ふるさとの記録―1・(村のアルバム記載文書から)
2020/06/28 3:12 下書き公開 11:41追記の補足と目次部分のスキャナー
2020/06/28 22:04 清書途中
2020/06/28 22:57 ほぼ清書終了
2020/06/29 00:01頃から正式公開予定。 3:12レイアウト修正
-目次- (頁)
序:目次と前書き 1頁(ページ)
1:ID村アルバム・タイトル『ふるさと』 2頁
2:山から見たID村-東西南北- 4頁
3:ID村の四季-春夏秋冬- 10頁
4:小字(こあざ)・NTの家々 13頁
5:ID村の1年-1月~12月- 25頁
6:付録:
①1960年頃のID村(隆政の父撮影) 50頁
②ID村の写真・追加編(浜田隆政撮影) 52頁
③撮影データ集 57頁
④浜田隆政ID村関連作品集案内(ビデオ他) 60頁
7:著者略歴-1952~68年の村の子供達 61頁
※美作町イラスト地図 表表紙
下ID村住所地図 裏表紙
以下、1999年記述箇所(誤字・脱字のみ、2020/06/28修正。)
-《前書き》-
▽
1996年末頃、大字(おおあざ)ID村の記録(正確には小字[こあざ]・NT組合の記録)を思いつく。明治時代、昭和25年(1940年)頃、そして1960年頃のID村が、このアルバムの如(ごと)くまとまった形での写真集と(訳の分からぬ難解な文章でなく)庶民の素直な生きた言葉による当時の記録として残されていたら、それはID村の財産となったであろう。
▽
それ以上に極論ではなしに、歴史の貴重な生きた資料ともなったであろう。少なくともそれは私にとっては貴重な資料となっていた。そこで授業の教材作成のために始めた写真技術を利用し、ID村というよりは小字(こあざ)・NT組合の1995年から1998年(一部99年含む)の記録を写真に写し残すこととした。また、こうしたアルバムに長い文章は興ざめであるが、50年先、100年先のことを考えてやはり(お役所言葉や報告書の類の言葉でなく)生きた言葉で文章も記すことにした。
▽
ただ惜しむらくは、アルバム作成開始前の94年末くらいからID村の写真撮影をしていたが、この頃は既に構造改善事業が終わり、昔泳いだ川は大きく姿を変え、河原はなくなり、(効率優先の構造改善事業のため)田すらどこが自分の田やら分からなくなり。1989年から93年くらいの数年間でID村も小字・NT組合も姿を一新してしまったことである。 構造改善前のID村・小字・NT組合の写真を残せなかったことが残念至極である。しかし、今後更に小字・NT組合もID村も姿を変えるであろう。そこで、このアルバムは20世紀最後の瞬間のID村の記録として一定の価値を持つかもしれない。
▽
50年後の人は昔はこんなに自然があったのかと思うかもしれないし、昔は自然破壊がひどかったと思ってこのアルバムを見るかもしれない。ただ、社会科学を本職としている人間の目でみると(私からみると)、高速道路(横断道路)が計画されID村周辺にインタチェンジを作ることが検討されていることなどを考えると、10年余り先には下手をするとこの辺りは中国縦貫道路の豊国原から明見周辺の如(ごと)く状態になっている危険すらないとは言えない。
▽
▽
最後にこのアルバムの作成に当たって留意した点とその他のコメントを箇条書にしておく。
▽
1:撮影期間(1995~98)[一部94年と99年を含む]
私が写真を本格的に開始したのが1994年であり、そのため95年頃は器具を十分持っていないのみならず、撮影技術も未熟であったが、その頃に撮影した写真も種々の理由で今回掲載せざるを得なかった。幾つもの技術的ミスが今見ると存在している(絞りやフィルム選択その他の問題等)。98年頃中心に撮影したID村の1年の記録と比べれば一目瞭然である。
▽
2:全戸配布の限界
→小字・NT組合各家に完全配布したいのであるが、現在の科学技術では、このアルバムと同じ色で再度焼くことが困難であること。96年頃からは露出[EV(露出)]値0.3を問題にしているレベルのため。ただし60頁に紹介したビデオ編集は一定条件で可能である。デジタルDVD作成もいずれ可能となるであろう。
▽
3:アルバム記述文章範囲に1960年頃含む
