補章ー2・追記―3・(A)2016年追記・「予備校文化と水俣への旅」と(B)2017年追記・「駿台辞職の経緯」。

補章ー2・追記―3・(A)2016年追記・「予備校文化と水俣への旅」と(B)2017年追記・「駿台辞職の経緯」。


【更新記録】2019/05/10 22:19から再公開 ただし、各種案内は明日か明後日頃の日付で掲載予定でいる。

 


第一部から第三部ごとに、補章を記している。今回は第二部(第5章から第7章)の補章である。また、補章には原則として、次の追記がある。

第二部駿台時代・補章=http://h-takamasa.com/Blog/?p=11573

追記―1(1997年)=http://h-takamasa.com/Blog/?p=11575

追記―2:(2007年記述)=http://h-takamasa.com/Blog/?p=11577

追記―3(2016~2017年)である。→今回の文書。



補章―2(第二部)

補章-2:授業を求めて(1995年作成・2017等微修正)

 

追記―1・(1997年)

補章-2:追記―1・授業の苦しみ:(1997年1月18日授業の後記す)

 

追記―2・

第二部・補章ー2・追記―2駿台辞職の経緯(2007年10月記述)

追記―3・今回の文書


(2019/05/03解説:大半・追記―1と同一。)
駿台在籍時に下記の件があった。
☆☆☆☆☆
19-113-3【#私事】
#営業妨害 #職業選択の自由 剥奪は1987年 萌芽1984年
原因→S予備校女性の件?
指一本触れず、学外で一度も会わず、学内でも人前でしか会わず。
会話量も一人当たり6年合計10分程度で。
しかも私の方がふられて?
35年以上の危害。そんなバカな。
友は人違い危害と明言。
明日✎
☆☆☆☆☆
○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1121235086131679232

☆☆☆☆☆

1987年後半からは学内での授業への支障が続く事件が頻発する。学外では(拉致されかける等)刑事犯罪事件に遭遇(そうぐう)した。その結果、1988年1月に駿台を辞職した。(正確には辞職に追い込まれた。)
辞職するや、突如、第三部登場の岡山短大が一変して、ここでも被害連続。被害が強すぎ、1989年末から1993年末、鬱(うつ)病を激しくした状態に陥り、思考機能が大半停止する。やがて1993年大吐血を契機に意識が戻る。
戻ると同時に、駿台時代の(犯人不明の)刑事被害を忘却していた。
その被害を思い出すのは、1998年1月の岡山短大辞職後である。
そこで、第二部補章(1995年記述)、第二部補章―追記1(1997年記述)には駿台時代の(犯人不明・駿台関与不明の)刑事犯罪被害は登場しない。

この被害を思い出したのは第三部岡山短大辞職後である。
なお、奇妙なことに、岡山短大辞職経緯は駿台辞職経緯と類似があった。ちなみに前者のピークは1997年であり、後者のピークは1987年である。そして辞職は前者が1998年1月、後者が1988年1月である。
更に、岡山短大運営者・雇用促進事業団、所管団体・旧労働省などへの交渉文章記述中は何故か、1998年や1997年が1988年や1987年に置き換えられた疑惑事件が頻発した。

2007年頃から記述を開始し、ペーパー版を出版社へ送付した『閉じた窓にも日は昇る』に事件の経緯を記している。今回は追記―2と追記―3に簡単に刑事犯罪被害を記している。

その後、(永久の世の)映画説と思い観念した後は、駿台の件は再度忘却していた。しかし、2013年か2015年頃から駿台の鉛筆などが我が家の至る所に置かれていた。若しくは当時ミスでもって帰っていたかもしれないものが、突如、置いた覚えがないのにどんどんあらゆる箇所からでてきた。

しかし、今や、裏では世界のミスター・浜田である。更に、体力問題や意義から言っても、駿台に復帰意思はもはや全くないに近い。そして、このままでは、国民年金(年約70万円)のみのため、生活保護への道のを回避するため、起業にまっしぐらで超多忙である。だから、駿台の件を思い出すのは時間の無駄でしかなく、起業妨害でしかないというのが本音であった。

ところが、2014年頃から、偽者や人間違いが大変強調され、実は、駿台での女性に絡めた問題も「人間違い(ひとまちがい)」が原因という指摘が随所でなされた。だが、私には起業、更に大義がある事項が山積しており、残された人生で駿台の件を取り扱うのはためらいがあった。(もっとも、人間違いの指摘は2000年前半頃からあり、2012年には友人が人間違いが原因と言い切ってもいた。)

