【駿台】№206 女性問題でっちあげ被害の謎と、引き続くトラブルの謎、更に人間違い被害疑惑(2)・駿台講師時代の刑事犯罪被害。

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気がむけば一言【駿台】№206 女性問題でっちあげ被害の謎と、引き続くトラブルの謎、更に人間違い被害疑惑(2)・駿台講師時代の刑事犯罪被害。


掲載履歴 2020/09/19 21:36 下書段階で公開

2020/09/21 23:06 大幅レイアウト修正と修正及び追記

2020/09/22 7:37 ★から★印を追記(正確には寝ている間に記述せよと、催眠指示を受け、(本日午前2時頃寝たにもかかわらず)午前5時半にたたき起こされ、7時37分までの間に記述したものである。なお、この箇所は次回公開予定の部分である。7:48 ★から★に⑦を追記。

2020/09/23 11:37紫色の文字を追加。

2020/09/24 午前0:47正式公開

2020/09/27 0:07 喉を痛めたときの診断書の添付や追記など。(今回の一番下へ記述)



【構成:不可思議なこと】(順次清書中:数回に分けて掲載)

(1)女性問題としての実態のない不可思議なトラブル。
女性に指一本触れず、デートもせず、学外でも会わず、学内でも人前でしか会話せず、会話時間も一人当たり6年合計で10分程度である。勿論、ストーカーや、パワハラなどもしていない。さらに、(4)で述べる如(ごと)く、私の方が駿台NMさんに手紙を渡し断られたのである

2)刑事犯罪被害に結びつけられた謎。

(3)駿台辞職後も30年尾を引いている疑惑

(4)出発点の不可思議さ―人間違い説

(5)同和問題を臭わされる謎

(6)人間違い説疑惑を解説しようとするや各種危害のオンパレードとなる謎。


(2)刑事犯罪被害に結びつけられた謎。

【駿台】№206 女性問題でっちあげ被害の謎と、引き続くトラブルの謎、更に人間違い被害疑惑(2)・駿台講師時代の刑事犯罪被害。

(1)で述べたように、
●駿台のどの女性にも指一本触れていない。
●駿台のどの女性とも、デートもせず、学外でも会っていない。
●学内(駿台予備学校内)でも人前でしか会話はしていない。
●会話時間も一人当たり6年合計で10分程度である。
●勿論(もちろん)、ストーカーや、パワハラなどもしていない。
……
京都校時代は、女子高校か女子中学祭り騒ぎの如(ごと)くであった。
だが、大阪校に1986年4月に移動する。
当然、上記レベルならば、もはや女子高校か女子中学祭り騒ぎは止(や)み、仕事はやりやすくなるはずであった。

ところが、学内で(A)各種授業妨害・営業妨害が開始する。また(学外を中心であるが)(C)刑事犯罪被害が開始する。(B)学内と学外とのオーバラップ若しくはそう思わせる事項が開始する。以下、(A)(B)(C)について解説する。


(A)駿台大阪予備校内について

拙著、『閉じた窓にも日は昇る(上巻)』(Kindle、上・下各百円、$1)から以下抜粋する。

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①駿台教室内のマイク不調問題(一九八七年)。
九月一九日(ピーピー音)→証拠としてテープ録音保存。
二二日=マイクをつけたり消したり(証人確約学生NK君・YM君)。
二四日=二時限チャイムが鳴らず、マイクもほとんど入らず。
一〇月九日=マイクの音がでず。
一四日=マイク調整が悪く、その調整を依頼すると、今度はマイクの音がでず。

二三日=教室マイク午後二時半~三時半にかけて音がでず。声が完全に潰(つぶ)れる(喉(のど)の被害証人=AH氏)。マイク調整で職員とのやりとりのテープ録音あり。授業にならぬため、マイク使用が可能なサンヨーの大型ラジカセを自費購入し、駿台に持参する羽目となるが、十分使用できず諦(あきら)める。その姿を見た生徒は何人もおり、記憶している者もいるはずである。

②無関係生徒の乱入。授業妨害になる形で出てゆく。主として日本史=九月八日、一八日……政経も一部あり。一度は、私のクラスの生徒が怒り、無関係生徒を追い出す(その生徒名はMN君である)。一一月一五日には生徒の移動あり。

③同一生徒が履修(りしゅう)している科目重複の続発。かなりの政経受講生から(K講師の)化学の補講と重複して困っていると相談を受ける。
……

⑤教室の温度調整問題。
九月一八日=本日暑い日であったが冷房が入らず(部長に抗議しようと思うも部長も課長もいないとのこと)。
一〇月三〇日一六時四〇分=寒い日で「教室の温度二三度割る。教室の温度計を見た途端なおる」。
一一月五日=「教室の温度最低二二度、温度差が激しい」、「温度を下げられたので、ジャンパーを着れば熱くされ、脱げば寒くされる。最後には頭痛がしてくる」が、体感温度はこれ以上で、室内温度計ならば温度計が操作され、実質温度と相違があったと推定される。我が家から持参の温度計ならば持参日以前にはもっとひどい状況に置かれていたという証拠である。
教室の位置により体感温度は異なり、温度計にも適切には反映されないため、数値よりも実質はもっとひどく、駿台勤務六年間で経験したことのない温度問題があったことだけが事実である。手口は④参照。

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○浜田隆政著、『閉じた窓にも日は昇る・上』(Kindle上・下各百円、$1)
○Kindle→https://www.amazon.co.jp/%E9%96%89%E3%81%98%E3%81%9F%E7%AA%93%E3%81%AB%E3%82%82%E6%97%A5%E3%81%AF%E6%98%87%E3%82%8B%E3%83%BB%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E5%AE%89%E3%82%89%E3%81%8E%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B5%9C%E7%94%B0%E9%9A%86%E6%94%BF-ebook/dp/B01EB6MT84/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E9%96%89%E3%81%98%E3%81%9F%E7%AA%93%E3%81%AB%E3%82%82%E6%97%A5%E3%81%AF%E6%98%87%E3%82%8B&qid=1600518145&sr=8-2
○私のHPでの案内箇所→http://h-takamasa.com/book-01/custom33.html
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サンヨーのラジカセの名称は以下である。
「サンヨーCDプレーヤー内蔵ステレオダブルカセットPHーWCD2」



(B)駿台内の各種いやがらせ行為と駿台外の刑事犯罪被害のコンビネーション。

俗語(相談した弁護士の言葉)では「いじめ」である。より正確には、各種営業妨害(マイク調整、無関係生徒乱入)である。
ところが、駿台内での軽微な嫌がらせと駿台の外での事件を符号させ、駿台外での刑事犯罪被害も駿台が関係しているという印象操作がなされる。
駿台がそれを承知で行っていた場合には、外での刑事犯罪被害の共犯者となる。知らぬ場合には上記の(A)レベルに留(とど)まる

