【その他】№157・続々・独り言―女性…駿台、岡山…から西田ひかるまでの不可思議な催眠②③

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気が向けば一言【その他】№157・続々・独り言―女性…駿台、岡山…から西田ひかるまでの不可思議な催眠②③


(更新記録)

公開前(2019/10/26深夜か、2019/10/27未明から掲載予定:前回下書き掲載のものに大幅追記をしたもの)

2019/10/26 22:56から公開(ただし、微修正はする場合もある。)


(登場語句)




《◇―2・追記(2019/10/26記載)今、何故、駿台予備学校のことを記載させられるのか、全く分からず》


駿台の件を例えると下記の例えとなる。悪まで例えである。
A家とB家が喧嘩(けんか)をし、B家が村を去り、都会へと引っ越しをされた。後に、A家の小母(おば)さんが、私に言う。「隆政ちゃん、ここに座りなさい。子供達は、おかあさんも悪いというの。どう思う」。
私はA家の小母さんがB家に何を言ったのか全く知らない。正確には誰も教えてくれない。そこで返答の仕様がなく、沈黙を保った。

ところが、寝ている間に、「A家とB家とどちらが悪いか。言え」という催眠をインプットされ、起床してから、その件を何か言えと十時間以上催眠攻撃を加えられた。
私は言った。「何か言えというのならば、A家の小母さんが何を言ったか、その文言を誰か教えてくれ。そうでないと何も言えないだろう」、と。
だが、その文言も解説せずに、何かを言えと催眠攻撃を受けた。

また数日か数週間して同じ催眠である。今度は徹夜で20時間程度これをやられる。しかし、A家の小母さんが何を言ったかを誰も教えてくれない。また、何が起こったかも詳細には知らない。そこで、これでは正確には何も言えないし、私はコメントできない、と返答しても催眠は続く。こんな馬鹿な催眠があろうか。
そして、これを数回やられた。


駿台の件は上記の例え以上に無茶な話である。
駿台の件は既に述べた通りである。記述にも、コメントにももはや値しない。それを延々と聞かれるのは何故だろうか。「誰にも指一本触れず、外でデートもせず、学内でも一人当たり6年合計約十分の会話量で、それも人前で。そして、(催眠とはいえ)一度だけ、結婚前提に付き合ってもらえるかどうかお話をしたいと手紙を手渡し、断られ、お騒がせしましたと一礼をし…それだけの話である」。これが1984年である。既に35年経過している。

駿台の村構造で一時お祭り騒ぎになったとしても、30年以上に亘(わた)って、危害を加えられたり、見解を問われたりする話であろうか。私が駿台を1988年1月に辞職し、古希に近づこうとしている。女性も結婚したと聞いている。駿台を辞職し、既に、孫もいよう。還暦も超えていよう。それでも未(いま)だに尾を引いたように思わされるのは全く理解不可能である。

女性の生まれた市も町名も勿論(もちろん)知らない。家族構成も知らない。性格も分からない。見合い一回分すら会話をしていないのだから。正確には見合い該当を申し込み、会う前に断られたのだから。
勿論、私は国籍・出自・学歴…は一切気にしない、憲法24条擁護派である。ただし、相手女性も希望があろう。相手が結婚退職願望ならば「定職を持った人(男性)」とか。逆に「一生仕事をしたいので、それを条件とか」…。そうした話すら、一回目の会談すら断られたため何も分からない。

今頃、駿台の件を何故書かされるのか全く分からない。さらに数年前に駿台の鉛筆が、我が家の部屋から大量にでてきた理由も分からない。(多分、誰かが、数年前に我が家へ置いたのかもしれない。)
何が何かサッパリ分からない。これが唯一の回答である。何か情報をもらわぬ限り、何も全く分からない。これを30年ほど催眠のたびに回答している。

この訳の分からぬ状況には何かシナリオがあるのだろうが、そのシナリオ(脚本)すら全くどういう内容か分からない。
よって、私は何も、もはや書く気が起こらなかったし、今も起こらない。時間のロス以上、人生のロスである。