だが、多くの人の指摘などから、やむを得ず、再度駿台時代を振り返ることにした。そこで、以下の項目を順次公開開始した。
①『求め続けて』第二部駿台時代の中から、第二部の補章だけを連続で再度掲載。
一度、二年前に安らぎ文庫HPで掲載済みである。HPから消したのは、出版予定であり、その場合の契約とすれば、HP等で公開している場合には削除条項があったからである。今回も、その理由のため、安らぎブログでの暫定(多分半年か長くて一年程度の)公開である。

②気が向けば一言で駿台での女性に絡めた問題(女性問題ではない。女性に絡められた問題である)を、ありのまま掲載中。小学生か中学生の恋をもじったドタバタ劇であり、時間のロスであるが、やむを得ず開始した。
同時に、1984年夏から87年夏にかけてのみ、私に好きな振りか好感を持っているように見せた女性が20人(2か月に一人の割合で、しかも山頂など女性に会うはずがない場所を含めてあらゆる場所で)登場した謎なども今回ありのまま記している。
人生67年中、この三年以外は皆無にちかいのに。

③私の全体仮説は、永久の世の映画説である。
それらは出版待ちの『閉じた窓にも日は昇る―付録編』に記述している。というのも、生まれて暫(しばら)くしてから、数年か一年に一度程度自己意思に反する行動が見られた謎があるからである。だが、1984年夏以降はその逆でない日がその数値に近い状態となっている。
そして、映画説の中でも現世で「人間違い」による危害が最近強調されており、その部分が上記の過去と異なる危害頻度の原因と臭わされ、過去の問題の検討を強いられることになった。それらを上記②などで、今、吟味を開始した次第である。

④最後に、『日本のフィクサーME』シリーズで登場する事項との関係は必要がでれば、公式ブログに掲載予定でいる。

◆では、1997年記述の補章―2:追記―1を1997年当時記載した内容を以下掲載する。
ただし、誤字脱字は2007年頃修正した可能性がある。だが、1997年記述箇所は当時の岡山短大学生全員に配布しており、改竄(かいざん)は不可能である。

補章ー2・追記―3は以下二つの文からなる。

A・2016年追記(5月11日~6月16日記述)

B・2017年追記(4月27日)

 前者・Aは当時の「予備校文化と1983年水俣への旅」への補足である。後者・Bは「駿台辞職の経緯(2)」についての記述である。
 書物にするときにはAとBの順番は逆とするかもしれない。今回も、AとBの順を逆に読まれることを勧める。訂正しないのは、Bは本日一気に書いたため、どちらが良いかの判断がまだできないからである。

A・2016年追記箇所・「予備校文化と水俣への旅」。

1・水俣(みなまた)への旅(一九八三年)

 {『旅に心を求めて・不条理編・下』(KINDLE版・KOBO版)からの抜粋}

 一九八三年八月五日、水俣に行く。水俣の美しいまでの海の青さに驚く。この日が私の〝旅〟(フィールドワーク)の始まりとなる。後(のち)に、岡山短大(ポリテクカレッジ・岡山)で九五~九六年にかけて「水俣の旅」を教材化したときには、既に十年以上の歳月を経(へ)ていた。薄れつつある記憶にも拘(かか)わらず、志を同じくする教師と夜(よ)を徹して話をしたことなど、水俣は忘れ得ぬ旅の一つである。そして、この旅を通じて後に、ユージン・スミスの写真集『MINAMATA』と出会う。

 簡単に、私の自己紹介をしておく。私は、中学校・高等学校の教壇に立った後で、水俣への旅の頃(一九八二~八五年頃)は駿台(すんだい)予備学校(以下駿台と略す)京都校で政経を担当していた。同時に、専任前提契約の下(もと)で岡山短大という大学校の教壇(八三年~九八年)にも立ち、他にも、日本の大手二社の模擬試験作成や監修を仕事とし、京都・岡山・倉敷・美作と毎週飛び回るという慌(あわ)ただしい日々を送っていた。ただ、収入の大半が駿台であったため、駿台の授業に没頭していた。{尤(もつと)も、駿台辞職後は、日本で最も年収の少ない講師の一人に陥(おとしい)れられ、さらに、その後無収入の日々を十年以上余儀なくされるのであるが。}

