

加害者が私に何をさせようとして各種脅しや刑事犯罪を加えてくるのかサッパリ不明である。そこで、私が何度も「犯行声明をだせ」と言っている次第である。危害を加えられる心当たりが全くないため尚更である。再度強調するが、40年近く考えても、こうした被害を受ける心当たりが全くない。全く意味不明なのである。
映画説でもシナリオがあるならば、回答はひとまちがい(人間違い)しか、現時点では考えられない。

駿台辞職後か辞職前に部落問題・同和問題が何故か強調された。辞職後は、岡映氏との誤解かとも思わされた。しかし、岡映(おか・あきら)氏{下に、岡映氏の紹介をしている}との出会いの箇所で書いたように、岡映氏とは単なる食事時の会話相手でしかない。2016年初頭にその点を丁寧に解説しており、それを読めば、岡映氏と私とを引き合わせた食堂のママさんが健在のため、加害者がママさんに聞けば即座に分かる話である。

勘違いならば、実際にもう聞いて誤解は解けているはずである。すると、同和問題絡みは意味不明である。加害者がKKK団に該当する、差別推進者ならば別であるが、その逆であれば「人間違い」以外の回答はない。
私は部落研究部後輩女性への熱(高校時代の後輩女性の箇所参照)のみならず、同和地域の女性に何回か好感をもち、あわよくば結婚でもできればよいと思ったこともある。西宮市教育委員会(同和対策課)時代でも、こんな子を嫁にできればと思った子もいた。残念ながら、年が離れすぎると同時に、相手は中学生であり、遠方からしか眺められない。因みに、その女性と同姓の人が岡山短大(ポリテクカレッジ岡山)の校長になったため、映画説ならばそれも知ってのことと思われる。
ましてや、部落研究活動を長期していたことも加害者は知り抜いているはずでもある。
するとおかしい。

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【岡映氏について】

徒然なるままに№2・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(1)

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5666

徒然なるままに№2・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(1)

 

徒然なるままに№2・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(2)

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5702

徒然なるままに№3・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(2)

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岡映氏については、駿台内で岡映氏の名もだしたことはないし、岡映氏に駿台の件を相談したことも一切ない。すると何故岡映氏を臭わされたのか。
後に思い出したのは、弁護士事務所の件である。
駿台内での刑事犯罪被害を止めさせ、駿台での原状回復を図るため訴訟しかないと思っていた時期である。
そのときに弁護士に相談に行った。そのときに岡映氏の名を出したのが勘違いをうんだ可能性がある。弁護士相談は1987年秋である。

どの弁護士に相談してよいか分からなかったが、当時、何らかの膨大な力での圧力を感じており、そうした圧力に屈しない弁護士を考えた。そのときに、たまたま購読していた「赤旗日曜版」に広告か何かに掲載されていた法律事務所を考えた。
そこで、こうした圧力類に強い感じがした岡山合同法律事務所を思いついたと思う。{赤旗日曜版にCM掲載されていたという記憶があるが、記憶間違いならば、下記平和書房で教えて貰ったか何かであろう。}

たまたま購読していたとは、単なる偶然からの購読でである。
駿台で教えていた政経の教材やテーマを探していた。そうしたときに、岡山市にある本屋(確か平和書房という名だっと思う)に変わった本を探しに行った。この頃、岡山でよくいく本屋が丸善と紀伊国屋であり、大阪が旭屋と紀伊國屋であったが、地元岡山で珍しい本(例:世界政治資料)などを求めて平和書房という本屋に行っていた。そのときに、この店の主人が広島である広島原水爆大会の案内をされた。1985年夏である。

そこで、授業のヒントを求めて藁にもすがるつもりで、広島での原爆…大会(正式名称は後日調べて記載:当時の写真を見ると「原水爆禁止1985年世界大会ヒロシマのひろば」と記載あり)に参加した。知り合いは当然ゼロであり、一人でウロウロしていた。行きは新幹線で一人でいった。
帰りに、偶然、岡山方面に貸し切り電車があると聞いたため、それに乗せて貰った。そのときに名前と住所を書いた。その名前と住所を元に、赤旗新聞の購読を勧められた。
日刊紙まで読む時間がないため、それでは日曜版だけをとることにした。この頃、赤旗日曜版は350万部?近い部数で週刊誌的な感じもしており、また経済解説コーナーがあったため教材も兼ねて購読をいわば義理型でした。

多分、1985年の終わりくらいから購読したのではなかろうか。なお、赤旗日刊紙は68年間の人生中、1975年夏前頃から80年までの間に空白を入れて5年弱購読しただけである。ただし、金銭問題などから学問的優先順位より、それ以外は購読したことはない。81年からは偶然見た2~3回を除けば一切見たことすらない。
政経専門家としては自慢の逆であるが問題を整理するため敢(あ)えて記しておこう。日曜版はこの85年から87年末頃までと、実家に戻ってから義理と政経授業関係のため、90年頃からベネッセ模試チェックを止める2002年前半頃まで購読したのではなかろうか。
まさに政経専門家とすれば「恥」でしかない。しかし、金銭問題・時間問題から、同じリベラル系ならば、「世界政治資料」「(雑誌)経済」(いずれも廃刊か?)あとリベラル系英字紙購読(名称は後日調べる:今、インタネットで調べると「Japan Press Weekly 」のようであるを郵送購読?)などを優先したのである。2002年頃からは金銭苦で全て購入していない。これらについては、公式ブログの下記を参照されたい。