駿台ではマイクへの悪戯(いたずら)による喉(のど)が枯れたことや、教室の温度調整(熱くなったり・寒くなったり)の不自然さ…などの授業妨害が一部あった。しかし、本格的な刑事犯罪被害は駿台内部ではなく、駿台の外であり、駿台の関与は駿台辞職後からは無関係と思っていた。今は全く不明と記載しておこう。(駿台のM課長は無関係と言っていた…。)
そこで、辞職前から今日(2019/10/26)まで賠償請求は一切していない。よって、私が何かを記述してすら、通常は一円もでない。駿台に戻る気ももはやない。人生も残り少なくなり、駿台時代の話に今頃何故付き合わされるのだろうか。全く分からない。


そこで、記述はノーであった。
ところが、私の偽者説とか「ひとまちがい説」を強調されることが続いた。特に2014年から激しくなった。だが意味不明である。
しかし、本年(2019年)3月に次の催眠があった。
「駿台のトラブルはひとまちがいが原因で起こった」(もっとも、亡くなった友人は確信をもって「ひとまちがいが原因」と2012年4月に言った。ただし、駿台の名はでていない)
更に、次のようなことも睡眠中に吹き込まれた。
「Dさんに恨みを持っている人が、ひと間違いをし、お前に危害を加えたのだ」。
いつからかは不明であるが、万一、この世ならば本当に催眠となり、私が駿台女性に熱を上げる前からとなる。即ち、Dさんに恨みを持った人が人間違いをして、私が寝ている間に催眠をかけ、私に駿台講師室係の女性に熱をあげさせ…となる。(永久の世の映画としても、シナリオが全く30年以上たっても、何も分からない。脚本が出鱈目すぎるとなる。)別の時期での人間違いかもしれないが、私には意味不明だけが事実である。


私は答えた。「駿台に倍諸請求していない以上、更に、駿台に戻る気がない以上、この誤解類をといてどういうメリットが私にあるのか」

すると、「駿台辞職後のトラブルも、駿台のときに起因しているのだ」と。
私「なんで????????」
何も分からない。
だが、事実か否か不明も、偽者説を強調され、今回駿台の件を長々と記述することを強いられた。


私の結論を書こう。もし、加害者がポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)のトラブルにも関与しているならば、この学校は現・厚生労働省所管で、重要事項は衆議院・参議院を経て決まると聞いていた。そこで、国会で、白黒をつけるように再度要請しよう。国会でケリをつけたい。
万一、駿台時代と後の被害が無縁でも、駿台時代に犯人不明であるが、拉致未遂被害などに遭遇(そうぐう)したり、後の流れをみると明らかに激しい人権侵害を受けていたりするため、しかもTVを通して政治家も…のため、やはり国会でケリをつけたい。
正々堂々としていただきたい。
それが、私の意思である。

同時に、今や、不可思議な状況の中で、世界140か国以上の人が私のHPや動きを見ているとしか思えないため、彼ら・彼女らが犯罪者に審判を下すであろう。

この後は既に下書きに掲載した部分に微修正をした部分である。ただし、◇―3に新たに思い出した部分を付け加えている。

《◇―3・駿台女性と類似被害に二度目の遭遇(紫文字の追記以外は既に公開した箇所)

既述の如く、1986年春のFK係長からの電話が切れるや、駿台女性職員への熱がスーと突如消えた。ところが、その一か月後の4月に、今度は岡山の予備校女性職員に駿台と同じ形で、突如、熱を上げる。それも二人同時に。ちなみに、一人(仮にYJとする)は私とは生き方が違うと全く除外していた人物であり、もう一人は(相当に気が強くみえ)結婚しても性格が全くあわず喧嘩(けんか)だらけになると思い、距離を置いていた女性である。相手の方も距離をおいていた。こちらの女性を仮にTYさんとしよう。

後者に至っては、駿台の教壇に立つ1年前の1981年から終始顔を合わせていた女性である。勿論、熱などはあげていない。それが5年も過ぎて突如である。理解不可能であった。
ここでも駿台同様に、両者には指一本触れず、学校外ではデートもせず…学内でもまず二人きりでの会話は無し…であった。

