教育問題を語る(毒饅頭教育批判)・第七回「偏差値のイドラを斬る」(第3話・竹の筒)

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◇3―学校は竹の筒(つつ)

 

最初に、重要なことを記します。「アイスクリームは美味(おい)しいのです。そして、可能な限り、安い値段で美味しいアイスクリームを食べることをお勧めします。」第4話以降でも「安くておいしいアイスクリームが食べたい」と書き続けます。何故(なぜ)何度も書くのでしょうか。それは、こんなわかりきったことを忘れている人が多いからです。ひどい人になりますと、自分が食べているアイスクリームが美味しいにもかかわらず、遠方のAさんが食べている方が美味しく見え、Aさんがアイスクリームを皿においてトイレに行っている間に、Bさんは自分が食べているアイスクリームを自分の皿におき、Aさんのアイスクリームを盗んで食べました。そして、Bさんは言いました。「こりゃ、私が食べていたアイスクリームよりも美味しくないわ」、と。そこで、Bさんは自分の席に戻りました。でも、そのときには、自分のアイスクリームは溶けていました。これを大学や高校に置き換えると実話なのです。私がイソップ物語の読み過ぎのせいではありません。
具体例では、Aさんの家の近くに大学があったとします。そこにすばらしい先生がいたとします。でも、行列のできる大学が良いに決まっていると思い、Aさんの息子さんは愛知県のC大学へ行きました。でも、愛知県のC大学には良い先生はいませんでした。これは余りにも多い話です。

 

安くて美味しいアイスクリームが良いと分かっていても、他人の物がよく見えるのです。それ以上に大学はブラックボックスのため、どれがよいか分かりません。だから、「行列のできる店がよいのだろう」の世界なのです。

 

図示します。安くて美味しいアイスクリーム→行列のできる店ではなく、行列のできる店のアイスクリーム→美味しいに違いない、が今の教育産業の姿です。皮肉なことに、消費者は塾・家庭教師などは調べたり・吟味(ぎんみ)したりするにもかかわらず、大学・高校・中学などでは、とにかく行列のできる、入手しにくいものが良いんだ、となります。そして、入手しにくい物の度数が偏差値なのです。

 

その偏差値を上げるには、既に述べた如(ごと)く、α)入口を狭める。β)受験者を増やす。γ)いかさまをやるです

 

αの手口は第2話で紹介しましたので、今度は「β)受験者を増やす」の手口について書きます。βの本来の姿は、授業料が安くて教育サービスの良い学校(良い教師が多い学校)がよい、です。これを続ければ、いずれ志望者が増大し、偏差値はあがります。この本道の手口が大昔の立命館大学だったような気がします。現在は…?ですが。
しかし、授業料を下げるのには限界があります。また、良質な教育サービスを提供していても、学校は言わばブラックボックスであり、外部からは分かりにくいのです。さらに、良い教師を集めるのは至難の業(わざ)です。そこでαの次にβ)受験者を増やす良い方法はないでしょうか。CMです。だが通常のCMは料金が高いだけで効果が乏しいです。大学のCMで一番良いのは体育系のサークルが活躍し、全国に大CMをすることです。これは解説の必要性はなく誰でも知っていることでした。

 

次に、有名人を大学教師として引っ張ってきます。さらに、有名人を学生として入学させます。誰かが言いました。「お前がそうだろう」。「そう、私は裏から入り、表からでていきました」。「ちょっと、Just, 待って、a Moment」{井上ひさし作ドンガバチョの台詞(せりふ)}。「いえ、釣られて言っただけです。同時に、これは皮肉です。表から入り(正式試験で正式に合格)し、大学でマージャン三昧などで、裏から出る(適当な詐欺試験で、適当に卒業)するのが多数の大学の実態です。高校時代の能力を後退させて卒業する人さえいます。裏から入り(適当に合格させられ)、大学時代に必死に勉学に励み、表から堂々と出て行く(大学の名を肩に背負い、立派な卒論を記して卒業する)のが本道という皮肉で書いただけです。入るときは何でもよいですので、大学時代にきっちりと学業で鍛えられ、それを身につけて卒業するのが本道なのです。入りやすく、出にくいのが本道である、と思うのです。だけど、大学は竹の筒(つつ)であり、中身は空洞なのです。入ったら、よほどのことがない限り、竹の下の出口へさっと出るだけなのです。

