「フィールドワーク・東京」(2017年11月29日)の記録―4
(見出し)この旅は勘違いの連続旅であった。佐野駅で下車しなければならないのを佐野市駅で下車した。そこから歩き、惣宗寺にて、太陽に向かって田中正造の墓を撮影する。次に佐野郷土資料館まで歩く。今上天皇…。夜は鬼子母神から雑司ヶ谷、そして昔世話になった店Sと思うや別の店に間違えて入り…
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11月29日
午前8時30頃?起床
午前9時50頃ホテル発
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10:15:館林駅発
10:27佐野市駅
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{※佐野駅と佐野市駅を間違え下車。佐野駅行きが佐野市11:12発たのめ、徒歩で田中正造関連地を回る}
11:12:惣宗寺着
12:31:同寺発
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12:53:佐野郷土資料館
13:35同資料館発
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14:15惣宗寺再度
14:27:同寺発
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14:50:佐野駅着
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この汽車と思うが、小山で15:36に写した写真あり。汽車の遅延か。
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14:56発:佐野
27分
(JR)両毛線:1,940円
15:23着小山
15:31発
上野東京ライン(宇都宮・東海道線)
16:37着赤羽
16:43発
(JR)京浜東北・根岸線
16:53着田端(東京)
16:58発
(JR)山手線(内回り)
17:00着駒込
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17:30頃六義園
18:20:同公園去る
(以下推定)
駒入
大塚
ホテル着(多分18時50頃ホテルチェックインし、すぐ外出)}
都電大塚駅
都電鬼子母神:推定19:40頃着
19:50鬼子母神の写真あり。
20:20;S店へ戻るか否か迷う
20:40頃まちがい店へ。(聞くと隣の店だそうであった。ただしS店は廃業したとのことである。)
22時頃でたか、詳細覚えておらず。
帰路は地下鉄に乗ったような記憶あり。
23時頃ホテルに戻ったか。はっきりせず。
翌午前1時頃寝る
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【この日の思い出・出来事】
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この旅は勘違いの連続旅であった。
ちょうど、私の人生の如くである。
と言うのも、私の人生に危害を加えている人は勘違いをしているそうである。
友人や恩師の一部は、意味ありげに、「いや、勘違いではなく、人間違(ひとまちが)いだ」と言っているのであるが、何のことかはわからない。
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この旅は最初からそうであった。当初、田中正造の生誕地は佐野市のため、佐野に宿をとっていた。しかし、既に述べた如(ごと)く、11月19日からの東京行きは延期となった。そこで11月26日から出発となるが、その際に宿をとるとき、佐野のあたりで田中正造記念館が見当たらず、インタネットで調べると館林市にあったため、館林に宿を取り直した。
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後で調べると、佐野市に田中正造生家や墓の一つがあり、田中正造関連資料は佐野郷土資料館にあると知った。
もっとも、既述の如く、勘違いして館林に行ったことは意味があった。怪我(けが)の功名である。
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この日、次の勘違いが、佐野駅で下車しなければならないのを佐野市駅で下車したことである。次の電車まで1時間ほどあり、もう次の電車を待たずに歩いていくことにした。
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この日は天気もよく、気持ちよく歩いたものの、何しろ方向音痴で何度か道を間違える。前日、館林で購入した田中正造関連の本に佐野界隈(かいわい)の地図もあったため、それを見ながら歩いても何度か間違える。
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電子書籍作成の関係でスマホを購入していた。これが命綱となった。ちなみに、スマホでの携帯電話使用は受信・送信含めてまだ一度もない。
スマホのおかげで何とか歩けたが、その代わりにスマホのバッテリーは更に減った。スマホの充電用コードは東京には持ってきていない。これが最後の日に行動に影響を与えることになる。
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こうして歩いていると、金色の鐘楼が見えてきた。珍しい寺と思い近づくと、これが惣宗寺であった。田中正造の墓の一つがある寺である。
田中正造の墓を撮ろうとしたが、逆光というよりも太陽が墓の真後ろにでていた。
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これは本当は絶好の機会である。
私の写真哲学は「順光は綺麗(きれい)であるが、お子様ランチ型写真になる。逆光は芸術性を追求できる」とか、「写真は順光では間違い。写真は逆光どころか太陽に向かって撮れ」である。