ただ、幸いなことに、この両者への催眠は1987年3月で止(や)んだ。両者が別の部署に異動したことを契機として、ピッタリとやんだ。

駿台と異なり、TYさんとは学外でも会っている。ただし、一対一は一切ない。忘年会・新年会以外は、全て、当時の福武書店(現在のベネッセ前身)社長であった福武哲彦(1915年 – 1986年4月26日)氏が同席していた。福武哲彦氏が、二次会などに行くときに「あの若い先生にも声をかけろ」と私を指名され、スナックなどに連れて行かれたときである。福武哲彦氏の目の前でしか会っていない。よって、事実上、学校外で会っていないとも言える。もっとも、催眠熱で岡山の予備校の両者に熱を上げる1986年4月に哲彦氏は亡くなられている。だから、TYさんとスナックでの話は1981年から85年頃にかけてのことである。

余談ではあるが、レミーマルタンなどを初めて飲んだのは、福武哲彦氏につれていかれたスナックが最初である。余り、おいしいとは思わなかったが、当時は高級ウィスキーと聞いていたので印象に残っている。

ちなみに、2000年をすぎてから、福武哲彦氏と私の父がどうも知り合いであったと知った。というのも、父が岡山師範時代に福武哲彦氏は私の父の一年後輩だったからである。当時一学年50名程度で寮中心のため知り合いだったのであろう。何かに付け、哲彦氏が私を指名されたことを覚えている。

(福武書店が改組した)ベネッセホールディンクス名誉顧問である、福武総一郎氏(福武哲彦氏の息子で、事実上のベネッセのオーナー)との出会いは1985年ではなかったであろうか。当時、岡山の予備校が本格的に予備校活動を行うということで、私がこの予備校に、駿台・河合塾・大学などから講師を斡旋(あっせん)していた頃である。全部で5人の教師を斡旋した。その連絡費などは全て私の自腹であり、一円も同予備校からは貰(もら)っていない。

当時の校長・名誉校長などとの縁から動いただけである。そこで、当時、予備校事務長であったHGさんがベネッセ副社長であった福武総一郎氏を私に紹介したときには、福武總一郎(そういちろう:1945年12月14日 – )氏が「お世話になっています」と軽く頭を下げられた。
当時、福武總一郎氏が39才の頃である。福武總一郎氏が若かったのを覚えている。

總一郎氏が1986年からベネッセの社長となる。この年に岡山の予備校が合併をする。そして駿台女性職員への催眠熱が同年3月にとけるや、4月過ぎから徐々に、多分6月前後から岡山の予備校職員二人に催眠としか思えぬ形で連続熱を上げる不可思議なことがおこる。物事の推移は駿台のときと同様であった(相似形である)。
ちなみに、岡山では、はっきり言えばノーと思った女性二人に、突如を熱あげ、突如覚(さ)めるである。そして指一本触れず、デートもせず…と。

さらに、催眠による妄想も起こる。總一郎氏も、YJさんに関心があるのかという催眠を寝ている間にかけられたことすらあった。ここまでくるともはや…である。
ちなみに、後にベネッセホールディングス社長となった福島保氏(2007年~2014年にベネッセ社長)は私の高校時代の同期生という始末である。
福武總一郎氏も拠点をニュージランドに移されつつあるという噂(うわさ)も聞く。ニュージランドにも、いずれ、(ラクビー以外の話で)私の影響が及ぶかもしれない。多分。

福武總一郎氏が「お世話になっています」と軽く頭を下げられたと書いたが、駿台でも私が在籍していた頃の理事長・山崎春之(やまざき はるゆき、1926年 – 2010年1月13日)氏も教師の懇親会で紹介されたときには、同様な態度であったため、予備校界の理事長や副理事長の習慣なのかもしれない。

{※駿台でトラブルが激しくなった頃、新幹線の京都駅(新大阪駅でなく、駿台のパーティか何かのときで京都駅であったと思うが)で偶然、真っ白い服を着た山崎理事長に出会ったことがある。恰(あたか)も、駿台のトラブルを私に直訴するならば今ですよ、と言うが如(ごと)しに。更に、私の職業封鎖から逃れるため、駿台の件の調査を山崎氏に依頼しようと2010年1月に思い、実行に移そうとした。山崎春之氏の消息を調べると、思い立った一週間前に亡くなられていた。}