→アルバムには95~99年のみのID村、小字(こあざ)・NT組合の状況について記述したかったが、私が幼少の頃や児童の頃の(生きた)記録が村には残っていないため、それらも残す必要性から自分の幼少の頃と対比した文章を記さざるを得ず、そのためアルバムにふさわしくない長い文章となった。
▽
4:写真選択条件
→良い写真よりも、アルバム全体のバランスのため、また小字・NT組合の家々等は各家の性格と雰囲気のある写真を重視し、気節も同様の視点で選択した。そこでアルバム掲載以外にも貴重な写真が多数ある。
▽
5:写真撮影視角
→
①邪道ではあるが、写真をありのままに撮る記録写真より美的な写真とした。その理由は全体に亘(わた)り記している。
②人のいない風景に徹した。
これは、私の哲学で、私の児童の頃1950~60年頃と比べ20世紀末にはID村には人がいなかったということの指摘と記録である。東京のように人はいても、東京砂漠というが如(ごと)き意味で人はいなかったということである。
人のいない古里、よって故郷を懐かしむには美しく撮るしか方法がなかったのである。逆に言えば、幼少の頃の如く人間関係や集団行事が多ければ当然、人のいる風景、そして人の顔に田舎の良さが反映されていればそれはいかなる景色よりも美しく、特に風景を美しく撮る必要はないということである。
▽
6:その他
→このアルバム写真収録総枚数170枚、64頁余りとなった。
私以外の撮影は6:付録-①の1960年頃の小字・NT組合の9枚(私の父撮影)以外は5頁の航空写真の1枚のみである。即(すなわ)ち浜田隆政撮影160枚を収録している。撮影フィルム本数は軽く実質百本以上である。関連写真及び写真のネガ、ポジの原本の数はその数倍の範囲に及んでいる。
▽
▽
※注1:
「故郷(フルサト)」は懐かしい、人もいる、自然もある生まれ故郷(コキョウ)の意味で使用し、
「古里(フルサト)」は生まれ故郷という意味と同時に荒れ・見捨てられた地(都市化や東京砂漠化したため人のつながりなどが無くなり、もはや故郷とは思えない地の意味も含む)のニュアンスでも使用し、
「ふるさと」はどの漢字と今後なるか不明の意味で使い分けを図っている。ミス記述箇所は訂正を願う。
■
■
【2020年解説(2020/06/28記述)】
▽
カメラは1994年末頃から開始し、当初は実験で、我が家界隈(かいわい)を撮っていたようである。その頃に村の記録撮影」を漠然(ばくぜん)と思いつきかけたと思う。その後、1995年末頃から、ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国での)授業器財購入費を母が負担する代わりに、撮った写真をアルバムにしたらどうかという話に徐々になった可能性が高い。
▽
そして、完成後は村の集会所に寄贈予定でいた。費用の関係で作製は一部しかできないため、私は所有できないと思っていた。ところが、幾つかの事情で寄贈を中止した。
▽
将来幾つか原稿でも当たれば、配付も検討した時期があったが、現時点ではとてもではないが、金銭のみか、(すべてアナログ写真のため、プリントアウト時の露出・コントラスト・彩度・カラーバランス等…の複雑さなどから)複製時間からいっても無理である。
ビデオは実験版を1990年後半に作成し、母を通じて希望者には我が家の作業場などで閲覧可能としていた。そのときの案内板のプリントも後日掲載する。また実際に見たと言っていた人もいた。
▽
DVDやBD等は、もはや不可能である。全てアナログであるが、それをデジタル化(原則Tiffかつ写真一枚8bitで68MBか16bitで136MB)に今(個人プロ用フィルムスキャナーは今のOSでは動かないため)業者を通じて変換するには、現在では天文学的金額となる。また老後破綻(はたん)を前にして、最後のあがきをしており、対応時間が全くない。プリントも類似する。
【参考】ちなみに、デジタルの場合にはニコンカメラD800では写真一枚8bit 約120MB、16bit時は240MBである。
▽
