教育問題を語る(毒饅頭教育批判)・第三回 「英語のできる人間は優秀であるという発想を打ち砕(くだ)きたい理由」(後編)

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第三回 「英語のできる人間は優秀であるという発想を打ち砕(くだ)きたい理由」(後編)

「毒饅頭を食わす教育批判」(Facebook書込№15-024-2・Google+書込№15-017-2)の続き。

《◇-3:英語学習の目的と学問の精神》

 

要するに、大学は学問の場であり、英語も学問の精神に基づいて学んでほしいと思うのである。今回は学問の精神について、難解な解説をするのを避け、砕いた形で説明する。簡単に言えば、学問はアクセサリーではなく、人間が人間らしく生きる・生きられるには、どうしたら良いかを考え、その方法を見つけることにある。どのようにすれば、自分や自分の家族はより人間らしく生きられるか、またそのために自分が何を専門として生きていくのか。自分も含め社会の人全てがより人間らしく生きられるために、その自分の専門でどのような寄与ができるのか。これが学問の精神である。そのためには専門のみならず、全体を見渡すために広い裾野(すその)も必要である。

 

そして、語学の学習は先の専門のための手段・道具であるのみならず、こうした目的のための広い裾野の一分野でもある。特に大学の一般教養の語学の学習では、後者が重視されることは言うまでもない。専門学校の英語以上になお更そうした性格を帯びる。こうした裾野における、英語学習の目的の第一は、平和、民主主義、人間の尊厳の意味を考え・尊重する真の国際性を身につけることではなかろうか。

 

勿論、英語を学ぶことは母国語も含めて言語能力を養うことに寄与(きよ)するし、また実際面での実用性もあるかもしれない。だが、大学の一般教養では実用性などは副次的なものにすぎない。やはり先に書いたことが主要なものである。専門学校や専門の語学ではない。時間数を考えてもそうなるであろう。英会話などわずか半年でしかも授業時間は、試験を除き17講時(集中して1日4時間になおせば1週間分でしかない)にすぎない。それ以上に、日本の大学のカリキュラムの多さから言って、もしこれで本格的な実用会話の基礎の全部を覚えさそうと考えれば大変なことになるであろう。望むならば、私は喜んでやるが。そんなことすれば全員過労で倒れるであろう。だが、そうした時間的限界からでなく、学問の府である大学での、一般教養の語学学習の目的は実用面のみにおかれるべきではない。

 

{※2011年追記。因みに、私は(1952年生まれで)人生五十八年の中で、本当に英会話の必要に迫られた時間の合計は数時間もなかった。海外旅行していなければ、ほぼ零(ゼロ)分であった。数カ国に及ぶ、外国の友人が何人もいるが、彼らは、日本に日本語を勉強しに来たので、会話ではできる限り日本語を使ってくれと言っていた。}

 

一般教養でなくても根底は同じである。即(すなわ)ち、どんなに実用性を身につけた所で、それが差別性に基づいているならば、人間性を無視して、目的なしに戦争の兵器だけを作る科学者を育成するのと同一のことになるであろう。今日の学校の語学教育は決して今のたとえと無関係ではない。それが例の「英語のできる人だけが秀才」という発想である。

英語を専門(職業)とする人間を見るときにも、先の偏見に基づいた「英語のできる人は・人だけが秀才」という視点に陥(おちい)らないでもらいたい。
今日の学歴社会では得てしてそうした偏見(へんけん)に陥(おちい)り易(やす)く、そしてそれは語学学習において、私が先に書いた弊害を生むのである。英語を専門にしている人でも、それは米を作る人、野菜を作る人、商売人、学者、歌手、医者、教師、写真家、芸術家、自動車の修理をする人でも……すべて対等な職人にすぎない。当然、英語を商売とする人もベトナム語を商売とする人も同一である。ただ、その優劣は、自分の商売(職業)にどのくらい時間と労力をさき、どのくらい心を込めて素晴(すば)らしいものをつくれるか、どのくらいその代価を支払う人に良心的に還元(かんげん)できるか。この一点のみである。

