【その他】№156・続・独り言―女性…駿台、岡山…から西田ひかるまでの不可思議な催眠①(正式公開)

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気が向けば一言【その他】№156・続・独り言―女性…駿台、岡山…から西田ひかるまでの不可思議な催眠①


(更新記録)

2019/10/18 23:48メモ段階で公開

2019/10/19 3:12清書一歩前で公開

2019/10/19 14:17大幅追記をして正式公開。大幅追記は《◇―1》の下の部分。14:16公開と記載。2019/10/19 15:09誤字微修正。

2019/10/20 19:07少し追記

 


(登場語句)#オバマ #星野仙一 #衣笠祥雄 #駿台 #ベネッセ #福武書店 #水俣 #歴教協 #熊本 #広島 #原爆 #平和 #催眠 #岡映 #同和問題 (#法務省) #山崎春之 #月の輪古墳 #厚生労働省


昨日(2019/10/17)、催眠下で駿台教員関連を紹介してあったHP`をコピーしたり、当時の教員に関するメモをさせられたりした。その中で幾つか思い出したことを記載しておく。

《◇―1・駿台女性への催眠熱の開始と終わり時期》

駿台女性の件は既述の通りである。
☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆
私…はこの予備校女性職員とは、誰にも指一本触れず、外でのデートもしたこともなく、一人当たり6年合計で十分程度の会話しかしたことがない。それも人のいる前に限定しての話であり、見えぬ所での二人きりであったことは学内でもゼロである。

……S予備校では女性職員に指一本触れていないし、学外で会ったこともないのみか、その職員達と見合い前に潰(つぶ)れたというだけの話である。
それが何故(なぜ)、尾を引くのであろうか。
それも、簡単に言えば「私がふられて」。
おかしな話である。
……
☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆

駿台女性への感情類は全て催眠で開始し、催眠で終わった。それが全てである。
催眠下でも、覚えていること(かけられた催眠で動かされたり、何かを思わされたりしたこと)だけを既に、気が向けば一言№134『長期危害連続―心当たりなし。友は人間違い、と言う』~№141『同⑧』や『気が向けば一言【変恋】№119・日本のフィクサーME・パート2付録編⑨・「お嬢から、女性C、そしてオジョウと映画説」』等で紹介した。
この箇所のアドレスは一覧としてクリック型かPDFクリックでまとめる予定でいる。

尚、催眠の開始時期は1984年1月か2月であり、駿台女性関連の催眠の終了時期は1986年3月である確率が高い。多分間違いなかろう。

催眠の合図・きっかけは特定しても意味がない。意味がないとは、箸(はし)が落ちるのをみて催眠状態になるとインプットされていればそうなる。電信柱を見て催眠状態になるとインプットされていればそうなる。そこで記載しても意味はないのであるが、一応心当たりがあるので参考までに記しておく。

開始は、駿台の冬季講習(1984年1月3日開始)か私立向け特別授業(1月下旬頃から2月上旬頃)のどちらである。相当な確率で、既に記載した高校生クラスの生徒と駿台講師室係S(原稿によればNM)さんと目が合い、火花が散ったような如く雰囲気を感じた時点である。

前者ならば奇異というものではない。私は、1983年夏に水俣に行き、そこで出会った女性に熱をあげていた。そして1984年の年賀状で思い切って葉書を出そうかどうしようかと迷っていた。その迷いが1月上旬である。年賀状を出せる最終期限である。駿台女性職員のことなどは頭の片隅にもなかった。ところが、前者ならば、まさにその1月上旬に、女性熱が突如駿台講師室係Cさん(=NMさん)に変更となっている。何で?
私は水俣で出会った教師志望の女性に手紙を出すかどうか悩んでいたのである。そんな馬鹿なとなる。
なお、この水俣であった教員の集(つど)いが、昨日、駿台教員のことを調べていると何の集いかが判明したので後で記載する。


駿台女性職員への催眠が解除されたのが、1986年3月である。3月に岡山市のアパートにいると、駿台の職員FK係長から電話があった。この電話が切れたときが催眠終了のシグナルとなっていたと思う。
電話内容は、政経同僚のMA先生のお子さんが「……障害を抱えておられ、お子さんの面倒をMA先生が見られるためには、MA先生の住まいの問題から、MA先生が大阪校中心から京都校中心に移動する必要があるのですが、浜田先生の御都合はどうでしょうか」という内容であった。

人道主義を掲げていた私には、お子さんの問題をだされると、回答は「はい、わかりました。京都校から大阪校に移動します」であった。即座の回答である。京都校講師には親しい教師が多数いた。大阪校では駿台講師1年目から4年目まで教壇にたったことがないので、知り合い教師はゼロである。さらに、大阪校職員のトップと京都校職員のトップがライバル意識が強すぎ、余り仲がよくないとも聞いていた。そこで不安があったが、お子さんの問題をだされると、回答は「イエス」しかなかった。
そして、「イエス」と言って電話を切るや、即座に、駿台女性の全てが消え失(う)せた。何かがスー~と抜けていくように消え失せた。まさに一瞬に近かった。


なお、このMA先生は幾つもの名前を使用されていた謎の人物である。駿台ではビックネームで、大変な人気があると聞いていたが、MA先生の授業を某生徒に頼みテープ録音して聞くとどこが良いのかサッパリ分からなかったという謎もある。このMA先生は相当私にライバル意識を持たれていたようである。
しかし、私は当時授業が生き甲斐(がい)であり、「好きこそものの上手なれ」ではないが、急速に伸びていた頃である。

