「フィールドワーク・東京」の記録―3(2017年11月28日)

「フィールドワーク・東京」の記録―3(2017年11月28日)

 

(見出し)館林ではなく、当初予定通りに佐野に行っていれば…、館林には行っていなかったであろう。そのときには、館林の食堂で美智子皇后の小学校六年のときに描かれた絵と出会うこともなかったし、田中正造記念館にも行くことはなかったであろうしであろう。だから、これで良いのかもしれない。

【2017年11月28日の日程】
11月28日午前3時か4時頃就寝か?

午前9時頃起床
午前10:20分頃ホテル発

池袋10:41発:合計金額 1,180円 
久喜(埼玉)=11:24着(14分)11:38発

(私鉄等)東武伊勢崎線普通(東武動物公園-館林):420円

12:07着館林駅

13:09:田中正造記念館
14:25:同上発

14:35:食堂
14:50:皇后の小学校六年時の絵撮影

15:10頃:ホテルチェックイン(ニューミヤコホテル館林)
15:30頃ホテルで自転車借り出発

16:10頃:川
(何度も道を間違え)

16:34 雲龍寺着
17:12 同上発

18:20頃道間違えホテル着(大塚)

コンビニに買い物など
翌朝午前2時頃寝たか?(記録なく不明)

 

【この日の行動】

この日も就寝が午前4時くらいのため、健康に留意し、起きたのは午前9時前くらいであった。
当初、東京フィールドワークでは、寝ているときに日光へ行けという甘言があった。

池袋から日光へ直(じか)に、帰えりに佐野か館林の宿で、と。

私は観光旅行ではないのでと何度も拒否した。
ところが、この日も日光という暗示がある。

しかし、起きた時間が遅いため、本日は館林と佐野までと計算した。

しかし、冬は夜明けが遅く、夜更けが早い。
そこで、館林と佐野の両方には不安があった。
ともかく、考える時間もなく、館林に直行となる。

なお、翌日佐野に行ったときに、私が日光に行っても問題ないように配慮がなされていた。

結局、日光には行かなかったが、フィールドワーク上問題が一切なく、観光旅行ではない配慮がなされていた。

それも天皇家の配慮のように思えた。
簡単に言えば、日光市の足尾銅山である。


日光足尾銅山となれば、これはフィールドワーク上、是非行かなければならないとなる。

だが、最後に述べる如(ごと)く、延長は寺問題などやスマホバッテリー問題などで無理であった。

もし、館林ではなく、当初予定通りに佐野に行っていれば、佐野で日光足尾銅山の写真を見て、翌日は日光に行っていたであろう。
その代わりに、館林には行っていなかったであろう。
そのときには田中正造記念館にも行くことはなかったであろうし、館林の食堂で美智子皇后の小学校六年のときに描かれた絵と出会うこともなかったであろう。
だから、これで良いのかもしれない。
ただ、予算上、東京に行き直すことは多分無理であろう。
早大ですら、予算上、これが死ぬまでに最後の母校訪問となる可能性が高い。



館山市

足尾銅山田中正造記念館へ。
今回のフィールドワーク・東京は勘違い・間違い続きの旅であった。
当初、田中正造の生誕地が佐野市ということで、佐野に宿をとっていた。

ところが、後に記す様々な理由で東京行きを延期せざるを得なくなった。

再度宿を取る際に、田中正造とインタネットで調べると館山市にある田中正造記念館がでてきた。そこで、佐野に宿を取るのは止め、館山市に宿を取った次第である。
翌日は更に勘違いのオンパレードとなる。


館林に着くと、駅には狸(たぬき)の像があった。
化けてやったといわん如くに。

何か変だ、と思いながら田中正造記念館を目指す。
途中で、田中正造関連は佐野市郷土資料館が中心と知るが、ここまで来れば田中正造記念館を目指す。
駅から歩いて15分程度であった。


最初は…であった。
ところが、展示物は、紙芝居、版画…であり、更に展示物にはほぼすべてルビがうってあった。非常に温かさがでていた。

また、掲示物一つ一つのコンテンツをみると作成に相当時間をかけていたことが分かった。

※写真はいずれも、一度クリックでパソコン大、二度クリックで巨大。

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怪我(けが)の功名とでも言うのであろうか。
これだから方向音痴及び、勘違(かんちが)いは止(や)められない。
もっとも勘違いが止(や)められないとは良い意味の方だけである。悪質な勘違いはたまったものではない。
田中正造記念館の展示物などは、いずれ、「写真物語ブログ・旅に心を求めて」で紹介予定でいる。

