「フィールドワーク・東京」(2017年11月30日)の記録―5

「フィールドワーク・東京」(2017年11月30日)の記録―5

 

11月29日23時頃ホテルに戻ったか。はっきりせず。
翌・11月30日午前1時頃寝る
11月30日午前9時頃起床。
午前10時頃チェックアウト。

都電大塚駅10:08
雑司ヶ谷墓地10:10着

11:46同発
11:55鬼子母神

12:32同発
12:43:喫茶店で食事とトイレ

12:56手塚治虫が住んでいた下宿撮影

12:58~雑司ヶ谷散策

早大着13:33:この日は主として大熊庭園撮影
(この日帰宅予定でいたが、撮影が長引き、ギリギリ間に合わないことを懸念して取りあえず大阪に宿をとる。もし、間に合えば新幹線内でホテルをキャンセルする予定でいた。なお、東京に宿を取らなかったのはスマホのバッテリーがなくなってきており、調べる時間がなく、大阪ならば行きつけのホテルをいきなり調べ、あいていれば即予約できるからであった。
要するに、取りあえず念のため大阪・尼崎で宿を取り、15:50の新幹線に間に合えばその時点でホテルをスマホでキャンセルする方針とした。)
早大発15:15頃

16:00新幹線(東京駅に15:50頃着)我が家方面最終が15:50東京発である。
ただし、今見ると、岡山駅まででて戻れば16:10が最終であった。当時はスマホの電源が少ないため知らなかった。姫路経由のみ考えていた。後者のルートは東京駅→(新幹線)岡山駅→(岡山駅から特急で山陽本線を逆戻りし、上郡駅から)佐用駅→我が家関連の駅=こんなルートを当時思いつくはずがない。

18:33新大阪
18:44同発
18:48大阪着

19:30~45頃ホテル着
風呂などに入り。21:10頃発

人に会いに難波へ(この日は下記[★1]理由で人には会わない方針であったが、催眠疑惑?)
終電?
難波23:30~0:00前尼崎


①雑司ヶ谷墓地
ここで、夏目漱石小泉八雲の墓を撮影する必要があった。

というのは、『旅に心を求めて―出雲街道を行く』の関係で小泉八雲の足跡を追う必要があったからである。
この原稿は、本来ならば2018年~2020年の間に世に問う予定でいた。

★掲載写真は一度クリックでPC大、二度クリックで巨大。

小泉八雲の墓―
17-090-018 11-30_102914

しかし、出すべき原稿の遅延が起こっており、もし、現在の起業路線をまだ継続しても、かなり先になりそうである。
予算上、何度も東京に行けないため、今回撮影は必須となっていた。

ちなみに、雑司ヶ谷に四年住んでいて、雑司ヶ谷墓地に行ったのは今回が始めてである。これほど、風光明媚(ふうこうめいび)な場所とは思わなかった。ただし、紅葉の終わりの時期はという限定付きである。
雑司ヶ谷墓地で、いずれ使用する可能性もある竹久夢二の墓も撮影しておいた。ついでに羽仁五郎氏や羽仁説子氏の墓なども撮影した。

雑司ヶ谷墓地―
17-090-012 11-30_102634

 


②鬼子母神
鬼子母神はこの日祭りであった。鬼子母神の祭りを見たのは始めてである。大学院時代の下宿は鬼子母神まで歩いて5分から10分程度にも拘(かか)わらずである。
この後、手塚治虫が住んでいた下宿撮影をする。手塚治虫氏も、いずれ『旅に心を求めて―学校編』で使用するからである。具体的には適々斎塾関係である。手塚治虫記念館などに行ったのもそのためである。


勿論(もちろん)、緒方洪庵の像は大阪でも岡山の足守でも撮り続けている。昨年(2017年)春に岡山足守の緒方洪庵像を撮りに行ったのもそのためである。 2015年頃に何度か適塾撮影に行ったのも同様である。詳細は営業戦略上掲載できないが、こうした学校などの撮影なども計画的に行っている。