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💁政経を語る№33・偏見の流布と学問、情報、常識、科学、報道(正式公開)

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=29044

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=29044

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話を元に戻して、赤旗日曜版購読の直後頃から、駿台大阪校に異動し営業妨害と刑事犯罪が起こる。そして、同新聞で岡山合同法律事務所のCMを見たのだと思う。(違っていれば、平和書房か何かで知ったのであろう。)こうした圧力に赤旗日曜版に掲載されている弁護士ならば強かろうと思い相談に行った。
弁護士名は(今、再度調べると)豊田秀男氏ではなかったかと思う。

ところが、相談に行くと、私に対してかなり警戒というか疑惑を抱かれているような対応を取られた。当時は、Xグループか何かがこの弁護士に私の件で嘘を言い、この弁護士が私に対して疑惑・不信感を抱かれているように思えた(今考えてもそうである)。
そこで、赤旗日曜版に掲載されていた弁護士事務所なので、ひょっとすると「岡映」氏の名前をだせば、私に対する警戒心はとけ、私の言うことを信用してくれると思った。

この弁護士を信用させるために、岡映氏の名前を外で初めてだした。多分、「もし、私に不信感を持たれているならば、私は岡映氏と何回か食事をしたことがあるので、岡氏に私のことを聞いてもらえれば不信感はとけるだろう」というようなことを言ったのではないかと思う。駿台関係で、外で他人に岡氏の名前をだしたのは、これが最初で最後であった。

ところが、そうした話をすると、この弁護士は逆に私への不信感を丸出しにしたように思えた。何故か、さっぱり分からなかった。
特に、法律相談を終え、一階に降りると、この弁護士が先回りをして、私の顔を覗(のぞ)くように様子を見に来た不自然さを覚えている。
もし、駿台の?とかXグループが「岡」氏の名を私が出したのを知ったならば、このときに盗聴したか、この豊田弁護士がXグループの誰かに喋ったとなる。だが、後者は弁護士には守秘義務があるため、それはなかろうと思うのであるが。
それまでで、このとき以外には、岡氏の名は駿台に絡む件では登場することは一切なかった。

ちなみに、この弁護士が共産党系か共産党員であったことを知ったのは、拙著『閉じた窓にも日は昇る』のペーパー版を書いていたときであった(2008年頃か?)。そのときにこの弁護士名を控えていたためインタネットで検索すると、岡山県の衆議院議員に共産党候補(1958年から68年の間)として立候補していたことを初めて知った。
当時は、この弁護士事務所が赤旗日曜版にCM(違っていれば平和書房かどこかで知った)があったと思ったので山勘で岡氏の名を出しただけであった。

 


(2020/10/11 3:19~4:48:2020/10/17 21:04から修正及び清書)
この話を拙著『閉じた窓にも日は昇る』のペーパー版を2008年に書き{原稿は幾つかの出版社に送付したが、残念ながら出版には至らなかった。ただし、2016年には電子書籍でAmazonから百円($1)で発売}、更に『同上書・増補版』2010に、この弁護士への感想を書いていると、当時の民主党政権大黒柱の一人であった仙谷由人氏が、この原稿をどこかで入手したのか苦笑いをしていた。
この弁護士の一番の専門は小作争議であるという箇所であろうか。この話もどこかでしよう。


この弁護士には相談したが効果がなく、結局、自己訴訟を考えて、一人で岡山地方裁判所に行って相談したが、恰(あたか)も門前払いの如(ごと)くであった。いや門前払いであった。
ともかく、営業妨害、(特に学外であるが)刑事犯罪被害を止めさせないと仕事にはならなくなっていた。訴訟の目的は実体面での原状回復を目指していた。

しかし、訴訟を止(や)めろといわんばかりに各種脅迫、危害は増加していった。もっともこの頃の危害は「訴訟を止めねば、止めるまで脅すぞ・生活を破壊するぞ」と感じたのに対して、今は各種脅し・営業妨害・デマの流布(るふ)…と激しい攻撃は続くが、何を目的にしているのかさっぱり分からない点に違いがある。今は何であろうか。
「訴訟を止めろ」→駿台相手への訴訟類は駿台辞職後よりは一切していない。
「賠償を諦めろ」→賠償請求は駿台時代を含めて今日まで一切していない。
「駿台女性に手を出すな」→最初から指一本触れていない。ましてや駿台女性と付き合うことなどは一切考えていない。
「駿台に戻るな」→年齢のみならず、その意思は今は一切ない。
それでは、何のための脅しであろうか。何度「犯行声明を出せ」と言っても出さないのでさっぱり分からない。40年近く、何故被害を受けるのかがさっぱりわからない。まさに「ちんぷんかんぷん」である。