事例とすれば、駿台内での温度調整問題で挑発するのと符号させ、駿台があっ旋したホテルでも駿台校舎内以上のことを終始やられる。特に寝ているときにやられた。
精神も肉体も参る。
学内で、天麩羅(てんぷら)うどんを頼むと生卵は入っていた。私は生卵は嫌いである。それは大した問題ではないが、それと符号して、岡山市庭瀬のアパートの戸を早朝5時頃叩(たた)かれ、出ると郵便受けに卵パックが入っていた。
駿台外での刑事犯罪も駿台が関与しているという脅しか、少なくともそうした印象操作がなされた。


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④駿台斡旋(あっせん)のホテル問題。
約二年毎週三日滞在している東洋ホテル(後にラマダホテルに名称変更し、数年前に廃業)で駿台から費用が直接支払われる約束にも拘(かか)わらず、同ホテルY氏がホテル代を私に請求してくる(九月一一日)。
その後東洋ホテルで就寝中に部屋の温度を急に上げられ三〇度を超え目覚(めざ)めさせられたり(温度計と共の写真撮影あり、一二月前後)、逆に温度を二二度に下げ、風を扇風機の如(ごと)く人体目掛(めが)けて猛烈(もうれつ)に送り込まれたりする事件が多発した。後者は日付も写すため新聞を購入し新聞と平行で撮影=一二月四日。

温度計は数値で証拠が残るため、温度は手加減されていたが、扇風機型で風をもろにあてられ、これが特に応(こた)えた。こうして証拠が残らぬ手口で一貫して行われたため、他の箇所も数値のみで被害を判断してはならない。

同ホテルでは一一月末以降頃はこうしたことがない日の方が珍しかった。何度調整を依頼しても、執拗(しつよう)に睡眠妨害をエアコン操作で行われ、健康防衛上やむを得ず温度計とカメラを持参した。

……
後に記すアパートの郵便受けへの卵パック入れと語呂合わせでの悪戯(いたずら)かどうかは不明も、駿台大阪校で天麩羅(てんぷら)うどんを頼むと生卵が入っていた(八七年九月一一日)。
通常は生卵は入らないし、私は生卵は嫌いで食べられない。それらも含めて私のことを調べ回っている脅しと解釈された。なお、生卵分の料金も請求された。次週、どうなるかと九月一七日再度前回と同じ注文の仕方で天麩羅(てんぷら)うどんを注文すると、生卵は入っていなかったが、「食堂のうどん料少なし(九月一七日、証人IN君)」のメモあり。
また、この頃はプリントの印字を悪くされることも続いた(過去に前例はない)。
約一九年前の記録・証拠類を簡単に一時間調べただけでも右記の如(ごと)しである。他にも「九月一一日、日本史授業開始五分前に進路変更連絡(MS氏)、……」等のメモあり。

学内の不法行為・営業妨害の記録付け作業は、八七年九月一九日に開始したが、一一月五日で中止に追い込まれた。それは記録すればするほど、仕返し的に不法行為がエスカレートし、営業妨害のみならず、身に危険があるぞ型の脅しが続発したからである
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私が自分でカメラを購入したのは、駿台でのトラブルが原因であった。ただし、この時はコンパクトカメラである。


(C)駿台外での事件

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以下、「二〇〇七年年賀救済呼び掛け文―B」から引用する(誤字・脱字、不明朗な箇所は今回修正した。他の引用も原則同一。)
「《◆―一・駿台時代犯罪被害の一部の実例について》……八七年末当時の岡山市庭瀬アパートへの不法侵入。……当時の記録を見ると、石油缶の蓋(ふた)などを外(はず)す悪戯(いたずら)、さらには……私の郵便受けに悪戯……郵便受けに卵のパックを入れられたり(現在もパックは指紋の関係で保管)……、早朝五時頃郵便受けをドンドンと叩(たた)かれたりした記録が出てきた……こうした事件が続出等……。……誰かの悪質な悪戯で部屋に入り物を動かして退出……大阪では警察服(若しくはガードマンの服かもしれない)を着用していた二人組……による拉致(らち)若(も)しくは殺人?未遂(みすい)事件などが、八七年末から八八年初頭にかけて続発していた。

『恐るべき労基法違反』執筆時には、岡短の件で頭が一杯であり、駿台の件を十分思い出していなかったため穏和(おんわ)な書き方をしたが、八八年三月一四日にも島根県で拉致疑惑事件という刑事犯罪に出くわしてもいた。

先の大阪では両腕を掴(つか)まれ、どこかへ連れて行こうとされた以上、今考えると、他の通行人がいたので大声で助けを呼べたが、そうでなかったならば大変危険な事件であった。

それ以外にも、自転車の荷台の紐(ひも)をタイヤに巻き付けられる悪戯、……密室のアパートの部屋の天井から薬を何日も落とし続けるという脅迫……車のアンテナ盗難事件と警察に被害届に行き警察署をたらい回しにされ、再度警察に被害届という前日にアンテナをつけ戻され被害届を阻止された事件(八八年一月一六日頃)……ポストの郵便物に入っている新聞類を無断で見られた形跡もあり、……毎日続いた……。
……

それ以外にも、駿台に内容証明を送付する前後に、後にも先にも経験したことのないくらいの、夥(おびただ)しい犬や猫の死骸を、私が通る道に(早朝)置かれていたことも参考までに記しておく。

次に、右記の中で特に大きい事件であった天井からの薬落とし事件と拉致未遂事件を、新免議員会談用下書き・『五郎DB訴訟』から引用する。

「……部屋の不法侵入を裏付けるさらなる事件……天井(てんじょう)から薬のカプセルが幾(いく)つも落ちてきた。天井を確認したが穴はない。翌日も、更に翌日も、約三~四日続く。窓は閉めており風で落ちてきたのではない。天井から真下に落ちてきた。

なお、天井を手で触り調べても原因は分からず、箒(ほうき)などで軽くチェックしたのはこの頃である。二階に誰かいて・二階からの悪戯(いたずら)なのかと、天井を調べるためである。同時にその前に二階の板をドンドン踏みならされたこともあり、二階からの悪戯と通常は思う。

これのみでも、誰かが私のアパートに度々(たびたび)侵入したことは明白な事実であった。被害届を出しにくいやり方の上に、この頃は警察から既(すで)にシャットアウトされてもいた。……懐中(かいちゅう)電灯などで天井をチェックしても穴はなし。

箒(ほうき)、時には木刀で天井(てんじょう)を軽く叩(たた)いたのは天井構造のチェックが主目的……。なお、考えられることは、干渉者・首謀者Xが天井にそうした仕組みをするのを二階の住人が協力したか、私の部屋にそうした細工をするのに大屋が協力(許可)したか、それとも部外者が不法侵入して二階側からか、私の部屋側からか天井にそうした仕組みをしたかである。水(みず)漏(も)れはない。だが薬のカプセルが一つや二つではなく時間をおいてどんどん落ちてくる。……