もし、女性職員問題がなく、さらに、{勘違いというよりも騙(だま)されて}日本史も持たなければ、独走態勢に入っていたであろう。相当の確率で、1980年の終わりにはカリスマ教師になっていた可能性が高い。

なお、MA先生は英語も兼任されていたようであるが、当時駿台英語を背負うと誰もが思っていたFG氏(大手の四予備校全部で教壇につく)とは犬猿の仲とも聞いていた。それ以外の問題もあり、英語科中心への移動も難しい状況にあったかもしれない。ちなみに、FG先生は今は駿台外の予備校で教壇に立たれている。私と同い年くらいであり、(同一年齢に近い私が言うのも失礼であるが)大変な好青年という印象を当時持っていた。今でも好感を持っている教師の一人である。
FG先生が1990年代前半頃に駿台を辞めたと知り、驚いている。しかし、他人のプライバシーには深入りしないのが私の方針である。

とにかく、(当時のライバルとも思わされた)MA先生は謎の人物であったことだけを記しておく。

なお、2019年10月17日、駿台講師を調べていて分かったことを追記しておく。
私が1983年に水俣へ行ったのは、友人(当時中学校教師)に、熱心な教員の研究集会があると誘われて申込みをした。ところが、肝心(かんじん)の友人が参加できなくなり、私一人で行った。知り合いはゼロであり、弱ったことを覚えている。詳細は拙著『旅に心を求めて―不条理編(下)』(Kindle、KOBO各百円)に当時の模様を記述している。

この研究集会の名称が2019年10月17日に駿台講師のことを調べていて分かった。私は歴科協か歴教協…という漠然とした名称は覚えていたが、フルネームは知らなかった。ところが(当時の)駿台社会科のNT先生が上記と似た協議会での発言がでていたので、それを参考に調べた。歴教協である。歴史教育協議会の略称かと想像したが、調べると歴史教育者協議会のようである。

そして、私が参加したのは《第35回大会 1983年  8月 熊本市 「地域に根ざし、いのちを尊び、平和をつくる歴史教育》であった。この熊本市の研究会に参加した後で、オプション・現地視察ツアーで水俣行きを選んだのである。

歴教協のあゆみ



この研究会に参加し、分散会で目についたのが先の女性である(多分、教師志願の大学生)と想像した。かなり関心を持ったが話しかける度胸はない。ただ、次のことを考えた。万一、オプションの現地視察ツアーで、この女性も水俣行き(一泊二日)を選んだならば話しかけてみようと。当時は参加者は数千人おり、水俣行きは数十名のコースであり、出会う確率は百文の一程度であった。ところが、この女性が来た。
そこで、何とか声をかけようと考えたが、結局無理であった。

しかし、私が授業での苦痛を話すと、何とも言えぬ嬉(うれ)しそうな顔をして、私の方を振り向いたのが妙に印象に残っていた。
後に、この話をすると、私を誘った教師(友人)が、「あれはお嬢の化身」であるようなことを言った。

さらに、私が岡山市にいるときに何度か通っていた本屋の主が、1987年に同研究会への誘いをしてきた。岡山市ということで、少しだけ参加した。そのときにも、上記の女性らしき人物に出会ったように思う。なお、この岡山での研究集会は今調べると、《第39回大会 1987年  8月 岡山市 「地域に根ざし、世界の平和をきずく、歴史意識の形成」》
となっていた。この研究会に参加し、近藤義郎(こんどう よしろう、1925年2月14日 ‐ 2009年4月5日)岡大教授の話を聞き、月の輪古墳に関心を持った次第である。

なお、広島市での平和会議(原水爆関連)へのCMを私にしてきたのも、この本屋であった。一人で参加したが帰りは岡山市行きの貸切り電車があると言われてそれで帰った覚えがある。なお、この本屋は今は潰れているようである。名称は平和書房とか言っていたような記憶がある。

ところで、先の駿台社会科教師NT先生とは二度ほど一緒に食事をしたことがある。一度は駿台職員の接待で、もう一度はNT先生に「食事をしませんか」と誘われて。大変授業に熱心な、良い先生であった。しかし、私はこの先生がそうした研究会に参加されることがあるなどとは全く知らなかった。当然、NT先生も私が同一の研究会に行ったことがあるなどとは全く知らないのではなかろうか。今ですら。


駿台での催眠女性熱は、映画説若しくは永久の世の映画説による催眠被害で決まりと思うが、それでも不思議なことがある。それは以下の点である。

①類似の催眠女性熱の代表的なものが三つ(◇―2の岡山の予備校、◇―3の西田ひかる)あるにも拘(かか)わらず、どうして駿台の件だけがいつまでも、しつこく催眠強制で言わされたり、書かされたりするのであろうか。岡山の件や西田ひかるの件はもう一切無関係となっているのに。現在に近い事項ではなく、古い事項の方を何故(なぜ)いつまでも聞いてくるのであろうか。

②昔から不可思議なことや異常なことはときたまあった。だが駿台の件から、常に不可思議や異常であり、何もないときの方が珍しくなったのは何故だろうか。

③岡山の能開大辞職と駿台辞職が相似形で起こったのは何故だろうか。

④映画説でもシナリオとか脚本があろうが、駿台の件は全く分からない。一体どういう脚本なのであろうか。

⑤駿台のどの女性にも指一本触れずに、駿台辞職後も、駿台との絡みを臭わされてトラブルが連続する口実は一体何だろうか。また、1984年夏から1987年夏にかけて、若い美形の女性約30人が私に好きな振りや近づいてきた謎もある。その後はピタッと止む。それ以前もない。