さらに、今考えると論理矛盾をしている。
私を駿台から放逐(ほうちく)するならば、脅しでなくても幾らでも手はある。マイナーな政経の非常勤講師である。
「入試教科調整の関係で政経講師は必要ありません」、「大阪在住でなければ無理です。毎回岡山からかようのでは無理です。」…など簡単な手が山ほどある。しかも、訴訟などの危険性のない安全な手も幾つもある。
それでは何故、脅しや、営業妨害、不法行為をしたのであろうか。
すると動機は訴訟妨害ではないとなる。ましてや、駿台辞職後、更に、訴訟活動を一切停止した後は尚更動機はない。
この謎はしばらく置こう。(もっとも回答の一つが人間違い・ひとまちがいである)


なお、この件の後しばらくして、顔も知らない生徒が、駿台大阪校内で「化学のK先生からの贈り物」と言って意味不明の差別文書を私に手渡してきた。
内容は差別語句のオンパレードであるが、意味不明の書き方となっている。
さてこの文書をどうしたものかと思案にくれた。
岡映氏に相談しようかと思ったが、友人のIT氏が「岡氏は今は部落解放運動分裂の件で大変である。今、斯様(かよう)な相談をするときではない」というアドバイスで相談はしていない。結局岡映氏が死亡するまで、駿台で手渡された文書の件は一言も言っていないし、駿台の「ス」の字も言っていない。逆に駿台に対して岡映氏の「オ」の字も言っていない。

なお、この文書を万一岡映氏に渡していたならばどうなったか。
岡さんが指導していた全解連は糾弾闘争否定しているグループである。更に確認会すら中止に傾いていた時期である。
そのときに、支離滅裂な形で書かれたこの文書ならば一切動かれなかったであろう。
せいぜい、「浜田君、良い弁護士を紹介するのでそちらで相談して」であったと思われる。(なお、この箇所は下記Twitterの如く一部訂正している。)


また現行法ではこの意味不明文書に対しては処罰する方法はないように思われる(この箇所も下記Twitterで一部訂正している)。
要するに、私に手渡してきても意味はないということである。
催眠もあり、何故、斯様(かよう)な訳の分からぬことをするのかと、アパート内では呆気(あっけ)にとられて苦笑した程度である。
電話などでIT氏に相談する際にも同様な対応をしたかもしれない。
恐らく催眠的な感情からであろう。


しかし、西宮市教育委員会時代の同和対策課にいたときの個人情報を見たという脅しかとおもいシリアスになったときもある。
当時の文書を見ないと不明であるが、後者の方が大きかったかもしれない。
必要時に当時の私の対応を調べてみよう。現時点では詳細には覚えていない。

なお、この文書の件は駿台辞職後の1988年1月末頃から2008年の『閉じた窓にも日は昇る』執筆時まで、一切喋りもせず、記述もせずにいた。対応の仕方が分からないからである。それ以上に、駿台辞職後からの危害が激しすぎたため、新しい危害への対応で手一杯でもあった。


この文書を預けたのが本当に化学のK先生か否かは、駿台が協力すればした方がよいと思う。万一、K先生が無関係ならばK先生の名誉問題もある。万一、関係しているならば何故そのようなことをしたのかを説明してもらいたい。
それ以上のことは、現時点では考えていないというよりもどう処理したらよいか、よい考えが浮かばない。

※K先生からが事実ならば、K先生の名前も実名で記載するが、手渡した人が勝手にK先生の名を使用した疑惑もあるため、しばらく保留。とにかく、一番重要なことは人間違いの確認をすべきである

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【上記の一部訂正箇所】

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315457847841320961?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315457847841320961?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315462042833178625?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315466107071852545?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315466107071852545?s=20


(2020/10/17 22:36記述)上記のTwitterで訂正文を書いているときに、私が高校三年卒業直前の事件を思い出した。
地元・岡山であったTデパート就職差別事件である。
Tデパートで「同和地域出身者を雇用しない」という内規が見つかり大問題となった事件である。

私は卒業直前(1971年3月)であったが、高校二年のときの担任教師(公式ブログ・徒然№1に登場の教師)に誘われ、岡さんグループ(当時は部落解放同盟正常化連と言っていた)の確認会を見学に行ったことがある。

正常化連の確認会では、今、記憶にある範囲では激しい糾弾はなかったと思う。部落差別をした事実確認と、今後差別はしないという確認だけだったと思う。なお、同デパートでは、同和地域のみならず、「シングルマザー(当時は母子家庭となっていたと思う)」でも採用はしないという内規があったと、そのときに聞いた記憶があるが定かではない。
そうした差別もやめるという確認をしたと思う。
 差別で不採用ということも大問題であるが、通るかもしれないと交通費や宿代を犠牲にしてくる入社希望者を思うとやりきれない思いがしたことを覚えている。

私が見た範囲ではつるしあげのような状態はなかったと記憶している。その後は、1974年の八鹿高校事件などがあり、更に、糾弾闘争は否定していったと聞いているが定かではない。なお、駿台で意味不明の差別文書を手渡された頃(1987年11月頃)は、確認会自体も中止の方向になりつつあるとも聞いた。
しかし、駿台講師時代には、完全党派中立・宗派中立のため、岡さんグループの方針や動き方も知らないため、気になる場合には、正常化連・全解連の後継組織である全国人権連(全国地域人権運動総連合)の方に直(じか)に聞いていただきたい。