 

話を元に戻します。スポーツで名を売ります。有名人を教師・学生にします……。それをしている内に、学校関係者は次の法則に気づきました。「入口を狭め、受験者も増大させる。すると偏差値があがる。それは現実には錯覚である、と。逆なんだ。先に偏差値を上げる→すると学生が長期的には殺到してくるのだ」、と。

 

では「簡単に偏差値を上げる方法はないか。あった。入試科目数を減らすのだ」、と。入試科目を減らせば、一般に志願者は増えるため偏差値があがります。だが、それだけではありません。入試科目数を減らし、選択肢を増やせば一芸入試と同様に偏差値はあがります。例えば、私の偏差値は英語30、国語30、数学30、物理30、政治経済80としましょう。5教科の偏差値は仮に40としましょう。だが、入試教科を一教科までへらせば、私の偏差値は80になるとしましょう。他の生徒も同様となり、大学の偏差値は別の意味でも大きくあがるのです。だから入試教科数は7教科→6教科→5教科→4教科→3教科→2教科→1教科へと減った大学もあります。

 

就職状況が良いから偏差値があがるのでもありません。これも逆です。企業も一般教科試験で優秀な人材が選べるとは思っていません。ではどうやって優秀な学生を確保しますか。学校の教育サービスも分かりません。「ともかく、行列のできる大学がよいだろう」。即(すなわ)ち、何となく、偏差値が高い大学がよいであろう、となりました。同時に高校や大学を卒業してきた(入社試験担当の)彼ら・彼女らは知っています。学校は飾りにすぎないんだ、と。何もないんだ、と。いわば竹の筒なんだ、と。

 

竹の筒(つつ)。そう、竹の筒。竹の筒を縦にして、入った物がそのまま外へ出ます。それが学校なんです。だから偏差値が高い大学は最初から(クイズ型試験問題では)優秀な人間がきています。出口よりも、入口に注目しましょう。こうして、大学や高校では出口ではなく、入口のみが強調されてくるわけです。高校三年間どのように鍛えられたか、大学四年間どのように鍛えられたか、そんな物分かるわけがありません。それに、今の大学の多くは一、二年はコンパ・合コン、そして三年頃はマージャンに没頭、三年後半から四年にかけては就職活動と続きます。

 

実質的に勉学可能な、わずかな期間に、男子学生は一般に授業はエスケープ(すみません、私もやりました。独学よりも授業は意味がありませんし、バイト三昧のため。でも家では膨大な本を購入し独学しました)、出席をとる授業では代返と。女子学生は「そんなの卑怯(ひきょう)だわ。私は真面目だから授業に出るの。」そして、お喋(しゃべ)り三昧、お喋りに疲れると寝る。
彼ら・彼女らは知っているのです。授業にでても意味がない、と。だから、大学の良心的教師の一部は正直に言います。「君たちの中で、本当に勉強する気がある人は、図書館で勉強しなさい。」ときには、はっきりと「僕の授業にでるよりは、図書館で独学で勉強しなさい」、と。

 

大学はまさに竹の筒です。入ったときのものが、そのままでていきます。よって、入ってきたときの状況がすべてである、と。だから大学も、入口だけを注目しだします。でも、高校は進学実績で評価できるのではないでしょうか。否(いな)、高校もこれから述べるように竹の筒なのです。

 

高校はどのように評価されていますか。大学ほどではありませんが、教育内容はやはり余り分かりません。そこで、偏差値の高い大学に多く卒業生を送る高校を評価しよう、と。高校の評価は、偏差値の高い大学に行く高校がよい高校であり、そうした高校の偏差値はあがる、となります
だが、ここでもγ)詐欺が横行しました。拙著『親方日の丸・第二部親方日の丸と日本経済』(Kindle版・2015年8月18日発売)より、少し紹介します。