ともかく、こうした問題は裁判所などで正々堂々とケリをつけることが望ましい。ところが、当時何とか裁判にもっていこうとしても、弁護士自体が門前払いとか、裁判を不可能にさせるような仕草をしてきた。なお、駿台の件と能開大の件が絡んでいれば、後者は厚生労働省所管であり、重要事項は全て衆議院と参議院を経なければ決まらない以上、私のトラブル類は国会で審議する義務がある。
現時点では絡んでいると思わされている。そこで、国会議員にも再度、国会で取り上げ、私をも含めて国会で証言させてもらうよう依頼するつもりでいる。
正々堂々と、さらに、嘘(うそ)を言えば刑事犯罪となる場で審議することが誰にとっても望ましいと考えている。

ちなみに、駿台にも、同趣旨の文書を出そうと2010年に考えたことがある。本格的な決着を考え、当時の山崎理事長・山崎春之氏宛文書が適切と思い、同氏の消息を調べると調べたときの一週間前に肺癌で逝去されていた。そこで諦(あきら)めた経緯(けいい)がある。

賠償金も慰謝料も無縁ならば、もはや駿台の件を記すのは、時間のみか人生のロスでしかないと常時考えている。他にすべきことが山積している。


(2019/10/19 14:16追記)
駿台講師時代は授業を模索していた。拙著『求め続けて・第二部』{記述は終了しているが出版は未(いま)だできず}に記した通りである。そこで、授業の参考になりそうな研究集会の存在を知れば参加した。その情報を得た場所が、上記の岡山市の書店(平和書房?)であった。
当時、岡山市・大阪市の丸善や紀伊国屋を中心に、あらゆる書店に珍しい本を求めて行っていた頃で、この本屋にも本を何度も発注したりした関係で書店の主と顔なじみとなっていた。この書店の主が、「こんな研究会などがあるのですが、行ってみられませんか」と言われて資料を渡され、参加したのが広島市の原爆関連平和集会、岡山市の歴教協の全国教員研究会である。
もう一つの情報源が、友人の誘いである。それが、先の熊本・水俣での歴教協の全国教員研究会であった。それらの実地見学や研究会での成果は拙著『旅に心を求めて―不条理編(上)』(Kindle、KOBO各百円)や『旅に心を求めて―不条理編(下)』(Kindle、KOBO各百円)を始めとして、順次公開予定でいる。

不可思議な状況の中で、私の友人づくりは1984年の秋頃からストップさせられた。ちなみに、高校・大学時代はどちらかと言えばリベラル・左翼系が多い。大学院時代はリベラル・左翼系6割、保守系4割であろうか。拙著『日本のフィクサーME』に登場の布袋さんのモデルなどは完璧な保守系であった。だが、何度も行き来をしている。残念ながら、彼が大病になったと聞いた頃には、相当な金欠となっており、見舞いその他の動きがとれずに不義理をしてしまった。(本年春頃逝去されたと連絡があった)。

駿台の教壇にたった頃(1982年頃)からは、誰が左翼・リベラルで、誰か保守系・右翼系か判別できない形で知人・友人の輪が広がりつつあった。だから、駿台講師で誰がリベラル系、左翼系、保守系、右翼系かは全く知らない。知らない中で知人の輪が広がりつつあったが、わずか2年半後の1984年秋から、知人・友人の輪はストップさせられた。その関係で、相談する知人・友人は大昔の知人類に頼らなければならなくなった。

ちなみに、上記に記したように、「弁護士自体が門前払い」(1987年)で、妨害を受けたようにすら思えた弁護士事務所は、2000年以降に聞いたが日本共産党系だったそうである。この弁護士事務所は、私が当時住んでいた岡山市にあったが、双方そういう関係である。拙著『閉じた窓にも日は昇る(上)』(Kindle、KOBO各百円)で少し批判めいて記している弁護士及び弁護士事務所である。今(2019年)から考えれば、何かの誤解か、誰かのデマで弁護士がおかしな反応を示したのかもしれないが、相当長期に亘(わた)り、不信を持たされていた。勿論(もちろん)、弁護士事務所に相談に行くまでは、同じ岡山市に住んでいても全く知らない人である。

ただし、雇用能力開発機構の職場で受けた労基法違反被害にたいする交渉立会人(1998年に依頼)も、日本共産党の新免町議(後の市議)となっている。それは上記の如(ごと)く、知人の輪が1984年頃でストップしたため、大学院浪人(1976年)に知り合った地域サークルなどで一緒した関係にすぎない。政党ではなく、人間性から頼んだだけである。新免氏に頼むまでの経緯は公式HP・プロフィールにも簡単に記載している。

なお、新免氏との契約は、「私は党派中立のため、政党・選挙応援類は一切できない。私のために流した汗だけ、新免氏の引っ越しなどがあればその手伝いで相殺したい」という申出に対して、新免氏は「私のために何かは必要ない。郷土に貢献できるように動いてくれたら、それで良い」であった。口頭でも、双方が覚えていれば文書による契約と同一の効果をもつ、明白な(民法等の法律で遵守義務が明示された)契約事項である。
ただし、成功報酬型と考えており、私の人権回復後に郷土のためを実行予定でいる。第一、今は予算もない。