ただし、私が見たのは1971年3月の一日のみである。同時に、正常化連と別に部落解放同盟が糾弾闘争などをしていた場合には、私は見ていないため、何も知らない。
私が知っていることは以上の通りである。

(2020年10月10日記述の文書に戻る)
なお、この文書には法務局という印字と人権擁護局という印字があった。
全く同じ文字の封筒が、この事件からちょうど30年後の2017年11月にもあった。
津山人権擁護協会、津山法務局の文書が我が家の郵便受けに入っていた。
ただし、住所は我が家であるが、宛名は私ではなく隣人のZさんである。(私よりも一才年上の、私と異なり小中学校時代の学業優等生、運動神経抜群の女生徒などの憧れの的な、いわば田舎の加山雄三?、いや松方弘樹か?…良い人物例を後日検討。私と似ているのは身長と体重だけである。)
ちなみに、Z家が我が家の住所を約50年程使い続けている謎もある。

ともかく、この件も現時点ではちんぷんかんぷんである。

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№17-100・トラブルの危険性ある人権擁護局封筒(処理対応待ちを参考公開)

http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?p=12499

№17-100・トラブルの危険性ある人権擁護局封筒(処理対応待ちを参考公開)

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岡映さん絡(がら)みと言っても、既(すで)に公開したように、岡さんとは食堂のママさんに紹された、単なる食事仲間でしかない。それはXグループも私のブログを見て食堂のママさんに会い、確認をしているであろう。
なお、岡さん絡みとは、岡映さんと対立するグループが、岡さん絡みと勘違いをして私に害を加えたと思わされたが、もし、そうならば2016年ブログを読めば誤解は解けていよう。だが危害が続いている。
更に、岡さんと対立するグループが岡映さん自体に危害を加えぬときに、岡さんと食事をした人全員に危害を加えるという解釈にも無理がありすぎる。
要するに、サッパリ未だ分からない。

ただし、拙著『日本のフィクサーME』登場の布袋さんのモデルのTKNさんは2012年4月に、私が危害を受ける理由が全く分からない、何故受けるのだろうかと尋(たず)ねると、「浜田さんはどうしてだと思う」と逆に聞かれた。
そこで、私が「(岡さん絡みと思い、岡さんとの件で)誰かが誤解か勘違いをしているのだろう」と回答した。
すると、彼は「勘違いや誤解ではない。ひとまちがい」と言い切り、糖尿が悪いといってインシュリンの注射をしていた。

何のことかさっぱり分からなかった。(再確認をしようにも、彼は2019年4月に死亡したという連絡が家族からあった。)



しかし、私も人間違いを疑いだし2015年にプロフィールなどの充実を図り、人間違いならばその誤解を解こうとしたら、激しい妨害に遭(あ)い頓挫(とんざ)した。このときの話は(6)で記そう。


なお、後には私を差別者にしようと思われる雰囲気・策謀などを感じた。
いい加減にせよ。逆である。
私は高校時代(1968~71年)は全国集会への参加や地域高校生集会開催…その他部落研活動などに明け暮れ、部落研後輩への女性熱…とその中で青春をすごした人間である。
大学時代も大学自治会活動以外に、高校部落研先輩として、高校生全国集会への参加…、と。
子供会参加、各地の高校生との交流、地域の老人達から昔の差別の聞き取り調査、実態調査、…に明け暮れていた人間である。1975年まで続く。地元岡山中心とはいえ、西宮でも…。
当時の仲間によびかけよう。

その後も、西宮市教育委員会時代の同和対策課で一年を過ごし…である。この時の件でもデマが飛び交(か)った気配を感じた。
叱らねばならず、叱られた子三人ほどが勘違いをしたかもしれぬが、その他の百人以上の生徒に聞けば分かる。かなり歓迎されていたようである。
最後のときには地域の子供十人くらいを連れて箕面(みのお)にも行っている。しかし、何故かそのときの記念写真が紛失している謎もある。
父兄の受けも良かった。詳細をいつか書こう。
しかし、これらも、現地の当時の生徒や父兄に聞けば即座に分かることである。
簡単に言えば、多くの生徒に、敵対心の逆で好感を持たれていた。父兄の一部にも。
当時の全員に聞け。
コロナウィルスが収まり、金が少しでもあればまた西宮に行こう。
もっとも、1995年~97年などにJR西宮駅から関学に行ってもどこでも歓迎の雰囲気しかなかった。ところが、ポリテクカレッジ岡山を辞めた1998年以降の、特に2010か2013年頃から逆のデマが飛んでいる気配がある。

なお、部落解放運動の分裂も最中でみてきた。
私が部落研活動を開始した1968年は高校部落問題全国集会は分裂前であり、どの流れの人も一緒にいた。
1969年は分裂の最中であったが、まだほぼ全員が対立的雰囲気の中で一緒にいた。
1970年以降は分裂し、別れた後の大会となった。
それらの模様もいつか具体的に紹介しよう。