尚、駿台とベネッセ模試の共催の仲人は私であった可能性が高い。福武書店の進研模試の監修をしていた頃に、私は駿台講師であった。そこで、東京の駿台文庫から来た人に接待され、福武書店の模試の仕組みその他を聞かれたりしたからである。勿論、契約はないが、福武書店の企業秘密に該当することは喋(しゃべ)っていない。第一、そうしたことまでは知らない。

そうした縁のあるベネッセの進研模試関連の(この頃は監修はおりチェック類だけにしていたが)チェック類でトラブルブログに掲載した不法行為?とも言える被害を受けるとは信じられない。無料で、福武書店関連の予備校講師捜しまでさせられていたのに。結局、2002年頃、この不法行為でベネッセ模試チェックも辞める羽目となった。なお、調べるとその頃は子会社が模試をしきっていた可能性があるが、人間の世の義理・人情に違反しているだろうとなる。

(2019/10/26 追記)
1987年1月駿台辞職後、岡山の予備校で、4月からの政経の授業は前年度と同じメンバーでびっくりした。日本史の方は駿台時代に政経を教えていたときの女子学生(2年ほど私の授業を受け、その後も年賀状のやりとりをしていたが、1987年後半から実家へ戻った際に住所を教え損ない年賀のやりとりはなくなった女子生徒)と全くそっくりな生徒がいてびっくりした。
 また、岡山の予備校講師のTY先生とそっくりの声の人物に連続して出会う。その後で、駿台のKT校校長もしていたKW先生そっくりの声の人物にも出会う。顔を見ると両者とも別人であった。こうした奇異なことが続く。

なお、ポリテクカレッジ岡山の方は、一年をおき、1989年から不法行為は激しさを増した。職員による(事実上の)単位認定権剥奪、符号して(学外からの偽学生の疑惑があった)授業妨害学生の登場と続く。
その後、1989年11月の大吐血を経験する。十二指腸潰瘍であった。某病院に(40日間)入院し、退院後に、K(大学附属病院)心療内科を受診する。そこで、駿台時代の(模試関連)職員IW氏に似た医師が登場する。この医師に、まさかとは思うが、私は催眠類をかけられたかどうか、私に催眠をかけて調べてほしいと依頼した。医師は「催眠をかける技術はもっているが必要ない」か、「今回はできない」と言って断られた。

1989年末頃に催眠疑惑を医師に正確に伝えたときである。このときに自律神経の薬を処方された。その1か月後から、急に意識が後退し、何時間かけても本が一ページも読めなくなる。この症状が直ったのは、1993年(60日入院)の再度の大吐血の後である。その間(四年間)は、脳が全く機能しなくなった。私はこの薬が原因かと長期疑ったが、この薬は三病院でみせているが問題点の指摘はなかった。

今、考えると躁鬱(そううつ)病の鬱の方の症状だったかもしれないと思うときもある。なお、この時期の1991年に河合塾の教壇に立つ。しかし、この4年間(1989年末から1993年末)は脳が全く機能せず、私の能力は1~5%も発揮できないときであった。そこで、教壇に立つのを生活ができる最低限にすることにし、ポリテクカレッジ岡山で労働時間二倍の契約を結んだため、河合塾には次年度の件では打合せの連絡をやめた経緯がある。
{ところがポリテクカレッジ岡山に出講すると嘘(契約違反をされ)で生活が大変となった。年約40万から50万円の損失×3年程度。労働契約を破った課長をYK課長と記載していたが、後に能開大グループの校長や雇用能力開発機構本部職員となったため、平職員や課長級ではなく本格的管理職・責任者となった以上、実名公開を検討している。しかし、インタネット掲載では慎重には慎重をで、良心的第三者数人に相談しOKがでれば実名告発を行う予定でいる。(雇用能力開発機構がなくなった、正確には高齢・障害・求職者雇用支援機構に引き継ぎをした後の)2014年ですらアフリカの某国に派遣されている。契約違反の理由はどうもひとまちがいでダブルクロス疑惑が強いが、定かではない。}

同時に、この時期(1989年末から1993年末)には催眠をかけられた疑惑なども脳裏から消えていた。そうしたことを考える脳の機能も喪失していた。その後は、今考えると、躁鬱(そううつ)病の躁(そう)状態が進行したのではないかと思う。そして、《◇―4》の状態を迎える。