同時に、主要政党への救済依頼には文書で「党派中立・宗派中立」を明記しており、こちらは文書での契約事項である。民法などに規定があるように、契約は双方遵守する義務を負う。美辞麗句ではなく、両方とも(法律で遵守義務を負わされている)契約事項である。ただし、その遵守を要求する場合には、救済依頼を受け取った相手も、私の人権回復にむけて動く義務を負う。現時点までは、誰がどのように動いているのか・動いていないのか不明のため、私の方は一方的に契約的「党派中立・宗派中立」を実行している。

もっとも、『日本のフィクサーME』の世界に入ってから出会う知人類(TVなどを通して)は、右翼・保守・革新・リベラル・左翼…無関係に、個々の政策、イベントで話があえば話の合った内容に限定してつきあっている。
同時に、監禁され30年以上となるため、政策や考えのほぼすべてがオリジナルとなっている。それらの考えは順次HP等で掲載予定でいる。一部は拙著『日本のフィクサーME(下巻)』で紹介した「グランドセオリー(Grand Theory)」であり、一部は現在徐々に紹介しつつある「新しい社会(New Society)」である。
世界の安全や安全保障についても、(本格的着手から実現までに約4年を目処にする)世界連邦樹立構想、世界統一軍構想など、日本のどの政党とも違う理論からなっている。他の分野も同様である。教育政策などは、誰もが驚く発想をしている。

公式HPのプロフィールで記したように、30年以上、党派中立・宗派中立の立場を貫き、救済依頼をだした2000年頃からは、契約的党派中立宣言をし、実行している。
しかし、私の諸政策をHPで発表すれば、相当部分がオリジナルであり、誰もが即座に私が党派中立・宗派中立と分かるであろう。私の基本政策を発表すれば即座に分かるであろう。また、諸政党とは政党という枠をこえ、政策云々(うんぬん)で個々に一致や不一致となるであろうし、人物に関しては政策とは無縁に義理・人情を含む人間性で友を選ぶことにしている。


駿台の話に戻る。駿台を辞職する2か月ほど前に、駿台内で「(理科の)K先生から」と言って差別文書を渡されたことは既に記した。そして、何故(なぜ)、私に差別文書を渡してきたのかが未(いま)だにサッパリ分からない。
1981年頃、岡山市の食堂で食堂のママさんから岡映氏を紹介されたからだろうか。岡映氏(おか あきら 1912年7月10日 – 2006年4月13日)とは部落解放運動が分裂前の部落解放同盟副委員長、分裂後は正常化連議長、全解連初代委員長などを歴任した人である。私が女子高校の生徒に手を焼き、ぼやいていると、当時行きつけの食堂のママさんが、そういうことに詳しい人がいると言って紹介されたのが岡映氏である。ただそれだけである。その経緯は既に記載している。

差別文書の中に、「ゆすり、たかり…似非(えせ)同和…は許さない」と記載があったと思うが、岡映氏などはそれをもっとも批判していると聞いている。私は党派中立・宗派中立であるが、日本共産党も、そうしたことを一番批判している集団と聞いている。岡映氏は日本共産党から衆議院議員に立候補された人でもある。また、岡氏の部落解放運動理論は、私が駿台在籍時代の頃は「(歴史の一定の段階はともかくとして、その頃は)糾弾闘争」を否定されていた集団と聞いたこともある。それでは岡映氏の件とは無縁となろう。
何が何か未だにさっぱり分からない。
勿論、駿台内で岡氏のオの字も言ったことはないし、岡映氏に駿台の件を相談したことも一切ない。さらに何が何か未だにサッパリ分からない。

しかし、岡映氏との絡みで、誰かが誤解をしたのだろうかと思い、布袋(ほてい)さんのモデルとした友人に言ったことがある。「(駿台の件以降、人権蹂躙(じんけんじゅうりん)被害が連続するのは)誰かが誤解か勘違いをしているのではないのか。僕にはサッパリ意味が分からない」(2012年4月)と私が言うと布袋さんが即座に言った。
「勘違いではない。人間違い。ひと間違い」と。布袋(ほてい)さんの言った意味も全く分からなかった。

やがて、本年・2019年春に、偽者(にせもの)とか人間違いが連続強調され、4月にはインタネット偽物サイト詐欺被害に遭(あ)う。そこで気になり、偽者とか人間違いの件を再確認しようと思うと、その前後に、布袋さんのモデルであった人物は亡くなられた。そこで未だに闇である。
ともかく本年春頃から、駿台の件を連続記述開始となる。私は最後に述べる三つの理由で駿台の件はもう書きたくなかった。しかし、書かざるを得ないように追い込まれていった。

ただ、書いていると、既に『閉じた窓にも日は昇る(上)』(Kindle、KOBO各百円)で公開済みにも拘(かか)わらず、ほとんど誰もがその実態を知らなかったようであり、そのことに今驚いている。


駿台の件をもう書きたくなかった理由は三つあった。

一つは、拙著『閉じた窓にも日は昇る(上)』(Kindle、KOBO各百円)に当時の件をかなり詳しく記述して販売しているため、知りたければ買って読んでくれとなる。重複記述のため書く時間が無駄だからである。

二つ目が、不可思議な事件を思い出し馬鹿馬鹿しくなったことである。不可思議な事件とは次の事件などである。1996年頃、催眠で某場所に行かされた。そこで、駿台二号館講師室係のGTさんそっくりな女性に出会う。私が何か言いかけると「言わなくても分かっている」と。そして、その女性が言った。「そこで滑(すべ)るわよ」と。そして数秒後に、私は彼女が言った場所で滑り転びかけた。