さらに、1994年当時、小字(こあざ)IT組合は11軒と勘違いをしており、12軒と知ったのは1997年頃ではなかろうか。それまでは母が我が家の代表で村の付き合いをしていた関係で、後に知った新しい家(多分、1995年頃できた家)が我が組合の人とは知らなかった。その家は、別の組合との境界箇所のため、別の組合の家と思っていたのではないかと思う。さらに、私が村の付き合いを開始したのが2002年後半のため、予定撮影期間を超えており、もはや新しい家の本格撮影は無理であった。即ち、11軒で作製したため、DVD・BDなどは公開どころか作製もしない予定でいる。さらに、写真関連では何故かトラブルが多いため尚更(なおさら)である。
▽
それでは、このアルバムはどうなるのか。
50年か80年後の子孫などが必要に応じて処置するであろう。恐らく貴重な記録と喜んでくれるであろう。その趣旨は私の遺言に記しておく。なお、私自身も我が家を除き、プライバシー権や幸福追求権問題などから、HPや本でも使用しない予定でいる。80年も経(た)てば幸福追求権もプライバシー権も関係ないであろう。今、1940年頃の村の写真がでてくるのと同様だからである。それまで持つか、プロ用フィルム主体のプロ用仕上げであり、保存も相当気を遣(つか)っているため持つはずである。
▽
なお、このアルバムは1999年完成であり、その後万一撮る条件がでた場合には2020年か2030年頃検討するとこのアルバムに明記していた。後に該当箇所を紹介する。
よって、2000年以降は、原則として、すべて催眠類での自己の意思に反する撮影である。何故(なぜ)撮らないのか。人間は「霞(かすみ)を食っては生きていけない」、カメラは商売道具の一つである。詳細は(下記※1参照。)
▽
なお、2000年以降に催眠で撮らされた写真はこのアルバムには原則として掲載をしていない。特にNT組合の家の場合にはそうである。
既(すで)に掲載している写真よりも、2000年以降の催眠強制の写真が万一良くても、交換は原則としてできない。理由は一軒のみそれをすると、「我が家のはどうして撮り直してくれない」のかなどのトラブルが生じるためである。器財が揃(そろ)うにつれて、技術が向上するにつれて写真はよりよくなる場合が多いため、1999年アルバム完成後、2000年以降に催眠で撮らされた写真は原則として前の写真と交換はできない。
▽
今回は、(写真はプライバシー権や幸福追求権の関係で原則掲載しないが、このアルバムに掲載している文章も作品のため)アルバムの文章を作品の紹介ということで、原則として文章だけを公開予定でいる。しかし、文章でも、1952年から今日までの村の生活と推移は分かるであろう。
そこで、今回は、私的ブログではなく、作品掲載関連のブログである安らぎブログに掲載し、抗議や苦情類は原則として書かない予定でいる。
▽
村の若い人たちには、地域の歴史記録として興味深く読んでもらえると思う。生きた郷土史である。写真の代わりに、文章で村の推移を、生々しく語ろう。なお、家が写っていない空だけの写真は使用する場合もある。空と雲のみなどは…誰も困らない。家の場合には、観光客が万一くればゴミを捨てる被害、また家によれば「恥ずかしいわ」という被害、更に私の裏の知名度が高いため、プライバシー権や幸福追求権に配慮し、掲載はできない。
▽
掲載に当たり、今回は誤字脱字のみの修正に留(とど)めている。
なお、次回からは村の生きた歴史であり、作品としての紹介のため、原則として苦情・抗議の類の内容は登場しない。掲載は今回を含めて3~6回を予定している。次回からが作品該当文書のため、それらを読めば今回とは内容も文体も違っており、今回の文書などを書かねばならないことが、いかに仕事の妨害となっているかも分かるであろう。
▽
▽
文書改竄(かいざん)疑惑。
1999年記述本文「2:全戸配布の限界」の箇所で「小字・NT組合各家に完全配布したいのであるが」の部分は、一ヶ月ほど前に見たときには「NT組合各家に無料で完全配布したいのであるが」と「無料」という語句があったと記憶しているが、現在は消えている。
私自身は、1999年までは言うまでもなく、2000年以降催眠強制撮影も、NT組合どころかID村にも一円も賠償請求する意思はない。
▽
▽
(※1)
【写真関連の話―2-②】私的撮影をしない(1994年)と言ったにもかかわらず私的撮影させられた経緯―二つの話
○http://h-takamasa.com/Blog-2/Archives-3/service/397/