《◇―4・駿台女性と類似の催眠熱被害に三度目の遭遇》

駿台のトラブル(正確には学内での授業妨害と、《犯人不明も》学外での刑事犯罪被害)で駿台を1988年1月に辞職することになる。
その模様は『閉じた窓にも日は昇る(上巻)』(Kindle、KOBO各百円)に記載している。
いずれ、かいつまんで紹介しよう。
私は裁判が無理ならば国会で全貌を公開できることを願っている。国会で正々堂々と、可能な限り、誰でも嘘(うそ)を言えば刑事罰を伴う形で国会で明らかにすることを願っている。

取りあえず、今回は、刑事犯罪被害の紹介を抜いて、女性への催眠問題だけを記そう。
駿台を辞職するや、今度は、催眠で女優への熱を上げさせられる羽目となる。それも長期かけての催眠であった。

駿台を辞職するや、西田ひかる(1972年8月16日 – )なる女性が登場してくる。駿台辞職が1988年1月であり、西田ひかる氏も同年同月にデビューとなる。この頃はTVとの対話などは全く夢にも思っていない頃である。

なお、駿台を辞めた直後から、能開大で専任になるならば、英語も教えられるようにしようと考え出していた。今から考えれば、政経・日本史・英語では無理がありすぎる。その上、倫社まで手を出したこともある。

とにかく、英語もということで、英文法からセサミストリートまで片っ端から手をつけていった。そして早見優(1966年9月2日 – )の「早見優のアメリカン・キッズ(中京テレビ)」をも見ていた。大変参考になった。またその頃「オズの魔法使い」の教材化をも思いついた。まだHPでは公開していないが、拙著『Dorothyと十人の出会い』である。教材化の走りは1989年であったが、同時期に、早見優氏もオズの魔法使い(1989年 – 1994年)のドラシー役を演ずるという偶然も起こる。

この早見優なる女性は上智大学卒業であった。すると、それをもじったような形で、西田ひかるなるアイドルも後に上智大学へ進学する。後で言うが、大学や学歴などは私は一切無視している。早見優さんは英語発音で口の開け方を習うため見ただけである。同時に音楽と英語の融合その他で参考になる点があったから見ただけである。特にファンでも何でもない。
第一、私は女優には憧れない。私の芸能人へのファン歴は、小学校の頃が植木等(1926年12月25日 – 2007年3月27日:日本の俳優・コメディアン)、次に加山雄三(1937年4月11日 -:歌手・俳優 )、その後で中学校前半からスパイダース(特に堺正章[1946年6月6日 – :歌手・俳優…])である。高校からは、格闘技オンリーでアントニオ猪木(Antonio Inoki, 1943年2月20日~:プロレスラー・国会議員 )などとなる。

女性のアイドルや女優に憧れたことなどは一切ない。
ところが、駿台辞職した後で、女性の出現のみか、友人・知人の出現すら止(や)んだ。それでは困ると言わんばかりに西田ひかる氏が登場となった。

西田ひかるは1988年から89年は玉に見た程度である。1990年から鬱病(うつびょう)を激しくしたような頭の機能不全期に入る。この頃、西田ひかるのTVなどをかなり見たようである。ただし、恋愛感情も熱などはなかった。

ともかく、鬱病を激しくした状態で気力が全くない頃に、彼女の「デパート!夏物語 (1991年7月2日〜9月3日、大映テレビ、TBS、【共演:高嶋政宏】)- 鈴木小百合 役、デパート!秋物語 (1992年10月13日〜12月22日)」を見たようである。西田氏の役はお客様苦情係か何かで、(駿台)講師室係をもじっていたのかもしれない。
相手役の高島政宏氏は高島忠夫(1930年7月27日 – 2019年6月26日:俳優)氏の息子である。高島忠夫氏は関学に進学されており、私の先輩に当たる。高島忠夫氏の渾名(あだな)がボンである。そして、私も大学時代に、友人の一部が私をボンと呼んでいた。そこから、拙著『日本のフィクサーME』では私はボンとして登場してくる。

そして、1993年末の大吐血を契機に意識が蘇(よみがえ)るや、どうも、今度は躁鬱(そううつ)病の躁状態になっていくようである。今度はどんどん精神が疲弊していく。同時に、何かに引きずり込まれるように西田ひかる熱が進行してくる。
1995年頃がピークとなる。

1994年頃はTVとの対談など夢にも思わなかった。1995年はTVとの対話が多少気になりだしたが、「まさか」という思いであった。そこで、この西田ひかる熱は、ポリテクカレッジ岡山での労基法違反から精神疲弊による健康被害と分析し、雇用能力開発機構との損害賠償交渉では賠償項目にいれている。

途中で、これは本当にTVと対話ではないかと疑ったが、やはり「まさか」の思いも強かった。しかし、ヒロミとか加山雄三さんなどを見ているとやはりTVとの対話かとも多少思うこともあった。正確には一部対話で大半はそれはなかろうと。
また、対話でも、西田ひかる氏に何故熱を上げるのかが不可解であった。

そこで怒りまくっていた。こうして三度目の催眠熱が起こっていた。ちなみに、この熱が収まるきっかけになるのが日本のフィクサーMEに登場する「オジョウ」なる女性の登場からである。

それでも不可解なことがある。
拙著『日本のフィクサーME』には三人のお嬢が登場する。大学時代の友達「お嬢」、次に駿台時代にNM氏に「結婚前提で付き合ってもらえるかどうか一度あってお話ししたい」と手紙を出し断られた後で振り回されたときに登場した女性「おじょう」がいる。西田ひかるが、後にこの「おじょう」とだぶっているように思わされる。そして、1999年に「オジョウ」に出会い、ようやく、西田ひかる熱は沈滞化へと向かう。
ところで1999年に出会った女性を何故「オジョウ」と呼ぶかといえば、一度だけ、「お嬢」そっくりな顔になったからである。また「おじょう」は文書を書いたときに文字が「お嬢」と似ていたので「おじょう」と記載している。

すると、私が出会った主たる女性は「お嬢」→「おじょう」=「西田ひかる」→「オジョウ」だけとなる。全部一緒???
だから、私は随所で「私はお嬢・おじょう・オジョウ」の手の平で動かされているだけと記している。
馬鹿馬鹿しいことこの上ない。おじょう類との縁はもう半世紀(50年)にならんとしている。

ともかく、西田ひかるの件はややこしい。もし、TV対話や催眠危害ならば、雇用能力開発機構がそれに絡んでいなければその箇所の部分だけの賠償請求は中止となる。その他の賠償は別問題である。それらも、国会でガラス張りで審議することを願っている。正々堂々と。


ついでに、学歴問題を記載しておく。私は学歴などどうでもよいと思っている。ただ、名前を覚えていないときに、指示代名詞として、大学の特徴があれば覚えやすいので大学の名を出すときがある。簡単に言えば、いつも赤い服を着ている女性ならば、名前を知らなければ「あの赤い服を着た女性」と言うのと同一である。

同様に、駿台時代の前半に、福武書店の進研模試のチェックや監修をしていた。すると、感じのよい女性がいた。名前を途中で忘れた。ただ、その女性が大阪大学卒と言っていたので、覚えやすいので後者だけ覚えていた。そこで、その女性の指示代名詞代わりに大阪大学の名を出したことがある。「名前は忘れたがあの赤い服の女性」と同一の使い方である。すると、駿台のNMさんに熱を上げさせられ慌てて見合いをし、うまくゆきそうに思われたときの女性が大阪大学英文科卒として登場した。
名前は忘れた。そこで阪大英文卒の女性と記しただけである。ちなみに、この女性は東京で入り浸りとなっていた某居酒屋の家の娘さんを連想させた。そしてこの娘さんの名字が「おじょう」と同一である。また、この阪大卒の女性とデートした場所が池田動物園(園長は池田隆政氏であり、私の父の商売相手で、私の名の隆政はここからきている)であり、私が2015年に訪米したときの添乗員が池田で…これまた😭話もある。