その後で高速バスで我が家へ帰ろうと思うと、大阪駅でまにあいそうになく、地下鉄桃山台まで行き、桃山台駅のすぐ近くにあるバス停・千里ニュータウンからバスに乗ろうと考えた。ところが、桃山台で降りるはずが、(催眠型で)緑地公園駅で下車してしまった。緑地公園とは駿台大阪校の最寄り駅である。その結果、バスで我が家へ帰り損ない、大阪で一泊したことがある。

そうしたことを思い出すと、この世かあの世か分からなくなり、駿台のことを書いても馬鹿馬鹿しくなり、書く気が起こらなくなっていった。

三つ目が、現世においてこのままでは餓死するため、(親からのわずかな遺産を原資として)2013年から起業に入った。起業内容は営業妨害が連続していたため、親戚や近所にも言えない状態に置かれていた。もはや資金が枯渇し、起業(開業)を断念するかどうかの時期に入った段階で徐々に起業内容を公開していくことになるかもしれない。有限会社どころか開業届すら営業妨害を警戒して出せなかった。同時に、まだ開業していないため、無収入であり、税務署への申告義務はない。

ともかく、2013年から(特に2015年から)不休不眠で必死に起業(開業)準備に取り組んでいた。そこで、駿台の件など構う暇が無かった。
同時に、開業内容とダブり、世界の様々な出来事に関与させられた。その内容は駿台などの小さな事項ではない。
私が現在見ている世界は、駿台などは地球上の小さな一匹の蟻(あり)にすぎない存在になっていった。そして、私が親しみを感じていた星野仙一氏が70才で亡くなり、衣笠祥雄氏が68才でなくなり、もはや私も残された人生はどのくらいか分からないと感じるや、駿台のような小さな存在に構う暇がなくなった。

これらから駿台の件はもう何も書きたくなかったのであるが、書かざるを得ない状態に追い込まれた。書かざるを得ない状態とは、私の意思を外れて、手が勝手に動くのである。勿論、手だけでなく頭も同様である。「我(われ)思わぬのに、我(われ)あり」である。


親戚の某人物が言った。「なるようになると思うしかない」、と。
ビートたけしなる人物がいる。彼も昔私に言った。「好きなことだけをしておけば良いのでは」と。確かに現況ではその通りである。
しかし、私の脳が、私がしたいと思うことと逆の行動を強いることが多数ある。この駿台についての記載もそうである。
私は政治経済を論じたり、将来の貯蓄と考えて作品づくりをしたりしたいが、それと逆の方向の行動ばかりを強いられ参っている。私がノーと言ってもどうしようもない。時にはノーと言うことばかりを強いられる。少なくとも、私が思うすべきことの優先順位は常に狂わされる。「我思わぬのに我あり」である。

金銭面でも、起業の最後と考え「やぶれかぶれ」勝負路線を考えるくらいに追い詰められているため、駿台の件は賠償問題とか慰謝料問題と結びつかないならば一切書きたくないのが本音である。時間のロスである。
さらに現時点での賠償問題は駿台ではなく、能開大グループを相手としていた。運営者が雇用能力開発機構であり、現在は「高齢・障害・求職者雇用支援機構」である。管理権者は当時は労働省(現在の厚生労働省)である。ここでの大労基法違反被害、実証できれば詐欺被害問題が大きい。

舞台が舞台だけに、これらは国政調査権を発動し調査すべき次元の被害を受けている。立会人・新免氏も国政調査権発動に該当すると言ったことがある。なお、駿台問題が能開大問題と絡んでいれば、駿台問題も国会で審議や調査すべきと考えている。国会を舞台に、正々堂々とガラス張りでやるときに、「ゆすり・たかり…」などは戯言(たわごと)の挑発にすぎない。

ともかく、同じトラブルでも、優先順位から問題視していた、能開大グループでの被害問題救済も含めて、私の人権回復への道として国会で取り上げるように、再度訴えていく予定でいる。ただし催眠ストップとか催眠で他のことをやらされれば時間がなくなり、どう行動できるかは私には分からない。ときには当事者の私だけが分からない。他人の方が詳しいだろうと言うことも多い。

なお、能開大の件も、「恐るべき労基法違反」などでガラス張り公開しているがほとんどの人が見ていないのかもしれない。1998年に、相談した友人の労働基準監督官が驚いて、「お前、この世の中にそんな職場があるのか。労働省の▽▽課へ手紙を出せ。□□課では握りつぶされる」と即座に言ったことがある。そのレベルの被害であった。友人の言った▽▽課は何課か忘れたが、労働省には計5回手紙を出した。しかし梨(なし)の礫(つぶて)であった。駿台事件以上に問題視している労働省(現・厚生労働省)所管能開大で受けた被害を来年には徐々に再度公開したいと思っている。
駿台問題とは大義も違う。しかし、駿台問題が何故か能開大問題と絡んでいるとの暗示を受け続けている。そして、本年春から、時間の無駄と思っても、何故か駿台問題を催眠下で無理矢理書かされ参っている。

◇―1への追記・(2019/10/20 19:06)
当初予定はHPを一本化するというHP群の大改訂を行うため、しばらくHP群は完全休止予定でいた(当初予定→完全休止2ヶ月、部分休止2ヶ月合計4ヶ月)。ところが、逆に量を増やしHPを書き続けている。駿台関係などは一切書く予定はなかった。ましてや、偽者云々が気になり、既に№134~141に大量文書を記述済みである。
この2か月も私の意思・決定と完全に逆方向になっている。