 

《……大阪学芸高校では、学校が受験料負担するなどの恩恵の下で、「06年春に関関同立73学部・学科に出願させた理系トップの生徒が、すべて合格」、この学生のみでこの学校は関関同立合格者数73名上積みされ、学校の大CMとなった。こうした操作のおかげで、この高校には「00年の春には360人の定員に対し299人の入学者しかなかった」が、「……07年春……高校への志願者は……00年の3倍を超えた」(「朝日新聞」07年7月27日)という。大阪府は、これが誇大広告にあたるかどうか見極め中である(「朝日新聞」同年7月28日)。前後して同様の高校が新聞を賑(にぎ)わせ続けている。なお、学校によれば、受験料負担のみか、激励金名目で金品を渡していた事例もあった》

 

 

高校も竹の筒の証明です。また、最初から偏差値が高い生徒が入る高校は、入ったらそのまま出口に直行するため、進学実績もよいだけなのです(後に進学実績なるものも批判します)。東大合格者数が多いT高校の生徒が、私が駿台予備学校の講師をしていたときに言いました。「先生、私の高校では雨が降ったら生徒は多く休みます。でも駿台は休みません」、と。そう、大抵の有名高校の生徒は、駿台・河合塾・代々木ゼミなどの予備校で高校時代は鍛えられているのです。その上で家庭教師なども活用します。
高校も竹の筒であり、そのまま独学か予備校に行けば東大に合格する生徒を高校入試で集めておけば、放置しておいても東大に受かるという単純なことなのです。だから、高校は東大合格者100名だしたと大宣伝すれば、私が教壇に立っていた頃の駿台予備学校は東大に1500名合格者をだしたと言っていました。D高校在籍中に予備校にも並行していき、D高校を卒業して、駿台などの予備校に三年在籍して東大に合格しても、D高校の進学実績に可算して公表します。ひどい場合には、駿台で教えていたときに五浪の生徒もいましたが、彼らも大学に合格すれば、高校の実績と高校は宣伝します。

 

要するに、高校なんて、いい加減なのです。
アイスクリームの話は重要なのです。安くて美味しいアイスクリームがよいのです。さらに、主観もあるため、他人が食べているのが良いとは限りませんし、行列のできるアイスクリーム屋がよいとも限りません。その上、行列の大半がサクラの場合もあります。だから、本当は自分で、多くもアイスクリームを食べて見て、どれが良いかを決めるのがよいのです。要するに、大学や高校を頻繁に参観することです。若(も)しくは、学校や教育産業が、雑誌で教育サービスや、授業見本の大型パンフ類で図書館で公表することなどが望ましいのです。

 

でも、アイスクリームとの違いが一つあるのです。安くて美味しいアイスクリームは探せばあります。否(いな)、私が百円で買えるアイスクリームで美味(おい)しいのをHPで網羅しましょうか。百円で二百円の平均値より美味しいアイスクリームを私は相当知っています。大学なども相当知っていますが、アイスクリームと異なり、良い授業がなかったら……。その話は後でしましょう。気になる人は拙著『旅に心を求めて―不条理編・下』の付録「エッセイ・学校」を読んでみてください。ともかく、私が適々斎塾(適塾)や松下村塾に興味を持ち、視察に行った理由もそこにあります。

 

この後は、第4話18歳時の偏差値が一生ついてまわる狂った社会批判第5話偏差値の土台の(お飾りとしての)学歴批判第6話で出鱈目(でたらめ)な偏差値総論を記します。タイトルはいずれも仮称であり、掲載時には違う見出しかもしれません。

 

 