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今回の旅は、食事も倹約志向でコンビニとか、吉野屋牛丼類としていた。
また、昼食は原則として多忙さもあり食べない方針でいた。
ところが、館林市はうどんが特産と聞く。(方向音痴ゆえに、観光案内所であったか、道を尋ねたときに教えていただいた)。
そこで、うどんを食べに食堂に入った。


うどん定食は980円くらいでおいしかった。天麩羅(てんぷら)なども別につけてあった。
そして、満足しながら、外に出ようと思ったが、店のつくりが面白いので撮影をさせていただいた。数枚撮影し、店をでようと思うと、店の人が言う。

「美智子皇后の小学校六年の時の絵を飾っているので、お写しになったならばどうですか」、と。
私「でも、撮影禁止なのでは」
店「いえ、構いません。どうぞお写しください」、と。
そこで、迷惑がかからないように約1分で8枚を写した。
今回、掲載しているが、悪用防止対策上、芸術性が落ちるが絵の一部に私の文字を入れ、同時に「ダウンロード禁止」と明記し、更に他の写真よりも解像度を落として使用している。

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じっくり考える期間をおき、問題がないとなれば、文字入れは絵の部分から外し、他の写真と同様な解像度で掲載予定でいる。


なお、今回の旅では、一日目(皇居へ)、二日目(井の頭公園)、三日目(館林)、四日目(佐野)と天皇家との縁が深かった。
それは、フィールドワーク・東京2に記したように、私のフィールドワークは妨害が最近激しい。

事実上フィールドワークを実施するのが不可能なほどである。また、フィールドワークにでかけても、相当な時間を潰(つぶ)されることが多い。
そこで、天皇家が私のフィールドワークへの防波堤になってあげるという意味で、私のルートに何らかの足跡を残していただいたのかと思ったし、今でも思っている。


なお、帰宅後にこのフィールドワークをまとめていると、美智子皇后の小学校は館林第二小学校と知った。

今日(こんにち)、罠(わな)や、勘違い・誤解攻撃の中である。

しかし、この絵を見て思う。皇后は人間として信頼・信用できる人である、と。

そういう意味で芸術は時には長い、その人の経歴以上に、その人のプロフィールを一瞬にして語る。



館林での移動はすべて徒歩であった。

15:10頃:ホテルチェックイン
ホテルに着くや、即、自転車をレンタルできるか否かを聞いた。
三時間までは無料だそうである。
ともかく、いそいで、宿を発った。
というのも、冬は夜が更けるのは早い。
いそがねばならない。
その上、極度の方向音痴ときている。15:30頃ホテルで自転車借り出発

16:10頃:川
(何度も道を間違え)

16:34 雲龍寺着

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予想通り、冬は早く日が暮れ、あっという間に暗くなった。
必死であった。
17時12分には三脚もない以上、お手上げ状態となった。
そして帰路に就く。
やはり道を間違えながら帰る。
この行き帰りに何度も道を間違え、そこでスマホの地図を活用した。そのため、バッテリーが相当なくなった。バッテリー充電器用コードは持参していない。
これが、最後に効く。
最後の日(11月30日)に家に帰る予定が、わずか十分の差で帰り損ない、大阪に宿を取る羽目となる。もしバッテリーが十分にあれば東京に宿をとったかもしれない。
11月30日は家まで帰られると判断していたが、結局5~10分遅れで、新幹線と我が家方面へのローカル線との連絡がなくなったからである。
そのとき、宿探しをしたのが早大内であり、探すときにはスマホである。充電がなく、万一、道に迷ったりしたときに活用できなくなると大変で、ホテル事情を知らぬ東京は無理で、よく知っている大阪ならばあっという間に予約できるからである。

また、延長不可能となっていた寺問題などは別の項目で述べる。
ホテルに戻り、ホテル内から駅を写す。
ホテルに帰ると、前日ほどではないが、やはり幾分か余分なことを催眠で言わされ、寝る時間は遅くなった記憶がある。

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かなりの写真をつけたものは→写真物語ブログで後日本格紹介する。
作品化したときには『旅に心を求めて』シリーズで記すことにする。