また、何故、今頃、駿台の件を記載させられるのか全く分からない。



下記以降は次回(№157)で、上記まで近日中に追記や修正をして正式公開予定でいる。


《◇―2・駿台女性と類似被害に二度目の遭遇》

駿台女性職員への熱がスーと突如消えた。ところが、その一月後の4月に、今度は岡山の予備校女性職員に駿台と同じ形で、突如、熱を上げる。それも二人同時に。ちなみに、一人(仮にYJとする)は私とは生き方が違うと全く除外していた人物であり、もう一人は(相当気が強くみえ)結婚しても性格が全く会わず喧嘩だらけになると思い、距離を置いていた女性である。相手の方も距離をおいていた。こちらの女性を仮にTYさんとしよう。

後者に至っては、駿台の教壇に立つ1年前の1981年から終始顔を合わせていた女性である。勿論、熱などはあげていない。それが5年も過ぎて突如である。理解不可能であった。
ここでも駿台同様に、両者には指一本触れず、学校外ではデートもせず…学内でもまず二人きりでの会話は無し…であった。

ただ、幸いなことに、この両者への催眠は1987年3月で止んだ。両者が別の部署に異動したことを契機として、ピッタリとやんだ。

駿台と異なり、TYさんとは学外でも会っている。ただし、一対一は一切ない。忘年会・新年会以外は、全て、当時の福武書店(現在のベネッセの前身)の社長であった福武哲彦(1915年 – 1986年4月26日)氏が同席していた。福武哲彦氏が、二次会などに行くときに「あの若い先生にも声をかけろ」と私を指名され、スナックなどに連れて行かれたときである。福武哲彦氏の目の前でしかあっていない。よって、事実上、学校外で会っていないとも言える。もっとも、催眠熱で岡山の予備校の両者に熱を上げる1986年4月に哲彦氏は亡くなられている。だから、TYさんとスナックでの話は1981年から85年頃にかけてのことである。

余談ではあるが、レミーマルタンなどを初めて飲んだのは、福武哲彦氏につれていかれたスナックが最初である。余り、おいしいとは思わなかったが、当時は高級なウィスキーと聞いていたので印象に残っている。

ちなみに、2000年をすぎてから、福武哲彦氏と私の父がどうも知り合いであっと知った。というのも、父が岡山師範時代に福武哲彦氏は私の父の一年後輩だったからである。当時50名程度で寮中心のため知り合いだったのであろう。何かにつけ、哲彦氏が私を指名されたことを覚えている。

ベネッセホールディンクス名誉顧問である、福武総一郎氏(福武哲彦氏の息子で、事実上のベネッセのオーナー)との出会いは1985年ではなかったであろうか。当時、岡山の予備校が本格的に予備校活動を行うということで、私がこの予備校に、駿台・河合塾・大学などから講師を斡旋(あっせん)していた頃である。全部で5人の教師を斡旋した。その連絡費などは全て私の自腹であり、一円も同予備校からは貰っていない。

当時の校長・名誉校長などとの縁から動いただけである。そこで、当時、予備校事務長であったHGさんがベネッセの副社長であった福武総一郎氏を私に紹介したときには、福武總一郎(1945年12月14日 – )氏が「お世話になっています」と軽く頭を下げられた。
当時、福武總一郎氏が39才の頃である。福武總一郎氏が若かったのを覚えている。

そして、總一郎氏が1986年からベネッセの社長となる。この年に岡山の予備校が合併をする。そして駿台女性職員への催眠熱が3月にとけるや、即4月過ぎから徐々に、多分6月前後から催眠熱を岡山の予備校職員二人に連続熱を上げる不可思議なことがおこる。内容も駿台と同様であった。私がはっきり言えばノーと言っている女性二人に、突如熱あげ、突如覚(さ)めるである。そして指一本触れず、デートもせず…と。

さらに、催眠による妄想も起こる。總一郎氏も、YJさんに関心があるのかという催眠を寝ている間にかけられたことすらあった。ここまでくるともはや…である。
ちなみに、後にベネッセホールディングス社長となった福島保氏(2007年~2014年にベネッセ社長)は私の高校時代の同期生という始末である。
福武總一郎氏も拠点をニュージランドに移されつつあるという噂も聞く。ニュージランドにも、いずれ、私の影響が及ぶかもしれない。多分。

福武總一郎(1945年12月14日 – )氏が「お世話になっています」と軽く頭を下げられたと書いたが、駿台でも私が在籍していた頃の理事長・山崎春之(やまざき はるゆき、1926年 – 2010年1月13日)氏も教師の懇親会で紹介されたときには、同様な態度であったため、予備校界の理事長や副理事長の習慣なのかもしれない。

駿台でトラブルが激しくなった頃、新幹線の京都駅(新大阪駅でなく、駿台のパーティかなにかの時で京都駅であったと思うが)で偶然、真っ白い服を着た山崎理事長に出会った事がある。恰(あたか)も、駿台のトラブルを私に直訴するならば今ですよ、と言うが如(ごと)しに。更に、私の職業封鎖から逃れるため、駿台の件の調査を山崎氏に依頼しようと2010年1月に思い、実行に移そうとした。山崎春之氏の消息を調べると、思い立った一週間前に亡くなられていた。