再度、天井を懐中電灯や、手で隈(くま)無(な)く調べても異状なし。だが翌日も落ちてくる。落ちてきた薬は、私が大昔(八二年~八四年頃)服用した薬と同一と思われる薬で……(ほとんど)消却していたか、全て飲み終えてなくなっていた……よって、犯罪者が病院か薬局で私が昔服用したのと同一の薬を新たに購入した薬と推定される。

病歴等も全て調べたという脅しも兼用していたと思われる。ただし、天井を見続けて位置確認を狙うが、その間のみ落ちてこず。疲れて下を向くと時には即ポタリと、時には下の物へ当たる音も聞いている。例えば新聞紙の上にポトンと。勿論、落ちてくる瞬間は何度も見ている。畳や絨毯(じゆうたん)から三〇~五〇センチ程度上から下へ落ちる間まで。眼の高さから下に落ちる所も何十回と見ている。……、一〇〇%不法侵入は存在していた。……脅迫目的は駿台から手を引けという脅しと当時は考えていた……」

次に、拉致(らち)されそうになった事件に関して、もう少し丁寧(ていねい)に記す。一九八七年末警察官の服(若しくは警察官の服装そっくりの服)を着た二人組に、理由も告げられず、いきなり私の腕を掴(つか)まれ、どこかに連れて行かれようとした。

場所は東洋ホテルから梅田に行く繁華街とは異なる通常の道路であり、私は酒類は一切飲んでおらず、娯楽も中止中で連行される心当たりは全くない。身の危険を感じたため、大声で助けを呼ぶと、この二人組は走って逃げていった。

もし、私がこのときに大声で他の通行人目掛(めが)けて助けを呼ばなかったならば、どこへ連れ去られ、何をされたのであろうか。単なる暴行であろうか、殺人であろうか。連行して、「はい、さようなら」は通常は考えられない。いきなり理由も告げられず、腕を掴まれ、どこかへ連れて行かれようとしたのであるから。事件の起こった日は八七年一一月六日~一二月の駿台冬休み前の駿台出講日である。必要時には厳密分析で日時は相当絞り込みは可能である。
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「二〇〇七年年賀救済呼び掛け文―B」から引用
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犯人は誰か。

①(1)に記載したような次元のことで、刑事犯罪被害までに発展するであろうか。
当時は、今と異なり「日本のフィクサーME」では一切ない。何のためにするのであろうか。駿台京都校で人前で女性と2、3分楽しそうに口をきくとこうなるのであろうか。馬鹿馬鹿しい。理解不可能である。
さらに次の疑問もある。

②駿台辞職後には、ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)で、これらの刑事犯罪被害は労基法違反と無法学生問題へと結びつく。後者は、犯人Xに依頼されたアルバイト学生か偽学生としか思えなかった。

私が駿台を辞職し、駿台京都校職員も結婚などで辞めてからも、上記(1)のレベルで刑事犯罪被害が続くとは常識上は考えられない。この問題は次回の(3)で述べる。

③そして、その(労働省所管)ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国:厚生労働省所管)を辞職した後も刑事犯罪被害が続く。

④更に、駿台京都校講師時代に、私に絡んでいた教師群がそこまで悪質とは思えない(※注1参照)。すると私への犯罪の動機が理解不可能となる。また首謀者も検討がつかなくなってくる。要するに、何故、こうした被害に30年以上遭(あ)い続けるのかさっぱり分からない。何年考えても全く分からない状態が続く。

⑤1987年4月か5月頃、付き合いかけた女性HK(大学生)がいたが、彼女がしきりに駿台の政経講師MD(別名を含めて幾つもの名前を使い分けていた講師)を出す。彼は私のライバル講師であった。だが、HKは駿台には行っていない。高校も予備校も岡山のはずである。

私は、「嘘をつかない(騙さない)」、「二股はかけない」(彼女と付き合う期間は見合いも何もしていないし、女性候補者もいなかったという事実がある)、「私の方からは去らない」、「暴力は否定派である」…を誓い、実行していたが、突如誰かに嘘を吹き込まれた形で、HKがよそよそしくなり潰(つぶ)れた事件がある。私の方は当然結婚までまっしぐらで問題ないという方針であった。

何故彼女が、駿台講師の名前をだしたのか。さらに突然潰れた謎、おまけに、後で考えると私の知っているHKではなく、HKに似た偽者のように思える不思議さがあった。誰が仕組んだのであろうか。(1987年後半、原状回復を目的に裁判を検討したが、妨害で不可能となった。もし、裁判が可能となっていれば、HKさんに、迷惑のかからぬ範囲で「ありのままの事実をいっていただくように」お願いしたであろう。今からでも裁判が可能ならば同様である。🙏)


⑥何のことか意味不明の差別文書を渡される事件があった。

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八七年後半頃、私の知らぬ某生徒から、化学のK先生から浜田先生への贈物と言って膨大な手書き文書を渡される。この文書は、内容は差別表現の羅列(られつ)であり、後半には脅迫的印象を抱かせる真夜中の車の写真が幾つもコピー添付されていた(現在も保存中)。私の部屋に不法侵入し、西宮市教育委員会同和教育担当時代に職務上保有していた機密書類などを見たり、……という脅しとしか思えぬ内容であった。
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ちなみに、この文書には「法務局」と「人権擁護局」印刷がしてあったページがあった。
この文書を手渡されたのが1987年11月頃であったが、丁度その三十年後にも、「岡山地方法務局津山支局」と「津山人権擁護委員協議会」の名が印刷してあった封筒が我が家のポストにいれてあった。

住所・番地は我が家であったが、宛名は隣家の私より一つ上の人物(いっときは身長・体重ほぼ同一の人物で、違いは私と異なり運動神経がよく、小中学校時代は私と異なり優等生の方で、私と異なり女性にも人気があった人)であった。(隣家が何故か50年我が家の住所を使用していた謎もある。)

関連:トラブルブログ№17-100・トラブルの危険性ある人権擁護局封筒(処理対応待ちを参考公開)
http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?p=12499

№17-100・トラブルの危険性ある人権擁護局封筒(処理対応待ちを参考公開)


⑦駿台女性NMに手紙を1984年秋に手渡した謎。
これは後に(4)で述べるが、私は1983年夏に水俣で出会った子に何とか連絡を取る方法を検討していたならば、(1984年1月に)催眠類で突如NMに意思を変更させられた謎がある。今ならば相当実証できるし、また場合によれば証言してくれる人も出てくる可能性がある。