もっとも、これは時間にゆとりがあり、試行錯誤できるときのみである。
冬は日が暮れるのが早い。
しかも、目的地が幾つもある。
急がねばならならないため、太陽に向かっては至難の業(わざ)である。
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それでも、ともかく、撮った。
数枚以下掲載する。(フィールド東京の本格掲載は写真物語ブログにて、本年中には行う予定でいる。まだ95%の写真が現像もレタッチもしていない段階である。)
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(写真―1)
写真―1~4はクリック一度でPC大、二度で巨大。
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(写真―2)
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(写真―3)
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次の目的地・佐野郷土資料館にはかなりすんなり行けた。二~三度道を間違えただけである。スマホと地図があっても。しかし、これはジョークではなく、私にすれば上出来であった。もっとも、途中で道がわからず、出会った人に佐野郷土資料館まで案内していただいたということもあった。
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佐野郷土資料館では今回何かの展示をしているとのことで数百円入場料がいった。また撮影は禁止とのことであったが、(岡山から来たことや、撮影したものをどう使用するかなどの)事情を説明し、田中正造の像のみは撮影しても良いと許可をいただいた。
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佐野郷土資料館に入ると、柱に今上天皇・皇后の写真が目についた。記念に撮影しようと思ったが、田中正造の像のみの許可のため、まだ資料室に入っておらず、廊下への掲示であるが、撮影は自粛した。
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この旅では、既述の如く、天皇家にお世話になった気がした。それは、ともかく、激しいフィールドワーク妨害(簡単に言えば営業妨害)があり、それに対してフィールドワーク(営業)を守っていただいたように思えた。
少なくとも東京ではそう解釈していた。
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(写真―4)
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なお、この写真の中に日光足尾銅山の写真もあり、日光足尾銅山にも行けば良かったと思ったが後の祭りである。今回は目的地が多すぎる上に、(我が家関連の)寺問題その他で延長も無理である。おまけに東京の宿事情は詳しくない上に、スマホの電源もわずかとなってもいた。ホテル調べはスマホでするため致命的であった。
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なお、天皇家の名を出すのは読者獲得のためではない。何故ならば、私のHP訪問者数やアクセス数は不可解なことが多く、芸術性の高いコンテンツを掲載したり、今週の歌などで完全に決まったりしたときには、一気にアクセス数や訪問者数が激減するのである。それも、何も掲載していない日よりも少なくなる。
イギリスファイナルのときの、芸術的なバレーとすばらしいグリーン・リーブズのコラボを掲載したときなどは、前日何も掲載していなかった日よりも、アクセス及び訪問者数は激減した(安らぎ文庫HPで)。
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逆に、アメリカ大統領予備選挙で、余り有名でない州でも、その実況中継をするとTwitterなどのインプレッションはとてつもない数がでた。それも英語で掲載してもである。HPでも難解な条文を英語と日本語で掲載したときなど結構人がくる。近所や知人類ではさっぱりわからないような内容と英文にもかかわらずである。
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こうした関係で、皇室関連を掲載した場合には逆にアクセス数と訪問者数は減ることは事前にわかっていた。まして、先の誰かの干渉により、芸術性のあるものを掲載するとそうなるからである。
だが、お世話になったと感じた以上、御礼の文章を掲載する方針をだしていた。
絵の方はお世話になった感じがしなくても、私の好みの絵であり、掲載はさせていただきたいことは言うまでもない。
ちなみに、美智子皇后の小学校六年次の絵も掲載したフィールドワーク・東京―3ときにはHPのアクセス・訪問者数も少なくなったのみか、Twitterのインプレッション数も激減した(正確には減少させる小細工があったとしか思えない。誰の仕業かは不明である)。
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18-006-5。
②午前6時頃掲載の18-006-2と3=Twitterインプレッション数、現時点迄通常の1/10~1/200。
Twitterインプレッション数、掲載時間十時間後→追悼はしだのりひこ比較で二百分の一以下。通常比較でも十分の一以下。
人が見ようと見まいと掲載するが、不思議。尤も掲載時間で不思議動向あるが— 浜田隆政 (Takamasa) (@Takamasa_Hamada) January 6, 2018
{※18-006-2と3が美智子皇后が小学校六年生のときに描かれた絵の写真である。(なお掲載十時間時点ではしだのりひこ氏のときの約1/300のインプレッション数となっていた。通常、こんなことはあり得ない。絵は良い絵であった。私は感慨深く拝見した。妨害が多いため、インプレッション数、HPへのアクセス数、訪問者数は公開できないが、一部数値をメモし残している。}