尚、駿台とベネッセ模試の共催の仲人は私であった可能性が高い。福武書店の進研模試の監修をしていた頃に、私は駿台講師であった。そこで、東京の駿台文庫から来た人に接待され、福武書店の模試の仕組みその他を聞かれたりしたからである。勿論、契約はないが、福武書店の企業秘密に該当することは喋っていない。第一、そうしたことまでは知らない。

そうした縁のあるベネッセの進研模試関連の(この頃は監修はおりチェック類だけにしていたが)チェック類でトラブルブログに掲載した不法行為?とも言える被害を受けるとは信じられない。無料で、福武書店関連の予備校講師捜しまでさせられていたのに。結局、2002年頃、この不法行為でベネッセ模試チェックも辞める羽目となった。なお、調べるとその頃は子会社が模試をしきっていた可能性があるが、人間の世の義理・人情に違反しているだろうとなる。


《◇―3・駿台女性と類似被害に三度目の遭遇》

駿台のトラブル(正確には学内での授業妨害と、《犯人不明も》学外での刑事犯罪被害)で駿台を1988年1月に辞職することになる。
その模様は『閉じた窓にも日は昇る(上巻)』(Kindle、KOBO各百円)に記載している。
いずれ、かいつまんで紹介しよう。
私は裁判が無理ならば国会で全貌を公開できることを願っている。国会で正々堂々と、可能な限り、誰でも嘘を言えば刑事罰を伴う形で国会で明らかにすることを願っている。

取りあえず、今回は、刑事犯罪被害の紹介を抜いて、女性への催眠問題だけを記そう。
駿台を辞職するや、今度は、催眠で女優への熱を挙げさせられる羽目となる。それも長期かけての催眠であった。

駿台を辞職するや、西田ひかる(1972年8月16日 – )なる女性が登場してくる。駿台辞職が1988年1月であり、西田ひかる氏も同年同月にデビューとなる。この頃はTVとの対話などは全く夢にも思っていない頃である。

なお、駿台を辞めた直後から、能開大で専任になるならば、英語も教えれるようにしようと考え出していた。今から考えれば、政経・日本史・英語では無理がありすぎる。その上、倫社まで手を出したこともある。

とにかく、英語もということで、英文法からセサミストリートまで片っ端から手をつけていった。そして早見優(1966年9月2日 – )の「早見優のアメリカン・キッズ(中京テレビ)」をも見ていた。大変参考になった。またその頃「オズの魔法使い」の教材化をも思いついた。まだHPでは公開していないが、拙著『Dorothyと十人の出会い』である。教材化の走りは1989年であったが、同時期に、早見優氏もオズの魔法使い(1989年 – 1994年)のドラシー役を演ずるという偶然も起こる。

この早見優なる女性は上智大学卒業であった。すると、それをもじったような形で、西田ひかるなるアイドルも後に上智大学へ進学する。後で言うが、大学や学歴などは私は一切無視している。早見優さんは英語発音で口の開け方を習うため見ただけである。同時に音楽と英語の融合その他で参考になる点があったから見ただけである。特にファンでも何でもない。
第一、私は女優には憧れない。私の芸能人へのファン歴は、小学校の頃が植木等、次に加山雄三、その後で中学校前半からスパイダース(特に堺正章)である。高校からは、格闘技オンリーでアントニオ猪木氏などとなる。

女性のアイドルや女優に憧れたことなどは一切ない。
ところが、駿台辞職した後で、女性の出現のみか、友人・知人の出現すら止んだ。それでは困ると言わんばかりに西田ひかる氏が登場となった。

西田ひかるは1988年から89年は玉に見た程度である。1990年から鬱病(うつびょう)を激しくしたような頭の機能不全期に入る。この頃、西田ひかるのTVなどをかなり見たようである。ただし、恋愛感情も熱などはなかった。

ともかく、鬱病を激しくした状態で気力が全くない頃に、彼女の「デパート!夏物語 (1991年7月2日〜9月3日、大映テレビ、TBS、【共演:高嶋政宏】)- 鈴木小百合 役、デパート!秋物語 (1992年10月13日〜12月22日)」を見たようである。西田氏の役はお客様苦情係か何かで、(駿台)講師室係をもじっていたのかもしれない。
相手役の高島政宏氏は高島忠夫氏の息子である。高島忠夫氏は関学に進学されており、私の先輩に当たる。高島忠夫氏の渾名(あだな)がボンである。そして、私も大学時代に、友人の一部が私をボンと呼んでいた。そこから、拙著『日本のフィクサーME』では私はボンとして登場してくる。

そして、1993年末の大吐血を契機に意識が蘇るや、どうも、今度は躁鬱病の躁状態になっていくようである。今度はどんどん精神が疲弊していく。同時に、何かに引きずり込まれるように西田ひかる熱が進行してくる。
1995年頃がピークとなる。

1994年頃はTVとの対談など夢にも思わなかった。1995年はTVとの対話が多少気になりだしたが、「まさか」という思いであった。そこで、この西田ひかる熱は、能開大での労基法違反から精神疲弊による健康被害と分析し、雇用能力開発機構との損害賠償交渉では賠償項目にいれている。

途中で、これは本当にTVと対話ではないかと疑ったが、やはり「まさか」の思いも強かった。しかし、ヒロミとか加山雄三さんなどを見ているとやはりTVとの対話かとも多少思うこともあった。正確には一部対話で大半はそれはなかろうと。
また、対話でも、西田ひかる氏に何故熱を上げるのかが不可解であった。

そこで怒りまくっていた。こうして三度目の催眠熱が起こっていた。ちなみに、この熱が収まるきっかけになるのが日本のフィクサーMEに登場する「オジョウ」なる女性の登場からである。