【アメーバ用追記:2015年9月11日】
受験生が、有名受験高校より、有名予備校の方を何故(なぜ)重視するのか。どちらの講師が(受験を中心とする勉学に限定して)優秀かの論議はさておき、論理だけを記します。
(1)教員のやる気というレベルではなく、授業への死闘意識は、賃金(飴)と競争(鞭)に依存するときが多いです。
学校教師の賃金は高校の大学進学状況とは無関係に、学校の営利と労働組合の強さなどにより決まります。お金の源泉は授業料と入学金と国庫補助などの額です。昔、私が教師をしていた(元気の良い生徒がかなりいた)私立高校の教師の給料は灘高校の教師よりも良いという噂をきいたことがあります。生徒数が多いことと、労働組合が強かったせいでしょうか。
その高校教師の賃金ですら、大手予備校の有名講師とは比較にならぬ低賃金でした。予備校の有名講師一日分と新卒の高校教師の月給が同一でしょうか。私が駿台で政経を担当していたときの給料などを拙著『親方日の丸―上』や『求め続けて―不条理編・下』などに具体的に書いていますので興味のある方は御覧ください。また、次回・第八回(偏差値のイドラ―第四話)では、予備校講師間の競争を紹介していますが、受験高校では就職すれば一生首にはなりません。予備校は全く違います。

 
(2)中学・高校一貫教育の学校では、社会科を担当していれば、中学地理、中学歴史、中学公民、高校現社、これら全部と、別に高校世界史・日本史・地理・政経の中から一つか二つを担当します。それと別にクラス担任、クラブ顧問、成績記入などの雑務、進路指導・生活指導、職員会議、勿論試験の採点等々と膨大な仕事があります。超大手予備校ならば、原則として担当教科一教科のみです。雑務は試験監督・採点を含めて一切ありません。

私の専門は英語ではなく政治経済であり、予備校でも当初は政経・現社を担当しており、政経一教科で生活保障・保証という約束を予備校としていたのですが……(罠にかかり……もっとも、この予備校では英語は担当していません)詳細は拙著『閉じた窓にも日は昇る』に掲載、次年度頃発売予定です。
一教科担当と、複数教科担当では負担度は大きく違います。大学講師も法律学と経済学担当で赴任したのですが、「是非専任に」で、英語も担当する羽目になっただけです。私が担当した記した模試作成も政経・現社のことです。

 

(3)教員の出身大学。それは第八回(偏差値批判・その四)、第十回(偏差値批判・その六)に記しているように無関係です。今の実力が全てでです。参考までに記せば、私がいた校舎のライバル予備校講師(政経担当・一九八四年・八五年頃)は、私以外は東大卒2人と京大卒2人であり、私学出身者は私だけでした。
再度、強調しておきます。教師の出身大学は授業能力とは無関係です。英語などがその典型例です。また研究能力とも無関係です。今回のシリーズの続きを読まれたら分かるでしょう。

なお、次回以降は以下の予定です。このシリーズは一気に掲載し、その後は全く別のシリーズを検討しております。
第八回「現代のイドラ・偏差値批判(その四)」偏差値を固定化の欺瞞
第九回「現代のイドラ・偏差値批判(その五)」実力を阻害する偏差値
第十回「現代のイドラ・偏差値批判(その六)」偏差値の出鱈目さ?

 

(追伸の追伸)

私のHPで今月の歌を特集しています。9月の歌はWaltzing MatildaとI am Australian:豪州です。Slim Dusty (13 June 1927 – 19 September 2003)さんの歌は素晴らしい。特に、彼が74歳のときの歌は歳が歌に味を添えています。お見事の一言です。私は彼をUncle Australian(オーストラリア叔父・伯父さん)と呼びたいと思います。彼はオーストラリア全員のUncle(おじさん)のように思えます。
今月の歌は世界193カ国から検討に検討を重ねて選んでいます。…それは平和への道だとも思うからです。「この歌を歌っている人々と、あなた方は殺し合いで物事の決着をつけるのか」という、私の世界への挑戦状です。興味のある方は下記アドレスをクリック。
http://takahama-chan.sakura.ne.jp/song/menu5.html