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要するに、芸術関連は良質なものや、人が興味を抱くものを掲載したときには必ずと言っていいくらいに、アクセス数・訪問者数、更にTwitterなどのインプレッション数は減るのである。
だが、(多分)お世話になった事実を永久に残すため、今回(フィールドワーク東京―3)も掲載し、更に本格的に「写真物語ブログ」に掲載するときも、私の書いた御礼の文書のみならず写真も掲載予定でいる。
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付け加えて、皇室関係を掲載すると、誰かが必ずに近く、私と天皇家を対立させようとする企てを五年ほど前から感ずることが多い。しかし、文書は永久に残るものであり、お世話になったときにはお世話になったと記すことは礼儀のみか、重要と考えている。それが、私の生き方でもある。
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六義園
この後、東京に戻り、六義園に向かう。相当暗く、2017年の科学では三脚抜きでは撮影不可能な状態に近かった。では、私の得意なピンぼけとか多重露出撮影をしようかと考えたが、人が多く、立ち止まり禁止と言われていたので断念した。
二百枚近く撮影しているが、少し見た範囲では、本当に全滅に近い。もしくは全滅の可能性がある。
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その後ホテルに戻り、即、都電で鬼子母神に向かう。
目的は、私が大学院時代に住んでいた下宿とアパートを見るためである。同時に、昔、自炊その他で店などを見るためである。
また、この界隈(かいわい)には昔世話になった店もある。
今月の歌シリーズのオーストラリアで紹介した、(オーストラリアから来ていた)ウィリアムス君と出会った店である。
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ともかく、店がまだあるかどうか、あれば外側だけを撮影し帰る予定でいた。
と言うのも、手土産も持たず、更に長期の金欠のため、中に入っても恩返しができないどころか、逆に心配させるだけと考えたからである。
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この店のおばさんは生きていれば九十代であろうが、娘さんが後を継いでいるかもしれないと考えたのである。
行くと店はまだやっていた。予定通り、外から撮影し、中には入らずに戻ることにした。明日(11月30日)には家に戻る予定でいた。その前に、夏目漱石・小泉八雲の墓…早大再撮影…と明日のスケジュールが詰まってもいた。
同時に、フィールドワークも含め酒を中止していたこともあった。
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帰路、鬼子母神にて、夜の鬼子母神を見た。そこで十分くらい、座っていた。先の通りに、店の中に入らず帰るとしていたが、もう死ぬまで消息が聞けぬかもしれない。ここで行かないのは義に反するのではないか、との思いがでてきた。
とくに、暖簾(のれん)の電話番号がきいた。
店の主が完全に変わっていれば、電話番号が書かれた暖簾(のれん)は新しいはずである。古いということは昔からの引き続き営業ということである。
古い暖簾(のれん)である。
と言うことは、おばさんの娘さんがやっているに違いないと考えた。手ぶらであるが意を決して店に入ることにした。
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中に入り、おばさんの消息を聞いた。
御健在とのことであった。年は、今、93歳だそうである。
しかし、重要なミスをやった。
この店はおばさんの店Sの隣の店だそうである。
おばさんの店Sは他の人に貸し、大きく改造し、全く違う人が営業しているとのことであった。確かにこの店Yの隣に店はあった。しかし、外側もガラス張りに見え、喫茶店風であり、まさかおばさんの店Sの跡地とは思いもしなかった。
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こうして、この日、三つ目の勘違いが起こった。最後は人間違いと言ってもよい。
これが私の運命だそうである。
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ここでビールを一杯飲んだ。そのときに隣の人がついでくれた日本酒がおいしかったため、日本酒を頼んだ。ところが同一の酒のはずであるが味が全然違っていた。その後ワイン、最後に日本酒か焼酎かを飲んだようであるが、覚えていない。料金が4000円だったような記憶がある。
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それでも、おばさんの消息が聞けたことや、名刺を店に預けれたのでよかったかもしれない。おばさんに渡してあげると言われていたため、浜田という者がきたことは伝わるであろう。
同時に、翌日、もう一度この界隈を歩くことにし、この店を後にした。
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あの程度の酒で何故か酔い、足がおぼつかないわ、記憶がはっきりしないわ、と不思議なことが起こる。この日は朝食・昼食抜きのためだったからかもしれないが…。ともかく、どのようにしてホテルに戻ったかもはっきりと覚えていない。地下鉄に乗った記憶がある。覚えているのは、絶対に人にぶつからないように、特に女性にぶつからないように細心の注意を終始払っていたことだけである。
やや、よろめいている以上当然のことである。
これが東京を離れる最後の日であった。
なお、帰宅後に知ったが、この日、北朝鮮がミサイルを発射していた。
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