 私が駿台の教壇に立っていた頃は、大都市に幾(いく)つかの大手予備校が陣取り、地方には地元予備校が多数存在し、群雄(ぐんゆう)割拠(かっきょ)の時代であった。大都市部では三大予備校の殴り込みで予備校大戦争が熾烈(しれつ)を極め、同時に全国展開開始の黎明(れいめい)期でもあった。駿台の教壇に立つまでは、予備校は受験勉強一本槍(やり)と偏見を持っていたが、駿台などでは全く違っており、授業以上に学問的雑談をする講師が受けていた。当時は、『ザ・予備校』(第三書房)等々が出版され、予備校が脚光を浴(あ)び始め、やがて予備校ブームともいえる時代となり、予備校文化の全盛期となっていった。

 駿台京都校同僚・表三郎先生は東大・京大などの大学祭の講演依頼に応じるなど華々(はなばな)しく活躍され、関東でも英語正統派講師・故伊藤先生の授業を中曽根元総理が見学に来たり、東大元全共闘書記長・山本義隆氏{後に大佛(おさらぎ)次郎賞を受賞}なども活躍したりしていた。代々木ゼミナールには授業中に〝歌あり〟で話題をさらった土屋博英氏や派手な服が売り物の佐藤忠志氏などがおり、河合塾でも型破りな牧野剛氏などがいた。代々木ゼミで英語を担当していた小田実(まこと)氏が河合塾に移動したのもこの頃であった。

 正統派授業型講師から、受験オーソリティ型講師、人生哲学主体型講師、エンターテイメント型講師……と多彩な顔ぶれがいた。先に記した如く、三大予備校が全国網を張り巡らせる前であり、大型拠点校で授業をしていたため、有名講師が予備校には溢(あふ)れていた。今日の如く、全国津々浦々まで三大予備校が浸透すれば、当然、予備校生諸君は有名講師などにお目に掛かることはほとんどないであろう。超大手予備校が全国展開すれば、大手といえども、本当に優秀な講師を各校に隈無(くまな)く揃(そろ)えることは不可能だからである。同時に、大手予備校講師の待遇が相対的に悪化し、予備校文化が終焉(しゆうえん)したこともある。

 当時の駿台は、今より生徒総数は少なかったが、東大に約一千五百名もの合格者を出していた全盛時代であった。待遇も良かった。私などは、非常勤講師にも拘(かか)わらず、実家のある岡山県から通(かよ)っても良いという条件を提示され、交通費は新幹線グリーン車待遇であった。賃金は、八〇年代にも拘(かか)わらず、駿台を辞職する八七年頃は、(通常授業の一・五倍となる)夏期・冬期講習では五〇分授業を六齣(こま)行うと、出張手当も入れれば一日のみで十万円くらいの額が保証されていた。ただマイナー教科・政経のため担当時間数が多くないことや、専任確約の下で事実上赤字労働であった岡山短大等の仕事のため、年収にすれば同年代の高校教諭や大学専任講師より多少良い程度でしかなかった。

 同予備校では、生徒は必死で勉強しようとして学校に来る。当然、ほとんどの生徒が授業にも真剣に臨む。だが、同じ教科の講師が何人もいるため、生徒は一番良い先生の授業に出ようとする。そこで、人気のある先生のクラスは超満員となり、人気のない先生のクラスはガラガラとなる。生徒が減り続ければ首となり、逆に人気がでれば破格の金を手にする。だから、講師も必死で授業の準備をする。講師は大学院出身者が多く、もともと、勉強好きで熱心な人が多い。そして、余分な雑務は一切ないため、授業にだけ全精力を費やす。その上、駿台は毎年全国公募で優秀な人材を採用し続け、競争の結果敗れた人と入れ替え続けていた。こうして、俗に言う良い講師だけが残り、そして毎年の優秀な講師が加わり、講師間で競争する、という世界である。こうした状況の中で、私は、懸命どころか、まさに一生懸命に授業に取り組んだ。徹夜も何回もした。それでも、タクシーが駿台に近づくときの私の心理(不安)は言葉では言い表されない。

 駿台の講師には、生活指導・進路指導・クラス担任などの雑務は一切なく、良い授業だけが求められるという環境が提供されていた。そこで、私などは高校の教師と異なり、大学の偏差値などは全くに近く知らない。どこの大学入試が難しいかなどはほとんど知らないし興味もない。政治経済の入試問題傾向だけは調べ、データベースで分類し、生徒に還元した。しかし、授業の根底にあったのは、「人間」に焦点をあて、「人間が人間であるための条件」を見つけていくことを一貫したテーマにしようと考えていた。原則として入試問題の枠の中で、それを追求するというウルトラCを目指した。要するに、東大を含めて大学の一般教養の授業としても通用する授業を目指した。