英語を商売とする人が秀才で、野菜を作る人が凡人であることは決してない。手抜きで野菜を作る人は凡人あるいはそれ以下であり、有機栽培だけではないが、一定の良心的目的を持ち懸命(けんめい)に試行錯誤(さくご)して物をつくり、良心的に消費者にそれを還元できる人は秀才であるのみでなく優秀な人である。英語も同様である。

 

農業の分野においても、志が高ければ高いほど、実践のみならず、文献からも、他人からも学ばなければならない。実際、一部の農家の人たちが多くの失敗や試行錯誤を通じて真剣な研究や実践をしていることは諸君らも周知のことと思う。にもかかわらず、今日の学校教育の弊害からか、英語を始め中学・高校で重要視された教科に関連する職業の人はインテリで、そうでない人は凡人という発想に陥りやすいのである。それも先の英語のできる人は秀才という発想を打ち砕きたかった理由である。

 

 

 

《◇-4:ではこの短大において英語をどのように学ぶのか》

この点について、今このプリントだけで記せば書ききれないし、また効果もない。そこで、ここでは最低限の骨子のみ記し、後は授業でおりにふれて話すこととする。また、他の先生や学生同士での会話や文献等を通じても模索してもらいたいと思う。

この短大において英語を如何(いか)に学ぶかの骨子。

 

①学問は(人間がより人間らしく生きるという意味での)人類の進歩のためにあり、英語もその学問の中の一つであると同時にそのための道具でもある。この学問の精神が学習の基礎になければならない。

 

②さらに、個別英語においては、平和、人間の尊厳を尊重し、真の国際性を身につけることである。そのために、将来、私の方もいろいろな場所に出入りし、いろいろな国に行き、日の当たる職業だけではなく、様々な分野の様々な国の人と友達になり、そうした人をゲストに招けるようにしたいとも考えている。
とりわけ学生諸君がTVや英会話の学校で出会えないような人を中心にしたいとも考えている。何故(なぜ)ならば、英会話学校で講師などをしている人ならば、諸君らがどこに習いに行っても、テレビでも・ラジオでも・どこでもそうしたチャンスはあるし、また「英語ができる人は秀才」的な真の国際性に反する観念を打ち砕くには意味がないからでもある。

 

③では具体的にどのように学ぶのか。当面、自分でも模索しながら、私の作成した教材の大半を授業にかかわりなく読んでもらうことを勧める。作成している教材において、私はそれを主張しているのであるから。

 

④ただ、一つ言えることは、私の提出する課題に応えねば、英語の単位は認定しないということである。私の提出する課題は当面試験問題の予告という形で提出する。(例:「マザーテレサは何故(なぜ)貧しい人は美しいと言ったかを私の教材などを参照にして考えなさい」等)。当面考えることがあり、課題の量も、その評価の基準も厳しくはない。いずれ徐々に、学生諸君にきっちり求め、大学生にふさわしい形で評価するつもりでいる。90歳にもなろうとする人がボケ防止で学んでいる語学の学習量以下というような、今日の形が大学にふさわしい訳がない。かといって、大学の一般教養の授業で学生諸君をがんじがらめにする気は毛頭ない。いずれ徐々に思うことを実施する。

 

⑤そして、私の教科で優秀な成績を収めた学生は、私の教科に関して(のみ)は優等生である。ただし、それは、大学は諸君らの生涯の、またしなければならないことの一定の部分にすぎない。英語は更にその大学での多くの教科の中の一つの教科にすぎない。ただし、大学時代には学生生活の中で学問が大きな意味を占めなければならない。それが大学である。

 

だが、もし私の授業に熱心な学生がいたら、その学生はまぎれもなく、私の教科ではしかも数年間のみは優等生である。勿論、私にとっては紛(まぎ)れもない素晴(すば)らしい学生である。もし、その学生が生涯そうした姿勢を持ち続けるなら、生涯に亘(わた)って、私にとっては紛れもなく素晴らしい生徒であり、素晴らしい人間であろう。

 

