📷写真コンテストに応募した経緯と、写真コンテスト類を否定する理由。
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写真コンテストを何故否定するのか。
私の母や近所の叔母が生きていた頃に置き換えてみよう。
叔母:「お姉さん(私の母のこと)、私は良い写真を撮ったで、お姉さんも隆政のカメラを借りて、撮って一緒に写真コンテストにだそうよ」
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母:「そう。では、私も一つ撮ってみよう。でもシャッターってどこにあるの」
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こうして、母と叔母が写真を撮る。
もし、どちらかが入選でもしようならば村中で大騒ぎとなろう。
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大変、微笑(ほほえ)ましい。
写真コンテスト、🙌、万歳である。もう一つおまけに\(^O^)/。
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と、言うことである。
通常のコンテストで、こうした母や叔母などが何十万人とおり、そのうちたまたま珍しいものが撮れたので送ろうという人が一万人以上いる。予備軍は百万人いるかもしれない。
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今回、催眠型強制で某写真コンテストに応募させられた。そこで、今回の応募二枚に加えて、私の処女作とも言うべき、1960年代に撮った写真「木漏れ日人生」も送付した。私が16才の頃に撮った写真である。
ただし、この写真は残念ながら原本がなく、プリントしたものをスキャナーで取り込み、デジタル化した。もし、この写真の原本があり、うまくデジタル化したり、デジタルカメラで撮っていたりしたならば、恐らく、この写真は相当の確率で賞を取ったであろう。
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現在、66才になろうとしている。
写真を本格的に開始して、もう、24年以上となる。技術も相当ついた。だが、その間に撮った写真が賞を取る確率は宝籤(たからくじ)に等しい。宝籤でも、16才の頃に父のカメラで撮った写真は、プリントからのスキャニングでなければ、落選はありえない可能性が高い。
その後撮った写真は、如何(いか)に、他人がほめようとも落選の確率ははるかに高い。
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これだけ書けば分かったであろう。
更に、写真コンテスト類は芥川賞・直木賞や、ノーベル文学賞、あるいはアメリカのピュリツァー賞と異なり、登竜門とか、あるいはその後の生活の安定を保障するものでもない。同時に、力量が試される場でもない。先の母と叔母の会話を思い出してもらいたい。
技術や専門性抜きで、まぐれ当たりが多い。
更に、主催者も視聴率に該当するものを気にするため、芸能人のハプニング大賞同様に、ハプニング類を好む傾向にある。
だから、私は昔、よく独り言や、馴染(なじ)みのカメラ店で以下のことを言っていた。
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写真コンテスト類は、「私は絶対に参加しない。基礎・基本がおろそかにされ、ハプニング類のみを追い求め出す。さらには、陣取り合戦などのモラルハザードも招く。また、本道を見失う。だから、私はそうしたコンテスト類には参加しない」。多分、「絶対に」もつけたと思う。
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平山郁夫画伯の本を読んでいると、「学生時代に絵を売ってバイトをしないようにと言われたそうである」。平山氏ほどの才能があれば、大学時代に少し絵を描けば、即座にうれ、金の足しになるであろう。すると、本格的な修行がおろそかになるそうである。
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写真も同様で、重い器財を持つための体力・腕力づくり。色や芸術についての基礎・基本学習、カメラ・レンズの知識、フィルムの知識、今ならばパソコン・プリンタ・ソフトに関する知識…の膨大な学習をしなければならない。
勿論、そうした本道をつんでも、ハプニング類の写真とは無関係である。ハプニングとか決定的場面の写真は上記の修行とは逆の場合が多い。
簡単に言えば、漫才師がTVで大きなミスをやり、それが受けた。すると古典落語の研究よりは、ミスをすることを好みだしたのと類似している。
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要するに、本道を見失う危険もあるということである。
私ならば、本道は、綺麗(きれい)な写真、飾る写真を撮ることではない。私はフォットエッセイというよりもプレゼンテーション屋である。主要作品の一つが『旅に心を求めて』シリーズである。この作品は、将来、文章、写真、イラスト絵、…などからなる。
中心は当然文章である。
分かりやすく言えば、司馬遼太郎や松本清張が本をかくときに、その本に入れる写真を自分で撮ろうとしたのと同じである。
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旅に心を求めてシリーズで一番撮る必要のあるものとしては墓・碑などが多い。小泉八雲の墓、夏目漱石の墓、…である。こうしたものを撮ってコンテストで通ると思う人がいるであろうか。
最近公開している、世界連邦平和像などはまだ良い方である。あるいは、車があれば再度撮る各地の義民の碑もまだ良い方である。昔撮った日野富子の墓などは我が家の墓よりもまだ貧相である。
これでコンテストに通るであろうか。
その逆も然(しか)りである。
コンテストを意識し出すと、本道から外れ、作品と無関係の物を撮り、仕事のみか人生が台無しとなる。