ここから出てくる結論も
犯人XはZに恨みを持ち、Zと私を人間違いし、女性NM等に何かを依頼し、私を惑わしたである(多分、遅くとも1983年夏前後に依頼したと想像する。)
今、信じられなくても、これから、駿台のみならず、我が家界隈で起こったこと、また私の回想録、日本のフィクサーMEシリーズなどを書いていけば、その内に理解できるようになると思う。
要するに「人間違い」が発端以外に、現在の私に思いつく理由はない。これ以外では、長期考えていた、全く筋書きのない映画説しかない。ただし、ここ何年も映画説でも筋書きがあろう…と就寝中に言われ続け…。

なお、駿台の件は隣家との人間違いとは書いていない。私に分かる訳がないことが事実である。実際に、私の処女出版である『旅に心を求めて―不条理編』(Kindle、百円)は2015年1月30日出版であるが、私と同姓同名で同一漢字の浜田隆政氏が突如同一日に高価な本を出版した。この人は東大教授の肩書きがあった記憶がある。よって、Zが誰かは現時点では特定していない。


なお、同和問題が臭わされることがあるが、それならば更に私と誰かとを間違えたのであろう。私は差別反対主義者で、その運動にも携わっていた人間である。私のことは多くの昔の仲間が保証するであろう。さらに、ここ40年は党派中立・宗派中立実行中のため、誰からも恨みを買う覚えがない。ただし、Zが隣家(50年我が家の住所と番地を使い続けた家)であるとは一切書いていないことを再度強調しておく。


(参考1)
なお、京都校講師時代に絡んでいるような印象操作を受けた某講師🚺や、大阪校時代に絡んでいるような印象を受けた教師{一人は某生徒が化学のK先生からと言い、差別文書を私に渡してきた。本来実名表記が常識であるが、万一、生徒の嘘(うそ)の場合を考慮し、K先生としている}などは、(私とも結構友好関係があった)生物の川端先生と親しかったため、さらに、何が・何か不明である。

川端先生(京都在住)は当時、京都校校長か何かであった記憶がある。私とは先生が死ぬまで年賀状のやりとりや、一対一では一度食事を御一緒させていただいたり、私が1984年前後に、岡山中学・高校(NHKの井上あさひ等の母校)などから専任条件でスカウトされたりしたときに、私に駿台に残るように説得されたメンバーの一人である。

このときは大滝満夫部長、深見係長、川端先生と私であった。後に国語の金森先生{当時、駿台御三家(英語の表三郎先生・数学の青塚先生・国語の金森先生)の一人であった}が偶然加われたような記憶があるが、このときか別の飲食会だったかは定かではない。ビデオで授業を拝見させていただいたが、大変見事な・リズミカルな国語の授業をされていた先生で、駿台関西地区ナンバー3の一人であった。

川端先生(生物が担当で、温厚な人柄の先生)や金森先生については、当方は何等(何ら)被害も受けていないため、実名で書くことにした。インタネットでは未(いま)だに実名で登場されているため、実名表記でも迷惑をおかけすることはないと判断したからである。

なお、駿台時代に各種トラブルに絡んでいた印象操作を受けた講師達が、当時の駿台女性NMさんなどと仲が良い訳ではない。さらに意味が分からない。第一、自分の教材研究で手一杯のはずである。

駿台の件を今更書いても無意味であるが、昨年(2019年4月頃)から「偽者」強調が激しくなり、更に私と仲の良い世界の指導者の一部も「偽者」に警戒シグナルをだしたため、やむを得ず、駿台の件を記している次第である。更に、国内外の政治に、当時(駿台講師時代)のトラブル首謀者Xが私に絡めて策動をしている疑惑もあるからである。

ちなみに、松江在住の故友人のTN(拙著『日本のフィクサーME』登場の布袋さんのモデル)は「人間違い(ひとまちがい)が原因」と2012年4月にはきっぱり明言していた。

やむを得ず駿台の記述とは、駿台の件などは読者が興味を持たないからである。さらに、正直に言えば、駿台予備学校、駿台学園と私(浜田隆政)では、天地の差で、私の方が世界では有名である。駿台は世界では誰も知らないが、世界の指導者で私の名を知らない人はほとんどいない。世界百か国以上でもう私の名は知れ渡っている。多分、世界190か国程度であろう。確認済みは150か国弱である。

他にせねばならないことが山ほどあるがやむを得ずの、駿台記述である。仮説では駿台時代に、X(犯人)が恨みのあるZと私(浜田隆政)の人間違いをしたである(多分、1982年から1983年頃と推測している)。駿台女性の件(NM等の件・恋愛類ではなくドタバタ劇)はその後である

なお、駿台の刑事犯罪、営業妨害は裁判所でのケリが正道であったが妨害だらけで不可能とされた。後に、駿台の尾を引く形で(労働省所管・現厚生労働省所管)ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)でも労基法違反を含む刑事犯罪、その他の被害を受け続けた。これは本来裁判所か、厚生労働省所管のため国会での審議が正当な方法である。国会議員類には延べ百通その依頼文書を送付している。労働省や厚生労働省にも送付している。

しかし、(早大大学院政治学研究科先輩の)小渕総理の突然死のみであり、他は動きがない。小渕恵三氏には2000年4月3日に書留で救済依頼文書送付したが、正にその夜緊急入院のテロップがテレビでながれた。

正々堂々とガラス張りでの決着が望ましい。
同時に、事情は論理や、私への実験ではなく、具体的な事情徴収を直(じか)にすることが望ましい。プライバシー権問題があるため、やはり裁判所や国会が本道であるが、各種方法で長期それを封じられている。だが、偽証罪が使用できる場が望ましいと常に思っている。

物事を前に進めたり、世界の指導者類の注目や調査を依頼したりするため、可能な範囲で徐々に実名表記を検討している。ガラス張りが望ましい。駿台、ポリテクカレッジ岡山の管理者類は徐々に実名表記に変更を検討している。また犯罪に該当が明白になれば、平の教師類でも実名を検討する。

駿台の件は女性問題では全くなく、刑事犯罪被害問題でしかない。同時に、犯人Xが人間違いをして危害を私に加えたことも、実名にした方が早く分かるであろう。 なお、駿台辞職後の半年目から一年目頃に、先の川端先生そっくりの声の人物が登場した。顔は全く違っていたし年も違っていた。恰(あたか)も偽者を強調するかの如(ごと)しであった。

川端先生は実名にしても、いかようにも問題がない(先生の一家は困ることが一切ない、更に死後も実名でインタネットに掲載されている)ため、本日から実名表記としている。
温厚な人であった。最後のやりとりは、家族の方からの「…川端三郎がなくなり…喪中につき失礼します」の挨拶文であった。


当時、大阪校には若手の石原という職員がいたが、朝日新聞で最近掲載された石原賢一氏(駿台教育研究所 進学情報事業部 部長)かどうか不明である。もし、彼が当時大阪校にいた石原氏ならば、調査を依頼したいが、調査のポイントが難しいため、そのポイントを後日記すことを検討する。