 では超難解かと言えば、偏差値型の難解か否(いな)かという基準とは違う授業を目指しており、評価の範疇(はんちゅう)が違うため回答できない。ただ、廊下(ろうか)で待機している黒板消し担当の小父(おじ)さんが、授業が終わった後で「先生は良い授業をされますね」と、わざわざ感想を言いに私の所に来られたことだけを記しておこう。私は、現在の高校等をみると、入試対応専門校に見え、まるで「Cram School(詰め込み学校=通常の塾に近い)」と恐怖を覚える次第である。

 授業に飢え、授業だけが生き甲斐(がい)で、授業だけはできると考え、そして、授業だけは決めようと考えていた。しかも、先に書いたように多くの生徒が熱心な以上、欠席する生徒に対して、生徒の怠慢(たいまん)のせいにはできなかった。こうして、授業に強く〝何か〟を求めていた。求めていたというよりは、授業の材料を手に入れなければ、仕事ができなくなるというような、せっぱつまった状態にあった。授業とは何か、あるいは広い意味でプレゼンテーションとは何か、さらにはプロ意識とは何か、それを求めた旅が今回の旅である。

 一九八三年、先輩のI氏より熊本で開かれる、熱心な教員の全国的な研究会へ誘われ、一も二もなく熊本へ旅立つことにした。だが、言い出したI氏は突然都合(つごう)で行けなくなり、私一人が行く羽目となる。知り合いもいなければ、こうした集会・研究会に参加したこともない。第一、宿すら熊本に行かなければあるかないか分からない。申込みをした以上取消しもできず、「どうしてくれる」という心境であった。

 こうして、一九八三年八月三日、熊本に行く。ところが、肝腎(かんじん)の研究会はというと、何も得られず、また得られそうにも思えなかった。全国から忙しい中、遠方より多くの教師が参加しており、彼らは熱心なのであろうが、研究会での話を聞いていて全く話にならない。彼らに能力がないとは思っていない。しかし、はっきり言って授業に〝危機感〟を持っていない。一定努力すれば、あるいは努力したならば、それでうまくいく。もしくは、うまくいったと錯覚(さっかく)しているように思えた。具体的に授業で使えるような材料などはどこにもなかった。

 私は駿台の教壇で、失敗の許されない舞台にいた。だから、熱心な教師が集まると聞いて、藁(わら)にもすがるつもりで熊本にやってきたが、この有様(ありさま)である。この日の分科会で発言を求められ、私は次のようなことを言った。駿台で授業をやっていて失敗したとき、誰に対してでもないが、悔しさ的感情も含め、頭がいかに興奮してしまうかというようなことを。(頭から次の授業の展開が離れず、物を壊(こわ)したいような衝動に駆(か)られたり、寝る前に映画のようにその場面が出てきたり、夢の中に出てきたり等々。)だが、他の教師にはチンプンカンプンであったのではなかろうか。駿台を辞めた今日(こんにち)なら、彼らの心情も多少は理解できるが、当時は彼らとは観点が全く違っていた。「頑張ったのだから」的発想は教師の世界だけに許されるのだろうか。ともかく、役立つものは何もなかった。熊本の夏の暑さが身にしみただけであった。

 なお、この研究会では夜は宿舎も含めて県ごとに行動するとのことであったので、岡山県のメンバーを探した。そうしないと、夜の分科会に出られないし、また宿もどうしてよいか分からなかったからである。しかし、この研究会は初めて来たため、誰一人知っている人はいなかった。弱り果て、参加している人に岡山県のメンバーがどこにいるか、寄宿舎はどこか聞いて回っていた。その途中で、広島県の教員IM氏と知り合う。彼に広島県のメンバーと行動を一緒にしたらと誘われ、広島県のメンバーの中に入れてもらうが、どうも違和感を抱いて、お暇(いとま)させてもらい、それから熊本の街を彷徨(さまよ)い、何とか安宿を確保する。翌日も分科会に出るが昨日同様、具体的に教材に役立つヒントは何も得られなかった。結局、この夜、昨日出会ったIM氏と酒を酌(く)み交(か)わした熊本での夜以外は、熊本での日々は私にとっては〝無〟であった。だが、研究会の最終日に、現地見学として、水俣コースがあると聞き参加することにした。