本末転倒この上ないとなる。そして、我が家に監禁され、その邪道を催眠や挑発類で強いられ、あわや人生台無しの危機にある。本道に戻らねばならない。
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私はカメラマンではない。文書を中心とするプレゼンテーション屋である。
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今回、突如、寝ているときにコンテスト類の催眠強要があった。
一昨年の結婚祝い用の写真(鎮魂の灯火)と昨年の結婚祝い用の写真(This is the American)を応募してみたら…と。催眠故(ゆえ)に、私の意思無関係で作業をさせられた。
ただし、両方ともお気に入りの写真である。
前者(神戸ルミナリエで撮影・鎮魂の灯火)は年賀状で使用したことがある。
後者(アメリカ・ラスベガスで撮影・This is the American.)は暑中見舞いで使用している。更には後者はオバマ大統領、バイデン副大統領、ケリー国務長官がその職を辞するときに、私のHPやSNS類掲載のみではなく、直(じか)に彼らに送付している。彼らのSNSへの貼付けのみか、Twitterなどの返信機能などで英文メッセージと同時に写真も送付した。関連資料を最後に添付している。
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なお、このThis is the Americanにケチをつけるような雰囲気が昨年見受けられたが、この写真は私のお気に入りの一つのみか、場合によれば歴史を動かすかもしれない写真である。願わくば、ユージンスミスの入浴する少女の写真同様に、あるいは沖縄の白旗少女の写真同様に、世界を動かせられることを夢見ている。
そこで、今回の応募類を機会に再度手直しを検討したが、その見積期間は3ヶ月余りのため、今回のコンテストには再度の手直し作品は送付不可能である。今回は、2015年に作品化したものを送付しておいた。一朝一夕に手直しは不可能である。それどころか、三か月経(た)っても、2015年版よりも劣る結果となり、徒労に終わる可能性の方が高い。作品とはそうした世界である。
だが、脇役(📷・写真)の存在で、主人公の文章(📝)は記せるであろう。しかし、脇役📷も不可欠である。
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このような考えをしているため、私が自分の意思でコンテストに応募することはない。2005年結婚式撮影も、数年後にコンテストに応募させられたが、いずれも催眠強制と断定してよい。私の本当の考えは上記である。
他人の意思で動かされるのはまっぴらであるが、催眠強制のため、私には手の打ちようがない。
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写真コンテスト類は、微笑(ほほえ)ましい物であり、そうであることが望ましい。
要するに、プロ野球の選手が、おらが村の「パン食い競争」で一番になるための修行をすれば、本業のプロ野球のトレーニングがおろそかになるであろう。ノーベル文学賞などとは性格が違うのである。
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【関連資料―1】
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オバマ米国前大統領・バイデン副大統領・ケリー前国務長官へ送付文書と写真。
政経を語る№14・オバマ大統領・バイデン副大統領・ケリー国務長官への思い出メッセージ
○http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=10993
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別箇所保存のオバマ前大統領へ送付文書
思い出メッセージ・オバマ大統領:Mr. Barack Hussein Obama Jr.
○http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?service=7027
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別箇所保存のバイデン前副大統領へ送付文書
思い出メッセージ・ミスター・バイデン: Mr. Joseph Robinette “Joe” Biden, Jr.
○http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?service=7026
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別箇所保存のケリー前国務長官へ送付文書
思い出メッセージ・ミスター・ケリー:Mr. John Forbes Kerry
○http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?service=7024
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【関連資料―2】
写芸楽№3―仏作って魂入れず(写真「鎮魂の灯火」と「永久の愛」の比較について)
○http://h-takamasa.com/Blog/?p=12253
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写芸楽―№4:This is the American.(これがアメリカ人と言うものだ)の意義と作品化試行過程公開(写真物語ブログ11月8日と同一文)
○http://h-takamasa.com/Blog/?p=16783
写芸楽―№4:This is the American.(これがアメリカ人と言うものだ)の意義と作品化試行過程公開(写真物語ブログ11月8日と同一文)
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