私が部落問題関連の運動から、相当離れたのが、1976年からである。それは大学院浪人と、経済危機、姉を始めとする二人の大病者を同時に抱え(ともに間もなく死亡)、ややノイローゼ気味なったこと、また1977年から早大大学院に進学した頃から、バイト三昧と研究という状況や、誰知らぬ地・東京へいったことなどによる。
更に勉学上の関係で別テーマへの研究に埋没したためでもある。

特に今ならば「世界連邦構想」の理論化とその実現に向けての動きなどからである。
それ以上に老後破綻を阻止するために動かねばならぬ死活問題もあった。
ただ、それだけのことである。


今回はテーマがそれるため、ここまでとする。
いつか、単元を変えて、三つのことを記そう。
一つは駿台の件での救済依頼問題などもあり、信条でなく心情も含めて完璧な党派中立・宗派中立への歩みの具体的な話である。
二つ目は、部落解放運動の昔の姿の紹介とその後の具体的な提言の話ある。
特に、部落解放運動を目指す人間同士の争いに終止符を打つための提言などである。
三つ目が党派中立・宗派中立となり、間もなく40年になろうとしている。その間に、(様々な影響を遮断して)構築した、浜田隆政オリジナル理論の紹介である。
例えば、世界平和・日本の平和は世界連邦・世界統一軍樹立にあるとする、独自理論である。ユートピアとの違いは具体的方策を持っていることにある。
(自然エネルギー全盛と化石燃料死滅策、科学の発達と戦争死滅策、領土問題の抜本解決に向けて、…)。
2009~11年に書いた『日本のフィクサーME』の中の完全自動操縦の車の早急な実現などはかなり当時の業界に波紋を投げかけた。
未だに独自理論で回答を書いていないのは少子高齢化完全対策、日本の赤字国債完全解消の道などである。


最後に、もし、部落問題・同和問題が私の危害に本当に絡んでいるならば、人間違い(ひとまちがい)か、筋書のない出鱈目(でたらめ)ドラマしか考えられない。
誰が誰と私を間違えたのかがはっきりすれば、もう少し具体的に書けるのだが。
なお、人間違い該当者の特定はまだ不明である。
私と名字も名前も漢字も同一人物が2015年登場し、私の本と同一日に本を出版した。
同一の住所の家が50年余り存在していること。
各地で私の偽者が登場したこと。
インタネットで私の偽者が2015年頃に大量に登場した謎などもある。

加害者に呼びかけるのは、犯行声明を出せ。そうすれば糸口は分かる可能性もある。
このままでは死ぬまで「ちんぷんかんぷん」の状態が続く。




ここ以降は単元を変えて、5-2として次回掲載を検討している。

 

(2020/10/11 23:23追記)


後で #丸山和也 氏「#オバマ大統領 侮辱発言」問題を掲載予定。
#岡映 (#部落解放運動 活動家) 氏に絡めて 私と #obama 大統領との対立画策疑惑か否かを検討。なお丸山氏 駿台の絡んだ別🚺と高校が同一。
丸山発言は、私が #長崎市長 に手紙を送付した日と同一の謎。
その後の2016年長崎へのフィールドワークが妨害だらけであった謎。

政経の世界№2―丸山和也・〝奴隷〟発言から議会制民主主義まで・1

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5364

○部落解放運動関連への、独り言や📺向けコメントは、場合によれば紹介を検討する。

一つが、ハンナン事件などのときの、私の対応。(結論、解放同盟が立ち直りに福島瑞穂氏などを第三者委員会にいれたならば、見守ろう。後に福島瑞穂氏は委員に入っていなかったようである。この後の5年くらいにわかる)

○2010年頃の松本龍氏の大臣に当たって。

これは誰にとってもプラス提案であったが、誤情報を懸念して、菅直人総理時大臣(当時)には何も言わなかった。(要するに、無である。)

○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315892616098054144?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315892616098054144?s=20

○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315944358730887169?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315944358730887169?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315959207498186754?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1315967128177045506?s=20

 

後日、公式ブログにまとめよう。

○東北大地震後には、松本氏が西宮市教育委員会時代の同和対策時代の私の行動・評判でデマを飛ばした気配を感じたため、Aceess権上からの抗議である。

 

後は何もない。

 

☆☆☆☆☆

2020/10/17 1:20 追記)
中国は、Xの正体を知っているかもしれない。
アメリカも同様である。
ロシアも多分同様である。

しかし、入手手段の問題などで公開できないだけであろう。
更に、各国の国益上無関係な事項には内政干渉となるため、何もしないでだけであろう。

もしかすると、中国などに借りをつくったかもしれない。
その場合には、アメリカ大統領選挙から今度こそは政経から原則として手を引くつもりでいるが、芸術活動、双方の国の親近感増大行動…などの貢献は検討しなければならないであろう。

双方の国とは、日中のみならず、韓中(中韓)、米中(中米)、中国・G7等々をさす。

尚、人間違い説については、上記の国以外でも、ベトナムなども知っているように思える。また、日本でも相当数の人が知っており、いずれ、Xグループか何かが…ということで高見の見学をしているようである。

もう、相当数の人が――誰もがまではいかぬが――知り尽くしているようである。

☆☆☆☆☆☆

○http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=28790

日本のフィクサーME・パート6(その3)尖閣、香港雨傘、電話、偽者、同一住所二軒存在と4なる数字強調の謎(メモ段階)