③早大
この後で、昔の下宿付近から早大まで歩いていった。4年間いたにも拘(かか)わらず、何しろ方向音痴である。間違えそうになると、早大の学生らしき人間がそれとなく、進む方向を暗示してくれた。


なお、早大初日も、早大の歌で歓迎してもらっている。
そして、この日は予定外に大隈庭園の撮影ができた。
当初は、この日の天気では早大撮影は簡単にきりあげ、ゆとりを持ち、我が家に帰る予定でいた。大隈庭園撮影前までは、この日・11月30日に我が家へ帰ることになっていた。

大隈庭園をみて、番狂わせが起こる。
大隈庭園は、在学時代も何度か見たが、紅葉末期に見たのは始めてであった。
なお、この日の天気は大きく曇り、しかも雲のグラデーションがない灰色一色の空であった。だが、東京まで来て撮らぬ訳にはいかない。大隈講堂の時計台も撮る。
どう撮るか。
ボケを使うか。
それもやってみた。
どう撮るか。
再度考えた。
逆をいったならばどうか。
即ち、大隈講堂の時計台を上ではなく、下で撮る。つまり、池で撮るである。

大隈庭園―
17-095-072 11-30_1405-1

そこで、池に映った大隈講堂を、あらゆる角度から撮りまくった。
もう、これしかこの日は思いつかなかった。
まだ数枚しか現像も、レタッチもしていない。
完成するのは今年の夏頃かもしれない。

早大時計台―
17-096-031 11-30_1423-1

何しろ、保存用プリントに至っては、2016年11月の長崎の途中までしかできていないのだから。島原、水俣、関学イルミネーションもまだである。2017年久美浜、緒方洪庵生誕地、雪舟生誕地、栄西修行の寺もまだである。

昨年の東京は試しに、全体の1~2パーセントのみ現像・レタッチした段階であり、セレクトすらまだ終わっていない。公開は先になりそうである。
早大に年賀状を送付したかったが、期したのも、間に合わなかったからである。


こうして、大隈講堂で時間を取ってしまい、この日家に帰る予定が微妙になった。家への連絡の最終は15:50東京発の新幹線である。ギリギリ間に合うかどうかとなった。
焦る心が事故のもとで、取りあえず、ホテルを一応予約だけしておき、新幹線に間に合えばキャンセルすれば良いと考え、早大内で始めてホテル予約をした。

どうせ泊まるならば、東京がよい。しかし、東京のホテルでコストパフォーマンスが高く安価なホテルは知らない。調べるとしても、スマホのバッテリーがわずかとなっており、充電器はもってきていない。
そこで、尼崎か大阪ならば、調べずにピンポイントで、該当ホテルを直(じか)に出せる。案の定尼崎セントラルホテルが、4167 円 (サービス料込・消費税込 4500円)をつけていた。木曜日である。通常はこの価格ではない。待っていましたというが如(ごと)くであり、こちらも、それではと即予約をいれた。
具体的にはポイント3500円使用で、決済は千円である。


なお、大隈庭園撮影後に、すぐ東京駅に向かったが、東京駅の改札を入った時点が15:50分頃であり、いそぐ心が事故のもとで、尼崎のホテルに泊まることにした。
脳裏は、金を無駄使いしないため、最大限の収穫を得るであった。


要するに、翌日は尼崎平和像と大阪城世界連邦平和像を撮影し、この日はできれば大阪のどこかでイルミネーションに期待をしていた。ところが、新幹線内で調べようにも、スマホのバッテリーが十分ない。いざというときのため調べられない。

そこで、SIMカードをいれていないタブレットなどで、Wi-Fi接続を狙ったが、使用の仕方が悪いのかインタネットはできなかった。実際に、翌日、帰る直前に知ったが、大阪城でイルミネーションをしていたのである。
もし、このときにWi-Fi接続ができていれば、相当な確率で大阪城へ直行したであろう。ホテルに行く前に、大阪に19時頃つけば、直行で大阪城公園に向かい、19:30頃大阪城とイルミネーション撮影し、その後で尼崎となっていた。
対費用効果最大限を狙っているため当然である。。

この後の行動は上の時刻表と下記の【★1】を御覧いただきたい。


ところで、何故、今回東京か。
更に、今回の東京行きで何故これほど妨害が多かったのか。
それどころか、帰宅後に、妨害というよりも脅しに近いことが連続して起こるのか。
という不可思議な状況に巻き込まれている。


東京に行きたいのは山々なれども、私自身は予算問題などで当面は行く予定がなかった。ところが次回記す理由で一年に亘(わた)り、東京行きを説得された。そして、2017年前半頃東京行きがきまった。
それらは、次回のフィールドワーク・東京の最終編で記す。

ともかく、東京行きが決まった。
だが、妨害が予想された。
実際に幾つも妨害があった。

一つのみ紹介する。残りは次回資料掲載する。
日々日程表には次の記述がある。それををTwitterに記載した。


11月10日



その他にも、突如の催眠で独り言強制で長時間の時間ロス、睡眠薬でも使用された如く形で(まず類似のことをされたと思う)夜と昼を元に戻しても、何度も逆にされたこと。日本のフィクサーME続編メモなどを記述予定がないときに、挑発・催眠で強いられ、日程がガタガタになった。

このため、東京行きは何度か延期となった。
当初予定では、11月19日から23日であった。
だが、それすらも次回述べる理由で延期となった。
それのみか、更に、妨害が止(や)まなかった。

そうしたときに、今上天皇が、私の行くコースであった、井の頭公園に登場された。それも11月22日である。例の11・22である。
2016年には、ミスター・オバマが登場し、11・22の長崎行き妨害は村などでは減った。他ではあったが。同様に、天皇家が私のフィールドワーク妨害への防波堤になっていただいたと解釈した。
そこで、お礼を兼ねて、最初の日に皇居へ向かった。
妨害がなければ、当然、11月19日(日曜)~11月23日の予定通りとなっていたであろう。実際にその方が費用は安かった。
同時に、田中正造関連のフィールドワーク行きも援護していただいたのかと考えた。
それらは次回記す、詳細な資料を掲載すれば分かるであろう。

次回には、法務局・人権擁護協議会、長崎の再現予告、勘違いゲームなどを掲載する。ただし、諸妨害が予想されるため、法務局・人権擁護協議会関連は次回掲載予定の下書きメモを参考用に最後【★2】に掲載する。メモであり、本格的に掲載するときには若干、もしくはかなり文章が変化しているかもしれない。

 

【★1】人に会う?

当初の方針が①~③のため、この日、人に会ったのは不思議以上のものである。

①東京から大阪までバスで約4000~6000円で戻ったならば、新幹線代を浮かせたということで、知人に会う予定でいた。知人や人に会うにも金がいる。
人・知人・友人の中で、限定した一部の人に会う場合には一切通常予算は組まず、楽天その他のポイント獲得分の枠内で対応する方針をとっている。(要するに、理論上わずかな遺産類には一円も手をつけていない)。
枠は相当あったが、知人Rがいないため、特に重要でない人ならば会わず、大阪に多分12月下旬か1月上旬頃に出直し予定でいた。それは③の光の祭典問題もあった。

ところがこの日に予定外の人に会ったため、枠問題や多忙さから③まで中止となった。2017年12月下旬から2018年1月の大阪行きも中止とした。相当の確率で2月も行けない。
この日、新幹線で戻った以上、予算を残したいため、人には会わない。