…以下、省略…

B・2017年4月20日追記・「駿台辞職の経緯(2)」

《◇―1・駿台辞職の本質》

 駿台辞職は刑事犯罪被害に遭遇し続け、社会生活を送るのが困難となったことである。当時、これらの刑事犯罪は駿台内でも授業妨害があった以上、駿台関係者の誰かと思い込まされた。しかし、一個人の金では無理なので、干渉している人間が駿台の金を流用していると思わされた。

 駿台を辞職する気は当時なかったが、首をかけて抗議をすれば、駿台が調査し、こうした犯罪を辞めさすと考えた。

 実際、最後の会談(正式な会談)では、関西地区最高責任者は「先生、休職という手もありますが、辞められるというならば引き留めはしません。その代わり、三年経(た)ち、駿台に復帰する意思がおありならば、戻ってきてください。駿台は、門戸を大きく開けておきます」であり、関西地区ナンバー2(大阪校最高責任者)は「先生、充電期間です。充電が終わったならばまた戻ってきてください」であった。
 では、何故復帰しなかったか。

 私も、岡短で非常勤のままで専任になるのが長引いたりすれば、駿台に戻る予定でいた。特に、第三部、岡短の労基法違反被害で参ったときに、駿台復帰を何度も考え、駿台に申し出た。1990年春であり、当時の責任者(三年後には戻ってきてくださいと言った責任者)がいた頃であり、期間も三年目であったが、その時ですら門前払いされた。

 ともかく、当時の如く、路上で、何度が腕をつかまれ拉致(らち)されかかったりすれば社会生活は不可能であり、首をかけて抗議し、調査させるしか方法はなかった。もし、そうしたことがなければ駿台辞職はなかった。実際、1987年12月上旬ですら、大阪校の某課長と食堂で、次年度どの校舎で授業をするかの打合せをしていたくらいである。詳細は『閉じた窓にも日は昇る』参照。

 今考えると、駿台外の刑事犯罪は、駿台とは無関係かもしれない。しかし、当時、駿台内でも授業妨害があった以上、駿台も真剣に調査する義務はあった。同時に、「三年後に戻ってきてください」と重要な会議で明言すれば、その約束は守るべきである。

 これ以上のことは、この文献『求め続けて』の内容から外れるため記述することはできない。別の文献に書いているし、追加も別の文献ですることになる。この文献・『求め続けて』は当初は岡短用授業テキストであり、今は生涯教育用テキストである。

 総論として言えば、何重にも〝騙(だま)された〟である。

《◇―2・女性の件》

 結論から書こう。
 駿台の女性職員とは駿台外では誰とも会ったことはない。
 駿台の女性職員とは誰とも付き合ったことはない。
 駿台の女性職員には誰にも指一本触れたことはない。

 
 ちなみに駿台内での女性職員との会話時間合計も、長く会話した女性ですら、せいぜい見合い一回分以下である。通常は駿台時代六年間を合計しても一時間ともならないケースが大半である。

 表面上揉(も)めたと思わされている原因などは、拙著『閉じた窓にも日は昇る・上』(Kindle版、百円)参照されたい。
 より深く分析したものは、拙著『閉じた窓にも日は昇る・付録編』(KINDLE版・KOBO版、百円予定、出版予定本が山積しており、現在メモ段階である)で掲載予定でいる。

 後者(『閉じた窓にも日は昇る・付録編』)の視点を一言だけ記す。昨日(2017年4月26日)、前夜よく寝ていたにも拘(かか)わらず、昼食を15時に食べるや、その数十分後に、突如もの凄い睡魔(すいま)に襲われ、気づくと4月27日午前零時であった。駿台女性の件はそのケースと類似であることが、拙著『閉じた窓にも日は昇る・付録編』を読めば分かるであろう。あるいは、私がよく最近使用する(催眠の如く)リモートコントロールされて困るという言葉と関係する事項であることも分かるであろう。(最初の)女性への恋慕自体が、私の意思などではなかったことも。その他…も。

 前者・拙著『閉じた窓にも日は昇る・上』では最初の問題(女性問題とは言える次元ではない・別の問題が本質であろう)だけが分かるであろう。

《◇―3・山崎春之理事長》

駿台のトラブルが深刻化するときに、不可思議なことがあった。何かの用事で京都に行ったときのことである。京都駅の新幹線乗り場で、見たことのある人に出会った。その人物は上下ともに真っ白い服装をしていた。山崎春之理事長(やまざき はるゆき、1926年 – 2010年1月13日)であった。お供なしでいたが、まず間違いないと思う。

