第七回私文書公開:姉宛文書(母へ寄贈アルバムの件):2013年1月&3月:公開日2018年9月9日

第七回私文書公開:姉宛文書(母へ寄贈アルバムの件):2013年1月18日&2013年3月:公開日2018年9月9日

▼姉宛に送付した手紙内容(一部神戸従兄弟にも送付)と母へ贈呈アルバム内文書。

当初、プライベート写真を拒否していたが、撮るように仕向けられた経緯も抜粋予定でいたが、長くなるため省略。もう一つの契機の一つの短大器財を自腹購入を母の援助と引き換えと村アルバム作成(1999年6月完成)がバーターであったことは既述の通り。また、常に仕事道具をプライベートで使用することへの抵抗も記載していたが、今回は長いので省略。以下、手紙本文の一部のみ紹介。

《 》内は2018/09/04付け加え

※付録3:悪い癖なるものについて(2013年3月7日記述)
写真は如何なる時でも大変な労力を要する。必死で撮り、撮った後はマラソンの如く疲れ切る。更に、撮影後には、大変なレタッチ作業とプリントアウト、そしてそれらのやり直しのための膨大な時間が待ち受けている。そして、如何なる時でも、必死でそれをこなさなければならない。何故ならば、手抜きをすると、悪い癖がつく。私は長期禁酒した経験があるが、一度、酒を飲み出すと止めるのが大変である。これは悪い癖である。逆に、腕立て伏せを一日600回のノルマを課し、実施する習慣をつけた時には、しない時の方が気分悪くなった時がある。これが良い癖である。

本題に戻る。写真でも、「今回は適当に」という発想を持つと悪い癖がつく。今、その悪い癖に悩まされている。悪い癖がついた代表例とすれば、三脚とレリーズを余り使用しなくなった事である。昔は撮影の時は必ず三脚とレリーズを使用し、例外として使用しない事があった。今は逆となっている。

もう一つは、昔は段階露出を執拗にしていた。一場面で十の段階露出をした事すらある。いつの間にか、今は滅多に段階露出をしなくなっていた。致命傷とも言える悪い癖である。よって、撮影でも、今回だけは〝適当に〟という発想で写すと、悪い癖がつく。

そこで、撮るならば〝必死に〟が不可欠である。プロ野球の(フォームに悪い癖がつくのを恐れている)ピッチャーに聞けば、私の心理を幾分かは理解できるであろう(……)

だが、今回も撮影後の後始末で、2月末出版社送付予定の鑑真の原稿は延期となり、4月か5月送付予定の原稿『日本のフィクサー・ミィ:Part2』も危なくなりかけている。また、我が家の大整理どころか、私の部屋も足の踏み場もない。著述業以外の再就職活動も昨年12月~本年3月中旬までは不可能となった。これでは、いずれ餓死するため、それもありプライベート写真は中止とすることにした。

ちなみに、篠山紀信氏は、自分の子供ですら、一枚も撮ったことがない、と、『徹子の部屋』で語っていたことがある。彼は、「自分の子供の撮影は街のカメラ屋かフォットスタジオでする」と言っていた。何故かは、各人の解釈に委ねる。

2013年3月7日記述。 浜田隆政

追記。

プライベート撮影を中止する区切りとして、母・MHの孫の結婚式撮影が一枚もないのは不本意なため、MU結婚式を以て最終とすることに、私の意思も合意して撮影した。ただし、妨害や思わぬ番狂わせがあり、本来の力は出し切れなかったが、その範囲内では最善を尽くした。

このアルバムも、NHTちゃんの時《2009年結婚式撮影》のように、他人が撮影したものが混入しているかどうかは現時点では不明である。ただし、以下の事を言えば十分であろう。即ち、妨害がなく、私が冷静に撮影していたならば、この写真集以上の物ができた確率が98%、これと同様の物ができた確率が2%弱、これ以下の確率はほぼ0%である。

同時に、当初の構想通りに、光とMUの十種余りの撮影実験(今回の二頁収録写真など幾つものアイデアを持っている)をしていたならば、その一部だけでも成功していれば、今回とは次元が幾つも違うレベルとなっていた。それれが失敗しても、枚数が枚数だけに、冷静に撮り、トラブルがなければ上記の確率は達成していた。

簡単に言えば、私が目指していた物とは、今回のアルバムとは質的にレベルが幾つも違っていたことだけが事実である。丁度、姉が持参したKG《町》の古里アルバム・『リトルヘブン』や雲の写真と、私が通い詰めた緑川洋一氏、植田正治氏、今後行く予定である土門拳・入江泰吉氏などの作品、あるいは大きな影響を受けたユージン・スミスの写真との差と同様の話である。

映画監督や落語家が客に「どういう落語・映画をしてほしいか」とアンケートを採り、それを参考に落語・映画をつくるのか、客が全く知らぬ世界を見せるのか、を考えれば分かる。私の作品は写真も含めて後者である。依(よ)って、我が家に監禁され、近所や親戚の人の考えを押しつけられるのは、作品作成上の桎梏でしかない。

否(いな)、桎梏ではなく妨害でしかない。目指している未知の世界は、今後妨害がなければ、再就職を兼ねた作品作りの中で実現されるであろう(ここで構想を明かせば、他人に先取りされるため、企業機密同様に明かせないのが残念である。)

2013年3月15日記述。 浜田隆政

※多忙中に急いで記したため、誤字・脱字及び文章のねじれなどは御容赦願いたい。



このアルバムは、母・MHへ寄贈予定であった。寄贈後は母・MHが我が家の自分の部屋で保存しようと、UK家で保存しようと、他人に譲渡しようと、私とは関係ないことであり、母の考えに委ねる予定でいた。

母が死亡したため、我が家内の母の部屋で保存するか、それともUK家の母が住んでいた部屋で保存するか……姉・MUHの判断に委ねる。なお、UK家か浜田家の母の住んでいた部屋に、一定期間置いた後で、どうするかの判断も姉に委ねる母が死亡しなくても、母の意識が戻らない場合には同様の事をする予定でいた。

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以上、2013年3月15日記述の姉等宛手紙より抜粋終了。赤字・桃色字も2013年3月15日姉等に送付文書。

以下は母贈呈のアルバムより抜粋。

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『浜田隆政写真集・《母》MHへの寄贈作品』
(プライベート最終作品)
このアルバムは、老いた母に捧ぐため作成した。
撮影後に、母が帰らぬ人となり、亡き母への奉納写真集となった。
この写真集を以て、本業(フィールドワークを中心とする作品・教材)以 外のプライベート写真は一切撮らぬことにした。
(浜田隆政:2013年1月18日)

2018年9月4日