表面的な調査は犯罪の隠蔽(いんぺい)の役割しかしないからである。場合によれば、すぐには反応はないが数年後には駿台の命運がかかるかもしれない。超巨大企業(MSのビルゲイツ氏、FacebookのCEO…日本でもソニーの元トップの一人、ニコンの一部、第二代~四代頃の経団連会長)ならばよく知っているであろうが、駿台レベルの経営規模となるとまだ知らぬことが大半であろう。朝日新聞ですら、2014年以降を振り返れば漸(ようや)く、分かりかけたかもしれない。ベネッセも一定分かりかけたところであろう。経営規模が大きくないと事情は分かり難(にく)いであろう。

政治圧力ではない。私の意向に拘(かか)わらず、経済面で消費者が動くことが多いからである。世界遺産と私の訪問地の因果関係をみれば一目瞭然のはずである。
石原氏も軽く考えずに、まず、駿台学園理事長と連絡をとることを推奨する。勿論(もちろん)、いつか紹介する海外政府の首脳から情報を得てもよかろう。今はその紹介の時期ではないためしない。


駿台時代の刑事犯罪連続(ほぼ毎日)の期間は合計二年であり、その内、辞職前の数か月は生活不可能な状態に追い込まれた。日常生活すら困難をきたし、大阪校堀江部長、京都校大滝部長に(原状回復を願い)内容証明をだしたが効果がなく、結局辞職を余儀なくされた。
駿台内の犯罪については、今からでも当時の職員に聞き取り調査を願う。特に駿台予備学校大阪校である(元職員への聞き取り調査も願う)。当時(1986年4月~88年1月)の駿台大阪校職員への聞き取り調査を願う。


学外を含むと、上記のような大犯罪、更に、私の身辺調査をしたというような脅し類…が続いた。しかし、私は受験教科ではマイナーな政治経済の教師であり、しかも非常勤講師ですよ(もっとも妨害がなければ駿台でスーパースターになっていたことは後の私を見れば分かろうが)。
ともかく当時は単なる非常勤講師の私が、駿台の女性職員と人前で楽しそうに数分話したで、斯様(かよう)なことがあるでしょうか。当時は日本のフィクサーMEでもない、30才前半の若造ですよ。すると、犯罪の本質は女性とは無関係な動機としか分析できない。実際に(1)で書いたように女性問題自体が全く存在していない。なお、そうした経費は誰がだしたのであろうか。
ともかく、私には人に恨まれる心当たりが全くない。斯様(かよう)な疑問を30年余り持っているが、さっぱり分からない。冥土に行く前に分かるのであろうか。冥土と言えば、友人が「ひとまちがいが原因」ときっぱり言っていたが、確認しようと思うや、昨年4月に冥土に行った。
ほんとうの話である。

私の終活活動とすれば、本当は世界連邦・世界統一軍にむけて動いたり、書いたりするのが本道なのであるが、駿台のことを諸挑発で書かされ…、私にとっても、世界にとっても大きな痛手となっている。

今回はここまでの記述とする。

 

(2020/09/27 0:06追記)二点追記をする。

(1)駿台予備学校・大阪校と京都校の幹部は当時、競争意識が過熱し、多少ギクシャクしていたように見受けた。
その駿台予備学校・大阪校のトップが堀江部長であった。その下に教師担当の課長がいたが、名前を忘却した。この人物は私のライバルの政経教師と仲が良いようであった。

(2)マイク攻撃か何かで、喉(のど)をやられたときの診断書が下記である。
日記や記録がないが、診断書は通常は保険申請か、他病院への紹介状か、それとも刑事犯罪被害での証拠としてしかとらない。何故ならば、私自身のためならば、診断書は必要ないからである。保険申請や他病院に移動していない以上、もう1987年6月か7月にもマイク攻撃があったと思われる。当時の生徒が覚えているであろう。(必要時には聞き取り調査が一番である。)

クリックで拡大可能。

喉の痛みの診断書




(3)駿台辞職後も30年尾を引いている疑惑
 京都校時代は、女子中学校か小学校の「恋愛ごっこ祭り」騒ぎであろう。これも大の大人がとなると奇妙ではあるが、そうしたことは全くないとも言えない。
だが、大阪校時代の刑事犯罪被害とは明白な犯罪であり、通常は上記のケースではありえない。駿台女性とは何の付き合い云々(うんぬん)の実態もないのにである。

だが、通常ならば、私が駿台予備学校を辞職すればお終(しま)いのはずである。ましてや、相手の女性も途中で結婚したと聞いていた。私も女性も両方が駿台を辞めてまで尾を引く話ではない。
 ところが、この件が次の職場・ポリテクカレッジ岡山(労働省所管、現厚生労働省所管)でも、駿台辞職するや職場が一変し、各種被害を受け、後に駿台予備学校との因果を臭わされる。
 さらに、ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)を辞職するや、今度はベネッセで、更には村で各種トラブルに遭遇し、駿台辞職してからですら32年、女性に手紙を渡しててから36年以上となる。

このようなことが現実にあるのだろうか?
意味がさっぱり分からない。チンプンカンプンである。

(2020/09/10 16:13追記:2020/09/12清書進行中)


駿台辞職後は、さらに、刑事犯罪被害が増大した。(3)で述べるように、駿台との因果を臭わせてである。駿台時代の件は上記(1)のため、当方は「ちんぷんかんぷん」が続いている。辞職後から既に32年経(た)つが被害は悪質な状態で継続しているとしか思えない。
回答の一つは、下記に記す、人間違いから開始したとしか思えない。

 


 

 


 


今回、上記まで追記や修正後に正式公開


★から★の箇所は、2020/09/22寝ている間に、「記述せよ」と催眠でたたき込まれ、午前5時半に無理矢理起こされ、記述させられた箇所である。


幾つかの疑問を記す。

①(1)で書いたような次元で、刑事犯罪被害までに発展するであろうか。

②斯様(かよう)な話で、私も、駿台女性も職場を辞めた後まで、犯罪被害が継続することはありえない。

③しかも、その犯罪が30年以上継続する前例はない。何故ならば刑事犯罪加害者も費用がいるからである。
→②③から言えることは女性問題では全くないことの証明である。また、①では女性問題自体が存在していない。

④駿台女性どころか、駿台の件を全く忘却し、全く触れていない時期ですら刑事犯罪被害が続く。

⑤出発点と思わされていること自体がありえないことである。二点ある。

(A)一点は、私は加山雄三さんや、長嶋茂雄さんの若い頃ではないのである。当時の私の写真や今の私の写真を掲載すれば即座に分かろう。私がデートもせず指一本ふれず、駿台女性のAさんが良いとか、Bさんが良いとか口頭で言ったとしても(実際には催眠で内心で思わされただけであるが)、通常は誰も相手にしない。相手の女性自体が相手にしないはずである。幼小の頃(故郷に写真を掲載)よりは多少容姿がましになったとはいえ、写真を掲載すれば誰でも即座に分かる。