それでも不可解なことがある。
拙著『日本のフィクサーME』には三人のお嬢が登場する。大学時代の友達「お嬢」、次に駿台時代にNM氏に「結婚前提で付き合ってもらえるかどうか一度あってお話ししたい」と手紙を出し断られた後で振り回されたときに登場した女性「おじょう」がいる。西田ひかるが、後にこの「おじょう」とだぶっているように思わされる。そして、1999年に「オジョウ」に出会い、ようやく、西田ひかる熱は沈滞化へと向かう。
ところで1999年に出会った女性を何故「オジョウ」と呼ぶかといえば、一度だけ、「お嬢」そっくりな顔になったからである。また「おじょう」は文書を書いたときに文字が「お嬢」と似ていたので「おじょう」と記載している。

すると、私が出会った主たる女性は「お嬢」→「おじょう」=「西田ひかる」→「オジョウ」だけとなる。全部一緒???
だから、私は随所で「私はお嬢・おじょう・オジョウ」の手の平で動かされているだけと記している。
馬鹿馬鹿しいことこの上ない。おじょう類との縁はもう半世紀(50年)にならんとしている。

ともかく、西田ひかるの件はややこしい。もし、TV対話や催眠危害ならば、雇用能力開発機構がそれに絡んでいなければその箇所の部分だけの賠償請求は中止となる。その他の賠償は別問題である。それらも、国会でガラス張りで審議することを願っている。正々堂々と。


ついでに、学歴問題を記載しておく。私は学歴などどうでもよいと思っている。ただ、名前を覚えていないときに、指示代名詞として、大学の特徴があれば覚えやすいので大学の名を出すときがある。簡単に言えば、いつも赤い服を着ている女性ならば、名前をしらなければ「あの赤い服を着た女性」と言うのと同一である。

同様に、駿台時代の前半に、福武書店の進研模試のチェックや監修をしていた。すると、感じのよい女性がいた。名前を途中で忘れた。ただ、その女性が大阪大学卒と言っていたので、覚えやすいので後者だけ覚えていた。そこで、その女性の指示代名詞代わりに大阪大学の名を出したことがある。「名前は忘れたがあの赤い服の女性」と同一の使い方である。すると、駿台のNMさんに熱を上げさせられ慌てて見合いをし、うまくゆきそうに思われたときの女性が大阪大学英文科卒として登場した。
名前は忘れた。そこで阪大英文卒の女性と記しただけである。ちなみに、この女性は東京で入り浸りとなっていた某居酒屋の家の娘さんを連想させた。そしてこの娘さんの名字が「おじょう」と同一である。また、この阪大卒の女性とデートした場所が池田動物園(園長は池田隆政氏であり、私の父の商売相手で、私の名の隆政はここからきている)であり、訪米したときの添乗員が池田で…これまた😭話もある。

そして早見優が上智ならば西田ひかるも上智…。大学や学歴はどうでもよい。早見優とか西田ひかるならば名前を覚えているので大学名は通常書かない。だが、福武書店の女性や、見合いをした女性は名前を覚えていないので、指示代名詞代わりにやむを得ず使っただけである。同時に、プライバシー権確保上も実名は出せない問題もある。それだけの話である。いつも赤い服とか黄色い服を着ていて、誰でも服の色で連想できる人ならば、名前の代わりに「あの赤い服の子」と言うであろう。

いずれ、訪米の話は『日本のフィクサーME・パート3』でその時の話も含めてしよう。そうすれば、我が友・オバマも(>_<)であろう。若しくは(×_×)であろう。


こうして催眠熱での大被害は三回あるのだが、何故か駿台のときだけが強調される謎が残っている。何故、西田ひかるや岡山の予備校の催眠熱が問題とならずに、駿台のときだけが強調されるのかという謎が未だに残っている。
長さでは十年以上に及んだ西田ひかるの方であり、複数関連では岡山の予備校でも同一パターンにもかかわらず、何故、駿台だけが何度も、しつこく強調されるのであろうか。全く理解できない。

同時に、駿台の方で賠償金とか慰謝料などの支払いがあるならば、丁寧に駿台のことも記そうが、そうでなければ今更何で駿台のことを、私が無料で書かねばならないのかといつも怒っている。時間の無駄である。他にすべきことが山積している。

また、駿台辞職関連の年月日と能開大辞職関連の年月日が相似形も気になっている。同時に、不可思議な事件が駿台時のNMから連続して起こっているのも何故なのか全く分からない。

2019/10/20 19:07追記

1)その後、能開大などでは女性は質問に来る場合には1人では来ないようにを順次徹底。特に鬱病から回復した1994年以降はほぼ毎年言っていた。

2)駿台には賠償請求は現時点まで一度もしていない。すると、賠償交渉をしている能開大・「機構」などの問題を書くべきが、どうして駿台の件を書かされるのか全く不明。

3)後の「写真残酷物語」との共通点→催眠で行動させられ、催眠が止み終了。もう一つはデマが飛び交っている疑惑。

4)催眠型で熱を上げさせられた三事例を見れば分かるように、私を好きになった人を好きになるは嘘。西田ひかる熱を考えれば明白。単に催眠による熱。

5)出鱈目な世としても、駿台辞職後と駿台の絡みの臭わせは理解不可能。出鱈目でもシナリオがあろうに。全く不明。

◎何故、今頃、駿台の件を記載させられるのか、今なお不明。

2019年10月18日