②この日については(この日に関して言えば)、①を満たした上で知人Rがいたならば、大阪泊のときは会うかもしれないであった。
だが、知人Rさんに連絡とれなかった。


東京から大阪への新幹線の途中で、大阪につけば、大阪の光イルミネーション撮影を考えていた。というのも、東京の六義園撮影で暗すぎ百枚以上完全失敗と分析し、気分直しがしたかったことである。それ以上に、交通費や宿代を無駄にしないため、大阪の光の饗宴(きょうえん)類の撮影を考えていた。



③翌12月1日、大阪城内世界連邦平和像撮影のときに、やはり大阪城でイルミネーションをしていることが分かった。もし、新幹線内でWi-fiが使えていればSim抜きタブレットの方で確認していたであろう(使えるはずなのであるが、何故か、私の操作ミスなのだろうか、使用出来なかった)。そのときには11月30日に人などに会う時間はなくなっていた。

よって、この日に関して言えば、人に会ったのは催眠とか各種計画的誘導としか思えない。
尚(なお)、人に会う直前に安倍氏と麻生氏がテレビから笑っていた。(これは単なる参考メモ。)

(参考)大阪城イルミネーション2017年11月22日(水)〜2018年2月25日(日)。

しかも、今見ると11・22開始のため、尚更、あそこは大阪城の方であった。
ただし、17:30~21:30 会場の営業時間は17:00~22:00のため、ホテルに着くや、風呂にいらずに即出る必要があった。風呂は帰ってからいれば良い。もしくは、新幹線内で確認できていれば大阪駅から直行し、大坂城イルミネーションを写した後で尼崎のホテルとなっていたであろう。

【★1】人権擁護協議会関連の覚書メモ。

次回、掲載予定の中で人権擁護協議会・法務局関連だけを下記にメモ・下書き段階で掲載。
(メモのため、掲載時には文章は一部変更することはありうる。当然である。)

駿台予備学校を辞職に追い込まれる一つの原因だったかもしれないのが、今回の法務局と名のついた手紙の入った封筒を手渡されたことである。
中は差別文書であった。

どう処理するか迷ったが、幾つもの原稿に記したように、結局(私自身が刑事犯罪被害のど真ん中であり)何も出来なかった。何もしなかった。相談も姉と先輩の一人にしかしていない。それ以外の人には一言も言わず、相談も何もできなかった。1987年の事である。その三十年後の2017年に再度人権擁護協議会・法務局の封筒が、宛名が小学校名とか私の名と違うZの名で我が家のポストへ。

駿台当時の問題から考えて、処理で迷うため、今回は中を一切見ずに、法務局に文書と電話で直に相談した。その結果、法務局の人自身が取りにくることになった。私は最初から最後まで中は一切みていない。
駿台時代も、同様に中を一切見ずに、法務局の名があったので、法務局か人権擁護局に直に渡しておけば良かったと思った。ただし、あのときは手渡しで「浜田先生へ」と言われたため、現在と異なり難しかった。

あのときの処理に困ったことが、今回、中を一切見ずに法務局に直に連絡をとなった次第である。
同時に、念のため、東京の法務省に直に電話をいれ、指示を仰ごうとしたが、時間外のため相手がでなかった。

なお、我が家のポストへ入っていた封筒には何が入っていたかは未だに一切知らない。駿台時代も同様にできれば処理はまだ簡単であった。
駿台時代の差別文書を手渡されたことも何が何か未だにさっぱり分からない。

中を一切見ず、法務省・法務局、場合によれば人権擁護局に処理を任せても、無責任とはならない。何故ならば、何のために、法務省・法務局・人権擁護局、人権擁護委員会があるのかとなる。しかも、彼らの大半は税金で飯を食っている。ならば自分の仕事は自分でやれとなる。甘えてはいけない。

なお、この処理の後始末なども、フィールドワーク・東京を延期させられた一因となった。また、幾つもの妨害があるという脅しともなっていた。それらは次回記す。

11月10日


11月12日