☆☆☆☆☆

(2020/10/17 23:04記述)

人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ。
西光万吉
https://blhrri.org/old/topics/topics_0361.pdf

“Let there be warmth in human society, let there be light in all human beings.” In every age, film depicts hope.
人の世に熱あれ、人間に光あれ、映画はいつの時代も希望を描くものです。
https://context.reverso.net/%E7%BF%BB%E8%A8%B3/%E8%8B%B1%E8%AA%9E-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/let+there+be+light

(2020/10/18 2:11から3時25分まで記述)
二点追記をする。
一点は、私を無理矢理、駿台🚺NMに、催眠まで動員して熱を上げさせた理由である。映画説で何かを誰かが企てた疑惑がある。
私の生誕日は11月22日である。

そして、この11・22が一種の映画全体のシナリオに合わせた疑惑である。
11・22に気になる事項を記そう。
11・22はミスター・オバマと私の暗号として、11・22に2016年長崎に行ったことは既述の通りである。
駿台合格も、早大合格発表日も11・22であった。

部落問題との絡みでは松本治一郎氏が逝去した日が11・22である。また、「橋のない川」の映画監督であった今井正氏も11・22に亡くなっている。更に、八鹿高校事件が起こったのも11・22である。単なる偶然であろうか。


もう一点は、駿台講師時代に刑事犯罪被害に遭遇したことは既述の通りであるが、拉致被害にまで遭遇しかけて、12月頃に日本共産党の中央本部に「赤旗日曜版」の読者と書いて、救済依頼をだした。だが梨の礫であった。
駿台の大滝部長との会談で、私の父と大滝部長との間で何か話し(後に述べるがトラブルが沈静化する期間として3年間を置き、三年後にまた駿台に復帰すると言うことで話)がついているのかと思い、駿台辞職をした経緯がある。

1988年に駿台を辞職するやいなや、本命であったポリテクカレッジ岡山が突如様変わりする。その模様は(3)で記そう。
1989年に学校の(学生・職員共に)みだれ、…そして、突如、大吐血となる。そして、某病院に入院する。その模様は「日本のアウンシュビッツ」として拙著『閉じた窓にも日は昇る(下)』に記載している。

そして、この病院から逃れねば大変な目に遭うとしか当時は思えなかった。そこで、またも、日本共産党関係の代々木病院に救済を依頼する。
ところが、代々木病院からこの病院に電話が直にある。そして、当時の主治医に代々木病院に手紙を出したのがバレてしまう。正直言って参った。「まさか」とも思った。

当時の主治医に呼ばれ次の指示を受けた。
「代々木病院に行ってもよい。ただし、条件として、川崎医大附属病院の心療内科」にいくこと」と。
そこで、当時、体調が相当悪化していたため、母に付き添わせ、東京の代々木病院に行く前に、川崎医大附属病院にいった。

川崎病院で出会った医師は、駿台予備学校京都校にいた、いわさ部長そっくりの人であった。私は正直というよりも馬鹿正直のところがあり、その医師にはっきりとあることを依頼した。
「私は催眠で動かされている疑いが強い。私にはそうとしか思えない。そこで、私に催眠をかけて、本当に催眠で動かされているか・どうか調べてほしい」と。1989年12月、今から30年余り前の話である。

すると、医師は「私は確かに、催眠をかける技術は持っている。しかし、あなたにそれが必要とは思えない。そこで、本日はしない…」であった。その後、東京の代々木病院に行くが、事務の人が出てこられ、代々木病院での入院は無理である。岡山の協立病院を紹介するとのことであった。
そこで、田舎の病院から逃れるためにも、協立病院に行った。だが、協立病院では「十二指腸潰瘍は通院を原則としており、入院はうちはうけつけない」と確か言われた。そこでやむなく、最初の田舎の病院に通うことにした。何故、逃げようとしたかは拙著『閉じた窓にも日は昇る』{Kindle百円}か、無料公開している、拙著『恐るべき労基法違反』を読んでもらえれば分かるであろう。

なお、この病院では幾つも不思議なことがあった。それらも上記に記載している。だが、記載漏れもある。例えば、当時、大吐血の関係で貧血となっていた。そこで、あるとき立ちくらみをし、軽く倒れた。すると、突如、廊下から私の病室めがけて人が走ってくる気配を感じた。しかし、途中で意識を取り戻すや、即座にその足音は止み、誰もこなかった。まだまだ不思議なことがあるが、それらは同上書を読んでいただきたい。


そして、川崎医大附属病院の医師が睡眠薬と精神安定剤を処方した。田舎の主治医が処方している十二指腸潰瘍と胃薬以外に、その薬が追加された。後には、その薬は川崎医大から、田舎の病院経由で処方されていた。
1989年11月に大吐血で40日入院した直後から12月に川崎医大附属病院にいくまで、思考力は働いていた。本も読めた。

川崎医大附属病院で処方された薬は最初は普通であったが、翌月の(1990年)1月から、今度は突如、どんどん本読めなくなっていく。そしてやがて、本を一ページ読むにも、一時間余りかかり出す。毎日やっていたパソコンも一年間で数回しかできなくなる。仕事の関係で無理をしてやろうと思っても、数行打つのに一時間かかる始末である。
頭が全く機能しなくなっていく。