(B)もう一点は、これから証明するが、私が1984年に駿台女性🚺NMさんに💌手紙をだしてもめたのではない。逆である。1983年夏頃からNMさんが私から関心を呼び起こそうと努力し、不十分だったので催眠で1984年1月に熱をあげさせられているのである。だが、1984年秋に💌手紙をNMさんに手渡し、断られている。それでは、何故、NMさんがそうした策動をしたのであろうか。社会通念上考えられることは、NMさんが、誰かに何かを頼まれて工作をしたとなる


①~⑤より、私は筋書きのないドタバタ劇か、永久の世の入り口としてヨブ記の世界が連続していると諦(あきら)めていた。それも30年以上。しかし、十円の飴(あめ)を買うたびに、一万円取られるという被害が続くのは出鱈目(でたらめ)でもありえないと随所に抗議のメッセージはだした。しかし無駄であった。
そうしたときに、言われたのが「人間違い・ひと間違い説」である。

要するに、犯人X(多分Xグループ)がZに恨(うら)みを持ち、Zと私とを間違えた、である。

だが、私はZではないため、Zが何をしたかはさっぱり分からない。誤解ならば解説して解くこともできようが、人間違い類ならば何を弁解してよいのかさっぱり分からず、被害は長期続くとなる。実際に続いている。

人間違い説が事実ならば、Zが誰かが明白に分かれば多少対策がとれるかもしれない。だが現時点でZを完全特定はできていない。残る手段は、理論上は、私のプロフィール充実、回想録、自伝類を書き、私の紹介のみである。そこで、2015年から、掲載を開始しようとするともの凄(すご)い妨害に遭ったという謎がある。
⑥即ち、私のプロフィールを記そうとしたときに起こった異常な妨害である。

第一話が女性問題は存在していないことの実態であり、第二話が上記の①であり、第三話が上記の②であり、第四話が上記の⑤(特にB)であり、第六話が上記の⑥である。飛ばした第五話は、何のことかさっぱりわからないが随所で強調される同和問題の謎である。さっぱり分からないとは、私は差別反対派であり、その種の活動を長年してきた人物だからである。その上、ここ30年以上、40年近くは党派中立・宗派中立でもあるため、どの団体・組織からも恨みを買うことは絶対にないからでもある。

裁判も阻止され、議員・政府に救済依頼をしても無視された以上、インタネットをする金がなくなる前に、世界に向けて被害を訴え、「人間違い」説が事実ならばそれを明白にするしか生存する方法はない。

なお、第三話と第四話の順番を変えて、先に第四話から入る。即ち、私が女性NMに熱をあげてもめ事が起こったのでなく、もめ事を起こすために、女性NMが工作をしたことの実証である。各種証拠などを提示してゆく。同時に当時の関係者が生きている間に聞き取りを願う。また可能ときには調査を願う。

私に人権があれば、この世では各種刑事犯罪被害などは裁判で決着をつけ、その過程で「ひとまちがい」などは実証されるのが本道である。だが、その種の人権をも奪われているのが現状である。

追記。
⑦先の①のような次元で、X抜きの駿台説ならば、斯様(かよう)な次元で、誰かが私の身辺調査などをしたり、身辺調査をしたと脅したりするであろうか。馬鹿馬鹿しすぎる。



ここ以降は次々回

(4)も聞き取り調査を願う。1984年1月の高校生コースの子とNMさんの視線が合うや火花の謎。

高校生コースの子に聞き取り調査を。NMさんも場合によれば証言するかもしれない。調査内容の重要なポイントは、誰かに私の件で誰にいつ何かを依頼されたかである。

余り意味は持たないが、水俣で出会った女性にも聞き取り調査は可能なはずである。当時の名簿は今でも持っている。写真物語館・水俣に掲載の写真にも大勢の中に小さく写っている(個人情報問題からどの女性かは書けない)。私が関心を寄せていたのはうっすら気づいているはず。

とにかく、一番重要なことは人間違いの確認をすべきである

 

(4)出発点の不可思議さ―人間違い説


【ここのみ2020/09/10 15:12】確認方法

(1)感情の催眠型意思コントロール→過去のブログなどを読めば分かる。

(2)女性熱の催眠誘導や変化→下記の事例として、高校時代の後輩女性の件を記述。未だに双方、広い意味で好感を持っていると思うので、彼女らに聞くことが望ましい。

私より学年が一つ下のHTさん、MTさん。両者ともに高校部落研究会の後輩。1970年(私が高校三年時)に起こったMTさん熱が突如HTさん熱に(催眠変化)などの裏事情を知っている可能性あり。これが事実ならば、駿台時の、1983年水俣で出会った子への熱が突如、駿台職員NMさん熱への1984年1月変化なども理解可能となろう。(裁判が可能となれば、私もこの両者に直にお願いします🙏。正々堂々と全面ガラス張りで)

(3)駿台職員NMさんが、誰かに頼まれ刺客型で1983年夏頃から…の証明は、当時の高校生コース(政経受講者)に聞けば教えてくる可能性がある。NMさん自身も場合によれば教えてくれる可能性すらゼロではない。まず、聞き取り調査を。なお、この高校生コースの女性に似せた形で、前回(2020年8月)の「朝から生テレビ」に女性{岩本京子(テレビ朝日報道局厚生労働省担当)}がでていたため、もうマスコミなどは調べて知っている可能性すらある。岩本京子氏をもっと幼くして、榊原郁恵型で、天真爛漫型で少し色が黒い子。今調べると岩本京子さんは福岡県双葉高校出身のよう。何故か福岡が強調される謎もある。高校生コースの子(1983年度政経受講者)は今からでも駿台で名前は特定できるはずである。

(2020/09/23 11:43追記:余談ではあるが、岩本京子さんは上記の高校生コースの子ではなく、大昔の家庭教師先の妹さんを意味していたのであろうか。そう言えば顔が高校生コースと妹さんの顔が似ていたかもしれない。)

 


 

しかし、強いて解釈すれば、何らかの映画説(実話型映画の主人公にでもされた説)のみが考えられた。
 というのも、後にテレビと対話とか、世界の指導者と各種交流という不可思議な状況が起こったからである。

そして、上記の女性トラブルというよりも女性事件の件はチンプンカンプンであり、「ドタバタ劇であり、何のストーリーもない、三流監督が指揮する映画」と思わざるを得なかった。それでも長い。間もなく40年になろうとしている。

それでも、何故(なぜ)、こうした出たらめ危害が長期続くのかと(松江の)友人に疑問をなげかけた。すると、友人の方が逆に「なぜかと思う」と聞いたので、私は「私は人に恨まれる覚えがないので、勘違いか誤解を誰かがしているのではないか」と返答すると、友人は、「いや、それは人間違い」と言い切った。その後、友人は「僕は糖尿病になったので、インシュリンの注射をする」と言いながら注射を自分でうっていた。2012年4月のことである。