そして、そうした姿勢をとり続けていれば、学問はアクセサリーではない以上、自らに必ず実質的に還元されるであろう。それはお金であるかもしれないし、人からの感謝であるかもしれないし、友人の質となるかもしれないし、自らの生き甲斐(かい)となるかもしれないし、身内からの愛という形かもしれないし、その他思いもつかない形からかもしれない。だが、一つ言えることは、自らの人間性を失うことを避けるのに、それは大きく寄与するであろう。

 

 

 

【安らぎ文庫Blog「毒饅頭教育批判」・予定】
第一回 「英語のできる人間は優秀であるという発想を打ち砕(くだ)きたい理由」(前編)
第二回 「同上プリント配付の経緯・零点がなんだ!」このプリントを配付するにいたった経緯。
第三回 「英語のできる人間は優秀であるという発想を打ち砕(くだ)きたい理由」(後編)
第四回 李登輝元総統来日に際しての解説。
第五回以降は第Ⅱ部を参照。

第Ⅰ部・英語ができる人は優秀という発想を打ちくだきたい理由について。
→これが今連載中の毒饅頭教育批判第一回から第四回です。
第Ⅱ部・偏差値のイドラを斬る。
→毒饅頭教育批判第五回から第十回の内容です。
第Ⅱ部は、偏差値つくりの材料である(日本の大手模試二社の)模試作成をしていた経験も含めて、偏差値がいかに出鱈目かを紹介します。偏差値をあげるためのサクラも登場します。これは新聞でも報道された事実です。

 

第一回と三回はGoogle+、Facebook、私の安らぎBlogで公開。第二回と第四回は、私の安らぎBlogのみで公開。第五回・第六回は安らぎ文庫Blogは決定であるが、その他での公開は未定である。(2015年8月30日→現在順次公開中です。)
第二回は、このプリントを配付するに至った経緯を記述している。
第四回は2001年に李登輝元総統が来日するにいたっての逸話である。(来日への日本側の受入れにこのプリントも関係していたか、若しくはこのプリントが縁で私も絡められていたそうである。私は全くそうした経緯は知らず、知ったのは2000年代後半である。)ただし、第二回と四回は、政治的影響力が大きいことと、一部の政治家などが困らぬように、5パーセントほどフィクションを入れて、どこが事実か分からないような形で記述している。第一回と第三回に、このプリントを配付したのは、紛(まぎ)れもない事実である。
(蛇足)ちなみに、私の専門は英語とは全く無関係な政治学である。同じ頃に、学んでいた学生には、早大政経学部のI教授、Y教授、K東大名誉教授(後の聖学院大学前学長)……が。共に研究会を四年していた人物には早大法学部教授のMA教授(Given nameが朝日新聞[asahi]と間違えそうな名前の教授)、上智の新聞学科T教授、名古屋大のI教授などがいた。人名のイニシャルは、私のホームページをみれば大半分かるであろう。大学院生時代に大学の前期後期試験の試験監督をバイトでしていたが、その頃に試験を受けていた学生が野田佳彦君などである。他学部でも試験監督をしていたため、現在の外務大臣などの試験監督をしていた可能性も高ようである。こうした話は必要に応じて徐々に紹介する。

 

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最後に、一枚の写真をつけておきます。カメラの腕が未熟であった二十年前頃に撮った二十四の瞳像の写真です。

  
 ゴールデンウィークが最後まで皆さんにとって良い日々であることを!

        (以上、浜田隆政主催「安らぎ文庫Blog」・第三回記述より抜粋)

【アメーバー用追記・2015年8月30日】
※アメーバーで、私のホームページの紹介をしております。今月の歌なども好評のようです。ただし、本年8月5日から9月5日までは、原爆・戦争・平和特集の歌を特集しております。8月6日広島原爆、9日長崎原爆、15日終戦記念日特集、……8月28日以降は世界での戦争の悲惨さ特集の紹介……。残虐な映像も流れるため、お子様をお持ちの方などが一部敬遠されているようです。でも、戦争は残虐なのです。また、読者が一部減ることを覚悟の上で8月は戦争の悲惨さを特集しました。9月6日からは通常の路線に戻ります。