そして早見優が上智ならば西田ひかるも上智…。大学や学歴はどうでもよい。早見優とか西田ひかるならば名前を覚えているので大学名は通常書かない。だが、福武書店の女性や、見合いをした女性は名前を覚えていないので、指示代名詞代わりにやむを得ず使っただけである。同時に、プライバシー権確保上も実名は出せない問題もある。それだけの話である。いつも赤い服とか黄色い服を着ていて、誰でも服の色で連想できる人ならば、名前の代わりに「あの赤い服の子」と言うであろう。

いずれ、訪米の話は『日本のフィクサーME・パート3』でそのときの話も含めてしよう。そうすれば、我が友・ミスターオバマも(>_<)であろう。若しくは(×_×)であろう。


こうして催眠熱での大被害は三回あるのだが、何故か駿台のときだけが強調される謎が残っている。何故、西田ひかるや岡山の予備校の催眠熱が問題とならずに、駿台のときだけが強調されるのかという謎が未(いま)だに残っている。
長さでは十年以上に及んだ西田ひかるの方であり、複数関連では岡山の予備校でも同一パターンにもかかわらず、何故、駿台だけが何度も、しつこく強調されるのであろうか。全く理解できない。

同時に、駿台の方で賠償金とか慰謝料などの支払があるならば、丁寧に駿台のことも記そうが、そうでなければ今更何で駿台のことを、私が無料で書かねばならないのかといつも怒っている。時間の無駄である。他にすべきことが山積している。ちなみに、駿台には当時から現時点まで賠償請求は一度もしたことがない。

また、駿台辞職関連の年月日と能開大辞職関連の年月日が相似形も気になっている。同時に、不可思議な事件が駿台時のNMから連続して起こっているのも何故なのか全く分からない。

《◇―5・疑問など》

1)その後、能開大などでは女子学生は質問に来る場合には1人では来ないようにを順次徹底。特に鬱病(うつびょう)から回復した1994年以降はほぼ毎年言っていた。

2)駿台には賠償請求は現時点まで一度もしていない。すると、賠償交渉をしている能開大・「機構」などの問題を書くべきが、どうして駿台の件を書かされるのか全く不明。

3)後の「写真残酷物語」との共通点→催眠で行動させられ、催眠が止(や)み終了。もう一つはデマが飛び交(か)っている疑惑。

4)催眠型で熱を上げさせられた三事例を見れば分かるように、私を好きになった人を好きになるは嘘(うそ)である。西田ひかる熱を考えれば明白。単に催眠による熱。

5)出鱈目(でたらめ)な世としても、駿台辞職後と駿台の絡みの臭わせは理解不可能。出鱈目でもシナリオがあろうに。全く不明。

6)催眠熱が主なものですら三度あり、何故、駿台だけが強調されるのであろうか。岡山の予備校の件はもう誰も構わないのに同時に、駿台の女性の件も本来は全く忘れていたであろうが、何度も催眠を掛けられ、繰り返し当時の話をさせられ、忘却防止をされていた。
ちなみに、駿台一年目の講師室係の女性の名は知らない。駿台二年目も二号館講師室係の女性名も顔も覚えていない。また、大阪校に異動した駿台五年目と六年目の講師室係女性職員の顔も名前も全く覚えていない。銀行の受付女性の顔も名前も覚えられないのと同様である。駿台講師室係も本来は全員そうなっていたはずである。おかしな話である。

7)1998年ポリテクカレッジ岡山辞職後頃から、何故か、「4」という数字が強調される謎もある。現時点でも意味は不明である。

8)何故、今頃、駿台の件を記載させられるのか、今なお不明。
記述自体がが人生の無駄と感じて怒っている。今の私の置かれている場から駿台を見ると、駿台は地球上の一匹の蟻(あり)でしかない。私には他にすべきことが山積している。


◇―1への追記・(2019/10/20 18:08→2019/10/26 22:15微修正)
当初予定はHPを一本化するというHP群の大改訂を行うため、しばらくHP群は完全休止予定でいた(当初予定→完全休止2か月、部分休止2か月合計4か月)。ところが、逆に量を増やしHPを書き続けている。駿台関係などは一切書く予定はなかった。ましてや、偽者云々(うんぬん)が気になり、既に気が向けば一言・№134~141に大量文書を記述済みである。
この2か月も私の意思・決定と完全に逆方向になっている。

再度言えば、何故、今頃、駿台の件を記載させられるのか全く分からない。

 

2019年10月26日