その後、人間違いが該当するような状況を何度か経験したため、私のHPのプロフィール充実や、場合によれば回想録などを書きかけるや、ものすごい妨害が起こる。誰の妨害かは今は書かない。
泣くこと地頭には勝てぬ、それ以上に起業を目指し、超多忙なため、起業準備に専念することとし、プロフィール充実などは諦めた。2015年夏のことである。
その後2019年に偽者強調から駿台事件を詳細にブログに掲載するようになった。
ただし、下記の関係(下記Twitter参照)で駿台の件は余り書く意味はないが、しつこい挑発と意味不明の件などからやむを得ずである。すると間もなく、松江の友人が死亡した。「人間違いの件」は更に謎となった。

○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1302929268993716224?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1302929268993716224?s=20



こうした中で、昔を思い出していると、奇妙なことを思い出した。
駿台事件の開始は1984年夏ではなく、1983年夏なのである。
1983年夏前に、1983年度駿台の職員になった🚺NMさんと、お茶をついでいただいた際に数度会話をした。その結果は、私とは生き方が違うので、しゃべっても無駄という思いをしたことを覚えている。

そして、相手も、それを察してか、私の方を無視近い状態となった。それで良い。それで世の中はうまくいく。
ところが、同年1983年夏に、先輩であるが親友のIT氏に、熊本でおこなわれた教員の研究集会に誘われた。会の名前は歴史教育協議会であっただろうか。ところが直前に彼は参加できないと言い出した。その結果私一人で参加した。
当然、こうした会議に知り合いがいる訳がない。弱ったというものではなかった。しかし、何日かたてば、社会科とか教師に感心がある人の集団のため、会話をする人が何人か登場した。
大きな研究会のため、各種分科会があった。ある分科会で、私好みの女性にであった。美人ではないかもしれないが、私好みのタイプであり、容姿もこの種の容姿は私のお気に入りの一つである。ただし、現職教師ではなく、教員志望の学生のようにも見受けられた。

男性教員には簡単に話しかけられたが、この女性には何回か同一分科会で会ったが、声をかけたり、会話をしたりする度胸がなかった。しかし、この頃は私は31才の頃で結婚に焦りを感じていた。伴侶ならばこうしたタイプがよい。当時の好みのタイプは後日記述。
もはや分科会も最後となり諦めた。だが、現地見学(フィールドワーク)がオプションであるという。私は水俣コースを選んだ。彼女がくれば、今度こそ、決死の覚悟で話しかけると決定した。
だが来るわけがない。何故(なぜ)ならば、当時は約数千人が参加しており、そして水俣行きのオプションツァーはバス一台か二台である。確率論から言って、50分の一以下である。
しかし、来れば、逆に言えば絶対に会話をすると決めていた。

そして、水俣行きのツァーに参加した日に彼女は来ていた。オプショナルの水俣ツァーは一泊二日である。部屋は違うが同じ宿で寝ることになる(水天荘という国民宿舎である)。このときのコースや思い出は拙著『旅に心を求めて―不条理編(下)』(生けとし生ける者は生き続けなければならない){Kindle、KOBO各百円}参照に書いている。もっとも、女性のことは書いていない。

だが、結局、声をかけることはできなかった。会話のチャンスが幾つもあったのに。食事とき、バスをおりて歩いているとき、…と。実際に、この世は半徹夜で、様々な教師と語り合っている。

なお、この女性には客観的に考えて脈があったとしか思えなかった。というのも、私がバスの中でマイクを持ち「授業論などを語ると」、この女性はにっこりわらい、くいつくように私を熟視し、うれしくてたまらないという顔で私の話を聞いていた。一瞬は、ふりむき、私の顔を真っ先にみたのを覚えている。

双方が関心をもつ女性にはめったにであわない。そこであの顔をみたならば、最後の別れ際とも考えたが無理であった。

こうしてツァーは終わった。だが、運良く、参加者名簿を渡された。そこで、今度は絶対に手紙を出そうと決心した。しかし、口実があった方がよい。そこで、年賀状を兼ねてだそうと冬を待った。
だが、年賀状でも出す度胸はなかった。ちなみに、こうした手紙をだしたことはないため尚更(なおさら)であった。

しかし、未練はあった。そこで、1984年1月の駿台講習時も、まだ遅れた年賀状か寒中見舞いかで出そうと思い続けていた。

★当時の写真掲載を検討(この写真の中のどこかにこの女性がいるかも。名前は当時の参加者名簿で特定は可能である。当時の住所も同様である。具体的聞き取り調査だけが意味を持つ)。


ところが、不思議なことが起こる。
思い続けて悩んでいた時間を1984年1月●日YY時とすれば、ある一瞬を契機に、突如その手紙の件は忘却し、駿台の先のNMという女性に熱があがったのである。当時は催眠というものを知らぬが、不思議で仕方がなかった。そこで、催眠とは知らないが抵抗をし、昔、真備高校(女子高校)で同僚であった先生に手紙…となる。だが抵抗もむなしく、催眠攻撃でやむなくNMに手紙を出す羽目となった。
この手紙という発想は水俣で出会った子にコンタクトを取るために思いついた手段であった。何故ならば、他に手段がなかったからである。


なお、駿台女性NMさんは、1983年夏に私が水俣で出会った子に熱をあげたのを確認してから、1983年秋頃から私の関心をさりげなく引く素振りを開始した疑惑がある(駿台にいるはずがない赤ちゃんと登場とそれをあやす、それも私が必ず見るように…)。だが、このNMさんが私に関心をもっていれば、1984年夏に手紙を渡した際に、良い返事をするはずであるが全く逆であった。

随所に書いているが(多分1990年代の後半から書いているが)、この女性NMさんに私が熱をあげて揉(も)めて駿台を辞職したのではなく、私を駿台から放逐し、さらに、私が長期に亘り(ときには一生涯に亘り)仕事をできなくするために、このNMさんが誰かに頼まれて、私の関心を引こうとしたという仮説である。それがうまくいかないので最後は催眠であった。
なお、この種の催眠は過去にも、その後にも経験している。高校時代に部落研究会の後輩女性MTさんに熱をあげていたら、ある日、午後からは同じ後輩のHTさんに熱が移動したことがある。それも僅か1分程度で。さらに、駿台大阪校にいってからは、岡山の予備校でも、女性TYさんに突如熱をあげさせられるが、それがある日、突如YJさんの方に熱が変わるという不思議な体験もある。
前例はある。ちなみに岡山の先の二人も駿台同様にデートもせず、指一本触れずである。高校時代の方が、彼女らが結婚した後も仲間であり、友達である。一人の方は彼氏ができてからも連絡をくれ、もう一人の方が結婚式に招待されたが多忙で参加できず。

しかし、高校時代のそれと異なり、他のは、特に駿台NMさんの件は、私を駿台から放逐するためとしか分析できない。
だが、私は他人から恨みを買う心当たりは一切ない。そこで、高校時代の件なども思い出しながら、山田洋次型ドタバタ劇でこうしたシナリオを考えたのだろうと、駿台辞職後(1988年1月)以降で半年後くらいからは、そう考えていた。
駿台女性関連は、1986年春の深見係長からの(京都校から大阪校移動への打診)電話を合図に全て感情が消え去った。催眠とはそういうものである。なお、移動打診の内容は、「政経ME先生(幾つもの名を持つ先生)のお子さんが障害をかかえられており、その関係でME先生が大阪校から京都校へ異動したい…」であった。私のプロフィールを安らぎ文庫に掲載しているが、私も祖父が約10年寝たきり・腕も動かす・物も言えず…となっていたため、ノーとは言えず、大阪校への異動をOKしたのである。(下記「ふるさとの記録―6」の下に私の一家の写真や祖父の写真などを掲載。私の幼小の頃の写真も掲載している。私が女性…馬鹿馬鹿しいことも写真をみれば分かろう。😂😂😂、猫も😸)

○http://h-takamasa.com/Blog/?p=22284

ふるさとの記録―6・拙著『フォットエッセイ・ふるさと』(1952~68年の村の子供達⑤)から(正式公開)

多分、(1986年1月頃の)駿台京都校の高校生コースの女の子と職員NMの目があい、火花か散ったように思えたのを契機に催眠がかかり、(1986年春の)深見係長からの電話を契機に催眠がとけたのであろう。

その後に、NMさんへの好意的な形で思い出したことはただの一度もない。さらに、先の熱を催眠で上げさせられる前も、同様に好意的な形で思ったことは一度もない。
ようするに、私は意味不明の(多分、永久の世の)映画説の主人公であろう。そしてNMさんの件はどたばた劇の導火線と解釈を長期していた。

ところが、2012年の友人の言動や、就寝中に、映画説でも何かストーリーがあろう。脚本があろう、…と思わされた。さらに、人間違い被害を連想させる事件が相次ぎ、ひょっとすると、どたばた劇でも最初からのどたばた劇ではなく、どたばた劇を開始するためのシナリオがあったのではないかと思うようになった。

簡単に言えば、XがZに恨みか何かを抱き、Zに女性を絡めて失脚させ、人生を台無しにするきっかけとなるようにするため、駿台NMさんなどにXが依頼をしたという仮説である。
だが、私は人に恨まれる性格では本来はない。誰かが故意にデマを飛ばさぬ限り。そして友人の一言「人間違いが原因」とか、世界の指導者が臭わせた「偽者」なる語を疑いだした。要するに、XがZ(若しくはZの母か父)に恨みをもったかもしれないが、私はZではなく私は浜田隆政である。
ここ十年余りは人間違いを裏付けるような形で物語は進行している。Zは誰かは、私はXやZではないため特定できる訳がない。
ただ、人間違いが起こりそうな箇所を、プライバシー権に配慮しながら、臭わすしかないであろう。


もっとも、単なるどたばた劇の可能性もまだ捨てきれない。何故ならば、先の🌊水俣(🐬)でであった女性は、1987夏にも岡山の社会科教員研修会で出会った可能性が高いからである。当時会った子とよく似た子がお嬢の一人(🎎)と同様の仕草をしながら、私の前を歩いたからである。
駿台事件若しくは駿台トラブルの開始は1984年秋の手紙ではなく、1983年夏が終わった直後の秋からである。先の赤ん坊…から策動が開始されている。そして、刑事犯罪がピークなる直前の嵐の前の静けさが1987年夏である。両方に水俣で出会った女性🌊は登場している。
さらに、私を熊本の社会科教員研究会に誘ったITさんは、あの女性🌊は、お嬢のもう一人🧜と同一だ。さらに、駿台時代に慌てて見合いをした🛵女性(私は🌈と表現したい)「おじょう」とも同一だ、と言う始末である。
要するに、未(いま)だに駿台女性トラブル開始のNMさんの件は催眠であることは間違いないが、どたばた劇の導火線なのか、訳の分からぬドラマのシナリオ(人間違いを起点)なのかは判明しづらい状態が続いている。催眠類熱であることだけが事実である。

だが、何故、未だに駿台NMの件を書かされたり、駿台の件を書かされたりするのかさっぱり分からぬと同時に貴重な人生の無駄であると、人生終活に入り、参っている。馬鹿馬鹿しいことこの上ないである。
https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1302929268993716224?s=20

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1302929268993716224?s=20

 


※K先生からが事実ならば、K先生の名前も実名で記載するが、手渡した人が勝手にK先生の名を使用した疑惑もあるため、しばらく保留。とにかく、一番重要なことは人間違いの確認をすべきである




(5)同和問題を臭わされる謎
これは、駿台時代に化学のK先生からと言って、何人かの生徒が意味不明な差別文書(中に法務局とか人権擁護局のマークがあり)を手渡してきたり、その後もそうした挑発らしきものがあっりした。ただし、何のことか意味不明である。
なお、駿台で差別文書を1987年11月頃に渡されたが、その30年目の11月にやはり法務局、人権協議会の封筒が我が家の郵便受けに入っていた。
ただし、住所は我が家であるが、宛先は私ではなく、隣人の名前であった。(隣家も何故か不明であるが、我が家の住所を50年ほど使用され続けられていた謎もある)。

ただ言えることは、私は部落研活動を長期していたことがあり、差別反対主義者である。勿論、伴侶候補の出自などはきにしない。だから一切調べない。学歴・人種・出自…はどうでもよい。強いて言えば「若い内の苦労は買ってでもしろ」…より、その苦労が昇華されていれば魅力でしかない。

苦労がいかされていれば、伴侶候補としてはプラス評価はあっても、その逆はない。

機会があれば、1968年高校一年のとき(分裂前の部落研修会)、1969年分裂が起こったがまだ同一の集会に参加したとき、1970年分裂後の集会の感想などもどこかで記載しよう。▽
岡映氏の件は既に記述した通りで、岡さんがよく行っていた食堂のママさんからの、女子高校生指導で悩んでいたときに、対応の仕方などの参考でということで紹介されたにすぎない。

ようするに、何故、同和問題が駿台の件ででてくるのか「サッパリ分からない」。同時に、私は差別反対主義者にも拘(かか)わらず、出鱈目(でたらめ)の挑発の気配も気になっている。

なお、私は差別反対主義者であるが、もう40年ほど前から党派中立・宗派中立を貫いていることも強調しておく。

2020年9月19日 | カテゴリー :