当然、薬を疑った。だが、田舎の主事医は問題ないという。
実際に、1993年10月上旬頃に三度目の大吐血をした。田舎の主治医は「我が病院では対応は無理である」と言われ、救急車を要請された。紹介された病院についたときにはまともに歩けず、連続吐血も20時間を超えていた。最低でも10時間余りは数分おきの連続吐血であった。血圧も上が70となっていた。
……
本題に戻そう。川崎医大で処方された薬はここでも見せたが異常は特に言われなかった。この病院には60日入院した。なお、時期は忘れたが、岡山市の林原病院に行ったときにもしらべてもらっった記憶があるが、やはり異常なしであった。また岡山市の協立病院でも調べて貰っている可能性が高い。ともかく誰も異常を指摘しなかった。

田舎の病院、(救急車で転送された)田舎のより大きな病院、岡山市の林原病院、多分協立病院でも。だが、私は長期に亘り、薬を疑っていた。薬で1990年初頭から93年までやられたと。というのも、1993年10月から新病院でその薬を止めるや、意識が元に戻ったこともある。4年間に亘る、精神・思考が機能不全から突如元に戻ったのである。

だが、他方、1998年1月にポリテクカレッジ岡山を辞めてからは、激しいうつ病を疑い、うつ病の関係でそうなったのかと思い出している。後のハイテンションからは躁鬱病になった可能性が高いと判断している。
だが、薬を飲みはじめ…から突如脳が機能不全となり、薬を止めるや(もしくは精神安定剤でも、別病院で処方されたり、今日の如く医薬分業で薬局も絡んできたり…で正しい薬のせいか)精神は機能を回復する。その後の精神乱れ…もあるため、やはりうつ病だったのかもしれないが、参考記述である。

何故ならば、1989年には(大阪のホテル滞在中であると思うが)歯を削られた疑惑があったたからである。また歯の詰め物も大阪のホテルに寝ているときにとれたこともある。それもあり、林原病院などに後に行った。医師の一人は削られているといったが、後にはどの病院も現在虫歯のため判断不可能と言われた。
そこで、頭が働きだすや薬を疑ったのである。

現在は完璧に党派中立・宗派中立であるが、駿台講師時代から友人の輪を止められ、いざというときには、知り合いがいた関係で代々木病院・協立病院などを頼ったのであるが上記の結果となり、心情的にこららの日本共産党に疑問を感じたのは事実である。しかし、いざというときには、田舎ではこうした問題に対応できる人間が、今立会人をお願いしている新免元議員以外の知人で思いつかないとも事実である。。
1987年の弁護士の件と言い…であった。
そこで、一時は共産党関係が、映画の下手人と長期(多分10年以上)思っていた。そこで、1998年に辞職したポリテクカレッジ岡山との交渉立会人の新免昌和議員に単刀直入に聞いた。「(映画説で)共産党関係の仕業では…」と。すると新免議員は「それは違います」と明言された(尋ねた日付は特定できるため、後日年月日と尋ねた事項を掲載予定)。新免氏に聞けば、私が真面目にそれを尋ねたことを覚えているであろう。

もし、あのときに代々木病院に手紙を出さなければ…意識後退はなかったかとか、もし合同法律事務所の弁護士に相談に行かなければ「岡映」氏の「オ」の字も駿台とは無縁であり、不可思議な危害には遭わなかっただろうと長期思っていた。
ただし、2012年4月には友人が「(岡さん絡みでななく)ひとまちがい」が原因と明言し、更に新免氏の「違います」の一言で、では現代医学上の躁鬱病だったのだろうかと思い出した。後者ならば岡短相手に損害賠償請求と考えた次第である。そこで駿台は病気による逸利益の賠償対象外とした経緯がある。

ポリテクカレッジ岡山で何があったかは拙著「恐るべき労基法違反」「親方日の丸」「閉じた窓にも日は昇る」を読めば分かろう。


問題を解く鍵は、何故、私が無理矢理、駿台職員🚺NMに熱をあげさせられたのか、またNMは何故私に対して…か、彼女は誰に何を頼まれたかのがはっきりすればより真相に近づこう。
どうして、私がNMに熱をあげなければならなかったのか。同じ駿台でも他の女性もいようが、NMに限定させられたのは何故なのか、である。
実際に容姿や雰囲気ではNMさんよりも私からみれば外見からの判断のみでは良さそうに思える人は何人もいたのに。NMさんが私に関心ならば分かるが、手紙を出すや即断れている。では何故……。

本題をはずれるため、この件はここまでとする。
この続きは、(3)として駿台辞職後ポリテクカレッジ岡山が激変したことを書くか、(6)の私が人間違いをとこうとするや妨害三昧の謎を先に書くかは現時点では不明である。

 

 






〈(2020/10/07 19:17 右の青時のみ)前回までの下書、大幅に修正及び大幅削除予定。削除した箇所は前回の下に全て掲載。本格ガラス張り人間〉

しかし、強いて解釈すれば、何らかの映画説(実話型映画の主人公にでもされた説)のみが考えられた。
 というのも、後にテレビと対話とか、世界の指導者と各種交流という不可思議な状況が起こったからである。

そして、上記の女性トラブルというよりも女性事件の件はチンプンカンプンであり、「ドタバタ劇であり、何のストーリーもない、三流監督が指揮する映画」と思わざるを得なかった。それでも長い。間もなく40年になろうとしている。

それでも、何故(なぜ)、こうした出たらめ危害が長期続くのかと(松江の)友人に疑問をなげかけた。すると、友人の方が逆に「なぜかと思う」と聞いたので、私は「私は人に恨まれる覚えがないので、勘違いか誤解を誰かがしているのではないか」と返答すると、友人は、「いや、それは人間違い」と言い切った。その後、友人は「僕は糖尿病になったので、インシュリンの注射をする」と言いながら注射を自分でうっていた。2012年4月のことである。

その後、人間違いが該当するような状況を何度か経験したため、私のHPのプロフィール充実や、場合によれば回想録などを書きかけるや、ものすごい妨害が起こる。誰の妨害かは今は書かない。
泣くこと地頭には勝てぬ、それ以上に起業を目指し、超多忙なため、起業準備に専念することとし、プロフィール充実などは諦めた。2015年夏のことである。
その後2019年に偽者強調から駿台事件を詳細にブログに掲載するようになった。
ただし、下記の関係(下記Twitter参照)で駿台の件は余り書く意味はないが、しつこい挑発と意味不明の件などからやむを得ずである。すると間もなく、松江の友人が死亡した。「人間違いの件」は更に謎となった。

○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1302929268993716224?s=20

 


 

(3)駿台辞職後も30年尾を引いている疑惑
 京都校時代は、女子中学校か小学校の「恋愛ごっこ祭り」騒ぎであろう。これも大の大人がとなると奇妙ではあるが、そうしたことは全くないとも言えない。
だが、大阪校時代の刑事犯罪被害とは明白な犯罪であり、通常は上記のケースではありえない。駿台女性とは何の付き合い云々(うんぬん)の実態もないのにである。

だが、通常ならば、私が駿台予備学校を辞職すればお終(しま)いのはずである。ましてや、相手の女性も途中で結婚したと聞いていた。私も女性も両方が駿台を辞めてまで尾を引く話ではない。
 ところが、この件が次の職場・ポリテクカレッジ岡山(労働省所管、現厚生労働省所管)でも、駿台辞職するや職場が一変し、各種被害を受け、後に駿台予備学校との因果を臭わされる。
 さらに、ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)を辞職するや、今度はベネッセで、更には村で各種トラブルに遭遇し、駿台辞職してからですら32年、女性に手紙を渡しててから36年以上となる。

このようなことが現実にあるのだろうか?
意味がさっぱり分からない。チンプンカンプンである。

(2020/09/10 16:13追記:2020/09/12清書進行中)


駿台辞職後は、さらに、刑事犯罪被害が増大した。(3)で述べるように、駿台との因果を臭わせてである。駿台時代の件は上記(1)のため、当方は「ちんぷんかんぷん」が続いている。辞職後から既に32年経(た)つが被害は悪質な状態で継続しているとしか思えない。
回答の一つは、下記に記す、人間違いから開始したとしか思えない。



(5)同和問題を臭わされる謎
これは、駿台時代に化学のK先生からと言って、何人かの生徒が意味不明な差別文書(中に法務局とか人権擁護局のマークがあり)を手渡してきたり、その後もそうした挑発らしきものがあっりした。ただし、何のことか意味不明である。
なお、駿台で差別文書を1987年11月頃に渡されたが、その30年目の11月にやはり法務局、人権協議会の封筒が我が家の郵便受けに入っていた。
ただし、住所は我が家であるが、宛先は私ではなく、隣人の名前であった。(隣家も何故か不明であるが、我が家の住所を50年ほど使用され続けられていた謎もある)。

ただ言えることは、私は部落研活動を長期していたことがあり、差別反対主義者である。勿論、伴侶候補の出自などはきにしない。だから一切調べない。学歴・人種・出自…はどうでもよい。強いて言えば「若い内の苦労は買ってでもしろ」…より、その苦労が昇華されていれば魅力でしかない。

苦労がいかされていれば、伴侶候補としてはプラス評価はあっても、その逆はない。

機会があれば、1968年高校一年のとき(分裂前の部落研修会)、1969年分裂が起こったがまだ同一の集会に参加したとき、1970年分裂後の集会の感想などもどこかで記載しよう。▽
岡映氏の件は既に記述した通りで、岡さんがよく行っていた食堂のママさんからの、女子高校生指導で悩んでいたときに、対応の仕方などの参考でということで紹介されたにすぎない。

ようするに、何故、同和問題が駿台の件ででてくるのか「サッパリ分からない」。同時に、私は差別反対主義者にも拘(かか)わらず、出鱈目(でたらめ)の挑発の気配も気になっている。

なお、私は差別反対主義者であるが、もう40年ほど前から党派中立・宗派中立を貫いていることも強調しておく。

(2020/10/11 1:25追記)

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=28790

 

2020年10月18日