山崎理事長(肩書きは当時)とは、駿台のパーティの席で何度かお会いしている。当時の関西地区最高責任者から、数度、「こちらが政経の浜田先生」と紹介されたことがある。丁寧にお辞儀をされ、大変腰の低い方と感心した覚えがある。また丁寧なお礼状なども頂いたことがある。勿論、こうした出会いでは双方面識があるとは言えない。

しかし、当時、駿台の仕事に未練があった私はこのときに、山崎理事長に直訴しようかとふと思った。しばらく考えたが、やはり十分な面識がないため、直訴はやめとした。

ともかく1988年1月に駿台辞職となった。その後、第三部で登場する岡短の教壇も去り、月日が流れ、老後の見通しも全くない中で、将来のことを考え、駿台復職に向けて最後の手紙を山崎理事長自体に送付しようかと考えたことがあった。2010年のことである。

そこで、山崎理事長の消息を調べた。思いつき、調べた丁度(ちょうど)一週間前に死亡されていた。一週間前とは私が駿台への最後の復職を考えたときのことである。

なお、山崎理事長と出会った日、私が新幹線に乗ろうとすると、トムクルーズかチャップリンかの如く、歓声が起こっていた。恰(あたか)も、私が有名人の如(ごと)くに。その時点で、〝日本のフィクサーMEの道〟あるいは裏のTVタレントの如く道を歩むことになっていたのかもしれない。

もっとも、私は、もはや政経関連よりは芸術に生きたいと思っている。同時に、現在の私の総合力では、もはや駿台復職よりは、職業選択の自由、人身の自由が保証されたならば、別の道を歩むであろう。もし、人権が回復されたならば、駿台復職ということを考えることはないであろう。悪まで、自宅監禁、人身の自由剥奪(はくだつ)下での、選択肢の一番手として考えただけである。

ちなみに、駿台の政経担当者は次のレベル4の思考をする。
尖閣列島を巡っての菅直人元総理と温家宝中国前首相の会談(レベル1)→大学教授か著名人がそれを分析(レベル2)→それを別の大学教師などが入試で出題(レベル3)→それを有名予備校講師が分析し問題集へ(レベル4)→それを高校教師や地方予備校講師が授業で教える(レベル5)。
私自身は、先の例ではレベル1に関わっていた可能性がある。すると、レベル4やレベル5の仕事は無理である。
この例以外でも、類似事項が山ほどある。

また、自分の人生の最後をかける場としては、人身の自由が確保されれば、駿台復職などを余り考えることはない。第一部、第三部で登場の職場も同様である。悪まで、人権剥奪が続くならば、駿台復職という選択肢を1990年以降や2010年頃に考えただけである。


《◇―4・最後に》

 この求め続けては、恋愛問題、女性問題などではなく、「授業を求め続けて」に関する著作である。そこで、女性の件などは書きたくなかった。ところが、テレビを始め随所で最近も挑発をされ、やむなく追記した。これでは、作品(商品)が台無しとなる。簡単に言えば、これも、営業妨害の被害の一つである。

私も本年六十五才となり、人生の終焉(しゅうえん)も近づいてきたため、過去情熱を燃やし、また私の能力開花の一つの転機ともなり、更に先の《◇―3》の山崎理事長の後ろ姿もあり、不可思議なことを清算し、駿台ともおかしな形のままで生涯を終えるのは好ましくないとも思う。

 現在ですら、私にも犯人は不明である。これが、『求め続けて』内に記述している「訳の分からぬトラブルに見舞われ」の内容の一部である。同時に、現在も訳の分からぬトラブルに遭遇し続けてもいる。犯人は同一の可能性が高い。そこで、その犯人をあぶりだすためにも、駿台とも和解・相互理解を求めることが双方に良いと思う。

 授業の必要条件として、教師の「気」、授業の「場」、準備のための「時間」、また十分条件として、別に授業全体の導きの糸(いわば授業哲学)も不可欠であると記した。しかし、その前に刑事事件被害連続を含む各種人権剥奪(はくだつ)をされれば、どうしようもない。

 私が友人に、「訳が分からない。誰かが勘違いしているのではないか」と言ったことがある。すると友人が「勘違いではなく、人(ひと)間違(まちが)いである」と言(い)っていた。そのくらい不思議な・不自然な事件の連続である。

2019年5月10日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA